仮条件

本書はフィクションである。主幹事、引受審査、ブックビルディング、公開買付けといった実在の制度と実務を素材としているが、東雲証券、鳴海精機、扶桑化学、福浦の町、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる組織・個人とも関係がない。作中で語られる制度の説明は、登場人物がその場で述べたものにすぎない。


序章 手帳

東雲証券の福浦支店は、港から一本入った通りの角にある。

二階建てで、一階が窓口と営業室、二階が支店長室と応接と、ロッカーと、給湯室である。建物は古いが、三年前に、客の目に入るところだけを作り替えていて、入口から窓口までは木目が明るい。窓口は、客も係も腰かけて向き合うローカウンターで、肩の高さの仕切りで四つのブースに分かれている。ブースの客の側には椅子が二脚ずつあって、付き添いの家族が隣に座れるようになっている。仕切りの足もとに、老眼鏡の籠が一つずつ置いてある。窓口で現金を扱うのも、そのときにやめた。入口の脇に、提携先の銀行のATMが一台置いてある。井坂が入った年の秋である。それより後に入った者は、支店で札を数えたことがない。

福浦は、瀬戸内の港町である。造船の下請けと、精密部品の工場が、湾に沿って並んでいる。昼には、どこかの工場のサイレンが鳴る。一つが鳴り終わるころに、別の一つが鳴る。

井坂周は、この町が初任地だった。北陸の地方都市で育って、東京の大学を出て、東雲証券に入った。配属の紙に「福浦」と書いてあるのを見て、地図で探した。四年前のことである。

地図で探して、隣が高洲町だと分かった。父の生まれた町である。父は、高洲の網元の三男で、十五のときに北陸の高専に入って、そのまま向こうで就職した。家では、高洲の言葉を使わなかった。祖父の源蔵は、井坂が小学四年のときに死んだ。高洲には、その葬式で一度だけ行った。港に面した大きな家で、弔問の客が、門の外まで並んでいた。

井坂が福浦に来たのは、偶然である。少なくとも、井坂はそう思っていた。

四年目の秋だった。

◇

鳴海八郎の家は、港を見下ろす坂の途中にある。

門から玄関までに、飛び石が七つ。庭に柿の木が一本あって、十月の終わりには、実が色づき始めている。八郎は、その実を、毎年、支店の人間に持たせる。井坂は四年、持たされた。

座敷に通される。

八郎は八十二歳で、鳴海精機の創業者である。会社は、息子の誠治が継いで社長になっている。八郎は会長の肩書きを持っているが、工場にはもう月に一度しか行かない。そのかわり、家に来る証券会社の人間と、長く話す。

座敷の鴨居に、写真が一枚掛かっている。

創業のころの工場である。トタン屋根の平屋で、壁に「鳴海製作所」と手書きの看板がある。前に自転車が三台並んでいる。人は写っていない。写真の白いところが、黄色くなっている。

井坂は、その写真を、四年のあいだに何度も見た。見るたびに、自転車の数を数えた。三台で、変わらなかった。

「座んなさい」

八郎が言った。

井坂は座布団に座り、鞄から手帳を出した。手のひらに収まる大きさの、黒い革の表紙の手帳である。ページの右上に、小さく日付を入れる欄がある。

八郎の話は、持ち株のことから始まる。いつもそうである。扶桑化学が上がったか、下がったか。電力の株の配当は、今年も同じか。井坂は、その日の値段を、タブレットで見て読み上げる。八郎は頷く。頷きながら、膝の上で何かを書いている。

井坂は、それを気に留めなかった。

話は、配当のことに移る。それから、孫の受験のことに移る。孫は高校三年で、東京の大学を受ける。八郎は、東京の大学の名前を、半分くらいしか知らない。井坂が出た大学の名前も、知らなかった。

井坂は、全部を手帳に書いた。

持ち株の銘柄と、配当の額と、孫の志望校の名前。書くのは、話を聞いているあいだである。あとで思い出して書くのではない。そうすると、要らないことまで書くことになる。要らないことかどうかを、その場で決められないからである。

井坂は、そういう書き方しかできなかった。

◇

訪問には、新人の野々村紗季が同行していた。

この春に入った一年目で、井坂が指導の担当である。会社はそれをOJTトレーナーと呼んでいる。井坂は四年目で、トレーナーになるのは初めてだった。

野々村は、福浦の生まれである。支店から自転車で十五分のところに実家がある。大学は隣の県で、四年だけ町を出て、戻ってきた。

座敷の隅で、野々村も手帳を開いていた。

井坂と同じ型の、黒い革の表紙の手帳である。春に、何にメモを取ればいいかと訊かれて、井坂は「メモは手のひらでええ」と答えた。客の前で大きなノートを広げると、客が話しにくくなる。井坂自身が、四年前に支店の先輩から言われたことである。言われたときの言葉が、この町の言い方だったので、井坂もその言い方で言った。

翌週、野々村は同じ型を買ってきた。文具店に一つしか残っていなかった、と言った。

野々村は、柿の話を書いていた。

井坂には、ページが見えた。「柿 十一月はじめ 房江さん 干し柿にする分」。仕事の話は、書いていなかった。

八郎の妻の房江が、茶を替えに来た。野々村は、盆を受け取ろうとして腰を浮かせ、房江に「座っとり」と言われて、座り直した。房江は野々村の湯呑みにだけ、茶を少し多く注いだ。

◇

帰りぎわ、玄関で靴を履いているとき、八郎が言った。

「息子が、上場したい言うとる」

井坂は、靴べらを持ったまま顔を上げた。

八郎は、それ以上言わなかった。玄関の土間に、午後の光が斜めに入っていた。八郎の足もとに、猫の皿が置いてある。猫は、四年のあいだに一度も見たことがない。

「そうですか」

井坂はそう言って、頭を下げた。

手帳には、書かなかった。

書いてよい話なのか、判断がつかなかったからである。持ち株のことは書く。配当のことも書く。孫の受験のことも書く。しかし、客の会社が上場したがっている、という話は、客が井坂に言った話なのか、八郎が玄関で独り言を言っただけなのか、分からなかった。

門を出てから、井坂は一度だけ振り返った。玄関の戸は、もう閉まっていた。

◇

帰りは、港沿いを歩いた。

支店の営業車は、その日は別の人間が使っていた。坂を下りきると、岸壁に出る。岸壁に沿って、支店まで二十分である。

野々村の鞄に、小さなタコのストラップが付いている。

オレンジ色で、目が二つ、足が八本ある。足の先が少しずつ丸まっていて、揺れると、足どうしがぶつかる。福浦市のゆるキャラで、「ふくたこ」という。商工祭りの日に、野々村の担当になったばかりの客から、もらったものだという。

「七十八になるおばあちゃんで、孫が市役所におるんです。その孫が作ったんやって」

「ふくたこを」

「ふくたこの、デザインを。応募したら通ったって。それで配りよったんです、祭りで」

野々村は、鞄を少し持ち上げて、タコを揺らしてみせた。

「そのおばあちゃんの孫、今度結婚するんですよ。十二月に」

井坂は、その客の名前を知らなかった。野々村の担当になってから、まだ二か月の客である。

岸壁の先に、クレーンが二基立っている。造船所のもので、片方は動いていない。海は凪いでいて、油の膜が、ところどころ虹色に光っている。

野々村は、八郎の家の柿の話をした。今年は生り年で、去年の倍ついている。房江は、半分を干し柿にする。干し柿は、正月に孫が来たときに出す。孫は干し柿が好きではないが、房江は毎年出す。

仕事の話は、しなかった。

井坂は、玄関で聞いた話を、野々村に言うべきかどうか考えた。野々村も、あの場にいた。聞こえていたはずである。聞こえていたなら、言う必要はない。聞こえていなかったなら、言うべきではない。

どちらなのかを、井坂は訊かなかった。

野々村の外回り用の靴は、踵の低い黒いパンプスである。春に買ったものだと言っていた。半年で、踵の外側がもう減っている。歩くたびに、その減った側で、少しだけ音が高くなる。

◇

三月の最初の月曜に、支店長室に呼ばれた。

支店長は、机の上の紙を一枚、井坂のほうへ滑らせた。人事の内示である。

「お前、隠れて社内公募出したのか」

「いえ」

「コーポレートファイナンス部だぞ」

支店長は、紙の上の字を指で叩いた。本社の企業金融部、と書いてある。その下に、括弧書きで英語の部署名がある。

井坂は、その字を読んだ。

「いえ、出しておりませんが」

それから、少し考えて、付け足した。

「そちらは、財務部でしょうか」

支店長は、しばらく井坂の顔を見ていた。

「そんなレベルでやっていけんのか」

井坂は、答えなかった。何を訊かれているのか、分からなかったからである。会社の財務部は本社の八階にあって、決算と資金繰りをやっている。コーポレートファイナンスというのは、英語にすれば、そういう意味ではないのか、と思った。

違う、ということを、井坂はあとで知る。企業の財務を、外から手伝う部署である。株や社債を出す手伝いをし、会社の売り買いの手伝いをする。その日の井坂は、それを知らなかった。

支店長室の扉は、半分開いていた。

扉の外の廊下で、野々村が書類を待っていた。支店長の決裁印が要る書類で、野々村は、それを胸の前に抱えて立っていた。

井坂が支店長室を出ると、野々村は、書類を抱えたまま頭を下げた。顔は上げなかった。

◇

担当顧客の引き継ぎは、三月の半ばに決まった。

井坂の客は、三十人ほどいた。その大半を、支店の三年目と五年目に分ける。残るのは、八郎だった。

八郎は、支店でいちばん大きい客の一人である。本来なら、支店長か、次長が持つ。支店長は、次長に持たせるつもりだった。

その話をしている最中に、八郎から電話が来た。

電話を受けたのは、窓口の女性で、支店長に回した。支店長は、受話器を耳に当てて、「はい」を四回言った。それから、受話器を置いて、井坂を見た。

「あの若い子でええ、言うとる」

支店長は、それだけ言った。

一年目の野々村に、支店の大口が一つ渡った。

野々村は、その日の夕方、支店長から直接それを聞いた。井坂は、その場にいなかった。あとで野々村の席の前を通ったとき、野々村は手帳を開いて、何かを書いていた。手のひらの手帳である。

◇

最後の日は、金曜だった。

支店の人間に挨拶をして回った。支店長は、机から顔を上げずに「おう」と言った。窓口の女性たちは、菓子の箱をくれた。次長は、握手をした。

井坂が支店を出たのは、夜の七時過ぎだった。表の入口はもう閉まっていて、通用口から出た。

通用口の脇に、野々村が立っていた。

鞄を肩に掛けている。帰るところだったのか、待っていたのか、井坂には分からなかった。

野々村は、井坂の顔を見て、言った。

「財務部さん」

それだけ言って、笑った。

笑って、手を振った。

「がんばってください」とは、言わなかった。「お世話になりました」も言わなかった。野々村は、手を振りながら、支店の裏の駐輪場のほうへ歩いていった。鞄のふくたこが、歩くたびに揺れた。

井坂は、しばらく通用口の前に立っていた。

支店長室の外で、あの話を聞いていたのだと、そのとき分かった。

それから、野々村のいなくなった駐輪場のほうへ、一度だけ頭を下げた。誰も見ていなかった。

以後、「財務部さん」と井坂を呼ぶのは、野々村だけになる。

第一部 議事録

1 財務部

東雲証券の本社は、日本橋の川に近い通りに面している。

二十二階建てのビルの、九階から二十階を使っている。一階のロビーは吹き抜けで、床が黒い石、壁が白い石である。受付の後ろの壁に、会社の名前が、金属の文字で打ってある。社章は、東の空の低いところに、線が一本引いてある図案だった。夜明けの線だと、入社式で聞いた。四年前に一度だけ、このロビーを通っている。

企業金融部は、十七階にあった。

四月の最初の月曜、井坂は八時半にそのフロアに着いた。エレベーターを降りると、ガラスの扉があって、社員証をかざすと開く。井坂の社員証は、先週、人事から郵送で届いていた。かざすと、緑のランプが点いた。

フロアは、静かだった。

机の島が、窓に沿って六つ並んでいる。一つの島に、机が八つ。机の上には、画面が二枚ずつ立っている。人は半分ほど座っていて、誰も顔を上げない。キーボードを叩く音と、どこかで電話が一本鳴っている音と、空調の音がする。電話は四回鳴って、切れた。

福浦支店では、朝の八時半に、誰かが必ず「おはようございます」と言う。窓口のシャッターを上げる音がして、そのあとに朝礼がある。

ここには、そのどれもなかった。

井坂は、入口の近くに立っていた。どこに行けばいいのか、誰にも言われていなかった。

五分ほどして、人事から聞いていた名前を思い出し、いちばん奥の個室を探した。個室は窓際に三つあって、真ん中の一つの扉に、部長の名前が出ていた。柳瀬、とある。

扉は開いていた。

柳瀬は、五十代の男で、画面を見ていた。白いシャツの袖を、肘の少し下まで折っている。机の上に、紙は一枚もなかった。

「本日付けで着任しました、井坂です。福浦支店から参りました」

柳瀬は、画面から目を離さずに、少しだけ頷いた。それから、井坂を見た。

「ここは、リテールよりリテールらしいぞ」

それだけ言って、また画面に目を戻した。

井坂は、しばらく待った。続きはなかった。

「失礼します」

井坂は頭を下げて、個室を出た。

リテールというのは、個人の客を相手にする営業のことである。井坂は四年、それをやってきた。それより、それらしい、というのは、どういう意味なのか、分からなかった。分からないまま、廊下で手帳を出し、その言葉を書いた。

「リテールよりリテールらしい」

書いて、手帳を閉じた。

◇

井坂の席は、窓から二つ目の島の、真ん中あたりだった。

机の上には、画面が二枚と、キーボードと、電話が一台ある。引き出しは三段で、いちばん上に、前の人間が残していった付箋の束と、ペンが一本入っていた。ペンは、書いてみるとインクが出なかった。

隣の席の女性が、顔を上げた。

「井坂さん?」

「はい」

「仁科です。よろしく」

仁科千尋は、三十代の前半に見えた。髪を後ろで一つに束ねていて、眼鏡はかけていない。画面の一枚に、英語の表計算が開いていて、もう一枚には、英語のメールが開いていた。

「福浦から来ました。井坂です」

「聞いてる。アソシエイト。分からないことは、訊いて」

仁科はそれだけ言って、画面に戻った。

井坂は、自分の席に座った。

向かいの席の男は、ずっと顔を上げなかった。三十代の後半で、ワイシャツの袖をまくっている。机の上に、紙が積み上がっていた。付箋の色が四色あって、紙の端から、それぞれ違う高さで飛び出している。

男の画面の横に、名札が置いてある。真柴、とある。その下に、ヴァイス・プレジデント、と小さく英語で入っていた。

井坂は、立ち上がって、頭を下げた。

「本日付けで着任しました、井坂です」

真柴は、顔を上げなかった。

「メール見とけ」

それだけだった。

井坂は座って、画面を点けた。社内のメールを開くと、未読が四十一件あった。どれも、先週の日付で、宛先の一覧に、井坂の名前が加えられている。件名は、ほとんどが英語と記号の組み合わせで、何の件なのか、読んでも分からなかった。

一件目から読み始めた。

◇

昼は、誰も席を立たなかった。

十二時を過ぎたころ、仁科が、机の引き出しから、ゼリー飲料を一つ出して、画面を見ながら吸った。真柴は、何も食べなかった。

社員食堂は二十二階にある、と朝の人事の説明で聞いていた。行って並んで食べて戻れば、四十分はかかる。井坂は、十二時半まで待って、一人でエレベーターに乗った。二十二階ではなく、地下のコンビニで降りた。おにぎりを二つ買って、席に戻って食べた。

福浦支店では、昼は交代で二階の休憩室で食べる。窓口の女性たちが持ってくる漬物が、机の真ん中に置いてあって、誰でも取っていい。

井坂は、二つ目のおにぎりの包装を、机の下のごみ箱に入れた。ごみ箱は、紙とそれ以外に分かれていて、包装がどちらなのか迷った。それ以外、に入れた。

午後は、メールを読んで終わった。

四十一件のうち、井坂が中身を分かったものは、三件だった。会議室の予約の変更と、フロアの複合機の故障と、人事からの研修の案内である。残りの三十八件は、どこかの会社の名前と、数字と、英語の略語でできていた。

井坂は、分からない略語を、手帳の後ろのほうのページに書き出していった。

ECM、DCM、M&A、IBD、NDA、LOI、DD、VP、MD。

M&Aだけは、分かった。

夜の八時に、フロアの半分がまだ残っていた。九時に、三分の一が残っていた。井坂は、九時半に、誰にも何も言われないまま、席を立った。

「お先に失礼します」

誰も顔を上げなかった。仁科だけが、画面を見たまま、片手を少し上げた。

◇

エレベーターホールに、フロアの案内図が掛かっていた。

井坂は、エレベーターを待つあいだ、それを見た。十七階の平面図で、机の島ごとに、部署の名前が書いてある。企業金融部の島が四つ。その隣に、株式資本市場部、債券資本市場部、M&Aアドバイザリー部。英語の略称が、括弧の中に入っている。ECM。DCM。

手帳の後ろのページに書いた略語の、二つが、そこにあった。

井坂は、手帳を出して、略語の横に、日本語の部署の名前を書き足した。ECM、株式資本市場部。DCM、債券資本市場部。

書き足して、手帳を閉じた。

書いても、その部署が何をしているのかは、分からなかった。株式の、資本の、市場。三つの言葉が並んでいるだけで、それが一つの仕事の名前になっている理由が、分からなかった。

エレベーターが来た。

乗り込むと、先に若い男が一人乗っていた。井坂と同じくらいの歳に見えた。紺のスーツで、首から社員証を下げている。画面を見ていた。井坂が乗っても、顔を上げなかった。

一階に着くまで、二人とも黙っていた。

福浦の支店では、エレベーターはなかった。二階へは、階段で上がる。階段の途中で人とすれ違えば、必ず何か言う。お疲れさまです。今日は寒いね。八郎さんとこ、どうやった。

一階のロビーは、明かりが半分落ちていた。

受付には、誰もいなかった。

井坂は、黒い石の床を歩いて、自動扉を抜けた。

◇

会社が借りてくれた部屋は、地下鉄で四駅のところにあった。

ワンルームで、窓が北を向いている。先週、福浦から送った段ボールが、まだ六つ、床に積んである。井坂は、そのうち一つを開けて、布団を出した。

布団を敷いて、その上に座った。

鞄から手帳を出して、今日のページを開いた。

「リテールよりリテールらしい」。
「メール見とけ」。
略語の列。
会議室の予約の変更。
複合機の故障。

全部、書いてある。

井坂は、自分がどんな部署に来たのかを、一文で言おうとした。

言えなかった。

会社が株を出すのを手伝う部署だ、と言えば、半分は合っている。会社を売り買いするのを手伝う部署だ、と言えば、もう半分が合っている。しかし、その二つが一つの部署にある理由が分からない。それに、今日一日、井坂が見たのは、画面と、メールと、ゼリー飲料だけだった。何かを手伝っているところは、一つも見ていない。

手帳を閉じて、枕元に置いた。

窓の外で、どこかの工事の音がしていた。夜の十時を過ぎても、止まらなかった。

翌朝、井坂は、八時に会社に着いた。

フロアには、もう半分以上の人間が座っていた。昨日の八時半より、多かった。誰がいつ来ているのかを、井坂は、その週の終わりまでかけて、少しずつ覚えた。仁科は七時。真柴は、七時より前。

七時に何があるのかは、まだ誰も教えてくれなかった。

◇

二日目の午後、真柴が、井坂の机の上に、紙の束を置いた。

厚さが、指二本分あった。表紙に、英語で題が刷ってある。海外の投資家に向けて、ある会社が株を売ったときの募集の説明書だった。二百十二ページ。全部、英語である。

「リスク・ファクター、日本語で二枚にまとめろ。明日の八時」

真柴は、それだけ言って、席に戻った。

リスク・ファクターの章は、四十ページあった。一文が、五行、六行と続く。主語のあとに、条件が三つ入り、例外が二つ入って、ようやく動詞が来る。

井坂は、大学で英語の授業を受けた。試験の点は、悪くなかった。福浦の四年間で、英語を読んだのは、外国株の投資信託の月報くらいである。

辞書を引いた。一ページに、四十分かかった。

夜中の十二時に、十ページが終わった。残りは、三十ページだった。

計算すると、朝の八時には間に合わない。

井坂は、読み方を変えた。一文ずつ訳すのをやめて、各段落の最初の一文と、最後の一文だけを読んだ。そこに何が書いてあるかで、段落を三つに分けた。会社の事業のリスク。日本という国のリスク。株そのもののリスク。

朝の六時に、二枚ができた。

八時に、真柴の机の上に置いた。

九時に、真柴が、それを読んだ。赤が、二か所に入っていた。一つは、「為替」を「為替変動」に。もう一つは、段落の順番だった。

一枚目の余白に、真柴の字で、一行あった。

「四十ページ目の注、読んだか」

井坂は、読んでいなかった。四十ページ目の、いちばん下の小さい字の注に、その会社の主要な取引先が一社、倒れかけている、と書いてあった。

二枚の要約のどこにも、それは入っていなかった。

2 A4

初めて客の会社へ行ったのは、二週目の水曜だった。

前の日の夕方、真柴から、メールが一行だけ来た。明日十時、同行、とあって、会社の名前が書いてあった。東京に本社のある、中堅の部品商社である。井坂は、その会社の名前を知らなかった。

その夜、井坂は、その会社のホームページを読んだ。会社概要と、沿革と、事業の説明と、決算の資料。資料は四半期ごとに出ていて、最新のものが二月の日付だった。

読んで、要点を手帳に書いた。

売上高、従業員数、本社の住所、拠点の数、主な取引先。

書いたものを見返すと、何が要点なのか、分からなくなった。全部書いてあるので、全部が要点に見えた。

◇

翌朝、九時半にフロアを出た。真柴と、その上のMDと、井坂の三人である。MDというのは、マネージング・ディレクターの略で、真柴の上の役職だと、手帳の後ろのページで調べてあった。

タクシーの中で、真柴は携帯を見ていた。MDは、助手席で目を閉じていた。

井坂は、後部座席の真ん中に座っていた。膝の上に鞄を置いて、その上に手を置いていた。

「議事録、取れ」

真柴が、携帯から目を離さずに言った。

指示は、それだけだった。

◇

応接室は、会社の十二階にあった。

先方は三人だった。常務と、財務部長と、経営企画の課長である。名刺を交換する順番を、井坂は間違えた。先に課長と交換しかけて、真柴に肘で押され、常務の前に回った。

座ると、井坂は鞄から手帳を出した。

手のひらの手帳である。福浦で四年使ってきたものと同じ型で、異動の前に新しいものを一冊買ってあった。ページの右上に日付を入れて、先方の三人の名前と役職を書いた。

面談は、一時間だった。

話していたのは、ほとんどがMDと常務だった。景気の話から始まって、先方の業界の話になり、それから、先方が去年買った会社の話になった。買った会社の業績が思ったより伸びていない、と常務が言った。財務部長が、その数字を言った。MDが、その数字について、何かを訊いた。

井坂は、全部を書いた。

書くのは速い。福浦では、客の話を全部書いてきた。しかし、ここでは、話の中に、知らない言葉が混じる。

のれん。減損。シナジー。PMI。

知らない言葉が出るたびに、井坂は、それをカタカナのまま書いた。書いているあいだに、話は次に進んでいる。進んだ分を追いかけて書く。手帳のページは、二分で一枚が埋まった。四十分で、二十枚を使った。

残りの二十分は、ページの余白に、小さい字で書いた。

面談の最中に、MDが一度だけ、井坂の手元を見た。

見ただけで、何も言わなかった。

井坂は、それを気に留めずに、書き続けた。常務が、去年買った会社の社長の名前を言った。井坂はそれを、音のまま、カタカナで書いた。漢字が分からなかった。財務部長が、統合の費用の見込みを言った。井坂は、数字を書いた。数字のあとに、単位を書き忘れた。億なのか、千万なのか。書いたときは分かっていたが、ページをめくったら、分からなくなった。

先方の課長は、一時間、一度も話さなかった。

課長は、膝の上にA4のノートを広げて、ずっと何かを書いていた。井坂と同じように、全部を書いているのかどうかは、分からなかった。書く速さが、井坂よりずっと遅かった。ときどき、ペンを止めて、話している人間の顔を見た。見て、また書いた。

井坂は、書く速さでは負けていなかった。

それが、何の役にも立っていないことを、そのときはまだ知らなかった。

◇

帰りのエレベーターで、真柴が言った。

「そんなメモ帳で書ききれるわけねぇだろ」

井坂は、手に持っていた手帳を見た。

MDは、何も言わなかった。エレベーターの階数の表示を見ていた。

「今日中に、議事録出せ」

真柴はそれだけ言って、一階でエレベーターを降りた。

◇

その夜、井坂は、手帳の二十枚分を、画面に打ち直した。

打ち直すと、手帳の字が読めないところが、七か所あった。前後から推測して埋めた。推測で埋めたところには、自分にしか分からない印を付けておいた。

知らない言葉は、ネットで調べて、意味を確かめてから打った。のれんは、会社を買ったときに、買った値段と、相手の会社の資産の差として出てくるものである。減損は、そののれんの価値を下げること。PMIは、買ったあとの統合の作業のこと。

十一時に、議事録を真柴に送った。A4で四枚になった。

送ってから、井坂は、自分の書いた四枚を、もう一度読んだ。

常務の発言。財務部長の発言。MDの発言。常務の発言。

発言が、話された順に、並んでいた。全部が並んでいた。景気の話も、去年の夏の猛暑で工場の空調の費用が増えた話も、財務部長の娘が今年大学に入った話も。

財務部長の娘の話を、議事録に書くべきだったのかどうか、井坂には分からなかった。福浦の手帳なら、書く。孫の受験の話は、次に八郎の家に行ったときに、訊くために書いておく。受かりましたか、と。

ここでは、次に財務部長に会ったときに、娘の大学の話を訊くのかどうか、分からなかった。

井坂は、その一行を消そうとして、やめた。

消していいのかどうかも、分からなかった。

翌朝、真柴の机の上に、議事録が印刷されて置いてあった。

赤で、埋まっていた。

井坂は、自分の席で、その四枚を見た。

赤が入っていたのは、内容ではなかった。

一枚目のいちばん上の、出席者の欄である。井坂は、自分の側の三人を先に書いて、そのあとに先方の三人を書いていた。書いた順番は、名刺を交換した順番だった。

赤の線で、全部が並べ替えられていた。先方が先。その中で、役職の高い順。自社は後。その中でも、役職の高い順。

井坂の名前は、いちばん下になっていた。

それから、日付の書き方。曜日が括弧に入っていなかった。時刻の書き方。十時から十一時、ではなく、十時〇〇分から十一時〇〇分。場所の書き方。先方の本社、ではなく、会社の正式な名前と、会議室の名前。

中身には、一つも赤が入っていなかった。

井坂は、それを読まれていないのだと思った。

◇

二回目の議事録も、赤が入って戻ってきた。

直されたのは、敬語だった。先方の発言を、井坂は「〜とのこと」で締めていた。それが全部、「〜との由」に直されていた。自社の発言は、「〜と説明」ではなく、「〜旨説明」。

三回目で、初めて中身に赤が入った。

先方の財務部長が言った数字を、井坂は、言った通りに書いていた。赤の線で消されて、横に、決算資料の数字が書いてあった。財務部長は、端数を丸めて言っていたのである。議事録には、口で言った数字ではなく、資料の数字を書く。

その赤を見て、井坂は、初めて少しだけ安心した。

中身を読まれている、と思ったからである。

◇

議事録には、締め切りがあった。

面談が終わってから、二時間以内。夜の面談なら、翌朝の七時まで。

それを過ぎると、真柴は読まない。読まないで、自分で書く。自分で書いたものを、先方の担当のMDに送る。井坂の書いたものは、送られない。

一か月で、それが三回あった。

四回目からは、井坂は、面談の帰りのタクシーの中で、議事録の骨組みを打つようになった。出席者、日時、場所、議題。会社に着くまでに、発言の要旨の半分を打つ。着いてから、残りを打つ。

二か月目に、議事録の一番上に、三行の要旨を書け、と言われた。

三行で、その一時間の面談で何が決まり、何が決まらず、次に誰が何をするのかを書く。

三行にするために、井坂は、四枚の議事録を、何度も読み返した。全部が要点に見えた。全部が要点に見えるうちは、三行にならなかった。

真柴の直した三行は、いつも、井坂の書いた四枚のどこにもない言葉で書いてあった。

「先方、年内決定の意思なし。財務部長は前向き、常務は慎重。次回、当方より選択肢三案を提示」

常務は慎重、とは、誰も言っていなかった。常務が、一時間のあいだに一度だけ腕を組み直したのを、井坂は議事録に書いていなかった。

◇

翌日、井坂は、会社の近くの文具店で、A4のプロジェクトペーパーを一冊買った。

方眼の入った、リングで綴じたノートで、表紙が薄い灰色である。フロアの人間が、みんな同じものを使っていた。気づいたのは、三回目の議事録を出したあとだった。

レジで会計をするとき、井坂は、鞄の内ポケットに手を入れて、手のひらの手帳に触れた。

触れて、出さなかった。

手帳は、その日から、内ポケットに入ったままになる。

一年前の春、新人の野々村に「メモは手のひらでええ」と教えたのは、井坂自身だった。

3 七時

一日は、朝の七時に始まる。

七時に、十七階の大きい会議室で、市況の会議がある。前の晩のニューヨークの動きと、為替と、金利と、その日に発表のある経済指標と、企業の決算。株式の部署と、債券の部署と、調査の部署から一人ずつ出てきて、五分ずつ話す。企業金融部の人間は、後ろの壁際に立って聞く。

井坂は、最初の週、それを六時五十分に聞きに行った。

会議室には、すでに四十人ほどいた。井坂は、いちばん後ろの、扉に近いところに立った。

話は、速かった。数字が続けて出てきて、その数字が昨日と比べて上なのか下なのかを、話している人間は言わない。聞いている人間が、自分で比べている。

井坂は、A4に全部を書いた。

書いたものを、あとで読み返すと、数字の羅列だった。どの数字が大事なのか、書いたときには分からなかった。読み返しても、分からなかった。

◇

会議が終わると、七時半である。

そこから、一日が始まる。

メールを読む。先輩から頼まれた資料を作る。資料の数字を確かめる。確かめた数字を、先輩に送る。先輩から直しが来る。直す。十時と、二時と、四時に、どこかの会社へ行く人間がいて、その日の井坂の仕事は、その三つの面談に向けて資料を揃えることになる。

面談から戻ってきた人間は、その場で次の直しを言う。

夕方の六時に、アメリカの市場が開く前の話が、もう一度フロアで交わされる。

夜の九時を過ぎると、フロアの電話が鳴らなくなる。そこから、資料を作る時間になる。

井坂が家に着くのは、夜中の二時ごろだった。

◇

携帯は、会社から貸与された。

二十四時間、手放すな、と言われた。風呂に入るときも、脱衣所に置いておけ。寝るときは、枕元に。

福浦でも、支店の携帯は持っていた。しかし、夜の八時を過ぎて鳴ることはなかった。客は、夜には電話をしてこない。八郎は、夕方の四時を過ぎると電話をしてこなかった。その時間には、晩酌を始めているからである。

本社の携帯は、夜中にも鳴った。

鳴るのではなく、光る。画面の上の、小さなランプが、赤く点滅する。メールが来ると、点滅する。井坂は、それを枕元に置いて、目を閉じた。閉じた目の裏に、赤いものが残った。

◇

三週目の水曜の夜、仁科が、ホワイトボードの前に井坂を呼んだ。

フロアの端に、打ち合わせ用の小さなスペースがある。机が一つと、椅子が四つと、ホワイトボードが一枚。ホワイトボードには、前に使った人間の字が、消し残しで薄く残っていた。

仁科は、そのボードの真ん中に、上から下まで、黒いペンで一本、線を引いた。

「左がカバレッジ。右がプロダクト」

井坂は、A4を開いた。

「カバレッジは、会社ごとの担当。この会社は、この人、っていうふうに決まってる。日頃から先方と話して、何か困ってないか、何かやりたいことはないか、聞いておく。それで案件を取ってくる」

仁科は、線の左側に、会社の名前をいくつか書いた。架空の名前で、A社、B社、C社。

「プロダクトは、商品ごとの専門。株を出すなら株の部署。社債を出すなら債券の部署。会社を買うなら、M&Aの部署。案件を実際に動かすのは、こっち」

線の右側に、株式、債券、M&A、と書いた。

「うちの部は、左。カバレッジ」

「左が取ってきて、右がやる」

「そう。だけど、左も案件が終わるまで、ずっと横にいる。先方の窓口は、左だから」

井坂は、全部を書き取った。

左、会社ごとの担当、困っていないか、やりたいことはないか、案件を取ってくる。右、商品ごと、株、社債、会社の売り買い、案件を動かす。左も終わるまで横にいる。先方の窓口は左。

書き終えて、井坂は、そのページを見た。

どこが要点なのか、分からなかった。

「あの」

「うん」

「リテールよりリテールらしい、っていうのは」

仁科は、ペンにキャップをした。

「柳瀬さん?」

「はい」

「あの人、誰にでもそれ言うの」

「支店にいたんだよね」

「はい。四年です」

「なら、そのうち分かるよ」

仁科は、ホワイトボードの線を見た。

「たぶん」

仁科は、ホワイトボードの線を、消さずに残して、自分の席に戻った。

意味は、仁科も言わなかった。

◇

一度だけ、夜中に携帯が鳴ったことがあった。

五月の、連休明けの火曜だった。夜中の三時に、ランプではなく、着信の音が鳴った。真柴からだった。

「今、何してる」

「寝ていました」

「起きろ。明日の朝のブック、十二ページの数字が違う。今、直せ」

井坂は、布団から出て、机のない部屋の床に、会社のパソコンを置いて開いた。十二ページの表の、ある会社の営業利益が、前の年の数字になっていた。直して、送った。三時四十分だった。

真柴からは、返事がなかった。

朝、会社に行くと、真柴の机の上に、刷り直された十二ページが一枚だけ置いてあった。

井坂は、それから、携帯を枕元に置くとき、音を消さなくなった。

市況の会議でも、ときどき、名指しで訊かれた。

後ろの壁際に立っている若手に、前の席のMDが、振り返らずに訊く。

「十年債、いくら」

答えるまでの時間は、二秒である。三秒かかると、MDは、別の人間の名前を呼ぶ。

井坂は、最初の一か月で、二回、名前を呼ばれた。二回とも、答えられなかった。

それから、朝の五時半に起きて、七時までに、前の晩の数字を全部頭に入れるようになった。日経平均、ダウ、ドルと円、ユーロと円、十年債の利回り、原油。前日との差も。

三か月目に、また名前を呼ばれた。

「ドル円」

井坂は、答えた。

MDは、頷きもせずに、次の話に移った。

答えられて当然の問いに、答えただけだった。

◇

異動して二か月たったころ、井坂は、夢を見るようになった。

携帯の、赤いランプが点滅している夢である。

夢の中で、井坂は、それを見ている。ランプは、暗い部屋の中で、規則正しく点いたり消えたりしている。手を伸ばせば届く距離にあるのに、手が伸びない。伸ばそうとすると、ランプの点滅が速くなる。

目が覚めると、枕元の携帯のランプは、点いていなかった。

時計を見ると、四時十分だった。

井坂は、携帯を裏返して、もう一度目を閉じた。眠れなかった。六時に起きて、シャワーを浴びた。

◇

六月の最初の金曜、フロアで、誰かの送別があった。

ほかの部署へ移る人間だった。井坂は、その人と話したことがなかった。フロアの端に、菓子の箱が置かれて、何人かが拍手をした。拍手は、三十秒で終わった。そのあと、みんな席に戻った。

井坂は、菓子を一つ取って、席に戻った。

包みを開けると、中に、薄い煎餅が入っていた。福浦の港の近くの店で、同じ形の煎餅を売っている。八郎の家に持って行くと、房江が、硬いから八郎は食べられない、と言いながら、いつも受け取った。

井坂は、それを食べずに、机の引き出しにしまった。

4 原典

「二次情報は使うな」

真柴が、そう言った。

提案書の中の一枚について、井坂が数字を拾ってきたときのことである。ある業界の市場規模を、井坂は、経済の新聞の記事から拾っていた。

「新聞の数字は、新聞が誰かから聞いた数字だ。その誰かのほうに当たれ」

井坂は、記事を読み返した。業界団体の調べによると、とあった。業界団体のホームページを探すと、年に一度、統計を出していた。新聞の数字と、団体の数字は、同じだった。

井坂は、団体の数字のほうを、出典として書き直した。

◇

原典、という言い方を、フロアの人間はした。

会社の数字なら、有価証券報告書と、決算短信。有価証券報告書は、上場している会社が年に一度、国に出す書類で、会社の中身が百ページを超えて書いてある。決算短信は、決算の数字を、発表の当日に出す短い書類である。会社が合併したり、資本金を減らしたりしたときは、官報に公告が出る。

報道の数字は、使わない。まとめのサイトの数字は、使わない。会社のホームページの「かんたん会社紹介」のような数字も、使わない。

井坂は、それを手帳ではなく、A4の一枚目に書いた。

A4の一枚目には、この部署で言われたことを、書くことにしていた。リテールよりリテールらしい。メール見とけ。議事録取れ。先方が先、役職の高い順。二次情報は使うな。

一枚目は、六月の半ばには、半分まで埋まっていた。

◇

六月の半ば、ある提案書の準備をしていた。

先方は、関西の中堅の機械メーカーで、真柴が担当している会社だった。先方が、海外の小さな会社を買うかどうかを考えている。その話の前段として、先方の今の姿を、数字で並べる。売上高、営業利益、利益率、借入金、現金、従業員の数。五年分を、表にする。

井坂は、その表を作った。

作るときに、五年分の有価証券報告書を、全部開いた。一年ごとに、売上高と営業利益を拾う。拾ったものを、表計算に打つ。打ったものを、もう一度、原典と突き合わせる。

突き合わせの途中で、井坂は、手を止めた。

三年前の売上高が、表の数字と、頭の中の数字で、合わなかった。

頭の中の数字は、どこから来たのか、しばらく考えた。

準備の最初の日に、先方の会社について書かれた新聞記事を、何本か読んでいた。その中の一本に、三年前の売上高が書いてあった。記憶に残っていたのは、その数字である。

記事の数字と、有価証券報告書の数字は、四億円違っていた。

井坂は、記事を探し出して、もう一度読んだ。記事は、三年前の決算発表の翌日のもので、その日の決算短信の数字を書いていた。

決算短信を開いた。数字は、記事と同じだった。

有価証券報告書のほうを開いた。数字は、四億円少なかった。

有価証券報告書の、注記を読んだ。細かい字で、十行ほど書いてある。決算短信を出したあとで、売上の計上の時期に誤りが見つかり、一部の売上を翌期に回した、とあった。有価証券報告書は、決算短信より二か月ほど遅れて出る。そのあいだに、数字が直っていた。

新聞の記事は、直る前の数字を書いていた。

◇

井坂は、そのことを、A4に書いた。

三年前の売上高。決算短信と有価証券報告書で四億円の差。原因は、売上計上時期の訂正。記事は訂正前の数字。表には、有価証券報告書の数字を採用。

それを持って、真柴の席に行った。

真柴は、画面を見ていた。

「あの、三年前の売上高なんですが」

井坂は、A4のそのページを見せながら、説明した。記事の数字と、決算短信と、有価証券報告書と、注記。

真柴は、画面から目を離して、A4を一度だけ見た。

それから、言った。

「で?」

井坂は、次の言葉を探した。

見つからなかった。

真柴は、もう画面に戻っていた。

井坂は、自分の席に戻った。

◇

席に座って、井坂は、「で?」という一語の意味を考えた。

表の数字は、正しいほうになっている。有価証券報告書の数字を拾ったのだから、正しいのは当然である。記事の数字がずれていたことに気づいたのも、有価証券報告書を読めば当然気づく。気づかないなら、有価証券報告書を読んでいない、ということになる。

報告する理由は、なかった。

褒める理由も、なかった。

井坂は、A4の一枚目を開いた。

「二次情報は使うな」の下に、一行、書き足した。

「で?」

それから、その横に、括弧をつけて、小さく書いた。

(気づくのは当然)

書いて、少し眺めた。

括弧の中の字は、自分で書いたものである。真柴がそう言ったのではない。井坂がそう取った、というだけである。

消さなかった。

◇

その日、井坂は、夜の十二時に会社を出た。

地下鉄の最終に間に合った。車内は、酒の匂いがする人間と、眠っている人間と、画面を見ている人間でできていた。井坂は、つり革につかまって、窓に映る自分の顔を見た。

見て、すぐに目を逸らした。

向かいの席に、老人が一人座っていた。

膝の上に、経済の新聞を広げていた。夜中の十二時に、朝刊を読んでいた。株式の欄だった。細かい字の表を、指で一行ずつたどっている。指が、ある行で止まって、しばらく動かなかった。

井坂は、その指の先の銘柄を、見ようとした。

見えなかった。

老人は、新聞を畳んで、鞄にしまった。次の駅で、降りていった。

福浦の支店にも、毎朝、新聞の株式の欄を切り抜いて持ってくる客がいた。七十を過ぎた女性で、切り抜きの端に、赤いペンで丸がつけてある。丸のついた銘柄の値段を、窓口で訊く。値段は、切り抜きに書いてある。書いてあるのを知っていて、訊く。井坂は、そのたびに、タブレットで調べて、読み上げた。

女性は、それを聞いて、頷いた。

新聞の数字と、井坂が読み上げた数字は、いつも同じだった。

女性が聞きたかったのは、数字ではなかったのだと、井坂は、地下鉄のつり革につかまりながら、思った。

窓の外のトンネルの壁を、ケーブルが何本も並んで流れていった。

5 誤字

六月の終わりに、ある会社への提案書が刷り上がった。

関東の、化学の会社である。先方が、工場を一つ売ることを考えていて、その手伝いを申し出るための提案書だった。四十ページ。表紙に、先方の社名と、先方のロゴと、日付と、「ご提案資料」という題が入っている。その下に、東雲証券の社名が小さく入る。

面談は、翌朝の十時だった。

夜の九時に、社内の印刷室から、刷り上がった束が届いた。十部。表紙は厚い紙で、背を黒いテープで綴じてある。フロアではこれを製本と呼んでいた。

井坂は、その十部を、真柴の机の上に積んだ。

真柴は、そのうち一部を手に取って、表紙を開き、目次を見て、二枚目、三枚目とめくった。

五枚目で、手が止まった。

「おい」

井坂は、振り返った。

真柴は、五枚目の、ページのいちばん上の見出しを、指で叩いていた。先方の社名が入っている。

「これ、髙だろ」

井坂は、そのページを見た。

先方の社名には、「高」の字が入っている。正しくは、梯子の形をした「髙」である。はしごだか、と呼ばれる字で、パソコンによっては、普通の「高」に置き換わってしまう。

表紙のほうの社名は、正しかった。表紙は、先方のロゴを画像で貼ってあるからである。本文の中の社名は、文字で打ってある。その字が、途中から普通の「高」になっていた。

井坂は、真柴の手から一部を受け取り、最後までめくった。

四十ページのうち、先方の社名が入っているのは、二十六か所だった。そのうち、はしごだかになっていたのは、九か所だけだった。残りの十七か所は、普通の「高」だった。

表計算からグラフを貼り付けたページで、グラフの中の社名が、全部普通の「高」に変わっていた。

◇

真柴は、何も言わなかった。

十部の束を、井坂の机の上に移した。移して、自分の席に戻った。

井坂は、その束を見て、それから時計を見た。九時二十分だった。

二十六か所を、全部はしごだかにする。グラフは、表計算のほうで直して、貼り直す。貼り直したら、レイアウトがずれていないかを確かめる。確かめたら、印刷室に回す。印刷室は、夜の十時で閉まる。

閉まったあとは、フロアの複合機で刷って、自分たちで綴じる。

井坂は、画面を開いて、一か所目から直し始めた。

仁科が、隣で、画面を見ていた。自分の仕事をしているのか、井坂の画面を見ているのか、分からなかった。十時を過ぎたころ、仁科は、何も言わずに、グラフのページのうち半分を、自分の画面で開いた。

井坂は、それに気づいて、頭を下げた。

仁科は、画面を見たまま、首を少しだけ横に振った。

◇

十一時半に、直しが終わった。

複合機で、一部を刷った。刷り上がったものを、最初からめくって、社名を一つずつ確かめた。

二十六か所。全部、はしごだかになっていた。

井坂は、残りの九部を刷り始めた。

複合機が、一枚ずつ紙を吐き出す音を聞きながら、井坂は、刷り上がった一部の表紙を見ていた。

表紙の、先方のロゴ。

青い円の中に、白い線が三本、斜めに入っている。

井坂は、その図案を、どこかで見たことがあると思った。見たことがあるのは当然で、今日一日、何度も見ている。しかし、そうではない気がした。

井坂は、画面に先方のホームページを開いた。

ホームページのいちばん上に、ロゴがあった。

青い円の中に、白い線が二本。線の角度が違う。円の青も、少し明るい。

ホームページの、お知らせの欄をたどった。二年前の日付で、「コーポレートロゴ変更のお知らせ」という項目があった。

提案書の表紙のロゴは、旧いロゴだった。

◇

表紙のロゴは、社内の、過去の提案書のファイルから持ってきたものだった。三年前に同じ会社に出した提案書の表紙を、そのまま使っていた。誰が持ってきたのか、井坂は知らなかった。知らないということは、井坂ではない誰かだが、井坂も、それを確認していなかった。

誰も確認していなかった。

井坂は、真柴の席に行った。

真柴は、画面を見ていた。

「ロゴが、旧いものでした」

真柴は、画面から目を離して、井坂を見た。

それから、立ち上がって、複合機の横に積まれていた、刷り上がったばかりの束を見た。

何も言わなかった。

真柴は、自分の席に戻って、画面に向かった。

井坂は、表紙を作り直した。

新しいロゴを、先方のホームページから持ってくることはできない。画面の画像は荒くて、刷ると滲む。先方の広報の担当に、夜中にメールを出すわけにもいかない。

仁科が、社内のデータベースの、ある場所を教えてくれた。先方の統合報告書が入っている。統合報告書の表紙に、新しいロゴが、刷るのに足りる大きさで載っていた。

井坂は、それを切り抜いて、表紙に貼った。

◇

十部が刷り上がったのは、夜の二時十分だった。

終電は、もうなかった。

井坂は、十部を、自分で綴じた。フロアの隅に、手で綴じるための機械がある。背に黒いテープを貼り、上から押さえると、熱でテープが紙に付く。一部を綴じるのに、二分かかった。

仁科は、一時に帰った。帰る前に、「タクシー券、真柴さんに言えばもらえるよ」と言った。

真柴は、まだ席にいた。

井坂が綴じ終えて、十部を真柴の机の上に積むと、真柴は、そのうち一部を手に取った。

表紙を見た。

新しいロゴを、見た。

それから、表紙を閉じた。

中は、開かなかった。

「帰っていいぞ」

真柴はそう言って、机の引き出しからタクシー券を一枚出して、井坂の机の上に置いた。

◇

タクシーの中で、井坂は、携帯を開いた。

会社のメールではなく、自分の携帯である。

メッセージのアプリに、未読が一件あった。

野々村からだった。夕方の五時に届いていた。

写真が一枚。

八郎の家の庭の枇杷だった。縁側の籠に、実が十ほど盛ってある。橙色の皮に、うっすらと産毛が光っている。写真の端に、房江の割烹着の袖が、少しだけ写っている。

写真の下に、一行。

「鳴海さんから。井坂さんの分、食べときました」

井坂は、その一行を、二度読んだ。

去年の今ごろ、井坂は、この枇杷を、支店に持って帰っていた。庭の隅に一本だけある木で、柿ほどは生らない。房江が、紙の袋に六つ入れてくれる。そのうち三つを窓口の女性たちに配って、一つを支店長に置いて、残りの二つを家で食べた。

今年は、その二つを、野々村が食べた。

井坂は、画面の下の、文字を打つ欄に指を置いた。

何を打てばいいのか、分からなかった。ありがとう、と打つのは、違う気がした。自分の分を食べてもらって、礼を言うのは変である。おいしかったか、と訊くのも、違う気がした。訊けば、野々村は答える。答えさせたいわけではなかった。

枇杷の写真を、もう一度見た。

既読の印が、向こうに付いたはずだった。

井坂は、画面を閉じた。

返信は、しなかった。

窓の外は、まだ暗かった。

6 ブック

提案書のことを、フロアでは、ブックと呼んでいた。

ピッチブック、というのが正式な呼び方で、ピッチというのは、売り込むことである。先方の会社に、何かを提案する。その提案が、東雲証券がやるのがいちばんいい、と示すための資料。

井坂は、それを作る側に回った。

作る側というのは、真柴やMDが決めた筋に沿って、ページを一枚ずつ埋めていく係である。筋は、最初の打ち合わせで、ホワイトボードに書かれる。一ページ目は何、二ページ目は何、と箇条書きで二十行ほど。井坂は、その一行ずつを、一枚のページにする。

◇

最初に仁科から教わったのは、表計算の色だった。

「青い字は、手で打った数字。黒い字は、計算式」

仁科は、自分の画面の表計算を見せた。数字が並んでいて、半分が青く、半分が黒い。

「有報から拾ってきた数字は、青。それを足したり割ったりしてできた数字は、黒。そう決めておくと、あとで見た人が、どこが元の数字で、どこが計算なのか、ひと目で分かる」

井坂は、書き取った。

青、手で打った数字。黒、計算式。

「あと、マウス使わないで」

「マウス」

「遅いから。キーボードで全部やる。慣れれば、倍速くなる」

仁科は、井坂の机の上の、マウスを見た。見ただけで、何も言わなかった。

その日から、井坂は、マウスを机の右端に寄せた。寄せただけで、使った。使うたびに、仁科の画面の横で、仁科の指がキーボードの上を動く音を聞いた。

二週間で、マウスに手を伸ばす回数が、半分になった。

◇

七月の初め、ある会社の株の値段が、いくらくらいが妥当なのかを示すページを作ることになった。

類似会社の比較、という方法である。

先方と似たような事業をしている、上場している会社を、いくつか選ぶ。その会社たちの株価が、利益の何倍になっているか、を調べる。その倍率を、先方の利益にかけると、先方の株の値段の目安が出る。

井坂は、先方と似た会社を、八社選んだ。

選んだものを、仁科に見せた。

仁科は、その八社の名前を見て、そのうち二社を指で押さえた。

「この二つ、外したほうがいい」

「似てないですか」

「似てる。似てるけど、この二つは、倍率が低いの。入れると、平均が下がる」

井坂は、その二社の倍率を見た。確かに、残りの六社より、ずっと低かった。

「外すと、上がる」

「上がる」

「どっちが、正しいんですか」

仁科は、少し考えてから言った。

「どっちも、正しい。どの会社を似てると思うかは、決まってないから。ただ、先方に見せるなら、先方が納得する選び方にする。先方の社長が、この二社を、うちとは違う、と思ってるなら、外す」

井坂は、A4に書いた。

類似会社の比較。どの会社を選ぶかで、評価額が変わる。

それから、その下に、一行でまとめた。

「選び方で値段が変わる」

仁科が、それを横から見た。

「その書き方は、外で使わないで」

「はい」

「間違ってないけど」

仁科はそれだけ言って、自分の画面に戻った。

井坂は、その一行を、消さなかった。上から、線を一本だけ引いた。線を引いても、字は読める。

◇

ページの数が増えるにつれて、ファイルの数も増えた。

最初のファイルの名前は、先方の社名と、日付だった。真柴の直しが入ると、名前の後ろに「_v2」が付いた。MDの直しが入ると、「_v3」になった。

面談の前の晩に、全部の直しが終わると、「_final」が付いた。

その「_final」に、真柴がもう一度直しを入れた。井坂は、ファイルの名前を「_final_最終」にした。

翌朝、「_final_最終」に、真柴が、もう一度直しを入れた。

「_final_最終_真柴修正後」になった。

その日の午後、MDが、一枚だけ差し替えを言った。

「_final_最終_真柴修正後_v3」になった。

井坂は、そのファイルの名前を、画面の上で見た。

どこかでおかしくなっている、と思った。どこでおかしくなったのかは、分かっていた。最初に「_final」と付けたところである。最後が来る前に、最後と書いた。

次の案件から、井坂は、「_final」を付けるのをやめた。

◇

ブックの数字は、全部、誰かが確かめる。

井坂が作ったページは、仁科が確かめる。仁科が確かめたものを、真柴がもう一度見る。真柴が見たものを、MDが見る。四人の目を通って、初めて先方に出る。

それでも、一つの数字の間違いは、許されなかった。

七月のある夜、夜中の一時に、真柴が、井坂の画面の前に立った。

「このモデル、どこで数字拾ってる」

表計算のファイルは、シートが二十八枚あった。先方の会社の、十年分の財務の数字と、五年分の予測と、類似会社十二社の倍率。シートとシートが、数式でつながっている。

真柴が指さしたのは、最後のシートの、株の値段の目安だった。

「昨日のと、三円違う」

三円の違いの原因を、井坂は、二時間かけて探した。

二十八枚のうちの九枚目で、類似会社の一社の決算期が、一か月ずれていた。三月決算の会社を、二月決算として拾っていた。

直すと、三円が、元に戻った。

朝の三時だった。

真柴は、まだ席にいた。直したことを伝えると、真柴は、画面を見たまま言った。

「数字が一個違えば、先方は、全部を信用しなくなる」

それから、付け足した。

「三円でも」

◇

七月の半ば、真柴の赤入れで、ある提案書の全部のページを直した。

四十二ページ。どのページにも、赤が入っていた。グラフの色、表の桁、見出しの言い回し、脚注の出典の書き方。井坂は、それを一晩で直した。朝の五時に終わった。

七時の市況会議に出て、八時に、直したものを真柴の机に置いた。

真柴は、九時に来た。

席に着いて、一枚ずつめくった。井坂は、自分の席から、それを見ていた。真柴の手が、一枚ごとに止まり、また動いた。

十八枚目で、真柴の手が、長く止まった。

そのページは、先方の業界の、この十年の動きを、一枚のグラフにまとめたものである。井坂は、そのグラフに、四時間かけていた。赤で言われた通りに、線の色を三回変えて、凡例の位置を二回動かして、目盛りの刻みを一回変えた。

真柴は、そのページを、指で一度叩いた。

「このページ、要らん」

それから、そのページを、束から抜いて、机の脇の、紙を捨てる箱に入れた。

十九枚目に進んだ。

◇

井坂は、自分の席で、捨てる箱のほうを見た。

箱の中に、十八枚目のページが、表を上にして入っていた。四時間かけたグラフが、蛍光灯の下で、少し光って見えた。

井坂は、A4を開いた。

一枚目の、この部署で言われたことを書くページ。「で?」の下に、今日の日付と、一行を書いた。

「このページ、要らん」

それから、その下に何か書こうとして、ペンが止まった。

直せと言われて直したページが、直したあとで要らなくなった。直す前から要らなかったのか、直したから要らなくなったのか、井坂には分からなかった。

それを訊く相手は、真柴しかいなかった。

井坂は、訊かなかった。

ホワイトボードで筋を決めた日のことを、思い出した。一ページ目は何、二ページ目は何、と箇条書きで二十行ほど。十八行目に、業界の十年、と書いてあった。書いたのは真柴である。

真柴が書いた行を、真柴が要らないと言った。

井坂は、それを、真柴が間違えたのだとは思わなかった。四十二枚を通して読んで、初めて要らないと分かるページがある。一枚だけ見ても、分からない。

井坂は、四十二枚を、通して読んだことがなかった。

一枚ずつ、直していただけだった。

ペンを置いて、四十一枚になった束のページ番号を、打ち直し始めた。

午後になって、仁科が、捨てる箱の横を通ったとき、一度だけ足を止めた。

箱の中の、十八枚目を見た。

それから、何も言わずに、自分の席に戻った。

夕方、井坂がコーヒーを取りに席を立って戻ってくると、机の上に、付箋が一枚貼ってあった。

「グラフはきれい」

字は、仁科の字だった。

井坂は、その付箋を、剥がして、A4の一枚目の、裏に貼った。

7 深夜料金

製本したブックを、上司の家に届けることがある。

先方との面談が、朝の早い時間にある。上司は、面談の前に、ブックを一度読んでおきたい。しかし、ブックが刷り上がるのは、夜中である。上司は、夜中まで会社にいない。

そういうとき、ブックを、上司の家のポストに入れる。上司は、朝起きて、ポストからブックを出して、朝食を食べながら読む。

井坂がそれを初めてやったのは、七月の終わりだった。

届け先は、柳瀬の家である。

◇

ブックが刷り上がったのは、朝の三時四十分だった。

井坂は、それを大きい封筒に入れて、会社の前で、タクシーを拾った。

本社の前の通りは、夜中でもタクシーが通る。空車の赤いランプを見て手を上げると、一台が、すぐに寄ってきた。

後部座席に乗ると、運転手が、振り返らずに訊いた。

「どちらまで」

井坂は、柳瀬の家の住所を言った。人事の書類で調べてあった。都心から西に向かって、私鉄で四十分くらいのところにある住宅街である。

運転手は、ナビに住所を入れた。

車が動き出した。

運転手は、六十代に見えた。白髪を短く刈っていて、首の後ろに、日焼けの跡がある。制服の紺のベストの、胸のポケットに、ボールペンが二本挿してある。助手席の背中に、乗務員の名札が差し込んであったが、井坂の席からは、字が小さくて読めなかった。

高速に乗った。

窓の外を、街灯が、同じ間隔で流れていった。

◇

「お客さん」

運転手が言った。

「何してる人」

井坂は、膝の上の封筒を見た。

「証券会社です」

「ああ」

運転手は、ハンドルを握ったまま、少し頷いた。

「株屋さんか」

井坂は、口を開きかけた。

違います、と言いかけた。株を売っているのではない。いや、売っている。株を出す手伝いをするのだから、出した株を売るのも、仕事のうちである。福浦にいたときは、実際に、客に株を売っていた。八郎に、扶桑化学を勧めたのは、井坂である。

それでも、「株屋さん」と言われると、違う、と思った。

何が違うのかを、言おうとした。

言えなかった。

会社が株を出すのを手伝う、と言えば、半分である。会社を売り買いするのを手伝う、と言えば、もう半分である。二つを合わせて、一言で言う言葉を、井坂は持っていなかった。

コーポレートファイナンス、と言えば、運転手は、財務部だと思うだろう。井坂が、この春にそう思ったように。

井坂は、口を閉じた。

「はい」

とだけ、言った。

運転手は、それ以上、何も訊かなかった。

車は、高速の料金所を過ぎた。

料金所のブースには、人がいなかった。ゲートのバーが、車が近づくと上がった。

井坂は、膝の上の封筒を見た。

封筒の中のブックは、四十ページある。一ページ目は、表紙。二ページ目は、目次。三ページ目から、先方の会社の今の姿。売上、利益、借入れ、現金。それから、先方の業界の今の姿。それから、先方が取りうる手。それぞれの手を取ったときの、先方の株の値段の目安。最後の五ページが、東雲証券がこれまでに手伝った似たような案件の一覧。

四十ページのうち、井坂が作ったのは、十一ページだった。

その十一ページに、自分が何をしたのかを、一言で言う言葉も、井坂は持っていなかった。数字を拾った。表にした。グラフにした。色を変えた。直した。

株屋さん、と言われて、違う、と思ったのは、自分が株を売っていないからではなかった。

自分が何をしているのか、自分で言えないからだった。

◇

柳瀬の家は、住宅街の、坂の途中にあった。

二階建てで、白い壁に、焦げ茶の屋根。門の脇に、郵便受けがある。郵便受けは、壁に埋め込まれた金属の箱で、上に、新聞を入れる口と、郵便を入れる口が並んでいる。

井坂は、タクシーを、少し手前で停めてもらった。

エンジンの音で、家の人を起こしたくなかった。

封筒を持って、門の前まで歩いた。郵便を入れる口に、封筒を差し込んだ。封筒は、口の幅より少しだけ厚かった。押し込むと、中で、封筒が底に落ちる音がした。

音は、思ったより大きかった。

井坂は、しばらく、門の前で動かなかった。

家の中で、明かりは点かなかった。

◇

タクシーに戻らなかった。

運転手に、「少し待っていてください」と言って、井坂は、住宅街の坂を、下のほうへ歩いた。

理由は、なかった。

ただ、車に乗る前に、少し歩きたかった。

坂の両側に、同じような家が並んでいた。どの家にも、明かりは点いていなかった。一軒の家の前に、三輪車が置いてあった。赤い三輪車で、ハンドルに、小さなベルが付いていた。

坂を下りきると、少し広い道に出た。道の向こうは、小学校の校庭だった。フェンスの向こうに、鉄棒が並んでいる。

空が、白くなり始めていた。

東の空の低いところが、白い。その上が、薄い青で、さらに上は、まだ暗い。白いところと、青いところのあいだに、線が一本、引いてあるように見えた。

井坂は、それを見た。

福浦の港で見た朝と、色が同じだと思った。

福浦で、朝の五時に港に立ったことが、一度だけある。支店に入って二年目の冬で、客の漁師に、競りを見に来いと言われた。行くと、客は競りの場にはいなかった。船の上から、手を振っていた。井坂は、岸壁で、競りの声を聞きながら、東の空が白くなっていくのを見た。

同じ色だった。

福浦の空と、東京の住宅街の空が、同じ色をしている。それは、当たり前のことである。

井坂は、しばらくそこに立っていた。

それから、坂を上って、タクシーに戻った。

◇

運転手は、エンジンを掛けたまま、待っていた。

「すみません、お待たせしました」

「いいえ」

井坂は、会社の住所を言った。

帰りの高速は、空いていた。

運転手は、何も話さなかった。井坂も、話さなかった。

会社の前に着いたのは、五時四十分だった。メーターの横に、深夜の割増を示す表示が、まだ点いていた。井坂は、タクシー券に金額を書いて、運転手に渡した。

運転手は、それを受け取って、言った。

「お疲れさまです」

井坂は、頭を下げて、車を降りた。

七時の市況会議まで、一時間二十分あった。

8 上場候補

七月の終わりに、地方銀行から、一覧表が届いた。

上場を考えている会社の一覧である。

地方銀行は、地元の会社と取引がある。お金を貸している。貸している会社のうち、いずれ上場したい、と言っている会社がある。そういう会社を、銀行は、証券会社に紹介する。紹介された証券会社は、その会社の上場を手伝う。手伝えれば、銀行も、会社も、証券会社も、それぞれに得をする。

一覧表は、瀬戸内の地方銀行からだった。

井坂の部署は、その地域の会社を担当する班を、一つ持っている。班の長は、真柴だった。

真柴が、その一覧表を、班の打ち合わせの机の上に置いた。

A4で二枚。会社の名前が、二十社ほど並んでいる。名前の横に、業種と、売上高の規模と、所在地と、銀行の担当者の名前。

井坂は、それを、上から読んでいった。

十四行目に、鳴海精機の名前があった。

◇

所在地は、福浦市だった。

業種は、精密部品の製造。売上高の規模は、百億円台の後半。

銀行の担当者の欄に、支店長の名前がある。その支店は、福浦の駅前にある、あの地方銀行の支店である。井坂は、その建物を、四年間、毎日見ていた。東雲証券の福浦支店から、歩いて三分のところにある。

井坂は、一覧表から目を上げなかった。

上げると、真柴と目が合うと思った。

◇

打ち合わせは、一時間だった。

真柴が、一覧表の上から順に、会社の名前を読み上げる。班の人間が、その会社について知っていることを言う。知らなければ、知らない、と言う。真柴は、それを聞いて、会社の名前の横に、丸か、三角か、線を引く。丸は、すぐに会いに行く。三角は、様子を見る。線は、手を出さない。

十四行目に来た。

「鳴海精機」

真柴が読み上げた。

誰も、何も言わなかった。

井坂は、一覧表を見ていた。

座敷の鴨居の、写真を思い出した。トタン屋根と、手書きの看板と、自転車が三台。

それから、玄関の土間で、八郎が言ったことを思い出した。

息子が、上場したい言うとる。

井坂は、口を開かなかった。

真柴は、一覧表の、鳴海精機の横に、丸を付けた。

◇

打ち合わせのあと、真柴が、井坂を呼んだ。

フロアの端の、打ち合わせ用の小さなスペースである。ホワイトボードには、春に仁科が引いた線の、消し残しが、まだ少し残っていた。

真柴は、椅子に座らずに、立ったまま言った。

「お前、福浦にいたんだろ」

「はい」

「鳴海精機、知ってるか」

井坂は、答える前に、少し間を置いた。

「会社のことは、分かりません。取引は、ありませんでした」

事実だった。福浦支店は、鳴海精機という会社とは、取引をしていない。取引をしているのは、鳴海八郎という個人である。

真柴は、井坂の顔を見ていた。

「創業者、個人で取引あっただろ」

「はい」

「お前の客か」

「はい。去年の三月まで」

真柴は、それ以上、訊かなかった。

少しだけ間があって、言った。

「知ってることは、知らんことにしとけ」

◇

真柴の言ったことの意味を、井坂は、あとで調べた。

会社の中には、客の情報を、部署と部署のあいだで勝手にやりとりしてはいけない、という決まりがある。支店で個人の客から聞いたことを、本社で会社の上場の仕事に使ってはいけない。逆も同じである。本社で知った会社の話を、支店の個人の客に話してはいけない。

情報の壁、と呼ぶ。

井坂は、その決まりを、入社したときの研修で聞いていた。聞いたときは、ぴんと来なかった。支店にいるあいだ、その壁の向こう側に行ったことがなかったからである。

今、井坂は、壁の向こう側にいる。

八郎から聞いたことは、壁のこちら側に持ち込んではいけない。

持ち株のこと。配当のこと。孫の受験のこと。

それから、玄関で言われた一言。

井坂は、それを、手帳に書かなかった。

書かなくて、よかったのだと思った。

思ったあとで、そう思ったことが、少しだけ嫌だった。

◇

その夜、井坂は、鳴海精機の会社のホームページを開いた。

会社概要。沿革。事業の説明。拠点の一覧。

公表されている情報である。これは、壁のこちら側で、使ってよい。

沿革の、いちばん上の行に、創業の年と、「鳴海製作所として創業」とあった。

写真は、なかった。

井坂は、拠点の一覧を開いた。本社と、工場が三つ。第二工場、第三工場、第四工場。地図が付いていて、三つの工場の場所に、赤い印が打ってある。

第一工場は、一覧になかった。

井坂は、しばらく、その地図を見ていた。

第二工場は、港の埋め立て地にある。第三工場は、国道沿い。第四工場は、隣の町。

鴨居の写真の工場が、どこにあったのかを、井坂は知らなかった。八郎は、それを話したことがなかった。井坂も、訊いたことがなかった。

画面を閉じた。

◇

翌週、真柴の班の打ち合わせで、鳴海精機の最初の面談の日程が決まった。

地方銀行の紹介で、先方の財務の責任者が、八月の最初の週に東京に来る。その日に会う。

班の人間の名前が、出席者として、ホワイトボードに書かれた。真柴。仁科。

真柴は、そのあとに、一行足した。

井坂。

井坂は、ホワイトボードの自分の名前を見た。

真柴は、それを書いたあとで、何も説明しなかった。

打ち合わせのあとで、井坂は、自分の手帳の、最後に八郎の家に行った日のページを、開こうとした。

手帳は、鞄の内ポケットに入っている。入ったままである。

井坂は、内ポケットに手を入れて、表紙に触れた。

開かなかった。

開けば、持ち株のことと、配当のことと、孫の受験のことが書いてある。それは、壁の向こう側の情報である。見ても、使えない。

見ないほうが、いいのだと思った。

9 江藤

鳴海精機の取締役CFO、江藤修に会ったのは、八月の第一週だった。

地方銀行の紹介で、真柴が面談を申し入れた。先方からの返事は早かった。東京に出る用事があるので、そのついでに寄る、という。

面談は、東雲証券の本社の、十九階の応接室で行われた。

十九階には、応接室が八つ並んでいる。どれも同じ広さで、同じ机と、同じ椅子と、同じ絵が掛かっている。絵は、どこかの海岸の風景で、八つの部屋で八枚、少しずつ違う海岸である。

江藤は、約束の時間の十分前に、受付に着いた。

◇

江藤は、五十代の半ばに見えた。

紺のスーツに、白いシャツ、ネクタイは紺の無地。髪は短く、白いものが三割ほど混じっている。背は高くない。鞄は黒い革の、角が少し擦れたもので、机の上ではなく、椅子の脇の床に置いた。

名刺を交換した。

取締役、財務担当、とある。その横に、CFOと英語で入っている。

江藤の名刺は、白い厚手の紙で、社名の横に、小さく社章が刷ってあった。丸の中に、歯車が一つ。その歯車の歯の数を、井坂は数えた。十二あった。

福浦にいたころ、鳴海精機の社章を、井坂は何度も見ていた。港の埋め立て地の工場の門に、大きく掲げてある。八郎の家の座敷の、床の間の脇にも、小さな額に入ったものが一つ。

歯の数を数えたのは、初めてだった。

井坂の名刺は、四月の二週目に刷り上がっていた。企業金融部、とある。役職の欄は、空白だった。

江藤は、井坂の名刺を、少し長く見た。

◇

面談の席には、真柴と、仁科と、井坂が並んだ。

真柴が、東雲証券が上場の手伝いで何をしてきたかを、ブックを使って説明した。十五分。ブックは、この面談のために、井坂が二週間かけて作ったものである。二十四ページ。

江藤は、黙って聞いていた。ページをめくるのは、真柴が次のページに進んでから、一拍遅れてだった。

説明が終わると、真柴が訊いた。

「上場のご準備の状況は、いかがでしょうか」

江藤は、手元のブックを閉じて、机の上に置いた。

「正直に申し上げますと、遅れております」

井坂は、A4に書いた。遅れている。

「当社は、これまで、借入れで回してきた会社です。設備を入れるときは銀行から借りる。担保は工場と土地。返済の財源は、毎年の利益です。それで四十年やってきました」

真柴が、頷いた。

「上場いうのは、それとは違う話です。借りるんやなしに、株を出して、お金を入れてもらう。入れてもらったお金は、返さんでええ。そのかわり、株を持った人に、会社の中身を全部見せる。見せ方を、決まった形に揃えないかん」

江藤は、少し間を置いた。

「その見せ方の準備が、遅れております。社内の規程が揃っていない。子会社との取引の整理がついていない。月次の決算が、翌月の二十日までかかる。上場するなら、十日で締めないかん、と聞いております」

仁科が、手元のメモに何か書いた。

井坂は、江藤の手を見ていた。

江藤は、話しながら、机の上で、両手の指を組んでいた。話が数字のところに来ると、組んだ指がほどけて、右手の人差し指が、机の上に小さく数字を書くように動いた。書いているのではない。机の木目の上を、指がなぞっているだけである。

福浦の隣の地方銀行の支店長も、同じ癖を持っていた。客の決算書を、机の上で読むとき。

真柴は、頷きながら聞いていた。

「それで、今のところは、まず銀行さんに、つなぎの資金をお願いしておる状況です。工場を一つ増やす計画がありまして。本来なら、上場で入るお金で建てる予定やったんですが、上場が遅れる分、銀行さんに先に出してもらう。担保は、今ある工場の一つ。返済の財源は、上場で入るお金」

江藤は、そこで言葉を切った。

◇

真柴が、一つずつ質問をした。

上場の時期の見込み。月次決算の締めの日数を短くする計画。社内の規程の整備を、誰が見ているか。監査法人は、どこか。

江藤は、一つずつ答えた。答え方は、いつも同じだった。まず、今どうなっているか。それから、何が足りないか。それから、足りない分を、どこで埋めるつもりか。

それは、銀行の稟議書の書き方だった。

井坂は、福浦にいたころ、隣の地方銀行の支店の人間と、何度か話したことがあった。客を紹介し合う仲だった。その人間が、客の会社の話をするとき、必ず、今どうなっているか、何が足りないか、どこで埋めるか、の順で話した。貸出と、担保と、返済財源。その三つで、会社を見る。

江藤も、同じ順で話していた。

真柴は、その答えを聞くたびに、少しずつ、椅子の背にもたれる角度が深くなっていった。回りくどい、と思っているのだと、井坂には分かった。真柴が聞きたいのは、上場がいつになるのか、の一つだけである。

井坂には、江藤の話が、いちばんよく分かった。

四年間、福浦で聞いてきた言葉だったからである。

◇

面談は、一時間で終わった。

江藤は、椅子の脇の鞄を持ち上げて、立ち上がった。

真柴と、仁科と、井坂が、エレベーターの前まで送った。

エレベーターの扉が開く前に、江藤は、鞄の外ポケットから名刺入れを出した。

井坂の前に立って、名刺を二枚、差し出した。

「さっき、一枚お渡ししましたけど」

井坂は、両手で受け取った。

一枚は、さっきもらったものと同じだった。

もう一枚を裏返すと、手書きで、携帯の番号が書いてあった。青いインクの、少し右に傾いた数字だった。

「私、銀行の出なもんで、東京の言葉が、どうも」

江藤はそう言って、少し笑った。

「井坂さん、福浦におられたそうですね。地銀の支店長から聞きました」

江藤は、そこで、名刺をもう一度見た。

「失礼ですが、高洲の井坂さんと、何か」

井坂は、少し迷ってから答えた。

「祖父が、高洲でした」

「源蔵さんの」

「はい」

江藤は、それ以上、何も言わなかった。ただ、一度だけ、深く頭を下げた。銀行にいたころ、源蔵の商工会に、何度も通った、とあとで聞いた。

エレベーターの扉が開いた。

江藤は、それだけ言って、乗り込んだ。扉が閉まるまで、頭を下げていた。

◇

エレベーターの前で、真柴が、井坂の手の中の名刺を見た。

「二枚目、裏に何か書いてあるのか」

「携帯の番号です」

真柴は、それを聞いて、しばらく黙った。

「登録しとけ」

「はい」

「かかってきたら、出ろ。出たら、全部、俺に言え」

真柴は、それだけ言って、フロアに戻った。

仁科が、井坂の横に立っていた。

「よかったね」

井坂は、仁科を見た。

「何がですか」

「向こうが、話せる人を選んだってこと」

「話せる人、っていうのは」

「向こうの言葉が分かる人」

仁科は、エレベーターの階数の表示を見ていた。

「ああいう人はね、名刺の裏に番号を書く相手を、会ったその日に決めるの。決めたら、変えない」

仁科はそう言って、真柴のあとを追った。

井坂は、名刺の裏の数字を、もう一度見た。

それから、携帯を出して、その番号を登録した。名前の欄に、江藤、とだけ打った。

10 盆

盆休みに、福浦支店の暑気払いに呼ばれた。

声をかけてきたのは、支店の次長だった。四月に井坂が異動したあとで、支店長も異動していて、次長が、新しい支店長の下でそのまま残っている。メッセージには、日にちと、店の名前と、「東京の話、聞かせてくれ」とあった。

井坂は、盆の三日間、休みを取っていた。取っていた、というより、フロアの半分が休みを取るので、井坂も取れた、というほうが近い。行くところはなかった。北陸の実家には、正月に帰ればいい。

福浦へ行く、と返事をした。

◇

新幹線で、福浦のある県の駅まで三時間半。そこから在来線に乗り換えて、四十分。

福浦の駅に着いたのは、夕方の五時だった。

駅の外に出ると、空気が重かった。海の匂いがした。東京の八月の空気とは、重さが違う。湿り気の中に、塩と、油と、何かの魚の匂いが混じっている。

井坂は、駅前のロータリーで、しばらく立っていた。

ロータリーの真ん中に、ふくたこの像が立っていた。

去年の秋にはなかったものである。高さが人の背丈ほどあって、オレンジ色で、八本の足で台座の上に立っている。台座のプレートに、「福浦市マスコットキャラクター ふくたこ」とあった。その下に、デザインした人の名前。市役所の職員の名前だった。

井坂は、その名前を読んだ。

誰の孫なのかを、井坂は知っていた。

◇

店は、港の近くの居酒屋だった。

二階の座敷を、支店で借りていた。支店の人間が、十人ほど来ていた。新しい支店長は、来ていなかった。

次長が、井坂を見て、手を上げた。

「おう、東京の証券マン」

座敷の何人かが、笑った。

井坂は、頭を下げて、座った。

野々村も来ていた。

座敷のいちばん奥の、窓際の席で、先輩の女性たちに挟まれて座っていた。井坂が座ると、野々村は顔を上げて、少しだけ頭を下げた。それから、隣の先輩の話に戻った。

髪が、少し短くなっていた。肩につかない長さで、耳にかけている。

二年目に入った野々村は、八郎のほかにも、担当の客を持ち始めていた。窓口の女性の一人が、そう言っていた。

「紗季ちゃん、もう十五人持っとるんよ。一年目の子の世話もしよるし」

野々村は、それを聞いて、首を横に振った。

「十四人です」

◇

酒が進むと、話は井坂のほうに向いた。

「で、東京では、何しよるん」

次長が訊いた。

井坂は、ビールのグラスを置いた。

「会社の、資金調達のお手伝いです」

「資金調達」

「株を出したり、社債を出したり」

「ほう。ほいで、毎日、何しよるん」

井坂は、答えようとした。

毎日やっていることは、議事録を書くことと、ブックを作ることと、数字を確かめることと、タクシーで上司の家のポストにブックを入れることである。それを言うと、何の仕事なのか、ますます分からなくなる気がした。

「資料を、作ってます」

「資料」

「提案書です」

「それ、支店でもやりよったやないか」

座敷が、笑った。

井坂も、少し笑った。

「東京の証券マンは、資料を作るんか」

「朝は七時からなんやろ。テレビで見たで」

「女の子は、東京の子はきれいか」

「給料、上がったんか」

質問が、あちこちから来た。井坂は、一つずつ、短く答えた。答えるたびに、誰かが茶化した。東京の証券マン、という言葉が、何度も出た。

茶化しは、長くなりかけていた。

◇

そのとき、野々村が、窓際の席から、声を上げた。

「そういえば、田辺さん」

田辺は、支店の五年目の男である。井坂の一年先輩で、今は井坂の客の一部を引き継いでいる。

「先月、お客さんの家で、座布団の上に正座したまま、足しびれて立てんようになったって、ほんまですか」

座敷の視線が、田辺に移った。

田辺は、ビールを噴きかけた。

「誰に聞いたん、それ」

「お客さんから。お茶出しに行ったら、奥さんが、田辺さんがまだ畳の上で転がっとる言うて」

座敷が、どっと笑った。

田辺は、顔を赤くして、そのときのことを話し始めた。客の家の座敷で一時間正座をして、立とうとしたら、足が言うことを聞かなかった。そのまま畳の上に横に倒れて、しばらく動けなかった。客の奥さんが、その横で、お茶を出しながら笑っていた。

話は、そこから、支店の人間の失敗談の言い合いになった。

井坂のほうには、もう戻ってこなかった。

井坂は、窓際の野々村を見た。

野々村は、隣の先輩と一緒に、田辺の話に笑っていた。井坂のほうは、見なかった。

そのことに気づいたのは、座敷の中で、井坂だけだった。

◇

お開きの前に、会費を集めた。

幹事は、二年目の野々村だった。一人四千円で、次長だけが一万円を出す。井坂の分は要らない、と次長が言った。

野々村は、座敷を回って、千円札を集めた。五千円札を出して、釣りを待つ人もいた。集め終えると、座卓の端に札を並べて、一枚ずつ数えた。数え終えて、首をかしげて、また端から並べ直した。

井坂は、その手を見ていた。

「貸して」

井坂は、札の束を受け取った。揃えて、左手の指で束の端を押さえ、右手の指で一枚ずつ弾いた。音が、同じ間隔で続いた。途中で一度、束を持ち替えた。

「千円が二十六。五千円が二枚と、一万円が一枚」

野々村は、井坂の手を見ていた。

向かいの席で、田辺が、ビールのグラスを持ったまま言った。

「東京の証券マンは、札も数えられるんか」

「一年目の秋まで、窓口に現金があったけえ」

井坂は、束を野々村に返した。野々村は、それを受け取って、もう一度、一枚ずつ数えた。千円札は、二十六枚だった。

◇

九時に、会はお開きになった。

店の前で、何人かは二次会に流れ、何人かはタクシーを拾った。井坂は、駅前のビジネスホテルに部屋を取っていた。歩いて十五分。

野々村の実家は、同じ方向だった。

二人で、並んで歩いた。

港沿いの道である。去年の秋に、八郎の家からの帰りに歩いた道と、同じ道だった。夜の港は、造船所のクレーンの先に、赤いランプが点いている。点いたり消えたりしている。

井坂は、それを、少しのあいだ見ていた。

野々村の鞄に、ふくたこが付いていた。オレンジ色は、去年と変わらない。歩くたびに、足がぶつかる。

しばらく、二人とも黙っていた。

「井坂さん」

野々村が言った。

「で、何してるんですか」

井坂は、野々村を見た。

座敷で、次長が訊いたのと、同じ質問だった。

座敷では、茶化すために訊かれていた。野々村は、茶化していなかった。前を向いて歩きながら、普通の声で訊いていた。

井坂は、しばらく考えた。

資金調達の手伝い。資料作り。株を出す。社債を出す。会社を売り買いする。どれも、嘘ではない。どれも、半分である。

「まだ分からん」

井坂は、そう言った。

言ってから、自分の言葉が、福浦の言い方になっていることに気づいた。

野々村は、少し笑った。

「ほな、分かったら教えてください」

それだけ言って、前を向いた。

◇

少し歩いてから、野々村が言った。

「鳴海さんが、井坂さんのこと訊いとってでしたよ」

「八郎さんが」

「東京で、ちゃんと食べとるんか、って」

井坂は、答えなかった。

東京で、何を食べているかを思い出そうとした。昼はコンビニのおにぎり。夜は、会社の下のコンビニの弁当か、何も食べない。朝は、七時の会議の前に、自販機の缶コーヒー。

野々村も、それ以上、言わなかった。

井坂の答えを、待っていなかった。

港の道が、二股に分かれるところまで来た。野々村の実家は、左の坂の上である。井坂のホテルは、右の駅のほうである。

「ほな、ここで」

野々村は、そう言って、頭を下げた。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

野々村は、左の坂を上っていった。鞄のふくたこが、歩くたびに揺れていた。街灯の下を通るとき、オレンジ色が、一瞬だけ明るくなった。

井坂は、それを見送ってから、右の道を歩いた。

◇

翌朝、井坂は、七時にホテルを出た。

帰りの新幹線は、昼の便だった。それまで、することがなかった。

港まで、歩いた。

岸壁の先の、漁協の建物の前で、朝の競りが終わりかけていた。発泡スチロールの箱が、コンクリートの上に並んでいる。箱の中で、魚が、まだ少し動いていた。長靴の男たちが、箱を軽トラックに積んでいた。

井坂は、それを、少し離れたところから見ていた。

男の一人が、井坂のほうを見た。

「東雲さんとこの」

男は、軍手を外しながら、近づいてきた。

井坂の、支店のころの客だった。漁師で、二年目の冬に、競りを見に来いと言った男である。

「東京、行ったんやろ」

「はい」

「ほうか」

男は、それだけ言って、箱の中から、アジを三匹、ビニールの袋に入れた。

「持って帰り」

井坂は、断ろうとした。新幹線に、生の魚を持って乗るわけにはいかない。

男は、袋を、井坂の手に押しつけた。

「氷、入れといたる」

井坂は、それを受け取った。

新幹線の中で、袋の氷が、少しずつ溶けた。東京の部屋に着いたとき、袋の底に、水が溜まっていた。

井坂は、台所のない部屋で、アジを三匹、どうしていいか分からなかった。

翌日、会社の給湯室の冷蔵庫に入れて、仁科に一匹、真柴に一匹、渡そうとした。

仁科は、「ありがと」と言って、受け取った。真柴は、「いらん」と言った。

残った二匹は、給湯室の冷蔵庫に、その週の終わりまで入っていた。

金曜の夜に、誰かが捨てた。

誰が捨てたのかを、井坂は知らない。捨てられた袋の口は、きちんと縛ってあった。

◇

この日以降、野々村は、井坂の仕事の中身を、一度も訊かなくなる。

11 コンペ

九月の終わりに、鳴海精機が、主幹事の選定に入った。

主幹事というのは、上場のときに、中心になる証券会社である。上場の準備を一緒に進め、会社の株を引き受け、投資家に売る。証券会社は、一社だけではなく、何社かで組んで株を売るが、その中心になるのが、主幹事である。

鳴海精機は、三社に声をかけた。

東雲証券と、ほかに二社。一社は、東雲証券より大きい総合証券で、もう一社は、上場の手伝いを得意にしている中堅の証券会社だった。

三社が、それぞれに提案書を出して、プレゼンをする。鳴海精機は、それを聞いて、一社を選ぶ。

コンペ、と呼んでいた。

◇

資料づくりに、三週間かかった。

真柴が筋を決め、仁科が数字を組み、井坂がページを埋める。いつもの分担である。

井坂の役目は、議事録と、ブックの校正だった。

議事録は、打ち合わせのたびに書く。一日に三回、打ち合わせがあることもあった。校正は、ブックが一ページできるたびに、そのページの数字と、字と、出典を確かめる。

誤字の件以来、井坂は、社名の字を、全部、一つずつ確かめるようにしていた。

鳴海精機の「鳴」の字は、パソコンで打っても置き換わらない。それでも、全部確かめた。

◇

二週目の水曜の夜、仁科が、井坂の机の上に、紙の束を三つ置いた。

「これ、見といて」

ほかの証券会社の提案書だった。

過去に、ほかの会社のコンペで、ほかの証券会社が出した提案書である。先方の会社から、コンペが終わったあとで、参考までに、と渡されたものだった。そういうことが、ときどきある、と仁科が言った。

井坂は、その三つの束を、一つずつ読んだ。

一つ目は、東雲証券より大きい総合証券のもの。二つ目は、上場の手伝いを得意にする中堅のもの。三つ目は、外資系の証券会社のもの。

どの提案書にも、同じ種類のページがあった。

リーグテーブル。

証券会社の、上場の手伝いの実績を、順位で並べた表である。何件手伝ったか。いくらの株を出したか。その数字で、証券会社を上から並べる。

三つの提案書の、リーグテーブルのページを、井坂は並べてみた。

一つ目の提案書では、一つ目の証券会社が一位だった。

二つ目の提案書では、二つ目の証券会社が一位だった。

三つ目の提案書では、三つ目の証券会社が一位だった。

◇

井坂は、表の下の、小さい字を読んだ。

集計の条件が書いてある。

一つ目は、過去五年の、国内の上場の件数。二つ目は、過去三年の、新興市場への上場の件数。三つ目は、過去十年の、調達金額の合計で、海外の分を含む。

期間の切り方と、数える対象の切り方が、社ごとに少しずつ違っていた。その切り方で、どの社も、自分が一位になるように表を作っていた。

井坂は、三つの表の、条件の書かれた小さい字を、A4に写した。

写しながら、支店の窓口の、投資信託のパンフレットを思い出した。どの運用会社のパンフレットにも、過去の成績のグラフが載っている。グラフの期間は、パンフレットごとに違う。三年のものもあれば、五年のものも、設定来のものもある。どの期間を載せるかで、成績の見え方が変わる。

福浦の客は、それを分かっていた。

パンフレットを渡すと、八郎は、グラフのいちばん下の、小さい字の期間を、最初に読んだ。読んでから、グラフを見た。

「ええとこだけ切って見せとるんやろ」

八郎は、そう言って、笑った。

責める調子ではなかった。そういうものだ、と知っている調子だった。

先方の会社も、きっと同じだろう、と井坂は思った。

井坂は、自分の部署が今作っているブックの、リーグテーブルのページを開いた。

東雲証券が、一位だった。

集計の条件は、過去四年の、地方に本社を置く会社の上場の件数、だった。

四年、という数字は、何の区切りでもなかった。三年でも、五年でもなく、四年。井坂は、三年で数えたらどうなるか、五年で数えたらどうなるかを、手元の表計算で試してみた。

三年なら、二位だった。五年なら、三位だった。

◇

井坂は、その表計算を閉じた。

保存はしなかった。

誰にも言わなかった。

言っても、「で?」と返ってくるだけだと思った。それに、言うべきことなのかどうか、分からなかった。リーグテーブルの条件を、自分に都合よく切るのは、ほかの三社も同じようにやっていることである。やっていない社はない。先方も、それを知っている。知っていて、見る。

それでも、井坂は、A4の一枚目に、書かなかった。

一枚目は、この部署で言われたことを書くページである。リーグテーブルのことは、誰にも言われていない。井坂が気づいただけである。

井坂は、A4の、いちばん後ろのページを開いた。

そこには、何も書いていなかった。

井坂は、そのページの右上に、小さく、日付を入れた。

それから、一行だけ書いた。

「どの社でも、その社が一位」

書いて、ノートを閉じた。

◇

三週目の金曜の夜、ブックが刷り上がった。

五十二ページ。表紙に、鳴海精機のロゴ。ロゴは、先方のホームページの最新のもので、井坂が、先方の広報の担当に電話をして、刷るための画像をもらったものである。

社名の字は、全部確かめた。

リーグテーブルのページも、確かめた。数字は、正しかった。条件の書き方も、正しかった。

井坂は、刷り上がった一部を、最初から最後までめくった。

二十八ページ目に、鳴海精機の拠点の地図があった。

本社と、第二工場と、第三工場と、第四工場。

井坂は、そのページで、少しだけ手を止めた。

それから、次のページに進んだ。

◇

三週間で、ブックは、二十三回、作り直された。

筋そのものが変わったのが、四回あった。最初は、上場の実績を前に出す筋だった。次に、地方の会社の上場を前に出す筋になった。その次に、鳴海精機の事業の強みを前に出す筋になった。最後に、上場したあとの株主の顔ぶれを前に出す筋になった。

筋が変わるたびに、五十ページのうちの三十ページが、並べ替えられ、書き直された。

最後の筋の変更は、プレゼンの三日前の、朝の四時だった。MDが、自宅から真柴にメールを送ってきた。一行だった。

「誰が買うのか、を一枚目に」

真柴は、それを読んで、班の全員を、朝の七時に呼んだ。

誰も、文句を言わなかった。

井坂は、その日から三日間、家に帰らなかった。

三日目の夜、フロアの長椅子で一時間眠って、起きたとき、自分がどのファイルの、どのページを直していたのかを、思い出すのに少しかかった。

画面に、「v23」と出ていた。

12 株主の顔

プレゼンの日は、十月の最後の火曜だった。

場所は、鳴海精機の本社である。

井坂は、真柴と、仁科と、MDと、それから株式の部署の人間二人と一緒に、朝の新幹線に乗った。三時間半。在来線に乗り換えて、四十分。福浦の駅に着いた。

新幹線の中で、真柴は、ブックを最初から最後まで、三回読んだ。

一回目は、ページをめくるだけだった。二回目は、ペンを持って、何か所かに小さく印をつけた。三回目は、印をつけたところだけを読んだ。

井坂は、通路を挟んだ隣の席に座っていた。

真柴が印をつけたのは、どのページなのか、井坂の席からは見えなかった。

名古屋を過ぎたころ、真柴が、ブックを閉じて、井坂のほうを見ずに言った。

「福浦の駅から、会社まで、何分だ」

「タクシーで、十五分です。港の埋め立て地なので、橋を一つ渡ります」

「橋」

「朝の八時台は、工場の車で混みます。十時なら、空いてます」

真柴は、それを聞いて、腕の時計を見た。

それから、また、ブックを開いた。

新大阪を過ぎたころ、MDが、井坂の席まで来た。

「井坂くん、福浦の人は、プレゼンのとき、どういうのを嫌う」

井坂は、少し考えた。

「横文字を、嫌います。嫌うというか、聞き流します。聞き流して、あとで、担当の人間に、あれはなんやったんか、と訊きます」

MDは、頷いた。

「分かった」

それだけ言って、席に戻った。

駅前のロータリーに、ふくたこの像が立っていた。

真柴が、それを見て、「なんだこれ」と言った。仁科が、「マスコットですよ」と言った。

井坂は、何も言わなかった。

駅からは、タクシーに二台に分かれて乗った。

◇

鳴海精機の本社は、港の埋め立て地の、第二工場の隣にあった。

三階建てで、外壁は白い。玄関の上に、会社のロゴが大きく掲げてある。玄関を入ると、受付に、制服を着た女性が一人いた。

二階の会議室に通された。

長い机の片側に、鳴海精機の側が並んでいた。社長の鳴海誠治、CFOの江藤、それから、製造と営業の担当の役員が二人。

誠治は、五十代の前半に見えた。八郎と、目の形が似ていた。似ているのは目だけで、ほかは、似ていなかった。背が高く、肩幅が広い。白いシャツの上に、会社の作業着を羽織っていた。

井坂は、誠治と名刺を交換した。

誠治は、井坂の名刺を見て、それから井坂の顔を見た。

何も言わなかった。

◇

プレゼンは、一時間だった。

真柴が話した。MDが、ところどころで補った。株式の部署の二人が、上場のときの株の売り方を説明した。仁科が、数字のページを説明した。

井坂は、発言を求められなかった。

机の端に座って、議事録を取っていた。

MDが、横文字を使うたびに、日本語で言い直しているのに、井坂は気づいた。リーグテーブル、つまり、引受の実績の順位です。ブックビルディング、つまり、投資家の需要を積み上げる期間です。

誠治は、それを、黙って聞いていた。

◇

プレゼンの途中で、誠治が、手を上げた。

「一つ、訊いてもええですか」

真柴が、「どうぞ」と言った。

誠治は、手元のブックを閉じた。

「上場したら、誰がうちの株を持つんですか」

会議室が、少し静かになった。

井坂は、ペンを止めて、誠治を見た。

誠治は、真柴を見ていた。

「ほかの二社さんにも、同じことを訊きました。三社全部に、訊いとるんです」

真柴は、少し間を置いてから、答えた。

株を持つのは、大きく分けて、機関投資家と、個人投資家である。機関投資家というのは、年金や、保険会社や、投資信託を運用している会社のことで、お客から預かったお金で、株を買う。その中にも、長く持つ投資家と、短く持つ投資家がいる。長く持つ投資家は、会社の中身を見て、何年も持つ。短く持つ投資家は、値動きを見て、何日かで売る。国内の投資家と、海外の投資家がいる。

真柴は、それを、整然と説明した。

どの種類の投資家が、どのくらいの割合で、鳴海精機のような会社の株を持つことが多いか。その割合を、東雲証券がこれまで手伝った上場の実績から、数字で示した。

完璧な答えだった。

井坂は、それを、全部書き取った。

誠治は、真柴の答えを、最後まで黙って聞いていた。聞き終わると、頷いた。

「ありがとうございます」

それだけ言って、ブックを開き直した。

◇

プレゼンは、ブックの後半に進んだ。

仁科が、鳴海精機の事業のページを説明していた。売上の内訳。取引先の業種。工場ごとの生産の品目。

二十八ページ目。拠点の地図。

誠治の指が、そのページで止まった。

誠治は、地図の上に、人差し指を置いた。港の、東の端のあたりである。

「一つ、足りんですね」

仁科が、説明を止めた。

誠治は、指を置いたまま、言った。

「第一工場」

会議室が、静かになった。

江藤が、誠治の横で、少しだけ身じろぎをした。

「今は、倉庫にしとります。製造はしとらん。ほやから、載せんでええんです。地図としては、正しい」

誠治はそう言って、指を離した。

真柴が、言った。

「失礼しました」

誠治は、首を横に振った。

「いや。間違いやないです。ほかの二社さんも、載せとらんかったです」

それだけ言って、仁科に、続けてください、と手で示した。

仁科は、次のページに進んだ。

◇

地図は、現役の工場だけを載せる決まりだった。

ブックを作るときに、そう決めたのは、真柴である。井坂が、最初に地図を作ったとき、会社のホームページの拠点の一覧を、そのまま写した。一覧には、第一工場は載っていなかった。

だから、間違いではない。

井坂は、議事録に、誠治の言葉を書いた。

「一つ、足りんですね」。第一工場。今は倉庫。製造なし。地図としては正しい。他の二社も非掲載。

書きながら、井坂は、手を止めなかった。

止めたら、何かを思い出していることが、顔に出ると思った。

港の東の端。

八郎の座敷の、鴨居の写真。トタン屋根の平屋と、手書きの看板と、自転車が三台。

あの写真の工場が、どこにあったのか、井坂は知らなかった。八郎は、それを話したことがなかった。

今日、それを知った。

知っているのは、会議室の中で、井坂だけだった。誠治は、父親の座敷の写真を知っている。しかし、井坂がその写真を知っていることは、知らない。

井坂は、議事録を書き続けた。

プレゼンのあとの質疑で、株式の部署の人間が、上場のあとの株の売り方について、細かい数字を並べた。機関投資家への配分の比率。個人投資家への配分の比率。そのうち抽選で配る分。

誠治は、それを、手元のブックに書き込みながら聞いていた。

製造の担当の役員が、一度だけ、手を上げた。

「うちの社員も、買えるんですか」

株式の部署の人間は、社員持株会の制度と、上場のときに社員が株を買う枠のことを説明した。

役員は、それを聞いて、頷いた。

「工場の者が、訊くんですわ。うちの会社の株、買えるんか、言うて」

誠治は、それを聞いて、少しだけ笑った。

その笑いの意味を、井坂は、議事録に書かなかった。

◇

プレゼンが終わって、玄関で、誠治と江藤が見送りに出た。

タクシーを待っているあいだ、誠治が、井坂の前に来た。

「井坂さん、でしたね」

「はい」

「福浦におられた」

「はい。この春まで、支店に」

誠治は、頷いた。

それ以上、何も言わなかった。

タクシーが来た。

井坂は、頭を下げて、乗り込んだ。

窓から、玄関を見た。誠治は、もう中に戻っていた。江藤だけが、タクシーが見えなくなるまで、玄関の前に立っていた。

13 主幹事

選定の結果が出るまで、四か月かかった。

鳴海精機は、三社のプレゼンのあとで、それぞれの社と、何度か個別に会った。東雲証券とは、三回。その三回の議事録を、井坂が書いた。

三回とも、江藤が窓口だった。誠治は、一度も出てこなかった。

年が明けて、二月になった。

◇

三月の最初の週に、結果が来た。

東雲証券が、主幹事に選ばれた。

知らせは、江藤から、真柴に電話で来た。真柴は、それを席で受けて、「ありがとうございます」を三回言った。電話を切ると、MDの席に行った。

MDは、それを聞いて、頷いた。

それから、柳瀬の個室に行った。

柳瀬は、それを聞いて、何も言わなかった。画面を見たまま、少しだけ頷いた。

フロアには、拍手も何もなかった。

真柴が、自分の席に戻ってきて、班の人間を見回した。

「鳴海精機、取った」

それだけだった。

◇

その日の夜、井坂は、真柴に訊いた。

「なぜ、うちだったんでしょうか」

真柴は、画面を見ていた。

「理由は訊くな」

井坂は、黙った。

真柴は、少し間を置いてから、画面から目を離さずに、付け足した。

「訊いて、答えが返ってきても、それが理由とは限らん。選んだ側も、分かってないことがある」

それから、何も言わなかった。

◇

井坂は、席に戻って、A4の、いちばん後ろのページを開いた。

リーグテーブルのことを書いたページである。その下に、日付を入れた。

それから、考えた。

なぜ、東雲証券だったのか。

一つ目は、真柴の答え。誠治の「誰がうちの株を持つんですか」という問いに、三社のうちで、いちばん整然と答えたのかもしれない。ほかの二社の答えを、井坂は知らない。

二つ目は、地図の一件。第一工場の抜けを、誠治は指摘した。ほかの二社も、載せていなかった、と誠治は言った。三社とも同じなら、それは、選ぶ理由にはならない。しかし、誠治がそれを、三社の中で東雲証券にだけ言ったのか、三社全部に言ったのかを、井坂は知らない。

三つ目は、八郎。

八郎が、息子に、何かを言ったのかもしれない。言わなかったのかもしれない。八郎が、東雲証券の福浦支店の客であることを、誠治は知っている。その客の担当が、四年間、井坂だったことも、知っているのかもしれない。

四つ目を、井坂は、考えないようにしていた。

江藤が、名刺の裏に番号を書いた日のこと。高洲の井坂さんと、何か、と訊かれたこと。福浦の年寄りたちのあいだで、源蔵の名前が、まだ通っていること。

井坂は、それを、A4に書こうとした。

書かなかった。

書けば、それが理由の候補として、紙の上に残る。残った紙を、誰かが見るかもしれない。見なくても、自分が見る。見るたびに、どれなのかを考える。

どれでもないのかもしれない、と思った。

選んだ側も、分かっていないことがある。

井坂は、日付の下に、何も書かずに、ノートを閉じた。

◇

その夜、井坂は、会社を出る前に、フロアの窓際に立った。

十七階の窓から、日本橋の川が見えた。川の上を、高速道路が走っている。高速道路の下の川は、暗くて、水面が見えない。

三月だった。

福浦を出て、一年がたとうとしていた。

一年前の三月、支店長室で、支店長は、コーポレートファイナンス部だぞ、と言った。井坂は、財務部でしょうか、と訊いた。そんなレベルでやっていけんのか、と言われた。

一年たって、井坂は、自分の部署の名前を、英語でも日本語でも言えるようになった。カバレッジとプロダクトの違いも、言える。青字と黒字も、ディスカウントも、リーグテーブルも、言える。

主幹事を取った、ということが、どういうことなのかも、言える。上場の準備を一緒に進め、株を引き受け、投資家に売る。

言えるようになったことを、井坂は、指で数えようとして、やめた。

数えても、それで一文にはならなかった。

◇

夜の十一時に、携帯が震えた。

会社の携帯ではなく、自分の携帯だった。

江藤からのメッセージだった。

「よろしくお願いします」

それだけだった。

句点で終わっていた。絵文字も、何もなかった。

井坂は、それを、しばらく見ていた。

それから、返信した。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

送信して、携帯を机の上に伏せた。

◇

翌週から、上場の準備が、本格的に始まった。

東雲証券の側で、鳴海精機の担当のチームができた。真柴が責任者で、仁科と、井坂と、株式の部署から一人。それに、引受審査部からも、担当が一人つく。

最初の打ち合わせで、真柴が、ホワイトボードに、上場までの日程を書いた。

直前々期。直前期。申請期。

上場を申請する年の、前の年を直前期、その前の年を直前々期と呼ぶ。その二年のあいだに、会社の決算を、上場する会社の形に整える。監査法人の監査を、二年分受ける。社内の規程を揃える。月次の決算を、十日で締められるようにする。

真柴は、日程の上に、線を一本引いた。

「最短で、二年と九か月」

井坂は、それを書き取った。

二年と九か月後、井坂は三十歳になる。

そのとき、自分がどこで何をしているのかを、井坂は考えなかった。考えても、分からないと思った。一年前の三月、自分がこのフロアで提案書を刷っているとは、考えもしなかった。

打ち合わせのあとで、真柴が、井坂を呼び止めた。

「江藤さんの窓口、お前がやれ」

「はい」

「番号、もらってるだろ」

真柴は、それだけ言って、席に戻った。

14 深夜料金

三月の終わりに、年度末の仕事が重なった。

鳴海精機の上場の準備の、監査法人との打ち合わせの日程を決める。別の会社の社債の書類を締める。別の会社のM&Aの提案書を刷る。

年度末の最後の週、フロアの壁に、紙が一枚貼り出された。

来年度の組織図だった。部と班の名前と、その下に、人の名前が並んでいる。

井坂の名前は、真柴の班の、いちばん下にあった。去年と同じ位置である。

その上に、仁科の名前。その上に、真柴の名前。

真柴の名前の横に、小さく、鳴海精機、と書き込みがしてあった。誰の字なのかは、分からなかった。鉛筆の字で、翌日には、消されていた。

福浦の支店でも、年度末に、紙が貼り出された。担当の客の割り振りの表である。四年前の三月、井坂の名前の横に、八郎の名前が書いてあった。

今年の三月、福浦支店の表の、八郎の名前の横には、野々村の名前が書いてあるはずだった。

井坂は、それを見ていない。

◇

井坂が会社を出たのは、夜の二時半だった。

会社の前で、手を上げた。

一台が、寄ってきた。

◇

後部座席に乗ると、運転手が、振り返った。

「ああ」

運転手は、少し笑った。

「また会いましたね」

井坂は、運転手の顔を見た。

白髪を短く刈っていて、首の後ろに、日焼けの跡がある。紺のベストの胸ポケットに、ボールペンが二本。

去年の夏、柳瀬の家にブックを届けたときの運転手だった。

「覚えてらっしゃるんですか」

「坂の上の家の前で、待たされましたからね」

井坂は、あの朝のことを思い出した。

柳瀬の家のポストに封筒を入れて、坂を下りて、小学校の校庭の前で、東の空を見ていた。十分か、十五分か。そのあいだ、運転手は、エンジンを掛けたまま、坂の上で待っていた。

「すみませんでした、あのとき」

「いいえ。メーターは回ってましたから」

運転手は、それだけ言った。

それから、前を向いた。

「どちらまで」

井坂は、自分の部屋の住所を言った。

◇

車が動き出した。

夜中の道は、空いていた。信号が、黄色の点滅に変わっている交差点がある。そこを通るとき、運転手は、少しだけ速度を落とした。

しばらく、どちらも黙っていた。

「お客さん」

運転手が言った。

「何してる人」

井坂は、窓の外を見ていた。

前に、同じことを訊かれたとき、井坂は「証券会社です」と答えた。運転手は、「株屋さんか」と言った。井坂は、それを訂正しかけて、やめた。

今日は、少し考えた。

「会社が、株を出すのを手伝う仕事です」

運転手は、ハンドルを握ったまま、頷いた。

「ほう」

それだけ言った。

それ以上は、訊かなかった。

◇

井坂は、自分の答えを、頭の中でもう一度言った。

会社が、株を出すのを手伝う仕事です。

一年前に比べれば、半分は言えている、と思った。もう半分は、社債のことと、会社の売り買いのことである。それを入れると、一言にならない。

それに、今日、井坂がやったことは、株を出すのを手伝うことではなかった。打ち合わせの日程を決めて、書類を締めて、提案書を刷った。それは、手伝う前の、そのまた前の仕事である。

それでも、運転手は、「ほう」と言った。

それで足りたのかどうかは、分からなかった。

メーターの横の、深夜の割増の表示が、点いていた。

井坂は、タクシー券に金額を書いて、運転手に渡した。

運転手は、それを受け取って、券の、会社の名前の欄を、一度だけ見た。

「お気をつけて」

井坂は、車を降りた。

降りてから、振り返った。車は、もう角を曲がっていた。

運転手の名前を、井坂は、まだ知らなかった。助手席の背中の名札は、二回乗って、二回とも、読めなかった。

◇

部屋に着いたのは、三時十分だった。

井坂は、鞄を床に置いて、明かりを点けた。

ワンルームの部屋は、一年たっても、あまり変わっていなかった。段ボールは全部開けて、畳んで捨てた。窓際に、机を一つ買った。机の上には、何も置いていない。

井坂は、鞄の内ポケットに手を入れた。

手のひらの手帳が、そこにあった。

去年の四月から、ずっと内ポケットに入っていた。A4を使うようになってから、一度も出していない。

井坂は、それを出した。

黒い革の表紙の角が、少しだけ丸くなっていた。鞄の中で、一年、擦れていたからである。

開かなかった。

机の、いちばん上の引き出しを開けた。空だった。

井坂は、手帳を、その引き出しの中に置いた。

引き出しを閉めた。

それから、シャワーを浴びて、寝た。

携帯のランプは、朝まで点かなかった。

第二部 同行

15 一人で行け

扶桑化学は、時価総額が一兆円を超える化学の会社である。

本社は東京の丸の内にあって、工場が国内に十二、海外に九つある。井坂の部署の中では、MDの一人が担当していて、その下に真柴の班とは別の班がついている。

八郎が、三十年持っている株である。

福浦の支店でも、扶桑化学の株を持っている客は多かった。配当が安定していて、株価が大きく崩れたことがない。年配の客が、孫のために持っておく株、と呼んでいた。井坂も、八郎に、扶桑化学を買い増すことを勧めたことがある。

五月の初めに、扶桑化学の海外IRの話が、フロアで回った。

◇

IRというのは、投資家向けの説明の活動である。

会社の経営陣が、株を持っている投資家や、これから持つかもしれない投資家に会って、会社の中身を説明する。決算の数字。事業の見通し。お金の使い道。

海外IRは、それを海外の機関投資家を相手にやる。経営陣が、ニューヨークや、ロンドンや、香港に出かけていって、向こうの投資家を一件ずつ回る。

十月に、扶桑化学のCFOが、ニューヨークに一週間行く。案件があるわけではない。ノンディールのIR、と呼ぶ。株を出す予定があるから説明に行くのではなく、日頃から理解を深めてもらうために行く。

その一週間、東雲証券から、担当者が一人、ベタ付きになる。

経営陣の予定を組み、移動を手配し、面談に同席し、議事録を書く。朝から晩まで、一週間、経営陣の横にいる。

扶桑化学の担当の班は、その月、別の案件で人が足りなかった。

誰か、手を挙げる人間はいないか、と、MDの一人が、フロアの朝の打ち合わせで言った。

◇

井坂は、手を挙げた。

動機は、不純だった。

海外出張に、行ってみたかった。

入社して五年、井坂は、一度も海外に行ったことがなかった。福浦の支店の人間は、海外に出張しない。東京の本社の人間も、全員が行くわけではない。企業金融部の人間は、海外の案件があれば行く。井坂は、この一年、海外の案件についたことがなかった。

手を挙げてから、井坂は、それが扶桑化学の案件であることの意味を、少し考えた。八郎の持っている株である。福浦の客たちの、孫のための株である。

考えたが、手は下ろさなかった。

MDは、井坂を見て、少し眉を上げた。

「真柴の班の子だよな」

「はい」

MDは、真柴のほうを見た。

真柴は、画面を見たまま、言った。

「いいぞ」

それから、顔を上げずに、付け足した。

「一人で行け」

◇

一人で、というのは、東雲証券から行くのが、井坂一人、という意味だった。

扶桑化学の側からは、CFOと、IRの担当の部長と、課長の三人が行く。東雲証券のニューヨークの現地法人の人間が、面談の手配を手伝う。しかし、一週間ずっと経営陣の横にいるのは、井坂一人である。

その日の夕方、扶桑化学の担当の班のVPが、井坂の席に来た。

四十代の男で、ワイシャツの胸に、細い銀のペンを挿していた。

「手、挙げてくれて助かったよ」

VPは、机の上に、紙の束を一つ置いた。これまでの扶桑化学の海外IRの記録だった。三年分。どの年に、どこの都市の、どの投資家に会ったか。それぞれの面談で、何を訊かれたか。

「全部読んでおいて。去年の担当は、ロンドンで倒れた。三日目に、胃をやられてね。経営陣より先に」

VPは、笑わずに言った。

「だから、一人で行けっていうのは、そういう意味でもある。代わりは、いない」

井坂は、紙の束を受け取った。

VPが去ったあとで、束の一枚目を開いた。去年の記録だった。三日目の予定の欄に、担当者の名前が線で消してあって、横に、現地法人の人間の名前が手書きで入っていた。

井坂は、それを聞いて、自分の席に戻った。

A4を開いた。

一枚目の、この部署で言われたことを書くページは、もう三枚目まで続いていた。その三枚目の、いちばん下に書いた。

「一人で行け」

それから、その下に、何を書けばいいのかを考えた。

何をすればいいのか、分からなかった。

予定を組む。移動を手配する。面談に同席する。議事録を書く。それは、言われた。言われたことは、できる。

しかし、それだけで、一週間、経営陣の横にいる、ということになるのかどうかが、分からなかった。

◇

その夜、井坂は、扶桑化学の有価証券報告書を読んだ。

百八十ページ。事業の内容、設備の状況、経営の方針、財務の数字。

役員の状況のページに、CFOの名前があった。

岩城康之。

生年と、経歴が書いてある。国立大学の工学部を出て、扶桑化学に入社。工場に十年、経営企画に八年、海外の子会社の社長を五年。財務の担当の役員になって、三年目。

写真は、なかった。

井坂は、その経歴を、A4に写した。

写してから、それが何の役に立つのか、分からなかった。

経歴は、面談の相手の投資家が、岩城に訊くことかもしれない。訊かれたら、岩城が答える。井坂が答えることではない。

井坂は、それでも、写した。

経歴の最後に、趣味の欄はなかった。

有価証券報告書には、趣味は書かない。好きな食べ物も、書かない。

福浦の手帳には、それを書いていた。八郎は、甘いものを食べない。辛いものも食べない。酒は、夕方の四時から。房江は、朝ドラを必ず見る。だから、朝の八時から八時十五分のあいだに、電話をかけてはいけない。

岩城について、井坂が知っていることは、百八十ページの中の、九行だけだった。

写したものを、もう一度読んだ。

工場に十年。

八郎の話を思い出した。鳴海精機が、扶桑化学に部品を納めている、という話である。八郎は、それを自慢にしていた。扶桑の工場の、ある装置の中に、うちの部品が入っとる。

それは、壁の向こう側の話だった。

井坂は、A4を閉じた。

16 極意

何をすればいいか、分からなかった。

それで、訊いて回ることにした。

フロアには、経営陣との関係づくりがうまい、と評判の人間が何人かいる。MDの一人。別の班のVP。それから、今は別の部署にいるが、以前この部署で海外IRのベタ付きを何度もやった、という先輩。

井坂は、その一人ずつに、時間をもらった。

訊いたことは、一つだけだった。

「海外IRで、経営陣に一週間ついたとき、何をすればいいですか」

◇

MDは、少し考えてから言った。

「アメ玉」

井坂は、ペンを止めた。

「アメ玉、ですか」

「移動の車の中で、渡すんだよ。のど飴。一日に五件も六件も面談して、同じ話を英語でするんだ。喉がやられる。飴があると助かる」

井坂は、書いた。アメ玉。のど飴。移動の車の中で。

「それだけですか」

「それだけ」

MDは、それだけ言って、画面に戻った。

◇

別の班のVPは、こう言った。

「みそ汁」

井坂は、もう、驚かなかった。

「インスタントのやつ。一食分ずつ、小分けにして、ジップロックに入れて持っていく。向こうに着いた夜に、ホテルの部屋で飲んでもらう。部屋に電気ケトルがあるから、お湯は沸かせる」

「みそ汁」

「向こうの飯は、三日で飽きる。四日目に、みそ汁があると、ほっとする。経営陣って、だいたい五十代、六十代だからね」

井坂は、書いた。みそ汁。インスタント。小分け。ジップロック。四日目。

◇

以前この部署にいた先輩は、社員食堂で、昼を食べながら話してくれた。

「部屋割り表」

「部屋割り表」

「ホテルの、誰がどの部屋か、っていう表。経営陣と、会社の側の随行と、うちの人間の、部屋番号を一枚の紙にまとめておく。夜中に何かあったとき、すぐに誰かの部屋に行けるように」

「はい」

「あと、移動時間を伝えること。次の面談まで、車で何分か。それを、面談が終わるたびに、経営陣に言う。そうすると、向こうが、トイレに行く時間とか、休む時間とかを、自分で組み立てられる」

「移動時間」

「あと、おすすめのメニュー。面談のあとで昼を食べる店とか、夜の店とか。それぞれ、何がおいしいかを、事前に調べておく。経営陣がメニューを見て迷ったときに、これがおすすめです、って言えるように」

先輩は、それだけ話して、うどんを食べ終えた。

◇

井坂は、席に戻って、A4を見返した。

アメ玉。みそ汁。部屋割り表。移動時間。おすすめのメニュー。

拍子抜けした。

投資家の前で、何を話すべきか。経営陣に、どんな情報を事前に伝えるべきか。面談のあとで、投資家の反応をどうまとめるべきか。井坂が訊きたかったのは、そういうことだった。

誰も、そういうことは言わなかった。

井坂は、A4のそのページを、しばらく見ていた。

それから、全部を用意することにした。

◇

のど飴は、会社の近くのドラッグストアで、三種類買った。はちみつ味と、ハーブ味と、梅味。どれを好むのかが、分からなかったからである。それぞれ、二袋ずつ。

みそ汁は、インスタントの、フリーズドライのものを選んだ。お湯を注ぐだけで、ちゃんとした形の具が戻る。赤だしと、合わせと、白の三種類。一食ずつ、ジップロックに入れた。岩城の分と、IRの部長の分と、課長の分と、予備を合わせて、二十四袋。

部屋割り表は、ニューヨークの現地法人から、ホテルの予約の確認をもらってから作った。A4の紙一枚に、六人の名前と、部屋番号と、携帯の番号。それを、人数分と、予備で十枚刷った。

移動時間は、面談の場所の一覧をもらってから、地図で一つずつ調べた。車で何分か。朝と、昼と、夕方で、道の混み具合が違う。それも調べた。

おすすめのメニューは、面談の合間に昼を食べる予定の店と、夜の会食の店、それぞれのホームページのメニューを読んで、評判を調べて、書き出した。

全部で、一週間かかった。

その一週間、井坂は、ほかの仕事も、いつも通りやった。鳴海精機の上場の準備の打ち合わせも、二回あった。夜の二時に帰って、朝の七時に会議に出た。

◇

出発は、十月の第二週の日曜だった。

前の夜、土曜の十一時に、井坂は部屋で、スーツケースに荷物を詰めていた。

スーツが三着。ワイシャツが七枚。ネクタイが五本。靴が二足。それから、のど飴の袋と、みそ汁のジップロックの束と、部屋割り表の紙の束。

スーツケースは、この出張のために買ったものだった。

携帯が、震えた。

自分の携帯だった。

画面に、野々村の名前が出ていた。メッセージである。

井坂は、それを開いた。

「福浦、今日初霜です」

それだけだった。

写真も、何もなかった。

井坂は、その一行を読んだ。

十月の第二週で、初霜は、早い。福浦でも、例年なら十一月に入ってからである。

野々村は、井坂が明日からニューヨークに行くことを、知らない。井坂は、誰にも言っていなかった。支店の人間にも、野々村にも。

知らないで、送ってきている。

仕事と関係のない、一行だった。

井坂は、画面を見ていた。何か返そうと思った。

窓の外を見た。

東京の窓の外に、霜は降りていなかった。

井坂は、画面を閉じた。

返信は、しなかった。

スーツケースの蓋を、閉めた。

翌朝、成田に向かう電車の中で、井坂は、もう一度、野々村のメッセージを開いた。

「福浦、今日初霜です」

井坂は、その一行の下に、何も書かれていない白い画面を見た。

画面の上のほうに、これまでのやりとりが残っていた。春の、枇杷の写真。「鳴海さんから。井坂さんの分、食べときました」。井坂は、それにも返信していなかった。

野々村から来たメッセージが、二つ。井坂から送ったものは、なかった。

電車が、トンネルに入った。

画面が、窓に映った。

井坂は、画面を閉じた。

17 アメ玉

ニューヨークに着いたのは、日曜の夕方だった。

十四時間の飛行機のあとで、井坂は、空港から、現地法人が手配した車で、マンハッタンのホテルに向かった。

扶桑化学の三人は、同じ便の、前のほうの席に乗っていた。井坂は、後ろのほうの席だった。

空港の到着口で、初めて、岩城の顔を見た。

◇

岩城康之は、五十代の後半に見えた。

背は高くない。細身で、グレーのスーツに、紺のネクタイ。髪は、ほとんどが白い。眼鏡は、細い金属の縁で、レンズが薄い。

表情が、変わらなかった。

飛行機を降りたばかりの人間の顔ではなかった。十四時間、座っていたようには見えない。朝、自宅を出てきたばかりのような顔をしていた。

井坂は、名刺を渡した。

岩城は、それを受け取って、一度だけ見た。それから、スーツの胸ポケットに入れた。

「よろしく」

それだけ言った。

井坂の名前は、呼ばなかった。

◇

月曜の朝から、面談が始まった。

一日に四件から五件。場所は、マンハッタンのミッドタウンと、ダウンタウンに散らばっている。投資家の会社の会議室に、岩城と、IRの部長と、井坂が行く。課長は、ホテルに残って、東京との連絡を受け持つ。

移動は、車である。

現地法人が手配した黒い車で、運転手は、中南米の出身の男だった。英語で話す。後部座席に、岩城と、IRの部長が座る。井坂は、助手席に座る。

面談が終わると、車に乗る。

車が動き出すと、井坂は、助手席から振り返って、次の投資家の説明をする。

投資家の会社の名前と、規模。運用している資金の額。扶桑化学の株を持っているかどうか。持っているなら、何株。これまでに、扶桑化学の経営陣と会ったことがあるかどうか。あるなら、そのときに何を訊いたか。今回、何を訊いてきそうか。

全部、A4に書いてある。現地法人と、東京の扶桑化学の担当の班から集めたものである。

井坂は、それを、A4を見ずに言った。

前の晩に、ホテルの部屋で、全部を覚えた。

岩城は、それを、窓の外を見ながら聞いていた。

◇

説明が終わると、井坂は、鞄から、のど飴の袋を出した。

はちみつ味と、ハーブ味と、梅味。三つを、手のひらに載せて、後部座席に差し出した。

岩城は、それを、一度見た。

それから、梅味を一つ取った。

礼は、言わなかった。

包みを開けて、口に入れた。

窓の外を、また見た。

IRの部長が、はちみつ味を一つ取って、「ありがとう」と言った。

井坂は、残りの袋を、鞄に戻した。

◇

面談は、どれも一時間だった。

投資家の会社の会議室は、どれも似ていた。ガラスの壁と、長い机と、窓の外の高層ビル。机の上に、水のボトルと、グラス。

岩城は、同じプレゼンをした。

扶桑化学の事業の説明。四つの事業部門。それぞれの売上と利益。海外の比率。今後の成長の見通し。お金の使い道。配当の方針。

英語だった。岩城の英語は、ゆっくりで、はっきりしていた。発音は、日本の英語だった。

投資家の質問は、速かった。

早口の英語で、数字を並べて、一つの質問の中に、三つの問いを詰めてくる。岩城は、それを、一度だけ聞いて、一つ目の問いから順に答えた。答える前に、必ず、質問を短く言い直した。あなたの質問は、三つあると理解している。一つ目は、何。二つ目は、何。三つ目は、何。

言い直された質問は、元の質問より、少しだけ易しくなっていた。

易しくなっているのに、投資家は、誰も、それに異を唱えなかった。

井坂は、議事録に、元の質問と、岩城が言い直した質問を、両方書いた。

書きながら、福浦の窓口の、老眼鏡の籠を思い出した。客が、書類の字が読めないと言う。井坂は、籠から老眼鏡を一本出して、渡す。それから、書類の、読んでほしいところを、指で押さえる。全部は読まなくていい。ここと、ここ。

プレゼンの、ちょうど真ん中あたりで、岩城は、同じ冗談を言った。

四つの事業部門のうちの一つが、接着剤を作っている部門である。その部門の説明をするときに、岩城は、少しだけ間を置いて、言う。

「This division is what keeps our company together」

接着剤の部門が、会社を一つにまとめている。

投資家は、少し笑う。笑わない投資家もいる。

井坂は、笑った。

◇

一日に、五回、同じプレゼンを聞いた。

五回とも、同じ箇所で、同じ冗談を言った。

井坂は、五回とも、笑った。

一回目は、面白いと思ったから笑った。二回目は、一回目と同じだと思いながら笑った。三回目は、笑うべきところだから笑った。

四回目の面談の、同じ箇所で、岩城が冗談を言った。

井坂は、笑った。

投資家は、笑わなかった。

岩城が、プレゼンの資料から目を上げて、井坂を見た。

一秒か、二秒だった。

表情は、変わらなかった。

それから、岩城は、資料に目を戻して、次のページに進んだ。

井坂は、ペンを持ったまま、議事録を書き続けた。

◇

五回目の面談の、同じ箇所で、岩城が冗談を言った。

井坂は、笑った。

岩城は、今度は、井坂を見なかった。

◇

二日目も、三日目も、同じだった。

一日に五回、同じ冗談を聞いて、五回笑う。一週間で、二十回を超えた。

笑うたびに、井坂は、自分の笑い方が、少しずつ変わっていくのに気づいた。一回目は、声が出た。十回目には、息だけになった。二十回目には、口の端が上がるだけになった。

それでも、笑うのをやめなかった。

やめたら、岩城が気づくと思った。

気づいて、何を思うのかは、分からなかった。分からないから、やめなかった。

◇

その夜、ホテルの部屋で、井坂は、その日の五件の議事録を打った。

投資家が何を訊いたか。岩城が何と答えたか。投資家の反応。

一件ずつ、A4から画面に打ち直した。

冗談のことは、書かなかった。

議事録に書くことではない。

書き終えたのは、夜中の一時だった。東京は、昼の二時である。井坂は、議事録を、東京の扶桑化学の担当の班と、真柴に送った。

それから、ベッドに横になった。

天井を見た。

四回目の面談で、岩城が井坂を見た、あの一秒か二秒のことを考えた。

何を見ていたのかは、分からなかった。

◇

東京への報告は、毎晩、送らないといけなかった。

その日の面談の、全部の議事録。投資家ごとに、関心を持った点と、懸念を示した点。それを英語と日本語の両方で。英語のほうは、ニューヨークの現地法人と、ロンドンの販売の担当に回る。日本語のほうは、東京の扶桑化学の担当の班と、扶桑化学のIRの部に回る。

締め切りは、東京の翌日の始業まで。

面談は、夕方の五時まで続く。そのあと、会食がある日もある。

井坂は、面談と面談のあいだの車の中で、英語の議事録を打った。助手席で、膝の上のパソコンに。岩城の前で、キーボードの音をさせないように、指の力を抜いて打った。

英語の議事録は、日本語の議事録より、三倍時間がかかった。投資家の言ったことを、そのまま書くと、長すぎる。短くすると、意味が変わる。

二日目の夜、ロンドンの担当から、返信が来た。

「Please be specific. Which investor asked which question? "Some investors" is not useful」

いくつかの投資家が、と書いたところを、全部、名前に直した。

三日目の面談で、投資家の一人が、岩城ではなく、井坂のほうを向いて、英語で訊いた。

東雲証券は、扶桑化学の資本コストをいくらと見ているのか。

井坂は、答えようとして、言葉が出なかった。数字は、知っていた。前の晩に、東京から送られてきた資料で読んでいた。英語で、その数字の前提を説明する言葉が、出てこなかった。

三秒たった。

岩城が、横から、英語で答えた。東雲証券の見方ではなく、扶桑化学自身の見方として。

面談が終わって、車に乗ったとき、岩城は、何も言わなかった。

井坂は、その夜、資本コストの前提を、英語で三通り、書いて覚えた。

それを使う機会は、その週、もう来なかった。

18 みそ汁

一日目の夜、ホテルに戻ったのは、夜の八時だった。

夕方の会食が、予定より早く終わった。投資家の側の都合だった。

ホテルのロビーで、エレベーターを待っているとき、井坂は、鞄から、ジップロックの束を出した。

一食分ずつ、小分けにしたインスタントのみそ汁である。赤だしと、合わせと、白。

井坂は、その束から、五袋を取った。五晩分である。赤だしが二つ、合わせが二つ、白が一つ。

それを、岩城に差し出した。

「お部屋に、電気ケトルがあります。お湯を沸かして、注ぐだけです。一晩に、一つずつ」

岩城は、それを見た。

受け取った。

何も言わなかった。

エレベーターが来た。岩城は、IRの部長と一緒に乗り込んだ。井坂は、次のエレベーターを待った。

IRの部長の五袋は、部長が部屋に入る前に、廊下で渡した。部長は、「助かるなあ」と言った。課長の五袋は、ホテルの部屋の扉の下から、封筒に入れて差し入れた。

◇

翌朝、ロビーで、岩城と会った。

朝の七時半だった。一件目の面談は、九時からである。車は、八時にホテルの前に来る。

岩城は、ロビーのソファに座って、新聞を読んでいた。英語の新聞の、経済の面である。

井坂は、「おはようございます」と言った。

岩城は、新聞から目を上げて、少しだけ頷いた。

それだけだった。

井坂は、ソファの向かいに座って、鞄の中を確かめた。のど飴の袋。部屋割り表。今日の面談の資料。

みそ汁のジップロックの束。

井坂は、その束を、手に取った。

二十四袋から、昨日の夜に、三人に五袋ずつを渡した。残りは、予備の九袋である。

数えた。

九袋あった。

井坂は、それを鞄に戻した。

戻してから、気づいた。

井坂が知りたいのは、岩城の部屋の三袋が、減ったかどうかだった。

岩城が、昨日の夜、ホテルの部屋で、みそ汁を飲んだかどうか。

それは、井坂の手元の袋を数えても、分からない。井坂の手元の袋は、減っていない。減っていないのは、当たり前である。渡した分は、もう井坂の手元にはない。

岩城の部屋の五袋が、四袋になっているかどうか。

確かめる方法は、なかった。

岩城に訊くことは、できない。「みそ汁、飲みましたか」と訊くのは、何かを求めているように聞こえる。井坂は、何も求めていなかった。

求めていなかった、と思う。

井坂は、岩城のほうを見た。

岩城は、新聞を読んでいた。

顔色は、昨日と変わらなかった。

◇

二日目の面談は、五件だった。

車の中で、次の投資家の説明をして、のど飴を差し出す。岩城は、梅味を一つ取る。礼は言わない。

同じプレゼンを五回聞く。同じ冗談を五回聞く。井坂は、五回笑う。

岩城は、二日目は、一度も井坂を見なかった。

昼食は、面談と面談のあいだに、ミッドタウンのサンドイッチの店で取った。

井坂は、前の晩に、その店のメニューを調べてあった。

岩城が、壁のメニューの黒板を見上げて、少しだけ眉を寄せた。料理の名前が、手書きの英語で、三十ほど並んでいる。

「ターキーとアボカドのものが、この店でいちばん出ているそうです。パンは、ライ麦を選ぶ人が多いと」

井坂は、そう言った。

岩城は、黒板から目を下ろして、井坂を見た。

それから、店の人間に、ターキーとアボカドのものを、ライ麦で、と言った。

IRの部長が、「じゃあ、僕も同じの」と言った。

岩城は、サンドイッチを、半分だけ食べた。残りの半分を、紙に包んで、鞄に入れた。

その半分がどうなったのかを、井坂は、知らない。

◇

三日目の夜、井坂は、ホテルの部屋で、議事録を打っていた。

打ち終えて、東京に送った。夜中の十二時半だった。

ベッドに腰掛けて、自分の携帯を出した。

メッセージのアプリを開いた。

いちばん上に、野々村の名前があった。最後のメッセージは、「福浦、今日初霜です」。出発の前の晩に、届いたものである。井坂は、返信していなかった。

その下の、文字を打つ欄に、指を置いた。

何を打つのかは、決めていなかった。

指が、動いた。

「ニューヨークのみそ汁は、」

そこまで打って、止まった。

その続きを、考えた。

ニューヨークのみそ汁は、東京のみそ汁と同じ味がする。当たり前である。日本で買って、持ってきたものだから。

ニューヨークのみそ汁は、誰が飲んだのか分からない。

ニューヨークのみそ汁は、

井坂は、画面を見ていた。

窓の外で、救急車のサイレンが、長く鳴っていた。

ニューヨークの救急車のサイレンは、東京のものと、音が違う。高くて、途中で音の形が変わる。一台が通り過ぎると、しばらくして、もう一台が通る。

福浦の夜は、静かだった。

サイレンが鳴るのは、港で何かあったときだけで、そういう夜は、翌朝、支店の誰かが、何があったのかを知っていた。

福浦の、初霜のことを考えた。十月の第二週の、朝の港。岸壁のコンクリートの上に、白いものが薄く降りている。野々村は、それを、出勤の途中に見たのだろう。自転車を漕ぎながら。

井坂は、打った文字を、一字ずつ消した。

「、」を消して、「は」を消して、「汁」を消して、「そ」を消して、「み」を消して、「の」を消して、「ク」を消して、「ー」を消して、「ヨ」を消して、「ュ」を消して、「ニ」を消した。

画面は、空になった。

井坂は、携帯を、ベッドの脇の机に置いた。

明かりを消した。

19 十五分

面談と面談のあいだは、三十分しかないことが多かった。

一時間の面談が終わる。車に乗る。次の投資家の会社まで、車で十分か、十五分か、二十分。着いて、受付で名前を言って、エレベーターで上がって、会議室に通される。その間に、また十分。

合わせると、三十分は、ぎりぎりである。

井坂は、それを、岩城に伝えるときに、少し変えた。

「次の移動は、十五分です」

実際に、車で十五分の場所のときは、そう言った。車で十分の場所のときも、十五分と言った。車で二十分の場所のときは、二十分と言った。

十分の場所を十五分と言うのは、嘘ではない。受付から会議室までの時間を足せば、十五分になる。

◇

移動の時間を言うと、岩城は、それを聞いて、自分の時間を組み立てた。

十五分と言われると、車に乗って最初の五分は、窓の外を見ている。それから、次の投資家の説明を井坂から聞く。聞き終わると、のど飴を一つ取る。目を閉じる。着く三分前に、目を開ける。

着いて、エレベーターに乗る前に、岩城は、ロビーの化粧室に寄る。

二十分と言われると、車の中で、少し長く目を閉じる。

井坂は、それを、二日目の午後に気づいた。

岩城は、井坂の言う時間を、そのまま信じていた。信じて、その中で、休む時間と、化粧室に行く時間を、自分で組み立てていた。

井坂が十五分と言えば、岩城は十五分の中で動く。

それから井坂は、移動の時間を言うときに、前よりも慎重になった。十分の場所を、十五分と言う。それは、変えなかった。変えたのは、その十五分の中身を、前の晩に一度ずつ、地図で確かめるようになったことである。

三日目の朝、車に乗る前に、岩城が、初めて自分から口を開いた。

「今日の二件目と三件目のあいだは、何分」

井坂は、A4を見ずに答えた。

「十五分です」

岩城は、頷いた。

それだけだった。

その日の二件目と三件目のあいだは、車で九分の距離だった。井坂は、それを、前の晩に地図で確かめていた。九分に、受付と、エレベーターと、化粧室の分を足して、十五分と言った。

岩城は、その日、三件目の前に、ロビーの化粧室に寄った。出てきたとき、ネクタイの結び目が、少しだけ直っていた。

◇

四日目の午後、ある投資家が、資本政策について訊いた。

資本政策というのは、会社が、株や借入れで、どうお金を集めて、どう使うか、という方針のことである。株を出してお金を集めるのか。借りて集めるのか。集めたお金で、何をするのか。自社の株を買い戻すのか。配当を増やすのか。

その投資家は、扶桑化学の手元の現金が、この二年で増えていることを指摘した。増えた現金を、何に使うのか。大きな買収を考えているのか。そのために、株を出すことを考えているのか。

岩城は、プレゼンの資料から目を上げた。

少し間を置いて、答えた。

答えは、一般論だった。成長のための投資の機会は、常に検討している。資本の効率性は、重要な経営課題と認識している。株主への還元とのバランスを考えながら、最適な資本構成を目指す。

質問に、答えていなかった。

投資家は、それ以上、訊かなかった。

岩城は、次のページに進んだ。

◇

井坂は、議事録を取りながら、手を止めた。

岩城が、答えずに流した。

それを、議事録に書くかどうか。

議事録には、投資家が何を訊いて、岩城が何と答えたかを書く。答えずに流した、ということは、岩城が何と答えたか、ではない。井坂がどう聞いたか、である。

書けば、それを読んだ東京の人間は、岩城が何かを隠している、と読むかもしれない。

書かなければ、議事録は、一般論の答えを、そのまま答えとして残す。

井坂は、ペンを持ったまま、三秒ほど考えた。

書いた。

「資本政策について質問あり。岩城CFOは一般論で回答。具体的な言及なし」

それだけにした。

流した、とは書かなかった。具体的な言及なし、と書いた。

それが、事実だった。

◇

最終日は、金曜だった。

午前に二件、午後に三件の予定だった。

午前の二件目が終わったとき、現地法人の担当から、井坂の携帯に電話が来た。午後の一件目の投資家が、急な都合で、面談をキャンセルしたい、という。

一時間、空いた。

井坂は、それを岩城に伝えた。

岩城は、少し考えてから、ホテルに戻る、と言った。部屋で少し休む。午後の二件目の前に、ロビーで会う。

車で、ホテルに戻った。

岩城と部長は、エレベーターで上がった。

井坂は、ロビーに残った。

◇

一時間の、使い道がなかった。

部屋に戻っても、することはない。議事録は、昼の分を打ち終えている。東京は、夜中である。

井坂は、ホテルの外に出た。

歩いた。

十月のニューヨークは、東京より少し寒かった。空気が乾いている。通りの両側に、背の高いビルが並んでいて、その隙間から、青い空が、細く見える。

二ブロック歩いたところで、角を曲がった。

少し細い通りだった。小さな店が並んでいる。パン屋、花屋、古本屋、靴の修理屋。

その並びの中に、宝飾店があった。

間口の狭い店で、ショーウィンドウに、ネックレスと指輪と時計が、少しずつ並べてある。店の名前が、ガラスに、金色の細い字で書いてある。

井坂は、その前で、立ち止まった。

しばらく、ショーウィンドウを見ていた。

それから、扉を押して、中に入った。

◇

店を出たのは、二十分後だった。

手に、小さな紙袋を持っていた。

紙袋は、白い厚手の紙で、手のひらに載るほどの大きさだった。持ち手が、紺のリボンになっている。側面に、店の名前のロゴが、金色で刷ってあった。細い字の、筆記体である。

井坂は、それを、鞄の中に入れた。

ホテルに戻った。

ロビーのソファに座って、午後の二件目の資料を、もう一度読んだ。

十五分後に、岩城がエレベーターから降りてきた。

◇

午後の二件の面談が、終わった。

夜は、会食もなかった。最後の夜なので、扶桑化学の三人は、ホテルの近くの日本料理の店に行く、と言った。井坂は、誘われなかった。誘われなかったことに、井坂は少し安堵した。

翌朝、空港に向かった。

帰りの飛行機で、井坂は、窓際の席に座った。

離陸して、一時間ほどしたころ、鞄の中を整理した。

のど飴の袋が、三種類。それぞれ、半分くらいに減っていた。梅味が、いちばん減っていた。

みそ汁のジップロックの束。予備の九袋が、そのまま残っていた。一袋も、減っていなかった。自分では、飲まなかった。

それから、部屋割り表の紙の束が出てきた。

十枚。

一枚も、使っていなかった。

井坂は、それを見て、気づいた。

部屋割り表は、要らなかった。

夜中に何かあったとき、誰がどの部屋にいるかを知るための表である。しかし、夜中に何かあったら、携帯で電話をすればいい。全員が、携帯を持っている。部屋番号を知っている必要は、なかった。

井坂は、十枚の紙を、束のまま、鞄の中に戻した。

捨てなかった。

鞄の中には、宝飾店の紙袋も入っていた。

それも、そのままにした。

◇

東京に着いたのは、日曜の夕方だった。

部屋に帰ったのは、夜の八時だった。

井坂は、スーツケースを床に置いて、鞄を机の上に置いた。

鞄を開けて、紙袋を出した。

白い厚手の紙の、紺のリボンの持ち手の、金色のロゴ。

井坂は、それを、しばらく手に持っていた。

それから、机のいちばん上の引き出しを開けた。

手のひらの手帳が、入っている。三月に、そこにしまったものである。黒い革の表紙の角が、少し丸い。

井坂は、紙袋を、その手帳の隣に置いた。

引き出しを、閉めた。

20 壁

一月の第二週に、扶桑化学が、海外の企業を買うことを決めた。

決めた、というのは、扶桑化学の取締役会が、買収の交渉を最終の段階に進めることを決めた、という意味である。まだ、どこにも発表していない。発表するのは、買収の契約が結ばれた日である。その日は、二月の半ばになる予定だった。

買う相手は、欧州の化学の会社である。特殊な樹脂を作っていて、扶桑化学の事業と重なるところがある。買う値段は、扶桑化学の時価総額の、四分の一ほどになる。

その資金の一部を、扶桑化学は、株を新しく出して集める。

公募増資、という。

井坂は、その案件のチームに入った。

◇

チームに入るとき、井坂は、コンプライアンスの部署に呼ばれた。

十一階の、窓のない会議室だった。机の向こうに、コンプライアンスの担当が二人座っていた。

「今日から、井坂さんは、扶桑化学の未公表の重要事実を知る立場になります」

担当の一人が、紙を一枚、机の上に置いた。

「こちらに、署名をお願いします」

紙には、井坂の名前と、社員番号と、今日の日付と、案件の符丁が印刷されていた。案件の符丁は、英語の単語一つだった。扶桑化学という名前は、どこにも書いていなかった。

井坂は、署名した。

「インサイダー登録簿に、お名前を載せました。今日から、案件が公表されるまで、扶桑化学の株を売買することはできません。ご家族の口座も、同じです。それから、この案件について、チームの外の人間と話すことはできません。社内の人間も、同じです」

「はい」

「情報の壁の、内側に入った、ということです」

担当は、それだけ言って、次の紙を出した。守るべきことの一覧で、十二項目あった。井坂は、それを一つずつ読んで、最後に、また署名をした。

◇

担当は、それから、井坂の個人の口座のことを訊いた。

井坂は、入社のときに会社の決まりで作った口座を一つ持っていた。中身は、社員持株会の株と、投資信託が少しだけだった。扶桑化学の株は、持っていなかった。

「ご家族は」

「両親が、北陸に」

「ご両親の口座に、扶桑化学の株は」

井坂は、少し考えた。

父は、株を持たない人だった。母は、持っているかもしれない。地元の銀行で勧められて、何かを買ったと、いつか電話で言っていた。何を買ったのかは、聞かなかった。

「分かりません」

担当は、それを紙に書いた。

「確認して、明日までに報告してください。持っていらしたら、公表まで、売買を控えていただくようお願いすることになります」

その夜、井坂は、母に電話をかけた。

母は、夜の十時に、起きていた。

「お母さんの持ってる株、何」

母は、驚いたようだった。息子から、株の話を訊かれたのは、初めてだった。

電話の向こうで、引き出しを開ける音がした。

「銀行の人が、いいって言った投資信託と。あと、電力の株」

扶桑化学は、なかった。

「なんで、そんなこと訊くの」

「会社の決まり」

母は、それ以上、訊かなかった。

「ちゃんと食べてるの」

「食べとるよ」

電話を切ってから、井坂は、自分が母に言った言葉が、家の言葉ではなかったことに気づいた。

◇

情報の壁の内側、というのは、場所のことでもあった。

チームの人間は、フロアの一角の、ガラスで仕切られた部屋で仕事をする。扉は、社員証で開く。開けられるのは、登録簿に名前のある人間だけである。

部屋の中には、机が十と、ホワイトボードが二枚と、シュレッダーが一台あった。

ホワイトボードには、何も書いていなかった。書いたものは、その日のうちに消す、と言われた。

井坂は、その部屋の、いちばん入口に近い机を割り当てられた。

◇

チームは、扶桑化学の担当の班と、株式の部署の人間と、債券の部署の人間と、法務の人間でできていた。真柴は、入っていなかった。仁科が、株式の部署との橋渡しで入っていた。

最初の打ち合わせで、株式の部署の人間が、段取りを説明した。

発表の前に、機関投資家の何社かに、事前に話を持ちかける。これだけの規模の株を出すとき、買ってくれる投資家がいるかどうかを、先に確かめておかないと、発表したあとで売れ残る危険がある。

その、事前に話を持ちかけることを、ウォールクロスと呼ぶ。

投資家を、壁のこちら側に越えさせる、という意味である。

「越えた投資家は、発表まで、扶桑化学の株を売買できなくなる。それを承知の上で、話を聞くかどうかを、最初に訊く」

株式の部署の人間は、ホワイトボードに、一行だけ書いた。

「これから未公表の情報をお伝えします。お受けになりますか」

「電話の最初に、必ずこれを言う。一字も変えない。相手が、受けます、と言うまで、銘柄の名前は出さない。受けない、と言われたら、そこで切る」

井坂は、それを、A4に書き写した。

一字も変えずに。

◇

打ち合わせが終わったあと、チームの古参の男が、ホワイトボードの前で、その一行を見ていた。

株式の部署に、もう二十年以上いる、と聞いていた。五十代の半ばで、髪が薄い。

男は、ホワイトボードの字を指で叩きながら、言った。

「昔は、銘柄を言うときに、噂だが、って付ければいいと思われてたんだよな」

誰も、笑わなかった。

男も、笑っていなかった。冗談のつもりで言ったのか、そうでないのか、井坂には分からなかった。男は、それだけ言って、ホワイトボードの字を消した。

部屋の中は、しばらく静かだった。

誰かが、キーボードを叩き始めた。それで、元に戻った。

◇

その日の夜、部屋に仁科と二人だけになったときに、井坂は訊いた。

「さっきの、噂だが、っていうのは」

仁科は、画面を見ていた。

少しして、画面から目を離さずに、言った。

「十年以上前に、増資のときの情報で、何件か処分が出たの。証券会社の人間が、発表前の増資の話を、投資家に漏らした。投資家が、それで空売りした」

「はい」

仁科は、キーボードを叩いて、画面に何かを出した。

それから、手元の付箋に、何かを書いて、井坂の机の上に貼った。

番号だった。

当局の、処分の文書の番号。三つ。

「読んどいて」

仁科は、それだけ言って、画面に戻った。

井坂は、その付箋を見た。

それから、画面で、その番号を一つずつ検索した。

◇

処分の文書は、どれも十ページ前後だった。

誰が、いつ、誰に、何を伝えたか。伝えられた側が、何をしたか。その結果、いくらの利益を得たか。当局は、それをどう判断したか。

文書の中に、証券会社の人間が、投資家に電話で話した言葉が、そのまま引用されていた。

銘柄の名前は、出していなかった。出していないが、業種と、規模と、時期で、分かるように話していた。聞いた側は、分かっていた。

噂だが、という言葉は、文書の中にはなかった。

井坂は、三つの文書を、全部読んだ。

読み終えたのは、夜中の一時だった。

誰も笑わなかった理由が、分かった。

付箋は、机から剥がして、シュレッダーにかけた。部屋の中で書いたものは、その日のうちに消す。

番号は、覚えていた。

◇

部屋の中の、ホワイトボードは、その日も、夜の十一時に、誰かが消した。

消したあとで、ボードの隅に、うっすらと、昼に書かれた一行が残っていた。

「これから未公表の情報をお伝えします。お受けになりますか」

消し残しだった。

井坂は、ボード消しを手に取って、その一行を、もう一度、上から消した。

消えた。

ボードは、白くなった。

21 需要

発表までの一か月、部屋の中の仕事は、積み上げることだった。

株を、どれだけの規模で出すか。国内の投資家と、海外の投資家に、どう分けて売るか。一緒に売る証券会社を、どこにするか。

証券会社は、一社で全部の株を売るわけではない。何社かで組んで、手分けして売る。その組を、引受シンジケートと呼ぶ。東雲証券が、その中心になる。国内の分は、東雲証券と、ほかに国内の三社。海外の分は、東雲証券の海外の現地法人と、外資系の二社。

井坂は、その組を作るための書類を揃えた。

どの社が、どれだけの株を引き受けるか。引き受けた株が売れ残ったら、どの社が、どれだけを持つか。手数料を、どう分けるか。

海外で株を売るための書類もあった。英語の書類で、国内の書類の十倍の厚さがある。海外の法律事務所が作る。井坂は、その書類の、日本語の書類と重なるところを、一行ずつ突き合わせた。数字が一つでもずれていたら、直す。

一日に、二百ページ読んだ。

◇

海外の分の書類は、海外の法律事務所との電話で、一行ずつ詰める。

ドラフティング・セッション、と呼んでいた。

ニューヨークの弁護士と、ロンドンの弁護士と、東京の弁護士と、東雲証券と、扶桑化学の財務の担当が、同じ電話につながる。画面に、同じ書類が映る。一行ずつ読んで、直すところを言う。

時間は、東京の夜の十時から、朝の二時まで。ニューヨークの朝に合わせてある。

電話は、英語だった。

ニューヨークの弁護士は、速く話した。ロンドンの弁護士は、ゆっくり話したが、言い回しが分からなかった。東京の弁護士は、日本語で考えたことを英語で言うので、ときどき、ニューヨークの弁護士が聞き返した。

井坂の役目は、直しの一覧を作ることだった。誰が、どのページの、どの行を、どう直すと言ったか。電話が終わったら、三十分以内に全員に送る。

一晩で、直しは百二十か所を超えた。

一か所でも漏れると、翌晩の電話の最初に、ニューヨークの弁護士が言う。

「We agreed on this yesterday. Why is it not reflected?」

漏れたのは、最初の晩に、二か所だった。

二晩目から、井坂は、電話を録音する許可を取った。電話が終わってから、録音を聞き直して、自分の一覧と突き合わせた。

終わるのは、朝の四時だった。

七時に、市況の会議に出た。

◇

発表の一週間前から、ウォールクロスが始まった。

株式の部署の人間が、部屋の電話で、投資家に一件ずつかける。井坂は、横で、議事録を取った。

「これから未公表の情報をお伝えします。お受けになりますか」

受けます、と言った投資家には、銘柄と、規模と、時期を伝える。どのくらいの値段なら、どのくらい買うか、を訊く。

受けない、と言った投資家もいた。今は、扶桑化学の株を売買する予定があるから、動けなくなるのは困る、という理由だった。株式の部署の人間は、「承知しました」と言って、切った。

一日に、十五件かけた。

需要は、積み上がっていった。

どの投資家が、どの値段で、どれだけ買う。その一覧を、井坂は、表計算にまとめた。値段ごとに、需要の合計が出る。値段を下げると、需要が増える。値段を上げると、減る。

表計算の数字は、青い字だった。

投資家が、電話で言った数字だからである。

値段を十円下げるごとに、需要がどれだけ増えるか。その増え方は、まっすぐではなかった。ある値段を境に、急に増える。その値段は、市場の値段から、ちょうど三パーセント下のあたりだった。

株式の部署の人間は、それを、「崖」と呼んでいた。

「崖の手前で止まるか、崖の向こうに行くか。それを決めるのが、値決めの夜だ」

井坂は、崖、と書いた。

書いてから、それは、この部署で言われたことなのか、それとも、株式の部署の人間の癖なのかを考えた。

一枚目には、書かなかった。

A4の、いちばん後ろのページに書いた。リーグテーブルのことを書いた、あのページである。

「値段には崖がある」

◇

発表の五日前に、扶桑化学の本社で、打ち合わせがあった。

扶桑化学の側は、岩城と、財務の部長と、IRの部長と、法務の担当。東雲証券の側は、チームの中心の三人と、井坂。

丸の内の本社の、三十二階の会議室だった。窓から、皇居の森が見えた。

井坂は、議事録を取るために、机の端に座った。

岩城が、会議室に入ってきた。

ニューヨークのときと、同じ顔だった。グレーのスーツ。細い金属の縁の眼鏡。表情が、変わらない。

岩城は、席に着く前に、会議室の中を見回した。

井坂のところで、目が止まった。

「井坂さん、でしたね」

井坂は、立ち上がった。

「はい」

岩城は、少しだけ頷いた。

それから、席に着いた。

ニューヨークから、四か月たっていた。

打ち合わせのあいだ、岩城の机の前には、紙が一枚と、ペンが一本と、水のグラスが一つあった。

それから、小さな袋が一つ。

梅の、のど飴だった。

井坂が、ニューヨークで渡したものと、同じ種類の袋だった。封が切ってあって、中身が半分ほど減っていた。

岩城は、打ち合わせの途中で、一度だけ、その袋から一つ出して、口に入れた。

井坂のほうは、見なかった。

◇

打ち合わせは、二時間だった。

発表の日の段取り。発表の文書の文言。株の値段を決める日。その値段から、いくら割り引くか。海外の投資家への説明の場の日程。

岩城は、ほとんど話さなかった。財務の部長が話して、岩城は、ところどころで、一言だけ言った。

「それでいい」

「そこは、変える」

井坂は、その一言ずつを、議事録に書いた。

打ち合わせが終わって、会議室を出るとき、岩城は、井坂の横を通り過ぎた。

何も言わなかった。

井坂も、何も言わなかった。

エレベーターを待っているあいだ、IRの部長が、井坂の横に来た。

「ニューヨークのとき、ありがとうね」

「いえ」

「あの人、梅の飴、あれから自分で買ってるんだよ。会議のときに、机の上に置いてる」

部長は、それだけ言って、笑った。

井坂は、何か言おうとした。

エレベーターの扉が、開いた。

IRの部長は、先に乗り込んで、扉を押さえてくれた。

井坂は、頭を下げて、乗った。

三十二階から、一階まで。

エレベーターの中で、部長は、ニューヨークの話をした。サンドイッチの店の話。ホテルのロビーの話。帰りの飛行機で、岩城が映画を三本見た話。

みそ汁の話は、しなかった。

井坂も、訊かなかった。

一階で、扉が開いた。部長は、「じゃあ、発表の日に」と言って、ロビーを歩いていった。

◇

発表の前の週、部屋の中で、発表の文書の最後の読み合わせがあった。

四十ページを、チームの全員で、一ページずつ声に出して読む。数字は、読み上げた人間とは別の人間が、原典と突き合わせる。

井坂は、二十ページ目から三十ページ目までを読み上げた。

買収する会社の、事業の説明のページだった。欧州の三つの国に工場がある。従業員は、二千人。特殊な樹脂を作っていて、その樹脂は、自動車と、医療の機器と、半導体の装置に使われる。

医療の機器、というところで、井坂は、一度だけ読むのを止めた。

止めたのは、一秒だった。

誰も、気づかなかった。

井坂は、次の行を読んだ。

22 日曜

発表の十日前の週末に、井坂は、福浦へ行った。

一年半ぶりだった。

金曜に有給を一日取って、金土日の三日にした。有給を取るのは、この部署に来てから、初めてだった。真柴に言うと、「おう」とだけ言われた。理由は訊かれなかった。

福浦へ行く理由を、井坂は、誰にも言っていなかった。

自分でも、言えなかった。

◇

金曜の昼に、福浦の駅に着いた。

改札を出ると、駅前のロータリーに、ふくたこの像が立っていた。二月の空の下で、オレンジ色が、少しだけ褪せて見えた。像ができて、一年半である。

ロータリーの脇に、白い軽自動車が停まっていた。

運転席の窓が、下りた。

野々村だった。

「井坂さん」

野々村は、窓から顔を出して、手を振った。

井坂は、軽自動車の助手席の扉を開けた。

助手席の上に、鞄が置いてあった。野々村の鞄である。鞄に、ふくたこのストラップが付いていた。

野々村が、身を乗り出して、鞄を後部座席に移した。移すときに、ふくたこが揺れた。

「すみません、散らかってて」

井坂は、助手席に座った。

車の中は、散らかっていなかった。ダッシュボードの上に、ボールペンが一本と、のど飴の缶が一つ。後部座席に、客に配る資料の束が、紙袋に入れて置いてあった。

◇

野々村は、金曜を休みにしていた。

井坂が福浦に来ると連絡したのは、一週間前である。メッセージで、日にちと、着く時間だけを送った。野々村は、「迎えに行きます」とだけ返してきた。

一年半のあいだに、二人のあいだを行き来したメッセージは、それを入れて、六件だった。五件が野々村からで、井坂から送ったのは、日にちと着く時間だけの、その一件だった。

車が、動き出した。

野々村の運転は、丁寧だった。交差点の手前で、早めに減速する。右折のときに、対向車が完全に通り過ぎるのを待つ。

「どこか、行きたいとこありますか」

「特に」

「ほな、牡蠣でも食べに行きましょうか」

井坂は、頷いた。

◇

港の東の端に、牡蠣小屋が並んでいた。

冬のあいだだけ開く小屋で、プレハブの建物の中に、鉄板のテーブルが十ほど並んでいる。客は、店の入口で、殻つきの牡蠣を籠に入れてもらって、テーブルの鉄板で、殻ごと焼く。

井坂は、福浦にいた四年のあいだに、一度だけ来たことがあった。支店の忘年会の二次会だった。

平日の昼で、客は、井坂と野々村のほかに、二組しかいなかった。

店の人間が、二人に軍手を渡した。

鉄板に火が入った。牡蠣を、殻の平たいほうを上にして並べる。蓋をする。五分ほどで、殻の隙間から、湯気と汁が噴き出してくる。蓋を開けて、殻の合わせ目に、専用のナイフを差し込んで、こじ開ける。

野々村は、手際がよかった。

軍手をはめた左手で、熱い殻を押さえて、右手のナイフを、殻の合わせ目の一点に差し込む。手首を少し返すと、殻が開く。開いた殻の中に、身が、汁の中でふくらんでいる。

野々村は、開けた殻を、井坂の皿に置いた。

「どうぞ」

井坂は、自分でも一つ開けようとした。ナイフの先が、殻の合わせ目に入らなかった。何度か、角度を変えて試した。

野々村が、横から手を伸ばして、井坂の軍手の上から、殻を押さえた。

「ここです。この、ちょっと膨らんどるとこ」

井坂は、そこにナイフを差し込んだ。

開いた。

◇

牡蠣を食べながら、野々村は、客の話をした。

「扶桑化学の株を、三十年持っとるおじいちゃんがおるんです」

井坂は、牡蠣の身を、口に運びかけて、止めた。

「七十九で、元は造船所で溶接しよった人。退職金で、扶桑の株を買うたんやって。それから、ずっと持っとる」

野々村は、次の牡蠣を鉄板に並べながら、話を続けた。

「配当で、毎年、孫にお年玉を出しよってです。孫が五人おって、一人一万円。配当が、ちょうどそのくらいなんやって。今年は、上の孫が大学に入ったけ、その子だけ二万円にしたって」

井坂は、牡蠣を口に入れた。

熱かった。

「ええ会社なんでしょうね、扶桑」

野々村は、そう言って、鉄板の蓋を閉めた。

井坂は、牡蠣を噛んでいた。

十日後に、扶桑化学が、大きな買収と、公募増資を発表する。株の数が増える。一株あたりの価値が、薄まる。株価は、下がる。どのくらい下がるかは、分からない。しかし、下がる。

井坂は、それを知っていた。

壁の内側にいた。

井坂は、何も言わなかった。

牡蠣を、飲み込んだ。

◇

テーブルの上に、井坂の携帯が、画面を伏せて置いてあった。

会社の携帯である。

牡蠣を食べているあいだに、それが、震えた。

一回。

井坂は、それを見なかった。

二回。三回。

チームの誰かからだと、井坂には分かっていた。発表の十日前である。誰かが、何かを確かめたがっている。

四回。

井坂は、牡蠣の殻をナイフでこじ開けていた。

五回。

手が、止まった。

携帯のほうに、目が行った。

六回目に震えたとき、野々村が、手を伸ばした。

携帯を、裏返さずに、持ち上げた。

画面を伏せたまま、自分の鞄の上に移した。鞄は、野々村の座っている椅子の、向こう側の床に置いてあった。井坂の手の届かない位置である。

野々村は、何も言わなかった。

井坂も、何も言わなかった。

野々村は、また、鉄板の蓋を開けて、次の牡蠣をこじ開けた。

鞄の上で、携帯は、それから二回震えた。

井坂は、その音を聞いていた。

見なかった。

◇

牡蠣小屋を出たのは、二時過ぎだった。

帰りに、野々村は、坂の途中の道を通った。

八郎の家の前だった。

車は、停まらなかった。ゆっくりと、門の前を通り過ぎた。

庭の柿の木が、見えた。

葉は、全部落ちていた。枝だけが、冬の空に向かって、細く広がっている。

枝の先に、実が、二つだけ残っていた。

「あれ、鳥のために残しとるんです」

野々村が、前を向いたまま言った。

「房江さんが、毎年、二つか三つ、残すんです。木守り、いうて」

井坂は、振り返って、その二つの実を見た。

オレンジ色だった。

車は、坂を下っていった。

◇

井坂は、金曜と土曜の夜を、駅前のビジネスホテルで過ごした。

土曜は、一人で、町を歩いた。支店の前も通った。土曜なので、シャッターが下りていた。港の岸壁を、端から端まで歩いた。造船所のクレーンは、二基とも動いていた。

日曜の午後の列車で、東京に戻る。

駅まで、野々村が、また軽自動車で送ってくれた。

改札の前で、野々村が、紙袋を一つ差し出した。

「これ」

中に、みかんが入っていた。十個ほど。

「お客さんからもろたんです。うちじゃ食べきれんけ」

井坂は、それを受け取った。

「ありがとう」

野々村は、少し笑った。

「ほな」

それだけ言って、手を振った。

◇

帰りの列車の中で、井坂は、A4を膝の上に置いていた。

開かなかった。

何も書かなかった。

窓の外を、瀬戸内の海が、流れていった。冬の海は、夏より青が濃い。島が、いくつも重なって見える。

井坂は、紙袋から、みかんを一つ出した。

皮を剥いた。

一房ずつ、食べた。

甘かった。

食べ終えて、皮を紙袋に戻した。

会社の携帯を出して、画面を見た。未読が、二十三件あった。

一件ずつ、読み始めた。

23 発表

扶桑化学が、発表したのは、二月の第三週の火曜だった。

大引け、つまり、東京の株式市場の取引が終わった午後の三時半に、発表の文書が出た。

欧州の化学の会社を、買収すること。その資金の一部を、公募増資で集めること。増資の規模は、今の株の数の、一割ほど。

発表の文書は、四十ページあった。井坂は、その四十ページのうち、二十ページの校正をした。

三時半に、部屋の中の全員が、画面を見ていた。

発表の文書が、取引所のサイトに載った。

誰も、何も言わなかった。

株式の部署の人間が、電話を取って、海外の現地法人にかけた。英語で、何かを言った。

井坂は、画面を見ていた。

◇

翌朝、株価は、八パーセント下がった。

朝の九時に、取引が始まった。扶桑化学の株には、売りの注文が集まった。値段が、どんどん下がっていった。九時半に、下げ幅が、八パーセントになったところで、止まった。

希薄化、と呼ぶ。

株の数が一割増えれば、一株あたりの会社の価値は、それだけ薄まる。市場は、それを、値段に織り込んだ。買収の中身がいいのか悪いのかは、まだ誰にも分からない。分からないが、株が増えることは、分かっている。

八パーセントという数字は、予想の範囲だった。部屋の中の誰も、驚かなかった。

株式の部署の人間が、「思ったより浅い」と言った。

◇

昼過ぎ、井坂の携帯が、震えた。

自分の携帯だった。

画面に、野々村の名前が出ていた。

メッセージではなかった。電話だった。

井坂は、それを見て、部屋の外に出た。廊下の突き当たりの、非常階段の扉の前まで歩いた。

出た。

「はい」

「井坂さん」

野々村の声だった。

少しだけ、間があった。

「今日、お客さんから電話が四本ありました」

それだけだった。

井坂は、非常階段の扉に、背中をつけた。

野々村は、誰からの電話だったのかを、言わなかった。

言わなくても、分かった。

牡蠣小屋で話していた、扶桑化学を三十年持っている老人。その老人から、朝いちばんに、電話があったのだろう。株が、下がっとるけど、どうしたらええんか。それから、ほかにも三人。扶桑化学の株を持っている、野々村の客たち。

野々村は、「井坂さん、知ってたんですか」とは訊かなかった。

「今日、お客さんから電話が四本ありました」

それだけを、言った。

◇

井坂は、何も言えなかった。

言えることが、法律上、一つもなかった。

案件は、もう公表されている。公表されたあとなら、案件の中身について、話してもいい。しかし、井坂がそれを、いつから知っていたのか。十日前の牡蠣小屋で、知っていたのか。それを話すことは、公表の前に知っていた情報について話すことになる。

それに、知っていた、と言えば、野々村は、それを聞いてしまう。聞いてしまえば、野々村は、それを知ったまま、客の前に立つことになる。

井坂は、黙っていた。

電話の向こうも、黙っていた。

井坂は、秒数を数えた。

一。

二。

三。

電話の向こうで、支店の音がした。誰かが、窓口で何かを言っている。タブレットの操作の、短い電子音。

四。

五。

六。

井坂の、背中の非常階段の扉が、少し冷たかった。

七。

八。

「分かりました」

野々村が、言った。

それだけ言って、電話が切れた。

◇

井坂は、非常階段の扉の前に、しばらく立っていた。

携帯の画面に、通話の時間が表示されていた。

一分十二秒。

そのうち、八秒は、黙っていた。

井坂は、それを覚えていた。

部屋に戻った。

株式の部署の人間が、海外の投資家の需要の一覧を、画面に出していた。発表のあとで、需要がどう動いたか。値段を決める日まで、あと三日だった。

井坂は、自分の机に座って、需要の一覧の、議事録を取り始めた。

◇

一週間後、野々村から、メッセージが来た。

「支店長、来月転勤やそうです」

それだけだった。

扶桑化学のことは、何も書いていなかった。何もなかったような内容だった。

井坂は、それを、自分の部屋で、夜中に読んだ。

読んで、しばらく画面を見ていた。

それから、文字を打つ欄に、指を置いた。

「そうか。どこに」

それだけ打って、送った。

野々村のメッセージに、井坂が返信したのは、それが初めてだった。

すぐに、既読の印が付いた。

返事は、来なかった。

来なくて、よかった。

◇

発表から値決めまでの三日間、岩城は、日本にいなかった。

発表の日の夜の便で、ロンドンに飛んだ。翌日、ロンドンの投資家を、一日に八件回った。その夜の便で、ニューヨークに飛んだ。翌日、ニューヨークで七件。その夜、ニューヨークから、電話で値決めに加わる。

ロードショー、と呼ぶ。株を出す会社の経営陣が、投資家を回って、買ってくれるように説明する。

四か月前のノンディールのIRとは、違った。あのときは、一日に五件で、あいだに十五分の移動があった。今度は、一日に八件で、移動のあいだにも、電話の会議が入っている。

同行したのは、東雲証券のロンドンとニューヨークの人間だった。井坂は、東京に残った。東京で、岩城の面談の議事録を、ロンドンの担当から受け取って、需要の一覧に反映させる役だった。

ロンドンの二日目の朝、岩城の面談の議事録に、一行、添え書きがあった。

「CFO lost his voice by the 6th meeting」

六件目で、声が出なくなった。

井坂は、それを読んで、ロンドンの担当に、一行だけメールを送った。

梅ののど飴を、ホテルの売店で探してほしい。なければ、はちみつのもの。

返事は来なかった。

ニューヨークの面談の議事録には、添え書きはなかった。

24 ディスカウント

株の値段を決める夜は、発表の四日後の金曜だった。

新しく出す株を、いくらで投資家に売るか。それを、発行価格と呼ぶ。

発行価格は、その日の市場の値段を基準にして決める。基準にするが、同じ値段にはしない。市場の値段から、数パーセント割り引く。

割り引く幅を、ディスカウントと呼ぶ。

◇

割り引く理由を、井坂は、株式の部署の人間から聞いた。

投資家は、市場で扶桑化学の株を買おうと思えば、いつでも買える。市場の値段で。わざわざ、新しく出す株を買う理由は、市場より安く買えるからである。安くなければ、市場で買えばいい。

それに、新しく出す株は、一度に大量に出る。大量に出れば、値段は下がる。下がることが分かっている株を、今の値段で買う投資家はいない。

だから、割り引く。

割り引く幅は、狭いほど、会社にとっては得である。同じ数の株で、多くのお金が入る。広いほど、投資家にとっては得である。安く買える。

その幅を、決める。

◇

夜の八時に、部屋に、チームの全員が集まった。

扶桑化学の側からは、財務の部長と、IRの部長が、部屋に来ていた。岩城は、本社で待っていて、電話で最後の判断をする。

株式の部署の人間が、需要の一覧を、画面に出した。

値段ごとの需要の合計。この値段なら、これだけ買う投資家がいる。この値段なら、これだけ。

需要は、出す株の数の、四倍を超えていた。

「強い」

株式の部署の人間が言った。

◇

打ち合わせの途中で、仁科が、ホワイトボードの前に立った。

扶桑化学の財務の部長に、ある仕組みの説明をするためだった。

「オーバーアロットメントです」

仁科は、ホワイトボードに、四角を一つ描いた。

「需要が強いときに、予定していた株の数より、多く売る仕組みです。たとえば、予定の一割五分増しまで。増やした分の株は、大株主から一時的に借りて、投資家に渡します」

四角の横に、小さな四角を一つ描き足した。

「借りた株は、あとで返さないといけません。返す方法は二つあります。一つは、上場したあとで、市場から株を買って返す。株価が下がったときは、こちらを使います。市場で買うことで、値段の下支えにもなる」

「もう一つは」

財務の部長が訊いた。

「会社から、追加で新しい株を発行してもらって、それで返す。株価が上がったときは、こちらを使います。この、追加で発行してもらう権利を、グリーンシュー・オプションと呼びます」

仁科は、ホワイトボードに、その名前を英語で書いた。

井坂は、議事録を取っていた。

グリーンシュー・オプション。

井坂は、それを、日本語で書いた。

「緑の靴」

◇

書いてから、井坂は、自分の書いた字を見た。

緑の靴。

グリーンは緑で、シューは靴である。英語をそのまま日本語にすると、そうなる。

しかし、それは、仕組みの名前だった。仕組みの名前を、日本語に訳す必要はない。訳したら、何のことか分からなくなる。

井坂は、それを直そうとして、ペンを持ち直した。

そのとき、横から、手が伸びてきた。

仁科だった。

ホワイトボードの説明を終えて、自分の席に戻る途中で、井坂の議事録を、横から見ていた。

仁科は、何も言わなかった。

井坂のペンを、井坂の手から取った。

「緑の靴」の上に、一本、線を引いた。

その横に、正しい語を書き足した。

「グリーンシュー・オプション」

それから、ペンを井坂の手に戻して、自分の席に行った。

井坂は、議事録を見た。

線を引かれた「緑の靴」は、線の下で、まだ読めた。

◇

あとで、井坂は、その名前の由来を調べた。

最初にこの仕組みを使った会社の名前が、グリーンシューという会社だった。アメリカの、靴の会社である。

緑の靴、で、間違いではなかった。

しかし、井坂は、それを仁科に言わなかった。

◇

夜の十時に、ディスカウントが決まった。

岩城が、電話で、最後の判断をした。

財務の部長が、電話を取って、株式の部署の人間が説明した数字を、岩城に伝えた。岩城は、電話の向こうで、何かを言った。財務の部長は、「はい」と言って、電話を切った。

「それで、いいそうです」

部屋の中の誰かが、息を吐いた。

ディスカウントは、市場の値段から、三パーセント台の前半だった。

需要が強かったので、狭くできた。株式の部署の人間は、それを、「いい数字」と言った。扶桑化学の財務の部長も、頷いた。

井坂は、議事録に、その数字を書いた。

書きながら、頭の中で、別のものを数えていた。

野々村の客の、数である。

扶桑化学を三十年持っている老人。それから、ほかの三人。野々村に、電話をかけてきた客たち。

四人。

その四人が持っている株の値段は、発表の翌日に、八パーセント下がった。今日、新しい株は、市場の値段から、三パーセントあまり割り引いて売られる。

その四人は、新しい株を買う立場にはない。四人が持っているのは、前からの株である。前からの株は、新しい株が出ることで、薄まる。

井坂は、その四人の顔を、一人も知らなかった。

知っているのは、牡蠣小屋で聞いた、一人の話だけである。七十九歳で、元は造船所の溶接工で、孫が五人いて、一人一万円のお年玉を出している。今年は、上の孫にだけ、二万円。

野々村は、知っている。

四人の顔も、名前も、孫の数も、誕生日も。野々村は、客の孫の誕生日を覚えている。手のひらの手帳に、書いてあるのだと思う。

野々村は、今日も、支店の窓口で、その四人のうちの誰かと話しているかもしれない。発行価格が決まったことは、今夜、公表される。明日の朝、四人のうちの誰かが、また支店に電話をかけてくるかもしれない。

電話を受けるのは、野々村である。

井坂ではない。

四人。

井坂は、議事録の、ディスカウントの数字の横に、何も書き足さなかった。

◇

値段が決まってから、配分が始まった。

どの投資家に、何株を配るか。需要は、四倍を超えている。申し込んだ株の数だけ配ることはできない。長く持ちそうな投資家に多く、すぐ売りそうな投資家に少なく。国内と海外の割合。一緒に売った証券会社ごとの割合。

投資家は、三百を超えていた。

配分の表は、夜の十一時から作り始めて、夜中の一時に、全部の投資家への通知を出さないといけなかった。一時を過ぎると、ロンドンの市場が開く前に、海外の投資家に知らせが届かない。

表の数字は、三百行の全部が、足して、出す株の数とぴったり合わないといけなかった。一株でも多ければ、存在しない株を配ることになる。一株でも少なければ、どこかに株が余る。

井坂は、株式の部署の人間の横で、表の検算をした。

十二時四十分に、合計が、十四株ずれていた。

株式の部署の人間は、何も言わずに、表を上から読み直し始めた。井坂も、下から読み直した。

十二時五十一分に、井坂が見つけた。

一つの投資家の行に、端株の切り上げの式が入っていなかった。

直すと、合計が合った。

十二時五十八分に、通知が出た。

株式の部署の人間は、画面から目を離さずに、「助かった」と言った。

それが、その夜の、井坂への唯一の言葉だった。

25 利率

買収の資金は、株だけでは足りなかった。

残りは、借入れと、社債で集める。

社債は、会社が発行する債券である。投資家からお金を借りて、決まった期間のあとで返す。そのあいだ、決まった利率で、利息を払う。

扶桑化学は、社債を、三つの年限に分けて発行することにした。五年、七年、十年。

債券の部署の人間が、チームの中心になった。

◇

社債の利率は、国債の利回りを基準にして決まる。

国債は、国が発行する債券である。国が返せなくなることは、まず考えられない。だから、国債の利回りは、いちばん低い。

会社の社債は、国債より危ない。会社が返せなくなる可能性が、少しだけある。その分、国債の利回りに、上乗せする。

上乗せする幅を、スプレッドと呼ぶ。

スプレッドは、会社の信用力で決まる。信用力が高い会社は、上乗せが小さくていい。低い会社は、大きくしないと、投資家が買わない。

扶桑化学の信用力は、高かった。

高かったが、買収で、それが揺らいでいた。

買収の資金の半分以上を、借入れと社債で集める。借金が増える。借金が増えれば、格付けが下がるかもしれない。

格付けというのは、会社の社債が、約束どおりに返される確かさを、格付け機関が記号で示したものである。扶桑化学は、国内の二社と、海外の一社から、格付けを取っていた。国内の一社で、上から四番目の段階。一段下がれば、同じ社債でも、投資家が求める上乗せの幅が広がる。買える投資家の数も、減る。年金や保険の中には、ある段階より下の社債は買えない決まりを持つところがある。

発表の三週間前に、格付け機関との面談があった。

面談の相手は、格付け機関のアナリストが三人だった。扶桑化学の側は、岩城と、財務の部長。東雲証券は、債券の部署の人間と、井坂。井坂は、議事録を取った。

アナリストたちは、一時間半、数字だけを訊いた。買収のあとの借金の総額が、利益の何倍になるか。その倍率が、何年で元に戻るか。戻らなかったとき、会社は何を売るのか。配当を削る用意はあるのか。

岩城は、配当を削る、とは言わなかった。

買収のあと三年で、借金の倍率を元の水準に戻す。そのために、事業を二つ売る。どの事業かは、ここでは言えない。

アナリストの一人が、言った。

「三年で戻らなかった場合の、手当ては」

岩城は、少し間を置いた。

「増資を、もう一度考えます」

部屋が、少し静かになった。

井坂は、それを、議事録に書いた。

面談のあと、債券の部署の人間が、エレベーターの中で、小さく言った。

「あれで、据え置きなら、上出来だ」

二週間後、格付け機関の結論が、扶桑化学に内々に伝えられた。格付けは、据え置き。ただし、見通しを、安定的から、ネガティブに変える。

ネガティブ、というのは、次に動くとしたら下だ、という意味である。

その一語で、社債のスプレッドは、二bp広がる、と債券の部署の人間は見積もった。

それでも、スプレッドを、どこに決めるかで、交渉があった。

◇

交渉の単位は、ベーシスポイントだった。

一ベーシスポイントは、〇・〇一パーセントである。bp、と書く。

扶桑化学の側は、スプレッドを、できるだけ小さくしたい。利息の払いが、少なくて済む。投資家の側は、できるだけ大きくしたい。受け取る利息が、多くなる。

債券の部署の人間は、そのあいだに立って、投資家の需要を積み上げていく。

この幅なら、これだけ買う。この幅なら、これだけ。

幅を、狭めていく。

「五年は、プラス二十八でいけそうです」

「七年は、三十三。いや、三十二・五」

「十年は、まだ三十八」

井坂は、議事録を取っていた。

〇・五bp。

〇・〇〇五パーセント。

その刻みで、交渉が、夜まで続いた。

◇

〇・五bpの違いが、いくらになるのかを、井坂は計算した。

扶桑化学が発行する社債の総額に、〇・〇〇五パーセントをかける。年限の年数をかける。

扶桑化学の払う利息の合計で、数千万円の違いになった。

井坂は、その数字を、A4の隅に書いた。

福浦の支店で、井坂が一年で稼いだ手数料は、どのくらいだったか。

井坂は、それを思い出そうとした。支店の、月の終わりの会議で、担当ごとの数字が、ホワイトボードに書き出される。井坂の数字は、支店の真ん中あたりだった。上でも、下でもない。

一年分を足しても、〇・五bpの一回分に、届かなかった。

井坂は、それを、A4には書かなかった。

書いても、比べる意味のない数字だった。比べる意味がないことは、分かっていた。

分かっていて、頭の中で、比べていた。

数千万円は、福浦の支店で言えば、八郎の持ち株の、配当の数年分だった。

それが、〇・五bpの違いで、動く。

夜の十一時に、スプレッドが決まった。

五年が、プラス二十八。七年が、三十二・五。十年が、三十七・五。

◇

翌日、需要の一覧が、チームの全員に配られた。

社債を買う投資家の一覧である。どの投資家が、どの年限を、いくら買うか。

一覧の上のほうは、大きな名前だった。生命保険会社。損害保険会社。銀行。年金を運用する会社。

下のほうに行くと、名前が小さくなった。

地方の銀行。地方の信用金庫。地方の信用組合。

信用金庫というのは、地域の中小企業や個人から預金を集めて、地域に貸す金融機関である。預金は集まるが、地域の貸出先が足りない。余った資金を、どこかで運用しないといけない。その運用先として、社債を買う。

井坂は、一覧の下のほうを、一行ずつ読んでいった。

四十行目あたりに、福浦の隣の町の信用金庫の名前があった。

◇

井坂は、その名前を、知っていた。

福浦の支店にいたころ、一度だけ、その信用金庫の理事長に会ったことがある。

支店長のお供で、地元の商工会議所の新年の会に出たときだった。立食の会場で、支店長が、その理事長と名刺を交換した。井坂も、その後ろで、名刺を交換した。

理事長は、七十代の男で、背が低く、声が大きかった。

「東雲さんとこの若い人か。うちの預金、お宅の株に逃げとるんよ。困っとる」

そう言いかけて、理事長は、井坂の名刺をもう一度見た。

「井坂。高洲の、源蔵さんとこの」

「孫です」

理事長は、声を上げて笑った。源蔵さんには、若いころ、ようどやされた。あの人の孫が、株屋か。

井坂は、どう返していいか分からずに、頭を下げた。

理事長は、井坂の名刺を、胸のポケットに入れて、別の人間のほうへ行った。

会が終わって、ホテルの宴会場を出るとき、支店長が、井坂に言った。

「あの人な、嫌味で言うとるんやない」

井坂は、支店長を見た。

「地元の金が、地元に回らんのを、ほんまに困っとるんや。預金は集まる。貸す先がない。仕方ないけえ、国債やら社債やらを買う。東京の会社の社債を。地元で集めた金で」

支店長は、コートの襟を立てた。

「うちも、同じことしとるけどな。地元の人の金を、東京の会社の株に回しとる」

それだけ言って、支店長は、タクシーに乗った。

井坂は、その言葉を、福浦の手帳に書いた。

その手帳は、今、東京の部屋の、机の引き出しの中にある。

それだけだった。

その信用金庫が、扶桑化学の社債を、七年の年限で、一億円、買っていた。

井坂は、一覧の、その行を見ていた。

一億円は、一覧の中で、いちばん小さい額だった。

その上には、何百億円という行が、並んでいた。

井坂は、その行に、ペンで印をつけかけて、やめた。

印をつける理由が、なかった。

◇

三月の半ばに、新株の払込みがあった。

扶桑化学の口座に、公募増資のお金が入った。海外の分も、国内の分も。

その日の夕方、コンプライアンスの部署から、メールが一通来た。

案件は公表済みとなったため、インサイダー登録簿から、お名前を削除しました。

井坂は、そのメールを、二度読んだ。

削除されても、知っていたことは、消えない。二月の牡蠣小屋で、何を知っていたか。それは、登録簿から名前が消えても、井坂の中に残っている。

ガラスで仕切られた部屋の扉は、その日の夜から、井坂の社員証では開かなくなった。

井坂は、扉の前で、一度だけ社員証をかざしてみた。

赤いランプが、点いた。

26 深夜料金

社債の発行が終わって、案件が、閉じた。

閉じる、というのは、お金が実際に動いて、投資家に株と社債が渡り、扶桑化学に資金が入ったことである。発表から、三週間かかった。

閉じた日の夜、チームで、打ち上げがあった。

井坂は、一次会に出て、二次会には出なかった。

会社に戻って、議事録の最後の整理をした。

扶桑化学の案件の、全部の議事録を、一つのファイルにまとめる。日付の順に並べて、目次をつける。三か月分で、百四十ページになった。

夜中の一時半に、会社を出た。

エレベーターのホールで、仁科と一緒になった。

仁科も、議事録の整理をしていた。株式の部署との橋渡しの分である。

エレベーターの中で、仁科が言った。

「福浦、行ったんだって」

井坂は、仁科を見た。

「真柴さんが、有給の紙に判を押しながら、ぼそっと言ってた。福浦か、って」

仁科は、それだけ言って、階数の表示を見た。

「何かあったの」

「いえ」

「そう」

仁科は、それ以上、訊かなかった。

一階に着いて、扉が開いた。仁科は、先に降りて、振り返らずに手を上げた。

「お疲れ」

仁科は、地下鉄の駅のほうへ歩いていった。

井坂は、ビルの前の通りに出て、手を上げた。

一台が寄ってきた。

後部座席に乗ると、運転手が、振り返った。

白髪を短く刈っていて、紺のベストの胸ポケットに、ボールペンが二本。

「ああ」

運転手は、少しだけ笑った。

「最近、遅いですね」

井坂は、その言葉を聞いて、頭を下げた。

「すみません」

言ってから、気づいた。

謝る理由が、なかった。

それでも、運転手の声の調子は、責めているものではなかった。気づいている、という調子だった。

井坂が夜中に帰るのは、運転手のせいではない。井坂が夜中に帰ることで、運転手が困ることもない。夜中の客は、運転手にとって、深夜の割増がつく客である。

六年前、支店に入ったばかりのころ、井坂は、八郎の家に、夕方の五時に電話をかけたことがある。房江が出て、「今、晩酌しよるけえ」と言った。井坂は、「すみません」と言った。

房江は、「謝らんでええよ」と言って、笑った。

「最近、遅いね、言うとるだけじゃけえ」

運転手は、何も言わなかった。

前を向いて、「どちらまで」と訊いた。

井坂は、部屋の住所を言った。

◇

車が、動き出した。

三月の終わりの夜だった。窓を少し開けると、空気が、少しだけ柔らかかった。

井坂は、後部座席に深く座って、目を閉じた。

眠るつもりはなかった。目を閉じると、この三か月の議事録の字が、目の裏に浮かんだ。ウォールクロスの前置き。緑の靴に引かれた線。〇・五bp。

膝の上で、会社の携帯が、震えた。

井坂は、目を開けた。

携帯の画面の上の、小さなランプが、赤く点滅していた。

井坂の手が、一瞬、止まった。

携帯を持ち上げかけた手が、そのまま、膝の上で止まった。

一秒か、二秒だった。

去年の春に、何度も見た夢を思い出した。暗い部屋の中で、赤いランプが点滅している。手を伸ばせば届く距離にあるのに、手が伸びない。

井坂は、携帯を持ち上げた。

画面を開いた。

会社の携帯ではなかった。

膝の上に、二台の携帯を重ねて置いていた。震えたのは、下の、自分の携帯だった。

メッセージが、一件。

野々村からだった。

◇

写真が、一枚。

福浦の支店の前の、桜の木だった。

支店の入口の脇に、一本だけ植えてある桜である。井坂が支店にいた四年のあいだ、毎年、四月の初めに咲いた。支店の人間は、その木の下で、入社式の日の新人の写真を撮る。四年前の井坂も、撮られた。去年の野々村も、撮られたはずである。

写真の桜は、まだ、三分咲きだった。

枝の先に、白い花が、ぽつぽつと開いている。つぼみのほうが、まだ多い。

写真の下に、文字はなかった。

写真だけだった。

◇

井坂は、その写真を、しばらく見ていた。

窓の外を、東京の夜の街が、流れていった。

写真の中の桜の、三分咲きの枝の先を、指で少しだけ拡げた。拡げると、花びらの一枚一枚が、見えた。

支店の入口の、自動扉のガラスに、桜の枝が映っていた。

その向こうの、窓口の奥に、誰かが立っているのが、ぼんやりと見えた。

誰なのかは、分からなかった。

井坂は、写真を閉じた。

返信は、しなかった。

携帯を、膝の上に戻した。今度は、自分の携帯を上にして。

運転手が、バックミラー越しに、一度だけ井坂を見た。

何も言わなかった。

第三部 仮条件

27 審査

鳴海精機の上場の準備は、三年目の春に、次の段階に入った。

引受審査である。

東雲証券が、主幹事として、鳴海精機の株を引き受ける。引き受けるというのは、鳴海精機が新しく出す株を、東雲証券がいったん全部買い取って、それを投資家に売ることである。売れ残ったら、東雲証券が持つ。

その前に、東雲証券の中で、鳴海精機が、上場させてよい会社かどうかを、審査する。

審査するのは、引受審査部という部署である。

井坂の部署とは、別の部署だった。フロアも違う。企業金融部は十七階で、引受審査部は、十四階にある。十四階のフロアには、企業金融部の人間は、用がなければ行かない。

用があって、井坂は、四月の第二週に、初めて十四階に下りた。

◇

引受審査部のフロアは、十七階より、さらに静かだった。

机の島が、四つ。どの机にも、紙が積んであった。画面より、紙のほうが多い。

鳴海精機の担当は、小此木正という審査役だった。

小此木は、フロアのいちばん奥の、窓際の机にいた。

六十歳だと、あとで聞いた。定年まで、あと一年だった。

背が低く、痩せていて、白髪を、きちんと七三に分けている。眼鏡は、黒い太い縁で、レンズの下半分が、老眼用になっている。ワイシャツの袖に、黒い腕抜きをしていた。

井坂は、腕抜きをしている人間を、初めて見た。福浦の支店でも、していなかった。

「企業金融部の、井坂です。鳴海精機の件で」

小此木は、机の上の紙から、顔を上げた。

眼鏡の、老眼の部分の上から、井坂を見た。

「ああ。真柴くんとこの」

「はい」

「座り」

机の横に、パイプ椅子が一つ、置いてあった。井坂は、そこに座った。

◇

小此木は、手元の紙を、揃えながら言った。

「引き受けるいうのは、売れ残ったら自分で持つことや」

井坂は、A4を開いた。

「上場させてええ会社かどうか。うちが、それを決める。決めたら、東証に申請する。東証も、東証で、審査する。そやけど、東証の審査の前に、うちが審査する。うちが通さんかったら、東証には行かん」

小此木は、揃えた紙を、机の端に置いた。

「なんでうちが先に審査するか、分かるか」

井坂は、少し考えた。

「売れ残ったら、うちが持つからです」

小此木は、頷いた。

「そうや。売れ残ったら、うちが持つ。売ったあとで、何か出てきたら、うちが責任を問われる。買うた人に、どう説明するんや。この会社、中身を見て、ええと思うて売りました、言うて、中身に何か隠れとったら」

小此木は、そこで言葉を切った。

「営業の人間は、会社を上場させたい。上場させたら、手数料が入る。そやから、営業の人間は、会社のええとこを見る。うちは、悪いとこを見る。悪いとこを全部見て、それでもええ、となったら、通す」

井坂は、それを書き取った。

書きながら、小此木が、自分のことを「営業の人間」と呼ばなかったことに気づいた。井坂の部署を、営業の人間、と呼んでいた。

◇

審査は、質問票から始まった。

小此木の部署が、鳴海精機に、質問を送る。鳴海精機が、それに答える。答えを読んで、小此木の部署が、また質問を送る。

最初の質問票は、四百問あった。

会社の歴史。株主の構成。役員の経歴。事業の内容。取引先の一覧。主な契約。会計の方針。子会社との取引。訴訟の有無。労務の状況。工場の安全。環境への対応。

井坂は、その質問票を、鳴海精機に送る窓口になった。

鳴海精機の側の窓口は、江藤だった。

江藤は、質問票を受け取ると、社内の担当に振り分けた。振り分けた担当が、答えを書く。書いた答えを、江藤が読んで、直して、東雲証券に送り返す。

最初の四百問の答えが返ってくるのに、六週間かかった。

答えは、紙で来た。

江藤が、社内の担当から集めた答えを、一問ずつ読んで直し、それを一冊に綴じて送ってきた。四百問で、三百二十ページあった。表紙に、江藤の手書きで、日付と、「第一回回答」と書いてあった。

井坂は、それを、一晩で読んだ。

答えの書き方は、担当ごとに違った。製造の担当の答えは、短かった。一問に、二行か三行。総務の担当の答えは、長かった。一問に、一ページを使うこともあった。経理の担当の答えは、表ばかりだった。

どの答えにも、江藤の赤が入っていた。

赤は、言い回しを直していた。「〜と思われる」を「〜である」に。「たぶん」を消す。「今後、検討する」の横に、「いつまでに」と書き込んである。

井坂は、その赤を見て、真柴の赤を思い出した。

中身ではなく、形を直す赤。形を直せば、中身が変わる赤。

◇

四百問に答えるのは、鳴海精機の仕事だった。

四百問の答えを、東雲証券の中で読んで、次の質問に仕立て直すのは、井坂の仕事だった。

小此木の部署が求める水準は、答えの一つ一つが、根拠の書類と結びついていることだった。「適切に管理している」と書いてあれば、どの規程の、どの条の、どの手順で管理しているのか。その規程は、いつ取締役会で決めたのか。取締役会の議事録は、どこにあるのか。

井坂は、答えの一つずつに、根拠の書類の番号を振っていった。

根拠の書類がない答えが、八十一問あった。

八十一問の一覧を、江藤に送った。

江藤からは、翌日、電話が来た。

「八十一、ですか」

「はい」

江藤は、しばらく黙った。

「一週間、ください」

一週間後に、八十一問のうち、六十問の根拠が揃って届いた。残りの二十一問には、根拠の書類を、これから作る、と書いてあった。規程そのものが、なかったのである。

井坂は、それを小此木に持っていった。

小此木は、二十一問の一覧を見て、言った。

「作る、はええ。いつまでに作るか、書かせ」

◇

答えを読んで、小此木の部署が、二回目の質問票を送った。

三百問。

井坂は、それを鳴海精機に送る前に、一通り読んだ。

読んでいるうちに、気づいた。

一回目の質問票と、同じ質問が、混じっていた。

同じ、ではなかった。言い回しが、変わっていた。

一回目の質問票で、「子会社との取引の条件は、第三者との取引と同等か」と訊いていた。二回目では、「子会社に対する販売価格は、どのように決定しているか」と訊いていた。

同じことを、別の角度から訊いていた。

井坂は、二回目の質問票の中から、一回目と同じことを訊いている質問を、全部探した。

四十二問あった。

◇

三回目の質問票が来たのは、七月だった。

二百問。

その中にも、同じ質問が、また混じっていた。

「子会社から仕入れる原材料の価格が、市場価格と乖離した場合、どのように是正しているか」

子会社との取引の条件を、三回目にまた、別の角度から訊いていた。

井坂は、その三回目の質問票を持って、十四階に下りた。

小此木は、窓際の机で、紙を読んでいた。

「すみません。一つ、伺ってもいいですか」

「座り」

井坂は、パイプ椅子に座った。

「同じ質問が、言い回しを変えて、三回来ています」

井坂は、三つの質問を、並べて見せた。

小此木は、老眼の部分で、それを読んだ。

「そうやな」

「なぜでしょうか」

小此木は、眼鏡を外した。

レンズを、ワイシャツの胸ポケットから出したハンカチで、拭いた。

「一回目の答えは、用意しとった答えや。二回目の答えは、一回目と矛盾せんように書いた答えや」

眼鏡を、かけ直した。

「三回目の答えが、本当の答えや」

井坂は、ペンを持ったまま、小此木を見た。

小此木は、それ以上、説明しなかった。

井坂は、パイプ椅子に座ったまま、小此木の机の上を見た。

紙の束が、四つ積んであった。どの束にも、付箋が一枚ずつ貼ってある。付箋に、会社の名前が書いてある。四つとも、井坂の知らない会社だった。

束の一つは、高さが、ほかの三つの倍あった。

「その会社は」

井坂が、訊きかけた。

小此木は、紙から目を上げずに、言った。

「止めた」

「止めた」

「上場させん、いうことや。先月、止めた」

小此木は、紙をめくった。

「止めた会社の紙は、しばらく置いとく。なんで止めたか、あとで訊かれるけえな。訊かれたときに、答えられんといかん」

井坂は、その束を見た。

「通した会社の紙は」

「倉庫や」

小此木は、それだけ言った。

あとで、引受審査部の若い担当から聞いた。小此木は、自分が止めた案件の数を、全部覚えている。会社の名前も、止めた理由も。通した案件の数は、覚えていない。訊かれても、「さあ」と言う。

井坂は、それを、A4には書かなかった。

小此木が言ったことではなかったからである。

◇

井坂は、十七階に戻って、A4を開いた。

一枚目の、この部署で言われたことを書くページ。四枚目の、途中だった。

「引き受けるいうのは、売れ残ったら自分で持つことや」

「三回目の答えが、本当の答えや」

小此木の言葉は、この部署の人間の言葉ではなかった。十四階の人間の言葉である。

それでも、井坂は、一枚目に書いた。

書いてから、少し考えた。

小此木の言葉は、関西の言葉だった。福浦の言葉とは、少し違う。しかし、井坂の耳には、東京の言葉より、福浦の言葉に近く聞こえた。

28 反社

反社会的勢力のチェック、というものがある。

上場する会社が、暴力団や、その関係者と、取引をしていないかどうかを調べる。会社そのものだけでなく、役員、大株主、主な取引先、その取引先の役員まで。

調べるのは、引受審査部と、外部の調査会社である。

鳴海精機の取引先は、四百社あった。その全部を、調べた。

調べ始めて、三週間たったところで、一件が引っかかった。

◇

引っかかったのは、鳴海精機の、古い代理店だった。

福浦の隣の町にある、小さな商社である。鳴海精機の部品を、地元の工場に売っている。取引は、鳴海精機の創業のころから、五十年続いていた。

その商社の、社長の親族に、問題があった。

問題の中身は、井坂には知らされなかった。小此木の部署と、コンプライアンスの部署だけが知っている。井坂が知らされたのは、引っかかった、という事実と、その商社の名前だけだった。

小此木は、井坂を十四階に呼んで、言った。

「取引の解消が、上場の条件や」

井坂は、A4に書いた。

「鳴海精機さんに、伝えてくれるか。解消するかどうかは、向こうが決めることや。解消せんのなら、うちは引き受けへん」

福浦の支店にいたころ、井坂は、その商社の名前を聞いたことがあった。

八郎の話の中である。座敷で、持ち株の話と、配当の話と、孫の受験の話のあいまに、八郎は、ときどき昔の話をした。工場を建てたときの話。最初の注文を取ったときの話。

最初の注文を持ってきたのが、隣の町の、小さな商社だった。

「あいつが、おらんかったら、うちはなかった」

八郎は、そう言った。

井坂は、それを、手帳に書いた。書いたが、商社の名前は書かなかった。八郎が、名前を言わなかったからである。

今日、小此木から聞いた商社の名前が、その商社なのかどうか、井坂には分からなかった。

分からないほうが、よかった。

◇

井坂は、それを、江藤に伝えた。

電話ではなく、鳴海精機の本社まで行って、会議室で、江藤と二人で話した。

江藤は、井坂の話を、黙って聞いた。

聞き終わると、しばらく、机の上を見ていた。

「分かりました」

それだけ言った。

「社長に、話します」

江藤は、机の上の、自分の手を見ていた。

指を組んでいた。組んだ指が、ほどけなかった。

「五十年です」

江藤は、それだけ言った。

誰に言ったのでもなかった。

◇

二週間後に、江藤から連絡があった。

取引を、解消する。

代理店との契約を、年内で終わらせる。代理店が扱っていた取引先には、鳴海精機が直接売る。代理店には、これまでの取引の感謝と、事情の説明を、会社として丁寧に伝える。

江藤は、それを、電話で淡々と伝えた。

伝え終わってから、少し間を置いて、言った。

「決めたのは、会長です」

井坂は、受話器を耳に当てたまま、黙った。

「社長やないです。会長が、決めました。あの商社の先代の社長は、会長の、昔からの友達でして」

江藤は、そこで言葉を切った。

それ以上、話さなかった。

井坂も、訊かなかった。

「ありがとうございます。引受審査部に、伝えます」

井坂は、そう言って、電話を切った。

◇

解消の知らせを、井坂は、十四階の小此木に伝えた。

小此木は、それを聞いて、手元の紙に何か書いた。

それから、老眼の部分の上から、井坂を見た。

「誰が決めた」

井坂は、少し迷ってから、答えた。

「会長だそうです」

小此木は、頷いた。

「そうか」

それ以上、何も言わなかった。

井坂が、パイプ椅子から立ち上がろうとしたとき、小此木が言った。

「こういうのはな、決めた人間が、いちばん重いもんを持っていく。審査の書類には、残らん」

会長、というのは、八郎のことである。

井坂は、十七階の自分の席に戻って、しばらく動かなかった。

八郎の座敷を、思い出した。鴨居の写真。トタン屋根の平屋。手書きの看板。自転車が三台。

あの自転車の一台が、代理店の先代の社長のものだったのかもしれない、と思った。

思って、それは、井坂が勝手に考えたことだと思い直した。

八郎は、そういう話をしたことがなかった。

◇

その週末の、土曜の夜に、自分の携帯が震えた。

野々村だった。

電話だった。

井坂は、部屋の机の前に座っていた。

出た。

「はい」

「井坂さん。今、ええですか」

「ええよ」

井坂は、言ってから、自分の言葉に気づいた。

野々村は、気づいたのかどうか、何も言わなかった。

「鳴海さん、最近、口数少ないです」

井坂は、受話器を持ったまま、机の上を見た。

「この前、お宅に行ったら、座敷で、ずっと写真を見よってでした。鴨居の、あの写真。私が話しかけても、うん、うん、言うだけで」

野々村は、そこで言葉を切った。

理由は、言わなかった。

井坂は、野々村が、理由を知っているのかどうかを考えた。

八郎が、代理店との取引を切った。それは、鳴海精機の中の話である。野々村は、鳴海精機とは取引がない。取引があるのは、八郎という個人である。八郎が、野々村に、それを話したかどうか。

話していないのかもしれない。野々村は、理由を知らずに、ただ、八郎の口数が少ないことを、伝えてきたのかもしれない。

話したのかもしれない。野々村は、理由を知っていて、それを言わずに、口数が少ないことだけを、伝えてきたのかもしれない。

井坂には、どちらなのか、判別がつかなかった。

「そうか」

井坂は、それだけ言った。

野々村は、少し黙った。

「房江さんが、今年も梅干し漬けたって。井坂さんの分も、あるって」

「そうか」

「送りましょうか」

「いや。ええよ」

「ほな、私が食べときます」

野々村は、そう言って、少し笑った。

「ほな」

電話が切れた。

井坂は、携帯を机の上に置いた。

それから、しばらく、窓の外を見ていた。

29 事業計画

上場するときには、事業計画を出す。

これから三年、会社の売上と利益が、どうなるか。それを、数字で示す。投資家は、その数字を見て、会社の株に、いくらの値段をつけるかを考える。

鳴海精機の事業計画は、誠治が作った。

◇

誠治の事業計画は、強気だった。

売上が、毎年、十二パーセントずつ伸びる。三年で、一・四倍になる。

伸びる理由は、三つあった。一つは、新しい工場。上場で集めたお金で、第五工場を建てる。二つ目は、海外の取引先。アジアの自動車の部品の会社との取引が、始まりかけている。三つ目は、新しい製品。医療の機器に使う、精密な部品。

誠治は、その三つを、会議室のホワイトボードに書いて、説明した。

説明は、上手だった。数字の根拠を、一つずつ示した。新しい工場の生産能力。海外の取引先の発注の見込み。新しい製品の市場の規模。

井坂は、それを議事録に書いた。

真柴は、頷きながら聞いていた。

◇

小此木は、頷かなかった。

誠治の事業計画を、十四階の机で読んで、赤いペンで、数字に丸をつけた。

売上の伸び率。十二パーセント。

「高い」

小此木は、それだけ言って、事業計画を井坂に返した。

「どこが、高いんでしょうか」

「全部や」

小此木は、事業計画の、三つの理由のページを開いた。

「新しい工場。建つのは、上場のあとや。建ってから、動くまで、一年かかる。動いてから、フルに回るまで、もう一年。三年目の数字に、全部乗せるのは、早い」

「海外の取引先。始まりかけとる、言うけど、契約はまだや。契約がないもんを、計画に入れるのは、希望や」

「新しい製品。市場は大きい。大きいけど、鳴海精機が取れる分は、まだ分からん」

小此木は、事業計画を閉じた。

「営業の人間は、ええとこを見る。うちは、悪いとこを見る」

四月に、聞いた言葉だった。

◇

それから、一か月、事業計画の数字を巡って、やりとりが続いた。

誠治は、十二パーセントを譲らなかった。小此木は、八パーセントまで削ることを求めた。

あいだに、江藤がいた。

江藤は、誠治の側にいて、小此木の側にもいた。鳴海精機の財務の責任者として、誠治の計画を支える。しかし、上場の準備の責任者として、小此木の審査を通さないといけない。

会議では、江藤は、ほとんど話さなかった。

誠治が数字の根拠を話し、小此木の部署の人間が、それに反論する。江藤は、そのあいだに座って、黙っていた。

黙って、手元の紙に、何かを書いていた。

一度だけ、休憩のあいだに、井坂は、廊下の自販機の前で、江藤と二人になった。

江藤は、缶のお茶を買って、プルタブを開けずに、手の中で転がしていた。

「井坂さん、銀行の稟議、見たことありますか」

「支店にいたころ、隣の地銀さんのを、少しだけ」

江藤は、頷いた。

「銀行の稟議はね、通すために書くんです。通らん稟議は、書かん。書く前に、通るように、中身を決める」

江藤は、缶を、少しだけ強く握った。

「上場の事業計画も、同じようなもんです」

それだけ言って、会議室に戻った。

缶のお茶は、開けないまま、手に持っていった。

◇

八月の終わりに、事業計画の修正版が、鳴海精機から届いた。

表計算のファイルだった。

井坂は、それを開いた。

売上の伸び率は、九パーセントになっていた。

誠治の十二と、小此木の八の、あいだだった。

井坂は、ファイルの中身を、一つずつ確かめた。新しい工場の稼働の時期が、半年遅らせてあった。海外の取引先の売上は、三年目にだけ、少しだけ乗せてあった。新しい製品の売上は、控えめな数字になっていた。

どの数字も、黒い字だった。

計算式で出てきた数字である。元の数字から、足したり、割ったり、かけたりして出てきた。

一つだけ、青い字のセルがあった。

売上の伸び率のセルである。

九パーセント。

◇

青い字は、手で打った数字である。

仁科から、そう教わった。有価証券報告書から拾ってきた数字は、青。それを足したり割ったりしてできた数字は、黒。

伸び率は、本来、計算で出てくる数字だった。新しい工場の生産能力と、稼働の時期と、海外の取引先の見込みと、新しい製品の見込みを積み上げて、その結果として、何パーセント伸びるかが出てくる。

このファイルでは、伸び率のセルが、手で打ってあった。

九、と。

九が先にあって、そこから、新しい工場の稼働の時期や、海外の取引先の売上が、逆算してあった。

井坂は、ファイルの情報を開いた。

最後に保存した人間の名前が、表示されていた。

江藤修。

◇

井坂は、それを、誰にも言わなかった。

言うべきことなのかどうか、分からなかった。

事業計画の数字を、上から決めて、下を逆算する。それは、どの会社でもやっていることかもしれない。誠治と小此木のあいだで、どこかに落としどころを見つけないといけない。その落としどころを見つけたのが、江藤だった。

九パーセントは、誠治も、小此木も、飲める数字だった。

小此木は、修正版を読んで、「これで行こか」と言った。

誠治も、それを受け入れた。

井坂は、ファイルを閉じた。

閉じる前に、もう一度、そのセルを見た。

青い字の、九。

◇

その夜、井坂は、A4のいちばん後ろのページを開いた。

リーグテーブルのこと。値段には崖があること。

その下に、一行、書いた。

「九 青」

それだけだった。

誰が見ても、何のことか分からない一行である。分からないように、書いた。

30 目論見書

十一月の第二週に、東京証券取引所から、上場の承認が下りた。

東証の審査は、九月の初めに始まっていた。小此木の部署の審査を通ったあとで、東雲証券が、鳴海精機の上場を東証に申請した。東証の審査部の人間が、鳴海精機の本社と工場を訪ね、誠治と江藤に、何度か面談をした。

東証の審査は、関門だった。

主幹事の審査を通ったからといって、通るとは限らない。東証の審査部は、東雲証券の審査をもう一度、別の目でやり直す。質問は、主幹事を通して来る。答えは、主幹事を通して返す。

十月の半ばに、東証の審査部から、一つの質問が来た。

会長の八郎が、会社の土地の一部を、個人で持っている。第一工場の土地である。会社は、それを八郎から借りて、倉庫として使っている。その賃料は、相場と比べて妥当か。

関連当事者との取引、と呼ぶ。会社の役員や大株主と、会社との取引である。上場する会社では、それが会社に不利になっていないかを、厳しく見る。

賃料は、相場より安かった。八郎が、安く貸していた。

安いのは、会社にとっては有利である。しかし、東証の審査部は、それを問題にした。安く貸している理由が、書面で説明されていない。いつか八郎が賃料を上げたら、会社の利益は変わる。それを、投資家は知らされていない。

江藤は、その質問を読んで、しばらく黙っていた。

選べる道は、三つあった。会社が、その土地を買い取る。賃料を相場に合わせる契約に直す。あるいは、今のままにして、そのことを目論見書に書く。

上場の予定の日は、決まっている。土地を買い取るには、時間が足りない。

結局、賃料を相場に合わせて、会社の払う額を上げた。会社の利益は、少しだけ減った。

江藤からの電話で、井坂は、それを聞いた。

「会長は、何て」

井坂は、訊きかけて、やめた。

江藤は、訊かれなかった問いに、答えた。

「会長は、ほうか、言うてはりました」

東証の社長面談は、その翌週だった。誠治が、東証の審査部の人間と、一対一で話す。東雲証券の人間は、部屋に入れない。

誠治が部屋から出てきたのは、予定より二十分遅かった。

廊下で待っていた江藤と井坂に、誠治は、一言だけ言った。

「第一工場のこと、訊かれました」

何と答えたのかは、言わなかった。

承認の知らせは、東証から、鳴海精機と東雲証券に、同時に来た。

上場の日は、十二月の第三週の木曜に決まった。

承認から、上場まで、一か月しかない。

◇

その一か月で、やることが、山のようにあった。

まず、有価証券届出書を、国に出す。

有価証券届出書というのは、株を新しく出すときに、国に出す書類である。会社の中身を、全部書く。事業の内容、財務の数字、役員、株主、リスク。二百ページを超える。

それから、目論見書を刷る。

目論見書は、株を買う投資家に渡す説明書である。中身は、有価証券届出書とほとんど同じで、投資家に読みやすいように、形を整えてある。

届出書を出した日に、目論見書を刷り上げて、投資家に配り始める。

◇

届出書と目論見書は、印刷会社が組む。

鳴海精機の書類を組むのは、開示書類の印刷を専門にしている会社だった。上場する会社の書類は、ほとんどがこの会社か、もう一社で組まれている。

提出の前の晩、井坂は、印刷会社の校正室にいた。

校正室は、印刷会社のビルの五階にあった。窓のない部屋で、大きな机が四つ並んでいる。机の上に、刷り上がったばかりの校正刷りが、束になって積んである。

鳴海精機の側から、江藤と、経理の課長と、総務の担当。東雲証券の側から、真柴と、仁科と、井坂と、引受審査部の若い担当。監査法人の人間が二人。法律事務所の人間が一人。

十人を超える人間が、校正刷りを一ページずつ読んでいた。

◇

夜の十時を過ぎると、校正室の空気が、張り詰めてきた。

提出は、翌朝である。電子の提出の窓口が、朝の九時に開く。それまでに、全部を確定させないといけない。

真柴は、財務の数字のページを、監査法人の人間と突き合わせていた。仁科は、リスクの記述のページを、法律事務所の人間と読んでいた。江藤は、事業の内容のページを、何度も読み返していた。

井坂は、役員の状況のページを読んでいた。

誰もが、少しずつ、声が大きくなっていた。

「ここの数字、監査報告書と合ってる?」

「この表現、前回の版から変わってない?」

「このページ、差し替えたはずだけど」

その中で、一人だけ、落ち着いている人間がいた。

印刷会社の担当者だった。

◇

印刷会社の担当者は、四十代の男で、灰色のカーディガンを着ていた。

校正室の隅の、小さな机に座って、画面を見ていた。画面には、書類の組版のデータが表示されている。誰かが、「ここ直して」と言うと、担当者は、「はい」と言って、キーボードを叩く。三十秒で直る。直ったページが、隣の部屋のプリンタから刷り出されてくる。

担当者は、一度も、声を大きくしなかった。

一度も、急がなかった。

夜の十二時に、真柴が、担当者のところに行って、「間に合うんですか」と訊いた。

担当者は、画面から目を離さずに、言った。

「間に合います。毎年、この時期は、こうなんで」

それだけ言って、キーボードを叩き続けた。

真柴は、それを聞いて、自分の机に戻った。

井坂は、それを横で聞いていた。

この校正室で、いちばん落ち着いているのは、印刷会社の人間だった。上場するのは、鳴海精機である。引き受けるのは、東雲証券である。印刷会社は、紙を組むだけである。

その、紙を組むだけの人間が、いちばんよく、この夜のことを知っていた。

毎年、この時期は、こうなる。

◇

朝の四時に、校正が終わった。

最後の版が、確定した。

井坂は、校正室の隅の椅子で、一時間だけ目を閉じた。眠ったのかどうかは、分からなかった。

届出書は、朝の九時に、電子の窓口から提出した。

提出したという知らせが、法律事務所の人間の携帯に入ると、校正室の中で、何人かが息を吐いた。江藤は、椅子の背にもたれて、天井を見た。印刷会社の担当者は、画面を閉じて、カーディガンのボタンを留めた。

◇

昼の十二時に、刷り上がった目論見書が、東雲証券の本社に届いた。

段ボールの箱で、十二箱。一箱に、二百五十部入っている。支店に送る分と、機関投資家に配る分と、社内の控え。

井坂は、控えの一部を、自分の机に持っていった。

表紙に、鳴海精機の社名と、「新株式発行並びに株式売出届出目論見書」という長い題が刷ってある。紙は、薄い上質紙で、ページをめくると、刷ったばかりのインクの匂いがした。

井坂は、それを、最初から読み始めた。

校正室で、十人を超える人間が、何度も読んだものである。読む必要は、なかった。

それでも、読んだ。

役員の状況のページまで来た。

誠治。江藤。製造の担当の役員。営業の担当の役員。社外の取締役が二人。監査役が三人。

それから、いちばん上の行。

鳴海八郎。

役職の欄に、「取締役会長」とある。

井坂は、その字を、一字ずつ読んだ。

取。締。役。会。長。

最後の一字で、目が止まった。

「長」の字の、横の画が、一本足りなかった。

◇

井坂は、その字を、しばらく見ていた。

見間違いかと思って、ページを、蛍光灯の真下に持っていった。

横の画が、四本あるはずのところに、三本しかなかった。

組版のデータの、どこかで、字が化けていた。「長」の字によく似た、別の字になっていた。画面では、ほとんど見分けがつかない。刷ると、ほんの少しだけ、違う。

井坂は、画面で、朝に提出した届出書を開いた。

目論見書と届出書は、同じデータから作っている。

届出書の、役員の状況のページを、画面いっぱいに拡げた。

同じだった。横の画が、三本の字だった。

校正室で、夜の十一時に、井坂はそのページを読んでいた。読んで、気づかなかった。

井坂は、目論見書を持って、真柴の席に行った。

真柴は、それを見た。

何も言わなかった。

受話器を取って、印刷会社の担当者に、電話をかけた。

担当者は、電話の向こうで、「ああ」と言った。

「外字ですね。すみません、こちらで確認します」

声は、校正室のときと、同じ調子だった。

刷り上がった目論見書は、三千部。届出書は、もう国に出ている。

八郎の役職名の一字が、違う字になっていた。

31 訂正

届出書は、もう出ている。目論見書は、もう刷り上がっている。

どちらにも、同じ誤字がある。

◇

午前の十時に、企業金融部の打ち合わせのスペースで、真柴と、仁科と、引受審査部の若い担当と、井坂が、机を囲んだ。

「訂正する」

真柴が言った。

「訂正届出書を出す。目論見書は、訂正事項分を作って、一緒に配る」

井坂は、A4に書いた。

訂正届出書。

有価証券届出書を出したあとで、中身に変更や誤りがあったときに出す書類である。変更の内容を、「訂正前」と「訂正後」の形で並べて書く。

目論見書のほうは、刷り直すのではなく、訂正した箇所だけを別に刷って、目論見書と一緒に投資家に渡す。訂正事項分、と呼ぶ。

「いつ出しますか」

仁科が訊いた。

「仮条件が決まったとき」

真柴は、それだけ言った。

◇

仮条件というのは、公開価格の候補になる、値段の幅のことである。

上場のとき、株を最初にいくらで売るかを、公開価格と呼ぶ。公開価格は、いきなり決めるのではなく、まず、候補の幅を決める。たとえば、千五百円から千七百円。その幅の中で、投資家に、いくらなら何株買うかを申告してもらう。申告の結果を見て、幅の中のどこかに、公開価格を決める。

その、最初の幅が、仮条件である。

仮条件は、届出書を出したあとで決める。届出書を出した時点では、値段の欄は空いている。仮条件が決まったら、その値段を、届出書に書き足す。書き足すために、訂正届出書を出す。

そのあと、公開価格が決まったら、また、その値段を書き足す。そのために、また訂正届出書を出す。

訂正届出書は、もともと、値段を決めるたびに出す書類だった。

◇

「長」の字の訂正は、仮条件のための訂正届出書の中に、一緒に入れる。

値段の欄の訂正と並んで、役員の状況のページの、一字の訂正が載る。

訂正前、「取締役会□」。訂正後、「取締役会長」。

それだけである。

訂正届出書を読む人間は、値段の欄を見る。役員の状況のページの一字の訂正を、わざわざ読む人間は、ほとんどいない。

誤字の訂正は、その中に、紛れる。

紛れる、という言い方を、真柴はしなかった。

仁科もしなかった。

井坂が、そう思っただけである。

訂正届出書は、公開されている。誰でも読める。値段の欄の訂正と、役員の状況のページの一字の訂正が、同じ書類の中に並んでいる。隠しているわけではない。

それでも、紛れる。

井坂は、それを、A4には書かなかった。

◇

打ち合わせは、十五分で終わった。

誰の責任かは、問われなかった。

誤字を出したのは、組版のデータの中で、字が化けたからである。化けたのは、印刷会社のシステムの中である。しかし、それを確定させたのは、校正をしていた人間である。校正をしていた人間は、十人を超えていた。井坂も、その一人だった。

井坂は、夜の十一時に、役員の状況のページを読んでいた。読んでいて、気づかなかった。気づいたのは、刷り上がったものを、昼に読み直したときだった。

真柴は、それを知っていた。

知っていて、何も言わなかった。

◇

打ち合わせが終わって、真柴は、自分の席に戻った。

井坂は、打ち合わせのスペースに残って、A4を見ていた。

二年半前の、六月の終わりを思い出した。

関東の化学の会社の、提案書。社名の「髙」が、途中から普通の「高」になっていた。真柴は、何も言わずに、全部を刷り直させた。

その夜も、真柴は、何も言わなかった。

刷り直したものを一冊だけ手に取って、表紙を見て、閉じた。

今日も、同じだった。

何も言わなかった。

井坂は、それが叱責なのかどうかを、考えた。

二年半前も、考えた。

分からなかった。

今回も、判別できなかった。

◇

その夜、井坂は、訂正事項分の原稿を作った。

A4の紙、一枚。

上に、「目論見書の訂正事項分」と題を入れる。その下に、訂正の理由を一行。「記載事項の一部に訂正すべき事項がありましたので、これを訂正するものであります」。その下に、訂正の箇所。ページと、行と、訂正前と、訂正後。

訂正前、「取締役会□」。

訂正後、「取締役会長」。

四角の中には、化けた字が入る。

井坂は、その化けた字を、自分で打つことができなかった。パソコンの中に、その字がなかった。印刷会社の担当者に、その字を入れてもらうように、メールで頼んだ。

担当者からは、三十分で返事が来た。

「入れました。ご確認ください」

井坂は、送られてきた原稿を開いた。

四角の中に、化けた字が入っていた。

横の画が、三本の字だった。

井坂は、それを、しばらく見ていた。

八郎の座敷の、鴨居の下に座っている八郎を、思い出した。膝の上で、何かを書いている八郎。

この目論見書を、八郎が読むかどうかは、分からなかった。

32 休日

十一月の最後の日曜に、野々村が、東京に来ていた。

大学のころの友人の、結婚式だった。土曜に式があって、その夜は、友人たちとホテルに泊まった。日曜の夕方の新幹線で、福浦に帰る。

そのあいだの一日を、井坂は、空けた。

空けた、というのは、正確ではなかった。目論見書の配布が始まって、仮条件を決める会議が、翌週に控えていた。日曜も、本当なら、会社に出る日だった。

井坂は、会社に出なかった。

真柴には、何も言わなかった。

◇

待ち合わせは、日本橋の駅だった。

朝の十時に、改札の前で待っていると、野々村が、地下鉄の階段を上ってきた。

紺のコートを着ていた。コートの下は、見えなかった。鞄は、いつもの鞄だった。ふくたこが、付いていた。

野々村は、井坂を見つけて、手を上げた。

「おはようございます」

「おはよう」

「すみません、休みの日に」

「いや」

井坂は、そう言って、歩き出した。

「どこか、行きたいとこある」

野々村は、少しだけ考えてから、言った。

「兜町」

◇

兜町は、日本橋の駅から、歩いて十分ほどのところにある。

東京証券取引所の、建物がある町である。

日曜なので、取引所は閉まっていた。建物の正面の、大きなガラスの扉の向こうは、暗かった。

野々村は、建物の前の歩道に立って、それを見上げた。

石の建物だった。低層の部分が、灰色の石で張ってある。正面の上に、取引所の名前が、金属の文字で出ている。

野々村は、しばらく、それを見上げていた。

井坂は、その横に立っていた。

井坂も、この建物の中に、入ったことはなかった。外から見るのも、三年目にして、初めてだった。会社から歩いて十五分のところにある。それでも、来る用事がなかった。

「ここで、鐘鳴らすんですか?」

野々村が、言った。

井坂は、野々村を見た。

上場の日に、上場した会社の社長が、取引所で鐘を鳴らす。それは、テレビのニュースで、ときどき見る。野々村も、それを見たのだろう。

「たぶん」

井坂は、そう答えた。

まだ、見たことがなかった。

野々村は、頷いた。

それから、もう一度、建物を見上げた。

何も訊かなかった。

誰が鐘を鳴らすのか。井坂は、今、どこの会社の上場を手伝っているのか。その会社は、いつ上場するのか。

野々村は、何も訊かなかった。

◇

昼は、日本橋の裏の、定食屋に行った。

井坂が、本社に来てから三年近く、通っている店である。週に一度か、二度。昼の十一時半に行くと、すいている。十二時を過ぎると、近くの会社の人間で、満席になる。

日曜も、やっていた。

カウンターが八席と、四人がけのテーブルが三つ。店の主人は、六十代の男で、白い調理服を着ている。奥さんが、配膳をしている。

二人は、テーブルの席に座った。

井坂は、いつものアジフライの定食を頼んだ。野々村も、同じものを頼んだ。

アジフライが、二枚。千切りのキャベツ。小鉢が二つ。みそ汁。ご飯。

野々村は、アジフライを一口食べて、顔を上げた。

「このアジ、どこのですか」

店の主人に、訊いていた。

主人は、カウンターの向こうで、顔を上げた。

少し驚いたような顔をして、それから、笑った。

「長崎。今日のは、長崎の松浦」

「松浦」

「毎朝、市場で見て、いいのを選んでくるんだけどね。この時期は、長崎か、島根か。脂が乗ってるのは、長崎だね」

主人は、嬉しそうだった。

それから、長崎のアジと、島根のアジと、千葉のアジの違いを、説明し始めた。身の厚さ。脂の乗り。揚げたときの、衣の付き方。

野々村は、それを、頷きながら聞いていた。

井坂は、アジフライを食べながら、それを聞いていた。

三年、この店に通っていた。

アジが、どこのものなのか、一度も訊いたことがなかった。

◇

店を出たあとで、野々村は、「おいしかったです」と言った。

「長崎のアジ、福浦のと、全然違いますね。福浦のは、もっと小さいけ」

井坂は、頷いた。

福浦のアジは、小さい。港の近くの食堂で、南蛮漬けにして出てくる。井坂は、福浦にいた四年で、それを何度も食べた。

そのときも、井坂は、アジがどこのものなのかを、訊いたことがなかった。

福浦のアジだと、思っていた。

◇

午後は、特に行くところがなかった。

野々村が、山手線に乗ってみたい、と言った。東京に来ても、いつも地下鉄ばかりで、山手線にちゃんと乗ったことがない。

二人で、東京駅から、山手線に乗った。

日曜の午後の山手線は、すいていた。二人は、座席に並んで座った。

電車が、動き出した。

井坂は、座ったとたんに、眠った。

◇

起きたとき、電車は、駅に停まっていた。

窓の外に、駅名の看板が見えた。

東京。

井坂は、それを見て、しばらく、どこにいるのか分からなかった。

東京駅から乗って、東京駅にいる。

隣を見た。

野々村が、座っていた。膝の上に、鞄を置いて、その上に両手を載せていた。窓の外を見ていた。

井坂が起きたのに気づいて、野々村は、こちらを見た。

「一周しましたよ」

それだけ言った。

井坂は、腕の時計を見た。

乗ってから、一時間と少し、たっていた。

山手線は、一周が、一時間と少しである。

野々村は、起こさなかった。

起こさなかった理由を、言わなかった。

井坂は、何か言おうとした。

言えなかった。

「降りましょうか」

野々村が言った。

二人は、東京駅で、降りた。

◇

野々村の新幹線は、夕方の五時だった。

東京駅の、新幹線の改札の前まで、井坂は送った。

改札の前で、野々村は、鞄を肩に掛け直した。

鞄のふくたこが、揺れた。

オレンジ色が、少し、褪せていた。

商工祭りの日にもらったという秋から、三年たっていた。二月に、牡蠣小屋へ向かう車の中で見たときより、さらに褪せている。足の先の丸まったところが、白っぽくなっている。

井坂は、手を伸ばした。

ふくたこを、指で、一度だけ弾いた。

ふくたこは、小さく揺れて、足どうしがぶつかった。

野々村は、笑った。

「ほな」

それだけ言って、改札を通った。

振り返らなかった。

井坂は、野々村の背中が、エスカレーターの上に消えるまで、改札の前に立っていた。

33 仮条件

仮条件を決めたのは、十一月の最後の月曜の夜だった。

山手線を一周した日の、翌日である。

◇

仮条件の幅を決めるために、その前の一週間、機関投資家の意見を聞いて回った。

届出書を出した翌日から、東雲証券の株式の部署の人間が、機関投資家を一社ずつ訪ねる。鳴海精機の事業と、財務と、事業計画を説明する。説明したあとで、鳴海精機の株に、いくらくらいの値段がつくと思うかを訊く。

プレヒアリング、と呼んでいた。

誠治と江藤も、東京に出てきて、主な投資家を一社ずつ回った。ロードショー、と呼ぶ。一年前に井坂がニューヨークで岩城に付いたのと、似たようなことである。今度は、東京で、鳴海精機のために。

一週間で、四十社を回った。

井坂は、そのうち二十社に、同席した。

誠治は、同じ説明を、二十回した。冗談は、言わなかった。そのかわり、二十回とも、同じところで、少しだけ声が大きくなった。新しい製品の、医療の機器に使う部品の話をするところである。

◇

月曜の夜の八時に、十七階の会議室に、人が集まった。

真柴と、仁科と、井坂。株式の部署の人間が三人。引受審査部から、小此木。

鳴海精機からは、江藤が来ていた。誠治は、福浦に帰っていて、電話で最後の判断をすることになっていた。

株式の部署の人間が、プレヒアリングの結果を、画面に出した。

四十社の機関投資家が、鳴海精機の株に、いくらくらいの値段がつくと思うか。その値段を、低いほうから高いほうへ並べた、横棒の図だった。

横棒は、右のほうに寄っていた。

「感触は、いいです」

株式の部署の人間が言った。

「特に、長期の投資家の評価が高い。医療の部品の話が、効いてます」

それから、株式の部署の人間は、画面を切り替えた。

誰に、どれだけ配るか。その方針の案だった。

誠治が、主幹事の選定のときに訊いた問いがある。上場したら、誰がうちの株を持つんですか。

その答えを、ここで決める。

長く持つ機関投資家に、多く配る。値動きだけを見て数日で売る投資家には、少なく配る。個人投資家への配分は、全体の三割。そのうち一割以上を、抽選に回す。社員の持株会の枠。取引先の枠。

海外の投資家には、配らない。国内だけで売る。鳴海精機の規模では、海外で売るための書類を揃える費用に、見合わない。

株式の部署の人間は、需要を申告してきた機関投資家の名前を、一社ずつ読み上げた。この会社は、上場のあと一年以上持った実績が多い。この会社は、初値で売る。この会社は、上場した会社の株を、半年で半分売る。

井坂は、それを議事録に書きながら、思った。

株主の顔ぶれを、こちらで選んでいる。

誠治は、あのとき、それを訊いたのかもしれない。

◇

真柴が、仮条件の幅の案を出した。

一株、二千二百円から、二千四百円。

仁科が、その根拠を、数字で説明した。類似会社の比較で出てくる株の値段。その値段から、上場のときの割引を引く。上場のときは、上場したあとの値上がりを見込んで、少し割り引いた値段で売り出す。割り引かないと、投資家は買わない。

割り引いたあとの値段が、二千二百円から、二千四百円。

プレヒアリングの結果も、その幅と、合っていた。

株式の部署の人間も、頷いた。

「強気で行っていいと思います。需要は、ある」

◇

井坂は、議事録を取りながら、別のことを考えていた。

株を買うのは、機関投資家だけではない。

個人投資家も、買う。

上場のときに出す株のうち、一部は、個人投資家に配られる。個人投資家は、証券会社の支店や、ネットを通じて、株を買いたいと申し込む。申し込みが多いと、抽選になる。

東雲証券の福浦支店にも、申し込みが来る。

福浦の客たちが、鳴海精機の株を、買いたいと申し込む。

地元の会社である。港の埋め立て地に、工場がある。客の中には、鳴海精機で働いている人間の親もいる。鳴海精機に部品を納めている会社の社長もいる。八郎の昔からの知り合いもいる。

井坂は、その客たちの顔を、知っていた。

四年間、福浦で、担当していた客たちである。

その客たちが、一株、二千四百円の株を、百株単位で買う。二十四万円。

井坂は、客たちの顔を、一人ずつ思い浮かべた。

二十四万円なら、買う客。二十二万円なら、買う客。二十万円を超えたら、諦める客。

誰が、どの値段で、買うのか。諦めるのか。

それは、数字ではなかった。

◇

会議が、一時間を過ぎたところで、真柴が、「じゃあ、この幅で」と言いかけた。

井坂は、口を開いた。

「あの」

会議室の視線が、井坂に集まった。

井坂は、議事録から顔を上げた。

「福浦のお客さんは」

そこまで言って、次の言葉を探した。

何を言えばいいのか、分からなかった。福浦の客が、どの値段なら買うか。それを言っても、機関投資家の需要の前では、意味がない。個人投資家に配る分は、全体の一部にすぎない。福浦の客は、その一部の、さらに一部である。

それでも、井坂は、言った。

「福浦のお客さんは、地元の会社の株は、応援で買うんです。儲けるためじゃなくて。応援で買って、ずっと持つ。二十万を超えると、応援の額じゃなくなる、って言う人が、います」

言い終わって、井坂は、議事録に目を戻した。

誰も、返事をしなかった。

株式の部署の人間は、画面を見ていた。仁科は、手元の資料を見ていた。真柴は、井坂を一度見て、それから、机の上を見た。

江藤は、井坂を見ていた。

小此木は、目を閉じていた。

◇

会議室が、静かになった。

十秒くらいだった。

小此木が、目を開けた。

「二千百円から、二千三百円」

それだけ言った。

真柴の案より、一段、低い幅だった。

会議室の中の誰も、何も言わなかった。

株式の部署の人間が、真柴を見た。真柴は、小此木を見ていた。

小此木は、それ以上、何も言わなかった。

理由を、言ったのかどうか。

井坂は、それを、あとで何度も思い出そうとした。

小此木は、「二千百円から、二千三百円」と言った。そのあとに、何か言ったような気もする。言わなかったような気もする。議事録を見ても、その一行しか書いていなかった。井坂は、全部を書き取る人間である。その井坂の議事録に、一行しかなかった。

だから、言わなかったのだと思う。

しかし、確かではなかった。

◇

真柴は、しばらく黙っていた。

それから、江藤を見た。

「社長に、確認をお願いできますか」

江藤は、携帯を出して、会議室の外に出た。

五分後に、戻ってきた。

「社長も、それで、と」

真柴は、頷いた。

「じゃあ、仮条件は、二千百円から二千三百円」

会議は、それで終わった。

◇

会議室を出るとき、小此木が、井坂の横を通った。

何も言わなかった。

井坂は、議事録を閉じた。

最後の一行を、もう一度見た。

「引受審査部小此木審査役より、仮条件を二千百円から二千三百円とする旨発言」

発言の理由の欄は、空いていた。

34 抽選

仮条件が決まった翌日から、ブックビルディングが始まった。

ブックビルディングというのは、仮条件の幅の中で、投資家に、いくらなら何株買うかを申告してもらうことである。申告を、帳簿に積み上げていく。帳簿を、ブックと呼ぶ。そのブックを、ビルドする。積み上げる。

期間は、五営業日。

機関投資家は、東雲証券の株式の部署を通じて申告する。個人投資家は、東雲証券の全国の支店と、ネットを通じて申告する。

◇

五日間、全国の支店の電話が、鳴り続けた。

井坂は、十七階の自分の机で、それを、数字として見ていた。

画面に、ブックの集計が、一時間ごとに更新されて表示される。機関投資家の申告の合計。個人投資家の申告の合計。支店ごとの申告の件数。

福浦支店の行も、あった。

一日目の午前だけで、申告の件数が、百件を超えていた。支店の規模からすれば、多い。ほかの支店の三倍の件数だった。

地元の会社だからである。

機関投資家の申告は、最初の日の午後に、出す株の数を超えた。

二日目には、三倍になった。

株式の部署の人間が、朝の打ち合わせで、それを報告した。

「上限で、埋まります」

真柴は、それを聞いて、頷いた。

小此木は、その打ち合わせには、出ていなかった。引受審査部の人間は、ブックビルディングの打ち合わせには出ない。審査が終われば、あとは営業の側の仕事である。

井坂は、十四階に下りて、小此木に、その数字を伝えようかと思った。

思って、やめた。

伝える理由が、なかった。

小此木は、知っているはずだった。社内のシステムで、誰でも見られる数字である。

◇

個人投資家に配る株のうち、一部は、抽選で決める。

日本の証券会社は、上場のときに個人投資家に配る株の、少なくとも一割を、抽選で配ることになっている。お得意様にだけ配るのではなく、誰にでも、当たる機会がある。

抽選は、ブックビルディングが終わって、公開価格が決まった日に行う。

申告した個人投資家の、全員が、抽選の対象になる。コンピュータが、無作為に選ぶ。

当たった個人投資家には、支店から連絡が行く。当たりました。買いますか。

当たらなかった個人投資家にも、連絡が行く。

◇

抽選の結果の一覧が、東雲証券の社内のシステムに上がったのは、公開価格が決まった日の、夕方だった。

一覧は、支店ごとに分かれている。どの支店の、どの口座が、当たったか。何株か。

その一覧は、井坂の画面には、出てこなかった。

出てくるのは、支店の営業の人間の画面である。企業金融部の人間は、その一覧を見る立場にない。見てはいけない。壁の、向こう側の情報である。

井坂の画面に出てくるのは、集計の数字だけだった。

個人投資家の申告の合計。そのうち、抽選で配った株の数。抽選の倍率。

倍率は、三十倍を超えていた。

◇

井坂は、その数字を見ていた。

三十倍。

三十人が申し込んで、一人が当たる。

福浦支店から申告した個人投資家は、五日間で、四百人を超えていた。そのうち、抽選で当たったのは、十数人のはずである。

誰が当たったのかは、井坂には分からなかった。

分からないまま、一覧は、壁の向こう側を、通り過ぎていった。

福浦の支店で、野々村が、その一覧を見ている。見て、当たった客に、電話をかけている。当たりました。買いますか。

井坂は、その場面を、見ていない。

見ていないが、分かった。

野々村の客の中に、当たった人間がいるかもしれない。いないかもしれない。いたとしても、それが誰なのかを、井坂が知ることはない。

井坂は、画面を閉じた。

◇

その夜、井坂は、会社の窓から、外を見ていた。

窓ガラスに、フロアの蛍光灯が映っていた。蛍光灯の列の向こうに、自分の机が映っていた。机の上の画面は、まだ点いていた。

ブックビルディングの五日間のあいだ、井坂は、福浦支店の申告の件数の行を、一日に何度も見た。

一日目、百件。二日目、二百件。三日目、二百八十件。四日目、三百五十件。五日目、四百件を超えた。

件数は、ただの数字である。誰が申し込んだのかは、分からない。

それでも、井坂は、その数字が一つ増えるたびに、福浦の支店の電話が一本鳴っているところを、思い浮かべた。

窓口の奥の、野々村の机。野々村が、受話器を取る。はい、東雲証券福浦支店でございます。鳴海精機の、はい、ありがとうございます。

受話器を肩に挟んで、手のひらの手帳に、客の名前を書く。

井坂は、その場面を、一度も見ていなかった。

十七階の窓から、日本橋の町の明かりが見える。その向こうに、東京湾の暗い水面が、少しだけ見える。

どこかで、誰かが、当たったことを知らされている。

どこかで、誰かが、当たらなかったことを知らされている。

井坂は、窓から離れて、自分の机に戻った。

公開価格が決まった日の議事録を、まだ書き終えていなかった。

◇

抽選の一覧が支店に届いた翌日、井坂は、株式の部署の人間から、一つだけ話を聞いた。

福浦支店から、問い合わせが一件あった。当たった客の一人が、口座に株を買うお金が足りない。銀行の口座から、証券の口座にお金を移すのに、一日かかる。払込みの期日に、間に合うかどうか。

問い合わせをしてきたのは、支店の主任だった。

野々村ではなかった。

株式の部署の人間は、「期日までに入れば大丈夫、って答えといた」と言った。

井坂は、頷いた。

その客が誰なのかは、訊かなかった。

35 公開価格

公開価格が決まったのは、十二月の第二週の火曜だった。

ブックビルディングの最終日の、翌日である。

◇

朝の九時に、十七階の会議室に、人が集まった。

仮条件の夜と、同じ顔ぶれだった。真柴と、仁科と、井坂。株式の部署の人間が三人。小此木。江藤。

株式の部署の人間が、ブックの最終の集計を、画面に出した。

値段ごとの需要の合計。

仮条件の上限の、二千三百円のところで、需要は、出す株の数の、十八倍を超えていた。

会議室の中が、少し、ざわついた。

十八倍。

幅の上限で、それだけの需要があった。

二千三百円で、全部の株が売れる。売れて、余る。余った分の投資家は、株を買えない。

◇

公開価格は、仮条件の幅の中で決めないといけない。

幅の上限が、二千三百円である。それより高い値段は、つけられない。

需要が、幅の上限を大きく超えていた。二千三百円より、ずっと高い値段でも、売れた。

しかし、つけられるのは、二千三百円までである。

株式の部署の人間が、言った。

「公開価格は、二千三百円。上限で」

誰も、反対しなかった。

真柴は、何も言わなかった。

小此木も、何も言わなかった。

◇

井坂は、議事録を書いていた。

公開価格、二千三百円。仮条件の上限。需要は、上限で十八倍超。

十八倍、という数字を、井坂は、仮条件の夜の、自分の言葉と並べてみた。

二十万を超えると、応援の額じゃなくなる、と言う人が、います。

十八倍の需要の中に、福浦の客の申告は、どのくらい入っているのか。井坂の画面には、支店ごとの件数しか出てこない。四百件。全体の申告の、ほんの一部である。

その四百件の客たちは、二千三百円で、申し込んでいた。二十万円を超えている。それでも、申し込んでいた。

応援の額ではなくなっても、申し込んでいた。

井坂の言ったことは、外れていた。

外れていたことを、井坂は、議事録には書かなかった。

書きながら、一週間前の夜のことを思い出していた。

真柴の案は、二千二百円から二千四百円だった。小此木が、一段低い、二千百円から二千三百円にした。

真柴の案なら、公開価格は、二千四百円になっていた。

百円の差である。

鳴海精機が出す株の数に、百円をかけると、数億円になる。

鳴海精機に入るはずだったお金が、数億円、入らなかった。

井坂は、その計算をした。

計算の結果を、議事録には書かなかった。

真柴も、何も言わなかった。小此木も、何も言わなかった。

真柴は、あの夜、小此木の一言に、何も反論しなかった。今日も、何も言わなかった。

真柴が、何を思っているのかは、分からなかった。

百円は、公開価格の二千三百円の、四パーセントあまりである。

仮条件の夜、井坂は、福浦の客が、どの値段なら買い、どの値段なら諦めるかを、一度だけ口にした。二十万を超えると、応援の額じゃなくなる、と言う人がいる。

二千四百円なら、百株で二十四万円。二千三百円なら、二十三万円。

どちらも、二十万円を超えている。

井坂の言ったことは、数字の上では、何の意味もなかった。

小此木が、なぜ一段低くしたのか。井坂の一言を聞いたからなのか。聞かなかったからなのか。それとも、最初から、そのつもりだったのか。

井坂には、分からなかった。

◇

江藤が、会議室の外に出て、誠治に電話をかけた。

五分後に、戻ってきた。

「社長も、それで、と」

仮条件の夜と、同じ言葉だった。

江藤の顔は、仮条件の夜と、同じだった。何かを思っているのかもしれない。思っていないのかもしれない。

井坂には、分からなかった。

◇

会議は、三十分で終わった。

その日のうちに、公開価格を書き足した訂正届出書を出した。

それから、抽選をした。

◇

その夜、井坂は、公開価格が決まった日の議事録を、書き上げた。

A4で、二枚。

出席者の欄。先方が先、役職の高い順。自社が後。

日付と、時刻と、場所。

議題。

決まったこと。

公開価格、二千三百円。

それだけを書いた。

決まった数字だけを。

誰が何を言ったか。誰が何を言わなかったか。一週間前の夜に、誰が、何を言ったか。百円の差が、いくらになるか。

それは、書かなかった。

議事録に、書く欄がなかった。

井坂は、議事録を、真柴に送った。

夜の十一時だった。

それから、終電で帰った。

部屋に着いて、机の前に座った。

いちばん上の引き出しを、開けた。

手のひらの手帳と、紙袋があった。

井坂は、手帳を手に取った。

開こうとして、やめた。

福浦で、客の顔と一緒に書いた手帳である。持ち株のこと、配当のこと、孫の受験のこと。二十万を超えると応援の額じゃなくなる、と言った客の名前も、その中にある。

今夜、井坂は、その客の名前を、会議室で口にしなかった。名前は、壁の向こう側のものである。口にしたのは、言葉だけだった。

井坂は、手帳を、引き出しに戻した。

紙袋には、触れなかった。

翌朝、真柴の机の上に、議事録が印刷されて置いてあった。

赤は、一つも入っていなかった。

井坂は、その二枚を、しばらく見ていた。

赤が入っていない議事録は、この部署に来て、初めてだった。

真柴が読んだのかどうかは、分からなかった。読んで、直すところがなかったのか。読まずに、机の上に置いたのか。

二枚目の、決まったことの欄を、もう一度見た。

公開価格、二千三百円。

それだけの欄に、赤を入れる余地はなかった。

36 鐘

上場の日は、十二月の第三週の木曜だった。

朝の八時に、東雲証券の本社の、十九階の会議室に、人が集まった。

その前の晩、鳴海精機の人間たちは、東雲証券の本社の近くのホテルに泊まっていた。

井坂は、朝の七時に、ホテルのロビーに迎えに行った。

ロビーのソファに、八郎が、一人で座っていた。

背広を着て、膝の上に、両手を載せていた。

大きすぎる背広だった。肩のところが、八郎の肩より、指二本分、外に出ている。袖は、手の甲を半分隠している。紺の、厚い生地の背広で、少し古い型だった。いつ仕立てたものなのか、井坂には分からなかった。二十年前か、三十年前か。八郎が、今より大きかったころのものだと思った。

誠治と役員たちは、まだ降りてきていなかった。

井坂は、八郎の前に立って、頭を下げた。

「おはようございます」

八郎は、井坂を見上げた。

「おう」

それだけだった。

井坂は、八郎の向かいのソファに、座らなかった。立ったまま、エレベーターのほうを見ていた。

八郎が、言った。

「座り」

井坂は、座った。

二人とも、しばらく黙っていた。ロビーの奥で、朝食の会場の扉が開いて、食器の音がした。

「東京の朝は、早いのう」

八郎が、言った。

「はい」

「毎日、こうか」

「毎日、こうです」

八郎は、頷いた。

それから、自分の背広の袖を、少しだけ引っ張った。袖が、手の甲を半分隠していた。

「これしか、なかったんや」

八郎は、それだけ言った。

エレベーターの扉が開いて、誠治と役員たちが降りてきた。

十九階の会議室には、鳴海精機の側から、誠治と、江藤と、役員が四人。それから、八郎。

会議室に入るとき、八郎は、入口で一度だけ立ち止まって、壁の大きな画面を見上げた。

◇

会議室の壁に、大きな画面が掛かっていた。

株価のボードである。鳴海精機の株の、今の状態が、表示される。

取引は、朝の九時に始まる。

上場した株には、最初の値段がつく。それを、初値と呼ぶ。初値は、買いたい人と売りたい人の注文を合わせて、その釣り合うところで決まる。

九時になった。

画面の、鳴海精機の株の欄に、数字が出た。

買いの注文が、売りの注文を、大きく上回っていた。

値段は、つかなかった。

◇

値段がつかないとき、取引所は、気配値を表示する。

気配値というのは、売買が成立していないときに、今、このくらいの値段で注文が出ている、という参考の値段である。

鳴海精機の株の気配値は、公開価格の二千三百円から始まって、段階的に切り上がっていった。

上場した日の最初の値段は、一度に大きく動かないように、取引所が決めた幅で、少しずつ動かしていく。十分ごとに、一段ずつ。一段ずつ上げて、売りと買いが釣り合うところを探す。

九時十分に、一段上がった。

九時二十分に、また一段。

売りと買いは、釣り合わなかった。

◇

井坂は、八郎の横に立っていた。

真柴から、そう言われていた。会長に、気配値の見方を説明しろ。

八郎は、会議室の椅子に座って、画面を見ていた。

「まだ、値ぇつかんのか」

八郎が言った。

井坂は、画面を指さした。

「今、この数字が、気配値です。この値段で、買いたい人がたくさんいて、売りたい人が少ない。だから、まだ値段がつきません。十分ごとに、この数字が上がっていきます」

八郎は、頷いた。

「ほうか」

九時三十分に、また一段上がった。

八郎は、画面の数字を見ていた。

「上がっとるのう」

「はい」

「売る人が、おらんのか」

「少ないです」

八郎は、しばらく黙っていた。

それから、言った。

「ええことなんか、それは」

井坂は、八郎の横顔を見た。

八郎は、画面を見ていた。

画面の数字は、八郎の持ち株の値打ちを、十分ごとに上げていた。八郎の株の大半は、もう誠治に移っている。それでも、八郎の手元に残った株の値打ちは、上がっていく。

八郎は、それを、嬉しそうには見ていなかった。

福浦の座敷で、井坂が、扶桑化学の値段を読み上げたときと、同じ顔だった。

頷いて、膝の上で、何かを書く顔である。

今日の八郎の膝の上には、何もなかった。

井坂は、答えられなかった。

◇

九時四十五分に、会議室を出た。

東証へ、移動する。

上場の日には、東証で、上場のセレモニーがある。上場した会社の経営陣が、東証の建物に行って、記念の品を受け取り、鐘を打つ。

値段は、まだついていなかった。

値段がつかないまま、セレモニーに行く。

東雲証券の本社から、東証までは、車で五分だった。

◇

東証の建物は、十一月の最後の日曜に、野々村と外から見上げた建物だった。

石の建物。正面の上に、取引所の名前の金属の文字。

井坂は、その正面の扉を、初めて通った。

中は、天井が高かった。

吹き抜けのホールの真ん中に、ガラスで囲まれた円い空間がある。その中に、株価を表示する帯状の電光板が、円を描いて回っている。

セレモニーの部屋は、その奥にあった。

◇

鐘は、部屋の正面に、吊ってあった。

金色の、大きな鐘だった。

打つ回数は、五回と決まっている。五穀豊穣にちなむ、と東証の担当者が説明した。

誰が、どの順番で打つかは、事前に、東証に届け出ておかないといけない。

鳴海精機は、その届け出で、少し揉めた。

井坂は、その揉めた経緯を、江藤から聞いていた。

最初の案は、誠治が一回目を打ち、残りの四回を役員が打つ、というものだった。社長が最初に打つのが、普通である。

そこに、誰かが、会長のことを言った。創業者が、最初に打つべきではないか。

誠治は、それに反対しなかった。

反対しなかったが、そうすると、社長の誠治は、何回目に打つのか。社長が、二回目や三回目に打つのは、おかしい。最後の、五回目なら、締めくくりになる。

結局、八郎が一回目、誠治が五回目、あいだの三回を、江藤と、製造と営業の担当の役員が打つことになった。

それを決めるのに、一週間かかった、と江藤は言った。

「会長は、何も言わんかったです。皆が決めたのを、ほうか、言うて聞いとりました」

◇

セレモニーが始まった。

東証の役員が、挨拶をした。誠治が、挨拶をした。記念の品が、渡された。

それから、鐘を打つ。

八郎が、鐘の前に立った。

大きすぎる背広の袖から、手が出ていた。その手に、木の撞木を持った。撞木は、八郎の腕より、太かった。

八郎は、撞木を振った。

鐘が、鳴った。

低い、長い音だった。部屋の中に、響いた。

八郎は、撞木を、次の役員に渡した。

二回目。三回目。四回目。

誠治が、鐘の前に立った。

撞木を、振った。

五回目の鐘が、鳴った。

◇

記念の撮影があった。

鐘の前に、鳴海精機の人間が並ぶ。真ん中に、誠治。その両脇に、役員たち。

八郎は、列の、いちばん端に立っていた。

誰かが、会長、真ん中へ、と言った。八郎は、首を横に振った。

「ここでええ」

東証の担当者が、カメラを構えた。

井坂は、カメラを構えた担当者の、さらに後ろに立っていた。

カメラのシャッターが、何度か鳴った。

井坂は、その写真には、写っていない。

◇

セレモニーが終わって、東証の建物を出たのは、十一時を過ぎていた。

鳴海精機の株には、まだ、値段がついていなかった。

37 初値

初値がついたのは、翌日だった。

上場の日は、一日中、値段がつかなかった。気配値は、十分ごとに切り上がり続けて、取引所が決めた一日の上限の近くまで上がった。それでも、売りと買いは、釣り合わなかった。

取引が終わった午後の三時半に、鳴海精機の株は、値段がつかないまま、一日目を終えた。

二日目の朝の九時に、取引が始まった。

九時二十六分に、値段がついた。

四千六百円。

公開価格の、二倍だった。

◇

井坂は、それを、十七階の自分の机の画面で見ていた。

四千六百円。

二千三百円で買った人は、一株あたり、二千三百円儲けた。百株なら、二十三万円。

会議室で、株式の部署の人間が、「きれいについた」と言った。

真柴は、何も言わなかった。

◇

初値が、公開価格の二倍になる。

それは、上場が、うまくいったということなのか。

井坂は、それを、考えた。

公開価格の二千三百円で株を買った投資家から見れば、うまくいった。一日で、倍になった。

鳴海精機から見れば、どうか。

鳴海精機は、二千三百円で株を売った。その株が、翌日に、四千六百円で取引された。市場は、鳴海精機の株に、四千六百円の値打ちがあると判断した。それなのに、鳴海精機は、二千三百円で売った。

差額の二千三百円は、鳴海精機に入るはずだったお金である。

公開価格を、低く決めすぎた。

取り損ねた、お金である。

◇

株を買った客から見れば、儲けである。

会社から見れば、取り損ねである。

東雲証券は、そのあいだに立っていた。

東雲証券は、鳴海精機の主幹事である。鳴海精機のために、上場を手伝った。鳴海精機のために、株を売った。

同時に、東雲証券は、株を買う投資家の証券会社でもある。福浦の支店の客たち。全国の支店の客たち。機関投資家。その投資家のために、株を配った。

井坂は、どちらのために働いていたのか。

顧客は、誰だったのか。

井坂は、その問いを、A4には書かなかった。

書いても、答えが出ないと思った。

◇

その日の午後、井坂は、真柴と一緒に、鳴海精機の東京の事務所に、挨拶に行った。

東京の事務所は、日本橋のビルの、八階にあった。小さな事務所で、営業の人間が五人いる。

エレベーターを降りると、事務所の入口の前に、胡蝶蘭が並んでいた。

白い胡蝶蘭の鉢が、十二鉢。どの鉢にも、木の札が立っていて、贈り主の名前が書いてある。取引先の会社。銀行。監査法人。法律事務所。東雲証券の名前の札も、あった。

エントランスの廊下が、胡蝶蘭で、半分ふさがっていた。

井坂と真柴は、その脇を、横向きになって通った。

事務所の中で、営業の人間たちが、頭を下げた。

江藤が、福浦から電話で、礼を言った。誠治は、電話には出なかった。福浦の本社の、エントランスにも、胡蝶蘭が並んでいるのだろう、と井坂は思った。

見てはいなかった。

東京の事務所を出るとき、井坂は、エレベーターの前で、胡蝶蘭の札を、もう一度見た。

十二の札の、いちばん端に、東雲証券の札があった。

札の字は、印刷だった。社名と、企業金融部、と入っている。個人の名前は、ない。

誰が手配したのかを、井坂は知らなかった。

真柴が、隣で、エレベーターのボタンを押していた。

エレベーターの中で、真柴が、一言だけ言った。

「倍か」

井坂は、真柴を見た。

真柴は、階数の表示を見ていた。

「小此木さんの幅で、倍だ」

それだけ言って、黙った。

一階に着くまで、真柴は、それ以上、何も言わなかった。

真柴が、仮条件の夜のことを口にしたのは、それが、最初で最後だった。

◇

その夜、井坂は、自分の部屋で、携帯を見た。

自分の携帯である。

メッセージのアプリを、開いた。

いちばん上に、野々村の名前があった。最後のメッセージは、十一月の日曜に、東京駅で別れたあとに、野々村から来た一行だった。

「新幹線、乗りました。ありがとうございました」

それから、何も来ていなかった。

上場の日にも、初値の日にも。

井坂は、画面を閉じた。

携帯を、机の上に置いた。

十分ほどして、もう一度、携帯を手に取った。

画面を点けた。

メッセージは、来ていなかった。

井坂は、携帯を、机の上に伏せた。

それから、テレビを点けた。

夜のニュースの、経済の枠で、今日の株式市場の話をしていた。最後に、新しく上場した会社の、初値のことを、三十秒だけ伝えた。

鳴海精機の名前が、出た。

画面に、東証の部屋の、金色の鐘が映った。昨日の、セレモニーの映像だった。誠治が、撞木を振っていた。

五回目の鐘だった。

一回目の、八郎の鐘は、映らなかった。

アナウンサーが、初値は公開価格の二倍でした、と言った。

画面が、次のニュースに変わった。

井坂は、テレビを消した。

テレビを消してから、夕方のことを思い出した。会社の地下のコンビニで、夕食の弁当を買ったとき。

レジの横の、新聞の棚に、夕刊が並んでいた。一面の下のほうに、小さく、鳴海精機の初値の記事が出ていた。

見出しは、「地方の部品メーカー、初値は公開価格の二倍」。

井坂は、夕刊を買わなかった。

記事の数字は、二次情報である。

38 ロックアップ

三月の末に、小此木が、定年で会社を去った。

井坂は、それを、知らなかった。

知ったのは、四月の第一週に、十四階に下りたときだった。別の会社の上場の審査の件で、小此木に相談があった。

窓際の、いちばん奥の机に、小此木はいなかった。

机の上が、片づいていた。

紙が、一枚もなかった。積んであった紙の束が、全部なくなっていた。画面は、電源が切れていた。パイプ椅子は、机の横に、畳んで立てかけてあった。

机の真ん中に、付箋が一枚だけ、貼ってあった。

黄色い付箋である。手書きで、何か書いてあった。

井坂は、それを、読まなかった。

井坂宛てのものではなかった。付箋の、いちばん上に、別の人間の名前が書いてあった。引受審査部の、若い担当の名前である。

井坂は、それ以上、付箋に近づかなかった。

◇

送別の会は、なかったのだと、あとで聞いた。

小此木が、断った。

最後の日の夕方、小此木は、定時に、机の上の最後の紙をシュレッダーにかけて、腕抜きを外して、鞄に入れた。それから、フロアの人間に、一言だけ、「ほな」と言って、エレベーターに乗った。

それを井坂に教えてくれたのは、付箋の宛名の、若い担当だった。

「付箋には、何て」

井坂は、訊きかけて、やめた。

若い担当は、それに気づいたのかどうか、何も言わなかった。

◇

鳴海精機の上場の、打ち上げがあったのは、その少し前の、二月の終わりだった。

日本橋の、中華料理の店の個室。東雲証券の側と、鳴海精機の側と、監査法人と、法律事務所の人間。三十人ほどだった。小此木は、来ていなかった。

乾杯のあとで、誠治が、一人ずつに、記念の品を配った。

アクリルの盾だった。

手のひらより少し大きい、透明な直方体で、中に、鳴海精機の社名と、上場の日付と、上場した市場の名前と、東雲証券の社名が、刻まれている。刻まれた文字が、光を受けて、白く浮かび上がる。

トゥームストーン、と呼ぶ、と仁科が教えてくれた。墓石のことである。案件が終わった記念に、関わった人間に配る。

井坂は、それを受け取った。

最初の一個だった。

◇

打ち上げのあとで、井坂は、それを会社の自分の机に置いた。

画面の横の、少し空いたところに。

翌朝、向かいの真柴の机を見た。

真柴の机の上には、紙が積んである。付箋の四色。画面が二枚。キーボード。電話。

アクリルの盾は、一つもなかった。

真柴は、十年以上、この部署にいる。何十という案件をやってきた。盾を、何十個ももらっているはずである。

仁科に訊くと、仁科は、少し笑った。

「真柴さん、もらうたびに、誰かにあげてるの」

「誰に」

「案件で、いちばん働いた若手に。あとは、先方の担当者とか。自分の机には、置かない」

井坂は、自分の机の盾を見た。

鳴海精機の盾は、真柴の分も、誰かにあげたのだろう。

誰にあげたのかは、分からなかった。

◇

六月に、ロックアップが明けた。

ロックアップというのは、上場する前から株を持っていた大株主が、上場したあと、一定の期間、株を売らないという約束である。上場した直後に、大株主が大量に株を売ると、株価が崩れる。それを防ぐために、上場から半年くらいのあいだ、売らないと約束する。

その約束の期間が、六月に、終わった。

鳴海精機の大株主は、誠治と、八郎と、従業員の持株会と、取引先の数社だった。

ロックアップが明けても、誰も、株を売らなかった。少なくとも、開示される規模では。

◇

井坂は、ある開示書類を読んでいた。

鳴海精機の株主の構成が、上場の前と、上場のあとで、どう変わったかが分かる書類である。

上場の前の、有価証券届出書には、大株主の一覧があった。いちばん上が、誠治。二番目が、八郎。

上場のあとの、最初の決算のあとに出た有価証券報告書にも、大株主の一覧があった。

いちばん上は、誠治だった。

八郎の名前は、なかった。

上位十名の一覧に、八郎の名前が、なかった。

井坂は、二つの書類を並べて、数字を追った。

上場の前に、八郎が持っていた株の、ほとんどが、誠治の持ち分に移っていた。上場の前の、どこかの時点で、八郎は、株の大半を、誠治に譲っていた。

譲ったあとで、八郎の手元に、どれだけの株が残ったのか。

書類には、書いていなかった。上位十名に入らない株主の、持ち株の数は、開示されない。

◇

井坂は、それを、推測した。

八郎は、東雲証券の福浦支店に、口座を持っている。上場した株は、証券会社の口座で管理される。八郎の手元に残った鳴海精機の株は、福浦支店の、八郎の口座に入っている。

何株か。

井坂は、それを、推測する材料を、一つだけ持っていた。

上場の前の、有価証券届出書の、株主の状況のページ。それから、上場のあとで会社が株主に送った報告書の、株主の分布の表。持ち株の数ごとに、株主が何人いるかが、表になっている。百株以上千株未満の株主が、何人。千株以上一万株未満の株主が、何人。

上場の前の数字は、届出書の資料から、井坂が自分で同じ区切りに組み直した。

その二つの表を並べて、一行ずつ、差を取った。

一万株以上の株主の数が、一人減っていた。千株以上一万株未満の株主の数が、一人増えていた。

ほかの株主の移動を差し引いて、残った一人。

千株。

千株だけを、八郎は、自分の口座に残していた。

◇

井坂は、それを、確かめなかった。

確かめる方法は、一つだけある。福浦支店の、野々村に訊けばいい。

訊くことは、できなかった。

八郎の口座の中身は、壁の向こう側の情報である。

井坂は、二つの書類を閉じた。

推測は、推測のままにした。

A4には、何も書かなかった。

◇

その月の終わりに、野々村から、電話が来た。

久しぶりだった。

十二月の、上場の日の前から、何も来ていなかった。半年ぶりだった。

夜の九時だった。井坂は、まだ会社にいた。

廊下の突き当たりの、非常階段の扉の前まで歩いて、出た。

「はい」

「井坂さん。今、ええですか」

「ええよ」

野々村は、少しだけ間を置いた。

「前に、IPOなんか当たらん、いうのが口癖のお客さんがおって」

井坂は、非常階段の扉に、背中をつけた。

「鳴海精機の、当たったんです。十二月に」

野々村は、そこで、少し笑った。

「本人が、いちばん困ってはって。当たった、いう電話したら、そんなはずない、言うて。何かの間違いやないか、言うて。三回、確認されました」

井坂は、黙って聞いていた。

「初値で売って、お孫さんにランドセル買うたって」

野々村は、それだけ言った。

それから、少し間を置いて、別の話を始めた。

「そうそう、支店の窓口に、新しい子が入ったんです。四月に。その子が、また、ええ子で」

窓口の新人の話。支店の近くに、新しいパン屋ができた話。港の岸壁の、柵が塗り直された話。

井坂は、相槌を打っていた。

ランドセルの話には、もう、戻らなかった。

十分ほどで、電話は終わった。

「ほな」

電話が切れた。

井坂は、非常階段の扉の前に、しばらく立っていた。

初値で売った客がいる。

十二月の、あの抽選の一覧の中に、その客の名前があった。壁の向こう側を、通り過ぎていった一覧の中に。

その客は、二千三百円で買って、四千六百円で売った。

その差額で、孫のランドセルを買った。

井坂は、それを、半年たって、初めて知った。

39 深夜料金

七月の初めの、夜中の二時だった。

会社の前で、手を上げると、一台が寄ってきた。

後部座席に乗った。

運転手が、振り返った。

白髪を短く刈っていて、紺のベストの胸ポケットに、ボールペンが二本。

「ああ、どうも」

運転手は、それだけ言って、前を向いた。

井坂は、住所を言った。

車が、動き出した。

◇

しばらく、どちらも黙っていた。

高速の入口の手前の、信号で停まったとき、運転手が言った。

「そういえば、この前、ニュースで見ましたよ」

井坂は、窓の外を見ていた。

「鳴海精機。去年の暮れに、上場した会社」

井坂は、運転手のほうを見た。

運転手は、前を向いたまま、話していた。

「テレビで、鐘を鳴らしてるとこ、やってました。社長さんが。あと、じいさんが、端のほうに立ってて」

信号が、青に変わった。

車が、動き出した。

「お客さんとこ、ああいうのやっとるんですか」

井坂は、少し間を置いた。

「はい」

井坂は、そう言った。

言ってから、気づいた。

運転手に、「何してる人」と訊かれて、三年になる。最初は、「証券会社です」と答えた。運転手は、「株屋さんか」と言った。二回目は、「会社が、株を出すのを手伝う仕事です」と答えた。運転手は、「ほう」と言った。

今日は、訊かれる前に、答えた。

「はい」

初めて、仕事の中身について、肯定の返事をした。

◇

運転手は、頷いた。

「ええ会社らしいですね」

井坂は、運転手を見た。

「鳴海精機」

どこで聞いたのか、運転手は言わなかった。

ニュースで見たのか。誰かから聞いたのか。それとも、テレビの鐘の場面を見て、そう思っただけなのか。

井坂は、訊かなかった。

「はい」

もう一度、そう言った。

運転手は、ハンドルを握ったまま、少しだけ頷いた。

「じいさん、いい顔してましたよ。端っこで」

井坂は、答えなかった。

テレビでは、八郎の鐘は、映らなかった。映ったのは、誠治の五回目の鐘だった。八郎は、その後ろの列の、端に立っていた。

運転手は、それを見ていた。

「うちの親父も、あんな背広、持ってましたよ。自分の葬式のときに着るんだって言って。結局、入らなくなってましたけど」

運転手は、それだけ言って、黙った。

井坂も、黙っていた。

高速の入口の案内が、窓の外を流れていった。

◇

車は、高速に乗った。

窓の外を、街灯が、同じ間隔で流れていった。

井坂は、後部座席に深く座って、目を閉じた。

鐘の音を、思い出した。

八郎が打った、一回目の鐘。

低い、長い音だった。

大きすぎる背広の袖から出た、八郎の手。撞木を握った手。

井坂は、それを、写真の外から見ていた。

目を開けた。

窓の外に、東京の夜の街が、流れていた。

◇

部屋に着いたのは、二時四十分だった。

井坂は、鞄を床に置いて、机の前に座った。

A4の、いちばん後ろのページを開いた。

リーグテーブルのこと。値段には崖があること。「九 青」。

その下に、何か書こうとした。

今日、運転手に、はい、と言ったこと。

書けなかった。

書けば、それが何のことなのか、自分で説明しなければならなくなる。はい、と言った。それだけのことである。それだけのことが、三年かかった。

井坂は、ペンを置いた。

窓の外で、新聞配達のバイクの音がした。

第四部 公正性

40 上場維持

二年が、過ぎていた。

井坂は、VPになっていた。

ヴァイス・プレジデント。真柴が、五年前に井坂の向かいの席で持っていた肩書きである。名刺の、役職の欄が、もう空白ではない。

三十二歳になっていた。

真柴は、MDになった。フロアの窓際の、個室の一つに移った。個室の扉は、いつも開いている。柳瀬の個室が、そうだったように。

柳瀬は、関連会社へ移っていた。送別の会で、柳瀬は、一言だけ挨拶をした。「ここは、リテールよりリテールらしいぞ」。着任の日に井坂に言ったのと、同じ言葉だった。フロアの何人かが、笑った。井坂は、笑わなかった。意味は、まだ説明されていなかった。

送別のあとで、真柴が、井坂の横に来た。

「お前を取ったのは、柳瀬さんだ」

井坂は、真柴を見た。

「瀬戸内の担当が、一人辞めた。あっちの出の奴だった。代わりに、あっちの客の顔が分かる奴を一人よこせって、柳瀬さんが人事に言った」

真柴は、それだけ言った。

なぜ井坂だったのか、それ以上のことは、言わなかった。

仁科は、一年前に、会社を辞めていた。運用会社に移った。株を買う側である。辞める日に、仁科は、井坂の机の上に、付箋を一枚貼っていった。「マウス」とだけ書いてあった。井坂は、それを、まだ剥がしていなかった。

辞めると聞いたのは、辞める一か月前だった。

フロアの給湯室で、コーヒーを淹れていると、仁科が入ってきた。

「辞めるの」

仁科は、それだけ言った。

井坂は、コーヒーのカップを持ったまま、仁科を見た。

「どこへ」

仁科は、運用会社の名前を言った。国内の、独立系の運用会社で、中小型の株に長く投資することで知られている。

「買う側に、行ってみたくて」

仁科は、そう言って、自分のカップにお湯を注いだ。

「売る側から見てると、分からないことがある。買う側が、何を見て買うのか。何を見て売るのか。ここで七年やって、それが、まだ分からない」

井坂は、黙っていた。

「井坂くんは、分かる?」

井坂は、少し考えた。

福浦の客のことを思い出した。応援で買って、ずっと持つ客。孫のお年玉のために、配当を待つ客。IPOなんか当たらん、と言いながら、申し込む客。

「少しだけ」

井坂は、そう言った。

仁科は、少しだけ笑った。

「支店にいたからね」

それだけ言って、給湯室を出ていった。

◇

井坂の机の上には、アクリルの盾が、九個並んでいた。

画面の横に、二列に並べてある。鳴海精機の盾が、いちばん左の、前の列にある。ほかの八個は、別の会社の上場と、公募増資と、社債と、M&Aの盾である。

真柴のように、誰かにあげることは、しなかった。

あげる相手が、思いつかなかったわけではない。部下は、二人いる。アナリストの小暮と、もう一人。

井坂は、盾を、並べたままにしていた。

盾の文字は、どれも、白く浮かび上がっている。社名と、日付と、案件の種類。

鳴海精機の盾の日付は、三年近く前の、十二月の木曜である。

ほかの八個の日付を、井坂は、全部覚えていた。覚えようとしたのではない。議事録を書いたので、覚えていた。どの案件の、どの夜に、誰が何を言ったか。

盾には、それは刻まれていない。

◇

VPになって、井坂の机に来る仕事の形が変わった。

自分で作るのではなく、部下が作ったものを直す。小暮ともう一人が作ったブックとモデルと議事録を、夜の十時以降に、全部読む。

同時に動いている案件が、六つあった。上場の準備が二つ。公募増資の準備が一つ。M&Aの助言が二つ。それから、鳴海精機の定例の資本政策の相談。

六つの案件の、それぞれの先方に、それぞれの担当がいる。それぞれの担当が、それぞれの時間に電話をかけてくる。朝の七時の会議のあとから、夜の二時まで。

井坂の予定表は、十五分刻みで埋まっていた。空いているのは、移動の時間だけだった。移動の時間に、部下のブックを読んだ。

小暮のモデルを読んでいて、税率の前提が、去年の法改正の前の数字になっているのに気づいたのは、タクシーの中の、夜中の一時だった。

井坂は、その場で、小暮に電話をかけた。

小暮は、三回目の呼び出しで出た。声で、寝ていたのが分かった。

「十二枚目のシート。税率」

井坂は、それだけ言った。

電話の向こうで、小暮が、息を吸うのが聞こえた。

「すみません、今、直します」

「朝の七時まででいい」

電話を切ってから、井坂は、自分の言い方が、五年前の真柴の言い方と、同じ長さだったことに気づいた。

◇

ワイシャツは、形状記憶のものに変わっていた。

アイロンをかける時間が、なくなったからである。洗濯機で洗って、干して、そのまま着る。

鞄は、五年前に異動したときに買ったものを、まだ使っていた。角が、擦れて白くなっている。持ち手の革が、手の形に、少しだけへこんでいる。

内ポケットは、空だった。

◇

野々村からは、今でも、数か月に一度、電話が来た。

いつも、夜の七時か八時だった。支店からの帰り道の、十分間。自転車を押しながら、歩いているのだと思う。電話の向こうで、ときどき、自転車のチェーンの音がする。

内容は、いつも、福浦のことだった。

支店の誰それが転勤した。港の近くに、新しい店ができた。窓口の新人が、初めて一人で客の相続の手続きを受け付けた。

井坂の仕事のことは、一度も訊かなかった。

井坂も、自分からは話さなかった。

十分たつと、野々村は、「ほな」と言って、切った。

電話を切ったあとで、井坂は、いつも、非常階段の扉の前に、しばらく立っていた。

野々村の話を、書き留めることはしなかった。A4にも、手のひらの手帳にも。

書かなくても、覚えていた。

支店の誰それが転勤した。その誰それの名前も、転勤先も。港の近くにできた店の名前も、その店で何を売っているかも。窓口の新人が、相続の手続きで、何に手間取ったかも。

井坂は、聞こえたことを全部書く人間である。

野々村の話だけは、書かずに覚えていた。

◇

野々村は、二年のあいだに、一度、福浦支店を離れていた。

隣の市の支店に、一年半いた。そこで、主任になった。去年の秋に、主任のまま、福浦支店に戻った。

七年目になっていた。

福浦支店に戻ったとき、野々村は、また八郎の担当になった。隣の市の支店にいたあいだは、別の人間が八郎を担当していた。野々村が戻ると、八郎のほうから、支店に電話が来た。

あの子に、戻してくれ。

野々村は、それを、電話で、井坂に話した。

「鳴海さん、あの若い子、言うんですよ。もう若くないのに」

そう言って、笑った。

◇

鳴海精機の株価は、公開価格を割っていた。

上場した翌日の初値が、四千六百円。そこから、二年半かけて、下ってきた。今は、千二百円台である。公開価格の二千三百円の、半分ほどだった。

株価が下がった理由は、いくつかあった。

新しい工場の稼働が、計画より遅れた。海外の取引先との契約は、結ばれたが、発注の量が、見込みより少なかった。医療の部品は、試作の段階から、まだ進んでいなかった。

事業計画の九パーセントは、一度も達成されなかった。

それに、鳴海精機の株を、誰も見ていなかった。

上場したあとの会社の株は、証券会社のアナリストが調べて、レポートを書く。この会社の株は、買いか、売りか。いくらが妥当か。機関投資家は、そのレポートを読んで、株を買うかどうかを決める。レポートを書くアナリストがいない会社の株は、機関投資家の目に入らない。

東雲証券の調査の部署は、主幹事として、鳴海精機のレポートを書いた。しかし、主幹事のレポートだけでは、足りない。主幹事は、その会社の上場を手伝った側である。投資家は、ほかの証券会社のアナリストの目も欲しがる。

上場の翌年、井坂は、ほかの証券会社の調査の部署を、一社ずつ回った。

鳴海精機を、調べてもらえないか。

井坂の側から、頼めることは少なかった。アナリストは、自分の会社の中で、独立して、どの会社を調べるかを決める。頼まれて、書くものではない。井坂にできるのは、江藤に、各社のアナリストとの面談の場を作ってもらうことだけだった。

江藤は、福浦から東京に出てきて、七社のアナリストに会った。

七社のうち、レポートを書き始めたのは、一社だけだった。

書かない理由は、どこも同じだった。時価総額が、小さすぎる。株の売買の量が、少なすぎる。書いても、読む投資家がいない。

一社だけ書いたアナリストのレポートも、翌年には、止まった。そのアナリストが、別の会社に移ったからである。

二年目の終わりに、鳴海精機を調べているアナリストは、東雲証券の一人だけになった。

株価は、下がり続けた。下がる理由も、上がる理由も、誰も書かなかった。

◇

それに、上場を続けること自体が、重くなっていた。

上場している会社は、毎年、多くの費用を払う。監査法人への報酬。開示の書類を作る手間。株主総会の運営。上場を維持するための取引所への料金。

それから、数年前に、東証が、上場している会社に、ある要請を出していた。

資本コストや株価を意識した経営をしてほしい。株価が、会社の純資産の額を下回っている会社は、それを改善する計画を出してほしい。

鳴海精機の株価は、純資産の額を下回っていた。

改善の計画を、出さないといけない。出した計画を、毎年、見直さないといけない。見直した結果を、開示しないといけない。

江藤が、それを全部、一人で見ていた。

年に二度、井坂は、江藤と会っていた。

上場のあとも、東雲証券は、鳴海精機の担当の証券会社である。決算の説明会の段取りを手伝い、株主の構成の変化を報告し、ときどき、資本政策の相談を受ける。

会うたびに、江藤の白髪が、増えていた。

最後に会ったのは、去年の秋だった。福浦の本社の会議室で、江藤は、改善の計画の紙を、井坂の前に置いた。

「これ、毎年、書き直すんですわ」

江藤は、そう言って、紙の上を、指で叩いた。

「書き直すたびに、同じことを書く。書くことが、ほかにないんです」

◇

四月の終わりに、誠治から、真柴に、電話があった。

上場を、やめることを、考えている。

相談に乗ってもらえないか。

真柴は、それを、個室で受けた。

電話を切ると、個室から出てきて、井坂の席の前に立った。

「鳴海精機。MBOの相談だ」

井坂は、画面から顔を上げた。

「お前、やれ」

真柴は、それだけ言って、個室に戻った。

◇

MBOというのは、会社の経営陣が、自分の会社を買い取ることである。

マネジメント・バイアウト。経営陣が、投資ファンドなどと組んで、市場で取引されている自社の株を、全部買い集める。買い集めたら、会社は、上場をやめる。株主は、経営陣と、投資ファンドだけになる。

上場をやめれば、上場を維持する費用がかからなくなる。株価を気にしなくてよくなる。長い目で見た経営ができる。

誠治は、それを、考えていた。

井坂は、A4を開いた。

新しいA4だった。五年前に初めて買ったのと同じ、薄い灰色の表紙のプロジェクトペーパー。もう、何十冊目なのか、数えていなかった。

一枚目に、日付を入れた。

それから、一行だけ書いた。

「鳴海精機 MBO」

書いて、そのページを、しばらく見ていた。

五年前、同じ会社の名前を、地方銀行の一覧の十四行目に見つけた。上場候補、と書いてあった。

今度は、上場をやめる相談である。

41 株価

五月の第二週に、鳴海精機の株価のチャートを、会議室の壁に映した。

十九階の、窓のない会議室だった。プロジェクタの光が、白い壁に、一本の線を描いた。

上場の日から、今日までの、株価の線である。

線は、左の端で、急に高く跳ね上がっていた。初値の四千六百円。そこから、右に向かって、ゆっくりと下っていた。途中で、何度か小さく持ち直して、また下る。二年半かけて、千二百円台まで下りてきていた。

壁の線は、山の形をしていた。

左に、高い山。そこから、長い下り坂。

◇

会議室には、井坂と、小暮と、M&Aの部署の人間が二人いた。

小暮は、井坂の部下のアナリストである。入社して四年目。二十六歳。井坂が福浦から異動してきたときと、同じ年だった。

M&Aの部署の人間が、株価の線を指さしながら、説明した。

「MBOの価格は、直近の株価に、プレミアムを乗せて決めます。直近の株価が、この辺り」

線の右の端を、指で押さえた。

「ここに、三割か、四割か、五割を乗せる。それが、買付価格になります」

小暮が、手元のノートに、数字を書いた。

井坂は、壁の線を見ていた。

左の端の、高い山を見ていた。

その山の頂上で、株を買った人間がいる。

初値の四千六百円で、株を買った人間。それから、公開価格の二千三百円で、株を買って、売らずに持ち続けた人間。

MBOの価格は、線の右の端から決まる。右の端に、三割か、四割か、五割を乗せる。千二百円に、四割を乗せると、千七百円に届かない。

公開価格の、二千三百円には、届かない。

◇

会議は、二時間で終わった。

小暮とM&Aの部署の人間が、会議室を出ていった。井坂は、一人で残って、プロジェクタを消した。

壁の線が、消えた。

白い壁だけが、残った。

◇

その夜、自分の携帯が、震えた。

夜の八時だった。井坂は、まだ会社にいた。

画面に、野々村の名前が出ていた。

電話だった。

井坂は、席を立って、廊下の突き当たりの、非常階段の扉の前まで歩いた。

三年前から、野々村の電話は、いつもここで受けていた。

出た。

「はい」

「井坂さん。今、ええですか」

「ええよ」

電話の向こうで、自転車のチェーンの音がしなかった。

野々村は、歩いていなかった。どこかに、立ち止まっているようだった。

「鳴海さんが、入院しました」

井坂は、非常階段の扉に、背中をつけた。

「先週の木曜に。家で、倒れはって。房江さんが、救急車呼んで」

野々村の声は、落ち着いていた。

「今は、市民病院です。意識は、あります。話もできます。でも、もう、家には帰れんかもしれんって、お医者さんが」

井坂は、黙っていた。

野々村も、少しだけ黙った。

それから、言った。

「会いに来てください、とは言いませんけど」

野々村は、そこで、言葉を切った。

残りを、言わなかった。

◇

井坂は、非常階段の扉の前で、動かなかった。

会いに行けなかった。

鳴海精機は、MBOの準備に入っている。まだ、公表していない。公表していない情報を、井坂は知っている。

MBOでは、東雲証券は、買い手の側につく。誠治と、投資ファンドの側である。

鳴海精機の株を持っている株主は、売り手の側である。八郎は、千株を持っている。

買い手の側のアドバイザーの人間が、売り手の側の株主を、個人的に見舞う。

それは、できなかった。

見舞いの場で、井坂が何も話さなくても、見舞ったという事実が残る。MBOが公表されたあとで、その事実を誰かが知れば、どう見えるか。買い手の側の人間が、公表の前に、大株主の創業者のところに行っていた。

井坂は、それを、野々村に説明できなかった。

説明するには、MBOのことを話さないといけない。

◇

電話の向こうで、野々村は、待っていた。

井坂は、何か言おうとした。

言えることが、なかった。

「……そうか」

それだけ言った。

野々村は、少しだけ間を置いた。

それから、言った。

「ほな」

電話が、切れた。

理由を、野々村は、訊かなかった。

なぜ来られないのか。仕事が忙しいのか。東京から福浦は遠いのか。

何も、訊かなかった。

◇

二週間後に、野々村から、メッセージが来た。

「鳴海さんとこ、行ってきました。担当なんで」

井坂は、それを、会社の自分の席で読んだ。

続けて、もう一行、来た。

「財務部さん元気か、って。財務部さんって言うたら、笑うてはりました」

井坂は、画面を見ていた。

財務部さん。

五年前、支店の通用口で、野々村がそう呼んだ。

八郎は、その呼び名を、知っていた。野々村が、八郎に話したのだろう。いつ話したのかは、分からない。五年のあいだの、どこかで。

八郎は、病院のベッドの上で、その呼び名を聞いて、笑った。

井坂は、そのメッセージを、もう一度読んだ。

担当なんで。

野々村は、そう書いていた。担当だから、見舞いに行った。それだけのことだ、と。

井坂は、野々村が、自分の代わりに行ったのだと分かった。

野々村は、そうは書いていなかった。

井坂は、返信の欄に、指を置いた。

「ありがとう」と打ちかけて、やめた。

礼を言えば、野々村が、井坂の代わりに行ったことになる。野々村は、担当だから行った、と書いている。

井坂は、何も打たなかった。

画面を閉じた。

◇

六月の初めに、MBOの準備の最初の打ち合わせが、鳴海精機の本社であった。

井坂は、小暮と、M&Aの部署の人間と、福浦に行った。

駅前のロータリーに、ふくたこの像が立っていた。オレンジ色が、雨と日差しで、ずいぶん褪せていた。台座のプレートの、デザインした人の名前の字が、少しだけ読みにくくなっていた。

小暮が、像を見て、写真を撮った。

「かわいいですね、これ」

井坂は、何も言わなかった。

タクシーで、港の埋め立て地の本社に向かった。途中で、市民病院の前を通った。白い七階建ての建物で、正面の玄関に、車が二台停まっていた。

井坂は、その建物を、窓から見た。

見ていたのは、信号で停まっていた、三十秒くらいだった。

信号が変わって、タクシーが動き出した。

本社の会議室で、誠治と、江藤と、投資ファンドの担当者が待っていた。

誠治は、少し痩せていた。父親が入院していることを、誠治は、打ち合わせのあいだ、一度も口にしなかった。井坂も、訊かなかった。

打ち合わせが終わって、玄関を出るとき、江藤が、井坂の横に並んだ。

「会長、市民病院ですわ」

江藤は、前を向いたまま、小さい声で言った。

「知っとってです、よね」

井坂は、頷いた。

江藤は、それ以上、何も言わなかった。

42 アプリ

六月の最初の水曜の夜だった。

自分の携帯が震えたのは、夜の七時半だった。井坂は、会社を出て、本社の前の歩道を、地下鉄の駅に向かって歩いていた。

その日は、珍しく、早く帰れる日だった。

画面に、野々村の名前が出ていた。

電話だった。

出た。

「はい」

「井坂さん。今、ええですか」

「ええよ」

電話の向こうで、自転車のチェーンの音がした。

いつもの、帰り道の十分間だった。

◇

野々村は、支店の新人の話をした。

四月に入った新人が、初めて、自分で客から注文を取った。取った注文が、投資信託の、小さな額の積立だった。新人は、それを、支店じゅうに報告して回った。支店長が、拍手をした。

「私が一年目のとき、そんなこと、せんかったですけどね」

野々村は、そう言って、笑った。

井坂は、野々村の一年目を、覚えていた。

最初の注文は、七月だった。八郎の家の近くに住む、八郎の友人の老人から、国債を百万円。野々村は、それを、誰にも報告しなかった。井坂が、夕方に、野々村の手帳のページを見て、知った。手のひらの手帳の、その日のページに、「国債 百万 ○○さん」と、小さく書いてあった。

井坂は、それを、野々村に言わなかった。

◇

それから、港の埋め立ての話になった。

港の東の端に、新しい岸壁を造る計画がある。大きな船が着けられるように。そのために、埋め立てをする。

「ふくたこの像があるとこ、あるでしょう、駅前の。あれ、港のほうに移すんやって。新しい岸壁の公園に」

「そうか」

「市役所の人が、支店に来て、言いよってでした。あの像作った孫の人。もう孫やないけど。子どもが二人おって」

井坂は、本社の前の歩道を、ゆっくり歩いていた。

地下鉄の駅の入口が、見えてきた。

電話は、そろそろ、十分になろうとしていた。

駅の入口の手前に、花屋があった。

閉店の準備をしていて、店先のバケツを、店の中に運び込んでいた。バケツの中に、ひまわりが、十本ほど残っていた。

野々村の電話の向こうで、自転車のチェーンの音がしていた。ときどき、車の音。一度だけ、踏切の音。

福浦の支店から、野々村の実家までの道には、踏切が一つある。井坂は、それを知っていた。盆の夜に、二人で歩いた港の道から、左の坂を上ったところにある。

野々村は、今、その踏切の前にいる。

◇

電話の終わりぎわに、野々村が言った。

天気の話と、同じ調子だった。

「私、アプリ始めようかな?」

敬語が、そこだけ、外れていた。

井坂は、歩道の上で、立ち止まった。

地下鉄の駅の入口の、少し手前だった。前の信号が、青だった。

アプリ。

何のアプリなのかを、野々村は言わなかった。

言わなくても、分かった。

二十八歳の、独身の女性が、「アプリ始めようかな」と言う。そのアプリは、一つしかない。

◇

信号が、青から、赤に変わった。

井坂は、歩道の上に、立っていた。

後ろから来た人間が、井坂の横を、すり抜けていった。舌打ちをした人間もいた。

井坂は、動かなかった。

アプリを始める、ということが、何を意味するのかを、井坂は考えた。

考えようとして、考えられなかった。

頭に浮かんだのは、数字だった。野々村の年齢。二十八。井坂の年齢。三十二。ただの数字である。

それから、手のひらの手帳が浮かんだ。

東京の部屋の、机の引き出しの中の手帳。その隣の、紙袋。

井坂は、それを、打ち消した。

打ち消したことに、気づいていた。

電話の向こうで、自転車のチェーンの音が、止まっていた。

野々村も、立ち止まっていた。

信号が、赤から、青に変わった。

一度、変わった。

井坂は、口を開いた。

「……いいと思う」

それだけ、言った。

◇

電話の向こうで、少しだけ、間があった。

「そっか」

野々村が、言った。

敬語では、なかった。

それから、野々村は、待たなかった。

「ほな」

電話が、切れた。

◇

井坂は、歩道の上に立ったまま、携帯の画面を見ていた。

通話の時間が、表示されていた。

十分四十二秒。

野々村が、沈黙を待たずに電話を切ったのは、初めてだった。

これまで、野々村は、井坂が話せないとき、いつも待った。電話を切らずに、黙って待った。井坂は、その秒数を、数えていた。

今日、野々村は、待たなかった。

井坂が「いいと思う」と言って、野々村が「そっか」と言って、それで、切れた。

黙る時間が、なかった。

◇

その夜、井坂は、自分の部屋に帰った。

ワンルームの部屋は、五年たって、少しだけ物が増えていた。本棚が一つ。小さなテーブルが一つ。

窓際の、机。

井坂は、机の前に立って、いちばん上の引き出しを開けた。

手のひらの手帳が、入っていた。

黒い革の表紙の、角が少し丸い。四年前の三月に、そこにしまってから、一度も出していない。

その隣に、紙袋があった。

白い厚手の紙の、紺のリボンの持ち手。側面に、金色の、筆記体のロゴ。

四年前の十月に、ニューヨークで、そこに入れたものである。

ロゴの金色が、少し褪せていた。引き出しの中は暗い。光は当たっていない。それでも、四年で、金色が、少しだけ鈍くなっていた。

井坂は、紙袋を、手に取った。

軽かった。

中に、小さな箱が入っている。紙袋の口から、箱の角が、少しだけ見えている。

井坂は、それを、開けなかった。

紙袋を、手帳の隣に、戻した。

引き出しを、閉めた。

◇

その夜、井坂は、眠れなかった。

眠れないまま、枕元の携帯を、何度か見た。

会社の携帯のランプは、点いていなかった。

自分の携帯にも、何も来ていなかった。

四時過ぎに、窓の外が白くなり始めた。

井坂は、起き上がって、カーテンを少し開けた。

北向きの窓からは、空の東の端は見えない。隣のマンションの壁が、少しずつ白くなっていくのが見えた。

五年前の夏の朝に、柳瀬の家の坂の下で見た空を、思い出そうとした。

思い出せなかった。

43 食事会

翌週の金曜に、小暮が、井坂の席に来た。

「井坂さん、今日の夜、空いてますか」

井坂は、画面から顔を上げた。

「何かある」

「食事会です」

小暮は、少しだけ声を落とした。

「西麻布で。向こうが、三人。こっちも三人で、あと一人、足りなくて」

井坂は、小暮の顔を見た。

小暮は、少し笑った。

「港区では、合コンのこと、食事会って言うんですよ」

井坂は、黙っていた。

「VPが一人いると、向こうの集まりが違うんで」

小暮は、そう言って、手を合わせた。

井坂は、小暮を見た。

小暮は、入社四年目である。井坂が、この部署に来たときの、ちょうど裏返しの経験だった。井坂は、支店で四年やってから来た。小暮は、最初からこの部署にいる。支店の窓口に立ったことはない。

小暮は、飲み会の幹事を、よく引き受ける。フロアの送別会も、忘年会も、小暮が店を取る。取った店は、いつも評判がいい。

井坂は、その店の選び方を、一度だけ小暮に訊いたことがある。

「相手の、いちばん上の人が、何を食べたいかを考えます」

小暮は、そう答えた。

アメ玉とみそ汁のことを、井坂は思い出した。

「お願いします」

◇

井坂は、断る理由を探した。

仕事がある。それは、嘘ではない。MBOの準備の資料が、まだ半分残っている。しかし、金曜の夜に仕事を理由にして断ると、小暮は、それが断るための理由だと分かる。分かって、何も言わずに引き下がる。

それはそれで、よかった。

しかし、井坂は、そう言わなかった。

断る理由を、探して、見つけられなかった。

「……何時」

「八時です」

小暮は、嬉しそうに頭を下げた。

◇

店は、西麻布の、交差点から少し入った路地の奥にあった。

地下に降りる階段があって、その先に、木の扉がある。看板は出ていない。扉を開けると、薄暗い廊下の両側に、個室が並んでいる。

いちばん奥の個室だった。

男は、小暮と、小暮の大学の同期で外資系の証券会社のアナリストをしている男と、井坂の三人。

女性も、三人だった。

先に来ていた。

部屋は、六人がけの掘りごたつだった。壁に、墨で描いた、魚の絵が掛かっていた。照明は、机の上に一つだけで、部屋の隅は暗かった。

店の人間が、最初の飲み物を訊いた。女性の一人が、店のおすすめを訊いた。店の人間が、日本酒の銘柄を二つ挙げた。

井坂は、メニューを見なかった。

小暮が、全員の飲み物を、まとめて頼んだ。

◇

井坂の向かいに座ったのは、ミオと名乗る女性だった。

名字は、言わなかった。

「ミオです」

それだけ言って、笑った。

二十九歳だと、あとで小暮が教えてくれた。外資系のホテルの、広報をしている。

目鼻立ちが、はっきりしていた。華やかな顔だった。髪は長く、ゆるく巻いてあって、耳に、小さな金のピアスが揺れていた。

爪に、小さな石が並んでいた。

薄い桜色に塗った爪の上に、透明な、小さな石が、三つずつ並んでいる。グラスを持つたびに、石が、照明を受けて光った。

◇

井坂は、名刺を出した。

食事会で名刺を出すのかどうか、井坂は知らなかった。小暮が出していたので、出した。

ミオは、井坂の名刺を、一度見た。

「何してる人」とは、訊かなかった。

代わりに、言った。

「IBDのVPですよね」

井坂は、頷いた。

「日系?」

「日系です」

井坂は、そう答えた。

ミオの表情が、ほんのわずかに、変わった。

変わったのは、ほんの一瞬だった。目の奥で、何かが、計算し直された。井坂には、それが分かった。

分かったことに、井坂は、少し驚いた。

ミオは、すぐに笑った。

「でも、日系のVPって、外資のVPより上のこともあるんでしょ」

小暮が、笑った。

「そうなんですよ。うちのVPは、外資だとディレクターくらいで」

外資系のアナリストの男が、「それはないって」と言って、また笑いが起きた。

◇

そこから、ミオは、井坂の仕事を、話し始めた。

「IPOとか、M&Aとか、やってるんですよね」

井坂は、頷いた。

「朝、七時から会議があって。夜は、二時とか三時まで。タクシーで帰って。携帯、ずっと鳴ってて。ボーナスは、年末と、夏?」

ミオは、指を折りながら、言った。

どれも、正しかった。

「前に、友だちの彼氏が、外資のIBDにいて。話、よく聞いてたんです。日系も、だいたい同じなんですよね?」

井坂は、頷いた。

ミオは、井坂の仕事を、井坂よりうまく説明した。

五年間、井坂が、誰にも一言で説明できなかった仕事である。

深夜のタクシーの運転手に、「証券会社です」と言って、「株屋さんか」と言われた。「会社が、株を出すのを手伝う仕事です」と言って、「ほう」と言われた。福浦の支店の暑気払いで、「資料を作ってます」と言って、笑われた。

ミオは、それを、一度で、正確に言い当てた。

井坂は、それを聞きながら、自分が、何も感じていないことに気づいた。

◇

ミオは、悪い人ではなかった。

よく気がついた。井坂のグラスが空くと、店の人間を呼んで、次の飲み物を頼んだ。会話が途切れそうになると、誰かに質問をした。小暮が、自分の失敗談を話すと、上手に笑った。上手に、というのは、小暮が話しやすくなるように、笑うべきところで、ちょうどいい大きさで笑った、ということである。

井坂は、それを、見ていた。

見ていて、ミオが、この場を、とても丁寧に作っていることが分かった。

◇

デザートが出たころ、ミオが、井坂に言った。

「井坂さん、誰かの話をするとき、急に言葉がやわらかくなりますね」

井坂は、スプーンを持つ手を止めた。

「どこの言葉ですか、それ」

井坂は、ミオを見た。

「さっき、部下の方の話をしてたとき。ええよ、って」

井坂は、自分が、それを言ったことを、覚えていなかった。

小暮が、隣で、「言ってました」と言った。

井坂は、少し前のことを思い出そうとした。小暮が、自分の失敗談を話していた。入社一年目に、資料の数字を一桁間違えた話である。井坂は、その話の最後に、何かを言った。

ええよ。

気にせんでええよ、と言ったのかもしれない。

福浦の言葉だった。

井坂は、北陸で育った。父は、家で高洲の言葉を使わなかった。福浦の言葉は、福浦にいた四年間で、移ったものだった。東京に来て五年、使っているつもりはなかった。

「西のほうの言葉、ですかね」

井坂は、それだけ言った。

ミオは、「へえ」と言って、笑った。

それ以上、訊かなかった。

◇

十一時に、会はお開きになった。

店の前で、小暮が、二次会の話をした。近くに、いい店がある。

井坂は、丁寧に断った。

「明日、早いので」

嘘だった。明日は、土曜で、何の予定もなかった。

ミオが、井坂の前に来た。

「連絡先、いいですか」

井坂は、携帯を出した。

礼儀として、交換した。

ミオは、「今日は、ありがとうございました」と言って、頭を下げた。

それから、小暮たちと一緒に、二次会の店のほうへ歩いていった。

◇

帰りのタクシーは、いつもの運転手ではなかった。

西麻布の交差点で拾った車で、運転手は、四十代の男だった。

「どちらまで」

井坂は、住所を言った。

運転手は、それ以上、何も訊かなかった。

「何してる人」とも、訊かなかった。

◇

井坂は、後部座席で、窓の外を見ていた。

六本木の明かりが、流れていった。

ミオの爪の、石を、思い出そうとした。

薄い桜色の爪の上に、透明な、小さな石が三つずつ。グラスを持つたびに、光った。

うまく、思い出せなかった。

三つだったか、四つだったか。石の色は、透明だったか、少し色がついていたか。

思い出せなかった。

かわりに、はっきり浮かんだのは、別の手だった。

三年前の二月の、港の牡蠣小屋。鉄板の湯気の中で、軍手をはめて、牡蠣の殻を開けていた手。

殻の合わせ目の一点に、ナイフを差し込んで、手首を少し返す。殻が開く。開いた殻を、井坂の皿に置く。

軍手を外したときの、指。

短い爪。

何も塗っていない爪。

窓口で書類をめくり、タブレットを叩き、電卓を叩く手の、爪。

井坂は、そこまでで、考えるのをやめた。

窓の外を、また見た。

◇

家に着いたのは、十二時過ぎだった。

井坂は、部屋の明かりを点けて、机の前に座った。

携帯を出した。

メッセージのアプリを、開いた。

いちばん上に、ミオの名前があった。交換したばかりの連絡先から、何も来ていなかった。

その下に、野々村の名前があった。

井坂は、野々村とのメッセージの画面を、開いた。

最後のやりとりは、三週間前の、見舞いのメッセージだった。

「鳴海さんとこ、行ってきました。担当なんで」

「財務部さん元気か、って。財務部さんって言うたら、笑うてはりました」

井坂は、それに、返信していなかった。

その後の、アプリの電話は、電話だった。メッセージの画面には、残っていない。

画面は、見舞いのメッセージのまま、止まっていた。

井坂は、文字を打つ欄に、指を置いた。

「アプリ、」

そこまで打って、止まった。

その続きを、考えた。

アプリ、始めたのか。

アプリ、どうだった。

アプリ、やめたほうがいい。

どれも、打てなかった。

一週間前に、「いいと思う」と言ったのは、井坂である。

井坂は、打った文字を、一字ずつ消した。

「、」を消して、「リ」を消して、「プ」を消して、「ア」を消した。

四年前の、ニューヨークのホテルの部屋と、同じだった。

画面は、空になった。

◇

翌朝、ミオから、メッセージが来た。

「昨日はありがとうございました!」

その後ろに、スタンプが一つ。小さなクマが、頭を下げている絵だった。

井坂は、それに、一度だけ返信した。

「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」

ミオから、もう一度、スタンプが来た。

それで、終わった。

二人が会うことは、それから、二度となかった。

ミオのことを、井坂は、悪く思わなかった。

思う理由が、なかった。

ミオは、あの夜、あの部屋を、丁寧に作っていた。小暮が話しやすいように笑い、井坂のグラスが空けば店の人間を呼び、井坂の仕事を、井坂よりうまく説明した。井坂の言葉に混じる福浦の言葉に、最初に気づいたのも、ミオだった。

井坂が、何も感じなかったのは、ミオのせいではなかった。

44 特別委員会

六月の終わりに、MBOの構図が固まった。

買い手は、誠治と、投資ファンドである。

投資ファンドは、国内の中堅のファンドで、地方の製造業への投資を得意にしている。誠治が、自分の持ち株と、ファンドのお金を合わせて、鳴海精機の株を全部買い取る。

東雲証券は、買い手の側のアドバイザーにつく。

井坂が、その実務の責任者になった。

◇

鳴海精機の側には、特別委員会が置かれた。

独立した社外取締役三人で作る委員会である。

MBOは、経営陣が、自分で自分の会社を買う取引である。買う側は、できるだけ安く買いたい。売る側、つまり、市場で鳴海精機の株を持っている一般の株主は、できるだけ高く売りたい。

普通の会社の売り買いなら、買う側と売る側は、別の人間である。別の人間が、それぞれの利益のために、値段を交渉する。

MBOでは、買う側の誠治が、同時に、売る側の会社の社長でもある。会社の中身を、いちばんよく知っている人間が、買う側にいる。

売る側の一般の株主の利益を、誰が守るのか。

それが、問題になる。

特別委員会は、それを守るために置かれる。経営陣から独立した社外取締役が、一般の株主の立場から、買付の条件が公正かどうかを検討する。自分たちでアドバイザーを雇い、第三者の算定機関に、株の価値を計算させる。必要なら、買い手と、価格を交渉する。

国が、数年前に、そうした手続きの指針を出していた。公正なM&Aの在り方についての指針。井坂は、それを、A4の一枚目に、題だけ書いておいた。

特別委員会の委員長は、地元の大学の名誉教授だった。会計の専門家で、七十を過ぎている。ほかの二人は、弁護士と、元の地方銀行の役員。

最初の顔合わせの席で、委員長は、井坂たち買い手の側に、一言だけ言った。

「私たちは、株主の側に座ります。今日から、あなた方とは、反対の側です」

言い方は、穏やかだった。

井坂は、それを議事録に書いた。

書きながら、自分が、三年前に、この会社の上場を手伝ったことを考えた。あのとき、東雲証券は、鳴海精機の株を、投資家に売る側だった。今、東雲証券は、その株を、投資家から買い集める側にいる。

同じ株である。

売ったときの値段と、買うときの値段が、違う。

◇

特別委員会は、東雲証券とは別の証券会社を、アドバイザーに雇った。第三者の算定機関には、会計事務所系の会社を選んだ。

買い手の側に、東雲証券。売り手の側の特別委員会に、別の証券会社と、算定機関。

同じ会社の株の値段を、二つの側が、別々に計算する。

特別委員会の最初の会合は、鳴海精機の本社の、二階の会議室で開かれた。

五年前に、主幹事のプレゼンをしたのと、同じ部屋だった。

長い机の片側に、特別委員会の三人と、そのアドバイザーの証券会社の人間と、算定機関の人間。もう片側に、買い手の側の、投資ファンドの担当者と、井坂と、小暮。

誠治は、いなかった。

MBOの手続きでは、買い手である誠治は、特別委員会の検討の場に出てこない。出てくれば、独立の意味がなくなる。誠治の代わりに、投資ファンドの担当者が、買い手の側の説明をする。

江藤も、いなかった。

江藤は、鳴海精機の取締役である。会社の側の人間として、特別委員会に資料を出す立場にある。しかし、買い手の誠治の、長年の部下でもある。どちらの側に座るのか、江藤は、自分で決めなかった。決めずに、会議室の外で、資料の束を持って待っていた。

休憩のときに、井坂は、廊下で江藤を見かけた。

江藤は、窓の外の、第二工場の屋根を見ていた。

井坂が近づくと、江藤は、振り返らずに言った。

「わしは、どっちの側でもないそうです」

井坂は、何も言わなかった。

「どっちの側でもない人間が、いちばん、両方の数字を知っとる」

江藤は、それだけ言って、会議室の外の椅子に、戻っていった。

◇

案件には、コードネームをつける。

秘密を守るためである。社内のメールでも、会議の資料でも、鳴海精機の名前は出さない。コードネームで呼ぶ。

コードネームは、チームの中の、いちばん若い者が考える。そういう決まりになっていた。決まりというより、慣習である。

いちばん若いのは、小暮だった。

チームの最初の打ち合わせで、小暮が、案を出した。

「ベル、はどうでしょう」

井坂は、手元のA4から顔を上げた。

「鐘、です。上場のときに、鐘を鳴らしたじゃないですか。上場から、上場廃止まで。始まりと終わり、みたいな」

小暮は、少し得意そうだった。

井坂は、しばらく黙っていた。

それから、言った。

「却下」

小暮は、少し驚いた顔をした。

「社名に、近すぎる」

井坂は、そう説明した。

鳴海精機の「鳴」は、鐘が鳴る、の「鳴」である。ベルと言えば、鳴る、に連想がつながる。社名に近すぎるコードネームは、コードネームの意味がない。

それは、嘘ではなかった。

しかし、本当の理由ではなかった。

井坂は、二年半前の、東証の部屋を思い出していた。

金色の鐘。大きすぎる背広の袖から出た、八郎の手。撞木を握った手。

一回目の、低い、長い音。

◇

小暮は、少し考えてから、二つ目の案を出した。

「じゃあ、鳥の名前で。イーグル、とか」

打ち合わせの机の端に座っていた真柴が、口を開いた。

MDとして、打ち合わせに顔を出していた。

「イーグルは、社内に三つある」

小暮は、黙った。

真柴は、それ以上、何も言わなかった。

結局、コードネームは、小暮が社内のシステムで無作為に選んだ英単語になった。植物の名前だった。

井坂は、それを、A4の一枚目に書いた。

鳴海精機、という名前を、そのページに書くのは、それが最後になった。

◇

コードネームが決まった日の夜、小暮が、井坂の席に来た。

「ベル、だめでしたか」

「だめじゃない」

井坂は、画面を見たまま、言った。

「社名に近すぎるだけ」

小暮は、少し考えるような顔をした。

「鳴海の、鳴、ですか」

「そう」

小暮は、頷いた。

「気づきませんでした。すみません」

「いや」

井坂は、画面から顔を上げた。

小暮は、もう自分の席に戻りかけていた。

井坂は、その背中に、何か言おうとした。

上場の日に、あの会社の創業者が、一回目の鐘を打った。大きすぎる背広の袖から、手を出して。

言わなかった。

45 算定

七月に、株の価値の算定が始まった。

鳴海精機の株に、本当は、いくらの値打ちがあるのか。それを、計算する。

計算の方法は、主に三つある。

◇

一つ目は、DCF法である。

ディスカウンテッド・キャッシュフロー。会社が、将来、どれだけのお金を生み出すかを予測して、それを、今の価値に割り引く。

将来のお金は、今のお金より価値が低い。一年後の百万円は、今の百万円より価値が低い。今の百万円を運用すれば、一年後には百万円より多くなるからである。その分を、割り引く。

割り引いた将来のお金を、全部足すと、会社の今の価値が出る。そこから、借金を引くと、株の価値が出る。

二つ目は、市場株価法である。

市場で取引されている株価を、そのまま基準にする。ある一日の株価だけでなく、直近の一か月、三か月、六か月の平均も見る。

三つ目は、類似会社比較法である。

鳴海精機と似たような事業をしている、上場している会社の株価を調べて、その会社の株価が利益の何倍になっているかを見る。その倍率を、鳴海精機の利益にかける。

五年前に、井坂が仁科から教わった方法である。

選び方で、値段が変わる。

井坂は、その一行を、A4に書かなかった。

◇

三つの方法で計算すると、三つの答えが出る。

答えは、幅で出る。DCF法なら、割り引く率をどう置くか、将来の成長率をどう置くかで、答えが変わる。一つの数字ではなく、下限から上限までの、幅になる。

その三つの幅を、横に長い棒で、並べた図がある。

フットボール・フィールド、と呼ぶ。

横棒が、縦に三本並ぶ。それぞれの棒の左の端が、その方法での下限。右の端が、上限。

その図を見れば、どの方法で計算すると、どのくらいの値段になるかが、一目で分かる。

◇

七月の最後の週に、その図が、会議室の机の上に置かれた。

十九階の、窓のない会議室。

井坂と、小暮と、M&Aの部署の人間が二人。それから、投資ファンドの担当者が二人。鳴海精機の側から、江藤。

誠治は、来ていなかった。

図の上で、三本の横棒が、並んでいた。

市場株価法の棒が、いちばん左にあった。千二百円台から、千三百円台。直近の株価である。

類似会社比較法の棒が、真ん中。千三百円台から、千八百円台。

DCF法の棒が、いちばん右にあった。千四百円台から、二千円台の前半。

三本とも、公開価格の二千三百円には、届いていなかった。

投資ファンドの担当者が、図を見て、言った。

「DCFの幅が、ちょっと上に出すぎてますね」

M&Aの部署の人間が、DCF法の前提を説明した。割り引く率、将来の成長率、計画の期間のあとの成長率。

「割引率を、あと〇・五ポイント上げると、幅の中心が百円下がります」

投資ファンドの担当者は、頷いた。

井坂は、それを議事録に書いた。

書いてから、〇・五、という数字を見た。

三年前の、扶桑化学の社債の夜。〇・五bpの刻みで、交渉が続いた。〇・五bpは、〇・〇〇五パーセントである。

今の〇・五は、ポイントである。〇・五パーセント。百倍の違いである。

その〇・五で、一株の値打ちが、百円動く。

井坂は、議事録の、その行の横に、何も書き足さなかった。

◇

算定の基礎になる事業計画は、鳴海精機が作った。

MBOのための事業計画である。上場のときの事業計画とは、別のものである。

上場のときの計画は、強気だった。売上が、毎年九パーセント伸びる。

MBOのための計画は、控えめだった。

売上の伸び率、三パーセント。

井坂は、その計画の、表計算のファイルを開いた。

数字の大半が、黒い字だった。計算式である。

売上の伸び率のセルだけが、青い字だった。

三パーセント。

手で打った数字である。

ファイルの情報を開いた。

最後に保存した人間の名前。

江藤修。

◇

井坂は、そのセルを、しばらく見ていた。

三年前の、八月の終わり。上場のための事業計画の、修正版。売上の伸び率のセルが、青い字だった。九パーセント。最後に保存したのは、江藤だった。

今、同じセルが、青い字になっている。

三パーセント。

同じ人間の手で、打たれている。

上場のときは、高く見せたかった。高い値段で株を売るために。

MBOのときは、低く見せたい。安い値段で株を買うために。

事業計画は、どちらのときも、会社の将来を予測したものである。予測は、嘘ではない。九パーセントも、三パーセントも、根拠がある。根拠は、どちらの計画にも、ちゃんと書いてある。

それでも、同じ会社の、同じ将来を、三年のあいだに、九と三で打っている。

◇

会議が終わって、井坂は、江藤と一緒に、エレベーターに乗った。

十九階から、一階まで。

エレベーターの中は、二人だけだった。

扉が閉まって、エレベーターが下り始めた。

江藤は、階数の表示を見ていた。

十八。十七。十六。

江藤が、口を開いた。

「同じ手で、両方打ちましたわ」

井坂は、階数の表示を見ていた。

十五。十四。

江藤が、何のことを言っているのか、井坂には分かった。

江藤も、井坂が分かっていることを、分かっていた。

井坂は、答えなかった。

十三。十二。十一。

江藤も、答えを、待っていなかった。

階数の表示が、一つずつ、減っていった。

一階で、扉が開いた。

江藤は、先に降りた。

「ほな、また」

そう言って、ロビーを歩いていった。

背中が、少しだけ、丸くなっていた。

五年前、東雲証券の十九階の応接室で、初めて会ったときは、背中は丸くなかった。

井坂は、エレベーターの中で、扉が閉まるのを待った。

閉まる前に、十七階のボタンを押した。

◇

投資ファンドの側にも、承認の手続きがあった。

投資委員会、と呼ぶ。ファンドが、お金を出すかどうかを決める会議である。ファンドのお金の出し手の中には、海外の年金もいる。そのため、投資委員会の資料は、英語で作る。

資料を作るのは、ファンドの担当者だった。資料の中の、株の価値の算定と、買付価格の根拠のページを作るのは、東雲証券だった。

そのページの英語を、井坂が書いた。

投資委員会は、八月の第一週の、日本時間の夜の十時からだった。ファンドの担当者と、井坂が、ファンドの会議室から、電話で説明をする。電話の向こうに、シンガポールと、ロンドンの委員がいる。

委員の一人が、訊いた。

「Why do you assume three percent growth, when the IPO case was nine?」

上場のときは九パーセントだったのに、なぜ三パーセントなのか。

仁科が、のちに訊くことになる問いと、同じだった。

井坂は、答えた。英語で。事業環境の変化、設備投資の遅れ、過去三年の実績。前の晩に、三通り書いて覚えた答えの、二つ目を使った。

四年前のニューヨークの車の中で、言葉が出なかった三秒のことを、井坂は、答え終わってから思い出した。

委員は、「Understood」とだけ言った。

電話が終わったのは、夜中の一時半だった。

投資委員会は、承認した。

ファンドの担当者が、井坂に、「助かりました」と言った。

46 プレミアム

買付価格は、八月の第二週に決まった。

一株、千七百円。

直近の株価に、四割を乗せた水準だった。

◇

決まるまでに、特別委員会と、三回の交渉があった。

最初に、買い手の側が出した価格は、千五百五十円だった。直近の株価に、三割を乗せた水準である。特別委員会は、それを断った。第三者の算定機関の計算では、DCF法の幅の中心が、それより高い。

二回目に、千六百五十円を出した。特別委員会は、また断った。

三回目に、千七百円を出した。

特別委員会は、それを受け入れた。

受け入れる、という返事は、特別委員会の委員長から、書面で来た。書面は、二枚。一枚目に、受け入れる旨。二枚目に、受け入れる理由。理由は、七項目あった。

井坂は、その七項目を、A4に写した。

◇

買付価格が決まると、次は、それを公表する文書を作る。

公開買付けの開始の公表の文書。それから、鳴海精機の側が出す、賛同の意見を表明する文書。

どちらの文書にも、買付価格のプレミアムを書く。

プレミアムというのは、買付価格が、市場の株価を、どれだけ上回っているかの率である。

直近の株価に対して、何パーセント。直近一か月の平均株価に対して、何パーセント。三か月の平均に対して。六か月の平均に対して。

四つの率を、計算する。

◇

井坂は、その四つを、表計算で計算した。

直近の株価に対して、四十・二パーセント。

一か月の平均に対して、四十三・八パーセント。

三か月の平均に対して、四十一・五パーセント。

六か月の平均に対して、三十四・九パーセント。

株価は、この半年で、少しずつ下がっていた。だから、六か月の平均がいちばん高く、それに対するプレミアムが、いちばん低くなる。一か月の平均は、この一か月の株価がいちばん低かったので、それに対するプレミアムが、いちばん高くなる。

四つとも、正しい数字だった。

◇

問題は、どの数字を、公表の文書の先頭に書くか、だった。

公表の文書には、四つの率を、全部書く。書く決まりになっている。しかし、文書の最初の段落には、一つだけを書く。「直近の株価に対して、何パーセントのプレミアムを加えた価格」というふうに。

その一つを、どれにするか。

十九階の会議室で、それを決める打ち合わせがあった。

買い手の側から、井坂と、小暮と、M&Aの部署の人間。投資ファンドの担当者。それから、法律事務所の弁護士が二人。

投資ファンドの担当者は、一か月の平均に対する、四十三・八パーセントを先頭にしたい、と言った。いちばん高い数字である。高い数字を先頭に置けば、株主に、たくさん上乗せしている、と見える。

弁護士の一人は、直近の株価に対する、四十・二パーセントを先頭にするのが、慣行だ、と言った。慣行と違うことをすると、かえって目立つ。

もう一人の弁護士は、どれを先頭にしても、四つとも書くのだから、変わらない、と言った。

M&Aの部署の人間は、過去の似たような案件の公表の文書を、十件、画面に出した。十件のうち、六件が直近の株価、三件が一か月の平均、一件が三か月の平均を、先頭にしていた。

投資ファンドの担当者は、その三件の、一か月の平均を先頭にした案件の名前を、一つずつ読み上げた。

弁護士が、その三件は、いずれも、直近の株価が特殊な動きをした案件だ、と言った。

◇

一時間、かかった。

結局、直近の株価に対する、四十・二パーセントを、先頭にした。

慣行どおりである。

井坂は、その一時間の議事録を、A4で三枚書いた。

誰が、何を言ったか。どの数字を、どの理由で、推したか。

書きながら、井坂は、一つの数字を、頭の中で計算していた。

買付価格の千七百円と、公開価格の二千三百円の、差。

六百円。

二年半前に、鳴海精機の株を、公開価格の二千三百円で買って、今日まで持ち続けている株主がいる。その株主が、公開買付けに応じて、千七百円で売れば、一株あたり、六百円の損になる。

百株なら、六万円。

千株なら、六十万円。

◇

公表の文書には、プレミアムを四つ書く。直近の株価に対して。一か月の平均に対して。三か月の平均に対して。六か月の平均に対して。

公開価格に対して、何パーセントか。

それを書く欄は、なかった。

書く決まりが、なかった。

公開価格は、二年半前の、上場の日の値段である。今の株価とは、関係がない。公開買付けの価格が公正かどうかを考えるときに、二年半前の値段を基準にする理由は、ない。

井坂は、議事録に、その差額を書かなかった。

書く欄が、なかったからである。

議事録の、決まったことの欄に、一行だけ書いた。

「公表文における記載順序は、直近株価に対するプレミアムを先頭とする旨決定」

◇

打ち合わせのあとで、小暮が、井坂の席に来た。

「さっきの打ち合わせ、一時間もかかりましたね」

「うん」

「どれ先頭にしても、変わらない気がするんですけど」

井坂は、画面から顔を上げた。

小暮は、入社して四年目である。井坂が、この部署に来たときと、同じくらいの経験である。

「変わらないかもしれない」

井坂は、そう言った。

「でも、一時間かけて決めた、っていうことは、残る」

小暮は、少し考えるような顔をした。

それから、「はい」と言って、自分の席に戻った。

井坂は、自分が言ったことを、もう一度考えた。

一時間かけて決めた、ということは、残る。

どこに残るのかは、言わなかった。議事録に残る。それは、確かである。

ほかに、どこに残るのかは、井坂にも分からなかった。

47 電話

八郎が亡くなったのは、八月の最後の日曜だった。

知らせは、野々村からの電話で来た。

日曜の夜の、九時だった。

「鳴海さん、今朝、亡くなりはりました」

井坂は、自分の部屋で、それを聞いた。

◇

葬儀は、火曜だった。

井坂は、行かなかった。

行けなかった。

公開買付けの公表は、二週間後に控えていた。買い手の側のアドバイザーの責任者が、公表の前に、売り手の側の大株主の、創業者の葬儀に出る。

誰も、それを咎めないかもしれない。咎められなくても、それは、できなかった。

井坂は、火曜の朝の七時に、会社の十七階の会議室で、市況の会議に出た。

後ろの壁際に、立っていた。

◇

日曜の夜の電話は、五分ほどだった。

野々村は、八郎の最期のことを、話さなかった。どういうふうに亡くなったのか。苦しんだのか。誰がそばにいたのか。

井坂も、訊かなかった。

野々村は、通夜と葬儀の日時と場所だけを、伝えた。

伝え終わって、少しだけ、黙った。

井坂も、黙っていた。

井坂は、秒数を数えなかった。

数えようとして、数えられなかった。

電話の最後に、野々村が言った。

「奥さん、井坂さんの名前、言うてはりました」

井坂は、受話器を耳に当てたまま、黙っていた。

何を言っていたのかを、野々村は、言わなかった。

井坂も、訊かなかった。

「ほな」

電話が、切れた。

◇

六月の、アプリの電話のあと、初めての電話だった。

アプリの話は、どちらからも出なかった。

◇

葬儀の日の夜、井坂は、十一時に会社を出た。

タクシーには乗らなかった。地下鉄で帰った。

部屋に着いて、明かりを点けた。

机の引き出しは、開けなかった。

窓を開けた。八月の終わりの夜の空気が、部屋に入ってきた。どこかで、虫が鳴いていた。

福浦の座敷の、鴨居の写真のことを考えた。トタン屋根の平屋。手書きの看板。自転車が三台。

あの写真の前で、今日、誰が何を話したのかを、井坂は知らない。

窓を閉めた。

携帯を見た。

誰からも、何も来ていなかった。

井坂は、自分から何かを送ることもしなかった。

十日後、井坂は、鳴海精機の公開買付けの公表の文書の、最後の読み合わせをしていた。会長の欄は、もうなかった。役員の一覧から、一行だけ、消えていた。

48 公開買付

九月の第二週の月曜に、公開買付けを公表した。

午後の三時半。取引所の取引が終わった直後に、二つの文書が出た。

買い手の側の、公開買付けの開始の公告。鳴海精機の側の、公開買付けに賛同し、株主に応募を推奨する旨の意見表明。

買付価格は、一株、千七百円。

買付の期間は、翌日から、三十営業日。

◇

公開買付けというのは、市場の外で、株を買い集める方法である。

買う側が、期間と、価格と、買いたい株の数を、公に示す。この期間に、この価格で、株を売ってくれる株主を募る。株主は、その条件で売りたければ、期間のうちに、応募の手続きをする。

応募の手続きは、公開買付けの代理人になっている証券会社を通じてする。

鳴海精機の公開買付けの代理人は、東雲証券だった。

買い手の側のアドバイザーが、代理人を兼ねる。それは、よくあることだった。

鳴海精機の株を持っている株主は、東雲証券に口座を持っていれば、その口座から応募できる。持っていなければ、東雲証券に口座を開いて、そこに株を移してから、応募する。

福浦支店の客たちも、東雲証券の福浦支店を通じて、応募することになる。

◇

公開買付けには、条件をつけた。

マジョリティ・オブ・マイノリティ条件、と呼ぶ。

買い手と利害を共にしない一般の株主のうち、過半数が応募しなければ、公開買付けは成立しない。

誠治は、買い手である。誠治が持っている株は、この過半数の計算には入らない。誠治と関係の深い株主の株も、入らない。それ以外の一般の株主のうち、過半数が、千七百円で売ってもいい、と応募したときだけ、買付けが成立する。

一般の株主の多くが、この価格では売らない、と判断すれば、買付けは成立しない。

一般の株主に、拒否する力を持たせる仕組みである。

◇

公表の翌週に、特別委員会に、書簡が届いた。

鳴海精機の株を、発行済み株式の六パーセントほど持っている、運用会社からだった。

書簡には、公開買付けの価格が、鳴海精機の本来の価値を下回っている、と書いてあった。特別委員会が、どのような検討をして、この価格に賛同したのかを、説明してほしい。それから、買い手の側と、直接面談をしたい。

書簡の最後に、運用会社の担当者の名前があった。

仁科千尋。

◇

仁科の運用会社が、鳴海精機の株を持っていることは、井坂は知っていた。

公開買付けの準備の段階で、大株主の一覧を調べていた。運用会社は、一年ほど前から、少しずつ鳴海精機の株を買い増していた。五パーセントを超えたときに、大量保有の報告書が出ていた。

報告書に、担当者の名前は、なかった。

仁科が、その運用会社に移ったことも、井坂は知っていた。

二つを、結びつけていなかった。

結びつけないようにしていたのかもしれない。

◇

面談は、九月の最後の週に、東雲証券の十九階の応接室で行われた。

八つある応接室の、一つである。どこかの海岸の風景の絵が、掛かっている。

五年前に、井坂が、江藤と初めて会ったのと、同じ部屋だった。

買い手の側から、投資ファンドの担当者と、井坂と、小暮。それから、真柴。

運用会社の側から、仁科と、その上司の男。

特別委員会の委員長も、同席した。

◇

仁科は、紺のスーツを着ていた。

髪は、五年前と同じように、後ろで一つに束ねていた。眼鏡は、かけていなかった。

井坂を見て、少しだけ頷いた。

それだけだった。

名刺を交換した。仁科の名刺には、運用会社の名前と、ポートフォリオ・マネージャー、という肩書きがあった。

◇

仁科は、数字だけで話した。

算定の前提。DCF法の、割引率の置き方。永久成長率の置き方。事業計画の、売上の伸び率。

「三パーセント、という伸び率の根拠を、教えてください」

投資ファンドの担当者が、答えた。事業環境の不透明さ。設備投資の必要性。過去三年の実績。

仁科は、それを聞いて、手元の資料に何か書いた。

「上場のときの事業計画では、九パーセントでした」

投資ファンドの担当者は、上場のときとは事業環境が違う、と答えた。

仁科は、頷いた。

「その違いの中身を、もう少し具体的に」

一時間、それが続いた。

仁科の質問は、一つずつ、正確だった。答えを聞いて、次の質問をする。次の質問は、前の答えの、いちばん弱いところを突いていた。

井坂は、議事録を取っていた。

五年前に、仁科が、ホワイトボードに一本の線を引いて、カバレッジとプロダクトを説明した。井坂は、それを全部書き取って、どこが要点なのか分からなかった。

今、井坂には、仁科の質問の要点が、全部分かった。

◇

面談の最後に、仁科が、手元の資料を閉じた。

それから、一つだけ、訊いた。

数字では、なかった。

「この価格は、上場の日に買った人に説明できますか」

応接室が、静かになった。

投資ファンドの担当者は、答えなかった。

真柴は、仁科を見ていた。

特別委員会の委員長は、手元の書類を見ていた。

井坂は、ペンを止めていた。

上場の日に買った人。

公開価格の、二千三百円で買った人。初値の、四千六百円で買った人。

その人たちに、千七百円という価格を、説明できるか。

仁科は、それを、特別委員会の委員長を見ながら、言っていた。しかし、井坂には、それが、自分に訊かれているように聞こえた。

五年前、井坂の隣の席で、仁科は、「その書き方は外で使わないで」と言った。選び方で値段が変わる、という井坂の一行に。

◇

真柴が、口を開いた。

「フェアネス・オピニオンを、お読みいただいたと思いますが」

仁科は、頷いた。

フェアネス・オピニオンというのは、第三者が、取引の条件が公正であると述べる意見である。特別委員会が雇った算定機関が、それを出していた。

千七百円という買付価格は、一般の株主にとって、財務的見地から公正である。

真柴は、それを、公表の文書にある通りに、言った。

仁科は、しばらく黙っていた。

それから、その語句を、一度だけ、声に出して繰り返した。

「財務的見地から、ね」

それだけだった。

仁科は、立ち上がった。

面談は、それで終わった。

◇

仁科の上司の男が、先に応接室を出た。

仁科は、扉のところで、一度だけ振り返った。

井坂を見た。

何も言わなかった。

井坂も、何も言わなかった。

仁科は、扉を閉めた。

◇

仁科の書簡のあとで、海外の株主からの問い合わせが、続けて来た。

鳴海精機の株の二割近くは、海外の投資家が持っていた。上場のあとで、少しずつ増えていた。

問い合わせは、英語で、法律事務所を通して来た。マジョリティ・オブ・マイノリティ条件の計算の方法。特別委員会の委員の独立性。算定機関の報酬が、取引の成立に連動しているかどうか。

一つずつに、英語で回答を作る。回答は、公表されている情報の範囲を出てはいけない。出れば、一部の株主だけに情報を渡したことになる。

井坂は、回答の一文ごとに、公表の文書のどのページのどの行に根拠があるかを、括弧で添えた。添えられない文は、消した。

議決権の行使を助言する海外の会社が、鳴海精機の公開買付けについての報告書を出した。四十ページの英語の報告書で、結論は、応募を推奨しない、だった。

報告書は、夜中の二時に出た。

井坂は、朝の六時までに、それを読んで、反論できる点と、反論できない点を、一枚にまとめた。

反論できない点のほうが、多かった。

◇

仁科たちを送り出したあとで、井坂は、エレベーターのホールで、真柴と二人になった。

真柴は、ホールの窓から、外を見ていた。

「あいつ、変わってないな」

真柴が、言った。

井坂は、真柴を見た。

「数字で詰めて、最後に一個だけ、数字じゃないのを投げる。ここにいたころから、そうだった」

真柴は、それだけ言って、エレベーターのボタンを押した。

「上場の日に買った人に、説明できるか」

真柴は、仁科の問いを、そのまま繰り返した。

「できるわけないだろ」

エレベーターが来た。

真柴は、乗り込んで、扉が閉まる前に、もう一言だけ言った。

「できないから、あの紙がある」

扉が、閉まった。

井坂は、ホールに残った。

あの紙、というのが、フェアネス・オピニオンのことなのか、特別委員会の答申のことなのか、公表の文書のことなのか。

井坂には、分からなかった。

◇

その夜、井坂は、面談の議事録を書いた。

A4で、六枚。

仁科の質問と、投資ファンドの担当者の答え。一問ずつ。

最後の一問。

「この価格は、上場の日に買った人に説明できますか」

それに対する答えの欄に、井坂は、何を書けばいいのか、分からなかった。

誰も、答えていなかった。

真柴が、フェアネス・オピニオンのことを言った。それは、答えだったのか。

井坂は、しばらく考えてから、書いた。

「上記質問に対し、当方より、フェアネス・オピニオンの記載内容を説明」

それから、その下に、一行、書いた。

「先方より、『財務的見地から』の語句につき、確認の発言あり」

確認の発言、と書いた。

それが、正しい書き方なのかどうかは、分からなかった。

49 東京の服

十月の第一週に、野々村が、東京に来た。

会社の研修だった。全国の支店の主任を集めて、三日間。本社の近くのホテルに泊まって、本社の研修室に通う。

野々村から、メッセージが来たのは、研修の一週間前だった。

「来週、研修で東京行きます」

それだけだった。

井坂は、それを、会社の自分の席で読んだ。

読んで、しばらく画面を見ていた。

それから、返信した。

「二日目の夜、空いてる?」

打って、送った。

送ってから、自分が、野々村の予定を訊いたことに気づいた。

すぐに、返事が来た。

「空いてます」

◇

井坂は、店を予約した。

銀座の、裏通りにある、小さな和食の店だった。カウンターが十席と、奥に個室が一つ。仕事の会食で、一度だけ使ったことがある。静かな店だった。

予約の電話をかけたとき、店の人間が、「何名様ですか」と訊いた。

「二名です」

井坂は、そう答えた。

「お時間は」

「七時半で」

予約を取ったのは、初めてだった。

野々村と会うのに、店を予約したのは、初めてだった。福浦では、牡蠣小屋に予約は要らない。日本橋の定食屋にも、要らない。

◇

研修の二日目の、夜の七時二十五分に、井坂は、店の前に着いた。

五分後に、野々村が、通りの角を曲がって、歩いてきた。

井坂は、それを見た。

野々村は、いつもと違う服を着ていた。

淡い灰色の、薄いニットのワンピースだった。膝の下までの丈で、腰のところに、同じ色の細いベルトが巻いてある。その上に、黒い短いジャケットを羽織っていた。靴は、いつもの外回り用の低いヒールではなかった。少しだけ高い、黒いパンプスだった。

髪は、いつものように、耳にかけていた。

耳に、小さな、銀色のピアスがあった。

初めて見るものだった。

東京向けの服だった。

井坂は、それを、一度だけ見た。

何も言わなかった。

◇

鞄だけは、いつもの鞄だった。

黒い、肩に掛ける革の鞄。外回りのときに、客の資料を入れて持ち歩く鞄である。角が、少し擦れている。

鞄に、ふくたこが付いていた。

井坂は、それを見た。

オレンジ色が、ほとんど、なくなっていた。

六年前の秋に、福浦の岸壁で見たときは、鮮やかなオレンジ色だった。三年前の二月に、牡蠣小屋に向かう車の中で見たときは、少しだけ褪せていた。三年前の十一月に、東京駅の改札の前で指で弾いたときは、足の先が白っぽくなっていた。

今は、ほとんど、肌色に近かった。

目の黒い点だけが、はっきり残っていた。

井坂は、それを見て、何か言いかけた。

口を、少しだけ開いた。

言わなかった。

「こんばんは」

野々村が、先に言った。

「こんばんは」

井坂は、そう返して、店の扉を開けた。

◇

カウンターの、いちばん奥の二席だった。

店の主人が、料理を出していく。先付け。お造り。焼き物。煮物。

野々村は、料理が出るたびに、主人に、何かを一つ訊いた。この魚は、どこの。この器は、どこの焼き物。この葉っぱは、何の葉っぱ。

主人は、一つずつ、答えた。答えるたびに、少し嬉しそうになった。

井坂は、それを横で聞いていた。

三年前の十一月の、日本橋の定食屋を思い出した。このアジ、どこのですか。

◇

野々村の携帯は、食事のあいだ、ずっと、カウンターの上に、画面を伏せて置いてあった。

鞄から出して、伏せて、自分の右手の、少し先に。

井坂は、それを見た。

三年前の二月の、牡蠣小屋を思い出した。

鉄板のテーブルの上で、井坂の会社の携帯が、画面を伏せて震えていた。六回目に震えたとき、野々村が手を伸ばして、それを持ち上げて、自分の鞄の上に移した。

今、野々村の携帯が、同じ置き方で、カウンターの上に伏せてある。

一度も、震えなかった。

◇

仕事の話は、一度も出なかった。

野々村は、支店の話をした。

窓口の、四年前に入った女性が、来月、結婚する。相手は、隣の地方銀行の支店の人間で、八郎の家の近くに住んでいる。

港の埋め立ては、来年の春に始まる。駅前のふくたこの像は、埋め立てが終わったら、新しい岸壁の公園に移る。

それから、八郎の家の、柿の木のこと。

「房江さん、柿の木、切らんことにしはったんです」

井坂は、野々村を見た。

「一人になったら、手入れもできんし、切ろうか言うてはったんですけど。息子さんも、切ったらええ言うて。でも、やっぱり残すって」

野々村は、湯呑みを両手で持って、言った。

「今年も、生っとりますよ。去年より、ちょっと少ないけど」

井坂は、頷いた。

鳴海精機のことは、出なかった。公開買付けのことも、出なかった。野々村は、それを知っている。福浦支店は、公開買付けの応募を受け付ける支店の一つである。野々村の客の中にも、鳴海精機の株を持っている人間がいる。

野々村は、それを、一言も言わなかった。

◇

デザートの皿が、下げられた。

主人が、奥に引っ込んだ。カウンターの向こうに、誰もいなくなった。

井坂は、湯呑みを持っていた。

しばらく、黙っていた。

それから、訊いた。

「……アプリは」

野々村は、湯呑みを置いた。

井坂が、野々村の暮らしについて、自分から何かを訊いたのは、初めてだった。

五年間、野々村は、井坂の仕事を訊かなかった。井坂も、野々村のことを、訊かなかった。支店のこと、客のこと、八郎のこと。野々村が話すことを、聞いていただけだった。

野々村は、少し笑った。

「入れました」

それから、井坂を見ずに、言った。

「井坂さんが、いいと思う、って言うたんで」

◇

野々村は、グラスの水を、一口飲んだ。

それから、続けた。

「一週間で消しました」

井坂は、黙っていた。

野々村は、グラスを置いて、カウンターの木目を、指で一度なぞった。

「プロフィールに、仕事の欄があるんです。みんな、ちゃんと書いてあって。何をしとる人か、一目で分かるんですよ。会社の名前と、職種と、年収まで」

野々村は、少しだけ笑った。

「一人とは、実際に会いました。広島の、メーカーの技術の人で。いい人でした。自分の仕事を、分かりやすく説明してくれて。どんな部品を設計しとるか、どこに使われとるか。全部、よう分かりました」

井坂は、湯呑みを持ったまま、聞いていた。

「なんでか、それで消したんです」

野々村は、それ以上、説明しなかった。

◇

井坂は、分かった。

四か月前の、西麻布の個室。ミオが、井坂の仕事を、一度で正確に言い当てた。井坂は、それを聞いて、何も感じなかった。

同じことが、野々村にも起きていた。

仕事の欄が、ちゃんと書いてある相手。何をしている人か、一目で分かる相手。自分の仕事を、分かりやすく説明してくれる相手。

それで、何も感じなかった。

井坂は、それを、分かった。

野々村が、それを分かっているかどうかは、分からなかった。井坂が、ミオのことを話したことはない。

◇

井坂は、口を開いた。

「あのとき、いいと思うって言ったのは——」

「分かってます」

野々村が、遮った。

井坂は、口を閉じた。

野々村は、湯呑みを、もう一度持った。

それで、その話は終わった。

◇

店を出たのは、十時過ぎだった。

井坂は、野々村を、駅のホームまで送った。

研修のホテルは、地下鉄で三駅のところにある。野々村は、その地下鉄に乗る。

ホームは、すいていた。

二人で、並んで、電車を待った。

何も話さなかった。

野々村の鞄の、ふくたこが、ホームの蛍光灯の下で、少しだけ白く見えた。

電車が、入ってきた。

ドアが、開いた。

◇

乗り込む前に、野々村が、くるりと振り返った。

両手を、後ろで組んでいた。

少しだけ、前に身をかがめた。

井坂の顔を、下から覗き込むようにして、言った。

「痩せたね!」

敬語が、外れていた。

言い終わると、野々村は、返事を待たなかった。

軽く跳ねるようにして、電車に乗り込んだ。

鞄のふくたこが、大きく揺れた。

◇

井坂が、「そうか」と言ったとき、ドアは、もう閉まりかけていた。

聞こえたかどうかは、分からなかった。

ドアの窓の向こうで、野々村が、小さく手を振った。

胸の前で、手のひらを、二回だけ。

電車が、動き出した。

井坂は、ホームに立っていた。

電車が、ホームを出ていく。一両ずつ、井坂の前を通り過ぎていく。

最後尾の車両が、トンネルの暗がりの中に、入っていった。

赤い尾灯が、小さくなった。

見えなくなるまで、井坂は、ホームに立っていた。

50 引上げ

十月の第二週に、買付価格を、一度だけ引き上げた。

千七百円から、千八百五十円へ。

特別委員会から、要請があった。公表のあとで、市場の株価が、買付価格を上回って推移している。仁科の運用会社をはじめ、いくつかの株主が、この価格では応募しない、と公に表明している。このままでは、マジョリティ・オブ・マイノリティ条件を満たせない可能性が高い。

誠治と、投資ファンドは、二日間、協議した。

引き上げを、決めた。

◇

引き上げと同時に、買付の期間を、延ばした。

引き上げた価格を、株主が知って、判断するための時間が要る。期間を、十営業日、延ばした。

訂正の届出書を出した。公表の文書を、差し替えた。

井坂は、それを、四日で終えた。

四日のあいだ、井坂は、一度も部屋に帰らなかった。

十七階の、打ち合わせのスペースの奥に、仮眠のための長椅子が一つある。夜中の三時に、そこで二時間眠った。朝の七時に、市況の会議に出た。

四日目の朝、小暮が、コンビニの袋を、井坂の机の上に置いた。

中に、おにぎりが二つと、インスタントのみそ汁が一つ入っていた。

「給湯室に、ポットあるんで」

小暮は、それだけ言って、自分の席に戻った。

井坂は、みそ汁の袋を見た。

赤だしだった。

給湯室でお湯を注いで、自分の机で、飲んだ。

◇

千八百五十円。

直近の株価に対するプレミアムは、四十パーセントから、五十二パーセントになった。

公開価格の二千三百円には、まだ、届かなかった。

四百五十円、足りなかった。

四百五十円に、千株をかけると、四十五万円である。

八郎の口座に残った千株。

井坂は、その計算を、頭の中でした。

した瞬間に、それを消そうとした。

消えなかった。

八郎の口座の中身を、井坂は、確かめていない。千株というのは、井坂が、二つの書類の表の差から推測した数字である。推測で、四十五万円を計算している。

八郎は、もういない。

その千株が、今、誰の名義になっているのかも、井坂は知らない。

井坂は、その数字を、どこにも書かなかった。

◇

引き上げを公表した日の夜、井坂は、十一時に会社を出た。

地下鉄に乗って、部屋に帰った。

部屋の明かりを点けて、机の前に座った。

自分の携帯を出した。

連絡先の一覧を開いた。

野々村紗季。

その名前の横の、電話のしるしに、指を置いた。

置いたまま、しばらく、動かなかった。

これまで、電話をかけてきたのは、いつも野々村のほうだった。

井坂から、野々村に電話をかけたことは、一度もなかった。

短いメッセージを返したことは、何度かある。電話は、一度もかけたことがなかった。

井坂は、指を、押した。

押してから、画面を耳に当てるまでに、少しだけ時間がかかった。

画面に、呼び出し中、と出ていた。その下に、野々村紗季、と。

井坂は、その字を見ていた。

紗季、の「紗」の字を、井坂は、初めてちゃんと見た気がした。

六年前の春、支店の名簿で、その字を見ていたはずである。OJTの書類にも、何度も書いた。書いたのは、自分の手である。

それでも、今、初めて見る字のように見えた。

井坂は、携帯を、耳に当てた。

◇

呼び出しの音が、鳴った。

一回。

二回。

三回目の途中で、つながった。

「はい」

野々村の声だった。

少しだけ、驚いた声だった。

「井坂さん」

「うん」

井坂は、それだけ言った。

何のために電話をしたのかを、言わなかった。

言えることも、なかった。

◇

野々村は、理由を訊かなかった。

少しだけ間を置いて、話し始めた。

支店の話だった。

明日の朝の朝礼の当番が、野々村だった。朝礼では、当番が、一分間の話をする。何の話をするか、まだ決めていない。

「去年は、ふくたこの話したんです。ふくたこの足は八本やけど、あれ、デザインした人が最初に描いたときは、七本やったんやって。市役所の人が、一本足りん言うて、描き足したんやって」

井坂は、相槌を打った。

「うん」

「七本やったんか」

「そうなんです。最初の絵、市役所の人が見せてくれたんですけど、ほんまに七本で。足と足のあいだが、ちょっと広いんです」

野々村は、そこで、少し笑った。

「それ、朝礼で話したら、支店長が、一本足りんのは誰でもある、言うて。それで終わりました」

井坂は、その話を、聞いていた。

聞きながら、机の引き出しのほうを、一度だけ見た。

「今年は、何話そうかな」

それから、窓口の新人の話。四月に入った新人が、初めて一人で、客の相続の手続きを最後までやり通した。相続人が五人いて、五人とも、別々の日に来た。

「その子、手帳に、五人の名前と、来た日と、持ってきた書類を、全部書いとったんです。井坂さんみたいに」

井坂は、黙った。

野々村も、黙った。

◇

電話の向こうが、静かだった。

野々村は、電話を切らなかった。

黙って、待っていた。

井坂は、秒数を、数えなかった。

数えようとしなかった。

電話の向こうで、何かの音がした。家の中の音である。時計の音か、冷蔵庫の音か、分からなかった。

どのくらい、黙っていたのかは、分からない。

◇

電話を切る前に、井坂は、一つだけ訊いた。

「再来週、そっちに行く。時間ある?」

仕事で行くことは、言わなかった。

公開買付けの期間の延長に伴って、福浦の本社で、江藤との打ち合わせがある。それは、言わなかった。

野々村は、少しだけ、間を置いた。

「あります」

それだけ、答えた。

「ほな」

井坂が、そう言った。

言ってから、それが、野々村がいつも電話の最後に言う言葉だと気づいた。

電話の向こうで、野々村が、少しだけ笑ったような気がした。

「ほな」

電話が、切れた。

◇

仁科の運用会社が、公開買付けに応募するかどうか。

それは、期間の最後の日まで、分からない。

51 深夜料金

十月の第三週の、夜中の一時だった。

会社の前で、手を上げた。

一台が、寄ってきた。

後部座席に乗った。

運転手が、振り返った。

白髪を、短く刈っていた。五年前より、白いところが増えている。紺のベストの胸ポケットに、ボールペンが二本。

「ああ、どうも」

運転手は、それだけ言った。

「何してる人」とは、訊かなかった。

「どちらまで」とも、訊かなかった。

「いつものとこで」

そう言って、前を向いた。

井坂は、頷いた。

車が、動き出した。

◇

運転手は、井坂の部屋の住所を、覚えていた。

五年のあいだに、何度乗ったのか、井坂は数えていなかった。十回か、二十回か。夜中に会社の前で手を上げて、この運転手の車が寄ってくる確率が、どのくらいなのかも、分からなかった。

運転手の名前を、井坂は、知らなかった。

助手席の背中に、乗務員の名札が差し込んである。井坂の席からは、字が小さくて、読めない。

五年間、読もうとしなかった。

正確には、一度だけ、読もうとしたことがある。

三年前の、扶桑化学の案件のころ。後部座席から身を乗り出して、名札の字を見ようとした。そのとき、車が交差点を曲がって、井坂は、座席に押し戻された。

それきりだった。

運転手が、ラジオを小さく点けた。

深夜の、音楽の番組だった。古い歌謡曲がかかっていた。女の歌手が、港の歌を歌っていた。

運転手は、それに合わせて、ハンドルの上で、指を小さく動かしていた。

井坂は、その指を、後ろから見ていた。

五年前に初めて乗ったときには、運転手は、ラジオを点けなかった。

いつから点けるようになったのかは、分からなかった。

運転手も、井坂の名前を、知らない。

◇

高速に乗った。

窓の外を、街灯が、同じ間隔で流れていった。

後部座席で、会社の携帯が、震えた。

画面の上の、小さなランプが、赤く点滅した。

井坂の手は、止まらなかった。

携帯を持ち上げて、画面を開いた。

公開買付けの、応募の状況の、今日の集計だった。代理人の部署から、毎晩、送られてくる。

応募の株数。一般の株主の過半数に、あと何株足りないか。

集計の表の、支店ごとの内訳の欄に、福浦支店の行があった。

福浦支店からの応募は、少なかった。

地元の株主は、応募していなかった。応援で買って、ずっと持つ。二十万を超えると、応援の額じゃなくなる。三年前の仮条件の夜に、井坂は、そう言った。

その株主たちが、千八百五十円で売るかどうかを、まだ決めていない。

決めないまま、持っている。

井坂は、それを読んで、画面を閉じた。

携帯を、膝の上に戻した。

窓の外を、見た。

◇

部屋に着いたのは、一時四十分だった。

「お疲れさまです」

運転手が言った。

「ありがとうございました」

井坂は、そう言って、車を降りた。

◇

部屋の明かりを点けた。

鞄を床に置いて、机の前に立った。

いちばん上の引き出しを、開けた。

手のひらの手帳と、紙袋が、並んでいた。

井坂は、紙袋を、取り出した。

白い厚手の紙の、紺のリボンの持ち手。側面に、金色の、筆記体のロゴ。金色は、四年でさらに褪せて、今は、薄い茶色に近かった。

井坂は、それを、床の鞄の中に入れた。

内ポケットではなく、鞄の、真ん中の仕切りの中に。

それから、引き出しの中の、手のひらの手帳を見た。

黒い革の表紙の、角が少し丸い。

井坂は、それを、手に取らなかった。

引き出しに、残した。

引き出しを、閉めた。

終章 手帳

八郎の四十九日は、十月の第三週の土曜に済んでいた。

公開買付けの期間は、まだ続いていた。延ばした期間が終わるまで、あと二週間あった。

◇

房江が、支店に電話をかけてきたのは、四十九日の法要の支度をしていたころだった。

八郎の遺品を整理していて、書斎の机の引き出しから、手帳が一冊出てきた。その手帳のあいだに、古い名刺が一枚、挟まっていた。

東雲証券福浦支店、井坂周。

井坂が、福浦にいたころに使っていた名刺である。

房江は、その名刺を見て、支店に電話をかけた。電話を受けたのは、野々村だった。

野々村から、井坂に、メッセージが来た。井坂が、自分から電話をかけた夜の、翌日だった。

「鳴海さんの奥さんが、井坂さんに渡したいもんがあるそうです」

◇

井坂は、今、買い手の側にいる。

公開買付けの期間中に、買い手の側のアドバイザーの責任者が、売り手の側の株主の家を訪ねる。それには、手続きが要った。

井坂は、コンプライアンスの部署に、届け出た。訪問の目的は、故人の遺品の受け取りである。訪問先は、故人の妻。同行者は、福浦支店の担当者。訪問の場で、公開買付けについては、買い手の側の人間として一切話さない。公表されている条件についての説明は、支店の担当者が、支店の通常の業務として行う。訪問のあとで、面談の記録を提出する。

コンプライアンスの部署は、三日で、それを認めた。認める書面の最後に、「訪問中の発言内容に十分留意すること」と一行あった。

福浦の本社での、江藤との打ち合わせは、その翌日の午前に入れた。

◇

十月の最後の金曜の、午後の二時に、井坂は、八郎の家の門の前に立った。

港を見下ろす坂の途中である。門から玄関までに、飛び石が七つ。

野々村が、隣に立っていた。

紺のスーツに、白いシャツ。外回り用の、低いヒールの黒いパンプス。踵の外側が、少し減っていた。

東京の服ではなかった。

いつもの、支店の服だった。

野々村が、玄関の呼び鈴を押した。

◇

座敷に、通された。

六年前と、同じ座敷だった。

畳の匂い。床の間の掛け軸。障子の向こうの、庭の明るさ。

鴨居に、写真が掛かっていた。

創業のころの工場。トタン屋根の平屋。手書きの看板。前に、自転車が三台。

井坂は、自転車の数を数えた。

三台だった。

その隣に、写真が一枚、増えていた。

金色の鐘の前で、誠治が、撞木を振っている写真だった。上場の日の、五回目の鐘である。誠治の後ろに、役員たちが並んでいる。

列の、いちばん端に、八郎が立っていた。

大きすぎる背広で。肩のところが、八郎の肩より、指二本分、外に出ている。

井坂は、その写真を、見た。

その日、井坂は、あの場にいた。写真を撮った人の、さらに後ろにいた。

写真には、写っていない。

房江も、写真には、触れなかった。

◇

房江は、茶を出してから、座布団に座った。

八十を過ぎていた。背が、少し縮んでいた。割烹着ではなく、黒いカーディガンを着ていた。

房江は、膝の横に置いていた、小さな風呂敷の包みを、ほどいた。

中から、手帳が一冊、出てきた。

手のひらに収まる大きさの、茶色い布の表紙の手帳だった。表紙の角が、擦り切れている。

房江は、それを、井坂の前に置いた。

「主人が、書いとったもんです」

井坂は、それを、手に取った。

◇

手帳を、開いた。

最初のページに、日付があった。

九年前の、四月の日付だった。

井坂が、福浦支店に配属された年の、四月である。

日付の下に、一行。

「井坂くん来訪」

その下に、数字が、いくつか並んでいた。

扶桑化学。電力。銀行。それから、八郎の持っていた株の銘柄が、五つか六つ。それぞれの横に、数字が書いてある。

その日の、株価だった。

井坂は、その数字を見た。

座敷で、井坂が、タブレットを見て、読み上げた数字である。持ち株の、その日の値段。八郎は、それを聞いて、頷いていた。頷きながら、膝の上で、何かを書いていた。

これを、書いていた。

◇

井坂は、ページを、めくった。

次のページにも、日付と、「井坂くん来訪」と、株価が並んでいた。

その次のページにも。

井坂が訪ねるたびに、一ページ。月に二度か、三度。

鳴海精機の株価は、どのページにもなかった。上場の前である。値段は、どこにもついていなかった。

扶桑化学の株価は、どのページにもあった。

少しずつ、上がったり、下がったりしていた。

ページの、ところどころに、数字ではない一行が、混じっていた。

「孫、志望校 決まる」

「柿 六つ」

「井坂くん、風邪」

「新人の子 連れてくる」

井坂は、その一行を、しばらく見ていた。

六年前の、春の日付だった。

◇

最後の、日付の入ったページは、五年前の、三月だった。

「井坂くん来訪 東京へ行く由」

その下に、株価。

その次のページから、手帳は、白紙だった。

井坂は、残りのページを、全部めくった。

白紙が、続いた。

最後のページまで、何も書いていなかった。

井坂が異動したあとで、八郎の家に通ったのは、野々村だった。八郎は、野々村が来た日のことを、この手帳には、書いていなかった。

別の手帳に、書いていたのかもしれない。

何も、書かなかったのかもしれない。

八郎が、何を思って、この手帳を書いていたのか。

井坂には、分からなかった。

房江も、何も言わなかった。

◇

房江が、口を開いた。

「これ、売ったほうがええの」

房江は、座布団の横の、もう一つの包みから、封筒を出していた。

東雲証券の封筒だった。公開買付けの、応募の案内である。株主に、郵便で送られてくる。

八郎の口座に、鳴海精機の株が、千株、入っている。

その株を、房江が相続する。相続したあとで、公開買付けに応募するかどうか。

井坂は、答えられなかった。

井坂は、買い手の側の人間である。売ったほうがいいか、と訊かれて、何かを答えることは、できない。

井坂は、黙っていた。

◇

野々村が、答えた。

座布団の上で、少しだけ、房江のほうに向き直った。

鞄から、公開買付けの公表の文書の写しを出して、房江の前に置いた。

公表されている条件だけを、一つずつ、説明した。

支店の言葉だった。

「まず、この株は、今は、ご主人様の名義のままになっとります。応募されるなら、先に、奥様の名義に変える手続きが要ります。相続のお手続きです。戸籍の書類を揃えていただいて、支店でお預かりします。二週間くらい、かかることがあります。応募の期間の終わりに、間に合わんことも、あります」

房江は、頷いた。

「応募の期間は、十一月の、この日までです」

野々村は、文書の日付のところを、指で押さえた。

「応募されたら、一株、千八百五十円で、買い取られます。千株やったら、百八十五万円。そこから、税金が引かれます」

「応募されんかったら」

野々村は、文書の、別のページを開いた。

「この買い付けが、成り立った場合、鳴海精機の株は、上場をやめることになります。そうなったら、応募されんかった株も、あとから、同じ値段で、お金に換えられることになると、書いてあります。すぐやのうて、何か月か先になります。成り立たんかった場合は、今のまま、上場した株として、持っとってもらうことになります」

房江は、頷いた。

「どっちがええ、いうことは、私からは申し上げられんのです」

野々村は、そう言った。

「どっちになさっても、手続きは、私がやらせてもらいます」

◇

井坂は、それを、横で聞いていた。

野々村の説明は、正確だった。公表の文書に書いてあることを、一つも足さず、一つも引かず、房江に分かる言葉に直していた。

井坂が、五年かけて書いてきた議事録のどれよりも、分かりやすかった。

房江は、しばらく、封筒を見ていた。

それから、封筒を、包みに戻した。

「息子には、訊かれんけえね」

房江は、それだけ言った。

井坂も、野々村も、何も言わなかった。

◇

井坂は、手帳を、閉じた。

房江の前に、両手で置いた。

「お返しします」

房江は、井坂の顔を見た。

それから、手帳を見た。

受け取った。

膝の上に置いて、表紙の擦り切れた角を、指で一度撫でた。

それだけだった。

◇

玄関で、靴を履いた。

六年前、この土間で、八郎が言った。息子が、上場したい言うとる。井坂は、靴べらを持ったまま顔を上げた。

土間に、午後の光が、斜めに入っていた。

猫の皿は、なかった。

房江が、上がり框に立って、頭を下げた。

井坂も、頭を下げた。

門を出る前に、庭を見た。

柿の木に、実が、残っていた。

枝の先に、いくつも。まだ、全部は取っていない。オレンジ色の実が、十月の終わりの光の中で、少しだけ光っていた。

◇

帰りは、野々村の車だった。

白い軽自動車である。三年前の二月に、駅まで迎えに来てくれた車と、同じ車だった。

井坂は、助手席に座った。

野々村の鞄は、後部座席に置いてあった。

ダッシュボードの上に、手帳が一冊、置いてあった。

手のひらに収まる大きさの、黒い革の表紙の手帳だった。

表紙の角が、丸く、擦り切れていた。

井坂は、それを、見た。

六年前の春、井坂が、新人の野々村に「メモは手のひらでええ」と言った。翌週、野々村は、同じ型を買ってきた。文具店に一つしか残っていなかった、と言った。

井坂の手帳は、東京の部屋の、机の引き出しの中にある。

野々村の手帳は、ここにあった。

井坂は、それ以上、手帳を見なかった。

後部座席の鞄で、ふくたこが、揺れていた。

◇

車は、坂を下った。

港沿いの道に出た。

信号で、停まった。

赤信号だった。

野々村は、ハンドルに両手を置いて、前を見ていた。

それから、前を見たまま、言った。

「で、結局なにしてるんですか」

五年前の、盆の夜と、同じ問いだった。

港の道を、二人で並んで歩いた夜。野々村は、「で、何してるんですか」と訊いた。井坂は、「まだ分からん」と答えた。野々村は、「ほな、分かったら教えてください」と言った。

それから、五年、野々村は、一度も訊かなかった。

信号は、まだ赤だった。

井坂は、答えた。

◇

信号が、青に変わった。

車が、動き出した。

野々村は、何も言わなかった。

前を見て、運転していた。

少しだけ、口の端が、上がっているように見えた。

◇

野々村は、車を、港の駐車場に停めた。

海に面した、小さな駐車場だった。車が、ほかに二台停まっていた。

フロントガラスの向こうに、岸壁が見えた。

六年前の秋に、二人で歩いた岸壁である。八郎の家からの帰りに。造船所のクレーンが、二基、立っている。片方が、動いていた。

海は、凪いでいた。

野々村は、エンジンを切った。

何も言わなかった。

◇

井坂は、足もとの鞄を、膝の上に載せた。

鞄を開けて、真ん中の仕切りの中から、紙袋を出した。

白い厚手の紙の、紺のリボンの持ち手。側面の、筆記体のロゴ。

ロゴの金色は、すっかり褪せていた。四年で、薄い茶色になっていた。

井坂は、紙袋から、箱を出した。

紺の、小さな箱だった。手のひらに、収まる大きさである。

井坂は、それを、野々村に差し出した。

何も、言わなかった。

◇

野々村は、箱を見た。

しばらく、見ていた。

それから、両手で、受け取った。

箱を、開けた。

中に、ネックレスが入っていた。

細い鎖に、小さな石が、一つ。

石は、透明で、駐車場の窓から入る光を受けて、小さく光った。

野々村は、それを、しばらく見ていた。

何も言わなかった。

井坂も、何も言わなかった。

岸壁の向こうで、クレーンが、ゆっくりと動いていた。

◇

それから、野々村が、一つだけ言った。

「あんた、なんでも書くのに」

井坂は、野々村を見た。

野々村は、箱の中を見ていた。

その続きを、野々村は、言わなかった。

井坂には、分かった。

十年近く、井坂は、聞こえたことを、全部書いてきた。八郎の持ち株。孫の志望校。真柴の赤。小此木の一言。仁科の問い。

野々村の、指輪の号数だけは、一度も訊かなかった。

訊けば、何のために訊くのかが、分かってしまうからだった。

◇

野々村は、箱を、閉じた。

それから、ジャケットの、内ポケットに入れた。

手のひらの手帳を、いつも入れている、あのポケットだった。

野々村は、ダッシュボードの上の手帳を、手に取らなかった。

手帳は、ダッシュボードの上に、置いたままだった。

野々村は、キーを回した。

エンジンが、かかった。

◇

車が、動き出した。

駐車場を出て、港沿いの道を、駅のほうへ走った。

井坂は、窓の外を見ていた。

岸壁が、流れていった。造船所のクレーン。倉庫。漁協の建物。

港の東の端に、古い屋根が見えた。

トタン屋根の、平屋の建物だった。壁に、看板はもうない。窓は、板でふさいである。

鳴海精機の、第一工場だった。

今は、倉庫になっている。

屋根が、午後の光を受けて、鈍く光っていた。

車が、角を曲がった。

屋根が、遠ざかっていった。

後部座席で、ふくたこが、揺れていた。


付録

付録一・人物

氏名と所属だけを掲げる。人物のしたことは本文にある。すべて架空の人物である。

東雲証券 投資銀行部門

  • 井坂 周(いさか・しゅう) 二十六歳(序章)。視点人物。北陸の地方都市で育ち、東京の大学を出て東雲証券に入る。父は福浦の隣の高洲町の出で、祖父の源蔵は高洲の網元、商工会の会長を長く務めた。初任地の福浦支店でリテールを四年。五年目の春に本社の企業金融部へ移り、三十二歳でVPになる。新人の野々村のOJTトレーナーだった。聞こえたことを全部書く。要点をその場で選べないからである。自分の仕事を、人に一言で説明できない。移った福浦の言葉が、自分では気づかないところで出る。
  • 柳瀬 恭一(やなせ・きょういち) 五十代。企業金融部長。「ここは、リテールよりリテールらしいぞ」。意味は説明しない。第四部の時点では関連会社へ移っている。
  • 真柴 豊(ましば・ゆたか) 三十代の後半(第一部)。VP、のちMD。口が悪い。叱るときに何も言わない。「で?」「このページ、要らん」「知ってることは、知らんことにしとけ」。アクリルの盾を自分の机に置かず、もらうたびに誰かにあげる。
  • 仁科 千尋(にしな・ちひろ) 三十代の前半(第一部)。アソシエイト。海外でMBAを取っている。数字で話す。井坂に青字と黒字、カバレッジとプロダクトを教える。第四部の一年前に運用会社へ移り、鳴海精機の株主の担当として特別委員会に書簡を送る。
  • 小此木 正(おこのぎ・ただし) 六十歳(第三部)。引受審査部の審査役。袖に黒い腕抜きをしている。「引き受けるいうのは、売れ残ったら自分で持つことや」「三回目の答えが、本当の答えや」。鳴海精機の仮条件を一段低くした。上場の翌年の三月に定年で去る。送別はない。
  • 小暮 陸(こぐれ・りく) 二十六歳(第四部)。井坂の部下のアナリスト。食事会の幹事を引き受ける。コードネームに「ベル」を出して却下される。

東雲証券 福浦支店

  • 野々村 紗季(ののむら・さき) 二十二歳(序章)、入社一年目。十一月生まれ。福浦の生まれ。井坂の四期下で、井坂がOJTトレーナーだった。井坂の異動で八郎を引き継ぐ。隣の市の支店で主任になり、第四部の前年に福浦支店へ戻る。井坂に教わった型の手のひらの手帳を、ジャケットの内ポケットに入れている。鞄に福浦市のゆるキャラ「ふくたこ」のストラップを付け、色が褪せても付け替えない。爪は短く、何も塗っていない。井坂を「井坂さん」と呼び、からかうときだけ「財務部さん」と呼ぶ。第10章のあと、井坂の仕事の中身を訊かない。電話をかけるのは、いつも彼女の側である。
  • 支店長 序章の福浦支店長。「お前、隠れて社内公募出したのか」。
  • 田辺(たなべ) 福浦支店の五年目(第10章)。井坂の一年先輩。客の家の座敷で足がしびれて立てなくなった。

鳴海精機

鳴海精機は福浦の精密部品の会社で、港の埋め立て地の本社のほか、工場を三つ持つ。創業時の第一工場は、今は倉庫になっている。

  • 鳴海 八郎(なるみ・はちろう) 八十二歳(序章)。創業者、会長。福浦支店の大口の客。座敷の鴨居に創業のころの工場の写真を掛けている。膝の上で何かを書く癖がある。古い代理店との取引を、自分で切った。上場の前に株の大半を誠治に移し、千株だけを支店の口座に残した。第四部で入院し、八月に亡くなる。
  • 鳴海 房江(なるみ・ふさえ) 八郎の妻。柿を干し柿にし、木守りの実を残す。八郎が亡くなったあとも、柿の木を切らずに残す。
  • 鳴海 誠治(なるみ・せいじ) 二代目の社長。三社のプレゼンで「上場したら、誰がうちの株を持つんですか」と訊き、拠点の地図に第一工場が無いことを指摘する。上場の六年後にMBOを決める。
  • 江藤 修(えとう・おさむ) 取締役CFO。地方銀行の出身。今どうなっているか、何が足りないか、どこで埋めるか、の順で話す。井坂に、裏に携帯の番号を書いた名刺を渡した。上場の事業計画とMBOの事業計画の伸び率を、同じ手で打った。「同じ手で、両方打ちましたわ」。

扶桑化学

  • 岩城 康之(いわき・やすゆき) CFO。ニューヨークのノンディールIRで、井坂からのど飴とみそ汁を受け取る。礼は言わない。同じ冗談を一日に五回言う。四か月後、井坂の名前を覚えていた。梅の飴を自分で買うようになる。
  • IRの部長 ニューヨークに岩城と同行する。飴とみそ汁に礼を言う。

第43章の人々

  • ミオ 二十九歳。外資系ホテルの広報。名字は名乗らない。爪に小さな石を並べている。井坂の仕事を、作中で唯一、一度で言い当てる。井坂の言葉に福浦の言葉が混じることに気づく。

外側

  • 深夜タクシーの運転手 六十代。白髪を短く刈り、ベストの胸ポケットにボールペンを二本挿している。「お客さん、何してる人」と訊き、最後には「いつものとこで」と言う。名前は互いに知らない。
  • 扶桑化学の株を持つ老人 野々村の客。元は造船所の溶接工。配当で、五人の孫にお年玉を出している。
  • 「IPOなんか当たらん」の客 野々村の客。鳴海精機の抽選に当たって三回確かめ、初値で売って孫のランドセルを買う。
  • 日本橋の定食屋の主人 アジの産地を訊かれて、嬉しそうに答える。
  • 信用金庫の理事長 福浦の隣の町の信用金庫の理事長。扶桑化学の社債を一億円買う。

付録二・用語

作中に出てくる用語を、本作の文脈に即して簡単に補う。厳密な定義ではない。東雲証券、鳴海精機、扶桑化学、および福浦の町は架空のものである。

組織

  • 投資銀行部門 企業の資金調達やM&Aを手伝う部門。作中では企業金融部がこれにあたる。井坂は、支店長に「コーポレートファイナンス部」と言われて、会社の財務部のことかと訊き返した。
  • カバレッジとプロダクト カバレッジは企業ごとの担当で、日頃から先方と話し、案件を取ってくる。プロダクトは株式・債券・M&Aといった商品ごとの専門部署で、案件を実際に動かす。
  • 引受審査部 引き受けてよい会社かどうかを、社内で審査する部署。営業の側から独立している。
  • 情報の壁 顧客の未公表の情報を、部署と部署のあいだで勝手に行き来させないための仕切り。支店で個人の客から聞いたことは、本社の案件に使えない。
  • VP・MD ヴァイス・プレジデント、マネージング・ディレクター。投資銀行部門の役職。日系と外資系で、同じ名前の役職の重さが違うことがある。

資料

  • ピッチブック(ブック) 先方に出す提案書。
  • リーグテーブル 引受やM&Aの実績の順位表。集計の期間と対象の切り方で、順位が変わる。
  • 類似会社比較 似た事業の上場会社の株価の倍率から、株の値段の目安を出す方法。どの会社を比べる相手に選ぶかで、答えが変わる。
  • 青字と黒字 表計算で、手で打った数字を青、計算式を黒で書く約束。
  • 原典 有価証券報告書、決算短信、官報のように、数字のもとになる書類。報道の数字は使わない。
  • トゥームストーン 案件の記念に配られるアクリルの盾。

株式の発行

  • 主幹事 上場や増資で、中心になる証券会社。
  • 引受 発行される株を証券会社がいったん買い取り、投資家に売ること。売れ残れば、証券会社が持つ。
  • 有価証券届出書・目論見書 届出書は国に出す書類、目論見書は投資家に渡す説明書。同じデータから作る。
  • 訂正届出書 届出書の内容に変更や誤りがあったときに出す書類。値段が決まるたびにも出すので、誤字の訂正はその中に紛れる。
  • 仮条件 上場のときの公開価格の候補になる、値段の幅。公開価格は、この幅の外には決められない。
  • ブックビルディング 仮条件の幅の中で、投資家の需要を積み上げること。
  • 抽選 個人投資家に配る株の一部を、無作為に配ること。作中の鳴海精機では、倍率が三十倍を超えた。
  • 公開価格・初値 公開価格は、上場のときに投資家が株を買う値段。初値は、上場のあとで最初についた値段。需要が強いと、上場の日につかないことがある。
  • 気配値 売買が成立していないときに示される参考の値段。上場の日には、十分ごとに一段ずつ動く。
  • 打鐘 上場のセレモニーで鐘を五回打つこと。五穀豊穣にちなむ。誰がどの順番で打つかを、事前に届け出る。
  • ロックアップ 大株主が上場のあと一定の期間、株を売らない約束。
  • 公募増資 上場している会社が新しく株を出して、広く投資家に売ること。
  • 希薄化 株の数が増えて、一株あたりの価値が薄まること。
  • ディスカウント 増資の発行価格を、市場の値段から割り引く幅。
  • オーバーアロットメント・グリーンシュー・オプション 需要が強いときに予定より多くの株を配り、その分を、市場で買い戻すか、会社に追加で発行してもらうかして埋め合わせる仕組み。後者の権利をグリーンシュー・オプションと呼ぶ。名前は、最初にこの仕組みを使った靴の会社から来ている。
  • ウォールクロス 公表前の増資について、限られた投資家に事前に打診すること。「これから未公表の情報をお伝えします。お受けになりますか」と前置きし、受けた投資家は、公表までその銘柄を売買できなくなる。
  • インサイダー登録簿 未公表の重要な事実を知る立場になった者の名簿。

債券

  • 社債 会社が発行する債券。
  • スプレッド 国債の利回りに上乗せする幅。会社の信用力で決まる。
  • bp ベーシスポイント。〇・〇一パーセント。作中の扶桑化学の社債では、〇・五bpの刻みで交渉した。

M&A

  • MBO 経営陣が投資ファンドなどと組んで、自分の会社を買い取ること。上場をやめることが多い。
  • 特別委員会 MBOで、経営陣から独立した社外取締役が、一般の株主の立場から条件を検討する委員会。自分たちのアドバイザーと算定機関を持つ。
  • 株式価値算定 株の値打ちを計算すること。将来のお金を割り引くDCF法、市場の株価を使う市場株価法、類似会社比較法がある。三つの方法の幅を横棒で並べた図を、フットボール・フィールドと呼ぶ。
  • 公開買付け 期間と価格を公表して、市場の外で株を買い集めること。応募は、代理人になった証券会社を通じてする。作中では、買い手の側のアドバイザーである東雲証券が代理人を兼ねた。
  • プレミアム 買付価格が市場の株価をどれだけ上回るかの率。直近の株価、一か月・三か月・六か月の平均株価に対して、それぞれ計算して開示する。公開価格に対する率を書く欄はない。
  • マジョリティ・オブ・マイノリティ条件 買い手と利害を共にしない一般の株主の過半数が応募しなければ、公開買付けが成立しないとする条件。
  • フェアネス・オピニオン 取引の条件が、一般の株主にとって「財務的見地から」公正だと述べる第三者の意見。
  • コードネーム 秘密を守るために案件につける仮の名前。チームのいちばん若い者が考える。

支店

  • 対面の窓口 作中の福浦支店の窓口は、三年前の改装のときから現金を扱わない。入出金は銀行の口座を通すか、入口の脇の提携先のATMでする。それより後に入った社員は、支店で札を数えたことがない。窓口は、仕切りでブースに分けたローカウンターで、客も係も腰かけて向き合う。
  • 相続の手続き 亡くなった人の名義の株は、相続人の名義に移してからでないと、公開買付けに応募できない。戸籍の書類を揃えるのに、二週間ほどかかることがある。

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