能力宣言

本書はフィクションである。地方銀行協会、共同センター、信金中金、日本銀行といった、金融の制度・機能を指す語を用い、また口座振替・組戻し・勘定系の稼働時間帯といった実在の実務を素材としているが、本書に描かれる参加金融機関、協会、プロジェクト、およびそこに集まった人物は、すべて創作である。なお、基盤の技術的な設定はSAKUOLIA WORKSのZENITH PROPOSALに依拠した。汐入銀行、灯明島をはじめとする銀行、企業、島、店、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる組織・個人とも関係がない。作中で語られる制度の説明もまた、登場人物がその場で述べたものにすぎず、著者の見解でも、まして特定の設計についての評価でもない。


序章 欠航

灯明島へ渡る船は、県庁所在地から車で四十分の港から出る。一日に三便。冬は二便になる。

菅原大海は、十二月の二十六日の朝、その港の待合所にいた。

父の三回忌は二十八日だった。二十六日の便で渡って、二十七日に島の家の掃除をして、二十八日の午前に寺で法要をやる。母とはそう決めてあった。有給は三日取った。支店の年末は忙しい。二十九日には戻る。

待合所は、コンクリートの床に長椅子が四列並んでいるだけの建物である。壁に時刻表と、運賃表と、日焼けした島の写真が貼ってある。写真の隅に「灯明島観光協会」と印刷されているが、観光協会はもうない。

窓口の上に、白い紙が下がっていた。

本日 全便欠航

紙は新しくない。何度も貼ったり外したりしているので、四隅に画鋲の穴が重なっている。

菅原は、その紙を見て、長椅子に座った。

窓の外は、灰色だった。海が灰色で、空も灰色で、そのあいだの線がどこにあるのかよく見えない。風は音でわかる。建物の隙間を通るときに、高い音がする。

十時になって、窓口の男が出てきた。菅原より少し年上で、紺の作業着を着ている。

「明日も、たぶん出んよ」

「明日もですか」

「西が入っとる。あさってからは、わからん」

男はそれだけ言って、奥へ戻った。

菅原は、母に電話をかけた。三回鳴って出た。

「船、出ないって」

「そうやろね」

母は驚かなかった。窓の外を見ればわかる、という言い方だった。島の側の海も同じ海である。

「二十八日には、着けると思う」

「無理せんでええ」

母はそう言って、切った。用がなければ長く話さない。

◇

その日は、港の近くのビジネスホテルに泊まった。

一泊六千円で、部屋にユニットバスと、テレビと、小さい冷蔵庫がある。窓から漁協の建物と、駐車場と、その向こうの防波堤が見えた。防波堤の上を、白いものが越えてくる。波である。

菅原は、テレビをつけて、消した。

支店の携帯に一件着信があったので、かけ直した。後輩からで、翌日の期日の書類の場所を訊かれた。三十秒で終わった。

夕方、近くの食堂で定食を食べた。刺身が付いていて、それが港の魚だった。旨かった。

七時に部屋へ戻って、九時に寝た。

夜のあいだ、風の音がずっとしていた。

◇

二十七日も欠航だった。

待合所には、四人いた。菅原と、老人が二人と、宅配便の制服を着た男が一人。

老人の一人は、菅原の顔を見て、少し首を傾けた。

「あんた、菅原さんとこの」

「はい」

「ああ、そうか。大きなったな」

そう言って、それきり何も言わなかった。

もう一人の老人は、荷物を三つ持っていた。段ボールと、紙袋と、大きなビニール袋である。ビニール袋から白ねぎが出ている。二日、そのまま待っている。

宅配便の男は、九時に一度出て、十一時にまた来て、一時にまた来た。来るたびに、窓口の紙を見て、帰っていく。

誰も、怒らなかった。

窓口に文句を言う者はいない。船が出ないことは、誰かの落ち度ではない。西が入れば出ない。出ない日は出ない。それは、あらかじめ決まっていることだった。

島の人間は、冬になると、出ない日を先に数える。年末年始に何日、と数えて、その日数のぶんを見越して、米と灯油と薬を積んでおく。数えられるものは、あらかじめ数える。

菅原は、それを当たり前だと思って育った。

昼過ぎに、母から電話が来た。

「明日も、たぶん出んわ」

「うん」

「寺には言うてある。時間はそのままでええって」

「間に合わんかもしれん」

「うん」

母は少し黙ってから、言った。

「克巳が来てくれる言うてる」

「ああ」

「山際さんとこの」

「わかる」

菅原は、それだけ言った。

◇

二十八日の朝、船が出た。

前の日の夕方に西が抜けて、夜のうちに海が落ちた。始発の便が動くと窓口が言ったのは、六時半である。菅原はホテルを五時に出て、六時から待合所にいた。

フェリーは二時間十分かかる。

甲板には出なかった。冬に甲板へ出る人間は島にいない。客席は二等の座敷で、床が畳になっている。十人ほどが、思い思いの場所に横になっていた。段ボールと紙袋と白ねぎの老人も乗っていた。荷物を頭の側に置いて、目を閉じている。

菅原は、壁にもたれて座った。

窓の外は、まだ揺れていた。前の日まで吹いていた風の名残が、うねりになって残っている。船は、そのうねりを、斜めに越えていく。越えるたびに、床がゆっくり持ち上がって、ゆっくり下がる。

九時前に、島の影が見えた。

灯明島は、低い島である。山らしい山がない。北の端に灯台があって、それが島でいちばん高いものだった。港は南側に一つ。集落も、南側にだけある。

人口は三百人台である。菅原が高校で島を出たときには、まだ六百人いた。

法要は九時からだった。

港から寺までは、歩いて十二分ある。菅原は、着いてから走らなかった。走っても間に合わないことがわかっていたからで、走らないと決めたわけではない。

寺に着いたのは、九時二十五分だった。

読経は終わりかけていた。菅原は、本堂の後ろの戸を静かに開けて、靴を脱いで、いちばん後ろに座った。

親族が七人と、近所が五人。前から二列目に、母がいた。

その隣に、山際克巳が座っていた。

喪服を着ていた。首から上が黒くて、シャツの襟のところで色が変わっている。肩が厚い。菅原の位置からは、後頭部と、その厚い肩しか見えなかった。

山際は、振り向かなかった。

読経が終わって、住職が短く話をして、焼香になった。菅原は最後に立った。

母は、菅原の顔を見て、「来たか」と言った。それだけだった。

◇

昼は、家で食べた。

親族が上がって、折詰めを開けて、酒を出した。母は台所と座敷を何度も往復していた。菅原は途中から台所に入って、皿を洗った。

山際は、二時に帰った。

玄関で靴を履きながら、菅原に言った。

「明日、船で出るんか」

「二十九日の昼の」

「出るやろ、明日は」

「うん」

「そんならええわ」

山際はそう言って、出ていった。礼を言う間がなかった。言おうとしたときには、もう軽トラックのドアが閉まっていた。

夕方、菅原は一人で港まで歩いた。

用はなかった。家にいると母が茶を出すので、外に出ただけである。

港には、船が四杯繋いであった。そのうちの一杯が、山際の船だった。父の船ではない。父の船は、父が死んだ年に処分している。山際の船は、山際の父から山際へ渡ったものである。

菅原は、岸壁に立って、その船を見た。

彼が高校を出るとき、父は何も言わなかった。

母は言った。島におっても仕事がない、と言った。それは正しかった。伯父も言った。銀行はええぞ、と言った。それも、伯父の位置からは正しかった。

父は、何も言わなかった。

継げ、とは一度も言わなかった。継ぐな、とも言わなかった。県内の大学を受けると言ったときも、内定が出たときも、「そうか」としか言わなかった。

言わなかったことを、菅原は覚えている。

言われていたら断ったのか、断らなかったのか、そこは考えたことがない。考える形になっていない。ただ、父が最後まで言わなかった、という事実だけが、そのままの形で残っている。

風が出てきたので、菅原は家へ戻った。

翌日の船は、出た。

◇

年が明けて、一月の九日に、支店長に呼ばれた。

汐入銀行の湊町支店は、県庁所在地の駅から二つ目の停留所の前にある。行員は二十六人。菅原は渉外の三年目で、湊町支店は三か店目になる。

内線が鳴ったのは、午前十時十分だった。

「菅原くん、ちょっと」

湊町支店は、三階建てである。一階が窓口と営業室。二階が渉外と融資の島で、菅原の机はそこにある。三階に、支店長室と応接室と、使われていない会議室が一つある。

二階から三階へは、内階段で上がる。十四段ある。上がりながら、菅原は先週の書類のことを考えた。先週、期日の入力を一件、翌日にずらしている。後で直したが、記録は残る。それか、先月の苦情の件かもしれない。二丁目の客が、投資信託の説明を受けていないと言ってきた件である。あれは自分の担当ではないが、同行はした。

心当たりは、そのくらいしかなかった。

支店長は、机の上に一枚の紙を置いていた。

「これ、なんか聞いとる?」

「いえ」

紙には、銀行協会の名前と、長い名称の会議体の名前と、日付が並んでいた。

「本部から来た。東京や」

「東京、ですか」

「決済の、新しい仕組みを作る言うて、去年から検討会をやっとった。うちの頭取が今年、地銀協の会長やろ。それで、うちが第一次の参加行に入っとる」

「はい」

「その、作るほうに人を出す。プロジェクトルームいうのが東京にできる。三年や」

「三年」

「システム部の築館さんから電話があった。おれのところにや。人事課やない」

支店長は、そこで一度、菅原の顔を見た。

「事務がわかっとって、東京で折れん奴はおらんか、と訊かれた」

菅原は、返事をしなかった。

「菅原くんしかおらんやろ」

「私は、システムは」

「システムができる奴、とは訊かれとらん」

支店長は、紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。

「二月からや。年度の途中で申し訳ないが、向こうが二月からと言うとる」

菅原は、紙を見た。

会議体の名前は、長かった。「次世代資金決済基盤」という語が入っていて、その前後に、検討と、推進と、共同という語が付いている。どこが主語なのか、一読ではわからなかった。

支店長の説明は、そこから五分ほど続いた。

菅原が意味を取れたのは、三分の一だった。参加行が何行あって、共同センター側がどう関わって、実装のベンダーが決まっていて、というあたりまではわかった。そこから先の、何を作るのか、という部分がわからなかった。

一度だけ訊いた。

「決済の、なんですか」

「決済の、仕組みや」

支店長は、そう答えた。

その答えで、支店長も知らないのだということが、菅原にはわかった。

◇

引き継ぎは三日だった。

一月に人を抜かれる支店は、迷惑している。それは誰も口に出さないが、菅原にはわかった。渉外の担当は八十五先ある。年度末までの案件が、そのうち十四ある。三日で渡せる量ではない。

二日目の夕方、同期の堀健吾が、融資の島から声をかけてきた。

「東京行くんやってな」

「うん」

「なんや、出世かい」

「そんなんやない」

「まあ、うちの銀行が東京でなんかやる言うたら、たいてい人が足らんだけやろ」

堀は笑った。悪気はない。

一日目に、菅原は八十五先を四つに分けた。

年度末までに動くもの。半年以内に動くもの。動かないが、月に一度は顔を出す必要があるもの。それ以外。

分けて、後任二人に配った。配るときに、先ごとに一行ずつ書いた紙を付けた。

「社長は昼前が機嫌がいい。経理の課長は木曜が休み」
「三代目。先代の話をすると長い。ただし、決めるのは先代」
「電話は出ない。行けば会える」

書くのに、丸一日かかった。

二日目の夕方に、後任の一人がその紙を持ってきて言った。

「菅原さん、これ、書いてもらってよかったんですけど、たぶん半分は使えないです」

「なぜですか」

「僕が行くと、向こうの態度が変わるので」

菅原は、それを聞いて、少し黙った。

黙って、「それは、そうやな」と言った。

その紙のことを、彼は三年半あと、四階の部屋で思い出す。四十一項目の表を書きながら、思い出す。

◇

三日目の午後、菅原は一階へ下りて、窓口の後ろに入った。

引き継ぎとは関係がない。十日で、繁忙日だった。年金の受給日と重なっていて、二時前から番号札の待ちが十五番を超えていた。

沢井久美子が、テラーの三番にいた。

五十八歳で、この支店に十九年いる。菅原が入った最初の支店にもいたので、通算すると二十年以上、同じカウンターの内と外で顔を合わせていることになる。小柄で、動きが速い。

菅原は、後ろで伝票を捌いた。伝票の綴りを崩して、印鑑の位置を見て、届出印の照合の順番を作る。手が覚えている。

三時十五分に、客が一人残った。

八十くらいの女性である。通帳と、電気料金の払込票と、封筒を持ってきていた。封筒には、電気会社からの通知が入っていた。口座振替が不能になったので、指定の日に再度引き落とす、という内容の紙である。

沢井は、その紙を見て、女性に言った。

「これはね、もう一回、二十七日に落ちますから。今日払うと、二重になっちゃうかもしれない」

「二重に」

「そう。だから、二十七日までに、口座にお金を入れておいてくださいね。そうすると、こっちで落ちますから」

「あの、それは、いつ落ちるの」

「二十七日です。朝には入れておいてください」

「朝の、何時」

沢井は、少し止まった。

「朝には、入れておいてください」

女性は、うなずいて、帰った。

菅原は、そのやりとりを、後ろで聞いていた。

同じやりとりを、沢井は月に何度もしている。二時から四時のあいだに来た客に、同じことを言い続けている。三十八年、同じ仕事をしている。

四時を過ぎて、シャッターが下りてから、沢井が菅原のところへ来た。

「ひろみちゃん、東京行くんだって」

沢井は、菅原を下の名前で呼ぶ。行内でそう呼ぶ人間は、あと一人か二人しかいない。

「はい」

「何やるの」

「決済の、仕組みを作るそうです」

「へえ」

沢井は、それだけ言って、伝票の束を持って奥へ行った。

菅原は、その背中を見ていた。

何を作るのか、自分でも説明できていない、ということに、そのとき初めて気がついた。


第一部 二時から四時

1 鍵

銀行協会のビルは、東京駅から地下鉄で二駅の、大きな通りに面していた。

昭和の終わりに建ったものである。十一階建てで、通りに面した幅が四十メートルほどある。低層の三階までが、磨いた御影石で張ってある。灰色に近い薄い桜色で、目地が細い。四階から上は、白いタイルである。タイルは十年ほど前に張り替えていて、そこだけ色が新しい。境目の一本の線が、遠くから見ると、建物を二つに割っているように見える。

菅原は、その線を、道の反対側から一度見た。

汐入銀行の本店は、七階建てである。湊町支店は三階建てで、外壁は去年塗り直した白い吹き付けだった。石を張った建物に毎日入ったことは、彼にはない。

正面に、庇が突き出していた。車寄せである。柱が四本あって、その根元だけ、石が黒ずんでいる。雨のかかる高さだった。

庇の下に、旗竿が三本ある。菅原が来た日は、一本も上がっていなかった。

入口は、自動扉が二枚。回転扉はない。扉の右手の壁に、協会の名前が、金属の文字で打ってある。文字は一つずつ独立していて、壁との間に指が一本入るだけの隙間がある。晴れた日の午前は、その隙間の影が、文字の下に二重の輪郭を作る。文字の下に、定礎の石が嵌まっていた。

菅原は、その前で、一度立ち止まった。

止まった理由は、なかった。ただ、勤め先ではない建物に、毎日入ることになる、ということが、そのときまで実感になっていなかった。

定礎の年号を読んだ。彼が生まれた年より、あとだった。

自動扉は、二枚とも開いていた。手前の一枚を抜けて、二枚目の前で、彼はもう一度、歩く速さを落とした。

◇

ロビーは、天井が高かった。

床が、白と灰色の石である。四十センチ角で、目地に沿って歩くと、靴の音が返ってくる。

音の返る床を、菅原は初めて歩いた。支店の営業室は、床がタイルカーペットで、音がしない。湊町では、誰か入ってきたかどうかは、扉の鈴で分かる。奥行きが二十メートルほどあって、いちばん奥にエレベーターが四基。手前の右に受付があった。

受付は、木の甲板を張ったカウンターで、二人座れる。座っているのは一人だった。後ろの壁に、大きな時計が一つ。デジタルではない。

左手の壁に、掲示板がある。

透明の扉が付いていて、鍵がかかる。中に、その日の会議の予定が、紙で貼ってあった。時刻と、階と、会議室の番号と、会議体の名前。名前は、どれも長い。菅原は、その紙を上から下まで読んだ。読んで、自分の会議体の名前を探した。

三行目にあった。四階、と書いてある。

掲示板の隣に、ソファが四脚と、低い机が二つ。応接である。朝の九時半に、そこに座っている人間が二組いた。片方は三人で、鞄を膝に載せて黙っていた。もう片方は二人で、片方が立ったまま話していた。

壁際に、観葉植物が二鉢。葉が厚くて、艶がある。作り物ではなかった。

菅原は、葉に触れた。触れて、指を離した。

支店の応接に置いてあるのは、造花である。十年、同じものが置いてある。水はやらないので、埃を拭くのが年に二度、事務の当番の仕事になっている。

ここでは、誰かが水をやっている。その誰かを、彼はこの日、見なかった。

二階から七階までが会議室で、八階から上が事務局と、いくつかの団体の事務所になっている。四階だけは、去年から、会議室ではなく作業室として貸し出されている。

エレベーターの脇に、階段がある。菅原は、その日はエレベーターに乗った。

◇

四階でエレベーターを降りると、廊下が右へ延びていた。

床は、灰色のタイルカーペットである。壁は、腰の高さまでが木目の板で、その上が白い。天井の照明は、二本ずつ、六組。三組目の一本が切れていた。

湊町支店では、切れた蛍光灯は、その日のうちに替わる。替えるのは、いちばん下の行員の仕事である。四年前までは、菅原がやっていた。

廊下には、扉が三つある。

左側に二つ、右側に一つ。

左の手前が四〇二で、その奥、突き当たりの手前が四〇一である。二つは隣り合っていて、あいだが可動の間仕切りになっている。壁ではない。上のレールから吊ってあって、端の一枚を引くと、蛇腹に畳まれて、二室が一室になる。

右側、廊下を挟んだ向かいが、四〇三だった。

三つとも、同じ会議体のために取ってある、と、あとで菅原は聞く。

四〇一が、参加行と協会と日銀と信金中金——つまり銀行の側の作業室。四〇三が、実装のベンダーの作業室。四〇二が、共用の会議室である。

菅原の部屋は、四〇一だった。

扉に、名札が出ていた。

樹脂の板に白い紙を差し込む形式で、紙には会議体の長い名称が印刷されている。その下に、少し小さい字で「事務局/作業室(銀行側)」と入っていた。書体は明朝で、印刷はきれいだが、紙は一枚だけである。差し込み口の下の隅が、少し折れていた。

菅原は、その名札を、一度読んだ。

二月五日の午前九時四十分だった。

◇

読んでいるあいだ、廊下の反対側に、人がいた。

女性である。黒いバッグを右手に提げて、こちらの扉のほうを見ていた。菅原が顔を上げると、その人も顔を上げた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「これは、今日からですか」

名札のことだと、菅原は少し遅れて気づいた。

「今日からです」

「そうですか」

その人は、それだけ言って、廊下の突き当たりの階段のほうへ歩いていった。エレベーターを待たなかった。

菅原の首と、手の甲を、見なかった。

◇

鍵は、事務局の女性から受け取った。

四十歳くらいの人で、名前は聞いたが、その場では覚えられなかった。鍵は二本、輪に通してある。一本が部屋の鍵で、もう一本がロッカーの鍵だった。

「こちらが四〇一の鍵です。朝いちばんに来られた方が開けて、最後の方が閉めてください。守衛には名簿を出してありますので、何時でも入れます」

「何時でも」

「深夜も、土日も入れます。ただ、土日は空調が止まります」

「はい」

「ロッカーは、いま八番が空いています。番号を控えておいてください。中のものはご自由に。私物を置いていただいてかまいません」

「四〇三は」

「あちらは実装の会社さんのお部屋です。鍵は別で、あちらで管理されています。ご用のときは、内線か、扉を叩いてください」

菅原は、鍵を受け取って、両手で持った。

私物を置いていい部屋、というものを、彼は持ったことがなかった。

支店には机がある。机には引き出しがあって、引き出しには私物を入れる。だがあれは自分の机であって、部屋ではない。会議室は、使い終われば出る。ホワイトボードは消す。机は元の並びに戻す。それが会議室である。

この部屋は、会議室ではないらしかった。

◇

部屋は、思っていたより広かった。

入って右手に窓が三つ並んでいる。西向きで、向かいのビルの壁が見える。壁は白いタイルで、その表面が午後になると光る。

左手の壁が、四〇二との間仕切りである。近くで見ると、板ではなく、布を張った面がいくつも連なっている。継ぎ目に指をかけられる溝があって、端に取っ手が付いていた。取っ手には、鍵穴がある。菅原は、そこを一度だけ見た。

開けるものだとは、思わなかった。

窓を背にして、島が二つ。長机を四つずつ突き合わせて作った島で、片側に四人ずつ、合わせて十六人が座れる。椅子は同じものが十六脚ではなく、四種類混ざっていた。背もたれの高いものが六脚、低いものが七脚、肘掛けのあるものが二脚、それから、明らかに会議室用の折りたたみが一脚。

奥の壁に、ホワイトボードが二枚。左の一枚には、前の会議体の文字が残っていた。

「第4回 WG ①制度 ②接続 ③費用」

その下に、日付がある。二年前の日付だった。消せない。何度か消そうとした跡が、下から三分の一のところに白い帯になって残っている。

右の壁に、ロッカーが十二。縦に六段が二列で、扉に一から十二までの番号が貼ってある。八番の扉に、鍵が挿さっていた。

ロッカーの横に、給湯コーナーがあった。流しと、電気ケトルと、マグカップが五つ。マグカップはどれも柄が違う。誰かが持ち込んだものが、そのまま残っている。ケトルは白くて、注ぎ口の付け根に湯垢が固まっていた。

入口に近い側の島の、いちばん奥の席。そこが、空調の吹き出し口の真下だった。夏は冷えすぎ、冬は乾く。あとで、そこに座る人間が三か月で二人替わることになる。

窓側の島の、いちばん窓に近い席。そこは、午後の光が机に載る。書類が読みにくいので、誰も座らない。かわりに、段ボールが置かれるようになる。

床は、灰色のタイルカーペットだった。島の下だけ、椅子の車輪の跡が白くなっている。

菅原は、鞄を持ったまま、部屋の真ん中に立っていた。

三分ほど立っていた。

◇

八番のロッカーを開けた。

中は空だった。上に棚が一段あって、下は縦に長い。傘を立てられる。ハンガーを掛ける金具が付いている。

菅原は、鞄を床に置いて、上着を脱いで、ハンガーに掛けた。

それで、入れるものがなくなった。

支店なら、印鑑と、名刺の箱と、予備のネクタイと、常備薬と、傘と、雨合羽が入る。渉外は外を回るので、置くものが多い。ここには何もない。持ってきたのは鞄一つで、鞄の中身は筆記具とノートと、支店から持ってきた事務の手引きが二冊だけだった。

手引きを入れるべきか、少し考えた。

入れると、取り出すたびにロッカーを開けることになる。机の上に置いておけば、そのままである。

菅原は、上着だけ掛けて、ロッカーを閉めた。

鍵をかけた。かけてから、かける必要がないことに気がついて、もう一度開けて、閉めた。今度は鍵をかけなかった。

◇

十時に、事務局の女性がもう一度来た。

「席は、決まっていません。どこでも」

「どこでも、ですか」

「はい。だんだん決まっていくと思います」

菅原は、入口に近い側の島の、廊下側の端に座った。

出入口にいちばん近い席である。人が入ってくれば、最初に目に入る場所だった。彼は、そういう席の取り方を、意識せずにする。

机の上には、電源のタップが一本、島の真ん中を走っていた。差し口が六つあって、そのうち二つに、誰のものかわからない充電器が挿さったままになっていた。

十時十五分に、ノートパソコンが届いた。事務局の貸与品で、封筒に初期パスワードが入っている。

十時四十分に、共有のホワイトボードマーカーが四本、黒・赤・青・緑で配られた。緑だけ、書けなかった。

十一時に、廊下の自動販売機の場所を教わった。

エレベーターホールの脇にある。飲み物が二台で、片方は緑茶と水しか入っていない。夜になると、この機械が音を出す。冷却の機械が回るときに、低い音が二十秒ほど続いて、止まる。昼は人の声で聞こえない。

◇

十四時に、四〇三の扉が開いた。

菅原は、廊下にいた。自動販売機で水を買って、戻る途中である。扉から人が出てきて、そのあいだ、中が見えた。

見えたのは、三秒ほどである。

四〇一と、間取りが違った。窓を背にした島が二つではなく、長机が壁と平行に六列、隙間なく並んでいる。一列に五人か六人。全員が画面を見ていた。誰も話していない。話し声の代わりに、打鍵の音が、部屋の奥から手前まで、途切れずに続いていた。

奥の壁が、紙で埋まっていた。

大きな紙を四段に貼って、そのあいだを線で繋いである。線には色が三種類あって、赤い線がいちばん多い。紙のいくつかは、上から別の紙が重ねて貼ってあった。

扉が閉まった。

閉まる直前に、菅原は、その部屋の空気が四〇一より二度ほど高いことに気づいた。人の数である。

◇

菅原は、その日、部屋にいた時間の半分を、座って過ごした。

やることが、まだなかった。

2 名札

銀行の側の面子が揃ったのは、二月六日の午後だった。

十三時から、四〇一で顔合わせがあった。事務局が名簿を配って、上から順に自己紹介をした。菅原は名簿を見ながら聞いていたが、三人目で追いつかなくなった。

名刺を、順番に交換した。

菅原は、名刺を両手で受ける。受けてから、しばらく見る。会社名と、部署名と、名前と、その並び方を一度読んでから、名刺入れに仕舞う。渉外でそう教わって、そのまま十年やっている。

八人と交換して、十五分かかった。

ベンダーの側とは、その日は交換しなかった。四〇三の人間は、その場にいない。事務局が「実装の会社さんとは、金曜にまとめて」と言った。

菅原は、そういうものかと思った。

あとで、その分け方に理由があったことを知る。作る側と、頼む側である。二つの部屋は、廊下を挟んで、向かい合っている。

◇

根岸尚彦。会長行の部長で、この部屋の名目上の長である。会長行の部長というのが、汐入銀行でいえばどのあたりなのかを、菅原はあとで堀に訊いた。役員だよ、と堀は言った。うちの役員と同じ席に座る人だ、と。歳は、五十を過ぎているように見えた。腹が出ていて、上着のボタンを一つも留めていなかった。鞄は黒くて、角が擦れている。挨拶は短かった。「よろしくお願いします。私は決めることが仕事ですので、遠慮なく上げてください」と言った。

芝原恭平。メガバンクのデジタル戦略室から出向。菅原より少し上のように見えたが、確かではない。姿勢がよく、笑顔が自然だった。どこの銀行にも一人はいる、若いうちに本部へ上がった側の人だと思った。「わからないことがあったら何でも聞いてください」と言った。菅原はうなずいた。

皆川千秋。日銀の決済機構局から出向。歳は、菅原と同じくらいだろうと思った。眼鏡はかけていない。話し方が丁寧すぎて、かえって距離があった。「本日はよろしくお願い申し上げます」と言った。名刺を出す角度が、きれいに揃っていた。

橘美春。信金中金のシステム部から出向。菅原より年上だが、話し方は年下のようだった。よく笑う。「信金は二百幾つありますからね、名前だけは全部覚えてるんですよ」と言った。それが冗談なのか本当なのか、菅原にはわからなかった。あとで本当だとわかる。

古畑遼。第二地銀から出向。菅原と最も近い立場である。歳は、菅原より一つか二つ下に見えた。名刺を交換したとき、古畑は菅原の顔を一度見て、「うちも、いきなり言われて来たんですよ」と小さい声で言った。

そのほかに、事務局が二人と、共同センター側が一人いた。

◇

二月九日、金曜。

十時から、四〇二で合同の説明会があった。

四〇二は、四〇一より広い。長机が口の字に組んであって、外側にも椅子が二列並べてある。前にスクリーンが下りていた。窓がないので、昼でも照明を落とせない。空調の吹き出し口が天井に四つある部屋で、人が入ると、すぐに暑くなる。

奥の壁が、四〇一との間仕切りである。菅原は、その日、自分の部屋の反対側に立っていることに気づくのに、少しかかった。

四〇三から、十四人来た。

菅原は、そのとき初めて、向かいの部屋の人数を知った。四〇三には、常時三十人ほどが入っている。その三十人は、実装の全体から見ると、いちばん上の部分だけである。

戸畑正輝。実装ベンダーのプロジェクトマネージャー。支店で言えば、支店長の歳である。日に焼けていない。声が低く、話す速度が一定している。「弊社は決済系の実績はございますが、この規模で複数の参加者を同じ仕組みの上に載せるのは初めてです」と、最初にそう言った。菅原は、そのとき、それが謝罪だと気づかなかった。

梶亮太。戸畑の下。若い。入って五、六年というところだろうと思った。早口で、名刺を出すのが速い。菅原の名刺を見て、「地銀さんですね」と言った。

そのほかに、システムの構成を見る技術者が二人と、四〇三の側の管理の人間が十人いた。十人は、名刺を出すと、すぐに壁際の椅子へ戻った。

その週に名刺を交換した十二人のうち、菅原の日焼けを見た者が、九人いた。

視線が止まるのは一瞬である。顔を見て、首の色を見て、それから手の甲を見る。二月に、この色をしている銀行員はいない。九人は、そのあと何も言わなかった。芝原だけが「ゴルフですか」と訊いた。

「いえ」

「あ、失礼」

芝原は、すぐ話題を変えた。うまかった。

菅原は、数えていない。

◇

説明は、一時間あった。

説明したのは、事務局の課長だった。パワーポイントが四十七枚あって、そのうち二十九枚が経緯の説明である。二年前の報告書、去年の中間とりまとめ、それを受けた検討会、そして今年度からの構築フェーズ。

菅原は、書き取った。

書き取ったものは、あとで読み返しても意味がわからなかった。用語の定義がないまま、用語だけが並んでいる。「レーン」「確定点」「証跡」「参加主体」。日本語であることは間違いない。

一枚だけ、意味の分かる頁があった。

三十九枚目である。体制の図だった。上に会議体があって、その下に四つの作業班。そこから線が下りて、実装の会社と、その下に、いくつもの四角が並んでいる。四角の中に、数字が入っていた。

いちばん右下の四角に、五千と書いてあった。

菅原は、それを見た。

見て、単位が分からなかった。

十一時二十分に、質問の時間があった。

古畑が、その四角のことを訊いた。

「この五千というのは、何の数字ですか」

課長が答えた。

「最盛期の、同時に動く人数の見込みです。この部屋と、実装の会社さんの別の拠点と、参加行さんごとの勘定系のベンダーさんと、共同センターさんを、全部足したものです」

「五千人が、同時にですか」

「はい」

「いま、何人ですか」

「六百ほどと聞いています」

部屋が、少し静かになった。

課長は、次の頁に進んだ。四十枚目に、期間と工数が書いてあった。全体で三十万人月。第一期——汐入銀行を含む八行が本番に入るところまで——で、十万人月。

菅原は、その数字も書き取った。

書き取ったが、大きすぎて、何とも思わなかった。彼は、支店の一年を、行員二十六人ぶんの手として数えることはできる。三百人月ほどである。十万を三百で割るとどうなるかは、その場では計算しなかった。

計算したのは、その夜、寮の部屋である。

三百三十年だった。

◇

梶が手を挙げた。

「レーンって、いくつまで増えるんですか」

課長は、少し困った顔をした。

「今の段階では、五つと聞いています」

「今の段階では」

「はい」

梶は、それ以上訊かなかった。

菅原には、そのやりとりの意味がわからなかった。あとで、それが最も重要な質問だったと知る。

◇

十二時半に散会になって、根岸が最初に部屋を出た。

菅原は、四〇一に戻って、名刺入れを開けた。

十二枚を、机の上に並べた。並べて、上から順に、名前と顔を合わせようとした。

三人しか、一致しなかった。

根岸と、梶と、橘である。根岸は腹で、梶は速さで、橘は笑い方で覚えていた。あとは、誰がどれだかわからない。皆川と芝原の区別がついていなかった。二人とも、背が同じくらいで、両方とも紺の上着を着ていた。

菅原は、名刺の裏に、鉛筆で書いた。

「眼鏡なし・丁寧」「笑う・眼鏡」

書いてから、失礼な気がして、消しゴムで消した。消したが、跡が残った。

その日の夕方に、事務局の女性が、四〇一の名札の下に、もう一枚、紙を差した。

構成員の名前が、十三人ぶん、印刷されていた。

菅原大海の名前は、下から三番目にあった。所属欄には「汐入銀行」とだけ書いてあり、部署は入っていなかった。入れるべき部署が、いまの彼にはなかったからである。

◇

その日の夜、寮に帰ってから、菅原は堀にメールを送った。

「今日、顔合わせがあった。人が多い」

堀からは、翌朝、返信が来た。

「がんばれ。東京の水は合うか」

菅原は、少し考えてから、返した。

「合うも合わんも、まだわからん」

堀からは、すぐに返ってきた。

「それでええ」

3 呼ばれた理由

築館孝之の名前を、菅原は入行八年目まで知らなかった。

システム部の次長である。五十四歳で、痩せていて、声が小さい。行内では「何を考えているかわからない人」と言われている。会議で発言しない。発言しないので、賛成しているのか反対しているのかわからない。

菅原が築館と口をきいたのは、二度だけである。

一度目は、四年前。支店の端末が二台とも動かなくなった朝に、本部から人が来た。そのうちの一人が築館だった。築館は、窓口の後ろに立って、四十分、何もしなかった。ただ、テラーが客に何と言っているかを聞いていた。

二度目は、去年の秋。事務の手続きの改定について、支店から意見を出せと言われて、菅原が書いた。二枚書いた。二枚目に、月末と給与振込日が重なる日の朝の話を書いた。返事は来なかった。

◇

二月の中ごろ、堀から電話が来た。

「おい、お前、築館さんの名前で回っとるぞ」

「なにが」

「本部でな。東京のあれ、築館さんが指名したって話になっとる」

「そうなんか」

「支店長に直で電話したんやろ。人事課通さんと。それ、うちの銀行やと結構な事やぞ」

菅原は、部屋の廊下に出て、その電話を受けていた。自動販売機の前である。

「なんて言うたか、知っとるか」

「いや」

「事務がわかっとって、東京で折れん奴はおらんか、や」

「支店長にも、そう聞いた」

「システムができる奴、とは訊いとらんのやと」

堀は、そこで笑った。

「まあ、お前、システムはできんもんな」

「できん」

「それでええんちゃうか。人が足りんだけかもしれんけど」

堀は、五分ほど支店の話をして、切った。年度末の案件がまだ四つ残っているという話と、子どもが熱を出したという話だった。

菅原は、電話を切ってから、自動販売機で緑茶を買った。

呼ばれた理由を、彼はそのとき、深く考えなかった。

事務がわかっている、というのは、褒め言葉として聞こえなかった。事務ができるのは、事務の人である。渉外の人間が言われて嬉しい言葉ではない。折れない、というのも、粘り強いという意味なのか、鈍いという意味なのか、判断がつかなかった。

彼は、緑茶を持って部屋へ戻った。

部屋では、戸畑と梶が、ホワイトボードの前で話していた。図が描いてあった。四角と、矢印と、その上に英字が書いてある。

菅原は、自分の席に座って、緑茶を飲んだ。

図を見ても、何もわからなかった。

◇

その週、菅原に割り当てられた仕事は、二つだった。

一つは、参加行の事務規定の一覧を作ること。第一次の参加行が八行あって、八行それぞれの振込・口座振替・組戻しの事務手続きを、比較できる形に並べる。事務局が過去に集めた資料があって、それを表にすればよかった。

表は、二週間で出来た。

出来たものを見て、事務局の課長が「これ、去年うちが集めたやつですよね」と言った。

「はい」

「同じものが、去年もあったんですけど、誰も使わなかったんですよ」

「なぜですか」

「並べただけだと、何を見ればいいか分からないので」

菅原は、その言い方を、覚えた。

覚えたが、そのときは、どうすればよかったのかが分からなかった。

もう一つは、議事録である。

会議は週に二回あった。火曜の午前と、金曜の午後。菅原は両方に出て、両方の議事録を書いた。

書けなかった。

三時間の会議のうち、意味の取れる部分が三割しかない。用語がわからない。用語がわからないので、誰が何に反対したのかもわからない。反対したのか、質問したのかも区別がつかない。

最初の議事録は、二日かかって、四枚になった。

事務局の課長が、それを読んで、赤を入れて返してきた。赤は、内容ではなく、書き方に入っていた。

「ここは、決まったことなので、『という意見が出た』ではなく『とすることとした』です」

「はい」

「それから、決まっていないところは、決まっていないと書いてください。曖昧に書くと、あとで、決まったことにされます」

「はい」

「この議事録は、事務局の名前で出ます。菅原さんの名前では出ません。そのぶん、書きぶりだけは、こちらで揃えさせてください」

菅原は、その一言を、ノートに書いた。

◇

同じ週に、廊下で戸畑と一緒になった。

戸畑は、四〇三から出てきたところだった。菅原が議事録の話をすると、戸畑は少し立ち止まって、それだけ言った。

「議事録は、あとで揉めたときにしか読まれません。だから、読まれるときは必ず揉めています」

「はい」

戸畑は、そこで、上着のポケットから小さい定規を出した。

出して、それでホワイトボードの枠の幅を測って、また戻した。

「測られるんですか」

「癖です」

戸畑は、そう言った。

「昔、線を引く仕事をしていたので」

「線、ですか」

「紙に、です。もう、その紙はないんですけど」

「弊社は、読む側です。書く側の作法に口を出す立場ではないので、これは、独り言だと思ってください」

戸畑は、そう言って、四〇二のほうへ歩いていった。

菅原は、その独り言も、ノートに書いた。

◇

二月の終わりに、菅原は、部屋の壁の会議体一覧に、自分の役割が書かれていないことに気がついた。

紙が貼ってある。作業班が四つあって、班ごとに担当者の名前が入っている。制度班、接続班、業務班、費用班。

菅原の名前は、業務班にあった。業務班は三人で、あとの二人は事務局と共同センターの人間である。

その紙の、業務班の欄だけ、担当する検討事項の欄が空白だった。

空白の理由は、誰も説明しなかった。

4 土曜

寮は、江戸川区にあった。

借り上げの単身寮で、駅から徒歩十一分。六階建ての五階で、部屋は一つ。八畳と、台所と、風呂。エアコンが備え付けで、それ以外は自分で持ってくる。

菅原が持ってきたのは、布団と、衣類と、炊飯器だった。

炊飯器は、一度も使わなかった。

◇

平日は、七時に出て、二十二時ごろに帰る。

朝は、駅前のチェーンのコーヒー店でパンを食べる。昼は、ビルの地下の食堂か、外の弁当屋。夜は、部屋の近くの牛丼屋か、コンビニ。

食べるものは、三週間で固定された。

夜の帰り道に、スーパーがある。二十三時まで開いている。そこで、飲み物と、朝の分のヨーグルトを買う。惣菜の棚は、その時間になると半額の札が貼ってある。最初のうちは買っていたが、そのうち買わなくなった。翌朝、食べないからである。

◇

土曜が、長かった。

九時に目が覚める。目が覚めても、行くところがない。

最初の土曜は、部屋を掃除した。掃除機をかけて、風呂を洗って、シーツを替えた。二時間で終わった。

十一時から、コインランドリーへ行った。寮に洗濯機は置けるが、彼は買わなかった。三年で出るとわかっているものを買う気が起きなかった。コインランドリーは、寮から歩いて六分の、クリーニング屋の隣にある。洗いが四百円、乾燥が百円で十分。

洗濯が終わるまで、四十分ある。

最初の土曜、彼はその四十分を、コインランドリーの椅子に座って過ごした。備え付けの週刊誌が三冊あって、二冊は先月のものだった。

三週目に、同じ時間に来る老人がいることに気づいた。

四週目には、その老人が、先に来て座っていた。

「兄さん、乾燥は二十分でええよ」

「二十分ですか」

「三十分やると、縮む。ワイシャツやろ」

「ワイシャツです」

「二十分で出して、掛けとき」

菅原は、そのとおりにした。

翌週から、乾燥を二十分にした。百円玉が二枚で済むようになった。

そのあと、何度か顔を合わせた。天気の話を、二言か三言した。名前は、訊かなかった。

二週目の土曜も、同じことをした。

三週目には、掃除が一時間半で終わるようになった。

四週目には、掃除するところがなくなった。

◇

三月に入って、彼は、平日の帰りが遅くなった。

遅くなる理由は、仕事の量ではなかった。量は、まだ多くない。遅くなるのは、帰ってもすることがないからである。

二十一時に部屋を出ると、寮に着くのが二十二時十分になる。二十二時十分に着いて、風呂に入って、寝るまでに一時間半ある。その一時間半に、することがない。

二十二時に部屋を出ると、着くのが二十三時十分になる。一時間半が、三十分になる。

そのことに気づいてから、彼は、二十二時まで部屋にいるようになった。

いて、何をしていたかというと、議事録を書いていた。書き終わっていても、読み返した。読み返しても直すところがないときは、参加行の事務規定を読んだ。

八行ぶんある。一行あたり、二百ページを超える。

三月のうちに、彼は八行ぶんを一度ずつ通読した。理解したわけではない。ただ、どの銀行の規定に何が書いてあるかの、置き場所だけを覚えた。

置き場所を覚えると、探すのが速くなる。

速くなったことに、彼はまだ気づいていない。気づいたのは、二年目の秋に、戸畑から「あれ、どの銀行でしたか」と訊かれて、その場で答えたときである。

◇

土曜の午後は、駅前へ出た。

駅前には、チェーンの飲食店が十軒ほどと、ドラッグストアと、百円の店と、書店が一つある。菅原は、書店に入った。

雑誌の棚を見て、文庫の棚を見て、実用書の棚を見た。

システムの本の棚があった。

背表紙を、端から端まで見た。書いてあることの意味が、一つもわからなかった。何を知らないのかがわからないので、どれを買えばいいかもわからない。

一冊、手に取った。決済という語が題に入っていた。開いて、目次を見て、戻した。

書店を出て、ドラッグストアで洗剤を買った。

十六時には、部屋に戻っていた。

◇

三月の第二土曜、菅原は、島に電話をかけた。

母が出た。

「もしもし」

「うん」

「変わりない?」

「変わりない」

「そっちは」

「変わりない」

会話は、それで一度止まる。母は、用がなければ話を作らない。

「東京は、どうな」

「まだよう分からん」

「ふうん」

「三年おるらしい」

「長いな」

「長い」

母は、そこで少し黙って、言った。

「まあ、あんたが決めたことやろ」

決めた覚えはなかった。菅原は、決めた覚えがない、とは言わなかった。

電話は、四分で終わった。

◇

日曜は、寝ていた。

寝て、起きて、テレビをつけて、消して、また寝た。

夕方に、洗濯物を畳んだ。ワイシャツを五枚、畳んだ。

ワイシャツは、首回りではなく肩で選んである。首は三十九で足りるが、肩が入らない。既製品の三十九は、肩幅が合わない。だから四十一を買って、首をボタンで留めると、余った布が首の下に寄る。ネクタイを締めると、そこが少し盛り上がる。

三年間、彼はそれを直そうとしなかった。

直せるものだと思っていなかったからである。

5 悲鳴

機能が増えたことを、菅原は、廊下で知った。

三月の第一週の火曜である。会議が長引いて、十九時を回っていた。菅原は自動販売機で水を買って、戻る途中だった。廊下の突き当たりに、戸畑がいた。携帯を耳に当てて、壁のほうを向いている。

「——いえ、作れないとは申し上げていません」

戸畑の声は、いつもと同じ速さだった。

「単体では作れます。ただ、同じ仕組みの上に、同時に載せた経験がないんです。……はい。……いえ、そこは弊社の問題です」

菅原は、通り過ぎた。

通り過ぎながら、後半だけ聞いた。

「——五つでも、正直、楽ではありません。七つになると、確定の考え方が全部違いますので」

その先は、扉が閉まって聞こえなくなった。

閉まったのは、四〇三の扉である。

◇

その夜、菅原は二十二時四十分に四〇一を出た。

廊下に出ると、四〇三の扉のガラスが、明るかった。

扉の上半分が、磨りガラスになっている。中の様子は見えない。人の形が、影として動くだけである。菅原は、そこに立って、影を数えた。

十一まで数えて、やめた。同じ影を二度数えているかもしれない、と思ったからである。

エレベーターで一階へ下りた。

ロビーは、消灯していた。受付の後ろの時計だけが、非常灯の明かりで見える。夜間の通用口は、正面の自動扉ではなく、建物の脇にある。守衛室の窓口に名簿が置いてあって、出るときに時刻を書く。

菅原は、二十二時四十二分と書いた。

その上の行に、四〇三の会社の名前が、七行続いていた。いちばん上の行の時刻は、前の日の二十六時三十分になっていた。

二十四時を過ぎても、その名簿は日付を変えない。二十六時三十分、と書く。菅原は、そういう書き方を、初めて見た。

◇

翌週の金曜、四〇二のホワイトボードに、表が描かれた。

描いたのは梶である。マーカーの黒と赤を両方使って、縦に七行、横に四列の表を作った。

左の列に、レーンの名前が並んでいた。

即時決済。店舗の即時課金である。標準決済。説明ができることを最優先にした送金。高額決済。日銀が入る高額のもの。一括決済。締切を持つ大量処理。支払依頼。受取人の側から起票するもの。そこに条件決済——条件が成立したときにだけ成り立ち、期限が来れば必ず取り消しへ収束する支払——と、協調決済という、複数の当事者をまとめて扱うための仕組みが、二行、下に足されていた。

名前は、去年の検討会で決まったものだと、あとで菅原は聞いた。

原案は、どれも英語だった。事務局が、日本語に直すと言った。理由は、窓口で読めない語を仕様に置くと、二十年後に誰も直せなくなるからである。直した語のうち、二つは新しく作った語だった。作ったのは事務局の課長で、辞書には載っていない。

「そのうち載りますよ」と、課長は言ったという。

右の三列には、それぞれ、同期で返す境界と、不可逆になる境界と、例外の行き先が入る。

菅原は、その表を見た。

英字が読めないのではない。読めるが、意味がわからない。

「これ、増えたんですか」

隣に座っていた古畑が、小声で答えた。

「増えましたね。先月、五つでしたよ」

「二つ、増えた」

「条件決済のほうは、去年の議連の勉強会で出た話らしいです。協調決済は、どこから来たのか、僕はまだ聞いてないです」

古畑は、自分のノートパソコンの画面を見ながら、そう言った。

◇

その日の会議は、三時間半かかった。

最初の一時間半が、即時決済の話だった。

即時決済は、数字が取れる。店舗で使われる回数が、そのまま件数として上がる。件数は、資料に載る。資料は、上に行く。だから、即時決済の話をしているあいだ、会議は活発だった。

芝原が、実際の店舗の運用を説明した。皆川が、その運用が日銀側の枠組みとどう繋がるかを確認した。梶が、実装上の懸念を三つ挙げた。根岸が、そのうちの二つについて「持ち帰ります」と言った。

一時間半で、即時決済の検討は前に進んだ。

残りの二時間で、六つのレーンを見た。

高額決済に三十分。一括決済に二十分。支払依頼に十五分。条件決済に二十五分。協調決済に二十分。標準決済に、十分。

標準決済の十分は、ほとんど、確認だった。

会議は、四〇二で行われた。四〇一から六人、四〇三から九人。菅原は、その日、口の字の外側の椅子に座っていた。内側に座るのは、発言する人間である。

「標準決済は、既存の振込に相当するものですから、大きな論点はないという理解でよろしいですか」

事務局がそう言って、誰も何も言わなかったので、次に進んだ。

◇

会議のあと、廊下で、橘と古畑が話しているのを聞いた。

「うち、四社に分かれてるんですよ」

橘が言っていた。

「四社」

「金庫の勘定系のベンダーです。四社あって、それぞれ別のことを言ってきます。同じ質問を四回して、四通りの答えが返ってくる」

古畑が言った。

「うちは一社ですけど、その一社が、この案件だけで五十人出すって言ってます。出せないと思いますよ」

「どうしてですか」

「同じ会社が、よその銀行のも受けてるんです。全部の参加行が同時に改修すると、人が足りない。うちの担当者が、去年から、それを言ってます」

菅原は、そのやりとりを、書き取らなかった。

書き取る欄が、彼の議事録にはなかったからである。

◇

会議のあと、戸畑が、菅原の前に立った。

「菅原さん」

「はい」

「参加行の事務規定の一覧、ありがとうございました。あれ、助かります」

「いえ」

「あの表の、組戻しの列だけ、八行とも書きぶりが違いますよね」

「違います」

「違うことに、意味はありますか」

菅原は、少し考えた。

「意味は、あると思います。ただ、それが何なのかは、私も並べただけなので」

戸畑は、うなずいて、自分の席へ戻った。

菅原は、その夜、その八行の列をもう一度読んだ。

読んで、二時間かけて、四つの型に分けた。分けたものを、翌週、誰にも見せなかった。訊かれなかったからである。

◇

橘が、給湯コーナーで、菅原に言った。

「菅原さん、いま、いくつまで増えました?」

「七つ、ですか」

「うちでも、七つ全部は無理じゃないかって言われてます」

「無理というのは」

「金庫が二百幾つあって、勘定系のベンダーが四社に分かれてるんですよ。上から順に対応してくださいって言えるものじゃないんです」

「四社は、話し合わないんですか」

「話し合いますよ。話し合って、四通りのままです」

橘は、そう言って、笑った。

笑っているのに、内容は笑っていなかった。

菅原は、その顔を、覚えた。

◇

翌週、梶が、給湯コーナーで言っていた。

「研究所から、人が入るらしいですよ」

「研究所」

「戸畑さんが言ってました。名前は聞いてないです。うちの工数表には乗ってないので、たぶん、うちの契約じゃないんでしょうね」

「研究所の人が、これを、どうにかできるんですか」

「さあ。決済をやってた人ではないらしいです」

菅原は、湯呑みを持ったまま、その言い方を、二度聞いた。

「決済ではない」

「ええ。事務局が、あちこちに当たったんだそうです。七つ全部の勘定が分かっていて、手の空いている人。そんな人は、いなかった」

「いない」

「いないので、近いところの、いちばんできる人を呼ぶ、と。そういう話だったと聞いてます」

梶は、自分のカップに湯を注いだ。

「近いところというのは、どこですか」

「そこは、聞いてないです」

「いつからですか」

「そこも、聞いてないです」

梶は、カップを持って、四〇二のほうへ戻っていった。

菅原は、給湯コーナーに残って、ケトルの電源が切れる音を聞いた。

決済をやっていない人を呼ぶ、というのが、どういうことなのかは分からなかった。分からないまま、七つの表のことを少し考えて、やめた。

彼は、それを、その日のうちに忘れた。

6 間仕切り

三月の下旬、部屋の空気が変わった。

理由は、菅原にはわからなかった。ただ、梶が、席で舌打ちをするようになった。戸畑の帰りが、二十三時を回るようになった。共同センターの技術者が二人、来なくなった。

来なくなった二人については、あとで事務局が一行だけ説明した。「先方の体制の都合で、当面はメールでの参加になります」。それだけである。菅原は、その二人の名刺を、名刺入れの後ろのほうへ移した。

四〇三の扉は、三月の下旬から、開けたままになった。

理由は、人の出入りが多すぎて、いちいち閉めていられなくなったからである。開けたままになると、中が見える。

菅原は、通るたびに、一度だけ見た。

長机の列が、六列から八列に増えていた。増えたぶんは、窓側の通路を潰して置いてある。壁際に、段ボールが積んであった。中身は、資料ではない。畳んだ毛布と、洗面の道具である。

奥の壁の紙が、増えていた。二月には四段だったものが、床に届くまで貼ってある。いちばん下の段は、しゃがまないと読めない。しゃがんで読んでいる人間が、いつも一人か二人いた。

赤い線が、増えていた。

◇

三月の第四週の火曜、会議が七時間になった。

議題は、条件決済と協調決済の期限の扱いである。始まったのが十三時で、終わったのが二十時だった。途中で二度、休憩が入った。

四〇二には窓がない。空調が、人数に負けていた。

三回目の休憩のときに、菅原は廊下へ出た。廊下は涼しかった。壁にもたれて、水を飲んでいると、根岸が出てきた。根岸は、菅原を見て、何も言わずに、エレベーターホールのほうへ歩いていった。

戻ってきたのは、七分後である。

会議が再開して、二十分ほどして、根岸が言った。

「支払依頼のほうも、期限の扱いを揃えていただけますか」

戸畑が、顔を上げた。

「揃えるというのは、条件決済と同じ形に、ということでしょうか」

「そうです」

「承知しました。工数は、あらためてお出しします」

その日の帰りに、梶が、四〇二の椅子を戻しながら言った。

「あの人、廊下で何を言われてるんですかね」

誰も、答えなかった。

◇

三月の最終週の月曜に、間仕切りが開いた。

朝、菅原が九時十分に四〇一へ入ると、事務局の女性と、業者らしい男が二人、左手の壁の前に立っていた。

「開けます」

事務局の女性が、そう言った。

男の一人が、鍵穴に鍵を差して回した。取っ手を引くと、面が一枚ずつ折れて、レールに沿って動いた。動くときに、低い音がした。金属が金属をこする音である。二十秒ほどかかって、面が全部、端に寄った。

四〇一と四〇二が、一つの部屋になった。

畳まれた間仕切りは、端の柱のところに、厚みのある束として残っている。閉めるときは、また引き出す。

その日の午前中に、四〇三から、机が運ばれてきた。

戸畑と、梶と、あと六人。四〇三から、いちばん設計に近いところにいる人間だけが移ってくる、という説明だった。四〇三そのものは残る。残って、実装の本隊は、そこにいる。

事務局の女性が、菅原に言った。

「席は、また決め直していただくことになります」

「はい」

「四〇二の側は、机が固定されていないので、動かしていただいてかまいません。ただ、口の字は残してください。会議のときに使いますので」

その日から、部屋の中に、二種類の音が混ざるようになった。

電話の声と、打鍵の音である。四〇一の側は、電話の声が多い。参加行にかける声、金庫にかける声、本部にかける声。四〇二の側は、打鍵の音が多い。話し声が少ない。

菅原の席は、四〇一の側の、いちばん廊下に近いところのままだった。

動かさなかった。動かす理由がなかったし、そこが、いちばん人の出入りが目に入る席だったからである。

◇

その週の水曜、梶が、四〇二の側から四〇一の側へ来て、給湯コーナーの前で言った。

「これ、誰のケトルですか」

「橘さんのです」

「使っていいですか」

「たぶん、いいと思います」

梶は、湯を沸かして、自分のカップを持ってきていないことに気づいて、鳥の絵のマグカップを使った。

洗って、元の場所へ戻した。

◇

三月の最後の金曜、菅原は、一階の受付でその人を見た。

事務局の課長と、二人で立っていた。課長が何か言って、その人が短く答えた。会話は一分ほどで終わり、課長は先にエレベーターへ入った。

その人は、入らなかった。黒いバッグを提げて、外へ出ていった。

菅原は、名前を知らないままだった。

◇

三月の最終営業日に、事務局が、参加行のベンダーの一覧を配った。

第一次の八行が使っている勘定系のベンダーは、六社だった。六社のうち、二社が四行ずつではなく、一社が三行、一社が二行、残りの四社が一行ずつ持っている。

配られた紙には、六社の名前は入っていない。「甲社」から「己社」まで、符号で書いてあった。

「名前を出さないんですか」

古畑が訊いた。

「出すと、比較されますので」

事務局は、そう答えた。

菅原は、その紙を見た。

汐入銀行の勘定系のベンダーは、乙社である。乙社は、三行を持っている。三行が同時に改修すると、乙社の側で人が足りるのかどうかは、この紙からは分からない。

分からないが、足りないだろうと思った。

思った根拠は、支店にある。支店の端末が更新されるとき、いつも予定より二か月遅れる。遅れる理由を訊くと、「他行さんの案件と重なって」と言われる。

十年間、同じ答えを聞いてきた。

彼は、その紙を、ノートに挟んだ。

◇

四月に入る前の、最後の金曜の夜。

菅原は、二十一時に部屋を出た。

廊下に出ると、四〇三の扉が開いたままになっていて、中の照明が全部ついていた。人は、数えると十九人いた。

数えられたのは、扉が開いていたからである。

一人が、机に突っ伏していた。寝ているのか、画面の下のほうを見ているのか、分からない。隣の人間が、その背中を軽く叩いて、何か言った。突っ伏していた人間が、体を起こして、画面に戻った。

菅原は、そこを通り過ぎた。

過ぎながら、この部屋は、自分の部屋とは違う速度で減っていく、と思った。

思っただけである。

そのとき彼は、まだ、その部屋の人間の名前を二人しか知らなかった。

7 三週間

四月の第一週の月曜に、部屋に一人増えた。

事務局からの事前の連絡はなかった。工数の表にも、その名前は載っていなかった。

九時二十分に、扉が開いた。

入ってきたのは、女性だった。

紺のジャケットを着ていた。黒いバッグを一つ、右手に提げている。髪は肩より下で、後ろで一つにまとめてあった。

菅原は、いちばん出入口に近い席にいたので、最初に顔を上げた。

二月の朝、廊下の反対側で名札を見ていた人だった。

黒いバッグが同じで、それで分かった。

厚い眼鏡をかけていた。

度が強く、レンズの外側が厚い。縁のところで目が小さく見え、頬の線が少し歪んで見える。かけているものの存在が、顔より先に目に入る、そういう眼鏡だった。

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

菅原が立ち上がると、彼女は名刺を出した。

出し方が、少し速かった。菅原が両手を出すより先に、名刺が出ていた。

三雲佳奈依。研究所の主任研究員。所属は、企業の名前ではなく、研究所の名前だけが入っていた。

菅原も、名刺を出した。

彼女は、名刺を片手で受けて、一秒見て、バッグの外側のポケットに入れた。

そのあいだ、菅原の顔を、一度も見ていなかった。

正確には、顔は見た。名刺を渡すときに見た。ただ、首と、手の甲を見なかった。

菅原は、そのことに、そのときは気づいていない。

◇

三雲は、窓側の島の、真ん中あたりに座った。

午後の光が入る席の、隣である。

パソコンを開いた。開いて、しばらく何もしなかった。

十時からの打ち合わせに、彼女は来た。

来て、いちばん後ろに座った。名前を訊かれて答えた。それだけだった。

戸畑が、状態の遷移の話をしていた。梶が、実装の順序の話をしていた。皆川が、日銀側の確定の考え方を説明していた。

三雲は、聞いていた。

何も書かなかった。

◇

一週目が終わった。

三雲は、毎日、九時二十分ごろに来て、二十時ごろに帰った。バッグは、机の横の床に置いてあって、帰るときに持って帰った。

ロッカーは、九番が空いていた。事務局が、彼女に鍵を渡したのを、菅原は見ている。

彼女は、それを使わなかった。

上着も掛けない。バッグも入れない。毎日、同じ黒いバッグを持って来て、同じバッグを持って帰る。

菅原は、そのことを、一週目には気にしなかった。

◇

二週目。

三雲は、人の話を聞きに行くようになった。

戸畑のところへ行って、四十分。梶のところへ行って、一時間。橘のところへ行って、二時間半。共同センターの人間のところへ、三度。

四〇三にも、行った。

四〇三に、四〇二の側の人間が用もなく入ることは、あまりない。入るときは、内線をかけてから入る。三雲は、内線をかけなかった。扉が開いていたので、そのまま入った。

菅原は、そのとき廊下にいて、見ていた。

中で、誰かが立ち上がった。三雲が何か言って、その人が奥を指した。奥から、別の人が出てきた。二人が話し始めて、そのうち、周りの三人が椅子を回してそちらを向いた。

三雲は、一時間十分、そこにいた。

出てきたときに、菅原と廊下で行き合った。

「四〇三は、何人いらっしゃるんですか」

三雲が、そう訊いた。

「三十人ほどと聞いています」

「三十人が、同じものを作っているんですか」

「そう思います」

「そうですか」

三雲は、それだけ言って、四〇一へ戻った。

翌日、彼女はまた四〇三へ行った。今度は二時間いた。

梶が、そのことを、あとで戸畑に言っている。

「あの人、うちの部屋に来て、いちばん下の若いのに訊いてました」

「何を」

「この画面、誰が使うんですか、って」

「なんて答えたんだ」

「知りません、って答えてました」

戸畑は、何も言わなかった。

何も書かない。

菅原のところにも来た。木曜の午後だった。

「菅原さん」

「はい」

「参加行の事務規定の一覧を作られたのは、菅原さんですか」

「私です」

「組戻しのところ、四つに分けてありますよね」

菅原は、手を止めた。

「あれは、出してないです」

「事務局のフォルダに入っていました。三月二十六日の更新のものです」

「……ああ」

作業の途中で保存したものが、共有の場所にあった。菅原はそれを、誰にも見せていない。誰にも見せていないつもりでいた。

「あの四つの分け方は、何を基準にされましたか」

「基準というほどのものでは」

「基準です」

三雲は、そう言った。押しつけるふうではなく、事実を訂正するときの言い方だった。

菅原は、少し考えて、答えた。

「受取人の承諾を、いつ取るか、で分けました」

「いつ、というのは」

「組戻しは、いったん相手の口座に入ったお金を戻す手続きです。相手が承諾しないと戻りません。だから、承諾を取る前に受付だけするか、承諾を取ってから受付するか、各行によって違います。あと、承諾を取る係が、支店なのか、事務センターなのか」

「四つ目は」

「四つ目は、依頼人にいくら請求するか、です。手数料の取り方が違うと、窓口で言うことが変わりますから」

三雲は、うなずいた。

「ありがとうございます」

それだけ言って、自分の席に戻った。

メモは、取っていなかった。

◇

三週目に入って、梶が苛立った。

金曜の会議のあとである。梶は、戸畑に聞こえる声で、しかし戸畑に向かってではなく言った。

「あの人、いつ書き始めるんですか」

戸畑は、答えなかった。

梶は、続けた。

「もう三週間ですよ。三週間、こっちが話してるのを聞いてるだけです。何を作る人なんですか。研究所って、何を持ってきてくれるんですか」

古畑が、目を伏せた。皆川は、資料を揃えていた。

菅原は、そのとき、三雲を見た。

三雲は、席にいた。梶の声は、部屋の端まで届いている。聞こえていないはずがなかった。

彼女は、画面を見ていた。

表情が変わらなかった。怒っていないのか、聞いていないのか、菅原には判別がつかなかった。

そのあと、彼女は席を立って、共同センターの人間のところへ行った。

一時間半、聞いていた。

◇

その日の帰り、菅原はエレベーターで三雲と一緒になった。

菅原は、いちばん後ろに立った。癖である。

エレベーターの中には、ほかに二人いた。四階から一階まで、十五秒ほどである。

三雲が、前を向いたまま、言った。

「菅原さんは、いつまでここにいらっしゃいますか」

「三年、と聞いています」

「三年」

「はい」

扉が開いた。三雲は先に降りた。

菅原は、そのとき初めて、並んだときの背丈があまり違わないことに気づいた。

その日は、それだけだった。

8 稼働時間帯

四月の下旬の火曜、会議の議題に「各行勘定系の稼働時間帯」が入った。

資料を作ったのは、共同センター側だった。第一次参加行の八行と、二次以降に入る予定の銀行について、オンラインの稼働時間帯を並べた表である。

三雲が、その表を読み上げた。

読み上げる、というより、確認していた。

「A行、平日は二十三時五十分から翌〇時三十分まで停止。土曜は二十三時から翌五時。B行、毎日〇時から四時三十分まで停止。第二土曜のみ、二十一時から翌八時。C行——」

八行で、五分かかった。

読み終えて、彼女は言った。

「停止している時間帯は、参加行ごとに違います。それから、月に一度だけ長い日を持っている参加行が、八行のうち五行あります」

戸畑がうなずいた。

「そこは把握しています。停止中に来た取引は、キューに積んで、明けてから流します」

「積んだものは、いつ返しますか」

「明けてからです」

「明けるまでのあいだ、受け付けた側は、何を持っていますか」

梶が答えた。

「受け付けた、という応答は返せます。確定していない、という状態で持ちます」

「その状態を、誰が見ますか」

「……システム上は、参加行が照会できます」

「参加行の、誰がですか」

梶は、そこで止まった。

「それは、行内の話ですよね」

「そうです」

三雲は、それ以上言わなかった。

議論は、キューの長さと、明けた直後の処理の集中の話に移った。件数の見積もりの話になり、時間あたりの上限の話になった。

菅原は、資料の表を見ていた。

八行の停止時間帯が、縦に並んでいる。数字が、四桁で並んでいる。0時00分。4時30分。23時50分。

彼は、その数字を、別のものとして見ていた。

四十分ほど、黙っていた。

それから、手を挙げずに、言った。

「その時間に来た人は、朝に来てくださいと言われます」

部屋が、少し止まった。

事務局の課長が、菅原のほうを見た。

「と、いいますと」

「いま、キューに積むという話をされているのは、機械の話ですよね。ですが、その時間に、窓口には人が来ています」

「その時間には、窓口は開いていませんが」

「はい。開いていません。開いていないので、ATMの前とか、電話とか、あとは翌朝いちばんに来ます。二十四時に振込ができなかった人は、翌朝、九時に窓口に来ます」

菅原は、そこで一度、言葉を探した。

「そのとき、うちが言うのは、『昨夜はシステムの時間帯でした』です。それだけです。それで、たいてい納得してもらえます。相手が納得するのは、うちが説明できているからではなくて、その言い方が、昔からあるからです」

「はい」

「今度作るものが、その時間帯を、参加行ごとにばらばらに持つのであれば、窓口で言うことが、銀行によって違うことになります。うちが二十四時に止まっていて、相手の銀行が動いている場合に、お客さんが見るのは、うちの画面だけです」

菅原は、そこで止めた。

自分が何を言いたかったのか、途中でわからなくなったからである。

しばらく、誰も何も言わなかった。

事務局の課長が、言った。

「そのあたりの、お客様への説明ぶりは、追って整理いたしましょう。まずは技術的な整理を」

議論は、元に戻った。

キューの長さの話に戻り、それから、明けた直後の処理の話に戻った。

戻ったあとの一時間で、決まったことが二つある。

一つは、停止時間帯を、銀行ごとに申告してもらうこと。もう一つは、申告した時間帯を、月に一度、突き合わせること。

二つ目を言ったのは、梶だった。

「申告した表が古くなるからです。うちが去年もらった表と、いま動いてる時間が、たぶん、もう違います」

「なぜ、そう思われますか」

事務局の課長が訊いた。

「勘定系の停止時間って、銀行の中の都合で動くんですよ。バッチが増えれば伸びる。減れば縮む。動いたことを、外に言う理由がない」

「言う理由がない」

「ないです。銀行の中では、誰も困らないので」

橘が、そこで手を挙げた。

「うち、会員の金庫が二百四十あります。停止の時間帯、金庫ごとに違います」

「違うんですか」

梶が訊いた。

「違います。本部で束ねている先は、同じ時間帯です。ただ、束ねていない先が三十ほどあって、そこは各自です」

「三十、ですか」

「三十です。表にすると、三十行、増えます」

「増やしますか」

「増やさないと、突き合わせる意味がないです」

橘は、そう言った。

「二百四十のうち、動くのは三十だけです。ただ、どの三十かは、毎年変わります」

「変わる」

「合併があるので。合併すると、片方の時間帯に寄せます。寄せた側の時間帯が、翌年また動きます」

課長は、それを書き取った。

菅原は、その話を、自分の支店に当てはめた。

去年の秋に、月末の締めの時間が三十分後ろへ動いている。動いたことを、彼は知っている。窓口の締めが三十分遅くなって、帰りが三十分遅くなったからである。

それを、どこかへ報告した記憶はない。

報告する先が、あるとも思っていなかった。

誰も、菅原を褒めなかった。

菅原自身も、褒められるようなことを言った気がしなかった。会議は数字の話をしていて、自分だけが人の話をした。場違いなことを言ったのかもしれない、と思った。

◇

ただ、一人だけ、顔を上げていた。

三雲は、菅原が話しはじめてから、話し終えるまで、菅原のほうを見ていた。

見ていたが、何も言わなかった。

その日の会議で、彼女は一度も発言しなかった。

9 標準決済

五月の連休が明けて、二週目の金曜。

議題は、標準決済の例外処理だった。

標準決済は、説明ができることを最優先に置いたレーンである。誰が、いつ、何を決めたのかを、あとから同じ番号で説明できる。そのぶん、即時性は捨てている。

例外の代表は、誤送金だった。

事務局が、論点を出した。

「誤って送金された場合の取り扱いです。現行の実務では、組戻しの手続きがございます。この基盤では、組戻しに相当する機能をどう持つか、という論点になります」

芝原が、口を開いた。

「これは、既存の手続きに合わせるのが素直だと思います。組戻しの依頼を受け付けて、それを電文として流して、受け側で処理する。それだけであれば、機能としては重くありません」

梶が続けた。

「実装としては、逆向きの取引を一本立てるだけです。元の取引に紐づけて、関連付けの情報を持たせれば、追跡もできます」

皆川が、確認を入れた。

「その場合、逆向きの取引は、いつ確定したものとして扱いますか」

「受け側で入金が確認された時点です」

「では、確定の考え方としては、通常の送金と同じですね」

「同じです」

事務局が、書き取った。

「では、組戻しの手続きとして、機能を持つ、ということで——」

菅原が、言った。

「組戻しは、受取人が承諾しないと戻りません」

全員が、菅原を見た。

菅原は、続けた。

「いまの話は、依頼を出せば戻る、という前提になっていると思います。戻りません。相手の口座に入ったお金は、相手のものです。銀行が勝手に引き落とせません。だから、受取人に連絡して、承諾をもらいます」

「その連絡は」

「支店がやります」

菅原は、そこで、机の上を一度見た。

「電話をかけるのは、窓口の人間です。たいてい、相手は出ません」

誰も、何も言わなかった。

「出ないので、何度もかけます。それでも出ないときは、文書を出します。文書を出しても返ってこないときは、そのままになります。そのあいだ、依頼人からは、毎日電話がかかってきます。まだですか、と訊かれます。うちが言えるのは、『先方に連絡しております』だけです。何度言っても、同じことしか言えません」

芝原が、口を開きかけて、閉じた。

「相手が承諾しない場合は、戻りません。使ってしまっている場合も、戻りません。そのときは、依頼人に、訴訟の話をします。それは、銀行ではなく、依頼人と受取人のあいだの話になるからです」

菅原は、そこで、少しだけ声を落とした。

「窓口で、それを言います」

沈黙が、十秒ほどあった。

戸畑が、最初に口を開いた。

「つまり、逆向きの取引を一本立てても、それは合意ができたあとの話であって、合意そのものは、この仕組みの外にある、ということですね」

「はい。だと思います」

「合意ができるまでのあいだ、取引は、どこにいることになりますか」

菅原は、答えられなかった。

答えたのは、三雲だった。

「どこにもいません」

三雲は、席から立たずに、そう言った。

「戻す取引はまだ起票できません。元の取引は、もう完了しています。完了した取引に、『いま揉めています』という状態を後から足すことはできません。足すと、完了したという事実が、あとから動くことになります」

「では、どうしますか」

「例外として、別の場所に置きます」

三雲は、ホワイトボードのほうを見た。

「取引の状態機械の中に押し込まず、外に置いた台帳へ収束させます。誰が、いつ、何を理由にそこへ入れたか。いま誰が持っているか。何をもって閉じるか。それが記録されていれば、窓口で言うことも、そこから作れます」

事務局が、書き取った。

「それは、この基盤が持つものですか。それとも、各行が持つものですか」

「収束先は基盤が持ちます。中の判断は各行です。基盤が判断すると、承諾を代行することになりますから」

三雲は、そこで初めて、菅原のほうを見た。

「菅原さん。いまの、承諾を取る係は、各行によって違うんでしたね」

「違います。支店でやる銀行もあれば、事務センターでやる銀行もあります」

「その差は、この設計では吸収しません。誰がやるかは各行が決めることで、外から決めると、決められない参加行が出ますから」

議論は、そこから一時間続いた。

菅原は、そのうち二十分、質問を受け続けた。

受取人が電話に出ないのは何日ぐらいか。文書はどういう形式か。依頼人が来店するのは何日目か。手数料はいつ取るか。取ったあとで戻らなかった場合はどうするか。

答えられることには、答えた。答えられないことには、支店に確認しますと言った。

会議が終わったとき、十九時半だった。

◇

菅原は、その日、部屋に残った。

支店に電話をかけて、確認事項を七つ潰した。

七つのうち、四つは沢井に訊いた。残りの三つは、事務の係長である。

沢井は、電話に出ると、まず「どうしたの」と言う。用件を言うと、「ちょっと待って」と言って、受話器を置く。置いて、カウンターの後ろの棚から、綴りを持ってくる。持ってきてから答える。

菅原は、その待ち時間を知っている。四十秒である。

四十秒のあいだ、受話器の向こうから、支店の音がした。番号を呼ぶ機械の声と、印字の音と、誰かが笑う声。

「はい、あったわ」

「組戻しの、依頼書の控えって、何年置いてますか」

「十年よ」

「十年ですか」

「十年。うちは十年。前の支店は七年って言われたことがあるけど、あれは間違いだと思う」

「間違い、というのは」

「規定は十年って書いてあるの。七年で捨ててた人がいただけ」

菅原は、それを書いた。

書きながら、この話は、東京の部屋では出ないな、と思った。規定に十年と書いてあれば、十年である。七年で捨てていた人がいる、という話は、規定の側からは見えない。

潰したものを、書いた。書いたものが、四枚になった。

二十一時に、顔を上げた。

部屋には、三雲がいた。窓側の島で、画面を見ていた。梶もいた。給湯コーナーで、電気ケトルの湯が沸く音がしていた。

菅原は、四枚の紙を見た。

その日まで、自分がこの部屋で何をしているのか、わからなかった。事務規定の一覧を作り、議事録を書き、意味の取れない会議に座っていた。座っている人、だと思っていた。

その日、彼が言ったことは、彼にしか言えないことだった。

そのことに、彼はその夜、初めて気がついた。

気がついたが、嬉しくはなかった。

自分にしか言えないことがある、というのは、裏を返せば、それ以外のことは何も言えない、ということだからである。

10 大変ですね

六月の初め、昼を芝原と食べた。

ビルの地下の食堂である。十一時半に行くと空いている。菅原が定食を取って座ったところに、芝原が来た。

芝原は、話がうまい。

話がうまいというのは、相手に話をさせるのがうまい、という意味である。菅原は、その日、自分でも思っていたより喋った。

支店の話をした。渉外の一日の回り方の話をした。年金の受給日の朝の話をした。芝原は、うなずいて、要所で短く訊いた。訊き方がよかったので、菅原は答えやすかった。

「年金の日って、そんなに来られるんですか」

「来られます。偶数月の十五日です」

「朝から?」

「開店前から、外に並ばれます。冬でも並ばれます」

「中で待てないんですか」

「待てるようにはしてあります。ただ、順番が先のほうがいいので、外に立たれます」

「そういうものですか」

「そういうものです」

芝原は、うなずいた。

「僕、支店に出たことがないんですよ」

「そうなんですか」

「新人のとき、半年だけ研修で行きました。あとは、ずっと本部です」

「本部だと、何をされるんですか」

「企画です。企画って、要するに、紙を書く仕事です」

芝原は、そう言って、少し笑った。

「その紙が、支店で何になるかは、正直、あまり見ていないです」

「見ないものですか」

「見ないですね。見に行く用がないので」

芝原は、定食のごはんを半分残した。

「僕、昼は少なめにしてるんです」

「そうなんですか」

「午後、眠くなるので」

「私は、食べます」

「支店のときからですか」

「支店のときは、十分で食べてました」

「十分」

「十分です。戻らないといけないので」

芝原は、箸を置いて、少し笑った。

菅原は、それには何も言わなかった。

言うことが、なかったからである。

そのうち、島の話になった。

「ご出身は、こちらではないんですよね」

「島です。県の沖の」

「島。フェリーですか」

「二時間ちょっとです」

「毎日、出てるんですか」

「一日に三便です。冬は二便になります」

「減るんですか」

「減ります。夕方の便が、十一月に落ちます」

「へえ。いいところなんでしょうね」

菅原は、少し考えて、言った。

「冬は、船が出ないんです」

「出ない」

「西風が入ると、二日、三日出ません。長いと一週間ぐらい」

「一週間」

「なので、島の人間は、冬になると、出ない日を先に数えます。年末年始に何日ぐらい出ないか、先に見当をつけて、そのぶん、米と灯油を積んでおきます」

芝原は、箸を止めた。

「大変ですね」

「はい」

「僕なんか、実家が横浜なんで、そういうの、想像もつかないです」

芝原は、そこで少し笑って、言った。

「そういえば、来月の合同レビュー、どうなりました? 事務局から日程の照会が来てましたよね」

菅原は、日程の話に答えた。

芝原に悪気はない。話題を変えたのは、気を遣ったからだろうと菅原は思った。島の話を長引かせると、答えにくいことを訊くことになる、と判断したのかもしれない。実際、それは正しい判断だったかもしれない。

菅原も、そのとき、何も思わなかった。

大変ですね、というのは、そういう場面で言う言葉である。彼自身、客に対して、何百回もそう言ってきた。

◇

その日の夕方、菅原は、四〇三の前を通ったときに、扉の内側で誰かが同じ言葉を言っているのを聞いた。

「それは、大変ですね」

電話である。相手は分からない。声の主も分からない。

菅原は、そのまま通り過ぎた。

通り過ぎて、五歩ほど行ったところで、その扉が開いた。

出てきたのは、梶だった。

「あ、菅原さん。いま、共同センターの人と話してたんですけど」

「はい」

「あっち、来月まで人が入らないらしいですよ。二人で回してるって」

「二人ですか」

「二人です。まあ、大変ですよね」

梶は、そう言って、給湯室のほうへ歩いていった。

給湯室から、橘の声が聞こえた。

「梶さん、それ、私のカップ」

「あ、すみません」

「いいですけど。洗って返してくださいね」

「洗います」

「前も、そう言いました」

橘が、笑った。

菅原は、その笑い声を聞きながら、廊下を歩いた。

過ぎながら、その語が、この建物では一日に何度使われているだろうかと考えた。

考えて、数えられないと思った。

◇

その週の金曜、菅原は、参加行に電話をかけた。

D行の担当者である。照会の返事が、期限を過ぎても来ていなかった。

「すみません、来週まで待ってもらえますか。うち、いま人が二人抜けてまして」

「二人ですか」

「二人です。片方が産休で、片方が異動です。補充は、四月です」

「四月まで、お一人でやられるんですか」

「一人です。まあ、なんとかします」

菅原は、そこで、言った。

「大変ですね」

言ってから、自分がそれを言ったことに気づいた。

彼は、来週まで待ちます、と言って、電話を切った。

◇

支店の窓口では、客が事情を話すことがある。落ちなかった理由を話す人がいる。入院していた、子どもが辞めた、店を畳んだ、と話す人がいる。

沢井は、「そうですか」と言う。

言って、そのあとに、次にどうするかを言う。二十七日にもう一回落ちますから、と言う。朝には入れておいてください、と言う。

食事は、二十分で終わった。

11 なぎ

「なぎ」へ初めて行ったのは、六月の第三金曜だった。

言い出したのは橘である。

「みなさん、一回ぐらい、飲みませんか。この部屋、三年ですよ。三年」

十九時に、七人で出た。根岸は用があって来なかった。皆川は、来た。

店は、ビルから徒歩七分である。大通りから一本入って、細い道を進んで、階段を下りる。地下一階。看板は木の板に一文字だけ、平仮名で「なぎ」と彫ってある。

中は、カウンターが八席と、小上がりが二つ。二十三時まで。

やっているのは、女性が一人だけだった。菅原の母より、少し上に見えた。大谷内静江という。名前は、あとで知った。

七人は、小上がりの二つに分かれて座った。

◇

最初の一時間は、部屋の話だった。

梶が、空調の吹き出し口の下の席の悪口を言った。古畑が、椅子が四種類あることを指摘した。橘が、電気ケトルは自分が持ってきたのだと言った。

「あれ、橘さんのだったんですか」

「そうですよ。誰も名乗り出ないと思って」

菅原が言った。

「マグカップの、鳥の絵のやつは」

「あれは知らないです。前の会議体の人のだと思う」

古畑が言った。

「あれ、洗って使ってる人いますよ」

「誰ですか」

「言えないです」

笑いが起きた。

三雲は、その席にいた。

日本酒を頼んでいた。冷やで、一合。飲む速さは遅い。ただ、量に対して、よく喋った。

◇

二十時を回ったころ、皆川が三雲に訊いた。

「三雲さんのご専門は、鉄道の運行計画とうかがいましたが」

「そうです」

「決済とは、ずいぶん離れていますね」

「離れています」

三雲は、それだけ言った。

梶が、少し身を乗り出した。

「ダイヤって、どういうことをやるんですか。時刻表を作るんですか」

「時刻表を作るのは、最後の工程です。その前に、何を守るかを決めます」

「守る?」

「全部は守れませんから」

三雲は、猪口を置いた。

「たとえば、朝の下りが五分遅れたとします。五分の遅れは、そのままでは消えません。前の列車が詰まっていれば、次に伝わります。伝わった先で、また詰まります。四十分後に、別の路線で八分になっていることがあります」

「伝わるんですか」

「伝わります。遅れは、単独では起きません。網の上を移動します」

三雲は、そこから三十分、話した。

回復するための余裕を、どこにどれだけ置くか。余裕をすべての区間に均等に置くと、平常時の輸送力が落ちる。落とさないためには、余裕を置く場所を選ぶ。選ぶには、どこで詰まるかを先に知っていなければならない。

乱れたときに、何を捨てるか。全部は走らせられないので、順序を決める。優等を通すのか、各駅を先に通すのか。接続を切るのか、待たせるのか。切れば、その先の乗客が困る。待たせれば、後続がさらに遅れる。

「切ると決めるのは、当日ですか」

古畑が訊いた。

「当日に決めると、間に合いません。だから、先に決めておきます。この条件になったら、これを捨てる、と」

「先に、ですか」

「はい。当日にやるのは、宣言した規則を適用することだけです。当日に判断すると、判断した人によって違う結果になります。違う結果になると、あとで説明できません」

梶が、黙った。

三雲は、続けた。

「あと、乗客に、何を先に伝えるかも決めておきます。遅れの見込みを言うか、言わないか。言って外れると、次から信じてもらえません。だから、確実に言えることだけを言います。確実に言えることは、たいてい、役に立たないことです」

誰も、止めなかった。

三十分、彼女は喋った。

菅原は、聞いていた。

聞いていて、意味の取れる部分と、取れない部分があった。取れる部分のほうが多かった。会議で彼女が話すときよりも、ずっとわかりやすかった。

なぜわかりやすいのか、その理由は、彼にはわからなかった。

◇

二十一時前に、皆川が席を立って、カウンターの端で会計の相談をした。

大谷内は、その相談に、丁寧に答えていた。

戻ってきた皆川は、静かに座った。

そのあと、菅原がカウンターに追加の注文をしに行った。

「すみません、生を二つと、それから、お通しのあれ、もう一つ」

「はい。あれね」

大谷内は、皿を用意しながら、言った。

「あなた、あそこのビルの人?」

「はい」

「四階の?」

「そうです」

「昔もね、四階の人たち、よく来てたのよ。名前は違う会だけど」

「そうなんですか」

「二年か三年でね、みんないなくなっちゃう。次の人たちがまた来るの」

菅原は、少し笑った。

「うちは、二時から四時は開いてないのよ」

大谷内は、そう言った。

「え」

「中休み。仕込みがあるから。五時から。昼はやってないの」

菅原は、そこで、声を出して笑った。

自分でも、なぜそんなに可笑しかったのか、わからなかった。ただ、二時から四時、という言葉が、彼の中では別の意味を持っていた。年金の受給日の午後である。番号札が十五番待ちになる時間である。沢井が同じことを言い続けている時間である。

その時間に、この店は開いていない。

「なんか、可笑しいこと言った?」

「いえ」

「変な人ね」

大谷内は、そう言って、皿を出した。

◇

二十二時前に、戸畑が帰った。

帰る前に、カウンターで会計の半分を置いていった。置いたことを、大谷内が菅原に言った。

「あの背の高くない、声の低い人ね。いつも先に置いてくの」

「いつも」

「二回目よ、まだ。でも、たぶんいつもそうする人ね」

大谷内は、そう言った。

「ああいう人はね、自分の会社の人と、よそ様と、分けて払うの。混ぜると、あとで面倒だから」

菅原は、その言い方が正確だと思った。

戸畑は、その日、四〇三の側から一人で来ていた。梶は四〇二の側の人間として来ている。同じ会社の二人が、違う勘定で来ていた。

菅原は、そのことに、そのときまで気づいていなかった。

◇

店を出たのは、二十二時半だった。

駅までの道で、梶が古畑に言っているのが聞こえた。

「あの人、喋れるんですね」

「三雲さん?」

「はい。てっきり、喋らない人かと思ってました」

古畑が言った。

「梶さん、この前、聞こえてましたよ」

「……ああ」

梶は、それきり何も言わなかった。

12 新幹線

三雲が、支店を見たいと言い出したのは、六月の最終週である。

言い方は、唐突だった。

火曜の会議が終わった直後、机の前を通りかかったときに、こう言った。

「菅原さん。支店を見せていただけますか」

「支店、ですか」

「窓口です。二時から四時のところ」

菅原は、少し面食らった。

「うちの支店で、いいんですか」

「菅原さんがいた支店がいいです。菅原さんが、そこの話をされるので」

段取りは、菅原がつけた。

支店長に電話をして、本部のシステム部の築館に連絡を入れて、事務局から一枚、依頼の紙を出してもらった。日程は、七月の中ごろで調整することになった。

十五日は避けたほうがいい、と菅原が言った。年金の受給日である。三雲は、「なぜですか」と訊いた。

「その日は、こっちが忙しくて、話ができません」

「では、その日がいいのでは」

「話ができません」

「見るだけでいいです」

結局、十六日になった。菅原が折れたわけではない。十五日は支店側が断った。

◇

七月十六日、火曜。

東京駅、八時二十四分発。

二人分の切符は、事務局が手配した。二人掛けの席で、菅原が通路側、三雲が窓側だった。

菅原は、乗る前に、売店で水を買った。三雲は何も買わなかった。

発車して、五分。

三雲は、鞄から何も出さなかった。

資料を持ってきていない。パソコンも開かない。本も読まない。窓の外を見ている。

菅原は、鞄から支店の資料を出して、膝の上に置いた。置いたが、読まなかった。

寝ていいのか、わからなかった。

上司ではない。同僚とも少し違う。年上である。研究所の人である。この人が起きているのに寝るのは、失礼なのかどうか。判断がつかなかった。

結局、二時間、起きていた。

◇

車内販売が来たのは、八時五十分だった。

「いかがですか」

菅原は、断った。三雲も、断った。

ワゴンは、通路をゆっくり進んで、次の車両へ入っていった。

そのあと、トンネルに入った。

長いトンネルだった。音が変わって、窓が黒くなる。黒くなった窓に、車内が映る。座席の背と、天井の照明と、通路と、こちらを向いている自分たちの姿が、薄く映る。

映るものは、ずっと同じである。

トンネルを出ると、外が明るくなって、映っていたものが消える。田がある。まだ低い稲が、水の上に並んでいる。用水路が、線路と平行に走っている。

九時十二分に、駅に止まった。

放送が、駅名を言った。ドアが開く音がして、閉まる音がして、また走り出した。

三雲が、言った。

「この線は、二本に一本、ここに止まりますね」

「そうなんですか」

「一日の全体では、六割ぐらいだと思います。朝と夕方は、止まる本数が増えます。乗る人の数がそうなっているというより、次の列車をどこで待たせるかの都合が、この駅に集まっているからです」

「はあ」

「待たせる場所は、決まっているんです。線路の形で決まります。どこでも待たせられるわけではないので」

菅原は、何と返せばいいのか、わからなかった。

「詳しいんですね」

と、言った。

言ってから、その返しが的外れだったことに、自分で気づいた。詳しい、という言葉は、趣味の人に使う言葉である。この人の仕事の話に、詳しいですね、と返すのは、おかしい。

三雲は、そのことを、気にしていないようだった。

「専門です」

とだけ言った。

会話は、そこで終わった。

◇

十時二十分ごろ、菅原は、姿勢を直した。

直したときに、隣を見た。

座っているとき、目の高さが、ほとんど同じだった。

立っているときは、菅原のほうが少し高い。彼は背が高いほうである。ただ、姿勢が悪いので、そう見えない。彼女は姿勢がいい。座ると、その差が消えた。

菅原は、それに、一度だけ気づいた。

気づいて、正面に向き直った。

そのあとは、何も考えなかった。

十時二十四分に、県庁所在地の駅に着いた。

◇

湊町支店に着いたのは、十一時である。

支店長が三階から下りてきて、応接室に通そうとした。

三雲は、断った。

「窓口を見せていただけますか」

「窓口、ですか」

「お客様の邪魔にならないところで結構です。後ろで見せていただければ」

支店長は、菅原の顔を見た。菅原は、うなずいた。

応接室は三階で、窓口は一階である。三雲は、階段を下りて、そのまま、テラーの後ろに立った。

十一時から十二時まで、立っていた。

何も訊かなかった。

昼は、支店の会議室で、弁当を食べた。二十分で終わった。

十三時から、沢井が付いた。

◇

沢井久美子は、三雲を見て、「あら」と言った。

「東京の方?」

「三雲と申します」

「はいはい。ひろみちゃんの、お知り合い」

「同じ部屋で仕事をしています」

沢井は、それで納得したらしかった。

三雲は、沢井の隣に座った。椅子を一つ借りて、カウンターの内側の、少し後ろである。

「お仕事、しながらで結構です」

「そう? じゃあ、やりながらね」

十三時から十六時まで、三時間。

三雲は、訊き続けた。

◇

訊いた内容は、こういうものである。

いま、その伝票を、なぜその順番で置いたのか。

置く場所は、決まっているのか。決まっているとして、それは規定に書いてあるのか、自分で決めたのか。

その客が来たとき、最初に何を見たのか。顔か、持ち物か、手に持っている紙か。

通帳を出されたとき、どこを見るのか。

印鑑が合わないとき、どうするのか。合わない、と言うのか、別の言い方をするのか。

払込票を持ってきた人と、振込用紙を持ってきた人とで、最初の一言が違うのはなぜか。

奥に確認しに行くとき、客に何と言って離れるのか。

戻ってきたとき、最初に何と言うのか。

十四時十分に、待ちの番号が九番になった。

沢井の手が、速くなった。

三雲は、黙った。訊くのをやめて、手を見ていた。

十四時四十分に、客が途切れた。

「ごめんね、ちょっと立て込んじゃって」

「いえ」

「何の話でしたっけ」

「奥に確認に行くときの、離れ方です」

「ああ、それね。あれはね——」

沢井は、また話し始めた。

自分が重要なことを言っている、とは、まったく思っていない話し方だった。

◇

十五時二十分に、菅原が伝票の綴りを持って、後ろから入った。

沢井に渡す。

沢井が受け取るときに、指が触れた。

沢井は、綴りを受け取ってから、菅原の手を見た。

「ひろみちゃん、手、硬いままね」

「はい」

「東京行っても、変わらないの」

「変わらないです」

沢井は、それだけ言って、伝票を捌いた。

三雲は、そのやりとりを見ていた。

見ていたが、何も言わなかった。

◇

十五時四十分に、三雲が一度だけ、菅原のほうを見た。

見て、何も言わずに、また沢井の手に目を戻した。

そのとき沢井がやっていたのは、通帳の記帳である。客が置いていった通帳を、機械に入れて、出てきたものを見て、一行を指で押さえて、客に向けて回した。回す向きが決まっている。字が客の側から読める向きに回す。

回してから、指を離す。

離すのが、少し遅い。客が読み終わるまで、指がそこにある。

三雲は、そこを見ていた。

菅原は、その動作を、二十年見ている。見ているが、指が遅いことに気づいたのは、そのときが初めてだった。

◇

十六時。

シャッターが下りて、そのあと三十分ほど、三雲は精算の作業を見た。

十六時四十分に、支店を出た。

支店長が、玄関まで出てきた。

「本日はありがとうございました。何かお役に立てましたでしょうか」

「はい」

三雲は、そう答えた。

支店長が、少し困った顔をした。答えが短すぎたからである。

菅原は、その日、三雲がメモを取らなかったことに気づいていた。

三時間、一行も書かなかった。

「あの」

駅へ向かう道で、菅原は訊いた。

「書かなくて、大丈夫なんですか」

「覚えています」

「三時間ぶん、ですか」

「はい」

三雲は、そう言った。

そのあと、少し歩いてから、付け加えた。

「書くと、書いたものしか残りません」

菅原には、意味がわからなかった。

13 灯明島

帰りの新幹線は、十七時四十分だった。

指定は取ってあったが、二人掛けではなく、通路をはさんだ別々の席になっていた。事務局が取ったときに、二人並びが空いていなかったらしい。

発車前に、三雲が言った。

「隣、空いていますね」

菅原の隣が、空いていた。

「空いてます」

「移ってもいいですか」

「あ、はい」

三雲は、荷物を持って移ってきた。窓側に菅原が座っていたので、通路側に座った。

指定席の券とは違う席に座ることについて、彼女は何も言わなかった。車掌が来たら言えばいい、と考えたのだろう。実際、車掌は来なかった。

◇

日が落ちていた。

窓は、黒い。

黒い窓に、車内が映っている。

トンネルに入ると、音が変わって、映るものが濃くなる。トンネルを出ると、薄くなる。外に、街の明かりが点々と流れる。工場の照明が、線路際に長く続く区間がある。それを過ぎると、また何もなくなる。

十八時十分ごろ、三雲が言った。

「沢井さんは、いつからあの支店ですか」

「十九年です」

「銀行には」

「三十八年、と聞いています」

「三十八年、同じことをされているんですね」

「同じ、というか」

菅原は、少し考えた。

「窓口の仕事は、変わっているんです。端末が変わって、書式が変わって、確認することも増えています。増えたぶん、時間がかかるようになっています。ただ——」

「ただ」

「二時から四時に来るお客さんは、変わりません」

三雲は、それには何も言わなかった。

しばらく、二人とも黙っていた。

菅原は、窓を見ていた。窓には、車内が映っている。映っている中に、自分の顔と、その隣の輪郭がある。

彼は、そこから目を離した。

◇

十八時半ごろ、島の話が出た。

出したのは、菅原ではない。

「菅原さんのご出身は、島でしたね」

「はい」

「橘さんが言っていました」

「そうですか」

「船で、どのくらいですか」

「二時間ちょっとです。フェリーで」

「冬は、どうなりますか」

菅原は、少し驚いた。

冬のことを、先に訊かれたことがなかったからである。たいていの人は、島の暮らしを訊く。何をして暮らしているのか、店はあるのか、病院はあるのか、と訊く。

「冬は、出ません」

「何日ぐらい」

「西が入ると、二日か三日。長いと一週間ぐらい続きます」

「一週間、出ないんですか」

「はい」

「そのあいだ、どうされるんですか」

「先に数えます」

菅原は、そう答えた。

「数える」

「はい。年末なら、この冬は何日ぐらい出ないだろう、と先に見当をつけます。それで、そのぶんの米と、灯油と、薬を積んでおきます。出ないと決まってから慌てても、間に合わないので」

「先に数えるのは、誰がですか」

「誰が、というか」

菅原は、言葉を探した。

「みんな、そうします。役場も、そういう前提で回っています。診療所の薬も、多めに出ます。学校の行事も、この時期は動かないという前提で組みます」

「一週間出ないことを、あらかじめ織り込んで、生活が組んである」

「はい」

「そのぶん、平常時は不便になりますね」

「なります。米が多いので、置き場所が要ります」

「置き場所は、どの家にもあるんですか」

「あります。土間か、物置です。新しく建てる家でも、作ります」

「作るんですか」

「作ります。作らないと、冬に困るので」

「一週間ぶんですか」

「二週間ぶんです」

菅原は、そう答えた。

「一週間出ないことは、何年かに一度あります。二週間は、私が知っているかぎり、一度だけです。ただ、みんな、二週間で積みます」

「一度しかなかったもののために」

「はい」

「そのぶん、毎年、置き場所を空けておくわけですね」

「空けておきます」

「空けている場所は、ふだんは何にも使えませんね」

「使えません」

「使えないことを、不便だと言う人はいませんか」

「いないです」

菅原は、少し考えて、言い直した。

「いないというより、言っても仕方がないので、言わないんだと思います」

三雲は、少し黙った。

それから、言った。

「それは、縮退ですね」

菅原には、意味がわからなかった。

「しゅくたい」

「はい」

「それは、何ですか」

三雲は、答えなかった。

窓のほうを見ていた。黒い窓に、彼女の顔が映っていた。厚い眼鏡の縁が、そこだけ強く光っていた。

説明しないのは、意地悪ではなさそうだった。説明する必要を感じていないように見えた。それだけのことなのかどうかは、菅原には分からなかった。

三雲は、しばらくして、もう一度口を開いた。

「沢井さんは、四つ、答えられませんでした」

「四つ、ですか」

「はい。落ちる時刻、再振替の回数、落ちなかったときの次の期日、それから、同じ日に二件重なったときにどちらが先に落ちるか。四つとも、訊きました。四つとも、分からないと答えられました」

「分からないと思います」

「分からないのは、沢井さんではありません」

三雲は、そう言った。

「銀行が持っていないからです。持っていないものは、三十八年やっても分かりません。三十八年やって分からないということは、そこに情報が来ていないということです」

菅原は、その言い方を、少し考えた。

「それは、直るものですか」

「直すかどうかは、決める人が決めます」

三雲は、そう答えた。

答えて、また窓のほうを向いた。

十八時四十分に、トンネルに入った。

音が変わった。

菅原は、その語を、覚えた。

意味がわからないまま、音だけを覚えた。

14 書き始める

月曜の朝、ホワイトボードの右側が、埋まっていた。

七月の第三週である。三雲が書き始めたことを、部屋の全員が、その一枚で同時に知った。

前の日曜に来て、書いたらしい。土日は空調が止まる。七月の下旬である。日曜の四階は、暑い。

書いてあったのは、図と、四つの語だった。

図は、状態と、状態のあいだの矢印だった。受け付ける。事前に見る。確保する。決める。払う側が実施したことを確認する。受け取る側が実施したことを確認する。終わる。

矢印は、一方向にしか引かれていなかった。戻る矢印が、一本もない。

その代わりに、脇へ抜ける矢印が、何本かあった。抜けた先は、四角ではなく、二重線の枠だった。

四つの語は、右の上に、縦に並んでいた。

同期で返す境界。

不可逆になる境界。

証跡。

例外の収束先。

◇

九時半に、戸畑が来た。

来て、ホワイトボードの前に立って、二分ほど動かなかった。

「三雲さん」

「はい」

「これは、レーンごとに、この四つの値が違う、ということですか」

「違います。レーンとは、その四つの値の組です」

「組」

「即時決済が速いというのは、結果です。原因ではありません。決定までを同期で返すと決めた。だから速く見えます」

三雲は、そこで、一度だけ付け加えた。

「名前は即時ですが、確定が即時なわけではありません。同期で返るのは決定までで、資金が動いたことが確定するのは、そのあとです。名前と確定点は、別のものです」

戸畑は、うなずかなかった。うなずかずに、聞いていた。

「標準決済は、受け付けたところまでを同期で返します。その先は返しません。返さないぶん、説明を残します。高額決済は、日銀の確定が入るので、不可逆になる境界がそこに移ります。一括決済は、締切があるので、証跡に締切の識別子が要ります」

「では、いま七つあるレーンは」

「七つの契約です。使い勝手の分類ではありません」

三雲は、そう言った。

「機能の一覧として並べると、七つ作ることになります。契約として並べると、四つの値を七通り決めることになります。作るものの数は、後者のほうが少ないです」

梶が、後ろから見ていた。

梶は、何も言わなかった。

◇

その週から、二週間で、骨格が出た。

三雲が書いたのは、状態の遷移と、その遷移に何が要るかである。

決めることと、実施することは、別の軸にしてあった。

決めた、というのは、この基盤の中で、実施の指示が確定したという意味である。資金が動いたという意味ではない。資金が動いたことは、払う側と受け取る側の両方が、それぞれ実施したことを証跡として出したときに、初めて確定する。

最後の一つ——受け取る側の実施が確認された点——だけを、不可逆な境界とする。

法律上の弁済が完了したのは、そこである。それ以外の点を「完了」と呼ばない。

菅原は、その説明を、二回聞いた。

一回目は会議で、二回目は、梶が古畑に説明しているのを、横で聞いた。

二回目で、少しわかった。

決まったこと、と、済んだこと、は違う。窓口でも、そうである。受け付けました、と、済みました、は違う。違うのだが、客にはたいてい同じに聞こえる。だから、窓口では、言い方を変える。「お手続きはお預かりしました」と言う。

言い方を変えているのは、その二つが違うからだ、ということを、菅原はそのとき、初めて意識した。

意識したが、誰にも言わなかった。

◇

三雲の書きぶりは、速くなかった。

一日に、多くて三枚。図が一枚と、表が二枚。

ただ、書いたものが、戻らなかった。

前の週に書いたものを、翌週に書き直すということが、ほとんどなかった。

梶が、それに気づいた。

八月の第一週の金曜、梶が戸畑に言っているのが、菅原に聞こえた。

「三週間、無駄じゃなかったですね」

戸畑は、答えなかった。

梶は、続けた。

「僕、あのとき、いつ書き始めるんですかって言いました」

「言ったな」

「聞こえてたと思います」

戸畑は、パソコンの画面を見たままだった。

「言ったことは、取り消せない。取り消すより、書くほうが早い」

梶は、それから、席に戻って、二十三時までいた。

◇

八月の部屋は、暑かった。

空調は効いている。効いているが、効き方が偏る。吹き出し口の下の席は寒く、窓側の島は暑い。窓が西向きなので、十四時を過ぎると、向かいのビルの白いタイルが光って、その照り返しが入る。

窓側の島の、いちばん窓に近い席には、誰も座らなくなった。書類が読めないからである。

そこに、事務局が段ボールを一つ置いた。中身は、二年前の検討会の資料である。捨てられないので、置いてある。

菅原は、その夏、二十時より前に帰った日が、四日しかない。

やっていたのは、参加行への照会と、その回答の整理と、議事録である。

照会は、一本出すのに三十分かかる。文面を作って、宛先を決めて、期限を書く。期限を書かないと、返ってこない。期限を書いても、半分は返ってこない。返ってこないものは、電話をかける。

電話をかけると、たいてい、相手は恐縮する。恐縮したあとで、「どこまでお答えすればよろしいでしょうか」と訊かれる。

菅原は、そのたびに、範囲を口で説明した。

説明の仕方が、少しずつ上手くなっていった。

上手くなったことに、彼は気づいていない。

参照実装の最初の版が出たのは、その次の週である。

動くものが出たのは、その部屋にとって、初めてだった。

◇

参照実装が出た週の金曜、四〇二の側に人が集まった。

集まったのは、四〇三から十六人と、四〇一の側から八人である。画面を大きく映して、一件、送金を通した。

通るのに、四秒かかった。

四秒のあいだ、誰も喋らなかった。通ったあとも、しばらく誰も喋らなかった。

最初に喋ったのは梶である。

「これ、まだ何もしてないですよ」

「何もしていないというのは」

菅原が訊いた。

「一本の線を通しただけです。レーンは一つで、参加行は二つで、例外はないです。ここから、七レーン、八行、例外が二百通りになります」

「二百」

「たぶん、二百じゃ済みません」

梶は、そう言って、画面を消した。

消してから、席に戻る途中で、もう一度画面のほうを見た。

菅原は、それを見ていた。

15 弱い側へ

九月の第二週。

議題は、参加行の勘定系との接続だった。

八行のうち、二行が、同期で応答を返せないと言ってきていた。

正確には、こうである。基盤の側から「この口座の資金をいったん確保してくれ」と要求したときに、その場で「確保した」と返せる銀行と、返せない銀行がある。返せない銀行のほうが多い。多くの勘定系は、資金を一時的に押さえておく状態そのものを持っていない。

戸畑が、その整理を出した。

「対応レベルを、三段に分けています。上の段は、双方向でオンラインの処理ができる参加行。真ん中は、受け取る側にだけなる参加行。下は、接続そのものが難しい参加行です」

橘が、手を挙げた。

「うちの会員金庫でいうと、真ん中が多いです。上に届くのは、たぶん二割です」

「二割ですか」

「二割です。あと、繋ぎはうちがまとめてやりますけど、金庫ごとにベンダーが違うので、同じ段でも中身が同じとは限りません」

芝原が、言った。

「それは、参加の条件をどう置くか、という話ですね。全部の参加行に上の段を求めると、参加できる銀行が減ります。減ると、この基盤の意味が薄くなる」

皆川が、続けた。

「かといって、下に揃えると、上の段でできることができなくなります」

議論が、三十分ほど、そこで止まった。

◇

三雲が、言った。

「揃えません」

全員が、彼女のほうを見た。

「銀行ごとに、何ができて何ができないかを、先に申告してもらいます。同期で確保を返せるか。予約という状態を持てるか。停止する時間帯があるか、あるなら何時から何時か。通知を受け取る口があるか。同じ要求を二度受けたときに、二度目だと気づけるか」

三雲は、ホワイトボードに、その項目を書いた。

「申告された値の組が、その銀行の能力です。基盤は、その組を見て、その銀行に対する扱いを決めます」

梶が訊いた。

「申告が間違っていたら、どうするんですか」

「間違いは、組み合わせの矛盾として出ます」

三雲は、線を一本引いた。

「たとえば、ある銀行が『同期では確保を返せない』と申告しながら、同時に『予約という状態を持てる』と申告したとします。この二つは、同時には成り立ちません。予約を取れと言われて、その場で返せないなら、取れたのかどうかを誰も知らないまま、予約だけが相手側に残ります。残った予約は、誰も履行できず、誰も解放できません」

「そういう場合は、弾くんですか」

「弾きません。弱いほうへ縮退させます」

菅原は、その語を聞いた。

しゅくたい。

七月の、黒い窓の中で聞いた語だった。

「強いほうへ寄せると、その銀行はできないことをやらされます。やらされて、できなかったときに、原因が申告の側にあるのか実装の側にあるのかが、あとから分かりません。弱いほうへ寄せれば、できることしか要求しません」

「弱いほうに寄せるというのは、具体的には」

「予約を取らずに進めます。そのかわり、あとで戻せる経路を必ず通します。この設計は、その経路をもう持っています。新しい状態を増やす必要はありません」

戸畑が、そこで口を開いた。

「それは、黙って落ちるということですか」

「いいえ」

三雲は、はっきり言った。

「縮退したことは、応答に載せます。要求を出した側は、自分の要求が、そのままではなく、弱い側に寄せられて処理されたことを知ります」

「なぜ、載せる必要が」

「黙って落とすと、誤った申告が通ってしまうからです」

三雲は、そこで一度、部屋を見た。

「できないことを申告した銀行は、接続できます。できないことを、できると申告した銀行は、接続はできますが、そのことが記録に残ります。前者は排除しません。後者を見えなくしません」

橘が、机を、指で一度叩いた。

「それは、ありがたいです」

橘は、そう言った。

「うちの金庫は、ほとんどが、できないことのほうが多いんです。できることを並べて競争させられると、最初から負けています。できないことを言えば繋いでもらえるなら、言います。うちの担当者は、言うと不利になると思っているから、言わないんです」

「言わないと、どうなりますか」

「本番で出ます」

橘は、そう言って、笑った。

その日は、それで終わった。

◇

菅原は、その日、二十一時まで残った。

ホワイトボードを、写真に撮った。撮ってから、自分のノートにも書き写した。

書き写しながら、彼は、その原理を、技術の話として受け取っていた。

弱い側へ寄せる。できないと言った側を切らない。

それが、自分の島の話と同じ形をしていることには、気づいていない。

出ない日を先に数える。数えたぶんだけ積んでおく。出ない日があることを前提にして、生活の側を組む。船が出ないことは、誰の落ち度でもない。

その二つが同じ形だとは、彼はまだ、思っていなかった。

◇

翌週、菅原は、汐入銀行の勘定系について、築館に照会を出した。

出したのは、五つの項目である。同期で確保を返せるか。予約という状態を持てるか。停止する時間帯はいつからいつか。通知を受け取る口があるか。同じ要求を二度受けたときに、二度目だと気づけるか。

築館からの返事は、四日後に来た。

本文は、二行だった。

「一から四は、システム部で答える。五は、答えられる者がいない。調べるので待て」

菅原は、その二行を三度読んだ。

三度読んで、五番目の項目に、なぜ答えられる者がいないのかを考えた。考えて、分からなかった。

築館から続きが来たのは、三週間後である。

「五について。設計上は気づける。ただし、その仕組みが使われているかどうかは、確認できなかった。使われていない可能性がある。使われていない場合、二度目だと気づけない」

菅原は、その文を、そのまま表に書き写した。

書き写して、備考の欄に一行足した。

「できない側で扱う」

二年近くあとに、六十四の金庫が同じ欄に同じことを書く。そのときには、彼は、この四日と三週間のことを思い出さない。

◇

その表を作っているあいだに、一度、橘と二人でエレベーターに乗ったことがある。

四階から一階までである。

「菅原さん、金庫の名前、覚えられます?」

「覚えられないです」

「二百四十ありますからね」

橘は、そう言って、笑った。

「橘さんは、全部言えるんですよね」

「言えます」

「どうやって覚えたんですか」

「勤めてたので」

エレベーターが、二階を過ぎた。

「金庫に、ですか」

「はい。最初の六年、窓口です。うちの県の、いちばん小さいところでした」

「そうなんですか」

「職員が十九人です。支店が三つ」

橘は、階数の表示を見ていた。

「いま、ないです。合併して、名前が変わりました」

「なくなったんですか」

「なくなりました。建物は、まだあります。信用金庫の看板のところだけ、外してあります」

一階に着いた。

扉が開いたが、橘は、すぐには出なかった。

「名前を覚えてるのは、そのせいだと思います」

そう言って、先に出た。

菅原は、そのあとを歩いた。

歩きながら、六十四という数を、初めて、六十四の建物として考えた。

考えたが、それを表には書かなかった。

書く欄が、なかったからである。


第二部 誰も欲しがらないレーン

16 芝原

「これは、原子性の話ですよね」

十月の初めである。芝原が、そう言った。話し込んだのは、そこからだった。

きっかけは、協調決済である。

複数の当事者が同時に関わる取引を、まとめて一つとして扱う。三者以上の資金移動を、途中で片方だけが成立するということがないようにする。それをどう作るか、という論点である。

芝原が、まず整理を出した。

「これは、原子性の話ですよね。全部成立するか、全部成立しないか。中間がないという」

「決定は、そうします」

「決定は、ということは、実施は違う」

「違います」

三雲は、そこから話し始めた。

菅原は、同じ島の、二つ離れた席にいた。

聞いていた。三十分、聞いていた。

◇

話の中身は、こうだった。

決めることについては、一体として扱える。複数の脚をまとめて一つの決定として確定させる。確定は、この基盤の中の話なので、内側で閉じている。閉じているものは、一体にできる。

実施は、参加者の側で起きる。それぞれの銀行の勘定系が、それぞれの手順で記帳する。そこには通信があり、それぞれの内部の障害があり、時間がかかる。

だから、実施の同時成立は保証しない。

保証できないものを保証すると書くと、書いたことが嘘になる。嘘になったものは、事故のときに最も高くつく。

「では、実施が片方だけ進んだ場合は」

「部分進捗として、例外に落とします。完了は、全部の脚で受け取り側の確認が揃った時点でだけ認めます」

「その揃わない状態は、どのくらい続きますか」

「続く長さは、参加者の実装によります。基盤の側で決められるのは、いつまで待つかと、待ち切ったときにどこへ持っていくかだけです」

芝原が、うなずいた。

「なるほど。つまり、原子性という言葉を、決定の層に限定して使う、と」

「限定します。層をまたいで同じ言葉を使うと、必ず誤解されます」

「誤解の方向は、たいてい、強いほうですね」

「はい。強いほうに誤解されます」

芝原が、少し笑った。

「そこが厄介なんだよな。強く誤解されているうちは、誰も文句を言わないので」

三雲も、少し笑った。

菅原は、それを見ていた。

◇

三十分、菅原は一語も入れなかった。

話が難しかったのではない。難しいのは事実だが、それだけなら、あとで訊けばいい。

そうではなかった。

彼は、その三十分のあいだ、自分が何か言えることはないか、と探していた。

探して、なかった。

原子性の話に、窓口の話は要らない。協調決済の取引は、まだ現場に一件もない。誰も窓口に来ない。来ないので、彼が知っていることが一つも使えない。

その会話に持ち込めるものが、自分には一つもない。

彼は、それを、はっきりと理解した。

理解して、そのあと、議事録を書いた。

書いた議事録は、四枚になった。書けた。書けたのは、二人の言葉をそのまま写せばよかったからである。

◇

その夜、寮に帰って、菅原は書店で買った本を開いた。

八月に、駅前の書店で買った本である。決済という語が題に入っている。二千八百円だった。

三十ページで、閉じた。

わからないのではない。書いてあることは、たぶん、正しい。ただ、この本を読んでも、あの三十分に入れるようにはならない、ということが、三十ページでわかった。

彼は、本を、本棚に置いた。

本棚は、寮に備え付けの、三段のものである。その本が、二冊目だった。

◇

翌朝、彼は、四〇一へ着いてから、ノートを一冊、新しく下ろした。

前のノートは、会議の記録に使っている。新しいほうには、別のことを書くことにした。

一行目に、こう書いた。

「原子性——全部か、全部でないか。中間がない。決定の層だけで使う」

二行目に、こう書いた。

「層をまたいで同じ言葉を使うと、誤解される。誤解は、強いほうへ行く」

書いてから、彼は、その二行を読み返した。

意味は、まだ分かっていない。ただ、二人が使った言葉を、そのまま書いておくことはできる。

書いておけば、次に同じ言葉が出たときに、二度目になる。二度目のものは、一度目より聞き取れる。

彼は、渉外の一年目に、同じことをしていた。取引先の社長が使う語を、意味が分からないまま書き写した。三年目には、そのノートを開かなくなった。

このノートは、三年半で、七冊になる。

◇

その週から、菅原は、二人の話に出た語を、会議のあとで戸畑に訊くようになった。

訊くのは、会議が終わって、人が減ってからである。戸畑は、たいてい席にいる。

「戸畑さん。さっきの、部分進捗というのは」

「片方の脚だけ実施が済んで、もう片方が済んでいない状態です」

「それは、失敗ですか」

「失敗ではないです。まだ決まっていない状態です」

「決まっていないものを、どこかへ持っていくんですよね」

「待ち切ったら、持っていきます」

戸畑は、そう答える。答えて、それ以上は言わない。

菅原は、それを書く。書いて、翌日、同じ語がまた出たときに、前の日の答えを思い出す。

三回目からは、訊かなくてよくなった。

訊かなくてよくなった語が、その秋に、十一あった。

◇

翌週、菅原は、参加行の照会の様式を変えた。

理由は、返ってこないからである。

それまでは、質問を並べて送っていた。八問なら八問、文章で並べる。相手は、それを読んで、順番に答える。

答えが返ってこない理由を、彼は、C行の担当者に訊いた。

「あれ、うちの中で、三つの部署に回るんです」

「三つ」

「事務部と、システム部と、あと、商品の担当です。回して、集めて、一つにまとめて返します。まとめる人間がいないと、止まります」

「なるほど」

「あと、うちで答えられないものが混ざっていると、そこで全部止まります」

菅原は、その日のうちに、様式を三つに割った。

事務部に訊くもの。システム部に訊くもの。商品の担当に訊くもの。三枚に分けて、それぞれに、宛先の部署名を書いた。

さらに、それぞれの紙の下に、一行足した。

「本欄について貴行でご回答が難しい場合は、その旨をご記入ください。回答不能である旨の記載も、当方の資料としては有効です」

その一行を入れてから、回答率が上がった。

上がった理由を、菅原は、そのときは考えなかった。

考えたのは、一年半あとである。

17 議連の紙

作成者の欄が、なかった。

十月の下旬に回ってきた紙である。二枚。表題に「(参考)」と入っていて、日付だけがある。

内容は、条件付きの支払と、複数当事者の協調について、こういう機能があるとよい、という趣旨の記述だった。書きぶりは丁寧で、専門的な語も正しく使われている。ただ、どこで誰が作ったのかがわからない。

菅原は、事務局に訊いた。

「これ、どこの資料ですか」

「勉強会の資料です」

「勉強会」

「議員の先生方の」

「はい」

事務局は、それ以上言わなかった。言わなかったのは、隠したのではなく、それ以上を知らないからだと、菅原にはわかった。

◇

その紙が回った翌週の火曜、会議の途中で、根岸の携帯が鳴った。

根岸は、画面を見て、立ち上がって、廊下に出た。

会議は続いた。戸畑が、実装の順序の話をしていた。

十二分後に、根岸が戻ってきた。

戻ってきて、席に座って、資料を見て、それから言った。

「条件決済の、期限の扱いですが、もう一段、細かくできますか」

戸畑が、顔を上げた。

「細かく、といいますと」

「条件の成立を待つあいだの状態を、外から見えるようにしてほしいという要望です」

「要望というのは、どちらからの」

根岸は、少し間を置いた。

「上からです」

戸畑は、うなずいた。

理由は、説明されなかった。

菅原は、そのやりとりのあいだ、根岸の顔を見ていた。

根岸は、腹が出ている。上着のボタンを留めない。鞄はいつも同じで、角が擦れている。廊下に出る回数が、部屋の誰よりも多い。会議の途中で二回出ることもある。

そのときの根岸の顔は、疲れて見えた。

疲れて見えたが、それだけだった。何を言われて戻ってきたのか、菅原にはわからない。

◇

その日の終わりに、菅原は、一度だけ根岸に訊いた。

エレベーターの前だった。ほかに人はいなかった。

「あの紙は、断れないものなんですか」

根岸は、扉のほうを向いたまま、少し間を置いた。

「断ると、次に何が来るか分からなくなります」

「分からなくなる、というのは」

「いま来ているものは、こちらに見えています」

それだけだった。

扉が開いて、根岸は先に乗った。菅原は、いちばん後ろに立った。一階まで、二人とも、何も言わなかった。

菅原は、その答えの意味を、そのときは取れなかった。

◇

十一月の終わりに、事務局の課長が、机の上に紙を三枚置いていくのを見た。

置いていったのは、根岸である。置いて、何も言わずに部屋を出た。

課長は、その三枚を読んで、しばらくしてから、引き出しに入れた。会議の資料には、翌週も、その次の週も出なかった。

菅原は、そのことを、覚えていた。

覚えていただけで、意味は取らなかった。意味を取るのは、二年三か月あとである。

◇

十一月の第一週に、日程の表が差し替わった。

壁に貼ってある大きな表である。横に月が並び、縦に作業の名前が並ぶ。棒が引いてあって、棒の長さが期間になる。差し替えると、前の版は剥がして捨てる。

菅原は、剥がされる前の版を、一度だけ写真に撮った。

撮った理由は、事務局が「前の版はどこですか」と訊かれて、答えられなかったのを見たからである。

新しい版では、棒が七本、右へ動いていた。

動いた棒のうち、五本は、動いたぶんだけ後ろの棒が短くなっていた。全体の終わりの日付が変わっていないからである。終わりの日付は、稼働の日である。稼働の日は、去年の中間とりまとめに書いてある。

つまり、間に入るものが増えても、終わりは動かない。

動かないので、一本あたりの長さが縮む。

梶が、その表の前に立って、しばらく見ていた。

見て、何も言わずに、席へ戻った。

◇

その日から、十一月の末までに、機能が三つ増えた。

三つとも、根岸が廊下から戻ってきた直後に増えた。

増えるときの手順は、いつも同じである。根岸が戻ってくる。資料を見る。それから、「——について、もう一段」と言う。戸畑が受ける。梶が工数を出す。工数が出ると、日程が動く。日程が動くと、別のものが後ろに下がる。

後ろに下がったものの中に、標準決済の例外の細部と、継続収納の検討があった。

◇

十一月の中ごろに、四〇三の人数が増えた。

増えたことを、菅原は、給湯コーナーの湯の減り方で知った。

四〇二の側に移ってきているのは八人のままである。ただ、その八人のところへ、四〇三から人が来る回数が増えた。来て、机の脇に立って、画面を覗いて、二言三言だけ話して、戻っていく。立ったままの相談が、一日に何度もある。

菅原は、あるとき、梶に訊いた。

「向こうは、いま何人ですか」

「四〇三ですか。四十五人です」

「増えましたね」

「増えました。別の拠点のほうが、もっと増えてます。先月、八百人を超えたって聞きました」

「八百人」

「そのうち、この仕組みの中身を分かってるのは、たぶん、この階にいる人間だけです」

梶は、そう言って、少し笑った。

「分かってる人間が増えないのに、書く人間だけ増えるんですよ。だから、書いたものを見る仕事が増える。見る人間は増えない」

菅原には、その話が、支店の年度末に似て聞こえた。

似ているとは、言わなかった。言っても、たぶん通じない。

古畑が、給湯コーナーで言った。

「根岸さん、何しに廊下出てるんですかね」

「電話でしょう」

「そりゃそうですけど。あの人、決めないですよね」

菅原は、答えなかった。

「決める人だっていうから来たのに、決めないんですよ。持ち帰ります、しか言わない」

古畑は、そう言って、湯を注いだ。

菅原は、そのとき、何も言わなかった。

言うだけの材料が、なかったからである。

古畑は、湯呑みを持ったまま、しばらく立っていた。

「菅原さん、寮ですか」

「寮です。江戸川です」

「僕、川崎です。うち、東京に寮がないんで、借り上げで」

「遠いですか」

「一時間十分です。座れないです」

古畑は、そう言った。

「子どもが、二人いるんですけど」

「そうなんですか」

「下がまだ二つで。朝は寝てますし、帰ったら寝てるので、平日は顔を見ないです」

「土日は」

「土日は、います」

古畑は、湯呑みの中を見た。

「上のやつが、こないだ、僕の会社は何をするところかって訊いてきたんですよ」

「なんて答えられたんですか」

「銀行だよ、と言いました」

「はい」

「そしたら、じゃあお金を数えてるの、と訊かれて」

古畑は、少し笑った。

「数えてないですよね、僕」

「数えてないです」

「三年、一円も数えてないです」

古畑は、そう言って、給湯コーナーを出た。

菅原は、そのあと、自分の湯を注いだ。

注ぎながら、自分も一円も数えていないことを考えた。

支店にいたときは、数えていた。数えるのは、彼の仕事のうち、いちばん下の部分だった。下の部分から順に、手が離れていく。

離れた手で、何を持っているのかは、まだ分からなかった。

◇

十一月の第三週の水曜、二十時過ぎに、菅原は四〇三の前を通った。

自動販売機で釣り銭を落として、拾って、戻るところだった。

扉が開いていた。

中の手前の島に、七人が集まっていた。机の並びの端で、そこだけ椅子が寄せてある。ホワイトボードは、島の脇に一枚だけ出してあった。四〇二のものより小さい、脚のついた移動式のものである。

そのホワイトボードが、端から端まで埋まっていた。

書いてあったのは、菅原の読めない字だった。分数の形をしたものが三つ横に並び、その下に、かっこの多い行が二行あった。右の下のほうに、図が一つ描いてある。横軸と縦軸があって、線が右上がりに立ち上がってから、途中で頭を打って、そのあと下がっていた。山の形である。

三雲が、その前に立っていた。

正面に、若い技術者が一人立っていた。手に、綴じていない紙の束を持っている。表紙がなく、二段組で、英語だった。何ページか折り返してあって、折り返した面に、蛍光ペンが引いてある。

「ここが、ボトルネックになります」

技術者が、そう言った。

「一件通すたびに、必ずこの一行を通ります。通るところが一つしかないので、機械を増やしても、増やしたぶんが出ません。出ないだけならいいんですが、この論文だと、ある数を超えると落ちます。増やすほど落ちます」

技術者は、紙の束の折り返した面を開いて、山の図を指した。

「測りました。うちの環境で、この形が出ました」

「何件で頭を打ちましたか」

「千二百です。千二百を超えると、下がります」

「実際に来る件数は」

「初年度で、朝の八時台がいちばん多くて、二千は超えます」

三雲は、山の図をしばらく見た。

「いい測り方です」

技術者は、少し黙った。

「いい測り方ですが、測った場所が違います」

三雲は、マーカーを取って、かっこの多い行の、いちばん左の項に丸を付けた。

「この項に乗るのは、人数です。同じ一つの場所を、何人で取り合うか。取り合う人数が増えると落ちる、というのが、その論文の言っていることです。合っています」

「はい」

「では、いま数えてください。うちの設計で、あの一行を同時に取りに来るのは、何人ですか」

技術者は、答えなかった。

「二人です」

三雲は、指を二本立てた。

「一つの取引について、その取引を成立させにいく側と、期限が来たので取り止めにいく側。この二つだけです。ほかの取引は、別の行に来ます。千二百件が同じ行に並ぶことは、起きません」

「起きないというのは、そういう作りになっている、ということですか」

「そうです。あの一行は、系に一本ある一行ではありません。取引ごとに一行あります」

技術者は、紙の束を持ち直した。

「ただ、その一行を通ったあとの処理が長いです。全部の脚を書き換えて、親を登録して、枠を取って、それから脚のレコードを作ります。長いあいだ、ほかが待ちます」

「待たせません。通ったあとは、外に出します」

三雲は、かっこの下に、四つの語を縦に書いた。

「この四つは、何度やっても同じ結果になるように作ってあります。途中で落ちたら、落ちたところから、もう一度やってください。やり直しても壊れません。だから、一つ目の場所で押さえておくのは、決めた、という一点だけです。あとは押さえません」

「決めたあとに、取り止めが来たら」

「来ません。決めた側が通った時点で、取り止めは、その行を離脱できません。離脱できるのは、どちらか一方だけです」

三雲は、丸を付けた項を、線で消した。

「人数の項が立たないので、その山は出ません。出るのは、右上がりのほうだけです」

技術者は、紙の束の、いちばん上の面を指した。

「でも、これ、アムダールの——」

人の名前らしい音が、四つほど続いた。菅原には、その音が言葉として取れなかった。取れないまま、そのあとに「の法則」と付いたことだけが分かった。

「頭は打ちます」

三雲は、うなずいた。

「その法則は、頭を打つ話です。下がる話ではありません。下がるほうは、あとから足された項です。足したのが、いま消したところです」

技術者は、山の図を見た。

「じゃあ、この図は」

「その図は、正しいです。前提が違うだけです」

◇

奥に、年長の人間が一人いた。

菅原と同じくらいか、少し上に見えた。その人は、それまで一度も口を開いていなかった。紙も持っていなかった。

その人が、椅子を回して言った。

「三雲さん。要するに、桶ですよ」

三雲は、そちらを向いた。

「桶」

「桶です。板を何枚も立てて、輪で締めてある、あれです。水が入る量は、いちばん短い板のところで決まる。ほかの板をどれだけ伸ばしても、水は増えない。そういう話でしょう」

「そういう話です」

「だったら、うちが言っているのは、その短い板のことなんです。長いほうの板の話をされても、水は増えないので」

三雲は、少し間を置いた。

「その桶は、いくつありますか」

年長の人間は、答えなかった。

「一つだと思っておられるなら、そのとおりです。板は一枚しかありません。うちの設計では、桶が取引ごとに一つあります。取引の数だけ桶があって、桶ごとに、中に入っているのは二人です」

三雲は、消した項のあとに、丸を一つ描いた。

「桶が一つしかない場所は、この基盤にもあります。ありますが、そこではありません」

年長の人間は、腕を組んだ。組んで、何も言わなかった。

◇

別の一人が、机の向こうから言った。

「期限を拾いにいく処理のほうは、どうですか。あれは何本も同時に回します。同じ行に、二本同時に来ます」

「来ます」

「衝突します」

「衝突していいです」

三雲は、ホワイトボードの端に、短い横線を二本引いた。

「負けたほうは、その回を終わりにしてください。何もしないで終わってください。次の周期で、また来ます。期限は消えませんから、そのときも期限は過ぎています。過ぎていれば、また拾います」

「待たせなくていいんですか」

「待たせないでください。待つ仕掛けを入れると、待つ仕掛けが壊れたときの話が要ります」

「順番に取るように直したほうが、きれいだと思うんですが」

「きれいですが、二か所で順番を取ると、順番の取り方を決めないといけません。決めたものは、二十年後に読み直されます」

三雲は、そこで一度、間を置いた。

「衝突が多すぎて処理が終わらないなら、拾う範囲を分けてください。分けても正しさは変わりません。速さの調整です」

訊いた人間は、それ以上訊かなかった。

三雲は、マーカーを置いて、山の図の下に、線を一本引いた。

「そのかわり、測ってほしいところがあります」

技術者が、顔を上げた。

「参加行ごとの枠です。あちらは、本当に一行しかありません。その銀行から出る取引が全部、同じ一行を通ります。取り合う人数が、そのまま件数になります」

三雲は、年長の人間のほうを見た。

「桶が一つしかないのは、そこです」

「そこは、いま測ってないです」

「測ってください。あなたの持っている紙は、たぶんそこで当たります」

三雲は、紙の束を受け取って、二枚めくって、返した。

そして、四〇二へ戻るために、扉のほうを向いた。

◇

菅原は、廊下にいた。

三雲が出てくる前に、彼は歩き出した。

歩き出したので、行き合わなかった。

四〇二に戻って、議事録の続きを書いた。書きながら、あの部屋で何が決まったのかを考えた。決まったことは、たぶん一つもない。設計は前から決まっていて、決まっているとおりに動く、という話を、七人が受け取っただけである。

あの部屋で交わされた言葉のうち、菅原に意味の取れたものは、桶だけだった。板が短いところで水が決まる、というのは、支店でも聞く言い方である。窓口が一つ空いていないだけで、その日の全部が遅れる。

意味が取れたのは、その一つだけである。

菅原に分かったのは、ほかに二つだった。

一つは、あの若い技術者が持っていた紙が、間違っていなかったということ。三雲は一度も、その紙が違うとは言わなかった。

もう一つは、三雲が、その紙を二枚しかめくらなかったということである。

法則の名前は、書き留めなかった。書き留めなかったので、あとで思い出そうとしたときに、四つの音のうち、はじめの二つしか出てこなかった。

アム、という音である。

そのあとが出てこない。出てこないまま、彼は議事録を最後まで書いた。

◇

十一月の後半、部屋の帰りが遅くなった。

理由は、日程である。

機能が三つ増えて、そのぶんの工数が乗った。乗ったぶんを、どこかで削らなければならない。削れるのは、期限の決まっていないものだけである。期限が決まっていないものは、この基盤では二つしかなかった。標準決済の例外の細部と、継続収納である。

その二つが、後ろへ回った。

回ったことは、会議で決まったのではない。日程の表が更新されて、二つの参加行の日付が、それぞれ二か月ずつ後ろになっていた。それだけである。

菅原は、その表を見て、事務局に訊いた。

「これ、いつ決まりましたか」

「決まった、というか、工数の都合で」

「はい」

「戻すとしたら、どこかを削らないといけないので」

「わかりました」

彼は、それ以上訊かなかった。

◇

十二月に入って、部屋の夜が長くなった。

二十二時を過ぎると、フロアの照明が半分落ちる。落ちるのは廊下だけで、部屋の中は落ちない。だから、扉のガラスの向こうだけが暗くなる。

その時間になると、音が減る。

空調の音が残る。窓の外は、向かいのビルの壁である。壁の窓にも、いくつか明かりが残っている。二十三時を過ぎると、それも消えていく。

廊下の自動販売機は、一時間に何度か鳴る。冷却の機械が回る音である。低い音が二十秒ほど続いて、止まる。昼は、人の声で聞こえない。

菅原は、その時間に、議事録を書いていた。

議事録は、彼の仕事のうち、いちばん確実に終わるものだった。会議があって、話されたことがあって、それを書く。三時間の会議なら、二時間で書ける。書けば終わる。

終わるものが、彼には、それしかなかった。

18 クリスマス

十二月二十四日は、疎通試験の日だった。

日程がそう決まったのは、十一月である。決めたのは事務局で、理由は、参加行の側の要員が確保できるのがその週しかなかったからだった。

二十四日が何の日か、その場で言った者は、一人もいなかった。

◇

朝の八時から、部屋に人がいた。

参加行の八行と、共同センターと、ベンダーの側の三十人ほどが、それぞれの場所から入っている。この部屋にいるのは十一人だった。

前の日の夕方に、間仕切りは全部、端へ寄せてあった。四〇一と四〇二を通して、いちばん長いところで十八メートルある。その端から端まで、机を四列に組み直した。列ごとに紙が貼ってある。「参加行」「基盤」「センター」「記録」。

菅原は、「参加行」の列にいた。

列の上に、電話が四台置いてある。前の日に、事務局が別の階から借りてきたものである。四台とも、同じ機種ではなかった。

八時十分に、四〇三から、人が入ってきた。

十四人である。入ってきて、「基盤」の列の後ろに、椅子だけ並べて座った。机はない。膝の上に紙を載せて書く。そういう座り方を、彼らは慣れた手つきでやった。

菅原は、その十四人のうち、名前を知っているのが二人しかいないことに気づいた。

九時に、戸畑が、部屋の前で手順を読み上げた。

読み上げたのは、その日の巡回の順番と、止まったときに誰へ言うかの経路である。四つの列のあいだで、紙をどう渡すかまで決めてあった。

「口で言わないでください。紙で渡してください」

戸畑は、そう言った。

「口で言うと、あとで、誰が誰に言ったかが残りません。今日は、残らないものは、起きなかったことになります」

十時に、一巡目が始まった。

十時四十分に、一行が落ちた。落ちたのは、通信の設定の問題だった。直すのに一時間半かかった。

一時間半のあいだ、他の七行は、待った。

待っているあいだ、七行のうち三行から、電話が来た。三行とも、同じことを訊いた。うちが悪いのか、と訊いた。

菅原は、三行とも、悪くないと答えた。

答えながら、紙に書いた。三行、同じ質問。時刻。書いた紙を、「記録」の列に置いた。置くと、事務局の人間がそれを取って、番号を振った。

その日、「記録」の列に置かれた紙は、六十一枚になる。

十三時に、二巡目。

十四時二十分に、別の銀行の応答が返らなくなった。原因は、その銀行の側の停止時間帯の設定である。設定表と、実際の稼働時間が、四十分ずれていた。

ずれていることに気づくまでに、二十五分かかった。

二十五分のうち、二十分は、基盤の側を疑っていた。四〇三から来た十四人のうち、四人が席を立って、「基盤」の列に寄っていた。四人とも、同じ画面を、別々の端末で見ていた。

そのあいだ、菅原は、その参加行に三回電話をかけた。

三回目に、相手の担当者が、隣の部署へ内線をかけて、そちらで確認してから戻ってきた。戻ってきて言ったのが、稼働時間の話である。

「すみません、うちの表、去年の値でした」

菅原は、それを紙に書いて、「基盤」の列へ持っていった。

梶が、その紙を読んだ。

「去年の値、って」

梶は、そこで言葉を止めた。

言っても意味がない、という止め方だった。梶は、この一年で、その止め方を覚えたらしかった。

◇

十七時に、三巡目。

十九時に、四巡目。

◇

十五時から十七時までの二時間は、待ちだった。

待っているあいだ、部屋の人間は、それぞれのことをしていた。

梶は、ログを流していた。流しながら、三十分に一度、席を立って、給湯コーナーへ行った。行って、何も飲まずに戻ってくることが二度あった。

皆川は、資料を作っていた。日銀への報告の資料である。皆川の資料は、余白が広い。一枚に載せる文字が少なく、行間が広く、図が大きい。誰が見ても読めるように作ってある。この日、皆川はその資料を、九枚作った。

橘は、電話をしていた。会員金庫の側との調整である。相手の金庫の名前を、彼女は一度も確認しなかった。すべて記憶で話していた。

戸畑は、席にいなかった。別の階の会議室にいた。参加行の一行と、二人で話していたらしい。

菅原は、その二時間で、四行に電話をかけた。

かけて、確認したのは、翌日の体制である。二十五日に、誰が出るか。出ないなら、緊急の連絡先はどこか。二十六日から、通常に戻れるか。

四行のうち、二行が、二十五日は休みだと言った。

「うちは、二十五日は当番だけです」

「当番の方は、この試験の内容はご存じですか」

「……たぶん、知らないです」

「わかりました」

菅原は、それを書いて、戸畑に渡した。

十六時四十分に、事務局が、菓子パンを二十個買ってきた。

段ボールごと、島の真ん中に置かれた。

誰も、最初の一つを取らなかった。十七時を過ぎて、梶が一つ取ってから、そのあと、順に減った。

二十時に、事務局の課長が、「なぎ、行きますか」と言った。

言ったが、誰も返事をしなかった。

課長は、それ以上言わなかった。

二十時十分に、四〇三のほうから、人が減り始めた。

減ったのは、その日のうちに帰れる人間である。終電のある人間から順に帰る。残るのは、帰らないと決めた人間だった。

二十時四十分に、戸畑が戻ってきて、四〇二の側の椅子に座った。座って、二十分、何もしなかった。

菅原は、その二十分を見ていた。

見ていて、この人はいま、次に何を言うかを決めているのだろう、と思った。思っただけで、確かめなかった。

二十一時に、戸畑が立って、五巡目の手順を読み上げた。

読み上げた内容は、朝と同じである。同じものを、同じ速さで読んだ。

「口で言わないでください。紙で渡してください」

二十一時に、五巡目が始まった。

◇

二十二時ごろ、戸畑が、菅原の席の横に立った。

紙コップを二つ持っていた。

「菅原さん」

「はい」

一つを、机に置いた。

「すみません」

「余ったんです。沸かしすぎたので」

戸畑は、そう言って、隣の空いた椅子に座った。

座って、しばらく、何も言わなかった。

「菅原さんは、支店が長かったんですか」

「十年です。三か店です」

「十年」

戸畑は、うなずいた。

「私は、二十七年、同じ会社です」

「そうなんですか」

「入ったときは、機械が一台の会社でした。いまは、名前が三回変わっています」

戸畑は、紙コップを両手で持っていた。

「最初の五年は、自分で作っていました」

「作る、というのは」

「中身のほうです。いまは、作りません」

「いつからですか」

「十一年前です」

戸畑は、そう言った。

「十一年やらないと、手が忘れます。読むのは読めます。読めるので、誰も気づかないんですが、自分では分かります」

菅原は、返事に困った。

「うちの会社は、一つのものを単体で作るのなら、たぶん、どこにも負けないです」

戸畑は、そう続けた。

「ただ、大勢で、同じ土台の上に載せる、というのを、やったことがないんです。二十七年、一度もないです」

「一度もですか」

「ないです。この案件が、初めてです」

「初めて」

「初めてです」

戸畑は、紙コップを机に置いた。

「それを、あまり、言わないようにしています」

菅原は、何と返せばいいのか、分からなかった。

「言うと、どうなるんですか」

「決めるときに、聞いてもらえなくなります」

戸畑は、そう答えた。

「決めるのは、作れなくてもできます。ただ、作れる人が決めるのと、作れない人が決めるのとでは、決めたあとに起きることが違うんです」

「違いますか」

「違います。作れる人は、無理な決め方をしません。私は、たまにします」

戸畑は、そこで、少しだけ間を置いた。

「したときに、私には分からないんですよ。梶さんが顔に出すので、それで分かります」

菅原は、そこで、笑いそうになった。

笑わなかったのは、戸畑が笑っていなかったからである。

戸畑は、立ち上がった。

「すみません、こんな話を」

「いえ」

「二十二時を過ぎると、こういう話をします。毎回です」

そう言って、自分の席へ戻った。

紙コップは、二つとも、朝まで机にあった。

◇

二十三時四十分。

部屋に残っていたのは、四人だった。

戸畑と、梶と、三雲と、菅原。

梶は、端末の前で、ログを流していた。戸畑は、電話で、別の拠点と話している。菅原は、参加行の側との連絡係をしていた。四行に、それぞれ三回ずつ電話をかけた。

結果は、翌朝でよかった。翌朝でよかったが、翌朝までに揃えておくと、翌朝が楽になる。それだけの理由で、四人が残っていた。

二十三時五十五分に、菅原は、コーヒーを取りに給湯コーナーへ行った。

ケトルの湯が、なくなっていた。

水を入れて、スイッチを押した。

沸くまで、しばらくかかる。

彼は、そこで、部屋のほうを向いた。

三雲は、窓側の島にいた。

画面を見ていた。

眼鏡を、外していた。

机の上に、畳んで置いてあった。左手の指の腹で、目のあいだを押さえていた。押さえて、離して、また画面を見ていた。

廊下で、自動販売機が鳴った。

低い音が、二十秒ほど続いて、止まった。

菅原は、その音を聞いていた。

音が止まってから、ケトルのスイッチが上がった。

彼は、湯を注いだ。注いで、自分の席に戻った。

三雲は、二十三時五十八分に、眼鏡をかけ直した。

かけ直してから、菅原のほうを見て、言った。

「四行目、返ってきましたか」

「まだです」

「わかりました」

それだけだった。

◇

〇時二十分に、四行目が返ってきた。

〇時四十分に、その日の試験が終わった。

四人で、部屋を出た。エレベーターで、誰も何も言わなかった。梶が「メリークリスマス」と言って、誰も返さなかった。

菅原は、地下鉄の最終に間に合った。

寮に着いたのは、二時前だった。

風呂に湯を張らずに、シャワーだけ浴びて、寝た。

翌朝、九時に部屋に入った。

三雲は、もう来ていた。

眼鏡をかけていた。

菅原は、「おはようございます」と言った。三雲も「おはようございます」と言った。

◇

二十五日の午前は、前の日の結果の整理だった。

五巡のうち、通ったのが三巡。二巡は、途中で止まっている。止まった原因は、二つとも、参加行の側の設定である。

戸畑が、その二つを整理して、紙にした。

紙の書き方は、いつもどおりだった。事実だけを並べて、原因の欄には、何が起きたかを書き、誰がやったかは書かない。

菅原は、その紙を、四行に送った。

送ってから、電話を四本かけた。紙だけ送ると、読まれないことがある。読まれないと、同じことが次にも起きる。

四本目の電話で、C行の担当者が言った。

「これ、うちの設定のミスですよね」

「そう書いてはいないです」

「書いてないですけど、読めば分かります」

「はい」

「すみませんでした」

「いえ」

菅原は、そう答えた。

謝られる筋合いではなかったし、謝らせるために電話をかけたのでもなかった。ただ、電話をかけると、たいてい、誰かが謝る。

十二時に、その日の作業は終わった。

午後は、半分の人間が帰った。前の晩のことは、二人とも、何も言わなかった。

19 十七分

年が明けて、二月。

実証実験が始まった。

参加行のうち五行が、限定した口座と限定した金額で、実際に資金を動かす。件数は一日に数百件である。少ない。少ないが、実際の勘定系が動く。

始まるまでに、十一週かかった。

疎通試験が終わったのが十二月の末である。そこから、参加行ごとの単体の確認、五行を繋いだ確認、限度額と口座の登録、行内の稟議。稟議は、五行それぞれの中で回る。回る速さが銀行によって違う。いちばん遅い参加行に、全体が揃う。

菅原の仕事は、その十一週のあいだ、揃っていない参加行に電話をかけることだった。

一月に、参加行への照会を、三十四本出した。三十四本のうち、期限までに返ってきたのが十九本である。返ってこない十五本に電話をかけて、十一本を潰した。残りの四本は、相手行の中で、まだ誰の仕事か決まっていなかった。

決まっていないものは、催促しても進まない。

菅原は、四本については、担当者ではなく、その上の課長に電話をかけた。

かけていいものかどうかを、彼は三日迷った。迷って、かけた。四本とも、その週のうちに返ってきた。

そのやり方を、彼は誰にも教わっていない。支店で、期日の来る案件について、同じことをしていた。

◇

二月の第一週に、四〇三の側で、人が入れ替わった。

菅原が知ったのは、名簿の差し替えである。事務局が、四〇二の壁の名簿を新しくした。新しい紙には、見たことのない名前が六つあった。前の紙にあった名前のうち、四つが消えていた。

梶に訊いた。

「向こう、替わったんですか」

「替わりました。四人、抜けました」

「抜けたというのは」

梶は、少し考えてから、言い方を選んだ。

「別の案件です」

そう言って、画面に戻った。

その週の金曜、菅原は、四〇三の前を通ったときに、壁際の段ボールが減っているのを見た。毛布の段ボールである。

減った理由は、訊かなかった。

◇

三日目の午後に、止まった。

◇

十四時三十二分。

標準決済の取引が、十九件、進まなくなった。

決定は、済んでいる。基盤の中では、実施の指示が確定している。番号が振られていて、ログにも残っている。

払う側の銀行が、実施を確認していない。

正確には、確認の応答が返ってこない。

十四時三十四分に、梶が気づいた。

「止まってます」

「どこがです」

「決まってるのに、実施が上がってこないです。十九件」

戸畑が、席を立った。

「どの行ですか」

「三行にまたがってます。C行が十一件、E行が五件、F行が三件」

「三行、同時に?」

「同時です」

戸畑の手が、止まった。

三行同時に落ちるということは、その三行の問題ではない可能性が高い。共通するものが、どこかにある。

◇

十四時四十分に、菅原の電話が鳴った。

C行の担当者だった。

「すみません、こちら、応答を返しているはずなんですが」

「返っていない、と出ています」

「うちのログでは、返してます。十四時三十二分四十秒に、十一件」

菅原は、それを書いた。

書いて、梶に渡した。梶が見て、首を振った。

「こっちには来てないです」

十四時四十五分に、E行から電話。

「うちも返しています」

十四時五十分に、F行から電話。

「返しています」

菅原は、三行とも同じことを言っている、と紙に書いて、戸畑に渡した。

◇

三雲は、ホワイトボードの前にいた。

状態の遷移の図の前である。

動かなかった。

十四時三十二分から、十四時四十九分まで、彼女はそこに立っていた。図を見ていた。腕を組むでもなく、書き込むでもなく、ただ立っていた。

菅原は、前にも同じ立ち方を見たことがあった。

十四時四十九分に、彼女は言った。

「これは、決まっているのに実施されていない、という状態です」

戸畑が、振り向いた。

「それは、そのとおりですが」

「その状態には、名前があります。設計に入っています。決定はあるが実施が遅延している、という状態です。想定して作ってあります」

「では、なぜ止まって見えるんですか」

「止まって見えるのが正しいからです」

三雲は、そう言った。

「この状態は、誰かが持っていなければなりません。基盤が持っているのか、参加行が持っているのか。いま、それが決まっていません。決まっていないので、両方が『相手が持っている』と思っています」

「持っているというのは」

「次に動かす責任です」

戸畑は、しばらく黙った。

それから言った。

「実装上は、どちらでも動きます」

「動きます。だから、決めていませんでした」

◇

十四時四十九分。

原因が見つかった。

見つけたのは梶である。共通するものは、三行の側ではなく、通知を配る側にあった。応答を受け取る口の、その手前で、キューが一つ詰まっていた。詰まった理由は、その二日前に入れた設定の変更である。件数の少ない状態でしか出ない詰まり方だった。

十四時四十九分に、詰まりを抜いた。

十九件が、一気に流れた。

止まっていたのは、十七分である。

◇

その日の夕方、報告書を書くことになった。

書いたのは戸畑だった。菅原は、電話の記録を出した。三行が、それぞれ何時何分に何と言ったか。

十七分のあいだ、資金は動いていない。決定は確定していたので、あとから流れた。実害はなかった。

ただ、報告書の「責任の所在」の欄が、埋まらなかった。

基盤の側は、決定まで済ませている。参加行の側は、応答を返している。詰まったのは配る側で、そこは基盤の一部だが、設定を入れたのはベンダーで、設定を承認したのは前の週の会議である。

戸畑は、その欄に、事実だけを並べて書いた。

「誰が悪いか、書かないんですか」

梶が訊いた。

「誰も悪くないからだ」

戸畑は、そう答えた。

「誰も悪くないときに、誰かを書くと、次から、誰も報告しなくなる」

◇

その報告書は、九枚になった。

九枚のうち、五枚が経過である。時刻と、そのとき誰が何をしたか。菅原の電話の記録が、そのうち二枚を占めた。

書き終えたのが二十一時で、そこから、四〇三の側の確認に一時間半かかった。

確認で直ったのは、二か所である。一つは、詰まりの位置の書き方。もう一つは、「復旧」という語だった。

「復旧、というのは使わないほうがいいです」

四〇三から来た三十代の技術者が、そう言った。

「壊れてないので。詰まっていたものが流れただけです。復旧と書くと、壊れたことになります」

「では、なんと書きますか」

「滞留が解消、です」

戸畑が、それを聞いて、書き直した。

菅原は、その一語を、ノートに書いた。

翌週の説明会で、参加行の一人が、その語について質問した。質問の中身は、壊れたのか壊れなかったのか、である。

戸畑が「壊れていません」と答えた。

答えを聞いて、その担当者は「わかりました」と言った。

菅原は、一語を直すのに一時間半かけた意味を、そこで理解した。

◇

菅原は、その日、二十二時まで残った。

彼が見ていた十七分と、三雲が見ていた十七分は、まったく違うものだった。

菅原が見ていたのは、電話である。三行の担当者の声と、その声が三回目にはどう変わったか。C行の担当者は、二回目の電話のときに、「こちらのログをお送りしましょうか」と言った。声が硬くなっていた。自分の行が疑われている、と思ったのである。

三雲が見ていたのは、図だった。

二人は、同じ十七分を、まったく違う場所で見ていた。

その二つが、報告書の上では同じ一行になった。

「14:32 事象発生、14:49 復旧」

◇

翌週の火曜、その報告を、参加行向けに説明することになった。

説明の場は、この部屋ではなく、六階の会議室だった。参加行の八行から、十四人来た。

説明したのは戸畑である。菅原は、その隣に座った。

戸畑の説明は、十分で終わった。

質疑が、五十分あった。

最初の質問は、E行からだった。

「うちのログでは、返しています。それが届いていないというのは、どこで消えたんですか」

戸畑が答えた。

「消えてはいません。受け取ってから、配る手前で滞留していました」

「滞留していたものは、どうなりましたか」

「全部流れました。欠落はありません」

「欠落がないことは、どうやって確認されましたか」

「件数と、識別子の突合です。十九件、すべて対応が取れています」

E行の担当者は、うなずいた。

次の質問は、C行だった。

「あの十七分のあいだ、うちの担当者は、うちのシステムが悪いと思っていました」

「はい」

「そう思わせない方法は、ありますか」

戸畑が、少し黙った。

答えたのは、皆川だった。

「いま止まっているものが、どこで止まっているか。それが、参加行から見えるようにする、ということだと思います」

「見えますか」

「いまは、見えません」

皆川は、はっきり、そう言った。

「照会すれば、その取引がどの状態にあるかは分かります。ただ、その状態の意味——決まってはいるが実施が上がっていない、という意味を、参加行の運用担当が読めるかというと、読めません。用語が、外に出ていないからです」

「では、どうしますか」

「用語を、外に出します。表示の言葉を作ります」

菅原は、そのやりとりを、書き取った。

書き取りながら、その仕事が、たぶん自分に来るだろう、と思った。

実際、来た。

20 なぎ

実証実験が終わった週の金曜に、二度目の「なぎ」があった。

言い出したのは、また橘である。

「行きましょう。行かないと、なんか、終わらないので」

十九時に、八人で出た。

根岸は、来なかった。

「上に説明に行かれてます」と、事務局が言った。どこの上か、誰も訊かなかった。

◇

小上がりが二つ、埋まった。

障害の話は、誰もしなかった。

不思議なことに、しなかった。あれだけの三日間の直後で、報告書もまだ回っている最中である。それでも、誰も切り出さなかった。

芝原が、出向元の愚痴を言った。

「うちの本部、こっちの話、何も分かってないんですよ。四半期に一回、報告に行くんですけどね、必ず『それで、うちのメリットは』って訊かれる」

「なんて答えるんですか」

「答えられないですよ。この基盤、うちの銀行にとって、たぶん短期的にはメリットないんで」

「言うんですか、それ」

「言わないです」

芝原は笑った。

梶が、言った。

「言わないんですね」

「言わないですよ。言ったら、来年、僕がいなくなる」

「じゃあ、何て言われるんですか」

「中長期的には、と言います」

「中長期」

「便利な言葉です。何年ですかと訊かれたことは、一回もないです」

芝原は、そう言って、また笑った。笑い方が、少しだけ雑になっていた。

皆川は、その席で、制度の話を一切しなかった。

普段の皆川は、丁寧に、正確に話す。会議では、必ず前提を置いてから結論を言う。その日は、それをしなかった。

麻婆豆腐の話をしていた。

大谷内の作る麻婆豆腐が、思っていたより辛くて、それが良い、という話である。皆川は、そのことを、三分ほど話した。三分話して、そのあとは、ほとんど喋らなかった。

皆川が帰ったあと、芝原が、猪口を置いて言った。

「この案件、いま何人でしたっけ」

梶が答えた。

「全部でですか。千二百です。先月の数字ですけど」

「千二百」

「稼働の前に、五千まで行くって言われてます」

芝原が、少し黙った。

「五千人が同時に触るものって、僕、見たことないですよ」

「僕もないです」

梶は、そう言った。

「戸畑さんもないです。うちの会社で、ある人はいないと思います」

「じゃあ、誰もないんですね」

「誰もないです」

芝原は、笑わなかった。笑わずに、猪口を持って、飲んだ。

菅原は、その数字を、二回目に聞いた。一回目は、二月の説明会の四十枚目である。あのときは、大きすぎて何とも思わなかった。

いまは、少し違って聞こえた。

違って聞こえた理由は、彼が、その千二百人のうちの一人だったからである。一人ぶんの仕事の重さを、彼は知っている。それが千二百あると考えると、重さの合計ではなく、連絡の本数のほうが先に頭に浮かんだ。

千二百人が、一日に一本ずつ誰かに確認をすると、千二百本になる。

そこまで考えて、彼はやめた。

◇

橘が、会員金庫の名前を、順番に言い始めた。

「北から言いますよ。……ほら、覚えてるでしょう」

「本当に全部ですか」

「全部です。ただ、合併したところが二つあるので、そこは新しい名前も覚えてます」

古畑が、それを聞きながら、酒を飲んでいた。

菅原は、その席で、あまり喋らなかった。

◇

二十一時ごろ、大谷内が、菅原の前に皿を置いた。

「今日は、いつもより静かね」

「そうですか」

「あなたたち、なんかあったでしょう」

菅原は、少し驚いた。

「わかりますか」

「わかんないわよ。中身は一つも分かんない。この前も、あなたたち、なんとかレーンがどうこうって言ってたけど、あれ、何の話なの」

「決済の、種類です」

「ふうん」

大谷内は、それで終わりにした。

訊かなかった。

「昔もね、信託銀行の食堂にいたのよ。三十年。あそこの人たちも、よく喋ってた。何言ってるか一つも分かんないの。分かんないけど、声の高さで、うまくいってるかどうかは分かる」

「今日は」

「今日は、低いわね」

大谷内は、そう言って、次の皿を作りに行った。

◇

二十一時半ごろ、席が一つ、崩れた。

梶が、小上がりから下りて、カウンターの端に座った。菅原が、そのあと、隣に座った。

梶は、日本酒を飲んでいた。

「菅原さん」

「はい」

「僕、この案件、たぶん最後までいますよ」

「そうですか」

「うちの会社、こういうの、途中で人を替えるんです。二年で替える。でも、僕は替わらないと思います」

「なんでですか」

「替えたら、誰も分からなくなるからです」

梶は、そう言って、猪口を置いた。

「戸畑さんが、ずっと言ってるんですよ。単体では作れる、って。あれ、謝ってるんです。うちの会社は、これを作れるだけの実績はある。ただ、七つ同時に、同じ土台の上に載せたことはない。だから、載せてみるまで分からないところが、必ず残る」

「そうなんですか」

「そうです。あの人、それを隠さないんです。隠さないから、僕は残ります」

菅原は、うなずいた。

「菅原さんは、どうなんですか」

「私は、三年です」

「三年経ったら、どうなるんですか」

「分からないです」

「銀行って、そういうもんなんですか」

「そういうものです」

梶は、少し黙って、言った。

「僕、それ、無理です」

それが、その夜の、梶の一言だった。二十二時半に、店を出た。

菅原は、その夜、根岸がどこにいたのかを、知らなかった。

その後も、知らないままである。

21 当事者ですから

三月の第二週、皆川と二人になった。

十九時過ぎの部屋である。ほかに人がいなかった。皆川は資料を作っていて、菅原は参加行への照会の回答を待っていた。

皆川が、顔を上げて、言った。

「菅原さん。この前の、C行の担当の方のお話ですが」

「はい」

「二回目の電話で、ログを送りましょうか、とおっしゃったという」

「言われました」

「あれは、菅原さんが書かれた記録に残っていましたね。私、あの一行が、いちばん役に立ちました」

「そうですか」

「はい。あれがあると、参加行の側が、あの十七分をどう見ていたかが分かります。数字だけの記録には残らないものです」

菅原は、なんと返せばいいかわからず、「はい」とだけ言った。

皆川は、資料に目を戻して、それから、言った。

「菅原さんは、当事者ですから」

菅原は、手を止めた。

皆川は、続けた。

「私も、芝原さんも、橘さんも、ここが終われば戻ります。戻る場所がありますし、戻ったあとは、この基盤を使う側ではなく、見る側になります。日銀は参加行ではありませんから」

「はい」

「菅原さんは、戻ったあと、これを使う側になります。窓口で説明する側です。当事者です」

皆川は、そう言った。

言い方は、丁寧だった。声にも表情にも、悪意がない。

褒めていた。

菅原は、返事をしなかった。

しばらくして、訊いた。

「皆川さんは、戻られたら、何をされるんですか」

「調査です。この基盤が、どう使われているかを見ます」

「見る側ですか」

「見る側です」

皆川は、そう言った。

「見る側は、間違えても、誰にも謝りません。謝る場面が、ないんです」

「そういうものですか」

「そういうものです。悪いことだとは思っていません。ただ、そうです」

「当事者のほうが、いいですか」

菅原は、そう訊いた。

皆川は、少し考えてから、答えた。

「いいかどうかは、分かりません。ただ、代わりがいません」

「はい」

「見る側は、代わりがいます。私が抜けても、来年、別の者が来ます。菅原さんの窓口には、菅原さんの銀行しか来ません」

菅原は、うなずいた。

うなずいてから、自分が何にうなずいたのか、よく分からなくなった。

「失礼しました。余計なことを申し上げました」

皆川は、そう言って、資料に戻った。

菅原は、そのまま二十分ほど座っていた。

言われたことは、正しかった。事実として、まったく正しい。

正しいのだが、その言葉を聞いたときに、彼の中で最初に立ち上がったのは、汐入銀行が、この基盤を三年後に使えているかどうか、という疑問だった。

第一次の参加行に入ったのは、頭取が地銀協の会長だった年に、その話を受けたからである。翌年度には会長ではなくなる。それでも降りられない。輪番で始めたことを、輪番では終われない。

そのことを、彼は支店長からも、築館からも、一度も説明されていない。

ただ、そうだろうと思っている。

思っているが、口に出したことはない。

◇

その春から、菅原は、土曜に歩くようになった。

きっかけは、なかった。

三月のある土曜、掃除が四十分で終わった。コインランドリーへ行くには早い時間で、部屋にいると何もすることがない。それで、外へ出た。

出て、駅とは反対の方向へ歩いた。

住宅の並ぶ道が続いて、途中から、川に出た。

川は、大きかった。土手があって、その上に道がある。道を、自転車と、走っている人が通る。土手の下は、野球のグラウンドが四面あって、そのうちの二面で、子どもが試合をしていた。

菅原は、土手の道を、一時間歩いた。

一時間歩いて、引き返した。

翌週も、歩いた。

その次の週は、川の反対側へ渡ってみた。橋を渡ると、川の見え方が変わる。同じ川なのに、こちら側からは、向こう岸の建物が違って見える。

途中に、商店街があった。

八百屋と、魚屋と、豆腐屋が、まだ一軒ずつ残っている。魚屋の前で、彼は一度、足を止めた。

並んでいたのは、島でも獲れる魚だった。値段が、島の倍だった。

「兄さん、それ、煮るの? 焼くの?」

店の男が、そう訊いた。

「焼きます」

「ほんなら、こっちのほうが脂乗っとるよ」

菅原は、それを一尾買った。

買って、寮に持って帰って、それから、寮の台所に焼く道具がないことに気づいた。魚焼きの網も、グリルもない。備え付けは、電熱の一口だけである。

彼は、フライパンで焼いた。

うまく焼けなかった。皮が剥がれて、身が崩れた。食べられないことはなかった。

その日から、彼は魚屋の前を通らなくなった。

理由は、店の男が顔を覚えていて、また声をかけてくるからである。二度目に「どうやった」と訊かれて、「うまかったです」と答えた。嘘ではないが、本当でもない。

三度目からは、道を一本変えた。

◇

そのうち、電車で二駅乗って、そこから歩いて帰る、ということをするようになった。

歩くと、東京が、少しずつ形になった。

彼は、地図を見ない。地図を見ないので、覚え方が支店の渉外と同じになる。この道を行くと、あの角に出る。あの角を左に行くと、線路にぶつかる。線路に沿って行くと、駅が出る。

半年ほどで、寮から五キロぐらいの範囲が、頭に入った。

それより外は、分からないままだった。

丸の内も、大手町も、あのビルの周りの三百メートルしか知らない。

行く用がないからである。

22 ピアノ

大場という若手が、ベースを弾くという話から始まった。

四月に、部屋の人間が二人増えていた。参加行が二行増えたためである。増えた二行のうち一行から、若い担当者が来た。入って四年目だという。名前を大場といった。

歓迎会はなかった。かわりに、金曜の夕方に、部屋で菓子を食べる時間が三十分ほどあった。

菓子は、事務局が買ってきたものだった。個包装の煎餅と、小さいチョコレートが二種類。皿はない。袋のまま、島の真ん中に置いてある。

立って食べる者と、席へ戻って食べる者がいた。

その三十分に、雑談が起きた。

梶が、大場に、休みは何をしているのかと訊いた。大場は、バンドをやっていると答えた。ベースだという。

「バンドやってる人、初めて見ました」

「そんなことないでしょう」

「いや、この部屋、いないでしょう。楽器やってる人」

橘が言った。

「私、子どものころエレクトーンやってました」

「エレクトーンはピアノですか」

「違うと思います」

「大場さん、どこで弾くんですか」

梶が訊いた。

「小さいところです。月に一回か、二回」

「お客さん、来るんですか」

「来ないです。だいたい、同じ日に出る別のバンドの人と、その友達です」

「それ、お客さんですか」

「お客さんじゃないですね」

大場は、そう言って、笑った。

橘が訊いた。

「何年やってるんですか」

「高校からなので、十年ぐらいです」

「十年」

「続いてるだけです」

「ベースって、重いんですか」

梶が訊いた。

「重いです。五キロぐらいあります」

「毎回、持って行くんですか」

「持って行きます。電車です」

「混んでるときは」

「乗らないです。一本、待ちます」

大場は、そう言った。

古畑が言った。

「三雲さんは?」

三雲は、菓子の袋を持ったまま、言った。

「ピアノをやっていました」

梶が、食いついた。

「いつまでですか」

「高校まで」

「じゃあ、けっこう弾けるんですね」

「いまは弾いていません」

「どのくらいのレベルだったんですか」

三雲は、少し考えて、言った。

「学生の大会に出たことがあります」

「大会って、コンクールですか」

「はい」

「入賞とか」

「名前は残っています」

それだけ言って、彼女は菓子の袋を置いた。

梶は、なおも訊こうとして、戸畑に呼ばれて行った。

大場が、菓子を取りながら、言った。

「コンクールって、何を弾くんですか」

「課題曲と、自由曲です」

三雲は、そう答えた。

「自由曲は、自分で選ぶんですか」

「先生が選びます」

「選ばせてくれないんですか」

「選ばせてもらえるのは、上の人です」

大場は、「へえ」と言った。

雑談は、別の話題に移った。

◇

菅原は、その会話を、横で聞いていた。

「名前は残っています」というのが、どのくらいのことなのか、彼にはわからなかった。

コンクールに出る、というのは、ピアノを習っている子どもがみんなするものなのか、そうでないのか。名前が残る、というのは、順位が付いたということなのか、出場者の一覧に載ったということなのか。

そんなに上手いんですか、と訊けば、たぶん、答えは返ってきた。

訊かなかった。

訊く相手を選ぶ習慣が、彼にはある。見栄ではない。誰に何を訊いてよいかを、彼はいつも先に考える。考えて、この人には訊いてよい、と判断してから訊く。判断がつかないときは、訊かない。

判断がつかなかった。

話は流れた。

彼女がピアノを弾くのを、菅原は、そのあとも一度も聞いていない。

◇

その日の帰り、電車のなかで、彼は一度だけ、大場のバンドのことを考えた。

大場は、二十六である。バンドをやっていて、休みの日に人前で弾く。梶が「初めて見ました」と言い、橘がエレクトーンの話をし、三雲がコンクールの話をした。

菅原には、出すものが一つもなかった。

出すものがない、ということに、彼はそのとき初めて気がついた。

島にいたころ、彼は何をしていたか。網を引いていた。箱を運んでいた。それは、休みの日にやることではない。

大学の四年間は、何をしていたか。思い出そうとして、あまり出てこなかった。授業と、下宿と、飲み会と、就職活動である。

銀行に入ってからの十年は、はっきり思い出せる。ただ、それは全部、仕事だった。

彼は、そのことを、悔やまなかった。

悔やむ形になっていない。ただ、雑談の三十分に出せるものが一つもない、という事実だけが、そのまま残った。

翌週の金曜の菓子の時間に、彼は、島の魚の話をした。

「うちの島だと、この時期はイカです」

「イカ」

橘が訊いた。

「夜に、船が出ます。灯りを点けて出るので、沖に灯りが並びます。集落から、それが見えます」

「きれいですか」

「きれいというか、あれは、仕事の灯りなので」

「でも、見え方はきれいでしょう」

「まあ、きれいです」

菅原は、そう答えた。

「食べてみたいです」

橘が、そう言った。

「送りましょうか」

「いいんですか」

「送れます。ただ、島から出すと、時間がかかります。着くころには、こちらで買うのと、たぶん変わらないです」

「じゃあ、いいです」

橘は、笑って、そう言った。

それで終わった。

出したものが、一つあった。

菅原は、そのことに、気づかなかった。

23 古畑が降りる

五月の連休明けに、古畑が抜けた。

決まったのは四月の終わりで、菅原が知ったのは五月七日である。古畑本人から聞いた。給湯コーナーだった。

「僕、今月末で戻ります」

「戻る、というと」

「本店です。企画部」

「三年って、聞いてましたけど」

「うちの銀行、そういうの、あんまり厳密じゃないんですよ」

古畑は、笑った。

「本店の企画に、人が足りないらしいです。それで、こっちは一次の参加をいったん見送るので、まあ、いいだろうと」

「見送る」

「一次では入らないです。二次から検討、ということになりました」

菅原は、それを、そのとき初めて聞いた。

「先週の会議で、そういう話は」

「出てないと思います。うちの本部が決めたのが、先月の頭なので」

古畑は、湯を注いだ。

「菅原さん、うちと同じ立場でしょう。地銀と第二地銀で、規模は違いますけど。この部屋で、たぶん、僕らだけなんですよ。終わったあとに、これを使わされる側なのは」

「そうですね」

「メガの人と、日銀の人と、中金の人は、みんな戻る場所があります。ベンダーさんは、次の案件があります。僕らだけです」

菅原は、うなずいた。

「まあ、僕は逃げます」

古畑は、そう言って、笑った。

笑ったが、目は笑っていなかった。

◇

送別はなかった。

五月三十日が最終日で、その日は通常どおりの金曜だった。会議が二つあり、古畑はその両方に出た。

十八時に、古畑は席を片づけた。

ロッカーから私物を出した。折りたたみ傘と、上着と、常備薬の袋と、マグカップ。マグカップは、鳥の絵のやつだった。

「これ、古畑さんのだったんですか」

「違います。前の会議体の人のです。使ってました」

古畑は、それを、給湯コーナーに戻した。

十八時二十分に、挨拶をした。挨拶は、一分だった。

「短いあいだでしたが、ありがとうございました。またどこかで」

拍手が起きた。全員がしたわけではなかった。梶がいちばん大きく叩いた。

古畑は、部屋を出た。

扉が閉まった。

十八時二十五分には、部屋は元の音に戻っていた。梶が端末を叩く音と、空調の音と、誰かの電話。

菅原は、自分の席から、古畑が使っていた席を見た。

椅子が、少し斜めになっていた。

◇

その日、菅原は、初めて、三年を長いと思った。

それまでは、長いと思ったことがなかった。三年と言われて、そういうものだと思っていた。支店の異動も三年から四年である。長さの感覚が、そこから来ていた。

だが、この部屋では、三年を最後までいる人間のほうが少ない。

出向組は、早ければ二年で替わる。ベンダーは案件で動く。事務局は人事異動がある。参加行は、参加そのものを見直す。

最後までいると決まっているのは、菅原と、あと数人だけだった。

残りは、二年ある。

◇

その月に、四〇二の壁の名簿が、また差し替わった。

菅原は、差し替わるたびに、前の紙と新しい紙を並べて見る癖がついていた。事務局が古い紙を丸めて捨てる前に、一度だけ広げて、消えた名前を数える。

一年三か月で、十一人消えていた。

消えた十一人のうち、菅原が話したことのある人間は、四人である。四人のうち、名前と顔が一致するのは、二人だった。

残りの七人は、この部屋に来たことがない。四〇三の名簿にだけ載って、消えた。

菅原は、その七人の名前を、ノートに書き写した。

書き写した理由を、彼は自分でも説明できない。ただ、消えるときに誰も何も言わない、ということが、支店の異動と違うと思った。支店では、異動する人間は挨拶をする。短くても、一分はする。

ここでは、名簿から消える。

それだけである。

◇

六月の第一週に、菅原は、支店へ出張した。

用は、継続収納の確認である。

不能のときに、窓口で何を言っているか。ハガキを持ってきた客に、どこまで答えているか。答えられないのはどこか。それを、実際に見て、書き取る必要があった。

事務局から出張の紙が出て、日帰りになった。朝の新幹線で行って、夕方の新幹線で戻る。

一人である。

乗車の場面は、書くことがない。彼は自由席の窓側に座って、資料を読んで、二時間で県庁所在地に着いた。

◇

湊町支店は、変わっていた。

行員が、二十六人から二十二人になっていた。窓口が四つあったのが、三つになっていた。四つ目の窓口だったところに、タブレットの端末を置いた台が二つ据えてある。

沢井は、いた。

「あら、ひろみちゃん」

「ご無沙汰しています」

「東京は、まだ?」

「まだです。あと二年あります」

「長いわねえ」

沢井は、そう言って、また窓口に戻った。

十四時から、菅原はカウンターの内側に入った。

内側に入るのは、一年半ぶりである。

入って、最初に思ったのは、勝手が違う、ということだった。伝票の置き場所が変わっている。印鑑の照合が、端末の画面でできるようになっている。彼が手で覚えていた順番のうち、いくつかは、もう要らなくなっていた。

十四時二十分に、客が来た。

七十くらいの男性である。ハガキを持っていた。

沢井が、応対した。

「これはね、来月の十日に、もう一回落ちますから」

「もう一回」

「はい。それまでに、口座にお金を入れておいてください」

「入れとけば、落ちるんか」

「落ちます。ただ、この日に落ちますので、前の日までに入れておいてください」

「前の日」

「はい。当日の朝でも間に合うことは間に合うんですが、朝いちばんに落ちることがありますので、前の日のほうが確実です」

男性は、うなずいて、帰った。

菅原は、それを、後ろで書き取った。

書き取ったのは、沢井が言った言葉ではない。沢井が言わなかったことである。

何時に落ちるかは、言っていない。何回目までやるかも、言っていない。落ちなかったらどうなるかも、言っていない。

言わなかったのは、知らないからである。

◇

十六時を過ぎて、沢井が、菅原の前に伝票の束を置いた。

「これ、綴じといて」

「はい」

菅原は、それを綴じた。

穴を開けて、紐を通して、締める。締める強さが決まっている。緩いと、めくったときに落ちる。きついと、めくれない。

沢井は、それを、横目で見ていた。

「まだ、できるじゃない」

「これは、忘れないです」

「そう」

沢井は、次の束を出した。

十六時四十分に、菅原は支店を出た。

三階に上がって、支店長には五分だけ会った。東京の話を訊かれて、二つ答えた。三つ目を訊かれる前に、支店長の電話が鳴った。

十七時二十分の新幹線に乗った。

帰りの車内では、書き取ったものを整理した。

整理して、七項目になった。

そのうちの四項目が、翌週の会議の資料に入った。

24 落ちるのは毎日ある

誰も、その議題を担当したがらなかった。

六月に、継続収納が議題に上がった。正確には、上げられた。

半年ほど、後ろに下がったままになっていた検討事項である。他の機能の日程が動くたびに、いちばん後ろへ回されていた。

上げたのは、事務局だった。

「そろそろ、こちらを見ていただかないと、間に合いません」

その一言で、その週の火曜の議題に入った。

◇

継続収納は、口座振替である。

電気、ガス、水道、通信、家賃、保険料、カードの引落、割賦の弁済。毎月、決まった日に、決まった口座から、決まった相手に引き落とされていくもの。

日本でいちばん件数の多い決済である。

議題として、誰も担当したがらなかった。

理由は、単純だった。新しくないからである。

即時決済は新しい。数字が取れる。条件決済も新しい。協調決済も新しい。それらは、資料に載ると見栄えがする。口座振替は、四十年前からある。

それでも落とせないことは、全員が知っていた。半年前に回ってきた「(参考)」の紙と同じ出どころの紙が、六月にもう一枚回っていて、そこに一行だけ、「利用者が金融機関を選べること」と書いてあったからである。誰が書いたのかは、やはり分からなかった。

会議の空気が、それを表していた。

戸畑が説明を始めて、五分で、部屋の集中が落ちた。芝原は別の資料を見ていた。皆川は姿勢を崩さなかったが、質問をしなかった。梶は、途中で二度、席を立った。

◇

論点は、いくつもあった。

一つ目。委任状の範囲である。

顧客は、何を許したのか。誰に、何について、いくらまで、いつまで。書面には「電気料金」と書いてあるが、その電気会社が別のサービスを始めたときに、そのぶんを同じ委任状で引いてよいのか。

二つ目。予告である。

いつ、いくら引き落とすかを、事前にどこまで知らせるか。いまは、知らせていない。請求書が来て、その金額が引き落とされる。金額が変わっても、事前に照合する仕組みはない。

三つ目。再振替である。

落ちなかったときに、いつ、もう一度やるか。何回まで。金額は同じか。遅延の損害金を乗せるのか。

四つ目。費目である。

何に対する引落なのか。「四月分」なのか、「第十二回総会 参加費」なのか。同じものを二度引かないためには、それを識別できなければならない。

事務局が、参加行に照会を出していた。回答が、揃わなかった。

揃わなかった理由を、菅原は知っていた。照会を書いたのが、彼だったからである。

八行に出して、期限までに返ってきたのが三行。三行のうち、全部の欄が埋まっているのが一行。

埋まらない欄には、共通するものがあった。

「委任状の保存年限」の欄が、八行とも埋まらない。

菅原が電話をかけると、どの銀行の担当者も、同じことを言った。うちで決めているものではない、と言う。では誰が決めているのかと訊くと、収納企業との契約書に書いてある、と言う。契約書を見せてもらえるかと訊くと、それは企業ごとに違う、と言う。

一行あたり、何社と契約しているのかを訊いた。

いちばん少ない参加行で、四百社だった。いちばん多い参加行は、数えたことがないと答えた。

菅原は、その電話の内容を、四枚にまとめた。

まとめて、会議の資料には出さなかった。出しても、その日の議題には関係がなかったからである。

四枚は、彼の引き出しに残った。二年あとに、そこから二枚が、引き継ぎの資料の根拠の欄になる。

論点は、それだけではなかった。

金額が、毎月変わる。電気代も、ガス代も、通信費も、月によって違う。違う金額を、事前に照合する仕組みがない。だから、桁を一つ間違えたデータが来ても、そのまま落ちる。

落ちたあとで気づく。気づいて、返す。返すのは、通常の入金として返す。返したことは、元の引落と紐づかない。

「うちは、それで一度、大きいのをやりました」

D行の担当者が、そう言った。

「三年前です。収納企業さんの側のデータが、十倍になっていました。一件だけ。百二十万落ちて、お客様の家賃が落ちなくて、そのあとが大変でした」

「そのときは、どうされましたか」

「支店が謝りに行きました」

「銀行の側に、非はないですよね」

「ないです。ないですけど、お客様から見ると、金を取ったのは銀行なので」

部屋が、静かになった。

「委任状の範囲、というのは、銀行が決めることではないんですよね」

E行の担当者が、そう言った。

「収納企業と、お客様のあいだの契約ですので。うちは、依頼が来たら落とすだけです」

「では、範囲外の請求が来たときは」

「落ちます」

「落ちますか」

「落ちます。範囲かどうかを、うちでは見ていません」

部屋が、静かになった。

その静かさは、驚きではなかった。全員が、そうだろうな、と思ったからである。

◇

論点の五つ目に、これが出た。

「残高不足で落ちなかった場合、これは障害ですか」

言ったのは、梶だった。

「いや、真面目な質問です。設計上、扱いを決めないといけないので。落ちなかったということは、指示に対して結果が出なかったということです。それは、失敗として例外に落とすんですか」

戸畑が、答えた。

「例外に落とすと、件数がとんでもないことになる」

「じゃあ、何ですか」

「それは……正常の一種、ということになると思うが」

「正常なんですか。指示どおりになってないのに」

戸畑は、答えられなかった。

事務局が、参加行のほうを見た。

「そのあたり、実務としては、どうなんでしょうか」

誰も、答えなかった。

E行の担当者は、「うちはファイルを返すだけなので」と言った。C行の担当者は、「不能のファイルを収納企業に返します。そのあとは企業さんの側です」と言った。

つまり、どの参加行も、そのあとを見ていない。

◇

菅原が、言った。

「落ちるのは、毎日あります」

全員が、菅原を見た。

「毎日あります。振替日には、必ず、ある割合が落ちます。何割かは知りません。ただ、支店の感覚で言うと、珍しいことではないです。全然、珍しくない」

「それは、事故ではないと」

「事故じゃないです」

菅原は、そう言った。

「事故じゃないというのは、どういう意味でですか」

皆川が、丁寧に訊いた。

菅原は、少し詰まった。

「うまく言えないんですが」

「かまいません」

「あれは、お金がなかった、というだけのことです。給料日が後ろにずれたとか、その月に別の支払いが重なったとか。そういうことです。誰も間違っていません。銀行も、収納企業も、お客さんも、誰も間違っていない」

「はい」

「間違っていないのに、事故として扱うと、事故の記録が毎日残ります。毎日残る記録は、誰も見なくなります。見なくなった記録の中に、本当の事故が混ざったときに、それが見つかりません」

菅原は、そこで止まった。

止まったのは、そこから先の根拠を、彼が持っていなかったからである。

支店の感覚として、それは正しいと知っている。窓口で見てきたからである。だが、なぜそう言えるのかを、設計の言葉で説明できない。

彼は、根拠を説明できないまま、そう主張した。

戸畑が、口を開いた。

「感覚としては、分かります。ただ、設計は感覚で書けません」

「はい」

「区別する条件が要ります。どこまでが正常で、どこからが例外か」

菅原は、答えられなかった。

その日の会議は、そこで時間切れになった。

◇

会議のあと、菅原は、四〇一の自分の席で、三十分ほど座っていた。

言ったことは、間違っていないと思う。ただ、間違っていないことと、設計に載ることは、別である。

彼は、支店に電話をかけようとして、やめた。

沢井に訊いても、答えは同じである。落ちるのは毎日ある、と言うだろう。なぜ事故ではないのかと訊けば、たぶん「事故じゃないでしょう」と言う。

理由は、返ってこない。

理由がないからではない。理由が、その人の三十八年のなかに溶けていて、取り出せる形をしていないからである。

菅原は、そのことを、そのとき初めて、はっきり考えた。

取り出せる形にする仕事が、誰かの仕事としてある。

彼の仕事ではない。彼の仕事は、取り出せない形のまま、言い切ることである。

言い切ってしまえば、誰かが探しに行ける。

そこまでは、その夜の彼は、まだ考えていない。

25 一行

翌週の火曜まで、七日間あった。

その七日間、三雲は継続収納の資料を読んでいた。

読んでいた、というのは、菅原がそう見た、というだけである。彼女の画面には、参加行から集めた事務規定の写しと、収納企業向けの説明書きと、実際の不能ファイルの様式が開かれていた。

木曜の午後、彼女が菅原の席に来た。

「菅原さん」

「はい」

「落ちたものは、そのあと、どこへ行きますか」

菅原は、質問の意味を取りかねた。

「どこへ、というのは」

「落ちた、という結果が出たあと、その一件は、誰の手元に行きますか」

「収納企業に返ります。ファイルで」

「銀行の側には、何が残りますか」

「残りません」

「残らない」

「残らないです。落ちなかった、という記録は残りますが、それは記録であって、案件ではないです」

三雲は、うなずいた。

「では、お客さんの側には」

「お客さんの側には、しばらくして、収納企業からハガキが来ます。振替不能のお知らせ、というやつです。何日か経ってから届きます」

「何日ぐらいですか」

「四日か五日、だと思います。企業によります」

「そのあいだ、お客さんは、何を知っていますか」

菅原は、少し考えた。

「何も知らないです」

「銀行に来たら、分かりますか」

「分かります。通帳を見れば、落ちていないことは分かります。ただ、次にいつ落ちるかは、うちでは分かりません」

「分からない」

「分からないです。それは、収納企業と、お客さんのあいだの話なので」

三雲は、そこで、少し黙った。

それから、言った。

「窓口では、なんと言いますか」

「二十七日に、もう一回落ちます、と言います。ハガキに書いてあるので」

「ハガキに書いてある内容を、窓口が読み上げているんですね」

「そうです」

「銀行は、その日付を、自分では持っていない」

「持っていないです」

三雲は、そこで初めて、少しだけ間を置いた。

「ありがとうございます」

そう言って、席へ戻った。

◇

その夜、菅原は二十時に部屋を出た。

三雲は、まだ席にいた。

出るときに、「お先に失礼します」と言った。三雲は「お疲れさまでした」と言った。それだけである。

エレベーターで一階へ下りた。

ロビーは、まだ明るかった。受付に人がいて、掲示板の紙を差し替えていた。翌日の会議の予定である。

菅原は、その前を通るときに、一度だけ足を止めて、紙を読んだ。

翌日は、四階の会議が二つある。二つとも、彼が出る会議だった。

三年半のあいだ、彼はこの掲示板を、ほとんど見ていない。最初の日に一度読んで、それきりである。自分がどこへ行くかは、掲示板を見なくても分かるようになっていた。

その日は、読んだ。

読んで、外へ出た。

◇

翌週の火曜。

三雲が、四枚の紙を配った。

一枚目に、三つの層が書いてあった。

契約。予告。実行。

契約は、委任状である。誰が誰に、何について、どこまでの回収を許したか。金額の上限、回数の上限、対象の範囲。それを、顧客の署名で成立させる。基盤が代わりに作ることはできない。

予告は、いつ、いくら回収するかを、事前に開示するものである。

「予告は、取引ではありません」

三雲は、そう言った。

「予告の段階では、資金を一切拘束しません。押さえません。触りません。振替日まで、顧客のお金は顧客のものです。残高を見るのは、振替日の当日です」

「では、予告は何をするんですか」

「知らせます。それだけです」

「知らせるだけのために、層を一つ作るんですか」

「作ります。知らせたという事実が残らないと、あとで変更されたときに、変更されたことが分かりません」

三雲は、二枚目に移った。

再振替は、失敗するたびに指示を出し直すのではなく、あらかじめ段として登録しておく。一段目が落ちたら、この日に、この金額で二段目。二段目が落ちたら三段目。段の数には上限を置く。

「全部の段を、予告の時点で、お客さんに見せます」

「全部ですか」

「全部です。いま、再請求の条件は、収納企業と銀行のあいだの契約に埋もれています。顧客は、ハガキが来るまで知りません。それを、先に見せます」

菅原は、そこで、顔を上げた。

朝には入れておいてください、と沢井が言っている場面が、頭にあった。朝の何時、と客が訊いて、沢井が止まった場面である。

三枚目に、費目と、枠の話があった。

同じ委任状の同じ費目について、成立させられる収納は、一件までとする。二重に引かないためである。

ただし、それは取りすぎを防がない。収納企業は、新しい費目を立てることができるからである。取りすぎを防ぐのは、別の機構——通算でいくらまで、という枠のほうである。

「一つの仕組みで両方を解こうとすると、両方とも守れなくなります」

三雲は、そう言った。

四枚目に、失敗の確定が書いてあった。

◇

四枚目の裏に、もう一枚あった。

菅原は、それを最後まで気づかなかった。三雲が「裏を見てください」と言って、全員が紙をめくった。

一行だけ書いてあった。

「収納企業の側の銀行と、顧客の側の銀行を、別にできる」

「これは、いまは、できません」

三雲は、そう言った。

「いまの口座振替は、収納企業が契約した銀行と、顧客の口座のある銀行が、同じ枠組みの中に入っていないと成立しません。だから、収納企業は、契約していない金融機関の口座からは引けません。申込書に、引落に使える金融機関の一覧が刷ってあるのは、そのためです」

「一覧に載っていない金融機関は」

「使えません。使えないので、顧客のほうが、口座を作りに行きます」

部屋が、静かになった。

「この設計では、依頼を出す側と、引き落とす側を、別々の参加者として書きます。両方が同じ約束の上に載っていれば、あいだの組み合わせは問いません。収納企業がどこと契約しているかと、顧客がどこに口座を持っているかは、別の話になります」

「別の話になると、何が変わりますか」

訊いたのは、皆川だった。

「顧客が、金融機関を選べます」

三雲は、それだけ言った。

◇

菅原は、その紙を、会議のあとで、もう一度読んだ。

読みながら、島の家の水道代のことを考えていた。

水道代は、島の口座から落ちている。菅原の名義ではない。母の名義である。母が動けなくなったら、名義を移すか、通帳を預かるか、どちらかになる。

移そうとしても、東京の口座からは落とせない。島の水道の申込書に刷ってある一覧に、東京の銀行は載っていない。載っているのは、県内の三つと、郵便局だけである。

一覧に載っている金融機関は、その企業が契約した先である。契約は、企業の都合で決まる。住んでいる人間の都合では決まらない。

紙のとおりであれば、それが変わる。島の水道代を、沖縄の信用組合の口座から落とすこともできる。組み合わせを問わないというのは、そういう意味である。

菅原は、その言い方を、支店で客に説明する形に直してみた。

「どこの口座からでも、払えます」

一行になった。

菅原は、それを、四項の表には書かなかった。

書く欄がなかったからである。

◇

四枚目の説明に入る前に、三雲が言った。

「菅原さん」

「はい」

「前に出て、書いてもらえますか」

菅原は、一度、周りを見た。二十人ほどが座っている。四〇三から来ている人間が、そのうちの九人である。

三雲は、マーカーを持って立っていた。持っていたほうを、彼に渡した。

「振替の日に、支店で何が起きるか、順に書いてください。用語は要りません。起きる順でいいです」

菅原は、ホワイトボードの前に立った。

立ってみると、書くことはあった。

彼は、上から順に書いた。二十七日。二十七日が休みなら、翌営業日。その日の朝に、一回目が回る。朝に足りなければ、その日のうちにもう一回回る銀行がある。回らない銀行もある。落ちなければ、収納企業にファイルで返る。返ってから、ハガキが出る。ハガキは、四日か五日で客に届く。客は、届くまで何も知らない。届いてから、支店に来る。来たら、通帳を見せて、二十七日に、もう一回落ちます、と言う。その日付は、ハガキに書いてある。

書き終えて、彼はマーカーを持ったまま、少し下がった。

字が、右へ下がっていた。行の間隔も揃っていない。支店で伝票を書くときの癖である。

「ありがとうございます」

三雲は、そう言った。

「では、その下に、一本線を引いてください」

菅原は、線を引いた。

「線の下に、いつを失敗と呼ぶかを書けますか」

菅原は、マーカーを持ったまま、立っていた。

書けなかった。

朝に足りなかった時点なのか、その日の最後の回が終わった時点なのか、ハガキが出た時点なのか、どれとも言える。支店では、どれとも言わない。落ちなかった、と言うだけである。落ちなかったものは、そのうち落ちるか、落ちないまま終わる。

彼は、二十秒ほど立っていた。

それから、マーカーを三雲に返した。

三雲は、受け取って、線の下に一行だけ書いた。

書いたものは、短かった。菅原が上に書いた十二行が、その一行の材料になっていた。

彼は、席に戻った。

戻って、自分が書いた部分を見た。

上の十二行は、全部、彼が見たことだった。日付も、日数も、誰が何を言うかも、支店で毎月そのとおりに起きる。書いていて、一度も詰まらなかった。

下の一行だけが、彼に書けなかった。

そこに書いてあるのは、見たことではない。どこからどこまでを同じ扱いにするか、という決めごとである。決めごとは、見ても分からない。何度見ても、分からない。

菅原は、そのことを、そのとき、はっきり分かった。

分かったが、悔しくはなかった。

上の十二行は、この部屋の誰にも書けない。三雲にも書けない。書けないから、彼が呼ばれて、前に出た。

彼の仕事は、線の上である。

線の下は、彼の仕事ではない。

◇

「成功と失敗で、確定の時点が違います」

三雲は、そこを説明した。

「成功は、受け取り側の実施が確認された時点です。動いたお金は、それ以上変わりません」

「失敗は」

「失敗は、後続の試行がありえなくなった時点です」

部屋が、静かになった。

「振替日の日中に、複数回、処理が走る銀行があります。朝に足りなくても、昼に入金があれば、午後の回で成立することがあります。ですから、朝に足りなかったことは、失敗ではありません。まだ成立していない、というだけです」

「では、いつ失敗と言うんですか」

「その日の窓が閉じたときです」

三雲は、そこで、菅原のほうを見た。

「菅原さんが先週言われたことは、そういうことだと思います」

菅原は、返事をしなかった。

「落ちることは、事故ではない。理由は、予告から振替日まで、この設計が資金を一切拘束しないからです。拘束していないので、『押さえたのに引けなかった』という食い違いが起きません。食い違いが起きないものは、例外に落としません」

三雲は、そこで、一度だけ、言葉を変えた。

「想定の内側にある不能は、正常な終わり方です。例外に集めるのは、本当の食い違いだけです」

事務局が、書き取った。

戸畑が、言った。

「その一行が、あればよかったんです」

◇

会議のあと、菅原は、三雲に訊いた。

「あれは、私が言ったことになるんですか」

「なりません」

三雲は、そう答えた。

「仕様書には、私が書いた文が載ります。菅原さんの名前は載りません」

「はい」

「載せる場所がないんです。設計文書に、誰がそう言ったかは書きません」

「はい」

三雲は、そこで、少しだけ付け加えた。

「ただ、あれは、菅原さんが言わなければ、私は書けませんでした」

「私は、根拠を言えませんでしたけど」

「根拠は、私が探すほうの仕事です」

三雲は、そう言って、席へ戻った。

◇

継続収納の仕様は、七月の第一週に、いったん固まった。

四つの値が、埋まった。

同期で返す境界は、予告を受け付けたところまで。不可逆になる境界は、受け取り側の実施が確認された時点。証跡は、委任状の識別子と、費目と、何回目の試行か。例外の収束先は——想定の内側の不能は正常な終わり方とし、本当の食い違いだけを集める。

四つ目の欄を書いたのは三雲だが、その中身を最初に言ったのは、菅原である。

彼は、用語を一つも使わなかった。落ちたものをどこへ持っていくか、という言い方をした。三雲が、それを四項の語に翻訳した。

この基盤で、菅原が三年間に設計へ残したものは、それだけである。

仕様書に彼の名前はない。読んでも、誰も感心しない。

最も普通の人間に最も近いレーンだけが、この部屋で唯一、現場から書かれた。

26 見学席

その週に、四〇三の側から、継続収納の実装の見積もりが出た。

三千二百人月だった。

七つのレーンのうち、いちばん小さい数字である。即時決済が一万一千で、条件決済が八千だった。

梶が、その表を見て言った。

「これ、逆じゃないですか」

「逆というのは」

菅原が訊いた。

「件数ですよ。日本でいちばん件数の多い決済が、いちばん工数が小さい。おかしくないですか」

「小さいと、まずいですか」

「まずくはないです。ただ、小さい理由が、たぶん、簡単だからじゃない」

梶は、そう言った。

「誰も、細かいことを言ってこなかったからです。細かいことを言われないところは、見積もりが小さく出るんですよ。あとで言われると、そこが伸びる」

「伸びますか」

「伸びます。でも、今回は伸びないと思います」

「なぜですか」

「もう、細かいことが全部書いてあるので」

「書いてあると、伸びないんですか」

「伸びないです」

梶は、そう言った。

「見積もりが伸びるのは、途中で仕様が増えるからです。増えるのは、最初に書いてなかったところです。書いてないところは、みんな、自分の頭の中の仕様で作るんですよ」

「作りますか」

「作ります。作ったあとで、違うと言われる。それが、伸びるということです」

「今回は、違うと言われないんですか」

「言われないと思います」

梶は、四枚目を指した。

「ここまで書いてあると、違うと言うためには、こっちも同じ密度で書かないといけない。誰も、そこまでして違うと言わないです」

梶は、四枚の紙を指した。

菅原は、その四枚を見た。

四枚のうち、四枚目の下から三行目に、彼が言ったことが書いてある。書いたのは三雲である。彼の名前はない。

見て、席に戻った。

◇

七月の第一週の金曜、その仕様を、参加行に説明した。

説明の場は、六階の会議室である。八行から、十一人来た。

来た十一人のうち、七人が、事務部の人間だった。前の週の即時決済の説明会には、企画部と、システム部の人間が来ていた。継続収納には、事務部が来た。

説明は、菅原がやった。

三雲が資料を作り、菅原が読んだ。そういう分担になった理由は、単純である。この資料を読んで質問が出るとしたら、それは実務の質問だからだった。

実際、そうなった。

質問は、二十二本あった。

そのうち、設計についての質問は、二本だけである。残りの二十本は、実務だった。

委任状の紙は、いつまで保存するのか。いまの紙は、そのまま使えるのか。使えないとしたら、全部取り直すのか。取り直すには、何年かかるのか。

顧客に予告を出すのは、誰か。銀行か、収納企業か。銀行が出すとしたら、通知の手段は何か。紙か、アプリか。アプリを持っていない客には、どうするのか。

再振替の段を、全部見せるというが、見せた結果、客が二段目の日付を勘違いしたら、誰の責任か。

菅原は、答えられるものに答えた。

答えられないものは、「決まっていません」と言った。

「決まっていません、というのは、これから決まるということですか」

「これから決めます。決めるのは、この部屋ではないものもあります」

「たとえば」

「委任状の取り直しは、この部屋では決められません。制度の側の話になります」

D行の担当者が、言った。

「その、決められないところが、いちばん重いんですけどね」

「そうだと思います」

菅原は、そう答えた。

会議のあと、その担当者が、菅原のところに来た。

「あの、さっきの、朝に落ちるかどうかの話ですけど」

「はい」

「うちは、日中に三回、回します。だから、朝に足りなくても、昼に入れば通ります」

「はい」

「それ、いままで、お客様に説明したことがないんです。言っても分からないと思って」

「言わないほうが、いいですか」

「いや」

その担当者は、少し考えて、言った。

「言えるようになるなら、言いたいです」

「言えると、何が変わりますか」

「電話が減ります」

その担当者は、そう言った。

「二十七日の朝に、電話が集中するんです。落ちましたけど、どうなりますか、という電話です。あれ、一件五分かかります」

「何件ぐらいですか」

「多い月で、二百件です」

「二百件」

「二百件です。全部、同じことを訊かれます。同じことを訊かれるということは、こっちが先に言えていない、ということですよね」

菅原は、それを書き取った。

◇

その日の会議室に、見学席が六つ用意してあった。

用意したのは事務局である。前の週の即時決済の説明会で、見学の申し込みが二十二件あったからだった。二十二件のうち、十四件が、この会議体と関係のない部署からの申し込みである。

六つの椅子は、最後まで空いていた。

説明が終わって、菅原が資料をまとめているときに、事務局の若い職員が、その六脚を片づけた。片づけながら、「すみません、出しといて」と言った。

「いえ」

「来ると思ったんですけどね」

「即時のほうは、二十二件でしたね」

「二十二件です。あれ、大臣室まで上がるので」

職員は、そう言った。

言ってから、「いまのは、忘れてください」と付け足した。

菅原は、うなずいた。

うなずいて、忘れなかった。

27 火曜と木曜

七月十五日、火曜。

三雲の携帯が鳴ったのは、十一時二十分だった。

彼女は、席で受けた。廊下には出なかった。

「はい。……はい。……いつからですか。……何本止まっていますか」

会話は、三分ほどだった。

切って、彼女は戸畑のところへ行った。

菅原は、二つ離れた席にいたので、内容は聞こえなかった。戸畑が二度うなずくのが見えた。

十二時に、三雲は事務局へ行った。

十四時に、根岸が呼ばれた。

十六時に、決まったらしかった。らしかった、というのは、菅原には誰からも説明がなかったからである。

◇

十六時四十分に、三雲が菅原の席へ来た。

「菅原さん。木曜から、抜けます」

「抜ける」

「鉄道のほうで、火が出ました。運行の管理の側です。私の専門なので、行けと言われました」

「いつまでですか」

「分かりません」

菅原は、何と言えばいいのか、分からなかった。

「そうですか」

と、言った。

「明日と、あさっての午前で、引き継げるものを引き継ぎます。時間が取れるのが、あさっての九時からの一時間だけです。すみません」

「一時間」

「一時間です」

三雲は、そう言って、席へ戻った。

◇

七月十七日、木曜、九時。

引き継ぎは、部屋の隅の、小さいテーブルで行われた。

菅原と、戸畑と、梶と、三雲の四人である。

一時間で、彼女が話したのは、版の管理の話だけだった。

設計文書には、版がある。どの版が、いつ、誰の判断で、どこを変えたか。それが辿れなければ、半年後に「なぜこうなっているのか」が分からなくなる。分からなくなると、人は書き直す。書き直すと、前に潰した論点が、また出てくる。

「変更したときに、必ず、変更前の値を残してください」

三雲は、そう言った。

「上書きしないでください。上書きすると、その日の判断が消えます。判断が消えたものは、次の人には、最初からそうだったように見えます」

「はい」

「それから、この基盤の仕様は、四項に還元してください。新しい機能の話が出たときは、まず、その四つの値を訊いてください。同期でどこまで返すか。どこから不可逆か。何を証跡に残すか。例外はどこへ集めるか。この四つが決まっていないものは、機能ではありません」

梶が訊いた。

「継続収納の細部は、誰が見るんですか」

「菅原さんが分かっています」

三雲は、そう言った。

「私が書いた部分は、菅原さんに訊けば、なぜそうなっているかが分かります。逆は成り立ちません。私は、菅原さんが知っていることを、知らないので」

菅原が、訊いた。

「版の記録は、どこに置きますか」

「文書の先頭です」

三雲は、そう答えた。

「末尾に置くと、読まれません。先頭に置いて、一件一行で、日付と、変えた箇所と、変えた理由を書いてください」

「理由も、ですか」

「理由が、いちばん先に消えます」

「消えますか」

「消えます。日付と箇所は、機械が残します。理由は、人が書かないと、残りません」

三雲は、そう言った。

「書くのは、三十秒です。三十秒を惜しむと、一年後に、二日かかります」

菅原は、それを書き取った。

戸畑が、最後に一つ訊いた。

「三雲さん。この設計で、いちばん壊れやすいところは、どこですか」

三雲は、少し考えた。

「四項のうち、証跡です」

「証跡ですか」

「はい。同期境界と不可逆境界は、間違えると動きません。動かないものは、必ず直ります。証跡は、間違えても動きます」

「動く」

「動きます。動いて、半年後か一年後に、説明できないことが起きます。そのときには、なぜそう書いたかを知っている人が、もういません」

三雲は、そう言った。

「人が減るときに、いちばん先に落ちるのが、証跡を書く手間です。落ちても、その日は誰も困らないからです」

戸畑は、うなずいた。

うなずいて、何も言わなかった。

九時五十五分に、終わった。

戸畑が、資料をそろえながら、言った。

「三雲さん。鉄道のほう、何日ぐらいで戻れそうですか」

「分かりません」

「そうですか」

戸畑は、うなずいた。

「うちの娘が、電車で通ってるんです。私立に行かせたので、乗り換えが二回あって」

「そうですか」

「止まると、帰ってこないんですよ。連絡もしてこないので」

戸畑は、そう言った。

「早く直してください、とは言わないですけど」

「はい」

「まあ、そういう人が、たくさんいます」

三雲は、「はい」と答えた。

それだけだった。

三雲は、資料を閉じて、立ち上がった。

「ありがとうございました」

そう言って、部屋を出た。

送別会はなかった。

その日は木曜で、金曜には、もう別の場所にいた。

◇

九番のロッカーは、もともと空だった。

彼女は、一度も使わなかったからである。

だから、その日、部屋から減ったものは、何もなかった。

事務局が、木曜の夕方に、九番の鍵を回収した。

回収されるとき、菅原は、その様子を見ていた。

事務局の女性が、九番の扉を開けて、中を確認した。中は、空だった。当たり前である。彼女は、鍵を抜いて、事務局の封筒に入れた。

入れてから、菅原のほうを見て、言った。

「三雲さん、一度も使われませんでしたね」

「はい」

「鍵、初日にお渡ししたんですけど」

「そうですか」

「受け取っていただいて、そのままでした。返してくださいとも言えないので、そのままにしていました」

女性は、封筒の口を折って、そう言った。

それで、終わりだった。

ロッカーが一つ、空いた。

正確には、一度も埋まらなかったものが、空いていることになった。

菅原は、そのとき、初めて、彼女がロッカーを使っていなかったことを、はっきり意識した。

一年三か月、毎日、同じ黒いバッグを持って来て、同じバッグを持って帰っていた。

理由は、訊かなかった。

訊く機会が、その日には、もうなかった。


第三部 弱い側へ

28 連絡は来ない

八月は、忙しかった。

三雲が抜けたぶんの仕事が、そのまま残ったからである。設計の中身を書ける人間はいないので、戸畑と梶が引き取った。菅原が引き取ったのは、参加行との照会と、継続収納の細部の確認と、議事録である。

八月に、参加行への照会を、二十二本出した。

回答が揃ったのが、九月の中ごろである。揃わないものが四本あって、それは電話で潰した。潰しながら、参加行によって、事務規定の書きぶりだけでなく、書いている部署が違うことに気づいた。事務部が書いている行と、システム部が書いている銀行と、営業推進が書いている銀行がある。書いている部署が違うと、同じ語の意味が違う。

そのことを、菅原は、三枚の紙にした。

三枚を、戸畑に出した。

戸畑は、それを読んで、二日後に返してきた。

「これは、こちらでも使わせてください。参加行との会話のときに、相手がどの部署かを先に確認するようにします」

「はい」

それだけだった。

◇

九月が終わった。

三雲からの連絡は、なかった。

十月が終わった。連絡は、なかった。

十一月に、一度だけ、鉄道の側の火事が報道に出た。夕方のニュースで、運行の管理システムの障害で、朝の四時間、広い範囲が止まったという内容だった。菅原は、寮の部屋で、それを見た。

映っていたのは、駅の改札の前の人の列と、掲示板と、鉄道会社の会見だった。会見に出ていたのは、五十代の男性が三人である。

三雲は、映っていなかった。

映るはずがなかった。

◇

十二月の初め、東京駅の地下のホームで、人を見た。

十九時前である。菅原は、参加行との打ち合わせの帰りで、ホームに立っていた。

向かい側のホームに、女性がいた。

背が高い。姿勢がいい。黒いバッグを提げて、前を向いて立っていた。

菅原は、その人を見た。

電車が入ってきた。

車体が、視界を横切った。窓が、間隔を置いて流れて、だんだん遅くなって、止まった。ドアが開いて、人が乗って、閉まった。

電車が出ていったとき、向かい側のホームには、誰もいなかった。

菅原は、そのまま自分の電車を待った。

確かめには行かなかった。行っても間に合わないし、間に合ったとして、言うことがなかった。

その夜のことを、彼は、翌日には忘れた。

◇

一月に、四〇二の側の人数が、いちばん少なくなった。

八人が、四人になっていた。四人のうち二人は、この一年で入った人間である。

減った理由は、単純である。設計の作業が終わって、実装の作業に移ったからだった。実装は、別の拠点でやる。この階でやることは、決めることと、直すことだけになる。

決める人が減ったぶん、直すことが増えた。

菅原は、その時期に、四〇三へ入る回数が増えた。

入ると、いつも同じ光景である。机の列が並んで、全員が画面を見ていて、誰も話していない。奥の壁の紙が、増えている。

一度、いちばん奥まで行ったことがある。

用は、様式の欄の確認だった。奥の席に、二十代の担当者が座っていて、その人が担当だと言われた。

行くと、その人は立ち上がって、「あ、すみません」と言った。

「何がですか」

「いえ、こちらまで来ていただいて」

「近いので」

菅原は、そう答えた。

答えてから、四〇一からそこまで、二十歩もないことに気づいた。

二十歩のあいだに、部屋が二つある。

◇

年が明けた。

半年が過ぎた。

菅原は、連絡をしなかった。

理由は、なかった。

正確には、送る理由がなかった。彼は、用がなければ連絡しない。それは、遠慮ではない。遠慮であれば、送りたいのに送らない、という形になる。彼の場合は、そうではなかった。送る理由が立たないので、送るという行為が、そもそも発生しない。

三雲からも、来なかった。

一度だけ、送りかけたことがある。

十二月の、駅のホームの翌日である。菅原は、昼に画面を開いて、宛先を出した。

出して、何を書くかを考えた。

昨日、東京駅で似た人を見ました、と書くのは、おかしい。継続収納の件で、と書き出すには、訊きたいことがない。訊きたいことは、あとで作れる。作れるが、作った質問だということは、たぶん相手に分かる。

彼は、宛先を消した。

消したことを、彼はその日のうちに忘れた。

菅原は、そこから、一つの結論を出した。

自分は、その程度の相手だった。

一年三か月、同じ部屋にいた。支店へ一緒に行った。継続収納の四項を、二人で埋めた。それでも、火が出た現場に移れば、連絡する理由がなくなる程度の相手である。

それは、当たり前のことだった。

彼女は研究所の主任研究員で、専門は鉄道の運行計画である。呼ばれれば行く。行った先には、そこの仕事がある。

菅原は、そう理解した。

理解して、そのあと、仕事をした。

◇

年が明けてから三月にかけて、彼が処理したものは、こうである。

継続収納の、費目の様式についての参加行の意見を、十一行ぶん集めた。

再振替の段数の上限について、収納企業の団体への説明資料を作った。作ったのは事務局だが、実務の記述の部分は菅原が書いた。

顧客への表示文言の案を、七十二種類作った。窓口で読み上げるための文言である。「残高が不足していたため、本日のお引落しはできませんでした」から始まって、状況ごとに言い方を変える。参加行の担当者と、四回、会議をした。

四回目の会議で、C行の担当者が言った。

「これ、うちの窓口の人間が読むんですよね」

「そうです」

「じゃあ、もう少し短くしてもらえませんか。長いと、読まないです」

菅原は、その場で、七十二種類を三十四種類に減らした。

減らして、翌週、三雲がいたら何と言っただろう、と一度だけ考えた。

考えて、仕事に戻った。

◇

その三十四種類には、時間がかかった。

言葉を作るのは、設計より面倒である。設計は、条件が決まれば一つに決まる。言葉は、決まらない。

「残高が不足していたため」と書くか、「ご預金残高が不足しておりましたため」と書くか。前者は短い。後者は、いまの帳票の書き方に近い。近いほうが、窓口は読みやすい。ただ、長い。

「本日のお引落しはできませんでした」と書くと、その日のうちにもう一度回る銀行では、嘘になる。まだできていないだけで、できないと決まったわけではない。

菅原は、そこで、二種類に分けた。

その日の窓が、まだ開いているとき。「本日中に、あらためてお引落しを試みます」

その日の窓が、閉じたとき。「本日のお引落しはできませんでした」

同じ状況について、時刻によって言葉を変える。

これを、参加行の担当者に見せたら、三行から反対が来た。

「窓口の人間が、いま窓が開いているかどうかを、判断できません」

「判断しません。画面に、そのときの文言が出ます」

「出るんですか」

「出るようにします」

「それなら、いいです」

その、それならいいです、を取るのに、四回の会議が要った。

◇

四回の会議のあいだに、菅原は、三十四種類のうち十一種類を、二度書き直している。

書き直した理由は、銀行によって、窓口で使う言葉が違うからだった。

「お引落し」と書く銀行と、「口座振替」と書く銀行がある。「不能」と書く銀行と、「未済」と書く銀行がある。同じことを指しているのだが、片方の銀行の窓口の人間が、もう片方の語を読むと、一拍止まる。一拍止まると、客が不安になる。

菅原は、八行の帳票の写しを取り寄せて、語を数えた。

「お引落し」が五行、「口座振替」が三行。「不能」が六行、「未済」が二行。

多いほうに揃える、という決め方はしなかった。少ないほうの三行に電話をかけて、「そちらの窓口で、うちの語を読んでいただけますか」と訊いた。

三行のうち、二行が「読めます」と答えた。

一行が、「読めません」と答えた。

理由は、その参加行の帳票が、勘定系の側で語を持っているからだった。画面に出る語と、窓口が声に出す語が違うと、確認のときに合わない。

菅原は、その一行のためだけに、二種類の文言を別に作った。

三十四種類が、三十六種類になった。

「揃えないんですか」

事務局の課長が、そう訊いた。

「揃えると、その参加行の窓口が、画面と違うことを言うことになります」

「二種類あると、管理が増えますよ」

「増えます」

菅原は、そう答えた。

「ただ、増えるのは、こちらの管理です。減らすと、減るのは、窓口の正確さです」

課長は、しばらく考えて、「わかりました」と言った。

その二種類は、最後まで残った。

◇

その作業のあいだ、菅原は、一度だけ、支店に電話をかけている。

かけた相手は沢井ではない。沢井は、電話で意見を訊かれるのを好まない。彼女は、目の前に紙がないと答えない人である。

かけたのは、湊町支店の事務の係長だった。

「三十六個も、覚えられないですよ」

係長は、そう言った。

「覚えなくていいです。画面に出ます」

「出るんですか」

「出ます」

「出るなら、いいです。うちの人間は、画面に出てるものは読みます。出てないことは、言いません」

菅原は、それを書いた。

書いたものが、あとで、能力の申告の表の三十九項目目になる。

◇

三月に、その文言を、共同センターの手順書の様式に落とす作業があった。

様式には、文字数の上限がある。全角三十八文字である。三十八文字を超えると、画面で折り返されて、二行目が切れる。

三十四種類のうち、七種類が、超えていた。

菅原は、その七種類を、削った。

削るのに、二日かかった。削ると、意味が変わる。意味が変わらないように削ると、丁寧さが落ちる。丁寧さを落とさずに削ると、文字数が超える。

二日目の夕方、彼は、七種類を五種類にまとめた。

まとめてしまえば、上限に収まった。

まとめたことで、区別が二つ消えた。消えた区別は、窓口では使わないものだった——たぶん、使わない。使うかどうかを判断したのは、菅原である。

その判断を、彼は、誰にも相談しなかった。

相談する相手が、その時期には、いなかった。

◇

三月の終わりに、三十六種類の文言が、共同センターの手順書に載った。

載ったものを、菅原は印刷して、一枚ずつ読んだ。

自分が書いた文が、他人の書式の中に入っている。書式には、頁の番号と、改訂の履歴と、承認の欄がある。承認の欄に押してあるのは、菅原の印ではない。共同センターの部長の印だった。

それでいい、と彼は思った。

そう思ってから、その紙を、引き出しに入れた。

引き出しには、去年の四枚も入っている。委任状の保存年限について、八行に電話をかけてまとめたものである。

二つを並べて、彼は少しのあいだ見ていた。

片方は、どこにも使われていない。片方は、二百幾つの金庫の窓口で読まれることになる。

差は、書いた側にはない。訊かれたか、訊かれなかったかである。

29 教える

「菅原さん、うちの若い担当に、継続収納の話をしてもらえませんか」

三雲が抜けた月のうちに、橘からそう頼まれた。七月である。

「私がですか」

「私が説明すると、どうしても本部の目線になるんですよ。金庫の側から見ると、何が違うのかが伝わらない」

来たのは、二人だった。

一人は、信金中金の三年目で、名前を戸松といった。もう一人は、会員金庫から出てきた担当者で、菅原より少し下に見えた。名前を宮下といった。宮下は、実際に金庫の事務部で、口座振替の担当をしている。

場所は、部屋の隅の小さいテーブルだった。

二時間、と言われていた。

三時間半かかった。

◇

菅原は、最初に、いまの流れを描いた。

紙に、横に線を引いて、その上に日付を置いた。

収納企業が、振替のデータを銀行に送る。何日か前である。銀行によって違うが、五営業日ぐらい前が多い。銀行は、それを溜めておく。振替日の当日に、残高を見て、引ける口座から引く。引けなかったものは、不能として、企業に返す。

「返すのは、当日ですか」

宮下が訊いた。

「うちは翌営業日です」

「うちは当日です」

「そういうふうに、違います」

菅原は、そう言った。

「返したあと、企業がハガキを出します。四日か五日かかります。お客さんは、そのハガキで初めて知ります」

戸松が、言った。

「四日か五日、お客さんは知らないんですか」

「知らないです」

「通帳を見れば」

「通帳を見れば、落ちていないことは分かります。ただ、記帳しないと分かりません。それに、落ちていないことは分かっても、次にいつ落ちるかは分かりません」

菅原は、そこで、一度、間を置いた。

「窓口に来る人は、たいてい、ハガキを持ってきます」

「持ってくるんですか」

「持ってきます。ハガキを出して、これは何ですか、と訊かれます。うちは、ハガキに書いてあることを読み上げます。それしかできません」

「銀行が、日付を持っていないから」

「そうです」

宮下が、うなずいた。

「うちも、そうです」

◇

そこから、三つの層の話をした。

契約。予告。実行。

「委任状が、契約です。誰が誰に、何について、いくらまで許したか。いまは、紙です。紙は、金庫の倉庫にあります」

「あります」

宮下が、そう言った。

「探すのに、どのくらいかかりますか」

「半日ですね。古いものだと、もっとかかります」

「その紙に書いてある範囲を、いま、誰かが見ていますか」

「見てないです。依頼が来たら、落とすので」

「そこを、機械が見ます。範囲の外に出たら、止めます」

戸松が訊いた。

「止めたら、企業が困りませんか」

「困ります。だから、止めっぱなしにはしません」

菅原は、そこで、紙にもう一本、線を足した。

「範囲を超えた請求が来たとき、いきなり断りません。振替日までのあいだ、お客さんに、これを許すかどうかを訊きます。許すと言えば、その一回だけ通します。何も言わなければ、通しません」

「黙っていたら、通らないんですね」

「通りません。黙っているのを、許したことにすると、この仕組みが、取りすぎの経路になります」

菅原は、そう言った。

言ってから、その言い方が、自分のものではないような気がした。

気がしたが、続けた。

◇

予告の話に、四十分かかった。

予告は、取引ではない。

予告の段階では、資金を押さえない。触らない。振替日まで、お客さんのお金は、お客さんのものである。残高を見るのは、当日である。

「押さえないんですか」

戸松が訊いた。

「押さえないです」

「押さえたほうが、確実じゃないですか」

「確実です。ただ、押さえると、その間、お客さんはそのお金を使えません。電気代の引落のために、二十日前から、八千円が使えないというのは、おかしいです」

「あ」

「カードのオーソリとは違います。あれは、承認したときに枠を確保します。口座振替は、確保しません。似て見えますが、別のものです」

宮下が、メモを取った。

「そこ、金庫の中で、間違えて説明されそうです」

「間違えると、大きいです。一度、押さえる作りにしてしまうと、戻せません」

◇

再振替の話に、五十分。

「いまは、何回やりますか」

「うちは二回です。企業さんによって違いますけど、二回が多いですね」

「その二回目の日付を、お客さんは、いつ知りますか」

「ハガキで」

「新しい仕組みでは、最初の予告のときに、全部の段を見せます」

「全部、というと」

「一回目が何日にいくら、二回目が何日にいくら、遅延の分がいくら乗るか。全部です。予告の時点で、先に出します」

戸松が、少し驚いた顔をした。

「それ、企業さんが嫌がりませんか」

「嫌がるかもしれません。ただ、いま、その条件は、企業さんと銀行のあいだの契約に埋まっています。お客さんは、自分がどういう条件で再請求されるかを、知らないまま契約しています」

菅原は、そう言って、紙に段を三つ描いた。

「それから、二段目は、前の段が落ちたと確定してからでないと、発火しません」

「日付が来たら、じゃないんですか」

「日付だけで動かすと、一段目の結果がまだ確定していないのに、二段目が走ります。二重に引きます」

「あ」

「一日のうちに、複数回、処理が走る銀行があります。朝に足りなくても、昼に入金があれば、午後の回で成立することがあります。だから、朝に足りなかったことは、まだ失敗ではありません」

「では、いつ失敗ですか」

「その日の窓が閉じたときです。もう、その日には試す回がない、という時点で、初めて失敗になります」

菅原は、そこで、少し言い方を変えた。

「成功と、失敗で、決まる時点が違います。成功は、お金が動いた瞬間に決まります。動いたものは、もう変わらないので。失敗は、次がなくなった時点まで、決まりません」

宮下が、書いていた手を止めた。

「なるほど」

と、言った。

◇

費目と、枠の話に、三十分。

同じ委任状の同じ費目については、成立するのは一件までとする。二度引かないためである。

ただし、それだけでは、取りすぎは防げない。企業は、新しい費目を立てられるからである。「四月分」が通ったあとに、「四月分追加」を立てれば、別の費目になる。

だから、取りすぎを防ぐのは、通算の枠のほうである。ひと月にいくらまで、通算でいくらまで、という上限を、契約に持たせる。

「一つの仕組みで、両方を守ろうとすると、両方守れなくなります」

菅原は、そう言った。

戸松が、訊いた。

「その二つは、どう違うんですか」

「一つ目は、同じものを二度取らないための仕組みです。二つ目は、取りすぎを止めるための仕組みです。守っているものが違います」

「……ああ」

戸松の顔が、変わった。

分かった、という顔だった。

菅原は、それを、見た。

◇

最後に、同じ日に複数の引落が重なったときの話をした。

残高が足りないときに、どれを先に充てるか。

いまは、銀行によって違う。到着順の銀行もあれば、金額の小さい順の銀行もある。決まっていない銀行もある。

「新しい仕組みでは、順番を先に決めます」

「どういう順番ですか」

「まず、お客さんが指定していれば、その指定です。次に、古い請求から。次に、金額の小さいものから。最後は、機械が決められるように、番号の順です」

「金額の小さいものから、というのは」

「そのほうが、件数が多く通ります。ただ、それだけで並べると、遅れて溜まったものが、遅延分が乗って金額が大きくなっているので、いちばん後ろに回ります。いちばん救うべきものが、いちばん後ろになります。だから、古い順を先に置きます」

宮下が、言った。

「お客さんが指定できるんですか」

「できます。いまは、できません」

「それ、うちの窓口で説明できるかな」

「説明できると思います。家賃は必ず先にしてください、というお客さんは、いまでもいます。いまは、聞くだけで、何もできませんが」

宮下は、しばらく黙って、それから言った。

「それ、いいですね」

◇

そのあいだに、宮下が一度、話を止めた場面があった。

「すみません、うち、いま一人なんです」

「一人というのは」

「口座振替の担当が、私一人です。前は三人いました」

宮下は、そう言った。

「この話、私が持って帰るんですけど、持って帰ったあと、誰にも渡せないんです。渡す相手がいないので」

菅原は、少し考えて、言った。

「今日の紙は、置いていきます」

「紙」

「いま描いたやつです。線と、四角と、日付が入っているだけのものですけど、これがあると、次に誰か来たときに、私がいなくても、いまの話がだいたい戻せます」

「戻せますか」

「戻せると思います。私も、この紙で覚えたので」

菅原は、そう答えた。

答えてから、その紙を自分が最初に描いたときのことを思い出そうとした。

思い出せなかったので、そのまま続けた。

◇

三時間半が経っていた。

戸松が、最後に一つ訊いた。

「あの、残高不足って、結局、障害じゃないんですか」

菅原は、答えた。

「障害じゃないです。想定の内側です」

「なぜ、そう言えるんですか」

「予告から振替日まで、この設計は、お金を一切押さえていないからです。押さえていないので、『押さえたのに引けなかった』という食い違いが起きません。起きないものは、例外に集めません。集めるのは、本当の食い違いだけです」

戸松は、うなずいた。

理解した顔をしていた。

橘が、後ろから見ていて、「ありがとうございました」と言った。

二人は、帰った。

◇

菅原は、テーブルの上の紙を、片づけた。

紙は、七枚になっていた。線と、四角と、日付と、段の絵が描いてある。

片づけながら、彼は、自分がいま言ったことのいくつかを、思い返した。

押さえていないので、食い違いが起きない。起きないものは、例外に集めない。

その言い方は、どこかで覚えたものである。

どこで覚えたのか、思い出そうとした。

会議で聞いたのか。資料で読んだのか。三雲が言ったのを、そのまま覚えているのか。そうだとして、いつ、どの場面でだったか。

思い出せなかった。

彼は、紙を揃えて、クリップで留めて、引き出しに入れた。

それだけである。

◇

二人が帰ったあと、橘が言った。

「菅原さん、三時間半、喋りっぱなしでしたよ」

「そうですか」

「疲れました?」

菅原は、少し考えて、答えた。

「窓口の後ろに立ってるほうが、疲れます」

橘は、笑った。

笑って、それから言った。

「あの宮下さん、たぶん、来年いないですよ」

「なぜですか」

「一人でやってるところは、一人が辞めると、そこで切れるんです。金庫の口座振替の担当が一人になってる金庫が、いま、うちの会員で六十を超えてます」

「六十」

「六十です。数えたので」

橘は、そう言った。

「数えたのは、去年です。今年は、数えてないです」

◇

三雲は、一年三か月、この部屋で、人の話を聞いていた。

最初の三週間は、一行も書かなかった。戸畑のところへ行き、梶のところへ行き、橘のところへ行き、共同センターの人間のところへ三度行った。沢井の隣に三時間座って、訊き続けた。

そのあと、書いた。

菅原がその日やっていたことは、それと同じことである。

彼は、気づいていない。

30 知らんわ

八月の盆に、山際に電話をかけた。

かけた理由は、盆に帰らないことを伝えるためである。母には先に言ってあった。山際に言う必要はなかったが、島の家の前の草を、去年、山際が刈っていた。今年も刈られると、悪い。

夜の八時にかけた。三回鳴って出た。

「おう」

「盆、帰れんわ」

「知っとる」

「母から聞いたか」

「聞いた。草はええ、ついでや」

「すまん」

「ええ言うとる」

そのあと、二十秒ほど、何も言わなかった。

山際は、用がなければ切る。切らなかったのは、菅原が切らなかったからである。

「東京は、どうな」

山際が、そう訊いた。

「変わらん」

「何しとるんや、結局」

「決済の、仕組みを作っとる」

「わからん」

「わからんやろな」

「お前、わかっとるんか」

「半分ぐらい」

山際が、笑った。

「そんなら、ええわ」

菅原は、そのあと、少し話した。

部屋の話をした。人が十二人いて、一年半で半分入れ替わった話。ロッカーがあること。深夜に自動販売機が鳴ること。

「十二人で、なんぼの仕事しとるんや」

「その部屋は十二人やけど、全部で二千人おる」

「二千」

「別のとこにおる。会うたことない人のほうが多い」

「二千人で、何年かかるんや」

「あと二年ぐらい」

山際は、少し黙った。

「船一杯で、二人や」

「そうやな」

「二千人で何しとるんか、わしにはわからん」

「わしも、ようわからん」

「そっちは、どうな」

「変わらん」

「獲れとるんか」

「イカが落ちとる。去年の半分や」

「半分か」

「半分。ほんで、油が高い」

「上がったんか」

「二度ばかり上がっとる。二度でも変わる」

「そうか」

「まあ、出るもんは出る。別のもんが増えとるからな」

山際は、そう言った。

「ほんでも、船は減っとる」

「何杯や」

「三杯や。わしが継いだときは、八杯おった」

「八杯おったな」

「上の二人は、来年やめる言うとる。そしたら、二杯や」

菅原は、返事をしなかった。

「お前んとこの船も、まだ置いてあるで」

「置いてあるんか」

「置いてある。母さんが、売らんから」

「売れるんか」

「売れん。誰も買わん。置いてあるだけや」

山際は、そう言った。

「そんでも、置いてあるうちは、あるんやろ」

「あるな」

「そういうもんや」

「乗っとるんか、たまに」

「乗らん。エンジンかからん」

「かからんのか」

「五年も置いとったら、かからんわ」

山際は、そう言った。

「かけたら、かかるかもしれん。かけとらんだけや」

「かけてみたことは」

「ない」

「なんでや」

「かかったら、乗らなあかんやろ」

山際は、そう言った。

「乗る人がおらんもんは、かけんでええ」

菅原は、返事をしなかった。

それから、支店へ人を連れて行った話をした。

「東京の人が、うちの支店に来てな。窓口の後ろに三時間座って、沢井さんに訊いとった。ずっと」

「三時間か」

「三時間や。メモも取らんと」

「何を訊いとったんや」

「伝票を置く順番とか、そういうことや」

「そんなん訊いて、どうするんや」

「あとで、全部言うとった。順番も、言うた言葉も」

「覚えとったんか」

「覚えとった」

「頭のええ人やな」

「ええと思う」

「お前より、ええんか」

「比べもんにならん」

山際は、笑わなかった。

「そんなん、比べんでええやろ」

「比べとらん」

「比べとる言い方や」

菅原は、返事をしなかった。

山際は、少し黙った。

それから、言った。

「その人、お前の島の話、聞きたがったんやろ」

菅原は、返事をしなかった。

「船が出ん話とか、しとらんか」

「した」

「そうやろ」

山際は、それだけ言った。

「なんでや」

「知らんわ」

山際は、そう言って、切った。

◇

菅原は、携帯を持ったまま、しばらく座っていた。

寮の部屋である。八月の夜で、エアコンが効いている。窓の外に、隣の棟の明かりが見える。

山際が何を言いたかったのか、彼には分からなかった。

分からなかったので、そのまま、放っておいた。

◇

十分ほどして、山際から、また電話が来た。

「おい」

「なんや」

「草な。来月も刈るで」

「すまん」

「ええ言うとる。ほんで、あれや」

山際は、そこで少し止まった。

「盆に帰らんのは、ええ。けど、母さん、こないだ転んどるからな」

「聞いとらん」

「言わんやろ、あの人は」

「大丈夫なんか」

「歩いとる。診療所も行った。骨は折れとらん」

「そうか」

「わし、たまに見に行っとる」

「すまん」

「それも、ええ言うとる」

山際は、それだけ言って、切った。

◇

菅原は、そのあと、島に電話をかけた。

母が出た。

「もしもし」

「転んだんか」

「誰から聞いた」

「山際」

「あれは、口が軽い」

「軽くない」

「大したことない。段のとこで、尻餅ついただけや」

「診療所は」

「行った。なんともない」

「そうか」

「そっちは」

「変わらん」

「ほんなら、ええ」

母は、そう言った。

電話は、三分で終わった。

◇

切ってから、菅原は、自分が転んだことだけを訊いて、そのあと何も訊かなかったことに気づいた。

いつから足が悪いのか。買い物はどうしているのか。冬に船が出ない週を、どうやって越しているのか。

訊けば、答えは返る。

訊かなかった。

訊かなかったのは、訊いたあとに、こちらが何かをしなければならなくなるからである。

彼は、そこまでを、はっきりとは考えなかった。

考えないまま、携帯を充電器に挿して、寝た。

31 頭割り

「頭割りだと、小さいところが死にます」

九月に、橘はそう言った。会員金庫のあいだで、費用の分担が割れていた。

新しい基盤に繋ぐには、金庫の側のシステムに手を入れる必要がある。共同のセンターを使っている金庫がほとんどなので、センター側の改修を、金庫で分担する。

分担の方法は、頭割りだった。

規模ではなく、頭数である。理由は、そのほうが決めやすいからで、四十年、そうしてきたからだった。

「頭割りだと、小さいところが死にます」

橘は、そう言った。

九月の第二週の水曜、共同センターへ出張することになった。

菅原も、行くことになった。

理由は、継続収納の実務について、金庫側の担当者から直接聞く必要があったからである。事務局からは、「ついでに」と言われた。

◇

共同センターは、埼玉の、駅からバスで十五分のところにあった。

建物は、四階建てで、白い。窓が小さい。周りは、倉庫と、工場と、駐車場である。バスを降りて、三分歩く。

正面に、金属の門があった。門は開いているが、脇に守衛の詰所がある。詰所の窓が、腰の高さで開いていて、そこに名簿が置いてあった。名簿に、会社名と、名前と、訪問先の部署と、時刻を書く。

書いてから、建物までに、もう一度、確認がある。

入口の風除室で、身分証を見せて、写真を撮られる。撮った写真が、その場で印刷されて、札になった。札には、菅原の顔と、名前と、その日の日付が入っている。

「これは、お帰りのときに、こちらへお返しください」

「はい」

「四階から上は、この札では入れません」

「四階に、何があるんですか」

受付の男は、答えなかった。答えずに、「三階へどうぞ」と言った。

風除室を抜けると、床の材質が変わった。ロビーは、銀行協会のビルとは似ていない。天井が低く、蛍光灯が並んでいて、明るい。ソファはない。壁に、掲示が三枚。避難経路と、その月の目標と、献血の案内である。

エレベーターは二基しかなかった。一基は、鍵がないと動かない。

会議室は三階だった。長机が口の字に並べてあって、二十人ぶんの席がある。前にプロジェクタのスクリーンがあり、その脇に、去年の防災訓練の予定表が貼ったままになっていた。

会議室の空調が、寒かった。

一台の吹き出し口の下に、誰かが段ボールを立てかけてある。風を逸らすためである。段ボールには、別の会社の名前が印刷されていた。

菅原は、その段ボールを見た。

四階の部屋の、空調の吹き出し口の下の席を思い出した。あそこでは、三か月で二人が替わった。ここでは、段ボールで済ませている。

十三時に始まった。

金庫の側から、九人来ていた。

九人のうち、四人が、大きい金庫の人間だった。残りの五人が、小さい金庫である。

◇

説明は、センター側がやった。

改修の内容と、必要な工数と、費用の総額。総額は、億の単位だった。

「これを、参加金庫で分担していただきます」

「分担の方法は」

「従来どおり、均等でお願いしたいと考えております」

そこから、二時間、揉めた。

小さい金庫の一人が、言った。

「うちは、預金が千二百億です。職員は九十人です。この金額を頭割りされると、うちの年間のシステム予算の三年分になります」

大きい金庫の一人が、言った。

「うちは一兆超えてますが、頭割りでも、うちだけ多く払うわけではないんですよね」

「そうです」

「では、うちは頭割りのほうが得ですね。ただ」

その人は、そこで、少し言い方を変えた。

「うちが多めに持てば済む話でもないと思っています。うちが多めに持つと、来年も再来年も、うちが持つことになります」

別の小さい金庫の人が、言った。

「率直に申し上げると、うちは、この基盤を使いません」

部屋が、静かになった。

「使わないというか、使う客がいません。うちの取引先は、地元の商店と、農家と、あとは年金の受取口座です。即時決済だの、条件決済だのという話は、うちには一件も来ません。来ないものに、三年分の予算は出せません」

橘が、口を開いた。

「口座振替は、来ます」

「口座振替は、いまのままで回っています」

「回っています。ただ、いまのままだと、三年後に、収納企業の側が対応しなくなる可能性があります」

「それは、脅しですか」

「脅しではないです」

橘は、そう言った。

「電気とガスとで、新しいほうに寄せる動きが出ています。出ていますが、まだ決まっていません。決まってから対応すると、間に合いません。間に合わないと、その金庫の口座は、振替の指定先から外れます」

「外れると」

「口座は残ります。減りません。ただ、その口座から、毎月出ていくお金が、別の銀行の口座から出ていくようになります」

その人は、しばらく黙った。

それから、言った。

「それは、うちが決められることではないですね」

「決められないです」

「決められないことのために、三年分の予算を出せと言われている」

「言われています」

橘は、そう答えた。

答えたあと、頭を下げた。

下げる理由のない場面だった。彼女は中金の人間であって、費用を決める立場にない。それでも、下げた。

◇

十五時四十分に、いちばん大きい金庫の担当者が、時計を見た。

見て、「そろそろ、次がありますので」と言って、席を立った。

立ったあと、部屋の温度が変わった。残ったのは八人である。八人のうち、五人が小さい金庫だった。

センターの側の説明者が、残りの資料を三枚めくって、「では、この件は次回に」と言った。

小さい金庫の一人が、その三枚のことを訊いた。

「いま飛ばされたところ、何が書いてあるんですか」

「次回に、あらためて」

「うちは、次回、来られないかもしれません」

部屋が、少し静かになった。

「来られない、というのは」

「出張の費用が、年に四回までなんです。今年は、これで三回目です」

センターの側の説明者は、少し困った顔をして、資料を三枚戻した。

戻して、五分で説明した。

菅原は、その五分を書き取った。書き取ったものが、あとで橘の説明会の資料の二頁目になる。

◇

十六時に、結論は出なかった。

継続することになった。次は十月である。

◇

帰りのバスで、橘が言った。

「すみません、菅原さん。あんなの見せて」

「いえ」

「うちの中で、あれをやってます。ずっと。四十年」

「はい」

「対応したい金庫と、対応しても回収できない金庫が、同じ船に乗ったまま、動けないんです。降りることもできない。降りると、繋がらなくなるので」

橘は、窓の外を見ていた。

「うち、名前を全部覚えてるって言ったでしょう」

「言ってました」

「あれ、便利だからじゃないんです」

橘は、そう言った。

「覚えてないと、頭割りの話をするときに、数字にしか見えなくなるからです」

バスは、駅に着いた。

菅原は、そのあと、東京に戻って、二十一時まで部屋にいた。

◇

十月の第二週に、もう一度、共同センターへ行った。

二度目は、菅原一人だった。

用は、継続収納の様式である。センター側の担当者と、二時間、画面の項目を突き合わせた。

担当者は、五十代の男性で、名前を久我といった。二十六年、そのセンターにいるという。

「この項目、いま何が入ってるんですか」

「いまは、空です。企業さんによっては入れてきますけど、うちは見てないです」

「見ていない項目が、いくつありますか」

久我は、少し笑った。

「数えたことないですね」

「数えられますか」

「数えられます。ただ、数えると、たぶん、驚きます」

帰りがけに、久我が言った。

「そういえば、先週も、東京から人が来てましたよ」

「うちのほうからですか」

「いや、鉄道のほうの人です。運行の管理の。うちの端末の、時刻の合わせ方の話でした。あちらも、いま火事らしいですね」

菅原は、名前を訊かなかった。

訊く理由が、その場面には、なかった。

「大変ですね」

と、言った。

◇

二週間後に、久我から表が届いた。

四十四項目のうち、十九項目が、受け取ってはいるが使っていないものだった。

そのうちの六項目は、二十年以上前に、使うつもりで作られたものである。作った理由を知っている人間は、もういない。

菅原は、その表を、新しい仕様の側の項目と突き合わせた。

十九のうち、七つが、新しい仕様では要らない。九つは、新しい仕様では別の場所に持つ。残りの三つは、どちらにも居場所がなかった。

その三つを、彼は、久我に返した。

「これ、消していいですか」

「消していいと思いますよ。ただ、消すには、うちの委員会に諮らないといけないです」

「委員会」

「金庫さんが出てくる委員会です。年に二回です」

「次は」

「三月です」

◇

久我とは、そのあとも、月に一度、電話で話すようになった。

用件は、たいてい様式のことである。ただ、五分の用件のあとに、五分の雑談がついた。雑談の中身は、センターのことだった。

久我は、二十六年、そのセンターにいる。そのあいだに、大きな更改が三度あった。三度とも、直前の半年が同じような具合になった、と言った。

「同じような、というのは」

「人が増えて、部屋が足りなくなって、会議室で寝る人が出ます」

「三度とも、ですか」

「三度ともです。で、終わると、みんないなくなります」

「久我さんは、残られるんですね」

「残ります。私は、ここの人間なので」

菅原は、その言い方を、覚えた。

覚えて、二年あとに、別の人から同じ形の言葉を聞くことになる。「私はね、ずっとここにいるから」。ただし、その人は東京の地下一階にいて、金融のことは一つも分からない。

◇

菅原は、その三つを、三月まで残すことにした。

三月の委員会で、二つは消えた。

一つは、残った。理由は、ある金庫が、その項目を独自の用途で使っていたからである。使っていることを、センターも知らなかった。

32 帰省

一月に、島へ帰った。

正月の三日から五日である。二年ぶりだった。前の年は、実証実験の準備で帰れなかった。

前の日の二日に、県庁所在地へ入った。

年始の営業は、五日からである。だから、支店には誰もいないはずだった。

いた。

湊町支店の裏口の明かりがついていて、駐車場に車が三台あった。

菅原は、少し迷ってから、裏口のインターホンを押した。

出てきたのは、沢井だった。

「あら」

「すみません、明かりがついてたので」

「機械の点検よ。年に一回、この時期にやるの。私は立ち会いだけ」

沢井は、菅原を中へ入れた。

営業室は、暗かった。窓口の三つのうち、二つに白い布がかけてある。カウンターの上に、番号札の機械が置いてあって、電源が落ちている。

奥で、業者の人が二人、端末を開けていた。

「お茶でも出したいけど、給湯止めてるのよ」

「いえ」

菅原は、カウンターの内側に立った。

立って、伝票の綴りの置き場所を見た。

「そこ、変わったのよ」

「変わりましたね」

「去年の秋にね。全部、一段下げたの。腰が痛くなるから、私が言ったのよ」

「通ったんですか」

「通ったわよ。四年かかったけど」

沢井は、そう言って、笑った。

菅原は、その置き場所を、見ていた。

一段下げると、伝票を取る動作が変わる。前は、腕を上げて取っていた。いまは、下ろして取る。取ったあとの、めくる向きも変わる。

三十八年やっている人が、四年かけて変えたのが、この一段である。

「東京は、まだ長いの」

「あと一年半ちょっとです」

「そう。帰ってきたら、どこ行くの」

「分かりません」

「まあ、どこでもいいわよ。ひろみちゃんは、どこ行っても同じだから」

沢井は、そう言った。

褒めているのか、そうでないのか、菅原には分からなかった。

十六時に、菅原は支店を出た。

翌日の朝の便で、島へ渡った。

三日の朝の便は、出た。

風のない日だった。海が平らで、船が揺れない。甲板に出ている人が、二人いた。子どもと、その父親らしい男である。

菅原は、座敷に座っていた。

二時間十分のあいだ、彼は、ほとんど何も考えなかった。

◇

家は、変わっていなかった。

母は六十七になっていた。台所と、仏間と、自分の部屋のあいだを、前と同じ速さで往復していた。

「痩せたな」

母が言った。

「そうか」

「東京は、飯が高いんやろ」

「安いのもある」

昼に、雑煮を食べた。餅を何個入れるか、という話をした。母は二個と言い、菅原は一個でいいと言った。結局、二個入っていた。

◇

夕方に、集落を歩いた。

家が、減っていた。

二年前に空き家だった家が、二軒、崩れかけていた。屋根の一部が落ちて、そこから中が見えている。町が、その周りに柵を立てていた。

診療所の前を通った。

診療所は、木曜と金曜だけになっていた。掲示に、そう書いてある。二年前は、月・水・金だった。

その先に、小学校がある。

校庭に、遊具が三つある。ブランコと、鉄棒と、滑り台。ブランコは、二人乗りである。四人しかいない学校に、二人乗りのブランコが一つある。

菅原は、校門の前で、少し立っていた。

彼が通っていたころ、この学校には、六十人いた。同学年が九人で、そのうち五人が男だった。九人のうち、いま島にいるのは、山際だけである。

高校がないので、十五で出る。

出たあと、戻ってくるかどうかは、それぞれの事情である。誰も、戻れとは言わない。

◇

夜、テレビを見た。

母が、途中で言った。

「まだ東京か」

「まだや」

「そうか」

それだけだった。

母は、東京で何をしているのかを、訊かない。

一度も訊いたことがない。

◇

四日の朝、港へ行った。

山際の船が、入っていた。舷にロープが二本かかっていて、甲板に、赤いコンテナが四つ積んである。

山際は、船の上にいた。

「おう」

「おう」

菅原は、岸壁から乗り移った。長靴を借りて、甲板に立った。

一時間ほど、話した。

話の中身は、島のことである。漁協の合併の話。診療所の医師が、週三日から週二日になった話。小学校の児童が四人になった話。四人のうち二人が兄弟だという話。

「お前んとこの前の畑、誰か作っとるんか」

「作っとらん」

「草生えとるやろ」

「生えとる」

山際は、それだけ言った。

十時ごろ、山際が訊いた。

「東京の仕事、まだ長いんか」

「あと一年半ぐらいや」

「そのあとは」

「わからん」

「銀行やろ。どっか行くんやろ」

「行くやろな」

菅原は、そう答えた。

山際が、言った。

「なんの仕事しとるんや、結局。母ちゃんも、わからん言うとった」

菅原は、少し考えた。

「決済の、仕組みや」

「それは、前も聞いた」

「そうか」

「その、決済いうんは、なんや」

菅原は、そこで、説明しようとした。

◇

「たとえば、電気代が、毎月、口座から落ちるやろ」

「落ちる」

「あれを、どういう順番でやるか、決めとる」

「順番」

「そう。誰が、いつ、何を決めて、いつ払ったことになるか」

「払ったことになるんは、金が出たときやろ」

「そうや。そうなんやけど、その、出たかどうかを、誰がどこで確かめるか、いうのを——」

菅原は、止まった。

「確かめるも何も、通帳見たらわかるやろ」

「わかる。わかるんやけど」

彼は、もう一度、言い直そうとした。

言い直そうとして、言い直せなかった。

説明するのに使える言葉が、彼の中に、二種類しかなかった。一つは、部屋で使っている言葉である。同期の境界、確定点、証跡、収束先。それは、山際には通じない。もう一つは、窓口の言葉である。伝票、組戻し、振替日。それも、山際には通じない。

その二つのあいだをつなぐ言葉を、彼は持っていなかった。

七月に、宮下と戸松には説明できた。あれは、二人が銀行の人間だったからである。

山際には、できない。

「まあ、ええわ」

山際が、言った。

「わからんでも、飯は食えとるんやろ」

「食えとる」

「そんならええ」

山際は、そう言って、ロープを解きにかかった。

◇

港からの帰りに、漁協の前を通った。

建物の前に、掲示板がある。組合員の名前と、その年の当番が貼ってあった。名前の数を、菅原は数えた。

三十一だった。

彼が高校を出た年には、七十を超えていた。数えたわけではない。ただ、あのころは掲示の紙が二枚あって、いまは一枚である。

紙の下のほうに、鉛筆で線を引いて消してある名前が、四つあった。

そのうちの一つが、菅原の父の名前だった。

消されたのは、五年前である。消したのは誰か分からない。線は定規で引いてあって、まっすぐだった。

菅原は、それを、しばらく見ていた。

見て、家へ戻った。

◇

昼に、家へ戻った。

母が、昼飯を出した。

「克巳とおったんか」

「船におった」

「あの子は、よう働くわ」

「うん」

母は、それから、洗い物をしながら、背を向けたまま言った。

「あんたの仕事は、まだようわからんわ」

「わからんやろ」

「三年もやっとるのに、まだわからん」

菅原は、答えなかった。

答えられなかった。

七月に、彼は人に教えられた。三時間半、教えられた。相手は理解して帰った。

母には、説明できない。

説明できないのは、母が分からないからではない。彼が、その言葉を持っていないからである。

◇

四日の夜に、母が、仏壇の前で線香を上げているのを見た。

菅原は、その後ろに座った。

母は、振り返らずに言った。

「あんた、正月に帰ってきたん、何年ぶりや」

「二年ぶりや」

「そうか」

母は、そう言って、鈴を鳴らした。

「去年は、なんやったんや」

「試験があった」

「試験」

「機械の試験や。三月にやることになっとって、その準備が」

「ふうん」

母は、それ以上訊かなかった。

訊かないので、菅原は続けた。

「実際にな、金が動くんや。ちょっとだけやけど。試すのに、五つの銀行が要る。五つが揃わんと、始められん」

「揃わんかったんか」

「揃った。二月に」

「そんなら、ええやないか」

母は、そう言って、立ち上がった。

立ち上がって、台所へ行った。

菅原は、仏壇の前に残った。

いま自分が説明できたのは、日付と、人数と、揃った揃わないだけである。中身は、一つも言えていない。

言えていないが、母は「ええやないか」と言った。

その二つが噛み合っていないことを、彼は分かっていた。

◇

五日の昼の便で、島を出た。

風は、まだなかった。

船が出るとき、菅原は、初めて甲板に出た。

一月である。風がないといっても、海の上は寒い。彼は、十分で中に入った。

入るときに、港のほうを振り返った。

山際の船が、繋いであった。

33 宣言する

一月の下旬に、金庫の分担の話が、もう一度、部屋に上がってきた。

十月と十二月の会議で、結論が出ていなかった。センター側は、三月までに決めないと、改修の着手が半年ずれると言っている。半年ずれると、稼働の日程に影響する。

事務局が、案を二つ出した。

一つは、頭割りのまま、小さい金庫に補助を出す案。原資は、大きい金庫と中金である。

もう一つは、参加の要件を下げる案。全部の機能に対応することを求めず、一部だけでも参加できるようにする。

芝原が、二つ目に反対した。

「要件を下げると、下げたところに合わせて、全体の作りが引きずられます。いちばん弱いところに合わせると、強いところの機能が出せなくなる」

皆川が、言った。

「ただ、参加できない金庫が二百近く出ると、この基盤の意味が薄くなります」

「そこは、そうです」

議論は、そこで止まった。

止まったのは、両方が正しいからである。

◇

菅原が、言った。

「能力の申告を、使えないでしょうか」

全員が、菅原を見た。

彼は、その言い方が正しいかどうか、自信がなかった。

「一昨年の九月に、勘定系の接続のところで整理したものがあります。行ごとに、何ができて何ができないかを、先に申告してもらうというやつです。同期で確保を返せるか。停止する時間帯があるか。通知の口があるか」

戸畑が、うなずいた。

「あります。対応レベルの三段のやつですね」

「はい。あれは、いま、参加行の勘定系についてだけ使っています。それを、参加の要件の側に使えないかと思いました」

「使うというのは」

「金庫に、できないことを申告してもらいます」

菅原は、そう言った。

「対応できないところを切るのではなくて、どこまでできるかを、先に書いてもらう。書いたものに応じて、その金庫に割り当てるものを決めます」

芝原が訊いた。

「それは、要件を下げるのと、何が違うんですか」

「下げるのは、全体の要件です。これは、下げません。全体の要件はそのままにして、その金庫が受け取るものを、その金庫の申告に合わせます」

「具体的には」

菅原は、紙を一枚出した。

前の晩に書いたものである。

◇

「受け取るだけの参加、というのが、繋がる段のいちばん下にあります」

彼は、そう言った。

「送るほうはやらない。受けるだけ。受けるだけなら、同期で確保を返せなくてもできます。停止時間帯があってもできます。溜めておいて、明けてから処理すればいいので」

「それだと、その金庫の客は、送金ができませんね」

「できません。ただ、いまも、その金庫の客の大半は、送るより、受けるほうが多いです。年金と、給与と、あとは口座振替です」

菅原は、そこで、二つ目を出した。

「口座振替の即時のやつは、その金庫には割り当てません」

「割り当てない、というのは」

「割り当てられません。即時のものは、同期で返せる参加行でないと、できません。返せない参加行に割り当てると、返ってこないまま、指示だけが残ります」

「では、その金庫の客は、即時の口座振替が使えない」

「使えません。かわりに、予告付きのほうへ、自動で下げます」

菅原は、そこで、一度、言い方を選んだ。

「下げたことを、受取側の銀行に返します。黙って下げません」

戸畑が、顔を上げた。

「それは、二年前に三雲さんが言ってたやつですね」

「はい」

「弱い側へ寄せる、というやつだ」

「そうです」

菅原は、うなずいた。

「あのときは、参加行の中の話でした。参加行が申告した値に矛盾があったときに、弱いほうへ寄せる。今回は、参加のところで、同じことをします」

芝原が、腕を組んだ。

「なるほど。ただ、それは、その金庫を『できない金庫』として記録に残すということですよね」

「残ります」

「残ると、その金庫は、外から見て、劣後した扱いになりませんか」

菅原は、答えた。

「なります」

はっきり、そう言った。

「なりますが、いまは、その手前で切られます。切られると、繋がりません。繋がらないと、口座は残っても、金だけが出ていきます。劣後した扱いで繋がるのと、繋がらないのとでは、違います」

芝原は、何も言わなかった。

橘が、言った。

「言います」

全員が、橘を見た。

「うちの金庫は、言います。できないことを言えば繋いでもらえるなら、言います。言うと不利になると思っているから、言わないだけです。不利にならないなら、書きます。うちの担当者は、自分のところが何ができないかを、いちばんよく知っています」

菅原は、そこで、もう一枚の紙を出した。

「これは、私が書いたものです」

その紙には、表があった。

左に、機能が並んでいる。右に、汐入銀行の勘定系が、何ができて、何ができないかが書いてある。

できないことのほうが、多かった。

「うちも、書きました」

「汐入さん、これ、出せるんですか」

「出します」

菅原は、そう答えた。

「出さないと、他所も出しません」

◇

この案は、三月の会議で採られた。

正確には、この案が、そのまま採られたわけではない。事務局が整理し直し、共同センターが実現性を確認し、費用の分担についても、頭割りのまま、参加の段階に応じて時期をずらすという形が付いた。

菅原の紙は、その過程で、二度、書き直された。

書き直したのは事務局である。

最終の資料には、菅原の名前はない。

書き直された二度のうち、一度目で消えたのは、例の一行だった。

「対応できない金庫を切らない」

事務局は、それを「参加要件の段階的適用」に直した。直した理由を、菅原は訊いた。

「上に出す資料なので」

「切らない、では駄目ですか」

「切る、という語が入っていると、切ることを検討したように読まれます」

菅原は、それで納得した。

納得したが、二度目の書き直しのあとの資料を読んで、もとの一行が何を言っていたのかは、もう分からなくなっていると思った。

分からなくなっていても、仕組みは残る。

残れば、いい。

◇

その日、部屋を出るとき、橘が言った。

「菅原さん、あの表、うちの中で使わせてください」

「どうぞ」

「あれ、金庫の担当者が書けます。設計は書けないけど、できないことなら書けます」

菅原は、うなずいた。

◇

四月から六月にかけて、菅原は、その表を配って回った。

配って回る、というのは、比喩ではない。

信金中金を通して、会員金庫に照会を出した。出したが、返ってこない。返ってこないのは、書き方が分からないからだった。

「できないことを書いてください」という照会は、金融機関の照会としては、異例である。

たいていの照会は、逆である。対応可能かどうかを問う。対応可能と答えれば話が進み、不可と答えれば、そこで止まる。だから、担当者は、書けるかぎり「可」と書く。書いておいて、あとで何とかする。何とかならなかったときに、本番で出る。

橘が、説明会を四回開いた。

会場は、四回とも違った。二回が信金中金の会議室、一回が大阪、一回が仙台である。

菅原は、そのうち二回に出た。

一回目は、東京だった。集まったのは十八人。うち十四人が、金庫の事務部か、システムの担当である。橘が四十分説明して、質問が三つ出た。三つとも、費用の質問だった。

菅原は、その日は一言も喋っていない。

二回目は、仙台である。

朝の新幹線で行って、夕方の新幹線で戻った。乗車の場面は、書くことがない。彼は自由席の窓側に座って、表の様式を膝の上で直しながら、二時間で着いた。

会場は、駅から歩いて六分の貸会議室だった。金庫の側から、二十二人来ていた。二十二人のうち、七人が五十代以上で、その七人が、いちばん前に座っていた。

橘の説明のあと、菅原が二十分話した。

話したのは、様式の書き方である。どの欄に何を書くか。分からない欄は、分からないと書いてよいこと。書いた内容で不利にならないこと。

二十分話して、質問が九つ出た。

九つのうち、六つは「この欄の意味が分からない」だった。菅原は、その六つを書き取って、東京へ戻ってから、様式の欄の名前を六つとも変えた。

「同期応答の可否」を、「その場でお返事を返せるか」に変えた。

「冪等性の有無」を、「同じご依頼が二度届いたときに、二度目だと分かるか」に変えた。

長くなった。長くなったが、回答が来るようになった。

◇

回答は、紙で来た。

信金中金が取りまとめて、月に二度、封筒でまとめて送ってくる。菅原は、それを一枚ずつ読んだ。

読みながら、欄の外に書いてあるものを、別に抜き出した。

欄の外に、鉛筆で書き足してある回答が、いくつもあった。

「たぶんできるが、確認していない」
「前任者がそう言っていた」
「うちのベンダーに訊いたが、まだ返事が来ていない」
「昔はできた。いまはできるか分からない」

菅原は、その書き足しを、全部拾った。

拾って、百七十一のうち、四十三の金庫が、自分の勘定系について「分からない」と書いていることが分かった。

それは、できないと書いた金庫より、扱いが難しい。できないなら、弱い側へ寄せればいい。分からないものは、寄せる先が決まらない。

菅原は、その四十三に、順に電話をかけた。

一日に四本が限度だった。相手が出るまでに時間がかかり、出たあとで、その場では答えられないことが多い。折り返しを待つ。折り返しは、二日後か、来ない。

四十三本を終えるのに、七週間かかった。

七週間の終わりに、四十三のうち、三十一が「できない」に変わった。八つが「できる」に変わった。四つは、最後まで分からないままだった。

四つは、いちばん低い段に置いた。

置いた理由を、菅原は表の備考に書いた。「未確認のため、できない側で扱う」。

戸畑が、あとでその四文字を見て、言った。

「これでいいです」

「はい」

「分からないものを、できる側に置くと、本番で出ます。できない側に置いても、本番では出ません。損をするのは、その金庫だけです」

「はい」

「それは、その金庫が引き受けるべき損です。書かなかったのは、その金庫なので」

菅原は、それを聞いて、少し黙った。

黙ったのは、その言い方が正しいと思ったからである。正しいと思ったが、四十三本の電話のうち、十二本で、相手が「すみません、うちは人が一人しかいなくて」と言ったことも、彼は覚えていた。

その二つは、両方とも本当だった。

二回目の説明会で、ある金庫の担当者が訊いた。

「これ、書いたら、うちは繋いでもらえないということになりませんか」

「なりません」

菅原は、そう答えた。

「書いたことに応じて、割り当てるものを決めます。書かないと、割り当てが決められません。決められないと、いちばん高い前提で見積もることになります」

「いちばん高い前提、というのは」

「全部できる前提です。全部できる前提で作ると、その改修費が、頭割りで乗ります」

部屋が、少し静かになった。

「書いたほうが、安いということですか」

「安くなる可能性があります」

菅原は、そう言った。

「約束はできません。分担の決め方は、この部屋では決められないので」

その説明会のあと、回答が集まり始めた。

六月末までに、百七十一の金庫から回答が来た。

回答のうち、いちばん多かった記載は、「同期で応答を返せない」だった。次に多かったのが、「夜間に停止する時間帯がある」である。三番目が、「通知を受け取る口がない」だった。

三つとも、想定していたものである。

想定していなかったのは、四番目だった。

「同じ要求を二度受けたときに、二度目だと気づけない」

これを書いた金庫が、六十四あった。

菅原は、その六十四を、戸畑に見せた。

戸畑は、それを見て、しばらく黙っていた。

「六十四か」

「六十四です」

「これは、書いてくれてよかったな」

戸畑は、そう言った。

「書いてなかったら、本番で、二重記帳が出る」

「出ますか」

「出る。通信が切れて、再送したときに出る。年に何回か、必ず出る」

戸畑は、そう言って、その表を持って、自分の席へ戻った。

◇

彼が書けるのは、仕様ではない。

できないことの一覧である。

それが、役に立った。

34 根岸が受けていたもの

一年半前の会議で決めたはずのことが、いまの版に入っていない——参加行から、そういう指摘が来た。

二月である。菅原は、どこで落ちたのかを確認するために、古い版の資料を読むことになった。事務的な仕事である。

三雲が言い残していたことがある。上書きしないでください、と言った。変更前の値を残してください、と言った。

そのとおりにしてあった。

菅原は、事務局のフォルダを開いて、版を順に並べた。

二年ぶんある。

◇

三日かけて、読んだ。

版は、二百十一あった。

二百十一のうち、菅原が関わったものが六十四ある。関わっていないものが百四十七ある。関わっていないもののほとんどは、実装の側が更新したものだった。

版と版のあいだには、必ず、変更の記録がある。誰が、いつ、何を、なぜ変えたか。

「なぜ」の欄が、空になっている版が、三十一あった。

三十一のうち、二十九は、去年の八月から十月に集中している。菅原は、その時期に何があったかを覚えていた。機能が三つ増えて、日程の棒が七本動いた時期である。

書く時間がなかったのだろう、と彼は思った。

思ったが、そう書いてある版は一つもない。

指摘された箇所は、二日目に見つかった。落ちたのは単純な理由で、資料の統合のときに、一節が丸ごと抜けていた。抜けたのは去年の四月である。直した。

二日目の夜に、もう一つ、目に入ったものがあった。

一年半前の版の、変更の記録である。

継続収納の、失敗が確定する時点についての記述が、一度だけ直されていた。日付は、彼女が抜ける三日前である。

直したのは、語順だった。

「後続の試行がありえなくなった時点で、失敗が確定する」が、「失敗が確定するのは、後続の試行がありえなくなった時点である」に変わっている。意味は、同じである。読む順番だけが違う。

備考の欄に、一行あった。

「窓口が読む順に直す」

菅原は、それを、二度読んだ。

その版を閉じて、次の版を開いた。

◇

三日目に、彼は、別のものを見つけた。

見つけるつもりはなかった。版を順に見ていたので、目に入っただけである。

◇

会議に上がった機能の一覧が、版ごとに違う。

それは、当たり前である。増えているからである。

ただ、増え方が、一定ではなかった。

ある版と、次の版のあいだに、根岸が廊下に出た会議がある。出て、戻って、機能が増える。それは、菅原が見てきたとおりだった。

だが、一年目の秋から二年目の春にかけて、逆のものがあった。

会議の前に事務局に届いた「照会事項」の紙と、会議の議題との差である。

照会事項には、七項目ある。議題には、四項目しかない。

次の回も、そうだった。九項目のうち、五項目。

その次も。

差の三項目、四項目は、どこにも出てこない。

菅原は、それを、三回分、突き合わせた。

三回とも、落ちている項目は、根岸が持ち帰った回のあとに、照会事項の側から消えていた。

議題に上がっていない。上がっていないので、部屋の誰も、その存在を知らない。

三つ、あった。

一つは、レーンをもう一つ増やす話だった。もう一つは、稼働の時期を半年前倒しする話だった。三つ目は、参加行の名前を、稼働前に公表する話である。

三つとも、この部屋には降りてこなかった。

◇

菅原は、その三枚を、印刷した。

印刷して、しばらく、机の上に置いていた。

それから、シュレッダーにかけた。

かけてから、席に戻った。

◇

根岸は、その日も、部屋にいた。

会議で、二度、廊下に出た。

戻ってきて、席に座って、資料を見た。それから、「一括決済の締切の扱いですが、もう一段、細かくできますか」と言った。

梶が、工数を出した。

菅原は、根岸の顔を見ていた。

腹が出ている。ボタンを留めない。鞄はいつも同じで、角が擦れている。若手は、この人を無能だと思っている。決めないからである。持ち帰ります、しか言わないからである。

菅原は、あとで、事務局の課長から一度だけ聞いた。根岸は、あの銀行で最も早く部長になった一人で、四十八歳だったという。そこで一つ務めて、五十を過ぎてから、この部屋に送られてきた。送られてきた、という言い方を、課長はした。

見た目は、どこにでもいる五十過ぎの男である。だが、廊下に出て、戻ってきて、増えるものと増えないものを分けているのは、この人だった。

決めない人ではなかった。

決める権限がないまま、束ねる人だった。

上から降ってきたもののうち、通せないものを、この部屋に降ろさずに止めていた。止めたことを、本人は一度も言わない。言えば、止めたという事実が記録になる。記録になれば、次から止められなくなる。

菅原は、そのことを、誰にも言わなかった。

言う相手がいなかったし、言っても、根岸が困るだけである。

◇

その夜、部屋を出るときに、根岸と一緒になった。

エレベーターで、二人だけだった。

菅原は、いちばん後ろに立った。

根岸が、前を向いたまま、言った。

「菅原さん、あの表、良かったですね」

「表、ですか」

「できないことの一覧です。あれ、上に持って行きました」

「はい」

「上は、あまり喜びませんでしたが」

根岸は、そう言って、少し笑った。

「喜ばないほうが、通ることもあります」

扉が開いた。

根岸は、先に降りた。

◇

その週の終わりに、菅原は、根岸の席の脇を通った。

机の上に、鞄が置いてあった。黒くて、角が擦れている。三年、同じ鞄である。

鞄の口が、少し開いていた。

中に、紙が入っている。菅原の位置からは、いちばん上の一枚の、端だけが見えた。表題は見えない。ただ、その紙の右上に、赤い枠の印が押してあるのが見えた。

四階の部屋で回っている紙に、その印が押してあるものは、一枚もない。

菅原は、通り過ぎた。

過ぎながら、この人が毎日持ち歩いているものの半分は、この部屋の外のものなのだと思った。

思って、それきりにした。

35 再登板

四月の第二週の月曜、部屋に三雲がいた。

九時十五分に菅原が入ると、窓側の島の、前と同じあたりに座っていた。

一年九か月ぶりである。

「おはようございます」

「あ。……おはようございます」

菅原は、それだけ言った。

「今日から、また入ります」

「そうですか」

「よろしくお願いします」

それだけだった。

◇

十時の打ち合わせで、事務局から紹介があった。

紹介の言葉が、前と違っていた。

前は、「研究所の三雲さんです」と言った。

今度は、「本件の技術支援としてお願いすることになりました、三雲さんです」と言った。

名刺も、変わっていた。

菅原は、その日の午後に、新しい名刺を受け取った。

研究所の名前は、入っている。ただ、その下の肩書きが、前と違っていた。主任研究員ではなかった。

菅原は、その名刺を、両手で受けて、しばらく見た。

見てから、名刺入れに仕舞った。

何も言わなかった。

三雲も、何も言わなかった。

◇

前の週の金曜に、事務局から訊かれていた。

「来週から入られる方の席、どこにしましょう」

部屋は、二年半のあいだに空きが増えていた。空調の吹き出し口の下も、入口の脇も空いている。

「窓側がいいと思います」

菅原は、そう答えた。

「窓側は、午後、光が入りますけど」

「いちばん窓に近いところではなくて、その二つ隣です」

「はい」

事務局は、そこに椅子を入れた。

前にその席にいたのは、二次から入った参加行の担当者で、去年の秋に来なくなっている。マグカップが一つ、机の端に残っていた。事務局が、それを給湯コーナーへ下げた。

◇

その週の水曜、給湯コーナーで、梶が戸畑に言っているのを聞いた。

「三雲さん、あれ、下がってますよね」

「なにが」

「等級です。技術支援って書いてありました。前は主任研究員でしたよ」

「そうか」

「鉄道のほうの火消し、二年近くやってたんですよね。あれ、相当ひどかったって聞いてます。うちの別の部隊も入ってたので」

「そうらしいな」

「それで下がるんですか」

戸畑は、湯を注ぎながら、言った。

「研究所は、業績で決まる。論文だよ」

「論文?」

「二年、火消しに取られたら、書けない。書けないと、業績がない。業績がないと、等級は下がる」

「いや、でも、現場を救ったんですよね」

「現場を救ったのは、業績にならない」

戸畑は、そう言って、湯を注いだ。

梶が、続けた。

「去年の暮れなんか、ずっと向こうに詰めてたらしいですよ。年内は一度も東京に戻ってないって、うちの部隊が言ってました」

戸畑は、それには答えずに、給湯コーナーを出た。

梶は、しばらく立っていた。

「なんですか、それ」

と、誰にともなく言った。

◇

菅原は、その会話を、後ろで聞いていた。

半分しか、理解できなかった。

研究所の人事の仕組みを、彼は知らない。等級というのが、銀行でいう資格等級と同じものなのかどうかも、分からない。論文が何本必要なのかも分からない。

分かったのは、二年近く、火が出ている現場にいて、それが評価されなかった、ということだけである。

分かったが、彼はそれについて、何も言わなかった。

言う相手がいなかった。

◇

その日の夕方、事務局が、九番のロッカーの鍵を、三雲に渡した。

菅原は、自分の席から、それを見ていた。

三雲は、鍵を受け取った。

受け取って、九番の扉を開けた。

そして、黒いバッグを、中に入れた。

扉を閉めた。

一年三か月、彼女は、それをしなかった。毎日、同じバッグを持って来て、同じバッグを持って帰っていた。

菅原は、その一連の動作を、見ていた。

見ていて、なぜ今回は入れたのか、と考えた。

考えて、答えは出なかった。

◇

その週の金曜に、三雲は、四〇二の側へ一度行った。

行って、実装の側の三人と、一時間半話した。

菅原は、四〇一の側から、それを見ていた。三人のうち二人は、二年前にはいなかった人間である。三雲は、その二人に対して、二年前と同じやり方をした。訊いて、聞いて、何も書かなかった。

戻ってきたときに、梶が声をかけた。

「三雲さん、あの二人、去年入ったばっかりですよ」

「そうですか」

「設計の経緯、たぶん知らないです」

「知らない人が、いま動かしているので」

三雲は、そう言った。

「経緯を知っている人だけで動いているうちは、経緯は要りません。要るのは、知らない人が動かし始めたときです」

梶は、少し黙って、「それは、そうですね」と言った。

三雲は、席に戻って、版の一覧を開いた。

その日から二週間、彼女は、二百十一の版を全部読んだ。

読んでいることを、菅原は知らない。知ったのは、六月に、彼女が「二年前の四月の版に、いまと違う値が入っています」と会議で言ったときである。

◇

四月から六月は、部屋がいちばん忙しかった時期である。

十月の稼働に向けて、参加行との接続の試験が始まった。試験は、行ごとに三段階ある。単体、結合、総合。八行それぞれについて、三段階を回す。

この時期に、四〇三の人数が、いちばん多くなった。

四月の中ごろに、机の列が十列になった。十列を入れるために、四〇三の側は、廊下側の壁の書棚を全部出した。出した書棚は、四階の非常階段の踊り場に積まれ、そのまま九月まで置かれていた。

菅原は、その踊り場を、月に何度か通った。

書棚の上に、いつのまにか、段ボールが載るようになった。段ボールの脇に、丸めた模造紙が二十本ほど立ててある。模造紙には、線と四角が描いてある。誰かが会議で使ったものである。

捨てられていない。捨てる係が決まっていないからである。

◇

五月に、別の拠点の人数が、二千を超えたと聞いた。

聞いたのは、梶からである。給湯コーナーで、湯が沸くのを待っているときだった。

「二千人が、何をしてるんですか」

「書いてます」

「書いてる」

「僕らが決めたことを、書いてます。決めるのが遅れると、書く人が空きます。空くと、費用だけが出ます。だから、決めるのを待たずに書き始めることがあります」

「待たずに書くと」

「あとで直します」

梶は、そう言った。

「直すぶんも、人月です」

菅原は、その言い方を覚えた。

支店では、人が待っている時間を費用と呼ばない。渉外が外を回って、一件も取れなかった日も、費用として数えたことはない。数えないから、誰も気にしない。

ここでは、待っている時間に、名前と単位が付いている。

付いていると、待たせないために、決まっていないことを決まったことにする力が働く。

菅原は、そのことを、議事録の話と結びつけた。決まっていないところは、決まっていないと書いてください。曖昧に書くと、あとで、決まったことにされます。

一年半前に、赤で入れられた一行である。

意味が、そのとき初めて分かった。

日程の表が、部屋の壁に貼られた。

横に週が並び、縦に行が並ぶ。升目が埋まると、色が塗られる。塗るのは、事務局である。

四月の第三週の時点で、塗られていたのは、二十四の升目のうち、五つだった。

菅原の仕事は、その升目が埋まらない理由を、各行に訊いて回ることだった。

理由は、たいてい、参加行の側の要員である。四月は、どの銀行も人事異動の直後で、担当者が替わっている。替わった担当者は、前任の引き継ぎを受けている最中である。

「五月からでもいいですか」

「五月からだと、六月に二行が重なります」

「重なると、まずいですか」

「うちのほうの要員が、足りなくなります」

「そうですか」

そういう会話を、菅原は、四月に三十回した。

三十回のうち、七回は、前任者と話した。前任者は、異動したあとも、まだ引き継ぎ切れていないものを抱えていた。

七回のうち、二回は、相手が謝った。

謝られる筋合いはなかった。

◇

四月十七日、金曜。

十四時からの会議で、菅原は、三雲の斜め向かいに座った。

会議の途中で、彼女が資料を取ろうとして、少し前に出た。

そのときに、シャツの襟が少し開いた。

鎖が見えた。

細い鎖が首を回っていて、鎖骨の下に、小さい石が下がっている。白い石が四つ、花の形に組んである。全体で、一円玉より小さい。

彼女が、そういうものを身につけているのを、菅原は見たことがなかった。

一年三か月、同じ部屋にいた。同じ紺のジャケットを二年着ている人である。装身具を、彼は一度も見ていない。

会議は、続いた。

継続収納の、遅延損害金の明細の話だった。

菅原は、その議題について、二度発言した。二度とも、実務の話である。損害金を元本と分けて明細に出さないと、あとで窓口で説明できない、という話をした。

会議は十六時に終わった。

菅原は、そのあと、参加行への照会を三本出して、議事録を書いて、二十時に部屋を出た。

その日は、それだけである。

彼は、何もしなかった。

36 関係のないこと

四月二十二日、水曜。

菅原は、参加行の事務規定の改定案を読んでいた。

十一時ごろだった。

読みながら、ふと、手が止まった。

止まった理由が、自分でも分からなかった。読んでいた箇所は、再振替の予告文言についてのものである。特に難しいところではない。

彼は、そこで、白い石のことを思い出していた。

四つ組んである。花の形をしている。

思い出したことに、彼は少し戸惑った。

五日前のことである。会議で一度見ただけである。

彼は、資料に戻った。

戻って、十分ほど読んで、また止まった。

◇

そのあと、二日ほど、何もなかった。

金曜の夜、寮に帰る電車の中で、また思い出した。

電車は空いていた。座って、携帯を見ていた。見るものがなくなって、顔を上げた。

窓が黒かった。

黒い窓に、車内が映っていた。

そのときに、思い出した。

一度で終わらない、ということに、彼はそこで初めて気づいた。

◇

考えたことは、単純である。

あれは、誰かがくれたものなのか。

考えて、彼は、それを考えていること自体を、少し恥じた。

人が何を身につけていようと、自分に関係のあることではない。

三雲は三十五か、三十六である。自分の一つ上だから、そうなる。そのくらいの人が、そういうものを身につけていることに、何かの意味があるとは限らない。自分で買ったのかもしれない。前から持っていて、たまたま着けていなかっただけかもしれない。

そこまで考えて、彼は、自分がそれを判断する材料を一つも持っていないことに気づいた。

◇

土曜に、彼は、訊ける相手を探した。

探した、というのは、頭の中でである。

堀は、行内の人間である。堀に訊けば、堀は面白がる。面白がって、悪気なく、支店の誰かに話す。話が回る。行内で話が回ると、菅原が東京で何をしているかの話に、余計なものが付く。

山際は、島にいる。山際に訊いても、「知らんわ」と言われて終わる。実際、去年の八月に、そう言われている。

梶は、同じ部屋にいる。訊いた翌日には、部屋の全員が知っている。

橘は、話しやすい。ただ、橘は三雲と同じ女性で、訊いた瞬間に、何を訊いているかが伝わる。伝わったあとの、その反応を、彼は引き受けられない。

古畑は、いない。

大谷内は、訊かない人である。訊かない人に、こちらから訊くのは、筋が違う。

菅原は、そこまで考えて、やめた。

訊ける相手が、一人もいなかった。

そのことのほうが、彼には、少しこたえた。

三年、東京にいる。部屋には十人以上いる。それでも、この種のことを訊ける相手が、一人もいない。

彼は、それを、自分の性質のせいだとは思わなかった。そういうものだ、と思った。

◇

金曜の夜に、彼は一度、堀の名前を画面に出した。

出して、文面を打った。打った文面は、二行である。二行目を消して、一行目も消した。

消してから、そもそも何を訊きたかったのかを、彼は考えた。

考えて、訊きたいことが「あれは誰かがくれたものか」ではないことに気づいた。

訊きたいのは、そういうことを訊いてよいものかどうか、である。

それを訊ける相手がいれば、最初の質問も要らない。

彼は、画面を消した。

◇

日曜の夕方に、その堀から電話が来た。

用件は、別のことである。同期の一人が、系列の会社へ出向することになった、という話だった。

「知っとった?」

「知らん」

「まあ、東京おったら、分からんわな」

堀は、そのあと、支店の話を十分ほどした。人事の話と、店の数字の話と、誰が誰と揉めた話である。菅原は、聞いていた。

「そっちは、どうなん」

「変わらん」

「変わらんことないやろ。三年目やで」

「変わらん」

「お前、それしか言わんな」

堀は、笑った。

菅原は、そこで、訊こうと思えば訊けた。

訊かなかった。

訊かなかったのは、堀が笑ったからではない。堀が、支店の話を十分した相手だったからである。十分ぶんの支店の話のあとに、続けられる質問ではなかった。

電話は、二十分で終わった。

切ってから、彼は、自分が何も訊かなかったことを、特に何とも思わなかった。

◇

土曜の夕方、彼は、結論を出した。

自分には、関係のないことである。

そう結論して、掃除をして、コインランドリーへ行った。

洗濯が終わるまで、四十分あった。

備え付けの週刊誌を読んだ。

◇

月曜の朝。

九時十分に、部屋に入った。

三雲は、もう来ていた。窓側の島で、画面を見ていた。

菅原は、自分の席に着いた。

着いて、パソコンを開いて、メールを見た。

それから、顔を上げた。

見ていた。

彼女は、こちらを見ていなかった。画面を見ていた。首のところに、細い鎖が見えていた。

菅原は、目を戻した。

戻して、メールの続きを読んだ。

◇

その日の午後、彼は、参加行への照会を四本出した。

四本とも、継続収納の遅延損害金の明細についてである。文面は、前の月に使ったものを直して作った。

三本目を書いているときに、宛先を一つ間違えた。

D行に出すべきものを、E行の担当者に出した。気づいたのは、送ったあとである。

すぐに、取り消しの連絡を入れた。E行の担当者は、「大丈夫です、開いてないです」と言った。

菅原は、礼を言って、電話を切った。

切ってから、自分がこの三年、宛先を間違えたことが一度もなかったことを思い出した。

支店にいたときも、なかった。

彼は、その照会を、翌日に出し直した。

翌日は、間違えなかった。

37 後ろ姿

五月の連休明けの木曜、四〇二の側で、三時間の会議があった。

議題は、二次以降に入る参加行の、接続の順番である。

二十行ある。二十行を、四回に分けて入れる。どの行を、どの回に入れるか。

案が、二つ出ていた。

一つは、規模の大きい順である。もう一つは、準備のできた順である。

「大きい順のほうが、件数が早く乗ります」

戸畑が、そう言った。

「準備のできた順だと、どうなりますか」

事務局の課長が訊いた。

「小さい先が、先に入ります。件数は乗りません。ただ、落ちたときの傷が浅いです」

「傷が浅いというのは」

「止まったときに、止まる人の数が少ない、という意味です」

課長は、それを書き取った。

梶が言った。

「どっちでもいい、ということはないんですか」

「ないです」

戸畑が答えた。

「順番は、一度決めると、動かせません。二番目に入る予定だった先を、三番目にすると、その先が一年ずれます。ずれた一年を、誰かが説明することになります」

会議は、決まらずに終わった。

決まらなかった理由は、この部屋で決められる話ではなかったからである。二十行のうち、どこを先にするかは、この部屋の外で決まる。

そのことを、全員が知っていた。知っていて、三時間、案の比較をした。

十八時四十分に、根岸が廊下に出た。

戻ってこなかった。

十九時に、事務局が、「本日は、ここまでといたします」と言った。

◇

菅原は、外へ出た。

用があったわけではない。部屋の空気が悪かったので、外の空気を吸いに出ただけである。

ビルを出て、大通りを、駅とは反対の方向へ歩いた。

二百メートルほど行ったところに、交差点がある。

その交差点の向こう側を、三雲が歩いていた。

一人ではなかった。

隣に、もう一人いた。

菅原は、そこで足を止めた。

止めてから、止めたことを、少し不自然に感じた。

信号が変わるまでの、二十秒ほどのあいだ、彼は、その二人を見ていた。

相手は、女性だった。

背は三雲より少し低い。髪が短い。上着が明るい色で、鞄を肩にかけている。二人は、並んで歩いていた。話しているらしく、片方が何か言って、もう片方が首を横に振った。

何を話しているかは、聞こえない。

信号が変わった。

菅原は、渡らなかった。渡らずに、来た道を戻った。

◇

戻りながら、彼は、少し歩くのが速くなっていることに気づいた。

気づいて、速度を落とした。

部屋に戻ったのは、十九時二十分である。

戻って、席に着いて、参加行への照会の返事を書いた。

二十一時に、部屋を出た。

◇

その帰りに、寮の最寄りの駅前で、牛丼屋に入った。

二十一時四十分である。

カウンターに、五人いた。菅原は、いちばん端に座った。

店員が、二人いた。片方が若い男で、片方が年配の女性である。

年配のほうが、注文を取りに来た。

「並で、よろしいですか」

「並で」

「お味噌汁、お付けしますか」

「お願いします」

それだけの会話だった。

出てくるまでに、三分かかった。

食べているあいだ、若いほうの店員が、年配のほうに、何か訊いていた。券売機の操作らしい。年配のほうが、二度、同じ説明をした。

二度目のほうが、短かった。

菅原は、それを聞いていた。

聞いていて、沢井のことを思い出した。

沢井は、二度目を短くしない。同じ長さで、同じ言い方で、もう一度言う。

どちらが正しいのかは、彼には分からない。

十分で食べ終えて、出た。

出るときに、年配のほうの店員が、「ありがとうございました」と言った。

若いほうも、少し遅れて、同じことを言った。

言い方が、違っていた。

◇

翌週の水曜、三雲が事務局と話しているのが、聞こえた。

「金曜は、外の人と会うので、十六時に出ます」

「承知しました」

「大学の同期です。倉持といいます。もし、私宛てに連絡があったら、月曜でお願いします」

菅原は、その会話を、聞いていた。

聞いていて、聞いていなかったことにした。

その週は、それきりだった。

◇

翌週の月曜、梶が、菅原の席に来た。

「菅原さん。三雲さんの契約って、いつまでか、ご存じですか」

「知らないです」

「今年度いっぱいらしいですよ」

「そうですか」

「そのあと、どうなるんですかね」

「分からないです」

「僕、あの人がいなくなったら、証跡のところ、誰に訊けばいいのか分からないんですよ」

梶は、そう言った。

「菅原さんに訊きます」

「私も、分からないです」

「分からないですか」

「書いてあることは、分かります。ただ、なぜそう書いたかは、書いた人しか分からないので」

梶は、「そうですよね」と言って、席へ戻った。

菅原は、そのあと、設計文書の版の記録を、上から順に読んだ。

一年前の分から、順に読んだ。

理由の欄が、書いてあるものと、書いていないものがあった。

書いてあるものは、全部、同じ人が書いていた。

彼は、そのことを、誰にも言わなかった。

◇

その週の金曜、橘が、給湯室で言った。

「菅原さん、来週の資料、私が作りましょうか」

「大丈夫です」

「あの、無理してませんか」

「してないです」

「そうですか」

橘は、そう言って、湯を注いだ。

「みんな、そう言うんですけどね」

「はい」

「言わない人から、先にいなくなるので」

橘は、笑って、そう言った。

菅原は、返事をしなかった。

その日の帰り、一階のロビーで、皆川と一緒になった。

皆川は、傘を持っていた。

「降りますか」

「降りるそうです」

「天気予報、見られたんですか」

「毎朝、見ます」

皆川は、そう言った。

「外れることが多いんですけど、見ないと、外れたことも分からないので」

自動扉が開いた。

外は、まだ降っていなかった。

38 メモ

六月の第二週の火曜。

十七時過ぎ、部屋に人が少なかった。

その日は、四〇二の側が空だった。総合試験の準備で、実装の側が全員、別の拠点へ出ていたからである。

四〇一の側に残っていたのは、菅原と三雲と、事務局の一人だけだった。

事務局の一人が、十七時十分に帰った。

帰るときに、扉のところで振り返って、「戸締まり、お願いします」と言った。菅原は「はい」と答えた。

そのあと、部屋には二人だけになった。

二人だけになるのは、三年半で、数えるほどしかない。

三雲が、菅原の席に来た。

「菅原さん」

「はい」

「一つ、伺ってもいいですか」

「はい」

菅原は、資料を脇へ寄せた。仕事の質問だと思ったからである。実際、外形は、完全に仕事の質問だった。

三雲は、少し間を置いてから、言った。

「あのとき、なぜ、落ちるのは事故じゃないと分かったんですか」

菅原は、質問の意味を取りかねた。

「あのとき、というのは」

「一年前の六月です。継続収納の会議で、菅原さんが、落ちるのは毎日ある、事故じゃない、と言われました」

「言いました」

「あのとき、菅原さんは、根拠を説明されませんでした。というより、説明できないとおっしゃいました」

「説明できませんでした」

「でも、分かっておられた」

三雲は、そう言った。

「私は、あの一週間で、根拠のほうを探しました。資料を読んで、条件を整理して、拘束しないから食い違いが起きない、という形にしました。あれは、探せば見つかるものでした」

「はい」

「探しに行ける、と思えたのは、菅原さんが、あると言い切られたからです。ないかもしれないものは、一週間かけて探せません」

菅原は、返事に困った。

「それで、伺いたいんですが」

三雲は、続けた。

「菅原さんは、どこで、それを知られたんですか」

◇

菅原は、少し考えた。

考えて、答えた。

「窓口です」

「窓口の、どういう場面ですか」

「不能のハガキを持って来る人がいます。あれを見ると、その人が、何に困っているかが分かります」

「何に困っているんですか」

「金がないことに困っているんじゃないんです」

菅原は、そう言った。

「金がないのは、そのとおりです。ただ、窓口に来る人が困っているのは、それではなくて、次にいつ落ちるか分からないことです。落ちなかったこと自体は、その人にとって、そんなに珍しいことじゃないんです」

「珍しくない」

「珍しくないです。うちの支店だと、月に何十件かはあります。三十八年やっている人が、同じことを毎月説明しています」

「沢井さん」

「はい」

菅原は、そこで、少し話が長くなった。

沢井が、二時から四時のあいだに来た客に、何と言っているか。

「二十七日に、もう一回落ちますから」と言う。「今日払うと、二重になるかもしれないので、待ってください」と言う。「朝には入れておいてください」と言う。

「朝の何時ですか、と訊かれると、沢井さんは止まります」

「止まる」

「答えられないからです。うちが持っている情報じゃないので。ハガキに書いてあるのは日付だけで、時刻は書いてありません」

「それで、どうされるんですか」

「もう一度、朝には入れておいてください、と言います。同じことを、言い方を変えずに、もう一度言います」

「言い方を、変えないんですか」

「変えないです」

「変えたほうが、伝わりませんか」

「伝わらないです」

菅原は、そう答えた。

「言い方を変えると、前に言ったことが間違いだったように聞こえます。間違いだったと思われると、次に来られたときに、うちの言うことを聞いてもらえなくなります」

「同じ言い方を、何度もされるんですか」

「何度もです。三回、同じことを言う日もあります」

「三回目でも、同じですか」

「同じです」

「疲れませんか」

「疲れると思います。ただ、疲れた顔をされているのを、私は見たことがないです」

「見たことがない、というのは」

「そのままの意味です。十九年、あの窓口です。私は三年しか一緒にいませんが、そのあいだ、一度もないです」

三雲は、その一行を、少し長く聞いていた。

三雲は、うなずいた。

「あの人が、三十八年やっているのを見ていると、落ちることが事故だとは思えないんです。事故が三十八年、毎月続くことはないので」

菅原は、そう言った。

「うまく言えないんですが」

「いえ」

三雲は、そう言った。

◇

菅原は、島の話をしなかった。

出ない日を先に数える話も、しなかった。

する必要がなかったし、その場は、仕事の話をしている場だった。

三雲も、島のことは訊かなかった。

◇

三雲は、そのあいだ、手元に紙を置いていた。

菅原が、沢井の話を始めたところで、彼女は、ペンを取った。

書いた。

三行か、四行である。

菅原は、それを見た。

見たが、何とも思わなかった。

仕事の質問をされて、答えたら、相手が書いた。それだけのことである。

三時間、沢井の隣に座って、一行も書かなかった人である。

そのことと、いま彼女が書いたことを、彼は結びつけなかった。

結びつけない理由は、単純である。

自分の話が、覚えておくに値するものだと、彼は思っていない。

三雲は、書き終えて、その紙を折って、上着のポケットに入れた。

「ありがとうございました」

そう言って、席へ戻った。

39 稼働

九月の第二週に、最後の総合試験があった。

三日間である。八行のうち六行と、共同センターと、四〇三の全員と、別の拠点から三十人が入った。

三日で、四百十二件の指摘が出た。

四百十二件のうち、稼働までに直すものが百九件。残りは、稼働のあとで直す。直さないものが、六十三件ある。直さない、というのは、直さないと決めたということである。決めたのは根岸で、決めたことは紙になった。

菅原の仕事は、その六十三件について、参加行に説明することだった。

説明の場は、六階の会議室である。八行から十六人来た。

菅原は、六十三件を、三つに分けて説明した。

一つ目は、運用で回せるもの。二十九件。
二つ目は、来年の改修で直すもの。二十一件。
三つ目は、そもそも直す必要がないと判断したもの。十三件。

三つ目で、質問が出た。

「必要がない、というのは、誰が判断されましたか」

菅原は、答えた。

「この会議体です。八月二十七日の会議で、そう決めています。議事録の、四十一ページです」

「議事録に、理由は書いてありますか」

「書いてあります」

「読んでいいですか」

「どうぞ」

菅原は、その場で、該当の頁の写しを配った。前の日に、五十部刷ってきていた。

刷ってきた理由は、この質問が出ると思ったからである。

思った理由は、彼が二年半、議事録を書いてきたからだった。議事録は、あとで揉めたときにしか読まれない。だから、読まれるときは必ず揉めている。

その日は、揉めなかった。

配ったものを、十六人が黙って読んだ。読んで、一人が「わかりました」と言った。

そのあと、質問は出なかった。

◇

十月十九日、月曜。

稼働した。

◇

前の週の金曜の夜に、切替の作業があった。

菅原は、部屋にいた。二十一時から、翌朝の五時までである。彼の役割は、参加行の側との連絡である。八行のうち、六行が本番に入る。二行は、十二月からの二次に回った。

切替の夜は、静かだった。

二年半のあいだに、菅原は、この種の夜を三度経験している。一度目は疎通試験、二度目は実証実験、三度目がこれである。

三度目が、いちばん静かだった。

作業手順書は、二百四十ページあった。作ったのは共同センターで、確認したのがベンダーで、承認したのが根岸である。ページの左端に、時刻が書いてある。その時刻に、その作業をする。終わったら、担当者が印を入れる。

菅原の欄は、四か所あった。

二十二時十分。参加行への開始連絡。
一時三十分。中間報告。
四時。完了見込みの連絡。
五時十五分。完了連絡。

四か所とも、電話をかけるだけの作業である。

一時三十分の中間報告のとき、C行の担当者が、電話口で言った。

「そちら、順調ですか」

「順調です」

「よかった」

「そちらは」

「うちも、いまのところは。ただ、うちの部長が、さっきから後ろに立ってます」

菅原は、少し笑った。

「うちも、後ろに人が立ってます」

「どなたですか」

「事務局です」

三時四十分の確認は、その担当者の行から来たものだった。通知の受け取りの設定が、試験のままになっていた。

三十分で直った。

四時に、菅原は四か所目の電話をかけた。

かけながら、窓の外を見た。

まだ暗かった。向かいのビルの壁に、明かりが二つついていた。二つとも、二年半、菅原が見てきたのと同じ位置である。誰がいるのかは、知らない。

五時十分に、切替が完了した。

六時に、菅原は寮に帰って、二時間寝て、九時に部屋へ戻った。

◇

月曜の朝から、実際の取引が流れ始めた。

九時。件数が、少しずつ増える。

十時。増える。

十一時。増える。

昼を過ぎて、菅原は、画面の前で、何もすることがないことに気づいた。

流れている。

止まらない。

十四時に、標準決済が一件、例外に落ちた。誤送金である。受取人の口座番号が一桁違っていた。

その一件は、設計どおりに、例外の台帳へ入った。誰が、いつ、何を理由に入れたかが記録されて、いま誰が持っているかが表示された。持っているのは、仕向けの銀行である。

菅原は、その画面を見た。

見て、支店の窓口を思い出した。

その一件について、これから、どこかの支店の誰かが、受取人に電話をかける。たいてい、相手は出ない。何度もかける。文書を出す。依頼人からは毎日電話が来る。

それは、変わらない。

変わったのは、その一件が、いまどこにあって、誰が持っているかが、画面で分かることだけである。

それだけが、変わった。

◇

十七時に、その日の件数が出た。

予定の範囲だった。障害はなかった。

十七時十分に、事務局の課長が、コンビニの袋を持って戻ってきた。

袋から、菓子の箱を二つ出して、島の真ん中に置いた。

「どうぞ」

それだけだった。

梶が、一つ取った。橘が、一つ取った。皆川が、「頂戴します」と言って、一つ取った。

菅原も、一つ取った。

三雲は、取らなかった。

◇

十七時二十分に、皆川が、菓子の箱を持って菅原の席に来た。

「菅原さん、もう一ついかがですか」

「いえ、頂きました」

「そうですか」

皆川は、箱を持ったまま、少し立っていた。

「今日は、何も起きませんでしたね」

「起きませんでした」

「起きないというのは、いいことなんですが」

皆川は、そこで、言葉を切った。

切って、それから、言った。

「実家が、酒屋だったんです」

菅原は、顔を上げた。

「酒屋、ですか」

「小さい店です。父がやっていました。もう、ありません」

「そうなんですか」

「毎晩、閉めたあとに、レジのお金を数えていました。私も、数えました」

皆川は、そう言った。

「合うんですよ、たいてい。合わない日が、月に一度か二度あります。合わないと、父はもう一度数えます。三度数えて、それでも合わないと、紙に書いて、引き出しに入れます」

「いくら合わなかったか、ですか」

「日付と、金額だけです」

「そのあと、どうされるんですか」

「何もしないです」

皆川は、そう答えた。

「何もしないんですが、書いてありました。十年ぶんぐらい、たまっていました」

菅原は、それを聞いていた。

「私が、いまの仕事を選んだ理由は、たぶん、それだと思います」

「たぶん、というのは」

「はっきりとは、分からないので。面接では、別のことを言いました」

皆川は、少し笑った。

笑ったのを、菅原は、そのとき初めて見た。

三年半、同じ部屋にいて、初めてである。

「すみません。関係のない話をしました」

「いえ」

「今日は、そういう日なので」

皆川は、そう言って、自分の席へ戻った。

菅原は、そのあと、その話を誰にも伝えなかった。

伝えるような話ではなかったし、伝えると、皆川がもう一度しなくなる種類の話だと思ったからである。

十七時半に、根岸が部屋を出た。上に報告に行ったのだろう、と菅原は思った。

十八時に、菅原は、参加行への日次の報告を作った。

十九時に、部屋を出た。

祝賀はなかった。

◇

翌日の夕方に、四〇三の側から、菓子折りが届いた。

差出人は、別の拠点の実装のチームである。名前は、菅原の知らない名前だった。

菓子折りには、紙が一枚添えてあった。

「無事の稼働、おめでとうございます。当拠点一同」

事務局が、それを島の真ん中に置いた。

十二個入りで、部屋にいたのは九人である。三個、残った。

残った三個は、翌日には無くなっていた。誰が食べたかは分からない。

菅原は、その紙のほうを、引き出しに入れた。

入れた理由は、二千人が書いた紙が、この部屋に届いたのが、それ一枚だったからである。

◇

寮に帰る電車の中で、彼は、堀にメールを送った。

「今日から動いた。うちの銀行も入ってる」

堀からは、翌朝、返信が来た。

「ほんまか。何が変わるんや」

菅原は、その返信に、返さなかった。

何と返せばいいのか、分からなかったからである。

40 二回目のクリスマス

十二月二十四日。

その日、部屋には七人いた。

二年前の同じ日には、十一人いた。

面子は、半分入れ替わっている。

古畑はいない。事務局の課長は、十月に異動した。共同センターの技術者は、稼働後に一人になった。梶は、現場の責任者になっている。戸畑は、別の案件を兼務するようになって、週に三日しか来ない。芝原の出向期間は、三月までである。

その日の仕事は、年末年始の運用体制の確認だった。

金融機関は、十二月三十日が最後の営業日である。三十日は、件数が多い。年に一度の、最も件数の多い日になる。その日の体制と、翌日以降の当番と、緊急の連絡網。

十四時から、二時間の会議があった。

会議は、静かだった。

論点が少なかったからである。二年前の疎通試験のときのような、直さなければ翌日が来ない、という種類の作業がない。動いているものを、動いたまま年末に渡す。それだけである。

十六時に終わった。

◇

十八時に、梶が言った。

「今日、なんか、しないんですか」

「何をだ」

戸畑が言った。

「いや、二年前は、日付が変わるまでやってたじゃないですか」

「あれは試験があったからだ」

「今日は、何もないんですね」

「ないな」

梶は、少し笑った。

「なんか、寂しいですね」

戸畑は、答えなかった。

しばらくして、言った。

「梶さん」

「はい」

「寂しいのは、うまくいってるからだ」

「そうですか」

「試験の日に人が残るのは、終わってないからだ。終わってないものが、面白いだけだ」

戸畑は、そう言って、画面に戻った。

梶は、少し黙ってから、言った。

「でも、面白かったですよ」

戸畑は、答えなかった。

しばらくして、鞄から文庫本を出して、読み始めた。

菅原は、この人が本を読むところを、初めて見た。

「戸畑さん、それ、何ですか」

「時代物です」

「面白いですか」

「面白くないです」

戸畑は、そう答えた。

「面白くないのを、電車で読むんです。面白いと、乗り過ごすので」

そう言って、また読み始めた。

◇

十八時半に、事務局が、年末年始の当番表を壁に貼った。

三十日と、三十一日と、一日から三日まで。行ごとに、担当者の名前と、携帯の番号が入っている。

菅原は、その表を上から下まで読んだ。

八行のうち、六行の担当者が、去年と違う名前になっていた。

去年の当番表は、剥がして捨てられている。菅原は、それを写真に撮っていた。撮る癖がついたのは、日程の表からである。

写真を出して、並べて見た。

六人が入れ替わっている。入れ替わった六人のうち、四人とは、彼は一度も話したことがない。

来年の三十日に電話をかける相手が、四人、知らない人になった。

菅原は、その四人に、翌週、一本ずつ電話をかけた。用件はなかった。年末の体制の確認、という名目を作った。

四本のうち、三本目だけが、長くなった。

相手は、二次で入った銀行の、事務の担当者である。

「すみません、年末の体制の件で、お電話しました」

「はい。あの、私、十月に替わったばかりでして」

「そうですか」

「前任が、急に異動になりまして。引き継ぎが、三十分だったんです」

「三十分ですか」

「三十分です。紙は、もらっています。ただ、紙に書いてあることの意味が、まだ分からないところがあります」

菅原は、そこで、訊いた。

「三十日は、何時から出られますか」

「八時です」

「何時までですか」

「決まっていないです。終わるまで、と言われています」

「去年は、何時でしたか」

「聞いていないです」

「二十時十分です」

「え」

「去年の三十日は、二十時十分に、最後の連絡が来ました。こちらで見ていましたので」

「そうなんですか」

「はい。もし、二十二時を過ぎるようでしたら、こちらに一本ください。番号は、その表の、上から四番目です」

「四番目ですね」

「四番目です」

その通話は、九分かかった。

残りの三本は、五分で終わった。

五分のあいだに、四人とも、声の高さと、話す速さと、確認の仕方が分かった。

◇

十九時に、菅原は、部屋を出た。

出る前に、一度、部屋を見た。

窓側の島に、三雲がいた。画面を見ていた。

眼鏡を、かけていた。

菅原は、それを見て、扉を閉めた。

閉めるときに、事務局の当番が、廊下に出てきた。

「菅原さん、お先ですか」

「はい」

「よいお年を、には、まだ早いですね」

「早いです」

「三十日、いらっしゃいますか」

「行きます」

「よかった」

その職員は、そう言った。

「去年、三十日に、誰が来るか分からなかったんです。表はあるんですけど、表の人が来るとは限らないので」

「来ますよ」

「はい」

菅原は、そのまま、階段を下りた。

◇

寮に帰る道で、駅前を通った。

駅前の商店街に、飾りが出ていた。二年前にも出ていたはずだが、彼は覚えていない。

コンビニで、弁当を買った。

レジの前に、ケーキが積んであった。小さい箱で、一つ千二百円と書いてある。積んであるということは、まだ売れ残っているということである。

レジで、店員が言った。

「ケーキ、いかがですか。半額です」

「いいです」

「そうですか」

店員は、それ以上、言わなかった。

菅原は、弁当だけ買って、出た。

寮の部屋で、弁当を食べた。

二十一時に、風呂に入った。

二十二時に、寝た。

◇

二年前の十二月二十四日は、〇時四十分まで部屋にいた。四人で残っていた。四行目の応答が返ってこなくて、それを待っていた。廊下で、自動販売機が鳴った。

二度目のその日には、何もなかった。

何もないことが、一度目より、少しだけ短く終わった。


第四部 返却

41 内示

内示は、七月の第三週に出た。

本部から電話が来て、翌週の火曜に、本店に来るようにと言われた。日帰りである。

菅原は、その一週間、システム部への異動だと思っていた。

そう考えていたことを、彼は、辞令を見るまで自覚していなかった。

三年半、この仕事をした。継続収納の仕様を書いた。参加行の照会を三百本近く出した。能力の申告の表を作った。金庫の担当者に教えた。稼働のときには、切替の夜に部屋にいた。

そのあとに来るのは、システム部だろう。

そう思うだけの理由は、あった。理由はあったが、彼はそれを、一度も言葉にしていなかった。言葉にしていないので、期待だとも思っていなかった。

◇

火曜、本店の会議室。

人事部の次長が、紙を出した。

東京営業部

菅原は、その四文字を、二度読んだ。

「十月一日付です。下期から、融資をやってもらいます」

「融資、ですか」

「はい。営業です。担当先は都内の中堅です。詳しいことは、着任してから」

菅原は、そこで、一つだけ訊いた。

「あの部屋は、どうなりますか」

「部屋、といいますと」

「銀行協会の、四階です。私がいたところです」

次長は、手元の紙を見た。

「そちらは、システム部の管掌です。人事の話ではないので、私は分かりません」

「はい」

「ただ、後任は出さないと聞いています」

「出さないんですか」

「稼働が済んでいますので。常駐は要らない、という判断だそうです」

菅原は、「はい」と言った。

それ以上は、訊かなかった。

菅原は、「はい」と言った。

そのあと、十分ほど、事務的な話が続いた。寮は、いまのところから移らない。異動の日程。引き継ぎの期限。

会議室を出たところで、彼は、自分がシステム部だと思っていたことに、初めて気がついた。

気がついて、少し、恥ずかしくなった。

◇

その日の午後、築館に呼ばれた。

システム部の、いちばん奥の席である。築館は、痩せていて、声が小さい。三年半のあいだ、菅原は、この人と四回しか話していない。

「ご苦労さん」

「はい」

「東京営業部、聞いたか」

「聞きました」

築館は、しばらく、パソコンの画面を見ていた。

それから、言った。

「システムは、もういい」

菅原は、返事をしなかった。

「三年見せてもらった。君は、システムの人じゃない」

「はい」

「悪い意味じゃない。うちのシステム部に来ても、たぶん、しんどいだけだ」

築館は、そう言った。

「向こうで、何を覚えた」

菅原は、少し考えた。

「東京の会社が、どうやって物を決めるか、です」

「そうだろうな」

「あと、決まっていないことを、決まっていないと書くことです」

築館は、そこで、初めて菅原のほうを見た。

見て、うなずいた。

「それでいい」

築館は、そのあと、少しだけ話した。

「うちが第一次に入った理由は、聞いてるか」

「聞いていないです」

「頭取が会長の年に、話が来た。それだけだ」

「はい」

「翌年には、会長じゃない。それでも、降りられない」

築館は、そう言った。

「輪番で始めたことは、輪番では終われない」

菅原は、そのことを、三年半のあいだ、自分で考えていた。

考えていたことを、初めて、人の口から聞いた。

「分かってたか」

「たぶん、そうだろうと思っていました」

「言わなかったな」

「言う相手が、いなかったです」

築館は、うなずいた。

「それも、それでいい」

それだけだった。

菅原を評価しているとは、一言も言わなかった。

◇

稟議は、あとで一度だけ見た。

異動の起案である。菅原本人が見る書類ではないが、東京営業部への引き継ぎの資料の中に、写しが混ざっていた。

理由の欄に、一行あった。

「東京での折衝経験を活かし」

それだけである。

継続収納のことは、書いていない。能力の申告の表のことも、書いていない。書けないのだろう、と菅原は思った。あれは、汐入銀行の仕事ではない。業界の仕事である。業界の仕事は、行内の評価の対象にならない。

彼が最も苦しんだ部分は、評価の対象ですらなかった。

そのことを、彼は、そのとき、特に何とも思わなかった。

◇

本店を出たのは、十六時だった。

駅まで、歩いて十二分ある。菅原は、その日、駅とは反対の方向へ歩いた。

湊町支店は、本店から二つ目の停留所である。歩けば二十五分だった。

支店の前まで行って、中には入らなかった。

一階の窓口が、道路から見える。ガラスが大きい。番号札の機械の脇に、客が三人立っていた。窓口は三つで、そのうち二つが動いている。左の窓口に、沢井の後ろ姿があった。

菅原は、道の反対側から、五分ほどそれを見ていた。

見て、駅のほうへ戻った。

入らなかった理由は、入ると挨拶になるからである。挨拶をすると、東京の話をすることになる。東京の話を、彼はまだ、話せる形にしていなかった。

十七時四十分の新幹線に乗った。

◇

八月の第二土曜、彼は、スーツを誂えた。

理由は、単純である。融資の営業に出るのに、いまのスーツでは肩が合わない。

店は、寮の最寄りから二駅の商店街にあった。古い店で、老人が一人でやっている。三十分、採寸をした。

「お客さん、肩が張っとるね」

「はい」

「既製は、入らんでしょう」

「入りません。四十一を着ています」

「首、三十九でしょう」

「三十九です」

老人は、それだけ言って、あとは黙って測った。

一か月後に、できた。

袖を通した。

肩が、合った。

菅原は、鏡を見なかった。

それだけである。

42 引き継ぎ

後任は、来なかった。

九月である。菅原は、引き継ぎの資料を作った。

正確には、汐入銀行からは、後任を出さないことになった。稼働が済んで、運用の段階に入ったので、参加行の常駐は要らない、というのが本部の判断である。かわりに、共同センターと事務局が引き取る。

だから、菅原の引き継ぎ先は、人ではなく、書類だった。

◇

三週間かけて、彼は、二つのものを作った。

一つは、参加行の事務の一覧の、最新版である。

三年半のあいだに、三度、大きく直している。参加行が増え、部署が変わり、規定が改定された。菅原は、それを全部、追いかけてきた。

もう一つが、能力の申告の表だった。

自分が持っていた値を、表に書き出す。

彼が三年半のあいだに知ったことのうち、書けるものを、全部、書いた。

どの参加行の、どの部署に訊けば、どの答えが返ってくるか。
その参加行が「できます」と言ったときに、どこまでが本当か。
照会を出すときに、何日前に出すと返ってくるか。
月末と、給与振込日と、年金の受給日を避けること。
不能の文言は、短くすること。長いと、窓口の人間が読まないこと。
金庫の担当者は、できないことなら書けること。
できないことを書かせるときに、それが不利にならないと先に言うこと。

四十一項目になった。

それを、表にした。左の欄に項目、右の欄に、根拠と、聞いた相手と、日付。

日付の欄を作ったのは、三雲が版の話をしたからである。上書きしないでください、と言われた。変更前の値を残してください、と言われた。

菅原は、その一時間の意味を、四年近く経ってから使っている。

表の一行目は、こうなった。

「A行の事務部に訊くと、規定に書いてある答えが返る。システム部に訊くと、実際に動いている答えが返る。二つは、しばしば違う。違うときは、両方書く」

根拠の欄に、「一昨年の八月・A行事務部・同システム部」と書いた。

二行目。

「照会は、期限の七営業日前に出す。五営業日前だと、半分が返らない。十営業日前に出すと、忘れられる」

根拠の欄に、日付を三つ書いた。三つとも、返ってこなかった照会の日付である。

十一行目で、彼は手を止めた。

「相手が『できます』と言ったときに、どこまでが本当か」

この項目は、書けた。書けたが、根拠の欄が埋まらない。

根拠は、声の高さと、返事までの間である。

「できます」と、間を置かずに言う担当者は、たいてい確認していない。確認した担当者は、一度、息を吸う。息を吸ってから「できます」と言う。菅原は、そこで一度、「いつ確認されましたか」と訊く。訊くと、半分は「これから確認します」に変わる。

彼は、それを、そのまま書いた。

書いてから、読み返して、消そうかと思った。

消さなかった。消すと、いちばん役に立つ一行がなくなる、と思ったからである。

根拠の欄には、「多数」とだけ書いた。

◇

書きながら、彼は、書けないものがあることに気づいた。

沢井の手が、書けない。

伝票を受け取るときの持ち方。奥へ確認に行くときに、客に何と言って離れるか。戻ってきたときの、最初の一言。番号札が九番になったときに、手が速くなること。速くなっても、印鑑の照合の順番は変わらないこと。

三雲は、それを三時間、訊いた。訊いて、覚えた。書かなかった。

菅原は、書こうとした。

三度、書こうとして、三度とも、途中でやめた。

書けるのは、沢井が何を言ったかである。何を言ったかを書くと、言葉だけが残る。言葉だけを読んだ人は、その言葉を、別の場面で使う。別の場面で使うと、違う意味になる。

沢井の手は、どこにも書き写せない。

◇

四十一項目の表を、菅原は、事務局に渡した。

受け取ったのは、事務局の課長代理である。

「これ、全部、菅原さんが書かれたんですか」

「はい」

「根拠の欄が、埋まってますね」

「埋まらないところが、いくつかあります」

「多数、と書いてあるところですか」

「そこです」

「これは、どう扱えばいいですか」

「扱えないと思います」

菅原は、そう答えた。

「ただ、消すと、いちばん使えるところがなくなるので、残しました」

課長代理は、その一行を、しばらく読んでいた。

読んで、言った。

「残しておきます」

「はい」

「使うかどうかは、次の人が決めます」

事務局は、それを受け取って、「助かります」と言った。

その表は、翌年の四月に、共同センターの運用手順書の付属資料になった。

そのときには、四十一項目のうち、十四項目が落ちていた。

落ちたのは、根拠が「聞いた話」であるものである。文書の根拠がないものは、手順書には載せられない。

菅原は、そのことを、あとで知る。

知って、当然だと思う。

◇

九月の最終週、彼は、三雲に、その表を見せた。

見せた理由は、継続収納の部分に、彼女の書いた仕様の話が入っていたからである。確認のためだった。

三雲は、それを、十五分ほど読んだ。

読んで、言った。

「これは、渡せますね」

「はい」

「渡せるものは、渡してください」

「はい」

彼女は、それだけ言って、返した。

菅原は、その表を、鞄に入れた。

書けるものは、全部、置いていく。

書けないものだけが、残る。

彼は、そのことを、そのときは、まだ言葉にしていない。

43 返す

九月三十日。

部屋を、返す日だった。

正確には、部屋そのものは残る。会議体が終わるので、この会議体としての使用が終わる。次の会議体が、十月から同じ部屋を使う。

朝の九時から、片づけが始まった。

◇

片づけるのは、二部屋ある。

四〇一と、四〇二である。四〇三は、七月に返してあった。実装の本隊が別の拠点へ移り、この階に残ったのは、運用へ引き継ぐための六人だけになったからである。

七月に四〇三が空いたとき、菅原は、一度だけ中に入った。

机が全部出されていた。列の跡が、タイルカーペットに白く残っている。十列である。壁の紙は剥がしてあったが、貼っていた両面テープの跡が、四角い痕になって残っていた。上から下まで、数えると、百二十枚を超えていた。

床の隅に、ペンが一本落ちていた。

菅原は、それを拾って、四〇一の給湯コーナーの缶に入れた。

◇

最初に、ロッカーを空けた。

十二あるロッカーのうち、使われているのは、五つだった。

八番が、菅原である。

開けると、上着が一着と、折りたたみ傘と、常備薬の袋と、名刺の箱の予備が入っていた。三年半で、入れたものは、それだけである。

袋に入れて、机の上に置いた。

九番が、三雲である。

彼女は、九時半に来て、扉を開けて、黒いバッグを出した。

一年半、そこに入っていたバッグである。

出して、肩にかけた。それで、九番は空になった。

十一時に、事務局が、鍵を回収して回った。

十二の鍵が、封筒に入った。封筒に、「四階作業室 ロッカー鍵 12本」と書いてあった。

◇

次に、ホワイトボードを消した。

右の一枚には、三年半のあいだに書かれたものが、いくつも重なっていた。いちばん新しいのは、年末の運用体制の当番表である。その下に、消し残りが層になっている。

梶が、ラーフルで消した。

消しながら、言った。

「これ、消えないやつ、ありますね」

「二年前のやつだな」

戸畑が言った。

左の一枚には、まだ、あの文字が残っていた。

「第4回 WG ①制度 ②接続 ③費用」

その下に、五年前の日付がある。

梶は、それを、消そうとした。

消えなかった。

「これ、無理ですよ」

「無理だな」

戸畑は、そう言った。

その文字は、菅原が来た日にも、そこにあった。

◇

書類の廃棄に、いちばん時間がかかった。

会議体の資料は、三年半ぶんで、段ボール四十一箱になっていた。四十一箱のうち、協会が保存するのが十九箱。共同センターが引き取るのが七箱。廃棄が十五箱である。

廃棄の十五箱は、業者が来て、その場で封をして持っていく。封をするときに、立会人が要る。

立会人は、菅原だった。

理由は、その日、いちばん手が空いていたからである。

業者が二人来て、一箱ずつテープを貼り、番号を書いた札を貼った。貼るたびに、菅原が名簿に印を押した。

十五箱で、四十分かかった。

十二箱目のときに、業者の一人が、蓋の隙間から出ていた紙を押し込んだ。

押し込まれた紙が、何だったかは分からない。菅原の位置からは、上下が逆に見えた。逆に見えた図が、状態と矢印の図であることだけ、分かった。

押し込まれて、テープが貼られた。

◇

そのあと、給湯コーナーを片づけた。

電気ケトルは、橘が持って帰った。

「これ、私のなので」

「三年半、ありがとうございました」

「いえいえ」

マグカップが、五つあった。

鳥の絵のやつと、無地が二つと、どこかの記念品が一つと、取っ手が欠けたものが一つ。

誰のものかが分からないので、事務局が引き取ることになった。

引き取って、たぶん捨てる。

◇

午後、机を並べ替えた。

長机を四つずつ突き合わせて作っていた島を、崩した。

崩して、壁際に、四台ずつ、寄せた。

椅子は、十六脚あった。四種類混ざっている。背もたれの高いものが六脚、低いものが七脚、肘掛けのあるものが二脚、それから、会議室用の折りたたみが一脚。

折りたたみは、たたんで、壁に立てかけた。

床のタイルカーペットに、椅子の車輪の跡が残っていた。島の下だけ、白くなっている。机を寄せると、その白い部分が、部屋の真ん中に、四角く残った。

窓側の、午後の光が入る席には、段ボールが置いてあった。三年、そこに置かれていた。中身は、古い資料である。それも、事務局が持って行った。

空調の吹き出し口の下の席は、いちばん最後まで、誰かが座っていた。

その席の椅子だけ、少し傷んでいた。

◇

十六時に、電源のタップを抜いた。

差し口が六つあって、二つに、誰のものか分からない充電器が挿さったままだった。

三年半、挿さっていた。

菅原は、それを抜いて、事務局に渡した。

事務局は、「これ、どうしましょうね」と言った。

◇

十五時に、間仕切りを閉めた。

来たのは、三月に開けたときと同じ業者である。同じ男が二人来て、片方が菅原の顔を見て、「前にも来ましたね」と言った。

「三年前です」

「そんなになりますか」

男は、そう言って、端の柱から面を引き出した。

面は、一枚ずつ出てくる。出てくるたびに、四〇二の側が狭くなる。菅原は、四〇一の側に立って、それを見ていた。

十八メートルあった部屋が、二つに割れた。

割れると、音が変わった。四〇一の側だけになると、電話の声も、椅子の音も、前より近くで返ってくる。三年前の二月に、菅原が一人で三分立っていたときと、同じ響き方だった。

「鍵は、どうしますか」

男が訊いた。

「事務局に」

「では、掛けておきます」

男は、取っ手の鍵穴に鍵を差して、回した。回すと、小さい音がした。

それで、四〇二は、また会議室に戻った。

◇

十七時に、扉の名札を外した。

樹脂の板から、紙を抜く。

会議体の長い名称が印刷された紙と、構成員の名前が印刷された紙の、二枚である。

構成員の紙には、まだ、古畑の名前が残っていた。三年半前に作ったまま、更新されていなかった。

菅原大海の名前は、下から三番目にある。所属欄には「汐入銀行」とだけ書いてある。

事務局が、その二枚を抜いて、丸めた。

板は、そのまま、扉に残った。

◇

十七時十五分に、鍵を返した。

事務局の女性は、三年半前と同じ人だった。

「ありがとうございました」

「お世話になりました」

菅原は、部屋の鍵を渡した。

輪から外して、渡した。ロッカーの鍵は、午前に回収されている。

女性は、鍵を受け取って、名簿に線を引いた。

それで、終わりだった。

◇

十七時二十分に、部屋を出た。

出るときに、一度、振り返った。

長机が壁際に寄せてある。椅子が十六脚、二列に並べてある。床の真ん中に、白い四角が残っている。ホワイトボードには、五年前の文字が残っている。窓は三つ。西向きで、向かいのビルの壁が見える。左手に、閉めた間仕切りがある。

三年半、毎日いた場所である。

跡形もなかった。

誰も、感傷を持たなかった。

十月一日から、次の会議体が、同じ部屋を使う。

44 なぎ

十月の第一金曜、菅原は、一人で「なぎ」へ行った。

十九時である。

カウンターに、三人いた。菅原は、いちばん端に座った。

「あら」

大谷内が、言った。

「一人?」

「一人です」

「珍しいわね」

「終わったので」

「終わった?」

「あの部屋、九月で終わりました」

大谷内は、「そう」と言って、おしぼりを出した。

◇

菅原は、瓶ビールを頼んだ。

出てきたビールを、自分で注いだ。

刺身の盛り合わせを頼んだ。三種類出てきた。そのうちの一つが、菅原の島でも獲れる魚だった。

「これ、どこのですか」

「聞いてないわ。市場のよ」

大谷内は、そう答えた。

◇

二十時ごろ、ほかの客が帰って、菅原一人になった。

大谷内は、洗い物をしていた。

「あなた、次はどこ行くの」

「同じ東京です。うちの銀行の、東京の営業のほうです」

「じゃあ、また来られるじゃない」

「来られます」

「来ないわよ、たぶん」

大谷内は、そう言った。

「みんなね、そう言うの。近くにいるから、また来ますって。来ないの」

菅原は、少し笑った。

「あの部屋の人たち、何年かごとに、全部入れ替わるでしょう」

「入れ替わります」

「私はね、ずっとここにいるから。みんな、一回きりの顔なの」

大谷内は、皿を拭きながら、そう言った。

「一回きり、ですか」

「そう。三年か四年で、いなくなる。次の人たちが来る。名前は、いちいち覚えないの。覚えると、いなくなったときに、変な気持ちになるから」

「覚えてないんですか」

「覚えてるわよ。覚えないようにしてるだけ」

大谷内は、そう言って、皿を置いた。

「じゃあ、覚えてる人も、いるんですか」

「いるわよ」

大谷内は、そう言った。

「二十年ぐらい前にね、毎週来てた人がいたの。同じ席で、同じもの頼んで、一時間で帰るの」

「毎週ですか」

「毎週。五年ぐらい来たかしらね」

「そのあとは」

「来なくなった。異動でしょ」

「連絡は」

「ないわよ。そういうもんだから」

大谷内は、次の皿を取った。

「その人の顔は、いまでも出てくるの。名前は忘れたけど」

「名前を忘れて、顔を覚えてるんですか」

「逆の人もいるわよ。名前だけ覚えてる人。あなたたちのところの、あの眼鏡の人」

「三雲さんですか」

「そう、それ。名前は覚えてる」

「二回しか、来ていないと思います」

「二回ね」

大谷内は、皿を拭いて、棚に置いた。

「二回で覚えるのは、珍しいのよ」

「なぜですか」

「さあ」

大谷内は、そう言って、蛇口をひねった。

「あと、よく笑う人がいたでしょう」

「橘さんです」

「あの人は、来るたびに、鯖を頼むの」

「鯖ですか」

「毎回、鯖。ほかのものを勧めても、鯖なのよ」

「知らなかったです」

「あなた、見てないのよ。同じ席にいて」

大谷内は、そう言った。

「それから、早くにいなくなった人。若い、背の高い」

「古畑さんです」

「あの人、最後に来たとき、一人だったわよ」

菅原は、顔を上げた。

「一人で、来られたんですか」

「一人。カウンターの端で、一時間ぐらい。何も言わないで帰った」

「いつですか」

「知らない。もう、だいぶ前」

大谷内は、それだけ言って、皿を伏せた。

菅原は、その日付を、計算しようとした。

計算しようとして、やめた。

送別はなかった。挨拶は一分だった。そのあとに、この店へ一人で来ていたことを、部屋の誰も知らない。

知らないままで、たぶん、正しかった。

◇

菅原は、そのあと、四十分ほどいた。

話したのは、島の話だった。

大谷内が訊いたのではない。菅原が、自分から言った。刺身の魚の話から、島の話になった。

「島の出なんです」

「あら、どこの」

「日本海の。フェリーで二時間ぐらいの」

「へえ」

大谷内は、それだけ言って、何も訊かなかった。

訊かないので、菅原は喋った。

冬は船が出ないこと。出ない日を先に数えること。父の三回忌に間に合わなかったこと。父が、一度も継げと言わなかったこと。

大谷内は、洗い物をしながら、聞いていた。

聞き終えて、言った。

「そう」

それだけだった。

励まさなかった。

菅原は、そのあとも、少し喋った。

父の三回忌に、間に合わなかったこと。二月で、船が三日続けて出なかったこと。四日目に出て、着いたときには終わっていたこと。母が、そのことについて何も言わなかったこと。港まで、山際が車で迎えに来ていたこと。

「そう」

大谷内は、また、そう言った。

「船は、しょうがないわね」

「しょうがないです」

「しょうがないことって、あんまり、しょうがないと思えないのよね」

大谷内は、そう言って、蛇口を締めた。

締めて、手を拭いて、それきり、その話には戻らなかった。

大谷内は、そのあと、皿を三枚洗って、言った。

「うちも、あと何年かねえ」

「やめられるんですか」

「やめるつもりはないの。ただ、この階段がね」

大谷内は、入口のほうを見た。

地下一階である。階段が十四段ある。幅が狭くて、片側にしか手すりがない。

「上れなくなったら、終わりよ。三十年やってても、階段で終わるの」

菅原は、返事をしなかった。

返事をしなかったのは、返す言葉が思いつかなかったからではない。返すと、この人が慰められる側になる、と思ったからである。

大谷内は、誰も励まさない。励まされることも、たぶん、好まない。

「そう」

と、大谷内は言った。菅原が何も言わなかったことに対して、そう言った。

◇

帰りぎわに、大谷内が、勘定を出しながら言った。

「あなた、あの部屋の話、誰かにする?」

「しないです」

「したほうがいいわよ」

「誰にですか」

「誰でも」

大谷内は、そう言った。

「三年もやったことは、誰かに言っとかないと、なかったことになるから」

「なりますか」

「なるわよ。私、三十年ここにいるけど、三十年ぶんの話は、誰にもしてないの」

「してないんですか」

「訊かれないもの」

大谷内は、釣り銭を出した。

「訊かれないと、しないのよ。それで、そのままになる」

菅原は、二十一時に、店を出た。

◇

階段を上がって、地上に出た。

大通りのほうを見ると、銀行協会のビルが見えた。

四階に、明かりがついていた。

菅原は、それを見て、駅のほうへ歩いた。

45 出先

十月一日から、東京営業部にいる。

机は、丸の内にある。ビルの十二階で、フロアは広い。汐入銀行の東京営業部は、部長以下で二十七人いる。

担当先は、都内の中堅企業である。

製造が四社、卸が六社、あとは建設と、サービス。年商は、五十億から三百億のあいだ。汐入銀行との取引は、どこも、メインではない。

菅原の仕事は、融資である。

決算書を読む。資金繰りを聞く。設備の話を聞く。稟議を書く。本店に上げる。降りてくるのを待つ。降りたら、契約をして、実行する。

三年半、彼が東京でやっていたことと、何の関係もない。

◇

十月の第二週、最初の訪問先で、経理部長に訊かれた。

「汐入さんは、本店はどちらでしたっけ」

「日本海側です」

「ああ、遠いですね」

「遠いです」

「東京は、何人ぐらいいらっしゃるの」

「二十七人です」

経理部長は、「そうですか」と言った。

そのあと、資金繰りの話になった。

決済の話は、出なかった。

◇

十一月に、別の会社で、口座振替の話が出た。

出たが、菅原が作ったものの話ではなかった。

その会社は、会費を口座振替で集めている。集めるときに、不能が多くて困っている、という話だった。

「毎月、五パーセントぐらい落ちるんですよ」

「五パーセントですか」

「五パーセントです。会費なので、一件の金額は小さいんですけどね。件数が多いので」

「何件ぐらい、あるんですか」

「一万二千件です。そのうちの、六百件ぐらいが落ちます」

「六百件」

「それで、うちの経理が、一件ずつハガキを出すんです。手間で仕方がない」

「ハガキは、いつ出されるんですか」

「落ちた三日後です」

「お客様のほうは、それまで、ご存じないんですね」

「知らないでしょうね」

経理部長は、そこで、少し考えた。

「そこは、考えたことがなかったです。落ちた側が困ってるだけで、こっちは手間なだけだと思ってました」

「はい」

「言われてみると、向こうも、いつ来るか分からんわけですね」

「はい」

「うち、次にいつ引くかは、決めてあるんですよ。翌月の二十七日です」

「決まっているんですね」

「決まってます。ただ、書いてないですね。ハガキに、書いてないです」

経理部長は、そう言って、少し黙った。

「書けばいいのか」

「書けると思います」

「書きますわ、それは」

菅原は、そこで、一瞬、何か言おうとした。

言おうとして、やめた。

その会社が使っているのは、いまの仕組みである。新しいほうは、まだ収納の側が対応していない。対応するのは、早くて再来年である。再来年に対応したとして、この会社が使うかどうかは、この会社が決める。

菅原が説明できることは、何もなかった。

「大変ですね」

と、言った。

言ってから、その言葉を、彼は、少し覚えていた。

◇

丸の内に、机はある。

だが、本店から見れば、東京営業部は出先である。

決裁の権限は、本店にある。稟議は、本店に上げる。本店の融資部が見て、役員が見る。降りてくるのに、早くて五日、遅いと三週間かかる。

支店にいたときと、そこは変わらない。変わったのは、扱う金額と、相手の会社の規模だけである。

東京にいる。東京にいるが、東京の銀行にいるのではない。

そのことに、彼は、三か月で慣れた。

◇

十二月に、稟議を一本落とした。

製造業の会社である。年商八十億で、設備の更新に四億要る。四億のうち、汐入銀行に一億五千の話が来た。メインは別の銀行である。

菅原は、二週間かけて書いた。書いて、本店に上げた。

十一日目に、戻ってきた。

戻ってきた理由の欄に、二行あった。「業界の見通しについて、当行の与信方針との整合を確認されたい」「メイン行の対応方針を確認されたい」。

菅原は、その二行を読んだ。

二行とも、正しかった。正しいのだが、その二つを確認するには、相手の会社の経理部長に、メイン行がいくら出すつもりかを訊かなければならない。

訊けば、答えは返る。返るが、そのあとで、この会社は汐入銀行に相談しなくなる。

彼は、上司にそう言った。

上司は、「そうだな」と言った。

「菅原くん、支店、長かったんだよね」

「三か店です」

「じゃあ、分かってると思うけど」

上司は、そう言って、少し間を置いた。

「本店は、訊けと書く。訊いたあとのことは、書かない」

「はい」

「書けないんだ。あそこからは、訊いたあとが見えないから」

「はい」

「見えないところを、誰かが埋めてる。それが、出先だ」

菅原は、うなずいた。

上司は、それきり、その話をしなかった。

菅原は、翌週、その会社へ行った。行って、訊かなかった。訊かずに、設備の話を二時間聞いて、帰ってきた。

稟議は、翌月、金額を八千万に落として、通った。

通ったときに、彼は、四階の部屋のことを一度だけ思い出した。

根岸が、廊下から戻ってきて、「もう一段、細かくできますか」と言う。誰が言ったのかは、最後まで分からない。分からないまま、工数が乗る。

あれと、これは、たぶん同じものである。

同じものだ、と思っただけで、彼はそれを誰にも言わなかった。

◇

三年半のプロジェクトは、彼の職業人生の中で、前にも後にもない、飛び地になった。

前は、支店の渉外である。後は、東京の融資である。そのあいだに、三年半、決済の基盤を作る部屋にいた。

前と後は、繋がっている。

あいだの三年半だけが、繋がっていない。

46 四階の札

十月の下旬に、用があって、あのビルに入った。

用というのは、銀行協会が主催する、融資の実務の研修である。菅原が出るのは、東京営業部に来てからの、最初の研修だった。

会場は、六階だった。

エレベーターで六階に上がる。四階は、通過する。

参加者は、二十二人だった。

地銀と、信用金庫と、信用組合から来ている。名札が机に置いてあって、金融機関名と氏名が刷ってある。

菅原の隣は、四国の信用金庫の人だった。

開始前に、その人が話しかけてきた。

「東京の方ですか」

「いえ。日本海側の銀行です。東京の営業部にいます」

「ああ、出てこられてるんですね」

「はい」

「私は、昨日から泊まりです。こういうのは、年に一回しか来られないので」

「一回ですか」

「一回です。出張の枠が、決まってまして」

その人は、そう言って、笑った。

「行かせてもらえるだけ、ましですけどね」

研修は、十時から十六時まであった。

講師は、信託銀行の出身だという。話は、担保の評価から始まった。

午前の終わりに、質問が一つ出た。

「地方の物件だと、評価が出ないんですが、どうされていますか」

訊いたのは、後ろのほうに座っていた人である。

「出ない、というのは」

「取引事例がないんです。近隣で、五年間、売買が一件もない地域があります」

講師は、少し考えて、答えた。

「そこは、出ないと書いてください」

「書いていいんですか」

「書かないと、あとで誰かが、出たことにします」

菅原は、その答えを、書き取った。

書き取ってから、自分がなぜそれを書き取ったのかを、少し考えた。

昼の休憩に、菅原は、階段を下りた。

理由は、なかった。地下の食堂へ行くのに、エレベーターが混んでいたからである。

四階で、彼は、廊下へ出た。

◇

廊下は、変わっていなかった。

右へ延びて、突き当たりの手前、左側に、部屋がある。

扉に、名札が出ていた。

樹脂の板は、同じものである。差し込み口の下の隅が、少し折れている。

紙が、変わっていた。

会議体の名前が、別のものになっていた。

「——検討部会」という語尾だけが、前と同じだった。前の部分が違う。分野も、違う。決済とは関係のない、別の分野の会議体である。

その下に、もう一枚、紙が差してある。構成員の名前が、印刷されている。

菅原は、それを、読まなかった。

読まずに、階段のほうへ戻った。

戻る途中で、廊下の照明を見た。

天井に、二本ずつ、六組。三組目の一本が、切れている。

三年半のあいだ、一度も替わらなかったものである。

◇

階段の踊り場で、人とすれ違った。

事務局の職員である。三年前に、六脚の椅子を片づけた、あの若い職員だった。

向こうが、先に気づいた。

「あ。菅原さん」

「お久しぶりです」

「お久しぶりです。今日は、こちらは」

「研修です。六階の」

「そうですか」

職員は、書類の束を抱えていた。

「四階、別の会議体になりました」

「札を、見ました」

「三月に入れ替わりました」

「何の分野ですか」

「私も担当ではないので、詳しくは。ただ、たぶん、五年ぐらいかかるやつです」

「五年ですか」

「五年です」

職員は、そう言って、少し笑った。

「見学の申し込み、今度は多いんですよ」

「多いですか」

「多いです。初回で、三十件を超えました」

菅原は、「そうですか」と言った。

「あのときは、零件でしたね」

職員は、そう言った。

覚えていた。

「零件でした」

「すみません」

「いえ」

職員は、頭を下げて、階段を上がっていった。

◇

中には、入らなかった。

扉は閉まっていた。中から、人の声がした。三人か、四人である。

彼は、その前を通って、階段を下りた。

地下の食堂で、蕎麦を食べた。

食堂は、変わっていなかった。券売機の位置も、返却口の位置も、同じである。

三年半、彼はここで昼を食べていた。券売機の並びも覚えている。左の列の、上から二番目が蕎麦である。

押さずに、値段だけ見た。

四十円、上がっていた。

隣に、四国の信用金庫の人が座った。

「午前の、あれ、よかったですね」

「担保の話ですか」

「出ないと書け、というところです」

「はい」

「うち、書けないんですよ」

その人は、そう言った。

「書くと、稟議が止まるので。止まると、案件が流れる。流れると、来期の数字が立たない」

「はい」

「だから、出たことにします。出たことにして、あとで誰かが困る」

「困りますか」

「困ります。困るのは、たいてい、五年後の担当者です」

その人は、そう言って、蕎麦をすすった。

「私は、五年後にはいないので」

菅原は、返事をしなかった。

返事をしなかったのは、その人が正しかったからである。

十三時に、六階へ戻った。

研修の後半は、担保の評価の話だった。

途中で、講師が、参加者に一つ訊いた。

「みなさんの銀行で、評価が出なかった案件を、記録に残しておられますか」

手が、二本上がった。

二十二人のうち、二本である。

「残っていないものは、なかったことになります」

講師は、そう言った。

「なかったことになったものは、次の人には見えません。次の人は、同じところで、もう一度止まります」

菅原は、それも書き取った。

書き取りながら、版の記録の話を思い出した。

上書きしないでください、と言われたことがある。

言った人の名前は、その研修のあいだ、一度も出てこなかった。

47 同じ電車

十月の最終週の金曜。

十九時十二分、大手町。

菅原は、地下鉄のホームにいた。

その日は、二社を回って、三社目が早く終わった。早く終わったので、いつもより一本早い電車だった。

三社目は、印刷の会社だった。

社長と、二時間話した。設備の話である。機械を一台入れ替えたい、という話が、途中から、入れ替えない理由の話に変わった。

「入れたら、あと十年やらないといけないでしょう」

「そうですね」

「私が、七十二です。息子は、外に出てます」

「はい」

「戻ってこいとは、言ってないです」

社長は、そう言った。

「言われないんですか」

「言ったら、戻ってくるかもしれないでしょう」

菅原は、返事をしなかった。

「まあ、機械の話は、来年にしましょう」

「はい」

「今日は、聞いてもらって、よかったです」

「また、伺います」

「来てください。決めることはないですけど」

社長は、そう言って、玄関まで送ってきた。

「銀行さん、最近、来なくなったんですよ」

「そうですか」

「借りてないからでしょうね。借りると来る」

「はい」

「まあ、それでいいんですけど」

十八時四十分に、その会社を出た。

出て、駅まで歩きながら、菅原は、父のことを一度だけ考えた。

父も、継げとは言わなかった。

理由は、訊いていない。訊く前に、死んでいる。

◇

ホームは、混んでいた。

金曜の十九時である。列が三本あって、どの列も、十人ほど並んでいた。

菅原の前に、学生が二人立っていた。片方が、もう片方に、来週の予定の話をしていた。行くか行かないかを、二人は五分かけて決めかねていた。

ホームに立って、電車を待っていた。

電車が来て、乗った。

車内は、混んでいた。座れる状態ではない。菅原は、ドアの脇に立った。

すぐ横に、四十代くらいの二人連れがいた。同じ会社の人間らしい。片方が、来月の異動の話をしていた。

「行きたくないんですか」

「行きたくないというか、あそこ、二年で三人替わってるんですよ」

「三人」

「三人です。理由は、誰も言わない」

「訊いたら」

「訊いたら、行くことになるでしょう」

二人は、次の駅で降りた。

三つ目の駅で、人が降りた。

降りて、乗ってきた人の中に、三雲がいた。

◇

三雲は、菅原の二メートルほど先に立った。

立って、こちらを見た。

「あ」

「……こんばんは」

「こんばんは」

菅原は、そう言った。

三雲は、少し詰めて、菅原の隣に立った。

二人とも、ドアのほうを向いていた。

眼鏡を、かけていなかった。

菅原は、それを見た。

見て、それから、電車の中の音を聞いていた。

走行音がある。誰かの荷物が、床で少し動く音がする。前のほうで、子どもが何か言っている。それに、母親らしい人が、短く答えている。

車輪が、継ぎ目を越える音が、規則的に続いていた。

三雲が、言った。

「お元気ですか」

「元気です」

「東京の営業でしたね」

「はい。融資です」

「そうですか」

「そちらは」

「同じところにいます」

「基盤の、ほうですか」

「いえ。別の案件です。港湾の、荷役の計画です」

「港湾ですか」

「はい。船が着く順番を決めます」

菅原は、少し考えて、言った。

「着かない日は、ありますか」

「あります」

三雲は、そう答えた。

「時化ると、着きません。着かない日を、先に見込んで組みます」

「そうですか」

「そうです」

そのあと、少し、間があった。

菅原は、そのあいだ、何も考えていなかった。

◇

三雲が、前を向いたまま、言った。

「最初にお会いしたとき」

「はい」

「四階の廊下です。名札を読んでおられました」

「はい」

「真っ黒な人だと思いました」

菅原は、三雲のほうを見た。三雲は、ドアのほうを向いたままだった。

「大工さんか、漁師さんかと思いました。それか、外の工事の方が、階を間違えて上がってこられたのかと」

「二月でした」

「二月です。ですから、そう思いました」

菅原は、少し黙った。

「見なかったと思っていました」

「見ていません」

三雲は、そう言った。

「顔を上げられる前に、見終わっていましたので」

電車が、揺れた。

「私は、人の顔を覚えません」

「はい」

「覚えないんですが、あれは覚えていました」

三雲は、それだけ言って、口を閉じた。

菅原は、何と言えばいいのか、分からなかった。

分からなかったので、本当のことを言った。

「私は、覚えていませんでした」

「はい」

「顔を、見ていなかったんだと思います。四月に部屋へ来られたときは、バッグで分かりました。黒いバッグです。同じものを提げておられたので」

「バッグ」

「はい」

三雲は、少しのあいだ、何も言わなかった。

それから、言った。

「そちらのほうが、正確ですね」

菅原には、褒められたのか、そうでないのかが、分からなかった。

「父が、漁師でした」

そう言った。

「知りませんでした」

「言っていませんでした」

「はい」

三雲は、そう言って、口を閉じた。それきり、二人とも、何も言わなかった。

◇

電車が、次の駅に入った。

減速する。

放送が入った。

「まもなく——」

駅名が、流れた。

ドアが開く。人が降りて、人が乗る。ドアが閉まる。

電車が、動き出した。

菅原は、前を向いたまま、言った。

「三年前の、十二月二十四日の晩ですが」

三雲が、こちらを見た。

「あのとき、私は、何も言いませんでした」

菅原は、そう言った。

それだけだった。

三雲は、何も言わなかった。

電車は、走っていた。


終章 欠航しない日

七月の島は、明るい。

朝の九時の便は、定刻に出た。夏は、風が落ちる。出ない日は、めったにない。

甲板に、人がいた。

夏の便は、混む。座敷はほとんど埋まっていて、通路にも荷物が置いてあった。学生が四人、円になって座っている。帰省である。八月の盆の前で、島の子が本土から戻る時期だった。

段ボールと、紙袋と、クーラーボックス。四年半前の冬に見たのと、荷物の種類が違う。冬は米と灯油で、夏は氷である。

二時間十分のあいだ、菅原は、そのうち三十分ほど、甲板にいた。日が高くて、海の色が濃い。うねりがほとんどないので、船は真っ直ぐ進む。

甲板の手すりは、塗り直したばかりだった。白い。触ると、まだ少しだけ粘る。

菅原は、手を離して、ズボンで拭いた。

十一時十分に、島が見えた。

低い島である。北の端に灯台があって、それが島でいちばん高い。港は南側に一つ。集落も、南側にだけある。

港には、船が三杯繋いであった。

四年半前の冬には、四杯繋いであった。

減った一杯が誰のものだったかを、菅原は知らない。訊けば分かる。山際に訊けば、たぶん一言で答える。

訊かなかった。

そのうちの一杯が、山際の船だった。

◇

接岸の十分前、三雲が、甲板に出てきた。

風があった。

夏の風である。強くはない。ただ、船が動いているので、その速度のぶんだけ、前から来る。

彼女の髪が、顔にかかった。

「——ですね」

何か言った。

「え」

「——が、——」

聞こえなかった。

菅原は、少し近づいた。

「風で、聞こえないです」

三雲は、うなずいた。うなずいて、口を閉じた。

それきり、二人とも、何も言わなかった。

彼女の左手が、手すりにかかっていた。

薬指に、指輪があった。

細い輪の上に、石が一つ載っている。日が高いので、船が揺れるたびに、その石が光った。光り方が、白いところと、色のついたところに分かれる。手すりの白い塗りの上で、それだけが動いていた。

菅原は、一度見て、目を戻した。

それから、もう一度見た。

◇

甲板の学生たちが、荷物をまとめ始めた。

四人のうち三人が、そのまま甲板にいて、島のほうを見ていた。一人が、携帯を出して、島を撮った。撮って、画面を見て、もう一度撮った。

菅原は、それを見ていた。

彼が十五で島を出た年には、携帯を持っている同級生はいなかった。港で見送られて、船が出て、防波堤が切れるところまで、母が立っていた。

いま、防波堤は同じ場所にある。

学生の一人が、菅原の脇を通るときに、小さく頭を下げた。菅原も下げた。誰の子かは分からない。分からないが、島の子である。島の子は、大人に会うと頭を下げる。それだけは、変わっていなかった。

◇

港が、近づいた。

菅原は、島のほうを見ていた。

「あそこが、港です」

「はい」

「あの、赤い屋根が漁協です。その上が、集落です」

「学校は」

「学校は、見えないところにあります。児童は、四人です」

「四人」

「高校がないので、十五で出ます。私も、十五で出ました」

三雲は、島のほうを見ていた。

菅原は、そこで、もう一度、説明した。

「冬は、船が出ません」

「はい」

「西の風が入ると、二日か三日、出ません。長いと、一週間続きます」

「はい」

「だから、島の人間は、先に数えます。この冬は何日ぐらい出ないだろう、と先に見当をつけて、そのぶんの米と、灯油と、薬を積んでおきます。出ないと決まってから慌てても、間に合わないので」

三雲は、しばらく、何も言わなかった。

それから、言った。

「それは、縮退ですね」

四年前と、同じ言葉だった。

四年前は、新幹線の中だった。日が落ちていて、窓が黒かった。トンネルに入るたびに、車内が窓に映っていた。彼女は、その言葉を言って、説明しなかった。

菅原には、意味が分からなかった。

いまは、分かる。

全部は守れない。守れないなら、何を守るかを、先に宣言しておく。宣言したものに矛盾があれば、強いほうではなく、弱いほうへ寄せる。寄せたことは、黙っていない。

できないと言った側を、切らない。

「はい」

菅原は、そう答えた。

接岸のあいだ、船は二度、体を寄せ直した。

一度目で少し離れて、二度目で着いた。甲板の係員が、そのたびに何か短く言った。言葉は、風で聞こえない。

菅原は、その手順を覚えている。

覚えているのは、十五まで、この船に何十回も乗ったからである。中学のときは、月に一度、本土の病院へ行った。歯である。島に歯科がない。

行きの二時間十分と、帰りの二時間十分。年に十二回。三年で七十二回。

そのころは、長いとは思わなかった。

いまも、思わない。

船が、岸壁に着いた。

ロープが投げられて、係員が受け取った。エンジンの音が落ちて、船が止まった。

山際の船は、繋いだままだった。

甲板に、赤いコンテナが四つ、積んである。

◇

家は、港から歩いて六分である。

母が、戸口に出ていた。

船が着くのは家から見えるので、着いてから出てきたのだろう、と菅原は思った。

「おかえり」

「ただいま」

「暑いな」

「暑い」

それだけ言って、母は、三雲のほうを見た。

「三雲です」

三雲が、そう言って、頭を下げた。

「聞いとる」

母は、そう言った。

「暑かったやろ。上がり」

家に入った。

土間があって、その先が板の間である。奥が、仏間になっている。

母は、麦茶を出した。出して、自分は座らずに、台所に立っていた。

「船、揺れんかったやろ」

「揺れんかった」

「夏やからな」

三雲が、言った。

「船が、思ったより大きかったです」

「大きい船やで。前の船は、もっと小さかった」

「小さかったんですか」

「小さかった。あれは、よう揺れた」

母は、そこで初めて、少し笑った。

「よう揺れて、みんな寝とった。寝とったら、酔わんのや」

「寝るんですか」

「寝る。座敷に、並んで寝とる」

三雲は、「そうですか」と言った。

菅原は、そのやりとりを、横で聞いていた。

母は、三雲に、何も訊かなかった。どこの生まれか、何をしているのか、と訊かなかった。

訊かないのは、母の性質である。

菅原は、それを、ありがたいとは思わなかった。ただ、そうなるだろうと思っていた。

そのとおりになった。

◇

十四時に、家を出た。

荷物を置いて、二人で、灯台のほうへ上がった。

道は、集落を抜けると舗装が終わる。あとは、草の生えた土の道である。片側が斜面で、下に海が見える。夏は草が伸びるので、道幅が半分になる。

「靴、大丈夫ですか」

「大丈夫です」

三雲は、そう言って、先に歩いた。菅原が後ろについた。

十五分ほど上がると、木がなくなって、風が変わる。灯台の下は、平らな草地になっている。柵はない。人はいない。島の人間は、夏の昼にここへ来ない。暑いからである。

海が、三方向に見えた。

「本土は」

「あっちです」

菅原は、東を指した。水平線に、うっすらと陸の影がある。二時間十分の距離である。

三雲は、しばらく、そちらを見ていた。

それから、こちらを向いた。

菅原は、彼女の顔を見た。眼鏡の縁に日が当たっていて、レンズの向こうが見えにくい。

彼女が、眼鏡を外した。

外して、片手に持ったまま、少し近づいた。

風が、下から上がってきた。

菅原は、彼女の背中に手を回した。ジャケットは着ていない。半袖の背中は、思ったより薄かった。

口づけたとき、彼女が持っていた眼鏡の蔓が、菅原の腕に当たった。

一度離れて、もう一度した。

二度目は、長かった。

離れてから、三雲が、眼鏡をかけ直した。かけ直して、レンズを一度、指で拭いた。

「風が」

「はい」

「塩が付きますね」

「付きます」

彼女は、そう言って、笑った。

それから、菅原の手を取った。取ったほうが、左手だった。

薬指の輪が、菅原の手のひらに当たった。硬い。石の載っている側が、内側に回っていた。

三雲は、それを、指で元の位置に戻した。

手を繋いだまま、二人とも、海のほうを向いた。

灯台は、昼のあいだ、光らない。

下りは、来た道を戻った。

◇

墓は、集落の西の斜面にある。

翌朝、六時に、菅原は一人で上がった。

早い時間にしたのは、暑いからである。七時を過ぎると、斜面に日が当たる。

桶と柄杓は、下の水場にある。水を汲んで、片手で提げて上がった。

墓は、五年前と同じところにある。菅原の家の石が一つ。その隣に、親戚の家のものが三つ並んでいる。

草が、伸びていた。

伸びていたが、根元は刈ってある。山際が刈ったのだろう、と思った。

菅原は、水をかけて、石を洗った。

洗って、線香を立てた。

風がある。線香の煙が、横に流れた。

彼は、手を合わせた。

合わせて、しばらく、そのままでいた。

言うことは、決めていなかった。

決めていなかったので、順番に言った。

東京にいること。三年半、決済の基盤を作る部屋にいたこと。その部屋が、去年で終わったこと。いまは、融資をしていること。肩の合うスーツを、一着だけ作ったこと。

それから、一緒に来た人がいること。

そこまで言って、彼は、それが報告になっていることに気づいた。

報告は、父にしたことがない。

高校も、大学も、就職も、全部、決まってから伝えている。父は、そのたびに「そうか」と言った。反対も賛成もしなかった。

継げとも、言わなかった。

言わなかった理由を、彼は、いまも知らない。

訊かなかったからである。

訊けた時間は、少なくとも十五年あった。

菅原は、そこで、手を下ろした。

下ろして、桶に残った水を、残らずかけた。

石が、黒くなった。日が当たると、すぐに乾いて、また白くなる。

彼は、その乾いていくところまでを見て、下りた。

◇

下りたところに、山際がいた。

港へ行く途中らしい。長靴を履いていた。

「上がっとったんか」

「上がっとった」

「草、伸びとったやろ」

「刈ってあった」

「先月や」

山際は、そう言った。

「連れの人は」

「寝とる」

「起こさんでええんか」

「ええ」

山際は、うなずいた。

それから、言った。

「船、出しちゃろか」

「今日か」

「今日や。昼から凪ぐ」

「頼むわ」

「乗せるだけやで。獲らんぞ」

「ええ」

山際は、そう言って、港のほうへ歩いていった。

菅原は、家へ戻った。

戻って、母に、山際が船を出すと言っていることを伝えた。

母は、「そうか」と言った。

言って、それから、言った。

「あの人にも、見せとき」

「何を」

「海や」

母は、それだけ言って、台所へ行った。

◇

昼過ぎに、山際の船に乗った。

港を出て、島を半周した。

北側は、集落から見えない。断崖になっていて、下に岩が並んでいる。冬に西の風が入ると、この面が白くなる。

灯台が、上に見えた。朝に上がった草地が、その下にある。

三雲は、手すりを持って、立っていた。

風が強い。喋っても、聞こえない。

山際は、何も説明しなかった。舵を握って、前を見ていた。

三十分ほど回って、港へ戻った。

戻って、係留のロープを結びながら、山際が言った。

「ええ天気やったな」

「ええ天気やった」

三雲が、船を下りるときに、山際に頭を下げた。

「ありがとうございました」

「ええ」

山際は、それだけ言った。

三雲が、先に岸へ上がった。

上がってから、こちらを向いて、言った。

「北側は、冬に白くなると聞きました」

「白くなる」

山際が答えた。

「西が入ると、あの岩まで上がる。上まで飛ぶで」

「灯台まで、ですか」

「灯台までは行かん。行かんけど、草は枯れる。塩で枯れるんや」

「毎年ですか」

「毎年や。ほんで、春にまた生える」

山際は、ロープの端を巻きながら、そう言った。

「生えるんですか」

「生える。枯れるとこは、決まっとる。決まっとるとこは、そういう草が生えとる」

三雲は、しばらく、その岩のほうを見ていた。

見て、「そうですか」と言った。

山際は、それ以上、何も説明しなかった。

菅原も、しなかった。

説明する必要が、その場になかったからである。

◇

夕方の便で、二人は島を出た。

十七時二十分の便である。夏は、これが最終になる。

港に、母が出ていた。

出て、防波堤の切れるところまで、立っていた。

菅原は、甲板からそれを見ていた。

十五で出た年と、同じ場所である。同じ場所に、同じ人が立っている。

違うのは、こちらが二人であることだけだった。

防波堤が切れて、母の姿が見えなくなった。

三雲が、言った。

「毎回、あそこに立たれるんですか」

「立ちます」

「見えなくなるまで、ですか」

「見えなくなるまでです」

「こちらからも、見えていますね」

「見えています」

菅原は、そう答えた。

それきり、二人とも、何も言わなかった。

◇

何年かあとの、十二月の夜である。

東京の部屋で、菅原は、島の天気を見ていた。

翌週に、正月の便がある。西の風が入る予報だった。

三雲が、後ろを通って、画面を見た。

「出ませんか」

「三日は出ないと思います」

「三日」

「長いと、五日です」

「予備は」

「一週間ぶん、頼んであります」

三雲は、うなずいて、台所のほうへ行った。

菅原は、画面を閉じた。

閉じてから、翌週の便を、二人ぶん取り直した。

一本、遅いほうにした。


付録

付録一・人物

汐入銀行(第一地銀。本店は日本海側の県庁所在地)

  • 菅原 大海(すがわら・ひろみ) 三十二歳(アサイン時)。視点人物。灯明島の漁師の息子。県内の国立大の経済学部から汐入銀行へ。支店三か店、営業一筋。勘定系という語は使うが、その中で何が起きているかは知らない。断らない。引き受けたことは終わらせる。用がなければ連絡しない。
  • 築館 孝之(つきだて・たかゆき) 五十四歳。システム部次長。人事課ではなく支店長に電話をかけた。「事務がわかっていて、東京で折れない奴はいないか」。システムができる奴、とは訊かなかった。菅原を評価しているが、本人には最後まで言わない。
  • 沢井 久美子(さわい・くみこ) 五十八歳。湊町支店のベテランテラー。三十八年、同じ仕事をしている。菅原を下の名前で呼ぶ数少ない行員。二時から四時に来た客に、同じことを言い続けている。自分が重要なことを言っているとは思っていない。
  • 堀 健吾(ほり・けんご) 三十二歳。同期、融資係。よく喋る。妻と子がいる。東京の話をすると必ず茶化す。悪気はない。
  • 神保 晴道(じんぼ・はるみち) 頭取。菅原がアサインされた年度の地銀協会長。翌年度には会長でなくなる。それでも降りられない。
  • 東京営業部の次長 五十一歳。菅原の異動後の上司。本店の稟議の書き方を知っていて、それを直そうとしない。「見えないところを、誰かが埋めてる。それが、出先だ」。

参加行(汐入銀行以外)

  • 大場(おおば) 二十六歳。第二次で入った参加行の若手。四月に部屋へ来る。休みにベースを弾く。うまくならないまま十年続けている。作中で、菅原が「出すものが一つもない」と気づく契機になる。本人は何も気づいていない。
  • A行〜F行の担当者 名を持たない。菅原が三年半で三百本近い照会を出した相手。「できます」と間を置かずに答える者と、一度息を吸ってから答える者がいる。菅原は、その差だけを覚えて帰る。

研究所

  • 三雲 佳奈依(みくも・かなえ) 三十三歳。主任研究員。専門は鉄道の運行計画——ダイヤ、遅延の伝播、回復余裕、乱れたときに何を捨てるか。決済のことは知らずに来た。メモを取らない。人の顔は覚えない。厚い眼鏡をかけている。同じ黒いバッグを持って帰る。必要だと判断したことは、相手の都合を考えずにやる。x+1年七月に鉄道の火消しへ移り、x+2年春に案件付きの技術支援として戻る。肩書きは、そのとき一つ下がっている。
  • 倉持 奈津(くらもち・なつ) 三十三歳。三雲の大学の同級生。

実装ベンダー

  • 戸畑 正輝(とばた・まさき) 四十九歳。プロジェクトマネージャー。有能である。単体では作れるが、同じ仕組みの上に載せた経験がない。この一点の空白を最後まで恥じている。「誰も悪くないときに、誰かを書くと、次から、誰も報告しなくなる」。
  • 梶 亮太(かじ・りょうた) 二十八歳。現場の若手。早口。感情が顔に出る。作中で唯一、思ったことをその場で言う人物。第三部で現場責任者になる。

出向組

  • 芝原 恭平(しばはら・きょうへい) 三十七歳。メガバンクのデジタル戦略室から出向。有能で誠実で悪意がない。三雲と同じ語彙で話せる唯一の人間。帰る場所がある。
  • 皆川 千秋(みながわ・ちあき) 三十四歳。日銀の決済機構局から出向。話し方が丁寧すぎて、かえって距離がある。政治には一切関与しない。「菅原さんは、当事者ですから」。褒めている。
  • 橘 美春(たちばな・みはる) 三十六歳。信金中金システム部から出向。よく笑う。会員金庫の名前を全部覚えている。覚えないと、頭割りの話をするときに数字にしか見えなくなるからである。
  • 古畑 遼(ふるはた・りょう) 三十一歳。第二地銀から出向。菅原と最も近い立場。二年目の五月に本店へ戻る。送別はない。
  • 根岸 尚彦(ねぎし・なおひこ) 五十一歳。会長行から出た部長。会長行はメガバンクで、その部長は地銀の役員クラスにあたる。四十八歳で本部の部長になり、一つ務めてからこの部屋へ送られている。この部屋の名目上の長。廊下に出る回数が異様に多い。決めない人ではなく、決める権限がないまま束ねる人。

外側

  • 大谷内 静江(おおやち・しずえ) 六十七歳。小料理屋「なぎ」を一人でやっている。かつて信託銀行の食堂に三十年いた。金融の人間の話し方を全部知っているが、中身は一つも分からない。誰も励まさない。訊かないから、みんな喋る。
  • 山際 克巳(やまぎわ・かつみ) 三十二歳。灯明島の同級生。妻と子が二人。菅原が継がなかった船に、彼が乗っている。電話は短い。用がなければ切る。
  • 菅原の母 六十代。島に一人。「まだ東京か」としか訊かない。人に来歴を訊かない。三雲が島へ来た日にも、どこの生まれかを訊かなかった。
  • 菅原の父 灯明島の漁師。菅原が三十歳の年に死ぬ。三回忌に、菅原は間に合わなかった(二月に船が三日続けて出なかった)。進学のときも就職のときも「そうか」としか言わず、一度も継げと言わなかった。理由は作中で明かされない。菅原が訊かなかったからである。
  • 事務局の若い職員 継続収納の説明会で、空席のままだった見学席六脚を片づけた。三年後、階段の踊り場で菅原と会い、そのことを覚えている。
  • コインランドリーの老人 秋田の出。乾燥は二十分でよいと教える。名前は、最後まで互いに訊かない。

付録二・用語

作中に出てくる用語のうち、決済の基盤に関わるものを、本作の文脈に即して簡単に説明する。厳密な定義ではない。作中の基盤は架空のものであり、以下は本作の設計についての説明である。

基盤の骨格

  • レーン 決済の種類ごとに、四つのことを固定した契約。使い勝手による分類ではない。四つとは、どこまでを同期で返すか(同期境界)、どこから取り消せなくなるか(不可逆境界)、何を残すか(証跡)、例外をどこへ集めるか(例外の収束先)。「即時決済が速い」のは結果であって原因ではない、というのは、この四項のうち同期境界の置き方の違いを指している。
  • レーンの名称について 本作の基盤では、レーンの名称はすべて日本語で置かれている。検討会の段階で、原案の英語を日本語に直す判断があったためで、そのうち「条件決済」「協調決済」の二語は、そのときに作られた語という設定である(第5章)。窓口で読めない語を仕様に置くと、二十年後に誰も直せなくなる、というのがその理由であった。
  • 同期境界 要求を受けたその場で、どこまでの結論を返すか。受け付けたところまでを返すレーンと、実施の指示が確定したところまでを返すレーンがある。
  • 不可逆境界(確定点) そこから先は取り消せない、という点。本作の基盤では、受け取り側が実施を確認した時点にのみ、法的な弁済の完了を紐づける。それ以前の点を「完了」と呼ばない。
  • 決定と実施 決定は、この基盤の内側で実施の指示が確定すること。実施は、参加者それぞれの勘定系が実際に記帳すること。両者は別の軸であり、決定が済んでいても実施が済んでいない状態が存在しうる(第19章の十七分がこれである)。協調決済においても、一体として扱えるのは決定までであり、実施の同時成立は保証されない。
  • 証跡 誰が、いつ、何を根拠にそう決めたかの記録。後から足さない。上書きしない。変更は、前の値を消さずに追記する。
  • 例外の収束先 状態機械の中で処理しきれない事案を集める場所。誰が、いつ、何を理由に入れたか。いま誰が持っているか。何をもって閉じるか。この基盤が持つのは収束先であって、中の判断は各参加者が行う。

レーン

  • 即時決済(そくじけっさい) 店舗の即時課金。決定——実施の指示が確定したところ——までを同期で返す。速いのは、その結果である。名が即時であっても、確定が即時なわけではない。会議時間の半分を食う。
  • 標準決済(ひょうじゅんけっさい) 説明できることを最優先にした送金。受け付けたところまでを同期で返す。誤送金は、この収束先に集まる。
  • 高額決済(こうがくけっさい) 高額のもの。受け付けたところまでを同期で返す。日本銀行の決済が入るため、不可逆境界がそこに移る。
  • 一括決済(いっかつけっさい) 締切を持つ大量処理。繰延を含む。証跡に、どの締切の回かの識別子が要る。
  • 支払依頼(しはらいいらい) 受取人の側から起票するもの。資金を動かす指図ではなく、支払を求める依頼であるため、ひとつだけ「決済」の名を持たない。
  • 条件決済(じょうけんけっさい) 条件が成立したときにだけ成り立つ支払。期限が来たら必ず取消へ収束させ、宙ぶらりんを残さない。検討会で作られた語。
  • 協調決済(きょうちょうけっさい) 複数の当事者の脚をまとめて一つの決定として扱う仕組み。完了は、すべての脚で受け取り側の確認が揃った時点でのみ認める。検討会で作られた語。
  • 継続収納(口座振替) 反復的な回収。契約(委任状)・予告・実行の三層で構成する。作中で、唯一、現場の側から書かれたレーン。

継続収納

  • 依頼側と引落側の分離 収納企業が接続する参加者(依頼を出す側)と、顧客の口座のある参加者(引き落とす側)を、別々に書く。両方がこの基盤の約束の上に載っていれば、あいだの組み合わせを問わない。既存の口座振替では、収納企業が契約した先の金融機関でしか引落が成立せず、申込書に刷られた一覧の外は使えない。ここを分けたことで、顧客の側が金融機関を選べるようになる。
  • 委任状 誰が誰に、何について、どこまでの回収を許したか。顧客の署名で成立する。基盤が代わりに作ることはできない。
  • 予告 いつ・いくら回収するかの事前の開示。予告は取引ではない。予告から振替日までのあいだ、顧客の資金を一切拘束しない。残高の判定は、振替日の当日に行う。この点が、承認と同時に枠を確保するカードのオーソリと決定的に違う。
  • 費目 何に対する請求か。同じ委任状の同じ費目について、成立させられる収納は一件までとする。これは二重に取らないための仕組みであって、取りすぎを防ぐものではない。
  • 累計枠 ひと月にいくらまで、通算でいくらまで、という上限。取りすぎを防ぐのは、こちらが単独で担う。費目の一意性と累計枠を、一つの機構で解こうとしてはならない。
  • ラダー(再振替の段) 失敗のたびに指示を出し直すのではなく、条件付きの後続段をあらかじめ登録しておく方式。段の全部を、予告の時点で顧客に開示する。後続段が発火する条件は、前の段の失敗が確定していることかつ予定日が到来していることの両方である。日付だけで動かすと、二重に引く。
  • 失敗の確定 成功は、受け取り側の実施が確認された時点で確定する(動いた資金はそれ以上変わらないため)。失敗は、後続の試行がありえなくなった時点——その日の窓が閉じたとき——で確定する。両者は非対称である。
  • 想定の内側の不能 振替日の残高不足。予告から振替日まで資金を拘束していないため、「押さえたのに引けなかった」という食い違いが原理的に起きない。したがって、これを例外に集めない。正常な終わり方として扱う。
  • 同日競合の充当順序 同じ日に複数の収納が重なり、残高が足りないときの順番。顧客の優先指定、原請求の古さ、金額の小さい順、最後に識別子の順。金額の小さい順だけで並べると、遅延分が乗って金額の増えた最も救うべき収納が最後に回るため、古い順を先に置いてこれを打ち消す。

参加と接続

  • 能力プロファイル(能力の申告) 参加行が、自分の勘定系に何ができて何ができないかを、あらかじめ申告するもの。同期で資金の確保を返せるか。予約という状態を持てるか。停止する時間帯があるか、あるなら何時から何時か。通知を受け取る口があるか。同じ要求を二度受けたときに二度目だと気づけるか。
  • 対応レベル 申告の組み合わせを、接続の段として一括で示したもの。接続できる段のうち最も低い段は、受け取る側にだけなる参加である。その下に、接続そのものが成り立たない段がある。同期の応答を返せない参加者にも、この段でなら接続の道がある。
  • 縮退 宣言された組み合わせに矛盾があるとき、強いほうではなく弱いほうへ寄せること。たとえば「同期では資金の確保を返せない」と申告した参加者に対しては、予約を取る扱いを、予約を取らない扱いへ落とす。予約を取ったつもりで返事が来なければ、誰も履行できず誰も解放できない予約が相手側に残るためである。縮退したことは、応答に載せる。黙って落とすと、誤った申告が黙って通る。
  • モードの降格 即時の収納は、同期の応答を返せる参加者でなければ割り当てられない。返せない参加者に対しては、予告付きの収納へ自動的に降格させ、降格した事実を収納側へ明示的に返す。黙って挙動を変えない、という原則は、縮退と同じである。
  • 勘定系の側の制約 夜間の停止時間帯があること。同じ要求を二度受けたときに気づけないこと。資金を一時的に押さえる状態を持たないこと。停止中は残高を読めないこと。応答が返る前に通信が切れうること。通知を受け取る口がないこと。この基盤は、これらが「無い」ことを前提に設計されている。

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