三十二分
目次
三十二分
本書はフィクションである。経営コンサルティング、プライベート・エクイティ、企業買収に係る実務・慣行を背景として用いているが、本書に描かれる案件、会議、資料、およびそこでの判断と言動は、すべて創作である。橋詰精機株式会社、栗生キャピタル株式会社、日本フレックス工業株式会社、帝北フーズ株式会社をはじめとする企業、団体、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる組織・個人とも関係がない。主人公の勤務先の名称は、作中で一度も示されない。
第一章 三十二分
案件の名前は、プロジェクト・ハルニレといった。
木の名前である。誰が決めたのかは聞かなかった。
クライアントは橋詰精機。東証プライム、売上三千八百億、従業員九千二百名。精密部品、計測機器、産業用センサの三事業を持っている。
論点は、精密部品事業を売るかどうかだった。
売上六百二十億。営業利益率四・八パーセント。全社平均を下回っている。
十週間の案件で、後半六週から入ることになった。前の案件のロールオフが八月の第一週で、翌週の月曜からこちらに移った。引継ぎの資料は前任者が二時間で説明した。二時間で六週分を渡すというのは、渡さないということである。
チームは五人。守屋というパートナー、永瀬というマネージャー、コンサルタントが二人、アナリストが一人。
守屋は四十八歳。産業財のプラクティスにいる。橋詰精機のアカウントを十年近く持っている。
永瀬は三十五歳。この人が実務を全部握っている。
論点は三つに分かれていた。
一つ、精密部品事業の中期的な収益見通し。
二つ、売却が残存事業に与える影響。
三つ、想定される買い手の類型と、価格へのインパクト。
担当は二つ目だった。
「残存事業への影響」と最初に言われたときは、範囲が分からなかった。
永瀬さんは、それを三つに割ってくれた。
顧客基盤の重複。人材の移動。共通機能のコスト。
「三つ目は経理が数字を持ってる。二つ目は人事。一つ目だけ、誰も持ってない」
だから一つ目をやることになった。
◇
読むのはIMではない。
売り手が作った情報パッケージは、まだない。この段階では、社内資料しか出てこない。
出てくるものは、出てくる形で出てくる。
事業部が役員会に上げた過去三年の説明資料。中計の部門別の内訳。営業支援システムから吐かれたCSV。基幹系から出た売上明細。
どれも社内のもので、どれも様式が違う。
八月の後半だった。
丸の内のオフィスは、夜になっても人が減らない。
フロアは静かである。声で仕事をする人がほとんどいないので、聞こえるのは空調の音と、誰かがキーボードを打つ音だけになる。
二十二時を過ぎると、その音の数が数えられるようになる。
その日は七つだった。
顧客リストは二つあった。
精密部品事業のものは、営業支援システムから出ている。計測機器事業のものは、基幹系から出ている。
どちらも社内のシステムである。
法人名の書き方が、揃っていない。
片方は「株式会社」を前に置く。もう片方は後ろに置く。前株と後株の違いではない。登録した人間の癖である。
上位二十社を並べて、両方に出てくるものを数える。
それが与えられた作業だった。
数えるだけなら三十分で終わる。終わらなかったのは、同じ会社が同じ名前で書かれていないからである。
旧社名のものが三つ。
二〇一九年に持株会社に移行した先が二つ。
事業所単位で登録されているものが四つあった。そのうち一つは、本社と工場が別の法人番号を持っている。
昼を過ぎたころ、判断の要るものが七社残った。
◇
一社目。
持株会社の下に、事業会社が二つある。それぞれ別の名前で登録されている。購買は統合されている。
統合は二〇二一年で、先方のリリースに出ている。
一社と数えた。
二社目。同じ形だった。
三社目は、工場と本社である。工場が発注し、本社が払っている。伝票は二か所を通る。決めているのは一か所である。
一社。
四社目で、手が止まった。
商社が入っていた。
精密部品側は商社経由である。計測機器側は直販である。エンドユーザーは同じ工場だが、あいだに一社挟まっている。
挟まっていることに意味があるのかどうかは、この資料からは分からない。
画面は、スクロールした位置のまま動かなかった。
指を置いたまま、三十秒くらい、何も操作しなかった。
商社経由ということは、価格の交渉相手が違うということである。売却したときに接点を失うかどうかは、接点が誰との間にあるかによる。
分からない。
分からないものを、どちらかに寄せなければならない。
寄せた。重複に数えた。
エンドユーザーが同じであることを重く見た。逆の判断もありえた。
ありえたことは、別の紙に書いておくことにした。
キーボードから両手を離して、膝に置いた。
五社目、六社目、七社目は、早く決まった。
決まったというより、四社目の基準を当てはめただけである。
基準は、四社目を決めたときに作った。作ったという自覚は、そのときはなかった。
十四社になった。
十四という数字は、寄せ方を変えれば十一にも十七にもなる。
そのことは、別紙に書く。
書いても読まれないかもしれない。書かないと、読まれないことと存在しないことの区別がつかなくなる。
七社の名前を、口の中で言った。
声には出していない。
二社目と五社目が似た社名で、順番を間違えそうになる。
クリーニングのことが挟まった。
今週は十枚。日曜に取りに行く。
取りに行けるかどうかは、土曜の状況による。
時計は見なかった。
フロアには、まだ何人かいた。
◇
日付が変わってから、電車に乗った。
大手町から白金台までは、乗り換えが一回ある。
車内は空いていて、座れた。
窓に自分の顔が映るので、少し角度を変えて、映らない位置に頭を置く。
皇居のことを考えた。
一周五キロ。二年目のときは週に二回走っていた。ウェアもシューズも玄関にある。
いま走ったら、何分かかるか。
二十四分。
そのくらいだと思う。
走らないので、確かめない。
◇
八月の終わりに、精密部品事業の本部に一度行った。
本社ではない。埼玉の、工場に併設された建物である。
駅から送迎バスが出ている。バスは十五分で、途中に信号が七つあった。
建物は四階建てで、外壁が薄い黄色をしていた。塗り直したのが十年以上前だと分かる色である。
正面の自動ドアは片方が動かない。動くほうに、矢印のシールが貼ってある。
受付は、無人の電話機が一台置いてあるだけだった。
通されたのは二階の打合せ室だった。
パーティションで区切ってある。天井までは届いていない。
隣の席の会話が、内容まで聞こえる。
長机にビニールのクロスが敷いてあって、端が少しめくれていた。
壁に、安全標語のポスターが貼ってある。今年のものと、去年のものが並んでいる。
エアコンの吹き出し口が黒い。
窓から、工場の屋根と、駐車場と、その向こうの倉庫が見えた。
倉庫の壁に、この会社の社名が横書きで大きく入っている。
執務のフロアも通った。
机が向かい合わせに六つずつ、島になっている。
書類が、机の上に積んである。積んであるのは、置き場所がないからである。
キャビネットの上に、紙の箱がさらに積んである。
古いカレンダーが一枚、外されずに掛かっていた。
働いている人が、たくさんいた。
いい会社だと思った。
いい会社だと思う根拠が、あるわけではない。
人が多くて、紙が多い、というだけである。
それでも、そう思った。
◇
トイレは廊下の突き当たりにあった。
タイルの目地が黒い。
手を乾かす機械が、故障中の紙を貼ったまま置いてある。
紙は日に焼けていた。
鏡の下の棚に、誰かの櫛が置いてある。
洗面台の水を止めるのに、蛇口を二度ひねった。
説明をしてくれたのは、事業企画の課長だった。
五十代である。
聞いたのは、顧客の登録の仕方についてだった。
「昔は営業が手で入れてたので、揃ってないんですよ」
そう言われた。
「揃えようという話は、五、六年前に出たんですけどね」
出て、どうなったかは言わなかった。
聞かなかった。
帰りのバスで、資料を膝の上に置いた。
この人たちが十年かけて作った売上が、六百二十億である。
営業利益率は四・八パーセントである。
その数字は、いま自分の膝の上にある紙の、三行目に入っている。
三行目に入っているものを、売るか売らないかの検討をしている。
そのことを、しばらく考えていた。
考えても、何がどうなるという話ではない。
たぶん、考えるところではないのだと思う。
バスが駅に着いた。
◇
次は、営業が年に何回その十四社を訪問しているかを出す作業だった。
出せなかった。
営業支援システムに訪問記録の項目はある。入力率が四割を切っている。
四割の中身を見ると、大型案件のときだけ入れる運用になっているらしい。
らしい、というのは、そう書いた文書がどこにもないからである。
運用は文書ではなく、人の手の中にある。
永瀬さんに相談した。
「経費精算、見られる?」
見られた。
出張の精算には、訪問先が書いてある。日付と、行き先と、金額。
そこまでである。何を話したかは書いていない。
精密部品と計測機器の営業は、同じ部にいる。同じ人間が両方を持っている場合がある。
だから訪問先だけでは、その日どちらの話をしたのか分からない。
聞くしかなかった。
十一人に聞いた。電話とオンラインで、一人あたり三十分。
三十分で二年分の訪問を思い出してもらう。
思い出せるわけがない。
それでも聞くと、答えは返ってくる。返ってくるのは、たいてい直近三か月のものである。
だいたい月一くらいですかね、と言われる。
だいたい、と言われたものを数字にするのが、この仕事だった。
四人分が、取れなかった。
二人は退職していた。
一人は関連会社に出向していて、先方の人事を通す必要があると言われた。
もう一人は営業から外れて、いまは工場にいる。
工場にいる人に、二年前の訪問について聞くことの意味を、少し考えた。
考えて、やめた。
◇
四人分の空白を、どう扱うか。
方法は三つあった。
ゼロとして扱う。取れた七人の平均を当てる。担当していた会社の規模で按分する。
一つ目は違う。ゼロではないからである。
二つ目は簡単だが、四人が大口を担当していた場合に過小になる。
三つ目は手間がかかる。根拠は二つ目より少しだけ強い。
三つ目にした。
按分の基準は、精密部品側の売上高にした。
これも別の基準がありえた。
ありえたことを、また別紙に書いた。
別紙は、四枚になっていた。
年間の訪問回数が出た。
十四社に対して、二事業あわせた回数。そのうち精密部品を目的とした分を推計する。
それを外したとき、残るのが三分の一だった。
三分の一。
きれいな数字だと思った。
きれいすぎるので、按分の基準を変えて二回計算し直した。
少しずれた。大きくは動かなかった。
動かないことを確認して、元の数字に戻した。
二十三時を回っていた。
自販機で水を買って、席に戻った。
画面には十四社の名前が並んでいる。それを見ないで、スマートフォンを開いた。
予備校のサイトに、二月の入試問題が残っている。
去年のものである。もう半年以上前になる。
何度か見ているうちに、まだ解いていない大学が残っているのを知っていた。
第三問を開いた。
整数問題だった。
読む。条件が二つある。二つ目が効く形になっている。
二つ目を先に使うと、動かせる範囲が一気に狭くなる。
狭くなった、と思った瞬間、スクロールしていた指が止まった。
見えた。
あとは書けば終わる形になっている。
書かなかった。
書く必要がなかったからである。
二秒くらい、画面をそのまま見ていた。
画面を閉じた。
机の紙に戻るまでに、もう二秒あった。
十四社の名前が並んでいる。
二社目と五社目が似ていて、順番を間違えそうになる。
口の中で、七社を最初から言った。
水を飲んで、続きを始めた。
◇
九月の第一週に、逆側の材料を作れと言われた。
逆側というのは、「早く売れ」が正しい場合の材料である。
こちらの分析は、いま売ると計測機器の営業が十四社との接点を失う、という方向に出ている。
その反対の論拠を、同じ精度で作る。
六枚だった。
精密部品事業の設備更新が三年以内に来ること。市場の買い手需要が今が高いこと。来期以降の為替前提。同業のマルチプルが直近二年で下がっていること。売却資金の再投資先が既にあること。時間が経つほど従業員の離職が進むこと。
どれも本当のことである。
本当のことを、こちらの結論とは逆向きに並べる。
並べていて、気持ちが悪くならなかった。
そのことを、そのときは考えなかった。
永瀬さんに六枚を出した。
一枚目のグラフの目盛りだけ直された。
「これがないと、あの人は喋れないから」
そう言った。
あの人が誰を指すのかは、聞かなかった。
聞く発想が、なかった。
永瀬さんも、説明しなかった。
役員会議は九月の上旬だった。
橋詰精機の本社は、東京の、日比谷寄りの通りに面している。
三十五階建てで、下の五階分だけ石が張ってある。上は全面がガラスで、時間によって色が変わる。
八年前に建て替えたと聞いた。
正面のエントランスは、天井が二層ぶん抜けていた。
床は白に近い石で、目地がほとんど見えない。歩くと靴の音がよく響く。
受付が三人いる。制服が同じ色である。
来客用のエレベーターは四基あって、そのうち二基だけが三十階以上に上がる。
◇
三十五階でエレベーターを降りると、絨毯になった。
音が消える。
廊下の片側に絵が三枚掛かっている。抽象画である。誰のものかは分からない。
反対側は全面のガラスで、下に日比谷の緑と、その先の皇居の濠が見えた。
濠は、上から見ると思ったより黒い。
待合の椅子は革で、座ると沈む。
三十分早く着いたので、そこで十五分待った。
十五分のあいだに、通ったのは秘書と、飲み物を運ぶ人だけだった。
このフロアは静かである。二階の打合せ室の静かさとは、種類が違う。
金がかかっている、と思った。
会議の前にトイレに寄った。
木の扉で、押すと重い。
中は、明るすぎない照明で、洗面台が三つ並んでいる。
石の天板に、水滴が一つも残っていない。
タオルは布のロールではなく、紙のものが畳んで籠に入っていた。
香りが薄くついている。
鏡が大きい。
ネクタイの結び目を直した。
顔は見た。髪は見なかった。
会議室は、そのフロアの南の角にあった。
三十人は入る部屋である。この日は七人しか使わない。
窓が大きい。残暑で、外の光が強い。ブラインドを半分下ろしてある。
長いテーブルは一枚板に見える継ぎ方をしていた。
椅子は、待合のものよりさらに重い。引くのに両手が要る。
壁の一面が木で、そこにモニターが埋め込まれている。
配線が一本も見えない。
見えないようにするのに、いくらかかるかは知らない。
十四時開始。予定は五十分。
同席したのは、社長の橋詰、常務の大城戸、副社長が二名。事業部長が一人。
こちら側は守屋と永瀬と、資料を持つ役として一人。
副社長二名は、最後まで発言しなかった。
いることが機能だった。
◇
守屋は四分遅れて入ってきた。
詫びを言わなかった。
椅子を引いて、座って、それから資料を開いた。
開いてから、顔を上げた。
「精密部品を売る、という前提で我々は検討してきました」
紙をめくらないまま言った。
「この前提は、まだ生きていますか」
大城戸常務が、生きています、と答えた。
「では条件の話をします。前提と条件は別のものです」
そこから三分で、論点の順番が入れ替わった。
用意してきた順番ではなかった。
十四社の話になったのは、開始から十九分後だった。
守屋が、資料の三枚目を開かせた。
精密部品の顧客上位二十社のうち、十四社が計測機器の顧客と重複している。
計測機器は成長事業である。全社の中計で、三年後に売上を一・五倍にすると書いてある。
精密部品を売ると、その十四社との接点が細くなる。
訪問回数は、推計で三分の一になる。
「三分の一というのは、どういう数え方ですか」
大城戸が聞いた。
「営業への聴取と、経費精算の出張記録から復元しています。取れなかった四人分は、担当先の規模で按分しています」
答えたのは守屋ではなかった。
答えるように、守屋が目で示したからである。
大城戸は、それ以上は聞かなかった。
◇
「君は、売るなと言っているのか」
橋詰社長が言った。
「言っていません」と守屋が答えた。
「では何を言っている」
「順序の話をしています」
守屋は資料を閉じた。
「先に計測機器の営業体制を作る。それから売る。半年から一年遅れます。売却額は、いま三百億のものが二百五十億になるかもしれません」
「五十億捨てろと」
「五十億で何を買うか、という話です」
橋詰は何も言わなかった。
窓の外で、どこかのビルの窓拭きのゴンドラが下りていくのが見えた。
「決められるのは、この部屋で一人です」
守屋はそう言って、それきり黙った。
橋詰社長が口を開いたのは、たっぷり間があってからだった。
「常務」
「はい」
「精密部品の入札スケジュールを止めろ」
大城戸が顔を上げた。
「止めるんじゃない。遅らせる」
「どのくらい」
「営業体制の案が出るまでだ。理由は、聞かれたら私が答える」
大城戸は、分かりましたと言った。
言い方は、いつも通りだったと思う。いつも通りかどうかを知るほど、この人と会っていない。
◇
会議は三十二分で終わった。
予定は五十分だった。
十八分余った。
余った十八分に、何かが起きたわけではない。次の議題に移っただけである。
その日、持ち込んだ資料は四十三枚だった。
六週間分である。
開かれたのは、三枚目の一枚だった。
残りの四十二枚は、この一枚が疑われたときに開くためにあった。
疑われなかった。
エレベーターは三十五階から一階まで、途中で二回止まった。
止まるたびに人が乗ってきて、四人になり、六人になった。
守屋は何も言わなかった。
階数表示を見ていた。二十二、二十一、二十。
一階に着いて、扉が開いて、人が出ていった。
最後に守屋が出た。
出てから、振り返らずに言った。
「三枚目、数字を一つ間違えていた」
「すみません」
「使ったから、いい」
言ってから、先に歩き出した。
返事はしなかった。
する間がなかったのか、しなかったのかは、分からない。
自動ドアが開いて、外は明るかった。
十四時三十二分だった。
まだ午後が全部残っている。
第二章 ロールオフ
メールは火曜の十一時に来た。
スタッフィング・マネージャーからである。
件名に案件のコードネームだけが入っている。プロジェクト・ケストレル。
来週月曜から、四週間。クライアントはPEファンド。対象会社は伏せられている。
本文は六行だった。
日程、チーム構成、キックオフの時刻、守秘に関する注意、それから、体調に関する定型の一文。
署名は、名前と部署と内線だけ。
この人と話したことは、三年で二度しかない。
ハルニレは実行フェーズに入る。
営業体制の設計を、これから十週かけて作る。橋詰社長が待っているのはそれである。
そのフェーズに、こちらは残らない。
四十三枚の末尾の四枚が、営業体制の初期案だった。
十四社を誰が持つか。計測機器側に人を移すか、専任を置くか。二年間の移行のたたき台。
三日で作った。
三日で作ったものが、これから十週の起点になるのかどうかは、知らない。
デスクを片づけていたら、永瀬さんが通りかかった。
紙の束を指して、あれ、と言った。
「あれ、使われるらしいよ」
それだけ言って、行った。
誰が使うんですか、とは聞かなかった。
資料を閉じて、シュレッダーの箱に入れた。
案件フォルダのアクセス権は、金曜で切れる。
◇
金曜の夜に、合コンがあった。
幹事は大室である。
大学の同期で、研究室も同じだった。いまは総合電機のメーカーで技術職をしている。事業所は横浜にある。
出てくるのは大室からの連絡で、日程を決めるのも大室である。
こちらから誘ったことは、たぶんない。
恵比寿の店で、六人だった。
大室は最初の五分で全員の名前を覚えて、覚えたことを一人ずつ本人に言って回った。
こちらを紹介するときに、うちの大学のエース枠です、と言った。
笑いが起きた。
エース枠が何を指すのかは、大室も説明しない。
説明しないほうが笑いが続くことを知っている。
職業を言うと、空気が変わる。
変わり方は三通りある。
聞き返される。分かったふりをされる。それから、値踏みされる。
この日は一人目だった。
コンサルって、何をするんですか、と聞かれた。
会社の偉い人が決めることを、決められる形にする仕事です、と答えた。
自分でも、うまいことを言ったと思った。
三人が同時に喋っている席で、話を一本にまとめて返せる。
それができるのは、たぶん訓練のせいである。そう思ったことはない。
大室の話は、途中で切れない形をしている。
自転車の話が、通勤経路の話になり、坂の勾配の話になり、途中で買った工具の話になった。
工具の話は、本筋と関係がない。
関係がないところが長い。
女性の一人が笑っていた。
場が持っているのは大室のせいである。
その上に乗って喋っているだけだということには、気づかない。
◇
一度、話が戻る場所を見失った。
見失ったまま、聞いていた。
まとめようと思えば、まとめられる。
いま何の話をしているかを一行にすれば、大室は、そうそう、と言って先に進む。
そうすると、工具の話は消える。
言わなかった。
研究室では、こちらがまとめる側だった。
四十分くらい、大室が喋っていた。
研究室にいたころ、大室は行き詰まると相談に来た。
深夜だった。装置の空き時間の取り方が分からない、というような話である。
こちらは、面倒だと思わなかった。
一緒に予約表を見て、翌週の枠を二つ押さえた。
そういうことが、二年のあいだに何度かあった。
走ったりするんですか、と聞かれた。
「走ります」
皇居を、と言った。
いつ走ったかは言わなかった。聞かれなかったからである。
会計は男が多く出した。
一万円札を二枚出して、釣りは受け取らなかった。
格好をつけたつもりはない。
その場で割り算をする時間が惜しかった。
連絡先の交換までは成立した。
そのあとどうするかを、そのとき決めていなかった。
◇
大室が改札まで一緒に来た。
「お前、痩せた?」
「同じです」
「そうか」
そうか、で終わった。
大室は横浜方面のホームに下りていった。
白金の部屋は三十平米ある。
街を選んだわけではない。駅からの距離と、職場までの時間と、常駐先になりやすいエリアへの出やすさで決めた。
決め方が完全に業務的で、結果として洒落た街に住んでいる。
家具は入社二年目の冬に一度だけまとめて買った。
ソファ、ラグ、間接照明、それから名前を覚えていない椅子。
人を呼ぶ可能性を考えて買った。
呼んだのは三回である。
二回は同期の飲み直しだった。
ソファは新品同様である。
座らないものは傷まない。
玄関にランニングウェアがある。シューズは箱に入ったままではない。一度は使っている。
段ボールが二箱、玄関脇に積んである。
引越しのときのもので、開けていない。
置き場所として、そこが一番邪魔にならない。
帰りにスーパーに寄った。
二人前と書かれた惣菜のパックが、一人前のものより単価が安い。
安いほうを買う。
立って食べた。
テーブルはある。ソファもある。
残りは冷蔵庫に入れた。
翌朝食べるかどうかは、起きる時間による。
日曜にクリーニングを取りに行った。
十枚である。
シャツは月曜の朝に一枚ずつ減っていく。減り方で週の長さが分かる。
ハンガーを掛けて、袋を外して、袋をたたんでゴミにした。
その日、二時間だけ資料を読んだ。
ケストレルの事前資料である。対象会社の名前は、まだ出ていない。
産業用ホース・継手、と書いてあった。
明日から、それを四週間やる。
第三章 論点は三つでいい
栗生キャピタルは、大手町のビルの十九階にあった。
築の新しいビルである。外は全面ガラスで、一階に銀行と、コーヒーの店が入っている。
エントランスの警備が二人いて、来訪者は入館の手続きが要る。
エレベーターホールの床は黒い石で、磨いてある。
天井が高い。
十九階で降りると、そこは急に普通だった。
独立系のミドルキャップのファンドである。運用資産千八百億、投資チームは十一名。
受付はない。エレベーターを降りると扉が一枚あって、インターホンを押す。
中は、思っていたより狭かった。
執務の島が二つ。壁際にキャビネットが並んでいる。
床はタイルカーペットで、灰色である。継ぎ目が見える。
壁は白い。絵は一枚もない。
置いてあるものが少ない。
会議室は二つしかなかった。
◇
椅子だけが、良かった。
執務席の椅子である。背もたれが高くて、肘が独立して動く。
十一脚とも、同じものが入っている。
十一人しかいない会社で、千八百億を動かしている。
一人あたりで割ると、いくらになるかを、頭の中で出した。
出して、それ以上は考えなかった。
キックオフは月曜の九時からだった。
こちら側は四人。パートナー、永瀬さん、コンサルタント二人。アナリストは午後から合流する。
先方は三人。代表の栗生、ヴァイスプレジデントの芦沢、それからアソシエイトが一人。
栗生は五十二歳で、上着を着ていなかった。
資料を配ろうとしたら、いらない、と言われた。
「口で言って」
パートナーが案件の理解を三分で述べた。
対象会社は日本フレックス工業。非上場、売上百八十億、従業員四百十名。産業用ホースと継手を作っている。
製鉄と化学プラント向けの特殊ホースで、国内シェアが四割ある。
社長は六十九歳で、後継者がいない。
大手証券のM&A部門がFAとして売却を主導している。ティーザーが四十社ほどに配られ、一次入札に七社が応札した。
栗生は通過した三社の一つである。
独占交渉ではない。デューデリジェンスの期間が四週間ある。
栗生が、机の上で指を三本立てた。
「論点は三つでいい」
そう言った。
「市場が伸びるか。粗利が続くか。客が逃げないか。それだけ」
芦沢が引き取って、具体化した。
一つ、特殊ホース市場の中期成長性と、代替技術のリスク。
二つ、高い粗利が何によって支えられているのか。障壁の正体。
三つ、顧客の継続率と、価格改定の余地。
三つとも、投資仮説を潰すための問いである。
「潰れなかったら、うちは最終入札に行きます」と芦沢が言った。
「潰れたら」
「行きません」
◇
バリュエーションはファンドが自分でやる。
こちらは価格を出さない。
先方のモデルは、IMを読んだ時点で既に組まれている。一次入札の価格も出ている。
その数字は見せてもらえない。
EBITDA二十六億に対して七・五倍から八・五倍、という話が出た。栗生が言ったのではない。芦沢が、参考までに、と言って一度だけ口にした。
百九十五億から二百二十億である。
その幅の中で何が起きるかは、こちらの仕事ではない。
栗生は四十分で退席した。
以降、この案件で栗生と直接話すことはなかった。
担当は一つ目になった。
市場規模と代替リスク。
永瀬さんが割り振りを紙に書いて、そのまま写真に撮って送ってきた。
「一と三が重い。二はたぶん、現地に入るまで動かない」
◇
その日の午後からIMを読んだ。
八十六ページある。
FAが作っている。作りが丁寧で、数字の出所が全部ついている。
丁寧なものほど、書かれていないことを探す時間が長くなる。
売上を製品別に割った表が二つあって、割り方が違っていた。
片方は用途別、もう片方は継手を別立てにしている。
同じ数字が、二つの割り方で二回出てくる。
合計は合う。中身は照合できない。
読みながら、イシューツリーを描いた。
市場規模が伸びるか。伸びる要因と、伸びない要因。
伸びない要因は二つに割れる。需要そのものが減る場合と、需要はあるが別の技術に置き換わる場合。
代替技術は三つ候補がある。樹脂系の新素材、金属フレキシブル管の低コスト化、それから配管自体を減らす設計変更。
三つ目が一番怖い。
一番怖いものは、一番データがない。
社内のナレッジに、産業用フレキシブル配管のグローバルの市場整理が入っていた。
三年前のもので、欧州の案件で作られている。
対象の切り方が違うので、そのままは使えない。使えないが、どこが伸びてどこが伸びなかったかは分かる。
検索して、開いて、二十分で読んだ。
こういうものが、探せば出てくる。
出てくることを、当たり前だと思っている。
エキスパートネットワークに二十件を発注した。
発注書には対象会社の名前を書かない。
「産業用ホース・継手の業界に十年以上いた方」「製鉄プラントの資材調達の経験者」「化学プラントの設備保全の経験者」
条件だけで人を集める。
案件名はコードネームで呼ぶ。プロジェクト・ケストレル。
資料は指定の会議室から持ち出さない。印刷物は日次でシュレッダーに入れる。
会議室は十六階の奥にあって、扉に紙が一枚貼ってある。案件名と、日付だけ。
社内の人間でも、その部屋の中で何をやっているかは分からない。
◇
分からないようにできている。
一年前に、同じフロアの別の部屋で誰かが同じことをやっていた。
何の案件だったかは、いまも知らない。
木曜に、芦沢と二人で話す機会があった。
会議のあと、先方の小さいほうの会議室に残った。
芦沢は三十三歳で、前は投資銀行にいたらしい。らしい、というのは、本人が言わないからである。
こちらが作った市場の初期整理を、画面に出した。
三ページある。
芦沢は一ページ目を飛ばした。
二ページ目の、需要の内訳の表で止まった。
「これ、製鉄向けの比率、四十二パーセントですか」
「はい」
「四十二だと、うちの前提より高い」
そう言って、手元のノートに何かを書いた。
見えなかった。
芦沢は、数字を意見として扱わない。
前提として扱う。
前提として扱うということは、そこに何を掛けるかが既に決まっているということである。
掛ける先は、こちらには見えない。
「代替のところ、どこまで見ますか」
「三つ見ています。素材、金属フレキ、それから設計変更です」
「三つ目は」
「データがありません。設備投資の設計思想の話なので、統計に出ません」
「じゃあ、人に聞くしかないですね」
「はい」
「何人に聞けば、言えますか」
その質問は、想定していなかった。
数を聞かれている。
「五人だと、印象です。十人だと、傾向までは言えます」
「じゃあ十人」
芦沢はそれで決めた。
決めるのが速い。
速いというより、決める権限が本人にある。
◇
芦沢が、何か言いかけた。
「うちは、この案件については」
そこで止まった。
止まって、いや、と言って、話題を変えた。
待たなかった。
次の質問に移った。訪問先のリストの確認である。
その夜、十人に増やす分の発注を追加で出した。
一件あたり三万から八万かかる。専門家の職位で決まる。
四週間で三十人に当たる。
四週間で三十人に当たるということが、この仕事の中身の半分である。
半分は分析ではない。人月とネットワークを、四週間だけ買ってもらっている。
二十三時に会議室を出て、印刷物をシュレッダーに入れた。
紙が細くなる音が、フロアで一番大きな音だった。
金曜に、シンガポールのオフィスに社内発注を出した。
日本フレックスの輸出先である東南アジア四か国の、プラント新設のパイプラインを整理してもらう。
依頼はメールで六行。
対象会社名は書かない。用途と製品カテゴリだけ書く。
返事は三日で来た。
十四ページのスライドと、エクセルが一つ。
作った人の名前は、ファイルのプロパティに入っていた。
見なかった。
礼のメールを一行だけ返した。
その人とは、この案件の間、一度も話さない。
第四章 気づいたことを、口にしない
専門家インタビューは、二週目から始まった。
一日に三本から四本入る。
一本六十分。通訳が入る回は九十分になる。
十六階の会議室に入って、電話をつなぐ。相手の顔は見えないことが多い。
切り出し方は決まっている。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。産業用ホースの業界について伺いたく」
対象会社の名前は出さない。
出さないだけで、隠しているとは言わない。
言わないことと隠すことの違いを、この業界の人は全員知っている。
一本目は、大手の化学メーカーの元設備部長だった。
六十四歳。定年後に顧問をしている。
話が具体的で、聞きたいことの半分が最初の十五分で出た。
残りの四十五分は、確認だった。
◇
三日目に、相手が気づいた。
製鉄の資材調達を三十年やっていた人だった。
特殊ホースの調達比率、切替の頻度、承認図の管理。順番に聞いていく。
八本目の質問のあたりで、相手が少し黙った。
「これ、あそこの話ですよね」
そう言った。
社名は言わなかった。
「特定の会社についてお答えいただく必要はありません。業界一般の傾向として伺えれば」
そう答えた。
決まった文言である。
「ああ、はい」
相手は、それで納得したわけではない。
納得したことにした、というほうが近い。
そこから三十分、相手は「一般論として」を頭に付けて話した。
一般論としては、ああいうところは切り替えられません。
一般論としては、承認図を持っている会社を変えるのは五年仕事です。
一般論としては、値上げを飲むしかない。
全部、一社の話である。
聞いているほうも、それを一社の話として書き取っている。
書き取りながら、相手が一度も社名を言わなかったことに気づいた。
こちらも言わなかった。
二人とも言わなかったことで、この六十分は成立している。
◇
最後に、相手が言った。
「まあ、いい会社ですよ」
そこで切った。
なんの話としていい会社なのかは、聞かなかった。
礼を言って、電話を切った。
議事メモを二十分で作った。
メモの冒頭に、対象会社の名前は書かない。「対象事業領域」と書く。
十二本目までで、代替技術の見取りが出た。
樹脂系の新素材は、温度域が足りない。三百度を超える蒸気ラインには入らない。
金属フレキシブル管は、価格が下がっている。ただし曲げ半径の制約があり、既設の取り回しには入らない。
設計変更で配管そのものを減らす動きは、ある。
あるが、新設のプラントに限られる。国内で新設のプラントが立つ本数は、年に数えるほどしかない。
つまり、脅威は既設の更新需要には届かない。
これが結論の骨になる。
十人に聞いて、七人が同じ方向を言った。二人は分からないと言い、一人だけ違うことを言った。
違うことを言った一人は、樹脂の会社の人だった。
その一人を、脚注に落とすかどうかで三十分考えた。
落とした。落としたことを、別の紙に書いた。
市場のサイジングを、二通りで作った。
トップダウンは、経産省の生産動態統計から入る。ゴム製品と金属製品にまたがっていて、特殊ホースだけの区分がない。
区分がないので、按分する。
按分の係数は、業界紙のバックナンバーから拾った。二十年分がデータベースに入っている。
ボトムアップは、需要側から積む。国内の製鉄所の高炉の数、化学プラントの装置基数、それぞれの更新周期と一基あたりの配管長。
二つが、二割ずれた。
◇
二割は許容できない。
一割なら、丸めて注記を付ける。二割は、どちらかが間違っている。
ずれの理由を潰すのに三日かかった。
原因は二つあった。
一つは、業界紙の按分係数が輸出分を含んでいたこと。
もう一つは、更新周期を五年で置いていたが、蒸気ラインとスラリーラインで周期が違うこと。スラリーは摩耗が早い。三年で替わる。
直すと、差が七パーセントまで縮んだ。
七パーセントは注記で済む。
三日かけて七パーセントにしたことを、誰にも報告していない。
報告する項目ではない。
報告するのは、数字と、その数字の確からしさだけである。
途中経過は、確からしさの中に溶ける。
◇
火曜に、九月の店で会った相手から連絡が来た。
日程が向こうから来た。今週の水曜か、来週の火曜。
水曜にした。
十九時半に、広尾の店を指定された。店の名前も向こうが出した。
予約も向こうが取った。
会社を十九時に出た。
十九時に出るのは、この案件に入ってから初めてだった。
店は、通りから一段下りたところにあった。
木の扉で、内側にリネンの暖簾が掛かっている。
カウンターが六席、テーブルが三つ。
天井が低い。照明が席ごとに落としてあって、隣のテーブルの顔が見えない。
皿が白い。フォークが重い。
音楽が、音量を絞って掛かっていた。
先に着いていた。
十九時二十分に着いていたらしい。あとで、そう言った。
白いブラウスで、襟が丸い。
髪はまとめてある。耳が出ている。
アクセサリーは、細いネックレスが一本だけだった。
爪に色は塗っていない。
化粧は薄い。薄くするのに時間がかかっていることは、分かる。
きれいな人だと思った。
九月の店では、六人いた。
二人だと、こういう人だった。
◇
座ってから、向こうが水を二口飲んだ。
メニューを、両手で持っていた。
コースが一つしかない店なので、メニューは見るものがない。
見るものがないものを、しばらく見ていた。
「ここ、前に一度だけ来たことがあって」
そう言った。
言ってから、それだけです、と付け足した。
付け足さなくてもいい一言である。
一品目が出た。
白い皿に、何かのムースと、その上に薄い緑のジュレが載っている。
店の人が四十秒、説明をした。
説明のあいだ、向こうは頷いていた。
頷き方が、少し多かった。
食べて、おいしいです、と言った。
言い方が、店の人に向いていた。
三品目に魚が出た。
皮が焼いてあって、下にソースが敷いてある。
うまかった。
うまいと言った。
「よかった」
そう言って、笑った。
笑うのが、半拍早かった。
◇
質問が、用意されていた。
順番に出てくる。
普段は何時ごろに帰るのか。休みの日は何をしているのか。学生のころは何をしていたのか。
三つとも、九月の店では出なかった質問である。
考えてきている。
考えてきたものを、間があくたびに一つずつ出している。
出したあとに、こちらの答えを待つ顔をする。
待つ顔が、少し固い。
緊張していることは、分かった。
分かった。
こちらから何か振れば、たぶん解ける。
九月の店では、三人が同時に喋っている中から話を一本にまとめて返していた。
あれをやればいい。
やらなかった。
やる元気がなかった。
その日は、前の晩が三時までで、朝が八時半の会議だった。
それは、この人には関係のないことである。
仕事の話になった。
何をしているんですかと聞かれて、答えた。
会社の偉い人が決めることを、決められる形にする仕事です。
九月と同じ答えである。
九月は、それで笑いが起きた。
二人だと、その次が要る。
「たとえば、いま何をされてるんですか」
「ちょっと、内容は言えなくて」
「あ、そうですよね」
そう言われた。
言ったあとで、すみません、と小さく言った。
謝ることではない。
そう言えばよかった。
言わなかった。
◇
向こうの仕事の話を聞いた。
化粧品の会社の、販促の部署にいる。
店頭の什器の入れ替えの話をしていた。
季節ごとに変える。変えるのに、四か月前から動く。
面白い話だった。
面白いと思ったのに、質問が二つしか出なかった。
二つ目に答えたあと、向こうが、続きを言うかどうか決めかねる顔をした。
こちらが何も足さなかったので、そこで終わった。
グラスを持ち上げて、置いた。
音がした。
そのあとの三品は、店の人の説明が、会話の代わりになった。
説明が終わると、間ができる。
間ができると、向こうが水を飲む。
飲む回数が増えていった。
一度、口を開きかけて、やめたのが見えた。
見えたが、待たなかった。
待てば、たぶん何か出てきた。
デザートのときに、時計を見なかった。
見なかったが、見たいと思った。
思ったことを、そのまま座って抑えていた。
二十一時二十分に店を出た。
会計は先に済ませてあった。二人分で二万六千円だった。
「ごちそうさまでした」
「いえ」
◇
広尾の坂を、駅のほうに下りた。
十月の夜で、風が少し冷たかった。
途中まで方向が同じだった。
三分くらい、二人とも黙って歩いた。
黙っている三分は、長い。
長いあいだに、向こうが二度、こちらを見た。
二度目のときに、何か言おうとしていた。
駅の入口で、じゃあ、と言った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
改札を通って、別のホームに下りた。
電車に乗る前に、通知が来た。
早かった。
まだ、あの坂の途中にいるはずの時間だった。
長いメッセージだった。
お店がすごくおいしかったこと。魚が一番よかったこと。緊張してうまく喋れなかったこと。それを、絵文字を挟んで書いてある。
最後に、二行あった。
今度、もう少し気軽なところにも行きませんか。おすすめの店があります。
ホームで、返信を打った。
打ちながら、翌朝の会議の資料の直しが二か所残っているのを思い出した。
「こちらこそありがとうございました! すごく楽しかったです!」
そこまで打って、少し止まった。
続きを打った。
「次のお店、ぜひ行きたいです。次に会えそうな日、あらためて連絡しますね!」
送った。
すぐに既読が付いた。
「はい! 楽しみにしてます」
そう返ってきた。
スタンプが一つ付いていた。
◇
連絡します、と書いた。
書いた時点で、いつ連絡するかは決めていない。
翌週の予定は、頭に入っている。
入っているものの中に、空いている日がなかったわけではない。
電車が来た。
木曜の深夜に、米国の専門家とのコールが入った。
先方の朝九時に合わせる。こちらは二十三時である。
樹脂系のホースを作っている会社の、元の技術責任者だった。
通訳を挟んで九十分。
温度域の話を三十分、認証の話を三十分、残りで市場の話をした。
認証の話が長かった。
米国と日本で規格が違う。違うので、参入するには取り直しが要る。取るのに二年かかる。
二年かかるということは、二年は入ってこないということである。
障壁の一つが、そこで見えた。
見えたが、それは論点二の担当分だった。
議事メモを回した。
回したあと、自分の担当ではないところを長く書きすぎたことに気づいた。
削らなかった。
コールが終わったのが一時前だった。
会議室を出ると、フロアの照明が半分落ちていた。
二十三時に自動で落ちる。手元は各自のデスクライトになる。
暗いところと明るいところがまだらになる。
明るいのは四か所だった。
窓の外に、同じ高さのビルが二つ見える。片方は全部消えている。もう片方は、三か所だけ点いている。
同じ時間に、同じことをしている人が、あそこにも三人いる。
そう思うと、少し楽になる。
そう思う自分については、考えなかった。
◇
この会社のフロアは、天井が高い。
床から窓の上端までが抜けていて、腰の高さに桟がない。
椅子は、栗生キャピタルにあったものと同じ型である。
そのことに、この日まで気づかなかった。
会議室の紙を全部シュレッダーに入れて、オフィスを出た。
コンビニに寄った。
大手町の、地下の通路に面した店である。深夜は誰もいない。
ゆで卵を買った。
二個入りのパックである。百三十円ちょっとする。
袋はもらわない。
外の階段の途中で、殻をむいて食べた。
塩は最初から付いている。
二個目をむいて、一口食べて、そのまま少し立っていた。
信号が二回変わった。
これは二年目から食べている。
理由はない。
コンビニのゆで卵がうまいという話を、誰かにしたことはない。
する話ではない。
タクシーは使わなかった。
大手町から白金までは、深夜料金で四千円台になる。
経費で落ちる線は、その日の帰宅時刻と、翌朝の会議の時刻で決まる。
翌朝が十時なら落ちない。
歩いて、地下鉄の最終に乗った。
◇
部屋に着いてから、スマートフォンに通知が一つあった。
広尾の相手からである。
あれから十二日たっている。
短いメッセージだった。
おすすめの店の名前と、その店の予約が取りにくいこと。それだけ書いてある。
日程は書いていない。
こちらが出すのを待っている書き方だった。
読んで、返信を打ちかけた。
三行打って、消して、二行にした。
二行にして、送らなかった。
下書きのまま残った。
充電器に挿して、シャワーを浴びた。
三週目の火曜に、仮説が立った。
技術的な優位は、ある。
材質の配合と、承認図の蓄積と、納期。三つとも本物である。
だが問題は、それが価格に転嫁できている理由のほうだった。
粗利率が高い。
高い理由を、技術で説明しきれない。
同じ性能のものが、他社から二割安く出ている領域がある。それでも切り替えが起きていない。
切り替えが起きない理由は、切り替える手間が高いからである。
手間が高いのは、調達側の担当者が三十年同じ相手と付き合っているからではないか。
つまり、価格交渉が、そもそも行われていない。
◇
行われていないことは、証明できない。
行われた記録がないことは示せる。行われなかったことは示せない。
示す手段が、このデューデリジェンスの枠内に存在しない。
四週間で、対象会社の会議室に入れるのは半日だけである。
顧客に直接聞くことはできない。買収の話が漏れる。
エキスパートに聞くと、一般論としての答えが返ってくる。
一般論としては、そういうこともあります。
永瀬さんに、そのまま話した。
十分話した。
永瀬さんは最後まで聞いて、それから言った。
「書ける形にして。書けない部分は、書けないって書いて」
「はい」
「書けないって書くと、読む人が自分で埋めるから」
そう言った。
埋めた結果がどうなるかは、言わなかった。
その週の金曜に、ページの体裁で二回差し戻された。
グラフの凡例の位置と、脚注の番号の振り方である。
内容は変わらない。
二回目の差し戻しのときに、少しだけ、これは意味があるのかと思った。
思っただけで、直した。
直すのに四十分かかった。
第五章 承継
対象会社に入れたのは、十一月の第一週の、半日だけだった。
マネジメントインタビューという名前が付いている。
先方の呼び方は違う。ゼネラルディスカッション、と案内には書いてあった。
買収の話は、この日、一度も出ない。
日本フレックス工業の本社は、川崎の内陸にある。
駅からタクシーで十二分。工場と同じ敷地にある。
タクシーではなかった。ハイヤーが朝に事務所の前まで来て、四人で乗った。
配車は前の週に頼んである。
敷地の門は開いていて、守衛所に人が一人いた。
ヘルメットを被った人が二人、自転車で構内を横切っていった。
建物は三階建てで、二階が事務所になっている。
外壁はモルタルで、雨の筋が縦に何本も残っていた。
一階の窓の下に、消火器の箱が並んでいる。赤が褪せている。
玄関にスリッパが用意してあった。
来客用の棚に、社名の入ったスリッパが十足。うち二足は、かかとが潰れている。
階段の手すりは木で、握るところだけ色が濃くなっていた。
三十年、同じ場所を握られている。
◇
通された会議室は、長机が二つ並べてあった。
壁に、創業当時の写真が額に入って掛かっている。昭和三十年代のものらしい。
写真の中の建物は、いまの建物と同じ形をしている。
塗り替えただけである。
天井の蛍光灯が二本、片方だけ光っていた。
灰皿の跡が、机の端に残っていた。
出されたお茶が、湯呑みだった。
紙コップでも、ペットボトルでもない。
湯呑みで出す会社に、この二年で入っていない。
こちら側は四人。ファンドからは芦沢が一人来た。
芦沢は名刺を出さなかった。
先方には、投資検討中の会社の関係者、という言い方で紹介されている。
嘘ではない。全部は言っていない。
社長の柏木宗一郎は六十九歳だった。
創業者の長男である。
痩せていて、背が高い。座ると背中がまっすぐになる。
九十分のうち、六十分を社長が話した。
質問は用意した二十二問のうち、十四問しか出せなかった。
聞いたのは、事業環境である。
製鉄の設備投資が今後どうなるか。化学のプラントの更新が国内でどれだけ残っているか。海外の比率をどこまで上げるつもりか。
柏木は淡々と答えた。
「国内は減ります。それは分かっています」
「減ることを前提に、どうされますか」
「減るなかで、うちの取り分が減らなければいい」
そう言った。
減らない理由を聞いた。
「うちしか作れないものがあるからです」
そう答えた。
その答えを、九十分で三回聞いた。
◇
三回とも、同じ言い方だった。
同じ言い方であることに、意味があるのかどうかは分からない。
信じている人は、同じ言い方をする。
営業部長の渡良瀬は六十一歳だった。
体が大きい。声も大きい。
自分の番になると、椅子を引いて前に出た。
「新日鐵の、いや今は名前が変わりましたが、あそこの資材の方とは三十年です」
三十年、と繰り返した。
「担当が四人替わりました。四人とも、最初の挨拶はうちに来ます」
なぜですか、と聞いた。
「引継ぎでそうなってるんです。前の担当が、渡良瀬さんのところには行っとけ、と言うんですよ」
嬉しそうだった。
図面の話になった。
承認図をうちが持っている、と渡良瀬は言った。
「先方の設計に入ってるんです。うちの型番が。だから替えるとなると、図面から替えないといけない」
「価格の交渉は、どのくらいの頻度でされますか」
そう聞いた。
渡良瀬は少し考えた。
「年に一回、形式的なのはあります。形式的なのは」
「形式的でないものは」
「ここ十年、ないですね」
そう言って、笑った。
「うちが無茶を言わないからですよ」
◇
こちらの仮説を、この人はいま、自分の言葉で補強している。
技術的な優位ではない。関係が、価格の交渉を成立させていない。
そのことに、本人は気づいていない。
気づかせる必要もない。
こちらは頷いて、次の質問に移った。
質問を続けながら、手元のメモに一行だけ書いた。
「渡良瀬氏、退任時期」
書いてから、その一行に丸を付けた。
丸を付けたことに、特に理由はない。
昼の休憩で、一階のトイレを使った。
床がコンクリートの上に塗装をしただけのもので、水がまいてある。
掃除はしてある。古いだけである。
小便器の上に、清掃の点検表が貼ってあった。
日付ごとに判子が押してある。今日の欄にも押してある。
洗面の石鹸は、ボトルではなく、金属のホルダーに入った固形のものだった。
回すと泡が出る。
手を拭くものがない。
ハンカチを持っていた。
三十五階のトイレのことを、そこで一度思い出した。
思い出しただけである。
工場見学は三十分だった。
撮影は不可である。スマートフォンは会議室に置いていく。
案内は工場長がした。
編組の工程を見た。金属の細い線を、ホースの上に編んでいく機械が二十台ほど並んでいる。
音が大きい。
説明は半分しか聞こえない。
聞こえない部分は、あとで聞き直せない。
◇
工程の最後に、検査の台があった。
女性が二人、座って作業をしていた。
一人がこちらを見た。
見て、すぐに手元に戻った。
会議室に戻る途中の廊下で、女性と行き違った。
三十代の後半に見える。ファイルを二冊持っていた。
「経理課長の柏木です」
そう名乗った。
社長の娘である。それは事前の資料に書いてあった。
売却の話を知っている社内の人間は、数人しかいない。この人はその一人である。
開示資料を整えているのも、この人である。
「昨日いただいた、原価の内訳のことで」
そう言われた。
質問が一つあった。製品群の分け方が、前に出た資料と違っている件である。
答えられる範囲で答えた。
「分かりました。ではそのように整理します」
そう言って、行った。
会話は業務上のものだけだった。
三時に建物を出た。
タクシーが門の前に来ていた。
芦沢は同じ車に乗らなかった。
別の車で、別の方向に行った。
◇
そこから報告書まで、二週間半あった。
数字は、投資委員会の前日まで動いた。
顧客継続率の定義が二回変わった。金額ベースにするか件数ベースにするか、それから、継続の判定を年次でやるか三年でやるか。
定義が変わると、率が変わる。
率が変わると、結論の言い方が変わる。
九十四パーセントと八十八パーセントは、同じ会社の同じ実績から出てくる。
パートナーが最後のレビューに入ったのは、報告の三日前だった。
三十分で通した。
赤が入ったのは五枚。
そのうち一枚は、結論のページだった。
「トーンを一段落とせ」
そう言われた。
理由は説明されなかった。
聞かなかった。
手を動かした。
一段落とす、というのは、書き方を変えるということである。
「〜である」を「〜と考えられる」にする。
「示唆される」を足す。
断定を、条件付きにする。
三十分で直した。
直したあとの文章のほうが、読みやすかった。
読みやすいというのは、引っかからないということである。
◇
最後の二日で、表現の統一をやった。
こちらの初稿には、「顧客関係の属人性」という言葉が四か所に出ていた。
渡良瀬の三十年のことである。
その属人性が、価格の維持を支えている。買収後に、それが承継されるかどうかは分からない。
そう書いてあった。
統一の指示は、「営業体制の承継」に寄せる、というものだった。
一語ずつ置き換えた。
置換機能は使わなかった。前後の文が持たない箇所があるからである。
「顧客関係の属人性がリスクである」は、「営業体制の承継が重要である」になる。
同じことを言っている。
言っていることは、たしかに同じである。
ただし、それを読んだ投資委員会が下す判断は、たぶん違う。
前者は、買うべきでない理由に見える。
後者は、買ったあとにやることに見える。
四か所を直して、変更履歴を確定した。
確定すると、直す前の文が消える。
保存して、次のページに移った。
報告は十一月下旬だった。
七十八ページの報告書と、エクセルの市場モデルが一つ。
宛先は栗生キャピタルのみ。第三者への提供は禁止。免責条項が六ページある。
読み上げは二時間で終わった。
質問は十七問出た。芦沢が九問した。
一つも答えられなかったものはない。
◇
終わって、荷物をまとめていたら、芦沢が来た。
「市場のほう、助かりました」
「ありがとうございます」
「三つ目の代替、あれは自分で足したんですか」
「はい」
「そう」
それだけだった。
案件は、その日で終わった。
最終入札に行くのかどうかは、教えてもらえない。
聞ける関係ではない。聞く立場でもない。
金曜に、会議室の鍵を返した。
扉に貼ってあった紙は、剥がされていた。
土曜に、シャツを出しに行った。
十一枚あった。
一枚多いのは、川崎に行った日に着替えたからである。
日曜に取りに行く。
第六章 越年
十二月の第一週に、次のアサインが決まっていなかった。
ビーチ、という言い方をする。
案件に入っていないと、自分の会社のフロアに座ることになる。
丸の内の、駅から地下でつながっているビルである。
一階のロビーは天井が二層抜けていて、冬はそこに大きな木が置かれる。
十二月は、その木に電球が付く。
エレベーターは、行き先の階を先に押してから乗る方式である。
高層側は、二十六階から上に止まる。
フロアに固定の席はない。
その日空いている席に座る。モニターとドッキングステーションは全部同じものが付いている。
窓際に会議室が並んでいて、内側が執務のエリアになっている。
会議室の壁はガラスで、中に人がいるかどうかが外から分かる。
中で何を話しているかは、分からない。
床は絨毯で、歩く音がしない。
電話をする人は、小さいブースに入る。
だから昼間でも、フロアの音は空調とキーボードだけである。
◇
窓から、皇居の側が見える。
濠と、林と、その向こうに官庁の建物が並んでいる。
十二月は、十六時半には暗くなる。
暗くなると、ガラスに自分の座っている島が映る。
映っている島に、人が四人しかいなかった。
いい場所だと思った。
三年前に、この景色を見て、ここで働くのだと思ったことは、覚えている。
いまも、いい場所だと思う。
思って、それから、レポートの続きを書いた。
案件と案件のあいだの、稼働の付いていない期間である。
出社はする。何もしないわけではない。
社内の知的資産の作成、業界レポートの下書き、過去案件のナレッジの整理。
工数は付くが、クライアントには請求されない。
産業財のチームで、部材メーカーの収益構造のレポートを一本、下書きすることになった。
過去の案件から、出せる範囲の一般論だけを抜いて再構成する。
出せる範囲を判断するのに、書く時間の倍かかった。
三日で二十四ページ書いた。
このレポートが誰かに読まれたかどうかは、いまも知らない。
リクルーティングの面接が二件入った。
一件目は東大の法学部の四年生だった。
二件目は京大の理学部の修士一年。
二人とも、他のファームと外資の投資銀行を併願していると言った。
言い方が、二人とも同じだった。隠さないほうが印象がいいと教わっている言い方である。
◇
ケース面接をやった。
地方の百貨店の売上を上げる、という問題を出した。
一人目は、四分で構造を切って、そこから十六分で数字を置いた。
置き方が上手い。上手すぎると思った。
対策をしている。しているのが分かる。
分かるが、減点する理由にはならない。
評価は付けた。四段階の上から二番目である。
二人目は、理学部のほうだった。
構造を切るのが遅い。切ってからは速い。
途中で一度、前提を自分で否定した。
「いま人口で置きましたけど、これだと来店頻度が入ってないので、やり直します」
やり直させた。
やり直した後のほうが、雑だった。
こちらも上から二番目を付けた。
理由は違う。
理由の欄は三行までしか書けない。
◇
三年前に自分が受けた面接のことは、思い出さなかった。
思い出さなかったことにも、気づかなかった。
里見が辞めた。
同期である。入社が同じ月で、研修の席が近かった。
行き先は東証プライムの会社の経営企画だという。二十九で課長級の待遇らしい。
そういう話になる、ということは知っている。
三年目の同期のところに、月に二、三通、そういう連絡が来る。
来ることを、特別なこととは思っていない。
送別会は十二月の中旬だった。
十四人集まった。
会費は八千円で、料理は最初のほうに出てきたものが一番よかった。
誰も、辞める理由を深く聞かなかった。
聞かないのが、この会社の作法である。
作法だと思っているわけではない。聞いても答えが決まっているからである。
新しい挑戦、視野を広げる、事業側で。
三つのうちどれかが返ってくる。
里見も三つ目を言った。
二次会で、隣になった。
二十分くらい話した。
案件の話を二つと、共通の知り合いの話を一つした。
聞きたいことがあった。
聞かなかった。
里見は先に帰った。帰り際に、また飲もう、と言った。
そのあと連絡はしていない。
◇
十二月は、フロアの人が減る。
忘年会の季節である。
二十時を過ぎると、島に一人か二人しかいない日がある。
その日は、三人だった。
戸叶が通りかかった。
シニアパートナーである。五十五歳。東京オフィスの人事を実質的に握っている。
守屋の一年上だと聞いたことがある。
「まだいるの」
「はい」
「守屋さんの下、長いの」
「三年目です」
「そう」
そう、で終わった。
戸叶はエレベーターのほうに歩いていった。
何の話だったのかは、考えなかった。
◇
金曜だった。
十九時に、島に誰もいなくなった。
忘年会である。
フロアの照明は、まだ全部点いている。
書きかけのレポートを閉じた。
保存はした。
いつもの経路で帰った。
駅を出て、坂を上って、コンビニの前を通った。
入らなかった。
部屋の電気を点けた。
冷蔵庫に、二日前の惣菜が半分ある。
食べなかった。
ソファには座らなかった。床に座った。
LINEを開いた。
トークの一覧を、上から見ていった。
大室のところで止まって、そのまま送った。
同期のグループが二つある。片方は二か月動いていない。
里見の名前があった。また飲もう、と言われている。
そこも送った。
下のほうまで来て、指が止まった。
止まったまま、少しそこにいた。
九月の店で会った相手だった。
最後のやり取りは十月である。
向こうからの、店の名前だけのメッセージが最後になっている。
日程は書いていない。
その下の入力欄に、こちらの下書きが二行、残っていた。
二か月、そのままである。
◇
読んだ。
消して、打ち直した。
「遅くなってすみません」と打って、それも消した。
「あのお店、まだ空いてますか」
送った。
二十時十一分だった。
既読が二十時十二分に付いた。
「空いてます!」
「よかったです」
「今週はちょっと難しいんですけど、来週なら大丈夫です」
日程が三つ来た。
火曜、水曜、金曜。
水曜にした。
「白金台でしたよね」
そう来た。
十月に、一度だけ言っている。
「そうです」
「じゃあ、そのへんのお店にします」
「はい」
そのやり取りが、四十秒で終わった。
店の名前は、前日に来た。
外苑西通りから一本入ったところである。
名前だけでは、何の店か分からなかった。
調べなかった。
会社を十九時十分に出た。
駅から歩いて六分ある。
坂を下りて、コンビニの角を曲がる。
途中まで、部屋に帰る道と同じだった。
◇
店は一階にあった。
外壁がモルタルで、塗り直したところと、そうでないところの色が違う。
看板は、手のひらより小さい真鍮の板が一枚だけである。
字が彫ってあって、溝に黒が入れてある。
扉は鉄で、重い。
中は、カウンターが八席と、四人掛けが二つ。
床はコンクリートで、透明なものが塗ってある。
天井に配管が出ている。出ているものを、そのまま見せている。
椅子の座面は張り替えてあった。縁のところだけ、色が合っていない。
グラスは薄い。
薄いものが、まとめて置いてある。
トイレは一つだった。
男女で分かれていない。
手を拭くのは布である。使ったら、下の籠に入れる。
石鹸は詰め替えのボトルだった。ラベルが貼ったままになっている。
鏡は、縁のない一枚が壁に直接付いている。
金のかかっているところと、かかっていないところが、並んでいる。
いい店だと思った。
先には着いていなかった。
十九時三十四分に来た。
コートを脱いで、椅子の背に掛けた。
セーターだった。十月のブラウスではない。
髪は下ろしている。
爪に色が塗ってあった。薄い赤である。
「遅れました」
「いえ」
座って、メニューを見た。
両手では持たなかった。
片手で持って、下から二番目を指した。
「これ、頼んでいいですか」
「はい」
◇
ワインをグラスで頼んだ。
一杯目が来る前に、話し始めていた。
十月とは違った。
間ができても、水を飲まない。
用意してきた質問は、一つも出てこなかった。
什器の話の続きをしていた。
十月に、途中で終わった話である。
こちらが覚えていたのではない。向こうが続きから始めた。
四か月前から動く、というところまでは聞いている。
その先を聞いた。
「結局、二割だけ変えたんです」
「全部は変えないんですか」
「変えると、店の人が覚え直さないといけないので」
面白い話だった。
十月も、面白いと思っている。
その日は、質問が四つ出た。
二杯目を頼んだ。
向こうも頼んだ。
十月は一杯だった。
仕事の話になった。
「いまは、何をされてるんですか」
「いまは、案件が終わって、次が決まってなくて」
「そういうのもあるんですね」
「あります」
「暇なんですか」
「暇です」
そう言うと、笑った。
十月の笑い方ではなかった。半拍のずれがない。
◇
二十一時四十分に店を出た。
会計は二人で一万八千円だった。
こちらが出した。
出すときに、向こうが財布を出しかけて、そのままにした。
「ごちそうさまです」
「いえ」
外は、風がなかった。
駅は、坂を上ったところにある。
坂の下に、角が一つある。
角を曲がると、駅ではない。
曲がった。
向こうも曲がった。
何も言わなかった。
二人とも言わなかった。
エントランスはオートロックである。
鍵をかざすと、ガラスの扉が開く。
郵便受けの前を通った。
十日ぶんの投函物が挟まっている。
そのまま通った。
エレベーターは一基しかない。
七階まで二十秒くらいかかる。
そのあいだ、二人とも壁のほうを見ていた。
階数の表示が上がっていく。
◇
部屋の電気を点けた。
天井の照明である。明るい。
玄関脇に、段ボールが二箱ある。
「引っ越しの?」
「そうです」
「いつのですか」
「三年前です」
「開けないんですか」
答えなかった。
答えなかったことに、向こうは何も言わなかった。
コートを、名前を覚えていない椅子に掛けた。
掛けてから、部屋の真ん中に立った。
立ったまま、ひととおり見ていた。
店の中を見るときの見方だった。
「これ、一回で買いましたよね」
「そうです」
「分かるんですか」
「分かります。並びで分かります」
「同じ日に、同じところで選んだ並びなので」
仕事の話をするときの言い方だった。
「これ、点けないんですよね」
間接照明のことである。
「点けないです」
「なんで買ったんですか」
「人が来るかと思って」
「来ましたね」
そう言って、笑った。
◇
スイッチの位置は、覚えていた。
秋から点けていない。
点くかどうかは、点けるまで分からなかった。
点いた。
「いいじゃないですか」
「そうですか」
ソファに座った。
こちらではない。向こうである。
座られると、そういう高さのソファなのだと分かった。
二年目の冬に買ったものである。
「座らないでしょ、これ」
「座らないです」
「なんで座らないんですか」
「座ると、長くなるので」
「長くなると、何かあるんですか」
そこで、答えが出なかった。
水を出した。
グラスが二つ揃っていなかった。
一つはグラスで、もう一つはマグカップである。
グラスのほうを出した。
「マグカップでいいですよ」
「いえ」
◇
冷蔵庫を開けたのは、向こうである。
「なんもないですね」
「ないです」
「ごはん、どうしてるんですか」
「買ってきて、立って食べます」
「テーブルあるのに」
「あります」
本の話になった。
棚がない。
「読まないんですか」
「読みます。会社で」
「家では」
「家では、寝ます」
「それはそうですね」
そう言って、また笑った。
「あと何年やるんですか、それ」
「分からないです」
「分からないんですか」
「三年から五年で、だいたいいなくなります」
「宮浦さんは」
答えなかった。
向こうは、それ以上聞かなかった。
もう一つ言おうとして、やめた。
やめたのが分かった。
追わなかった。
◇
立って、扉のほうまで歩いていった。
天井の照明を消した。
消したのは、こちらではない。
戻ってきて、座らなかった。
立ったまま、こちらを見ていた。
見ている時間が、少し長かった。
六時四十分に目が覚めた。
平日と同じ時刻である。
カーテンを閉めていなかった。
外はまだ暗い。
向かいの建物の窓が、二つ点いていた。
ソファの背に、セーターが掛かっていた。
台所に、グラスとマグカップが並んでいる。
水は、両方とも残っていた。
洗って、拭いて、元の場所に戻した。
七時十分に、向こうが起きた。
洗面所を使った。
出てきたときには、化粧が済んでいた。
何を持って入ったのかは、見ていない。
「コーヒーとか、ないですよね」
「ないです」
「ですよね」
そう言って、笑った。
コートを着た。
玄関で、段ボールの横に立って、靴を履いた。
履くのに、少し手間取っていた。
「じゃあ」
「はい」
「今日、何時までですか」
「たぶん、遅いです」
「そうですよね」
そう言って、出ていった。
◇
次のことは、聞かれなかった。
こちらも言わなかった。
扉の閉まる音が、二回した。
一回目が部屋の扉で、二回目がエントランスである。
七階まで聞こえるはずがない。
聞こえた気がしただけである。
部屋に戻った。
ソファの座面の跡は、消えていた。
間接照明が点いたままだった。
消した。
八時五十分に会社に着いた。
レポートの続きを書いた。
昼に、短く送った。
「昨日はありがとうございました」
一行である。
「こちらこそ」
そのあとに、スタンプが一つ来た。
十月の長い礼とは、字数が違う。
その日は、二十一時に出た。
年末に大室と飲んだ。
大室が横浜から出てきた。
日程を出したのも大室である。二十七日の金曜、十九時、新橋。
店は大室が予約していた。
◇
彼女ができていた。
名前が出た。会社の人ではないらしい。
写真は見せなかった。見せてくれとも言わなかった。
「来年、どっかで会わせるわ」
「はい」
大室は食べるほうに熱心だった。
刺身の盛り合わせが来て、白身のほうを寄せてきた。
「これうまいよ」
食べた。
「うまいね」
そう言った。
大室が、研究室の話を始めた。
同期の一人が、いまどこにいるかという話である。
その話が、指導教員の車の話になり、車で運んだ装置の話になった。
装置の話が長かった。
途中で、大室が言った。
「あれ、お前が夜中に枠取ってくれたやつだよ」
「そうだっけ」
「そうだよ。俺、あのとき何も分かってなかったから」
そう言って、笑った。
笑って、また車の話に戻った。
戻ったところで、口を挟まなかった。
話は、そのあと十分続いた。
大室は、まとめてくれ、とは言わない。
昔から、一度も言われたことがない。
◇
ビールの二杯目のときに、大室が言った。
「お前、ちゃんと寝てる?」
「寝てます」
「そうか」
そこで止まった。
止めたのが分かった。
もう一つ何か言おうとして、やめている。
やめたことに気づいて、追わなかった。
大室は焼き鳥の注文の話に移った。
店を出たのが二十二時過ぎだった。
寒かった。
大室がコートの前を閉めながら聞いた。
「正月、実家帰るの」
「たぶん」
「そっか。俺は三十日から」
そう言って、大室は駅のほうに歩いていった。
帰らなかった。
理由は特にない。
二十九日から三日まで休みがある。
三十日に部屋の掃除をして、洗濯を二回した。
掃除機を、ソファの下までかけた。
◇
三十日の夜に、来た。
二十七日に、こちらから送っている。
三十日と二日が空いている、と返ってきた。
三十日にした。
店には行かなかった。
スーパーで買ったものを、テーブルに出した。
二人前のパックが二つある。
座って食べた。
この部屋のテーブルで食べたのは、二回目である。
「年末って、こんな感じなんですね」
「どんな感じですか」
「静かです」
「そうですね」
テレビはない。
音は、冷蔵庫のものだけだった。
「実家、帰らないんですか」
「帰らないです」
「なんでですか」
「特に理由はないです」
「うちは、三十一日から帰ります」
「そうですか」
「行きたくないんですけどね」
そう言って、箸を置いた。
置いてから、続きを言わなかった。
こちらも聞かなかった。
◇
続けてもいい、と思った。
帰ったのは、三十一日の昼前である。
玄関で、洗面所のほうを見ていた。
「歯ブラシ、置いていっていいですか」
「いいです」
置いていった。
白である。もとからあるものと、同じ色だった。
並べて挿すと、どちらがどちらか分からない。
スーパーが混んでいた。二人前の惣菜が売り切れていて、一人前のものを二つ買った。
単価は高くなる。
立って食べた。
元日の朝に、LINEが来た。
父からである。
「明けましておめでとう 元気か」
十時二十分に来ていた。
十二時ごろに返した。
「元気です 今年もよろしく」
既読が付いた。
それで終わった。
◇
二日の午後に、時間があった。
予備校のサイトを開いた。
二月末に上がる解答速報のページは、年が明けても残っている。
去年の二月のものである。
まだ解いていない大学が二つ残っていた。
そのうちの一つの、第二問を開いた。
確率だった。
読む。
条件が三つある。三つ目が効くのか、二つ目が効くのか、まだ分からない。
もう一度、頭から読んだ。
指は止まらなかった。
二度目も、止まらなかった。
三度目は読まなかった。
紙に書けば出るのは分かる。
書かなかった。
書くほどの理由がなかった。
画面を閉じた。
そのまま、部屋の中を見た。
ソファがある。ラグがある。間接照明は、十二月に一度だけ点けた。
段ボールが二箱、玄関脇にある。
◇
四日から仕事だった。
年始に、腕時計を一つ買った。
銀座の店で、四十分いた。
締めた日のことは、書くことがない。
一月の第一週に、日経で橋詰精機を見た。
紙ではない。電子版のアプリである。
二行だった。
精密部品事業の売却手続きについて、同社が当初想定していたスケジュールを見直していることが分かった、という内容だった。
関係者によると、と書いてある。
読んで、次の記事に移った。
一月の第二週の火曜に、スタッフィングからメールが来た。
プロジェクト・ミナモ。
クライアントは帝北フーズ。全社変革プログラムの実行支援フェーズのPMO。
期間の欄に、十二ヶ月と書いてあった。
常駐である。
開始は一月の中旬。
本文は七行だった。
第七章 常駐
帝北フーズの本社は、京橋にある。
売上六千四百億、従業員一万三千名。加工食品と冷凍食品と業務用の三つを持っている。
変革プログラムの社内呼称は、Minamo 2030という。
診断フェーズが十週間、終わっている。実行支援がここから十二ヶ月ある。
契約は全体で十四ヶ月になっている。
初日は九時に一階の受付に行った。
入館証を作るのに四十分かかった。写真を撮って、その場で発行される。
首から下げる。色が社員のものと違う。
社員は紺、常駐の外部は灰色である。
帝北フーズの本社ビルは、昭和の終わりに建ったものだった。
外壁は茶色のタイルで、目地に黒い筋が入っている。
一階のロビーは天井が低い。
正面に会社の沿革のパネルがあって、創業からの写真が年代順に並んでいる。
いちばん右の写真が、十二年前のものだった。
床は石だが、通り道のところだけ艶が消えている。
◇
エレベーターで七階に上がる。
執務のフロアは、島がびっしり並んでいた。
机の間隔が狭い。椅子を引くと、後ろの人の椅子に当たる。
天井の蛍光灯は、二本のうち一本を間引いてある。節電のシールが貼ってあった。
床のタイルカーペットは、通路のところが色が変わっている。
窓際に、書類のワゴンが並んで置いてある。
段ボールが、柱の陰に積んである。
七階の南側の一角に、机が八つ、島にして置いてあった。
ホワイトボードが一枚と、鍵の掛かるキャビネットが二つある。
窓から遠い。柱の裏で、外は見えない。
椅子は、この会社の一般席と同じものだった。肘掛けがない。
自分の会社にある椅子と、値段が一桁違うはずである。
十四ヶ月、これに座ることになる。
ここが十四ヶ月の場所になる。
ファーム側は五人だった。
マネージャーが一人。コンサルタントが二人。アナリストが二人。
そのうちの一人が橘香月といった。二十四歳。入社一年目である。
初めての部下ということになる。
部下という言葉は、社内では使わない。
デジタル部門から三人が別枠で入っている。
彼らは同じ島にいない。九階のシステム部の隣に席がある。
会うのは週次の定例だけである。
◇
七階のトイレは、階段の脇にあった。
洗面台が二つ。片方の蛇口の根元に、水垢の輪ができている。
温風の乾燥機は、使用停止の紙が貼ってあった。紙は三年前の日付だった。
個室が三つあって、そのうち一つは常に埋まっている。
昼のあとの時間帯に行くと、必ず埋まっている。
同じ人かどうかは、分からない。
十四階には、役員の部屋と、来客の応接がある。
月次の経営会議はそこでやる。
十四階でエレベーターを降りると、床が絨毯になる。
観葉植物が二つ置いてあって、葉が拭いてある。
廊下に、社長の書いた額が一つ掛かっている。
応接は四室あって、扉が全部木である。
その階のトイレは、掃除の人が一日に三回入る。
三回入ることは、扉の内側の点検表で分かる。
石鹸の香りが、七階のものと違う。
同じ会社の、七階と十四階である。
同じ会社である、と思った。
思って、資料を持って会議室に入った。
沖田麻里との顔合わせは、その日の十一時だった。
経営企画部の課長。四十一歳。
クライアント側のカウンターパートである。
会議室で三十分。
最初に確認されたのは、論点ではなかった。
「月次の報告は、経営会議の前の週の水曜に出してください」
「はい」
「役員会議のほうは、議事録をそちらで巻いてもらいます」
「承知しました」
「進捗の管理表は、四つのワークストリームで様式を揃えてください。バラバラだと比べられないので」
比べられない、と言った。
比べる、ではない。
事務的な話だと思って聞いていた。
◇
ワークストリームは四つある。
調達改革。生産拠点の再編。間接部門の効率化。デジタル。
三年で営業利益率を四・一パーセントから六・五パーセントにする。
内訳は、調達で百二十億、拠点再編で八十億、間接部門で五十億。
数字は診断フェーズで作られている。
作った人はもういない。
担当はPMO本体だった。
四つ全部の進捗を見る。月次の経営会議の資料を作る。役員会議の議事録を書く。
自分でワークストリームを持つわけではない。
持たないので、何かを決める権限はない。
通勤経路は三日で確定した。
白金台から三田線で、一回乗り換えて、京橋まで三十八分。
七時五十一分の電車に乗る。
乗る車両は前から四両目である。降りる階段が近い。
扉は、その車両の二番目のものにする。
同じ時刻に、同じ扉から乗る人が三人いる。
そのうち一人は、紺のリュックを前に抱えて、いつも文庫を読んでいる。
何を読んでいるかは見ていない。
会社の半径三百メートルに、昼に入れる店が七軒ある。
蕎麦が二軒。定食が二軒。カレーが一軒。中華が一軒。コーヒーとサンドイッチの店が一軒。
一番近いのは定食のほうである。徒歩二分。
十二時十五分に出ると並ぶ。十二時四十分に出ると並ばない。
◇
二週目に、契約書を見る機会があった。
沖田から回ってきた資料に、変更契約の写しが添付されていた。
添付する必要のないものである。誰かの操作の癖だと思う。
月額が書いてあった。
その部屋にいる八人の一ヶ月が、いくらとして請求されているかを、この日から知っている。
数字は口にしない。
橘にも言わない。
一月の後半から、来る日を前もって決めなくなった。
決めるのは、その日の夕方である。
十八時ごろに、こちらから送る。
「今日、何時に終わるか分からないです」
「終わってからでいいですよ」
そう返ってくる。
二十二時に京橋を出ると、二十二時三十八分に着く。
先に着いていることが多い。
エントランスの内側の、郵便受けの前に立っている。
鍵は渡していない。
渡してくれと言われたこともない。
店には、二月に一度行った。
そのあとは行っていない。
行かなくなったことについて、どちらも何も言わなかった。
ソファには、二人とも座らない。
着く時刻が、そういう時刻ではない。
買ったときの状態のままになっている。
◇
一月から三月までで、七回だった。
数えたわけではない。
数えなくても分かる回数である。
三月に、最初の月次報告があった。
進捗の管理表の様式は、こちらが提案したものが通った。
四つのワークストリームを縦に並べ、施策を行で持つ。
各行に、期限と、担当と、状態が入る。
状態は三色にした。
予定通りが白。注意が黄。期限を過ぎているものが赤。
赤は目立つ必要がある。目立たないと会議で飛ばされる。
そう説明して、通った。
◇
三月の報告で、調達のワークストリームが三つ赤くなった。
サプライヤーの再編に関するもので、期限は二月末だった。
調達部長の芝内が、その三行の担当者である。
芝内康之、四十九歳。単身赴任で、娘が二人いる。
その情報を、どこで知ったかは覚えていない。
会議中、芝内は何も言わなかった。
社長の遠山が、調達の三つについて一度だけ聞いた。
「これは、いつになる」
芝内が四月中旬と答えた。
それで次に進んだ。
三分もかからなかった。
会議のあと、廊下で芝内に呼び止められた。
「宮浦さん」
「はい」
「あの色、変えられませんか」
赤のことである。
「先方に見せる資料じゃないでしょう。うちの中の話なんだから、あんなに目立たせなくても」
そう言った。
怒っていない。困っている顔だった。
声は小さかった。
廊下に、ほかに人はいなかった。
「様式なので」
そう答えた。
芝内は、そうですか、と言って、行った。
◇
様式なので、という言葉は、自分で作ったものではない。
三年間で何度も聞いている。
聞いてきた言葉が、そのまま口から出た。
出たときに、何も引っかからなかった。
席に戻って、進捗表を開いた。
赤いセルが三つある。
閉じた。
四月に、役員会議の議事録を書くようになった。
書くのは月に一回である。
録音は取らない。取らせてもらえない。
手元のメモから、二日以内に起こす。
長さはA4で三枚。それ以上は読まれない。
◇
四月の会議で、調達単価の目標値の話が出た。
三年で百二十億を削る。そのための単価の目標が品目群ごとに設定されている。
そのうち二つが、事業部側の要求品質と衝突していた。
議論が十五分あった。
最後に社長が、この線でいこう、と言った。
常務の鷲尾は、その間、何も言わなかった。
手元の資料を、一度めくった。
反対の立場であることは、全員が知っている。
黙っていた。
議事録を書いた。
「調達単価の目標値について、原案の水準で合意」
そう書いた。
鷲尾の名前は、三枚のどこにも出てこない。
書いた瞬間、キーボードの上で指が止まった。
三秒くらいだった。
それから、次の行を書いた。
会議の終了時刻を入れて、保存した。
沖田に送った。
沖田からは修正が返ってこなかった。
この一行は、以降、前提になる。
半年後に、この水準を見直そうという話が出たときに、四月に合意しています、と言われる。
言うのは沖田である。
言われた側は、議事録を確認する。
確認すると、書いてある。
◇
会議体は、七つある。
月次の経営会議。隔週の推進会議。ワークストリームごとの週次が四つ。それからデジタルの定例。
このうち、資料を作るのが五つ。議事録を巻くのが三つ。
週の形は、それで決まる。
月曜の午前に週次が二つ。火曜に一つ。水曜の午後に推進会議。木曜にデジタル。金曜は、翌週の資料の下ごしらえに使う。
決まった形は、二ヶ月で覚える。
覚えると、考えなくなる。
デジタルのワークストリームだけ、様子が違った。
実装の支援に入っている三人は、社内のシステム部と同じ言葉で話す。
こちらの進捗表の粒度が合わない。
施策を行で持つ様式に、開発の工程が入らない。
三月に一度、様式を分けようという話になった。
沖田が反対した。
「分けると、比べられません」
そう言った。
分けなかった。
デジタルの行は、以降ずっと、実態より粗い形で表に載っている。
粗いことは、表の上では分からない。
◇
四月に、間接部門のワークストリームで、人事の担当者が交代した。
引継ぎが二週間あった。
二週間のあいだ、その週次の議事録は、前任と後任の両方に送った。
送り先の欄が一行増えて、五月にまた一行減った。
五月の連休は、三日休んだ。
四日と五日は出た。
七階には誰もいなかった。入館証で入れることは確認してある。
空調が入っていないので、窓際の島は暖かかった。
八時間いて、二十六ページ作った。
帰りに、七軒のうち一軒だけ開いていたコーヒーの店に寄った。
アイスコーヒーが四百五十円だった。
休んだ三日のうち、一日は向こうが来た。
昼から来て、夜まで居た。
外に出なかった。
出ようという話が、一度も出なかった。
◇
夕方に、二人とも寝ていた。
先に起きた。
起きて、そのまま二十分、動かなかった。
カーテンが開いていて、外がまだ明るかった。
窓の外で、どこかの家の洗濯機が回っていた。
洗面所に、歯ブラシのほかに二つ置いてある。
化粧を落とすものと、髪をまとめるゴムである。
いつからあるかは、分からない。
何も言わなかった。
向こうも言わなかった。
橘に、最初のまとまった作業を渡したのは五月だった。
生産拠点の再編で、三つの工場の稼働率と物流費を並べる作業である。
渡し方を、三分で済ませた。
「この三拠点の稼働率と物流費を、月次で二年分。フォーマットは前回の資料に合わせて」
橘は、はい、と言った。
質問はなかった。
出てきたものは、使えなかった。
稼働率の定義が、拠点によって違うものをそのまま並べていた。
一拠点は設備の実働時間で取っている。二拠点は生産量ベースである。
並べると、比べられない。
「これ、定義が揃ってないから、揃えてやり直して」
そう言った。
橘は、すみません、と言って、持って帰った。
◇
二回目も違った。
揃えてはある。揃え方が逆だった。
こちらが必要としているのは、投資判断に使える設備の実働のほうである。生産量ベースに寄せると、需要の変動が入ってしまう。
そのことを、最初に言っていない。
言っていないことに、二回目の資料を見て気づいた。
「ごめん、これ、実働のほうに寄せて。需要の変動が入ると、拠点の能力が見えないから」
「分かりました」
橘は嫌な顔をしなかった。
一度もしなかった。
三回目は、使えた。
ファイルに、タブがもう一枚あった。
拠点ごとに、稼働率をどちらの取り方で出しているか、いつから変わったかを並べた表である。
頼んでいない。
生産技術に自分で電話をかけたらしい。相手の名前と、かけた日付が入っていた。
「次から、これを先に作っていいですか」
「いいよ」
使えたものを、月次の資料に貼った。
貼ったのは、稼働率と物流費の表だけである。
定義のタブは貼らない。
貼らないことは、言わなかった。
貼った資料に、作った人の名前は入らない。
◇
三年前に、同じことをされた。
一年目の夏だった。渡された作業の趣旨が分からないまま二日かけて、二回やり直した。
そのときの相手が誰だったかは、覚えている。
覚えているが、同じことをしていることには、結びつかない。
昼は定食の店に行く。
七軒のうち、一番近い一軒である。
日替わりが八百円で、魚と肉が交互に来る。
十二時四十分に出て、十三時五分に戻る。
週に三回は、そこにいる。
六月の火曜に、芝内と鉢合わせた。
入口で、向こうが先に入っていた。
会釈をした。芝内も会釈をした。
別の席に座った。
芝内は一人だった。
窓のほうを向いて、食べていた。
十分ほどで出ていった。
七軒のうち、一軒が四月に閉まった。
コーヒーとサンドイッチの店である。
同じ場所に、六月に別のコーヒーの店が入った。
だから七軒のままである。
今週は十四枚だった。
日曜に取りに行けないので、水曜に回してもらった。
水曜の夜、二十二時に受け取った。
シャツは一枚ずつ減っていく。
減り方で、週の長さが分かる。
◇
橘は紙の手帳を持っている。
会議のあいだ、こちらがパソコンを開いている時間に、そこに書いている。
一度、開いたままの頁が見えた。
数字は書いていなかった。
「〜と言う」「〜とは言わない」
その形で、二十行ほど並んでいた。
芝内とは、週次で毎週会う。
四十五分の会議で、話すのは十分くらいである。
残りは、部下の担当者が説明する。
芝内は、資料に書いてある数字を一度も間違えない。
間違えないが、期限のところだけ、言い方が曖昧になる。
「そこは、六月には」
六月には、の続きが省かれる。
議事録には、六月末を目途と書く。
書いたものが、翌月の表の期限になる。
◇
五月の週次で、芝内が一度だけ、担当者を止めた。
サプライヤーの集約で、二次取引先まで踏み込む案が出たときである。
「そこはまだ、うちの中で握れてない」
そう言って、案を引き取った。
引き取った案は、六月に出てこなかった。
七月にも出てこない。
表の上では、その行は黄色のままである。
黄色は、注意である。
赤ではない。
赤にするかどうかは、期限が来ているかどうかで決まる。
期限は、まだ来ていない。
◇
六月に、沖田と立ち話をした。
七階のエレベーターホールである。
月次の資料の、赤の数の話だった。
「今月、赤が九つですね」
「はい」
「先月より二つ増えてます」
「調達が二つ、期限を延ばしました」
沖田は頷いた。
それから、こう言った。
「宮浦さん、この資料、誰が読んでると思いますか」
「経営会議の出席者です」
「読んでるのは社長だけです」
そう言った。
「他の方は、自分の担当のところしか見ません。全部見るのは社長だけ。だからこの表は、社長が見るために作ってます」
隠す気がなかった。
「役員の方々が、本気でやっているかどうかを、社長は知りたいんです。経営企画が言っても角が立つ。だから外の方に出してもらってます」
「はい」
「気を悪くされました?」
「いえ」
気を悪くはしていない。
自分たちが何であるかが、そこで分かった。
事務局ではない。
社長が役員層を見るための、目である。
◇
だから現場が、この人たちは何のためにいるのかと思うのは、正しい。
こちらは現場のために来ていない。
そのことを、そこで理解した。
理解して、席に戻って、資料の続きを作った。
六月の健康診断で、再検査の欄に丸が付いた。
七月の予約を動かした。
八月で取り直して、また動かした。
三回目は入れていない。
六月の下旬に、大室から連絡が来た。
七月の第二土曜に、横浜で飲まないか、という内容だった。
三人になるかもしれない、と書いてあった。
三人目が誰かは書いていない。
◇
その週の土曜は、半期の資料の作成が入っていた。
日曜でもよかった。
日曜にずらせば行ける。
行かない、と決めるまでに、そこまで時間はかからなかった。
断りの返事を書くのに、三分かかった。
三分かかったことを、惜しいと思った。
「すみません、その週末は仕事が入っていて。また声かけてください」
そう送った。
大室は、了解、また誘うわ、と返してきた。
七月の第二土曜は、会社にいた。
半期の資料である。
その次の水曜に、向こうが来た。
断ったのは土曜で、来たのは水曜である。
その並びについては、考えなかった。
暗くしてから、聞かれた。
「土曜、お仕事だったんですよね」
「そうです」
「土日って、どっちも出るんですか」
「片方は出ます」
「じゃあ、片方は空いてるんですね」
答えなかった。
向こうも、それ以上言わなかった。
言いかけて、やめたのが、暗いところでも分かった。
追わなかった。
◇
朝、先に出た。
出るときには、まだ寝ていた。
起こさなかった。
紙に書いて、テーブルに置いた。
「出るときは、そのまま出て大丈夫です。鍵はいりません」
紙に書いたのは、この部屋で初めてだった。
会社で使っている字で書いていた。
七月は、二回だった。
六月は三回である。
こちらから送る回数が減っていた。
向こうからも減っていた。
どちらが先に減らしたかは、分からない。
洗面所の歯ブラシは、二本のままである。
増えていない。
減ってもいない。
捨てていない。
捨てる理由がない。
◇
六月末に、半期が終わった。
数値目標に対する進捗が出た。
調達が、年度計画に対して九十四パーセント。拠点再編が、決定プロセスの遅れで八十一パーセント。間接部門が百二パーセント。デジタルは、指標がまだ立っていない。
全体では、悪くない。
悪くない、という言葉が、経営会議で二回出た。
誰も喜ばなかった。
喜ぶ場面ではない。
半期の報告資料は、四十二ページだった。
作ったのは五人である。
表紙にはファーム名が入る。
個人名は入らない。
そういう様式である。
◇
その週の日曜に、部屋の掃除をした。
掃除機をかけるのに、玄関脇の段ボールが邪魔だった。
二箱とも、クローゼットの前に動かした。
そこなら、通り道にはならない。
開けなかった。
開けようとも思わなかった。
夜、玄関にランニングウェアがあった。
シューズも並んでいる。
皇居を一周、いま走ったら何分かかるか。
二十九分か、三十分。
そのくらいだと思う。
走らないので、確かめない。
◇
七月の平日に、一度だけ神宮に行った。
誘われたのではない。
夕方の会議が三十分で終わって、その日はもう出すものがなかった。
外苑前で降りて、当日券を買った。
内野の三塁側で、二千円くらいだった。
着いたのは六回の裏だった。
四点差がついていて、そのまま動きそうになかった。
ビールを一杯買った。
八百円する。
学生のときから、この球団を見ている。
打席に入る選手の名前が、三年分くらい分からない。
背番号も一致しない。
七回の攻撃が終わったところで出た。
出るときに、傘が一斉に開くのが後ろで見えた。
まだ勝っている側の応援である。
駅までの道で、同じ方向に歩いている人が数人いた。
みんな途中で帰る人である。
電車は空いていた。
七月の最終週に、月次の資料を作り終えて、二十三時に会社を出た。
京橋から白金台まで、地下鉄で三十八分。
終電の一本前だった。
車内で、翌週の会議の順番を頭の中で並べた。
並べ終わって、まだ十五分あった。
十五分、何もしなかった。
第八章 遅れて理解する
八月の経営会議で、生産拠点の統廃合が正式に決まった。
三拠点のうち、二拠点を閉じる。
一つは東北にあり、もう一つは中国地方にある。従業員は合わせて二百四十名。
配置転換が百六十名、早期退職の募集が対象八十名。
決議の資料は三十一ページあった。
そのうち十九ページを作った。
数字は、こちらのものではない。
生産技術部が出した稼働率がある。物流部が出した輸送費のシミュレーションがある。人事が出した要員計画がある。
三つを一つの様式に集約した。
集約すると、比べられるようになる。
比べられるようになると、決められる。
決めたのは社長である。
会議の時間は一時間四十分だった。
長かったのは、閉じる順序の話である。
どちらを先に閉じるかで、供給の谷が変わる。
東北を先にする案で決まった。
決まったあと、遠山社長が全員を見て、これは戻せない決定です、と言った。
その一文を、議事録に入れた。
◇
十月に、物流のコストが想定を超えた。
東北の拠点を閉じたあと、関東の拠点から東北の得意先に運ぶことになる。
診断フェーズの試算では、幹線の輸送費だけを見ていた。
実際には、幹線のあとの小口配送が増える。
一車あたりの積載が下がる。積載が下がると、単価が上がる。
年間で、想定より四億三千万高い。
八十億の効果に対して、四億三千万である。
全体としては、まだ黒である。
鷲尾常務は、去年の十二月に同じことを言っていた。
議事録に残っている。
「末端の配送がどうなるかを見ていないんじゃないか」
そう言っている。
そのときは、生産技術部が試算に含まれていると答えた。
含まれていたのは幹線だけだった。
◇
十月の会議で、その四億三千万が報告された。
報告したのは物流部長である。
鷲尾は何も言わなかった。
誰も鷲尾に触れなかった。
社長が、対策を十一月までに、と言って、次に進んだ。
資料を巻き取りながら、議事録に何と書くかを考えた。
「物流費の追加影響について報告。対策を十一月の会議で審議」
そう書いた。
鷲尾の去年の発言には触れない。
触れる欄がない。
◇
九月に、一度オフィスに戻った日があった。
四半期の社内の会がある。全社ではなく、産業財のプラクティスのものである。
夕方から二時間、会議室で、案件の共有と人の異動の話をする。
終わってから、同期と二人で残った。
そこで聞いた。
守屋が、橋詰精機を外れたらしい。
らしい、というのは、正式なアナウンスがないからである。
アカウントの責任者が別のパートナーに移っている。それだけは名簿で分かる。
同期の言い方は、こうだった。
「先方の常務が動いたって聞いた」
「大城戸さんですか」
「名前は知らない。経営企画の人らしいよ」
去年の九月に、入札が遅れた。
遅らせたのは社長である。
遅らせるべきだと言ったのは守屋である。
遅らせたことで、社内に反対の勢力ができた。
急ぐべきだった、と言う人が、社内には最初からいた。
その人たちにとって、去年の会議は、外部の人間が社長を動かした場面に見える。
見え方としては、正しい。
「守屋さん、いま何やってるんですか」
「帝北。お前のとこじゃないの」
「はい」
「そう」
◇
その二週間後から、守屋が帝北フーズに来る回数が増えた。
それまでは月に一度だった。
十月からは、月に三度になった。
来ると、まず沖田と一時間話す。それから社長のところに行く。
こちらの島に立ち寄るのは、その前後の十分である。
守屋が来る日は、車で来る。
ハイヤーが正面につけて、そのまま十四階に上がる。
七階を通らない日もある。
社長との面談は、予定表の上では三十分である。
三十分で終わったことは、一度もない。
沖田が、そのあとの予定を毎回動かしている。
動かせる、ということが、この人の位置である。
◇
十月の中旬に、月次の資料をレビューしてもらった。
会議室で三十分。
守屋は表紙をめくって、目次を見ないで五枚目に飛んだ。
「この順番、逆だな」
「はい」
「進捗を先に出すと、遅れの話になる。効果の実績を先に出せ。遅れは、効果の内訳の中で説明する」
「分かりました」
「あと、この四億三千万は、独立した行に出すな。物流費の行の中に入れて、注記にしろ」
「はい」
三分で終わった。
三年前と同じである。
直した資料は、たしかに通りがよくなった。
通りがよくなるというのは、止まらないということである。
止まらないほうがいいのかどうかは、こちらが決めることではない。
◇
八月は、一度も来なかった。
こちらから送っていない。
向こうからも来なかった。
九月に、向こうから来た。
「近くを通ったので」
そう書いてあった。
近くを通る用事のある場所ではない。
そのことは、言わなかった。
守屋のほうから、橋詰精機の話は出なかった。
こちらからも聞かなかった。
聞く話ではない。
守屋は、来ても長くいない。
七階に上がってきて、こちらの島の横に立って、十分話す。
聞かれるのは三つである。
今月の赤の数。社長が何に時間を使ったか。それから、鷲尾がどこで黙ったか。
三つ目を最初に聞かれたときは、答えられなかった。
以降は、答えられるようにしている。
会議のメモに、発言のない箇所を書くようになった。
「調達単価、鷲尾常務発言なし」
そう書く。
議事録には出さない。手元のメモだけである。
◇
十月の第三土曜に、大室の披露宴があった。
横浜の、みなとみらいのホテルだった。
前日の金曜は二十四時まで会社にいた。
土曜の十一時に着いて、受付で名前を言った。
会費ではない。祝儀を三万包んだ。
大室が席を回ってきた。
こちらのテーブルでの顔と、同僚のテーブルでの顔が違った。
同僚のところでは、姿勢が違う。
大室が組織の中にいる人間であることを、そのとき初めて見た。
二次会は出ないと言った。
日曜に資料を作る必要があった。
エレベーターホールまで大室が送りに来た。
近づいてきて、こちらの頭のあたりを見た。
「お前、白髪」
指で示した。
耳の上のあたりらしい。
「そうなんだ」
自分では見ていない。
洗面所の鏡は毎朝見る。髪は見ない。
髪は六週間ごとに美容室が切るもので、自分で見るものではない。
だから、言われて知った。
「お前、いないの」
答えるまでに、間があった。
「わかんね」
「なんだそれ」
「いるならそれでいいんだけどさ」
それ以上は聞かれなかった。
◇
大室が、少し照れて笑った。
「無理すんなよ」
「うん」
「疲れたら休めって。ほんとに」
技巧のない言い方だった。
まっすぐ言って、そのあと、話題を変えようとして、変えられなかった。
エレベーターが来た。
「じゃあ」
「おう」
日曜は十時から資料を作った。
十一月の経営会議の分である。
物流費の対策の案が三つ出てきていて、三つを一枚に並べる作業だった。
十七時に終わった。
◇
十月の最後の週に、エントランスの外で待たせた。
二十三時に着くと送って、二十三時四十分になった。
雨は降っていなかった。
十月の終わりの夜である。
「大丈夫ですよ」
そう言われた。
十一月の第一週に、鍵を作った。
駅前の、靴の修理をしている店である。
その場でできる。千二百円だった。
十分待った。
待っているあいだ、店の人が別の客の靴の底を削っていた。
渡すときに、説明を三つした。
エントランスは、かざす側。
郵便受けは開けなくていい。
エレベーターは一基。
三つとも、はい、と言って聞いていた。
受け取って、財布に入れた。
キーホルダーは付けなかった。
「なんか、すみません」
「いえ」
◇
十一月の経営会議で、社長がこちらに直接聞いた。
物流費の四億三千万の、内訳の話である。
「小口の増加は、何本ぶんの計算になっていますか」
資料に載せていない数字だった。
手元のファイルを開かずに答えた。
「日あたり十八本の増加で置いています。年間の稼働日を二百四十日で計算しています」
社長は、分かりました、と言った。
それだけだった。
会議のあと、マネージャーが、よく持ってたね、と言った。
持っていたのは、前の週に三回計算し直したからである。
三回計算し直したことは、誰も知らない。
二十八歳が、六千四百億の会社の社長に、数字を聞かれて答えている。
そのことを、その日の帰りの電車で、一度だけ思った。
◇
十一月に、物流費の対策が三案から一案に絞られた。
関東の拠点に、東北向けの中継のスペースを借りる案である。
年間で二億八千万かかる。四億三千万の増加分のうち、一億五千万が戻る計算になる。
戻らない分は、計画の効果額から引かない。
引くかどうかは、経営企画が決めることである。
沖田は引かなかった。
「これは実行フェーズの費用なので、効果の計算とは別で持ちます」
そう説明した。
説明は、通った。
十一月に、橘が数学科の出身だと分かった。
昼に、七軒のうちの中華の店に行ったときである。
三人で行った。もう一人が、大学どこでしたっけ、と聞いた。
橘が大学名を言って、数学科です、と言った。
「専攻は」
「整数論です。ちょっとだけですけど」
そう言った。
「ちょっとだけ、って」
「同期で、続けてる人が二人いて。ときどき書いたものを送ってくるんです」
「読むの」
「去年の分から、開いてないです」
そう言った。
「そうなんだ」
そう言った。
◇
橘が、少し待った。
続きが来ると思っている間である。
一拍あった。
続けなかった。
もう一人が別の話を始めた。
言わなかったのは、憚られたからではない。
言う言葉を持っていない。
二月末の解答速報のことを、人に話したことがない。
話す形にしたことがない。
十二月の経営会議で、来年度の目標の話が出た。
三年計画の二年目である。
去年の四月に合意した調達単価の水準を、事業部側が見直したいと言った。
品質の要求と両立しない、という主張である。
沖田が資料を出した。
「昨年四月の会議で、この水準で合意をいただいています」
議事録の該当ページが、画面に映った。
三枚のうちの二枚目である。
書いたのは、こちらである。
事業部長が、確認します、と言った。
見直しの議論は、そこで止まった。
◇
十二月に、統廃合の実行日が来た。
東北の拠点の、最終稼働日である。
現地には人事と生産技術が行った。
こちらは東京にいた。
行く必要がない。
行かない、ということについて、その日は何も考えなかった。
十二月十九日の資料に、実行完了と書いた。
十二月の下旬に、橘と二人で残った日があった。
二十二時過ぎである。
翌週の月次の資料の、数字の突き合わせをしていた。
橘が、手を止めて聞いた。
「これ、意味あるんですか」
そう聞いた。
進捗表のことである。
「毎月、同じことを書いてるだけに見えて」
「三行、六か月ずっと赤のままなんです」
「色だけ、動いてないので」
橘は、聞いたあとに、聞くべきでなかったという顔をしなかった。
普通の顔だった。
答えた。
進捗管理は、遅れを見つけるためのものではない。
遅れが起きたときに、誰が何を決めるかを、あらかじめ決めておくための仕組みである。
赤くなった行があると、会議でその行に時間が使われる。
時間が使われると、決めるべきことが決まる。
決まらないと、三年の計画は、二年目の途中で意味を失う。
だから、同じことを毎月書く。
同じであることに価値がある。
そう説明した。
四分くらい喋った。
◇
橘は、なるほど、と言った。
「分かりました。すみません、変なこと聞いて」
「いや」
水を飲んだ。
ペットボトルの水である。
二口飲んで、キャップを閉めた。
翌週の月次の資料で、進捗表に列が一つ増えていた。
「次に決める人」という列である。
橘が足していた。
六か月赤のままの三行に、名前が入っていた。
そのまま出した。
会議で、沖田がその列を指した。
「これ、いいですね」
「ありがとうございます」
そう答えた。
誰が足したかは、言わなかった。
言う機会は、その場に二度あった。
橘は、こちらを見なかった。
◇
三年前の自分なら、この説明はしなかった。
三年前は、意味があるかどうかを、自分でも分かっていなかった。
いまは説明できる。
説明できることと、そう思っていることは、たぶん別である。
そのあと、橘がもう一つ聞いた。
「宮浦さん、走るんですよね」
「走ります」
「マラソンとか出るんですか」
「出ない」
最後に走った日を思い出そうとした。
やめた。
◇
一月に、芝内の異動が決まった。
調達部長から、九州の事業所の管理部門に移る。
四月付けである。
栄転かどうかは、社内の人間でないと分からない。
分かる人に、聞かなかった。
二月の最後の会議が、芝内の出る最後の回になった。
調達のワークストリームの引継ぎが議題だった。
引き継ぐ相手は、次長からの昇格である。
三十分で終わった。
会議のあと、廊下で芝内が言った。
「宮浦さん、お世話になりました」
十四ヶ月である。
進捗表で、この人の担当の行が一番多く赤くなった。
数えたことはない。数えなくても分かる。
送別はなかった。
三月の異動が固まる前に、部の中で一度やるらしい、という話は聞いた。
外部が呼ばれる会ではない。
◇
二月の最後の週に、橘と二人で年度末の資料を直していた。
来年度の体制の説明のページである。
橘が書いた一文を、こちらが直した。
「継続的に支援する」を、「必要な範囲で支援を継続する」に変えた。
橘が、なるほど、と言った。
「そのほうが、あとで動かせますね」
「うん」
そう言って、それから言った。
「こういう書き方って」
橘が、はい、と言った。
「こういう書き方は、自分で考えたやつじゃなくて」
そこで止まった。
止まって、いや、と言った。
「いい。次のページ」
「はい」
橘は、それ以上聞かなかった。
聞かれなかったことに、少し間があった。
手帳は、開いたままだった。
その間に、何も書き足されなかった。
次のページを開いた。
◇
二月の末に、予備校のサイトのことは、思い出さなかった。
二月は、月次と、年度末の報告の準備と、四月以降の体制の資料があった。
二十八日は水曜だった。
二十三時に会社を出て、地下鉄に乗った。
車内で、翌日の会議の順番を並べた。
部屋に着くと、明かりが一つ点いていた。
間接照明のほうである。
消し忘れではない。
朝は点けていない。
冷蔵庫に、容器が四つ入っていた。
蓋のできるものである。買った覚えがない。
一つは、鶏とごぼうを煮たものだった。
一つは、ひじきである。
残りの二つは、名前が分からない。
蓋に、紙が貼ってある。
日付と、温める時間が書いてあった。
四つとも、秒まで書いてある。
テーブルに、紙が一枚あった。
二つ折りにしてある。
開いた。
勝手に上がりました。すみません。
鍵、一回使ってみたかったです。
冷蔵庫に四つ入れました。
上の二つが二日、下の二つが四日もちます。
温める時間は蓋に書きました。
鍋は洗って戻しましたが、場所が違っていたらすみません。
立って食べていると聞いてから、ずっと気になっていました。
座って食べてください、とは言いません。
立ったままでも食べられるものにしました。
来月から、美術館で企画展があります。
日曜も夜までやるそうです。
行けたら行きましょう。
行けなかったら、また今度で大丈夫です。
返事はいらないです。
おやすみなさい。
◇
読んだ。
もう一度、読んだ。
二つに折って、テーブルに戻した。
しばらく、紙を見ていた。
携帯を出した。
一行打った。
送らなかった。
一つ温めた。
鶏とごぼうのほうである。
秒まで書いてあるとおりにした。
立って食べた。
半分食べて、座った。
座って、残りを食べた。
食べ終わっても、立たなかった。
椅子の背に、背中が付いている。
しばらく、そのままだった。
時計を見た。
二十四時を回っていた。
翌日の会議の順番を、もう一度並べた。
並べ終わってから、まだ座っていた。
第九章 記録
最終報告会は三月の第二週だった。
十四階の大会議室である。
普段の経営会議より一つ大きい部屋で、机をロの字ではなく、教室の形に並べ替えてあった。
並べ替えたのは前日の夜で、こちらが四人でやった。
椅子を運ぶと、絨毯に跡が残る。
橘は、動かす前に机の脚の位置を紙に描いていた。
戻すときのためである。
朝、その跡を、掃除の人が機械で消していた。
正面にスクリーンが二枚下りる。
窓のブラインドは、九時の時点で下ろしてある。
部屋の後ろに、飲み物のワゴンが用意されていた。
役員の分だけ、湯呑みではなくカップである。
出席は二十二名。
役員が九名、部長級が十一名。あとの二人は経営企画である。
資料は百四ページある。
配布はしない。画面に出す。持ち帰り用は、後日データで配られる。
◇
報告は一時間二十分だった。
パートナーが冒頭の十分と、最後の十分を話した。
あいだの一時間は、マネージャーと、こちらと、もう一人で分けた。
担当は、四つのワークストリームの進捗と、来年度に持ち越す事項である。
十八分喋った。
質問は四問だった。
終わりに、遠山社長が立って、謝辞を述べた。
三分くらいだった。
「十四ヶ月、ありがとうございました」
そう言って、ファームの名前を読み上げた。
読み上げられたのは、その一つである。
個人の名前は読まれない。
そういう場である。
拍手があった。
そのあと、名刺の交換をする人が数人来た。
十四ヶ月いて、まだ名刺を交換していない人がいる。
そういうものである。
謝辞のあいだ、部屋の後ろに立っていた。
十四階の絨毯は、七階のカーペットより厚い。
十四ヶ月、そのあいだの階を、毎月往復した。
往復した回数は、数えていない。
十八分喋ったことについて、何か言われるとは思っていなかった。
言われなかった。
そういう場である、ということは、三年前から知っている。
知っていることと、その場に立っていることは、少し違った。
違ったことについては、考えなかった。
◇
入館証を返した。
一階の受付で、灰色のカードを渡す。
写真は、十四ヶ月前に撮ったものである。
返すときに、少しだけ見た。
若いとも思わなかった。
三月の下旬に、日経で橋詰精機を見た。
精密部品事業の譲渡である。
譲渡価額、三百二十億円。
四月一日付で、新設会社に事業を移し、株式を譲渡する。
譲受先の名前が書いてあった。
栗生キャピタル株式会社。
代表の名前も一行だけ出ていた。
栗生正臣。
記事は十四行あった。
読み終えて、アプリを閉じた。
一昨年の九月に、守屋は、いま三百億のものが二百五十億になるかもしれない、と言った。
一年半遅れて、三百二十億になっている。
遅らせたことが正しかったのか、無関係だったのかは、分からない。
分かる形のデータは、どこにもない。
◇
四月に、次の案件が決まるまで二週間あった。
その二週間で、社内の整理をした。
案件フォルダを開いた。
プロジェクト・ハルニレ。
二年前の夏の案件である。
フォルダは残っている。中身がない。
規定で、案件終了から一定期間を過ぎたものは、削除される。
クライアントとの契約に、そう書いてある。
自分の端末を検索した。
案件のデータは、端末には置かない規則になっている。
置いていない。
だから、ない。
作ったものが残らないのは、この仕事ではふつうのことである。
ふつうのことに、理由はいらない。
四十三枚は、どこにもない。
三枚目に何が書いてあったかは、覚えている。
グラフが二つと、表が一つ。左上に十四社という数字。右下に脚注が三つ。
数字を一つ間違えていた。
どの数字を間違えていたかは、覚えていない。
残っているのは、迷った七社の社名だけである。
いまも言える。
一社目から順に、口の中で言った。
二社目と五社目が似ていて、順番を間違えそうになる。
間違えなかった。
◇
四月の第一週の日曜に、部屋にいた。
ソファは新品同様である。
洗面所に、歯ブラシが二本ある。
段ボールは、去年の夏に動かした場所にある。
クローゼットの前である。
そこにあると、扉を全部は開けられない。
半分開ければ、使う服には手が届く。
先月末に、解答速報が出ていた。
二月二十六日ごろである。毎年その週である。
見なかった。
見なかったことに、いま気づいた。
忘れていたわけではない。
二月に、それが頭に浮かばなかった。
サイトを開いた。
ページはある。去年と同じ形をしている。
大学の一覧があって、教科があって、問題のPDFがある。
開かなかった。
閉じた。
LINEを開いた。
父とのトークを出した。
最後のやり取りは、去年の一月一日である。
「明けましておめでとう 元気か」
「元気です 今年もよろしく」
そのあと、何もない。
一年三ヶ月ある。
◇
入力欄に、何か打った。
三文字打って、消した。
もう一度、別の言葉を打って、それも消した。
閉じた。
充電器に挿した。
夕方に、スーパーに行った。
二人前の惣菜を買った。
立って食べた。
半分残した。
冷蔵庫に入れた。
◇
六月に、次の案件のキックオフがあった。
クライアントは化学のメーカーである。
コードネームは、鳥の名前だった。
初日の朝、八時四十五分に先方のビルに入った。
エレベーターは、こちらが三人と、先方の受付の人が一人。
三人のうち一人が、入社一年目のアナリストだった。
四月に入った人である。
その一年目が、資料の入ったバインダーを両手で持っていた。
持ち方が固い。
十九階まで、時間がある。
何か言おうとした。
息を吸うところまでは行った。
一年目が、階数表示を見上げた。
十七、十八。
扉が開いた。
先に降りた。
受付で、名前を言った。
会議室は、廊下の突き当たりだった。
◇
六月の日曜に、美術館に行った。
二月の紙に書いてあったものである。
会期は、今月までだった。
十時半に、竹橋の改札で待ち合わせた。
先に着いていた。
十時二十分に着いていたらしい。あとで、そう言った。
建物は、濠の側にある。
外壁は、四角い石を目地で割ってある。
石の色が、雨の当たる面だけ濃い。
入口は、道から見ると分かりにくい位置にあった。
一度、通り過ぎた。
中は、天井が高い。
床が硬い。歩くと音がする。
チケットの窓口が二つあって、片方が閉まっている。
一般が千五百円だった。
券は紙である。
階段の手すりが、真鍮だった。
握るところだけ、色が変わっている。
上がったところに、椅子が四脚ある。
四脚とも、座面の布が違う色だった。
企画展は、戦後の日用品の展示だった。
鍋、机、椅子、包装、看板。
作った会社の名前が、一つずつ付いている。
半分は、いまも残っている会社だった。
◇
途中で、足を止めた。
「これ、下が全部同じ高さなんですよ」
台のことである。
「見せたいものの高さを、先に決めてるんです」
「決めてから、台を作るんですか」
「そうです。逆はできないので」
そこから、こちらが聞いた。
聞いて、答えが返って、また聞いた。
台の前から、しばらく動かなかった。
いい展示だと思った。
出たのは、十三時過ぎだった。
濠の側の道を、駅のほうに歩いた。
水面に、ビルが映っている。
どのビルかは、分からなかった。
「来週、どうしますか」
そう聞かれた。
少し間があった。
「空いてます」
そう答えた。
予定は見ていない。
濠を見た。
さっきと同じところに、同じビルが映っている。
しばらく、そこを見ていた。
携帯を見た。
見ていなかったことに、そこで気づいた。
どれくらい見ていなかったかは、分からない。
付録
付録一 ・ 人物
氏名と所属だけを掲げる。人物のしたことは本文にある。すべて架空の人物である。
ファーム(名称は作中に出てこない)
宮浦 直哉(みやうら・なおや) ── コンサルタント。二十七歳から二十九歳。工学修士。本作の視点人物。
守屋 亮(もりや・りょう) ── パートナー。四十八歳。産業財プラクティス。橋詰精機のアカウント責任者。
永瀬 彩(ながせ・あや) ── マネージャー。三十五歳。第一章と第三〜五章で宮浦の直属。
里見 慧(さとみ・けい) ── 同期。二十九歳。第六章で退職。
戸叶 誠一郎(とかのう・せいいちろう) ── シニアパートナー。五十五歳。東京オフィスの人事を実質的に握る。
橘 香月(たちばな・かづき) ── アナリスト。二十四歳。第七〜八章で宮浦の下につく。
スタッフィング・マネージャー ── 氏名は本文に出ない。案件への割り当てを管理する。宮浦の生活は二度、この人のメールで決まる。
橋詰精機株式会社(東証プライム・売上三千八百億)
橋詰 敬三(はしづめ・けいぞう) ── 社長。六十一歳。就任二年目。生え抜き。
大城戸 隆(おおきど・たかし) ── 常務。五十八歳。経営企画担当。ファームを招いた側。
副社長二名 ── 氏名は本文に出ない。第一章の役員会議に同席し、発言しない。
栗生キャピタル株式会社(独立系ミドルキャップPE・運用資産千八百億)
栗生 正臣(くりう・まさおみ) ── 代表。五十二歳。第三章のキックオフに四十分だけ出る。
芦沢 直人(あしざわ・なおと) ── ヴァイスプレジデント。三十三歳。デューデリジェンスの窓口。
日本フレックス工業株式会社(非上場・売上百八十億)
柏木 宗一郎(かしわぎ・そういちろう) ── 社長。六十九歳。創業者の長男。後継者がいない。
柏木 沙代(かしわぎ・さよ) ── 経理課長。三十六歳。社長の娘。開示資料を整えている。
渡良瀬 実(わたらせ・みのる) ── 営業部長。六十一歳。発注元プラントの資材部門と三十年の付き合いがある。
帝北フーズ株式会社(東証プライム・売上六千四百億)
遠山 治彦(とおやま・はるひこ) ── 社長。六十三歳。全社変革プログラムの発注者。
沖田 麻里(おきた・まり) ── 経営企画部課長。四十一歳。ファーム側のカウンターパート。会議体と報告先を設計した人物。
芝内 康之(しばうち・やすゆき) ── 調達部長。四十九歳。単身赴任。娘が二人いる。
鷲尾(わしお)常務 ── 五十七歳。変革に消極的な役員。
私生活
大室 圭介(おおむろ・けいすけ) ── 大学(工学部)の同期。研究室も同じ。総合電機メーカーの技術職、事業所は横浜。作中の連絡は、四回とも大室の側から始まる。
付録二 ・ 用語
本文で説明を最小限にとどめた語を、作中の文脈に即して補う。厳密な定義ではない。読み飛ばしても本文は読める。
案件のかたち
戦略ファーム
企業の経営陣を相手に、事業や組織の方向づけを支援する会社。本作では名称が一度も出てこない。守秘の作法として、社外では「うち」「ファーム」としか呼ばない。
プロジェクト名(コードネーム)
案件は、クライアント名ではなくコードネームで呼ばれる。ハルニレ(木)、ケストレル(鳥)、ミナモ。社内でも、その案件に入っていない人間には内容が分からないようにできている。
論点(イシュー)
「何を明らかにすれば決められるか」を分解した問い。分析より先に論点があり、論点はふつう上位者が立てる。三年目の若手は、与えられた論点に材料を作る側にいる。
イシューツリー
論点を、答えの出る大きさまで枝分かれさせた図。作業の割り振りは、この枝の単位で決まる。
ロールオフ
案件からの離任。次の案件が始まる前に前の案件が終わり、結末を知らないまま次に移ることが普通に起きる。
ビーチ
案件と案件のあいだの、稼働の付いていない期間。社内向けのレポート作成やリクルーティングが割り当てられる。工数は付くが、クライアントには請求されない。
PMO
Project Management Office。全社の変革プログラムなどで、複数の部門にまたがる進捗と会議体を運営する事務局。形式上は事務局だが、外部に頼まれる理由は、社内の人間には職位が上の相手を催促する権限がないことにある。
ワークストリーム
変革プログラムを、テーマごとに分けた実行の単位(調達、生産拠点、間接部門、デジタルなど)。
M&Aとファンド
PE(プライベート・エクイティ)ファンド
未公開株に投資し、数年かけて価値を上げて売却する投資会社。ミドルキャップは、中堅規模の会社を対象とする層。
FA(ファイナンシャル・アドバイザー)
売却や買収の手続き全体を差配する助言者。投資銀行や証券会社のM&A部門が務める。売り手側FAが入札の段取りを組む。
ティーザー
売却案件の概要を、社名を伏せて一、二枚にまとめた資料。数十社に配られる。
NDA(秘密保持契約)
これを結んではじめて、社名の入った資料が届く。
IM(インフォメーション・メモランダム)
売り手側FAが作る、対象会社の詳細資料。事業、財務、顧客、設備などが数十ページから百ページ程度でまとめられている。買い手はまずこれを読み、この時点で価格の当たりを付ける。
一次入札・独占交渉
IMを読んだ買い手候補が価格の意向を出すのが一次入札。通過した数社がデューデリジェンスに進み、最終入札を経て一社に絞られる。一社だけと交渉する期間を独占交渉という。
デューデリジェンス(DD)
買収前の調査。商業(市場・顧客)、財務、税務、法務に分かれ、それぞれ担い手が違う。戦略ファームが担うのは商業DDで、価格は出さない。
商業DDの機能
ファンドは自分でバリュエーションを行い、DDが始まる前にモデルの数字はすでに埋まっている。したがって商業DDは、入力値を作る作業ではなく、(a)自分の仮説を外部に潰させる耐久試験、(b)四週間で三十人の専門家に当たる人月とネットワークの購入、(c)投資委員会と出資者に対する証跡、の三つを兼ねる。
投資委員会
ファンドの中で、投資するかどうかを決める会議。DDの報告書は、この会議の材料になる。報告書の宛先はファンドのみで、第三者への提供は契約で禁じられる。
EBITDA・マルチプル
EBITDAは、利払い・税金・減価償却の前の利益。おおまかな稼ぐ力の目安として使われる。買収価格をEBITDAの何倍で置くかがマルチプルで、「七・五倍から八・五倍」はその幅を指す。
バリュエーション/LBOモデル
買収価格の算定。借入を使って買う前提の収支計算(LBOモデル)を含め、ファンドが内製する。外に出さない。「いくらまで出せるか」の判断は、ファンドの中核能力そのものだからである。
免責条項
報告書の末尾に付く、利用範囲と責任の限定を定めた条項。DD報告書は意見書ではなく、依頼者の内部資料である。
調査の道具
エキスパートネットワーク
業界経験者を、時間単位で紹介する事業者。一件あたり数万円から。対象会社名を伏せた条件だけで人を集める。
専門家インタビュー
そのようにして手配した相手への聴取。一本六十分。対象会社の名前は出さないが、質問の並びから相手が察することがある。双方がそれを口にしないまま六十分が終わる。
マネジメントインタビュー
対象会社の経営陣への質疑。売却を知る社内の人間が限られるため、買収の話は出さず、「ゼネラルディスカッション」などの名目で行われる。半日、工場見学は三十分、撮影不可、といった制約が付く。
市場サイジング(トップダウン/ボトムアップ)
市場規模の推計。統計から按分して落とすのがトップダウン、需要側の数量を積み上げるのがボトムアップ。二通りで作り、差が縮まらなければ、どちらかの前提が間違っている。
生産動態統計
経済産業省が毎月公表する、品目別の生産・出荷・在庫の統計。作中の特殊ホースのように、統計の区分が製品の実態と一致しないことがある。
承認図
発注側の設計図面に、特定メーカーの製品仕様が組み込まれた状態を指す。切り替えるには図面から変える必要があり、事実上の参入障壁になる。
名寄せ
別々のシステムに登録された取引先を、同じ会社ごとにまとめる作業。表記の揺れ、旧社名、持株会社化、事業所単位の登録が混ざるため、どこまでを一社と数えるかは判断になる。判断が変われば、出てくる数字も変わる。
クライアント側の言葉
東証プライム
東京証券取引所の市場区分の一つ。作中のクライアントはいずれも大企業で、中小企業は一社も出てこない。
持株会社(ホールディングス)
事業会社の株式を持つ親会社。同じグループが複数の法人名で登録されている原因になる。
中期経営計画(中計)
三年程度の計画。事業ごとの売上・利益の目標が置かれ、売却の検討はこの目標の前提を動かす。
事業ポートフォリオ再編
どの事業を持ち、どの事業を手放すかの組み替え。
進捗表・赤いセル
施策ごとに期限と担当と状態を並べた表。期限を過ぎたものを赤で示す。権限のない若手が更新する一行が、会議で誰かの時間を使わせ、評価に影響する。
議事録
会議の記録。誰が何を言ったかを網羅するものではなく、決まったことを短く残す文書である。「合意した」と書かれた一行は、半年後に前提として参照される。沈黙を合意と書くかどうかに、様式上の決まりはない。