指定

本書はフィクションである。地方自治法の指定金融機関および指定納付受託者の制度、銀行法および自己資本比率規制の国内基準といった、実在する制度の名称を用いているが、本書に描かれる自治体、金融機関、事業、その判断と言動は、すべて創作である。湊原市、潮見銀行、ひなた銀行、湊原市上下水道公社、湊原商工会議所、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる自治体・組織・個人とも関係がない。作中で述べられる制度の解釈もまた、登場人物がその場で口にしたものにすぎず、著者の見解でも、まして特定の事案についての助言でもない。数字は、この物語の内側でだけ整合するように置かれている。


序章 盆

湊原高校の野球部のOB会は、盆の十四日と決まっている。

会場は駅前の魚幸の二階で、これも三十年変わらない。畳の広間に座卓を口の字に並べ、上座から順に年次が下がっていく。現役の監督が挨拶をして、いちばん上の年次が乾杯の音頭を取り、あとは各自で飲む。甲子園に出たことは一度もない。県大会のベスト八が二回、ベスト十六が七回。その回数を、誰も間違えずに言える。

中山和成は、下から数えて六番目あたりの座卓にいた。

四十を二つ手前にして、この会に出るのは八年ぶりだった。県外の大学へ行き、そのまま都市部の銀行に入り、盆に帰ってくること自体が減っている。実家は市内で電器店をやっていたが、七年前に畳んだ。畳んだあとの店舗は、シャッターに商工会議所の観光ポスターが貼られている。父はいま、母と二人でその二階に住んでいる。

「中山、東京か」

「いえ、会社は東京ですけど、家は千葉です」

「同じようなもんやろ」

同じようなものだった。中山は否定しなかった。

ビールの本数がひととおり出て、刺身の皿が下げられたころ、上座のほうから人が動いた。梶原が、盆と徳利を持って中山の横に座った。

梶原孝史。二十四年上の先輩で、内野手だった。三期目の湊原市長である。市長になる前は県庁にいて、その前は市役所にいた。六十代の半ばだが、腹は出ていない。OB会では市長と呼ばれない。梶原さん、である。

「久しぶりやな。何年ぶりや」

「八年です」

「八年か」

梶原は徳利を傾けた。中山は受けた。

「銀行やったな。何の銀行や」

「ひなた銀行というところです」

「聞いたことないな」

「店舗がないんです」

「店舗がない銀行か」

梶原は、それを冗談として笑った。中山も笑った。実際、名前を聞いて業態が分かる人には、この十年で一度も会ったことがない。ひなた銀行という名前は、何をしている会社なのかを一言も語らない。

「うちの水道、まだ検針票を紙で配っとるんや」

梶原が言ったのは、そのすぐあとだった。

「検針員が回って、玄関にぶら下げてくる。それを持って、コンビニか、潮見さんの窓口へ払いに行く。口座振替の人はええけどな。若い連中から、不便やと言われる。転入してきた人には、たいてい言われる」

「多いんですか、転入」

「多うはない。年に二百も来ん。来ん人に言われるほうが、こたえるんや」

中山は、それは市長の職務上の実感なのだろうと思って聞いていた。

「潮見さんには、相談されたんですか」

中山が聞いた。

梶原は、盃を置いた。

「した。うちの指定金融機関やからな。四十年、公金はぜんぶ潮見さんが受けとってくれとる。せやから最初に持っていった」

「それで、どうでした」

「システムの話になる」

梶原はそれだけ言った。

中山は、その一言の内側を、勝手に補って理解した。地方銀行が、収納のためのアプリを自前で作る。開発費と、運用と、保守と、行内の要員。規模の話である。潮見銀行の総資産は、中山の知る限り、一兆に届いていない。届いていない銀行にとって、それは無理という言葉を使わずに断るべき種類の話だった。

「悪い話やないんや」梶原は言った。「潮見さんは、地元の銀行として、できることはやってくれとる。融資も、災害のときの現金も、そこは頼りにしとる。ただ、これは畑が違う。畑が違うことを、無理にやらせても、誰も得せん」

「そうですね」

「それでな、中山」

来た、と思った。

「交付金の期限が、再来年の三月なんや。デジタルの、あれや。使えるうちに使わんと、次はない。何か、お前のとこで、使えるもんはないか」

中山は、盃を持ったまま少し黙った。

言うべきことは決まっていた。うちは自治体向けの案件をやっていないわけではないが、対象は政令市クラスまでである。人口四万の市に、専用のものを作れば、作った分だけ赤字になる。それは意地悪でも冷淡でもなく、単に、掛け算の話だった。

「うちは、その規模の市はやってないんです」

「そうか」

「政令市とか、中核市とか。人数が要るので」

「そらそやろな」

梶原は、あっさり引いた。引いたのに、中山のほうに残った。

引かれてしまうと、断ったことになる。断ったことにならないためには、何か持って帰らなければならない。それだけの理由だった。郷里のためだとは、このとき一度も思っていない。実家はもう店をやっていないし、戻る気もない。二十四年上の先輩に、盆の席で、断る言い方を選ばせてしまったという、それだけである。

「一回、社内で聞いてみます」

「ええんか」

「聞くだけです。たぶん通りません」

「聞いてくれるだけでええ」

梶原は徳利を持ち上げた。中山はまた受けた。

そのあと、話は市立病院の話になり、水産加工の人手の話になり、高校の部員が九人を割りそうだという話になった。三十分ほどして、梶原は上座へ戻っていった。

戻る前に、立ち上がりながら、こちらを見ずに言った。

「言うとくけどな、中山。心配せんでええ。うちの町の人は、口座なんか変えませんよ」

広間は暑かった。誰かが窓を開け、港のほうから風が入ってきた。潮の匂いはしなかった。魚幸は港から三百メートル離れている。

中山は、翌日の午後の便で戻った。


第一部 通す

1 六本木

ひなた銀行の本社は、六本木のタワーの三十一階から三十五階にある。

三十一階のエレベーターホールを出ると、床から天井までのガラスで、正面に東京タワーが立っている。受付にはカウンターがなく、木の一枚板の台に、社名のロゴが白く抜いてあるだけである。来客用のスペースには、名前の知られた椅子が八脚置かれている。同じビルには、映像制作の会社や外資系の投資銀行、化粧品のブランドが入っている。

銀行の本店には店舗を置くことになっているので、フロアの隅に、窓口が一つある。カウンターが一つ、椅子が二脚。年間の来店者数は、多い年で二百人に届かない。ほとんどは相続の手続である。相続の手続に来た人は、たいてい、この階に来るまでに二回、道を聞いている。

BaaS事業部は、三十三階の北側の島にいる。三十人。銀行というより、受託開発の会社の島に近い。

家賃が高いことについて、社内では誰も文句を言わない。この会社が提携している事業会社は、ほとんどが都心にある。先方の担当者が来やすい場所に本社を置くのは、営業上の合理である。そう説明されている。

火曜の朝の部内会議で、月次の預金の数字が出た。

「三か月連続で、純増が鈍化しています」

早瀬が読み上げた。二十代で、この四月に配属になった。

◇

初めて会ったのは、その四月一日である。配属の挨拶に来た。中山は自分の席に座ったまま、名前と、前の部署と、何をやってきたかを聞いた。三分で終わった。

そのとき思ったのは、三つだった。

声に抑揚がない。聞いていないことを言わない。続かないかもしれない。

ほかに思ったことはない。良い印象も、悪い印象もなかった。挨拶が済んで、中山は自分の画面に戻った。

抑揚がないのは不誠実だからではなく、抑揚をつける理由を感じていないからだと、中山はそのうち分かるようになった。

◇

数字そのものは悪くない。残高は増えている。増え方が、計画より緩んでいる。

「粘着性の分析も出しました」

早瀬が次の紙を回した。

平均滞留日数。BaaS経由の口座の中央値は、三百四十日を超えている。銀行の一般口座より長い。開設から一年以内の解約率は、四パーセントを切っている。

「置いた金が動かないという意味では、いちばん良い預金です」

早瀬は言った。

「ただ、原価は毎年かかります」

「原価というのは」

中山は聞いた。知らないから聞いたのではない。この場で言葉にしておいたほうがいい、と思ったからである。

「口座から出た利益を、全部、提携先にお渡ししているので」

「全部」

「運用に回した分の利ざやも、決済のたびの手数料も、いったん口座に生まれたものは、提携先の取り分です。うちが受け取るのは、システムの事務費だけです。定額で、口座の数に連動するだけです」

「渡した分は、向こうで何になっている」

「特典です。ラウンジ、イベントの先行枠、年間パス、ホテルの朝食」

「それは、向こうの原価でいくらだ」

早瀬は、少し黙った。

「……ほとんど掛かっていないと思います。空いている席と、余った枠と、ビュッフェの一皿なので。もともと持っているものを動かしているだけです」

「うちが渡した分は」

「そのまま出ていきます」

「では、集めた預金に対して、うちが渡している利益は、金利に直すと何パーセントになる」

「三枚目に出しました」

紙の三枚目に、提携先ごとの率が並んでいた。

〇・七から一・八パーセントである。

「金利で言うと、いちばん高いところで一・八ということですね」

誰かが言った。

「はい」

「それは、定期預金のキャンペーンより、だいぶ高いです」

「高いです」

会議室が、少し静かになった。

この会社の預金は、粘着している。

粘着しているのは、金利ではなく、特典によってである。特典は、金利と違って、外から見えない。決算書には利息としては出てこず、営業経費として出る。だから「うちは金利競争をしていない」と言える。

言えるだけで、渡している。

そして、渡すのをやめれば剥がれる。

「十七社を、二つに分けられますか」

中山が言った。

「二つ、ですか」

「特典で人を集めている口座と、そうでない口座」

早瀬は、紙を最初までめくり返して、そこで止まった。

「……分け方が分かりません」

「鉄道の口座は、何で人を集めている」

「集めていないです。定期の区間を外れた分の精算と、当日の座席の予約が、アプリの中で終わるだけなので」

「電力は」

「検針の数字が、そのまま請求になります。毎月、金額が動きます」

「食品スーパーは」

「掛けで買った分が、月末にまとまります。家族の人数だけ、明細が並びます」

「その三社に、特典は出しているか」

「……出していないです」

「では、分けられる」

早瀬は、何か言いかけて、やめた。反論をやめたのではなく、確かめる前に言うのをやめたのだと中山が気づいたのは、あとになってからである。

「滞留日数を、その二つで出してください」

会議の後半で、地域インフラとの提携の話が出た。

水道、ガス、交通、公共料金。生活の支払いがアプリの上に乗れば、そこにある口座は生活口座になる。生活口座は、特典を払わなくても動かない。

払わずに貼り付く預金。

理屈としては、全員が同意していた。

ただし、と黒木恵理が言った。

事業統括。四十代。この会社では、稟議を上げる側ではなく、落とす側にいる。

「自治体からは、システム事務費は取れません」

黒木は、まずそこを確認した。

「継続的な事務費を一社随意で受け取るには、委託契約か、それに準じる手続がいります。毎年もらい続ける組み方は、まず通らない。だから、これは提携先の利益を吐き出す形にはできません。ひなた銀行が費用を持って、預金の利ざやだけで回収する、プロパーの預金業務としてやるしかないんです」

「去年の三件で、実費がどれだけ出たか、もう一度みんなで見ましょうか」

数字が出た。中核市が二件、政令市が一件。どれも黒字にはなっている。ただし内訳を開くと、システムの実装費より、そこに乗っている人件費のほうが大きい。要件のすり合わせ、条例と規則の確認、既存の収納代行事業者との調整、庁内の情報システム部門との接続試験。担当者が現地に何度も行く。三件とも、行った回数は二十回を超えている。

「これは、市の数が増えても、一件あたりが減らないんです」

黒木は言った。

「同じことを、毎回、頭から全部やるので」

「規模の閾値は、どのあたりですか」

誰かが聞いた。

「いまの作り方なら、人口五十万。切り上げて政令市クラスまで、というのが今年の結論です。それ以下は、案件として持ってこられても、私は落とします」

黒木は、それを冷たく言ったわけではなかった。この会社で最も丁寧に説明をする人である。丁寧に説明したうえで、落とす。

会議が終わって、中山は自分の席に戻った。

◇

その日の午後、早瀬が席に来た。

「分けました。特典のほうが三百二十一日、支払いが乗っているほうが四百十日です。解約率も、後のほうが低いです」

「早いな」

「もとの表に、提携先の区分が最初から入っていたので」

入っていたことに、中山は五年間気づいていなかった。

「支払いが乗っているのは、五社ありました。鉄道と電力とスーパーと、あと二社です。それで、一つだけ勝手に足しました」

早瀬は、四枚目の紙を出した。その五社について、渡している利益の率が並んでいる。〇・七から〇・九である。特典型より、はっきり低い。

「特典を出していない分だけ、安く貼り付いているように見えます」

「そう見えるな」

「見えるだけかもしれません。五社しかないので」

聞いていないものを持ってきたのは、この日が初めてだった。持ってきたうえで、自分で疑っている。

窓の外に、東京タワーの脚が見えている。

湊原市の人口は、直近の推計で三万八千である。

2 二十センチ

十日ほど、中山はその案件を持っていなかった。

持っていなかったというのは、誰にも話さず、資料も作らなかったという意味である。頭の中にはあった。頭の中にあるものは、稟議にならないので、社内的には存在しない。

八月の終わりの、夜だった。

彼は、去年の中核市の案件のソースを開いていた。市の公式アプリの中に、ひなた銀行の口座と決済が埋まっている構造で、外から見れば市のアプリ、中身は銀行である。

その中身を、上から順に読んでいった。

読んでいくうちに、あることに気づいた。

三件のコードは、九割五分まで同じである。違うのは、ロゴの画像と、画面に出る文言と、収納の宛先を示すコードと、料金の科目の一覧と、色だった。

それは、彼にとって発見ではなかった。誰でも知っていた。前の三件でも、実装の担当者は同じことを言っていた。ほとんど同じですよ、と。

同じなのに毎回作り直していたのは、毎回、市ごとに要件を聞き取り、要件に合わせて作る、という手順を踏んでいたからである。手順が先にあって、コードが後にあった。だから、同じコードを毎回、別の名前で書いていた。

中山がやったのは、順番を逆にすることだった。

コードを一本にする。市ごとに変えてよい部分を、そこから全部追い出して、一枚の設定ファイルに集める。ロゴのファイル名、表示文言、料金科目、収納機関コード、色。それだけが並んだ、二百行足らずのファイルである。

そのファイルを一枚書けば、新しい市が立ち上がる。

彼はその夜、湊原市の分を、試しに一枚書いた。上下水道の科目だけ。ロゴは市のサイトから取った。三十分で書けた。翌朝、手元の検証環境で動いた。

動いたので、彼は次に、その効果を試算した。

そして、そこで止まった。

◇

技術的には、何の問題もなかった。検針の数字をそのまま請求に変える仕組みは、電力会社向けに作ったものがそのまま使える。

湊原市の上下水道料金の、口座振替の利用率を調べた。

市の公営企業会計の決算資料に、収納方法別の内訳が載っている。

口座振替、七十八・四パーセント。
納入通知書による窓口・コンビニ払い、十九・二パーセント。
その他、二・四パーセント。

八割が、口座振替である。

そして、その振替の指定口座は、圧倒的に潮見銀行である。市の指定金融機関だからではない。この町の人が、その銀行に口座を持っているからである。

中山は、その数字をしばらく見ていた。

水道をアプリに乗せても、何も動かない。

動くのは、残りの十九・二パーセントだけである。しかもその十九・二パーセントは、コンビニか窓口で現金を出している層である。彼らがアプリを使うようになったところで、金額は二か月に一度、六千円前後。年に三万六千円である。

そして、口座振替をしている八割の住民に、この銀行の口座へ振替先を変えてもらうことは、原理的にできない。

理由は、手続だからである。

振替の変更には、用紙がいる。用紙を取り寄せ、金融機関名と支店名と口座番号を書き、届出印を押し、封筒に入れて出す。処理には一か月かかる。

これを、誰もやらない。

やらない理由は、面倒だからではない。面倒だと感じる場面が、生活の中に一度も来ないからである。口座振替は、何もしなくても引き落とされる。何もしなくてよいものについて、人は何もしない。

梶原が言ったとおりだった。

うちの町の人は、口座なんか変えませんよ。

中山は、その晩、試算表を閉じた。

◇

九月の第二週に、彼は市の企画政策課の担当者に電話をかけた。

聞いたのは、水道のことではない。

市の窓口で、住民が年に何回、金を払うか。その一覧が欲しい、と言った。

三日後にメールで来た表には、二十七の項目が並んでいた。

住民票の写しの交付手数料。印鑑登録証明書。所得証明。し尿処理手数料。粗大ごみ処理券。保育料。給食費。市営住宅の家賃。

そのどれも、頻度が低かった。年に一度か二度である。

いちばん下から三番目に、その項目があった。

市立湊原病院 外来診療費(患者一部負担金)

年間の取扱件数、十一万四千件。

中山は、その数字を二度見た。

人口三万八千の市で、年に十一万四千件である。

一人あたり、三件。ただし、そういう分布ではない。市立病院の外来患者の年齢構成の資料を取り寄せると、七十五歳以上が四十四パーセントを占めていた。

通っている人は、月に何度も来る。

そして、その全員が、そのたびに窓口で金を払う。

現金で、である。

市立病院の会計窓口には、平日の午前中、常に列ができている。中山は、その待ち時間の統計まで取り寄せた。市が二年前にやった市民アンケートで、市立病院への不満の第一位が「会計の待ち時間」だった。

彼は、その資料を印刷しなかった。印刷する前に、次のことを考えていた。

診療費を、口座振替にできないか。

できる。市立病院は市の公営企業であり、患者一部負担金の徴収方法は市が定める。口座振替は、多くの公立病院で導入されている。

問題は、同じところにある。

振替の申込には、用紙がいる。

用紙を書き、届出印を押す。しかも、口座を持っていない銀行を指定することはできない。

中山は、そこで一度、止まった。

止まって、その日の夜、市立病院のサイトの受付案内の頁を開いた。

写真が一枚、載っていた。

受付カウンターに、機械が一台置いてある。

マイナ保険証の、顔認証付きカードリーダーである。

いま、どこの医療機関にも置いてある。患者は、受付でこの機械にカードを置く。カードのICチップが読まれ、顔認証をして、保険資格が確認される。三秒である。

その三秒を、市立湊原病院の外来患者は、年に十一万四千回やっている。

中山は、その写真を、五分ほど見ていた。

◇

この読み取り機は、いじれない。

オンライン資格確認の端末は、用途が決まっている。仕様も、接続先も、置いてよいソフトウェアも決まっている。ここに銀行の機能を載せることは、制度上できない。

やろうとも思わなかった。

彼が考えたのは、別のことだった。

同じカードを、もう一度、隣に置いてもらう。

マイナンバーカードのICチップには、公的個人認証サービスの電子証明書が入っている。これを読み取って暗証番号を照合すれば、本人確認が完結する。犯罪収益移転防止法上の確認方法として、認められている方法である。運転免許証を撮り、顔を撮り、四営業日待つ必要はない。

その場で終わる。

必要なのは、カードを読む機械が一台あることだけである。

中山は、翌週、市に一台の端末の設置を提案した。

置く場所は、市立病院の会計窓口の横。読み取り機から、二十センチ離れたところである。

画面に出るのは、二つのボタンだけにした。

診療費のお支払いを、口座振替にする

やめる

上のボタンを押すと、カードを置いてください、と出る。置く。暗証番号を四桁入れる。

口座が開く。

同時に、診療費の口座振替の申込が、その口座を指定した形で完了する。

三秒である。

用紙はない。届出印もいらない。次に来たとき、患者は会計の列に並ばなくてよい。

中山は、この二つを一枚の絵にして、市の担当者に送った。

返事は、その日のうちに来た。

院長にも見せました。

会計の待ち時間の件は、病院側が長年困っていた案件です。

ぜひ進めたい、とのことです。

◇

十月の初めに、中山は試算表を作り直した。

対象は、水道ではない。

市立病院の外来患者と、市内の四つの診療所である。年間の取扱件数、あわせて十九万件。実人数で、およそ一万四千人。

そのうち、七十五歳以上が四十四パーセント。

この町で、いちばん頻繁に金を払っている人たちである。

そして、この町で、いちばん銀行に足を運んでいる人たちでもある。

初期の実装費は、テンプレートを使えば、前三件の八分の一以下になる。端末は市販品で、一台十四万円。設置は六台。現地対応は、稼働までに四回。

それでも、単体では合わない。

彼は、合わせようとしなかった。

合わせようとするかわりに、稟議の枠組みのほうを書き換えた。

この案件を、湊原市への提供として書かない。縮小地域におけるプラットフォームの実証として書く。一件目で作り、二件目で検証し、三件目からは営業が売る。一件目の赤字は、開発費として扱う。

書きながら、中山はその論理を、半分しか信じていなかった。

半分は本当だった。テンプレートは本当に価値がある。もう半分は、盆の座敷である。

3 署名欄

稟議書の書式は、この会社では一枚に収まっている。

上から順に、件名、区分、起案部署、起案者、金額、期間、目的、実施内容、収益計画、想定するリスクと対応、代替案の検討、関連する法令および業規制上の整理、そして最後に署名欄がある。

中山は、目的の欄をいちばん長く書いた。

目的

人口五万人未満の地方公共団体を対象とする、生活決済プラットフォームの提供可能性を実証する。

当行の既存の自治体連携案件は、個別要件への適合を前提とした都度開発であり、一件あたりの変動費が規模に依存しない。

このため対象は人口五十万人規模以上に限定されてきた。

本件は、提供する機能を固定し、地方公共団体ごとの差異を設定ファイル一件に閉じ込める方式により、当該変動費を実装費用から分離することを企図する。

あわせて、口座開設および口座振替の申込を、公的個人認証サービスを用いて医療機関の窓口において完結させる。

従来、当行の口座開設は本人確認書類の撮影および審査を要し、完了までに四営業日を要していたが、本方式では窓口における所要時間は三秒である。

対象とする収納は、上下水道料金ではなく、市立病院及び市内医療機関における患者一部負担金とする。

上下水道料金は口座振替率が七十八・四パーセントに達しており、当該振替の指定先は既存の地域金融機関に集中している。

当該分野において当行が獲得し得る取扱いは限定的である。

実証の対象は湊原市であるが、実証の目的は湊原市ではない。

最後の一行を、中山は三度書き直した。

三度目に書いたものが、いちばん短く、いちばん本当ではなかった。彼はそれを残した。

実施内容と収益計画の欄は、目的の欄より短く書いた。書くことが、もともと少なかった。

実施内容

患者一部負担金の請求は、受診の都度その場では確定せず、事後に確定した金額を口座から引き落とす方式を要する。

当該処理は、食品スーパー向けBaaSにおいて稼働中の、掛売り及び家族単位の合算請求を確定させる機能を転用する。

新規の機能開発は要さない。

収益計画

提携先より継続的なシステム事務費を収受し、口座に係る収益を提携先へ還元する方式(当行BaaS事業における通例)は、地方公共団体を相手方とする場合には採用できない。

継続的な事務費の収受には委託契約上の手続を要し、一社随意による収受は想定し難いためである。

本件は、当行が実装及び運用の費用を負担し、口座に係る資金運用収益のみをもって回収する構成とする。

当該費用は、設定ファイル一件の追加をもって足りる水準まで低減されており、対象人口の規模にかかわらず一定である。

本件における採算は、預金の集積量にのみ依存する。

法令の欄は、法務と一緒に二週間かけて埋めた。

論点は三つあった。

一つ目。窓口での本人確認である。マイナンバーカードの署名用電子証明書を読み取り、暗証番号を照合する方法は、犯罪収益移転防止法上の本人確認方法として認められている。この点は、争いがない。

二つ目。設置場所である。オンライン資格確認の端末には、一切手を触れない。当行が置くのは、別筐体の、別の端末である。同じカードを、二十センチ離れた機械にもう一度置いてもらう。

法務の担当者は、この点について、絵を三回描き直させた。

「並べて置くと、患者さんは一つの手続だと思いますよ」

「思うと思います」

「思われるのは構いませんが、書面と画面では分けてください。分けてあれば、混同したのは当方の設計ではありません」

三つ目。患者一部負担金の収納である。これは湊原市病院事業会計の歳入であり、公金にあたる。口座振替による収納は、市が指定金融機関または収納代理金融機関を通じて行う。アプリからの都度払いについては、地方自治法にもとづき市が指定する納付受託者を経由して、市の会計に入る。指定を受けるのは決済の事業者であり、ひなた銀行はその上流に口座と資金移動を提供する。

つまり、公金を扱う立場に立つのは、当行ではない。

法務の担当者は、そこを二度確認した。

「立たないほうがいいので」

「なぜですか」

「立つと、指定金融機関の話に触れます。触ると、話が長くなります」

湊原市の指定金融機関は潮見銀行である。四十年、変わっていない。指定金融機関は、市の公金の収納と支払を総括して取り扱う。ひなた銀行は、そこには一切、手を触れない。触れる必要もなかった。

中山が作ったのは、指定の外側に立つ方式だった。 そう書いたわけではない。そう書く言葉を、このとき彼は持っていなかった。

十一月の第二週、審査会に諮られた。

黒木恵理は、資料を最後まで読んでから、二つ聞いた。

「テンプレートの汎用性は、二件目でしか証明できませんね」

「はい」

「では条件を付けます。二年で、横展開の実証データを出すこと。二年で二件目が立たなければ、これは湊原市への寄付です」

「承知しました」

「もう一つ。中山さんの出身地ですね」

「はい」

「それは書かないでいいです。書くと、審査が別のものになるので」

黒木は、そう言って通した。

決裁が下りた稟議書には、署名欄がある。

紙で回す会社ではないので、署名といっても、電子上の欄に名前が並ぶだけである。起案者、部長、統括、決裁者。それぞれの欄に、氏名と日付が入る。

起案者の欄は、氏名を手で入力する仕様になっていた。姓だけでも通る。多くの社員は姓だけ入れる。

中山は、姓と名を両方入れた。中山和成。四文字が、欄の幅いっぱいに入った。

そのあと、彼はその画面を一度、印刷用の表示に切り替えて見た。切り替えて見る必要はなかった。

4 協定

デジタル支援に関する連携協定の締結式は、翌年の一月にあった。

湊原市役所の三階、大会議室。長机に白い布をかけ、その上に協定書を二部並べる。市章の入った看板が背景に置かれ、地元紙とケーブルテレビが入る。

出席したのは、湊原市長、市立湊原病院の院長、湊原商工会議所会頭、湊原市上下水道公社の取締役、そしてひなた銀行の常務執行役員である。

協定書は、A4で三枚だった。

湊原市とひなた銀行株式会社とのデジタル技術を活用した地域活性化に関する連携協定書

湊原市(以下「甲」という。)とひなた銀行株式会社(以下「乙」という。)は、デジタル技術の活用により、市民の利便性の向上及び地域経済の活性化に寄与することを目的として、次のとおり連携協定を締結する。

第1条(連携事項) 甲及び乙は、次に掲げる事項について連携し、協力する。

(1) 行政手続及び公共料金の支払に係る利便性の向上に関すること

(2) 医療機関その他の窓口における手続の簡素化に関すること

(3) キャッシュレス決済の普及に関すること

(4) 地域経済の活性化及び事業者支援に関すること

(5) その他、甲及び乙が必要と認める事項

第2条(役割分担) 前条に掲げる事項に係る具体的な取組の内容、実施方法、費用の負担その他必要な事項については、その都度、甲及び乙が協議して定める。

第3条(経費の負担) この協定に基づく取組に要する経費は、前条の協議により定めるところによる。

第4条(有効期間) この協定の有効期間は、締結の日から起算して一年間とする。

ただし、期間満了の一月前までに甲又は乙から書面による申出がないときは、更に一年間延長するものとし、以後も同様とする。

第5条(解除) 甲又は乙は、相手方に書面により通知することにより、この協定を解除することができる。

読んで一分もかからない。

自治体と民間企業が結ぶ包括的な連携協定は、この形式で全国に何千件もある。金額の記載がなく、義務の記載がなく、罰則の記載がない。第2条に「その都度、協議して定める」と書いてあるのは、この協定書自体が何も定めていないという意味である。

だから、誰も反対しない。

反対する対象が、この紙の上には書かれていない。

中山は、末席にいた。式次第の出席者名簿では、常務執行役員の下に、部署名と姓だけが載っている。写真撮影のとき、彼はカメラの画角の外に立っていた。それは謙譲ではなく、席次の結果である。

翌日の地元紙に、三段見出しの記事が出た。

市とネット銀行が協定 病院の会計、待たずに

湊原市は十七日、ひなた銀行(東京)とデジタル技術を活用した地域活性化に関する連携協定を結んだ。

市立湊原病院の外来診療費を口座振替にできるようにし、会計窓口の待ち時間を短縮する。

市公式アプリからの公共料金の支払やキャッシュレス決済の普及でも協力する。

梶原孝史市長は「市民の利便性を高め、若い世代にも住みやすいまちにしたい」と述べた。

運用開始は今年秋を予定している。

記事は十四行だった。同じ面の下に、市立病院の眼科の診療日変更の告知が出ていた。

5 附帯決議

湊原市上下水道公社の取締役会は、二月の第三金曜だった。

議題の第三号が、収納チャネルの追加に関する件である。公社にとっては、市公式アプリからの水道料金の支払を受け入れるかどうか、というだけの議案である。

公社は第三セクターで、市が過半を出資し、残りを地元の企業が持っている。取締役は七人。うち二人が市の部長級、一人が商工会議所から、一人が潮見銀行からの出向である。

潮見銀行から来ているのは、富永孝という取締役だった。五十代。出向して二年になる。

議事録に残る発言は、次の一行である。

富永取締役より、住民の利便性の向上に資するものであり、また当該収納は既存の口座振替に代わるものではなく、これに追加されるものであることから、公社及び関係金融機関の事務負担に変更を生じさせないとして、賛成する旨の発言があった。

議案は全員一致で可決された。

この判断は、正しかった。

水道料金の口座振替は、そのあと三年間、一件も減っていない。

三月の市議会で、上下水道事業会計と病院事業会計の予算が審議された。それぞれに附帯決議が付いた。

上下水道事業会計。

一、収納チャネルの多様化を図り、市民の利便性の向上に努めること。

五項目あり、これは四番目だった。一番目は老朽管の更新の前倒しについて、二番目は料金体系の見直しについて、三番目は災害時の給水体制について、五番目は職員の技術継承についてである。

病院事業会計。

一、患者の利便性の向上を図るため、診療費の納付方法の多様化に努めること。

六項目あり、これは五番目だった。一番目から四番目までは、常勤医の確保、看護師の処遇、救急の受入体制、経営改善の四つである。六番目は、院内の売店の営業時間についてである。

新聞は、常勤医の確保だけを報じた。

中山は、この二つの議事録を、稼働から四年半後の四月に読み返すことになる。読み返したとき、彼は自分が探しているものが何なのか、正確には分かっていなかった。


第二部 剥がれる

6 三秒

十月一日に稼働した。

端末は、六台である。市立湊原病院の会計窓口に二台、市内の診療所に各一台。

高さ百二十センチの筐体で、上面にカードを置く皿があり、正面に十インチの画面がある。色は白。市の担当者が、病院の内装に合わせて選んだ。ひなた銀行のロゴは、画面の下端に、九ポイントで入っている。

オンライン資格確認の読み取り機からは、二十センチ離して据えた。

中山は、稼働の日、社内にいた。

現地には行かなかった。行く必要のない設計にしたのが自分だったので、行けば矛盾する。

日次のダッシュボードを開いた。項目は四つ。累計の口座開設数、当日の決済件数、当日の決済金額、そして残高の合計。

一日目、開設は八十七件だった。

初日の外来患者数は、四百十二人である。二十一パーセントである。

二日目、百四件。三日目、九十六件。

一週間で五百二十を超えた。

計画では、初年度末で三千件を見込んでいた。二週間で千百を通り越した。

◇

理由は、あとから病院の側の資料で分かった。

十月の第二週に、病院の医事課が「窓口混雑状況調査」の速報を市に出している。中山は、市の担当者からその写しをもらった。

会計窓口の平均待ち時間が、十四分から九分になっている。

そして、その資料の末尾に、医事課の職員が書いた一段落があった。

なお、当該端末の利用にあたり、患者から職員に対する操作の質問はほとんど発生していない。

資格確認の端末で既にカードを扱っているため、同一の動作として受け止められているものと考えられる。

中山は、その二行を、二度読んだ。

同一の動作として受け止められている。

そのとおりだった。彼が設計したのは、そうなるように置いた二十センチである。

患者は、受付でカードを置く。会計で、もう一度置く。二度目の機械は違う機械だが、置く動作は同じである。四桁の暗証番号を入れる。これも、資格確認のときに使う番号ではないが、四桁であることは同じである。

三秒で終わる。

終わったあと、その人は銀行の口座を一つ持っている。

◇

十一月に、開設者の年齢分布が出た。

七十五歳以上が、四十七パーセントだった。

早瀬が、その分布を持ってきたとき、彼女は最初、集計を間違えたと思ったと言った。

「うちの口座の年齢分布、いままで六十五歳以上は八パーセントなんです。BaaSの提携先が、どこも若い人向けなので」

「そうだね」

「これ、逆になってます」

「うん」

「なんでですか」

中山は、答えた。

「病院に来る人が、そういう分布だからだよ」

「それだけですか」

「それだけだと思う」

彼は、そのとき、自分の言ったことの意味を、正確には測っていなかった。

ひなた銀行が五年かけて一度も届かなかった層に、二週間で届いている。

届いた理由は、商品でも、金利でも、広告でもない。

その人たちが月に何度も来る場所に、機械を置いたからである。

◇

残高の合計だけが、伸びなかった。

口座は増える。だが、開いただけの口座には、金が入っていない。

診療費の口座振替は、翌月の二十七日に一度目の引落しがある。引落しの前に、その口座に金を入れておく必要がある。

十一月の二十七日、引落しの不能が、二百十四件出た。

中山は、その数字を見て、初めて背中が冷えた。

不能が出れば、市の側に督促の事務が発生する。督促の事務が発生すれば、この仕組みは市にとって負担になる。負担になれば、続かない。

彼は、その週のうちに、二つ手を打った。

一つ。引落し日の三日前に、通知を出す。金額と日付を入れる。

二つ。端末の画面に、三つ目のボタンを足した。

口座にお金を入れる

押すと、画面にQRコードが出る。コンビニの現金入金の払込票である。印字して渡す。病院の隣にコンビニがある。

十二月の不能は、四十一件になった。

一月は、十八件である。

◇

十二月の月次で、中山は初めて数字を報告した。

「開設、四千三百。市の六十五歳以上人口に対して、二十九パーセント」

黒木は、頷いた。

「残高は」

「乗り始めています。ただ、まだ引落しの分だけです」

「引落しの分だけ、というのは」

「引落しの日の前に入れて、引き落とされて、また空になります。滞留していません」

「そうでしょうね。乗るとしたら、何が乗ったときですか」

「決済の種類が増えたときです」

「増える予定は」

「市から、交通の話が来ています」

7 バス

湊原市のオンデマンドバスは、四年前に始まっている。

路線バスが二系統まで減り、そのうち一系統の一日の乗車が十人を割ったところで、市が切り替えた。予約制で、決まったバス停のあいだを、需要のあるときだけ走る。

予約は電話でも受ける。実際、予約の八割は電話である。運行の事業者に電話をすると、事務所の女性が出て、時間と乗り場を紙に書く。

料金は現金で、乗るときに運転手に払う。二百円。両替機はない。

これを、アプリに乗せる話が来た。市の企画政策課からである。

中山は、この案件について、社内で一度も説明に苦しまなかった。予約と乗り越し精算の仕組みは、鉄道事業者向けのBaaSで、定期区間を外れた分の運賃精算としてすでに動いている。バスと電車で、運行する会社が違うだけである。テンプレートの設定ファイルに、料金科目を一行足せば済んだ。二百円の定額で、収納の宛先が違うだけである。実装は三週間だった。

三月から始まった。

四月の数字が出たとき、中山は自分の予想を外していたことに気づいた。

オンデマンドバスの利用者の年齢分布は、六十五歳以上が七割である。彼は、その七割はアプリを使わないと想定していた。想定していたので、計画上の利用率を一割に置いていた。

四月の実績は、三割を超えた。

「なぜですか」

会議で聞かれて、中山は答えられなかった。答えを持って帰る、と言った。

持って帰った答えは、二つあった。

一つは、予約である。バスの予約は、電話だと事務所の営業時間内にしかできない。事務所は平日の九時から五時までしか開いていない。アプリなら、夜でも日曜でもできる。翌日の朝いちばんに病院へ行きたい人が、前の晩に予約できる。

もう一つは、支払だった。

二百円を、現金で、運転手に、乗るときに払う。両替機がない。だから乗る前に小銭を用意する。用意し忘れると、乗れないことがある。

その二つの不便が、同時に消えた。

消えたので、使われた。

アプリを使えなかったのではなく、アプリを使う理由がなかっただけである。

そして、この案件で開いた口座の年齢分布は、病院のそれとも違っていた。

病院の端末で口座を作るのは、病院に通っている人である。バスで口座を作るのは、病院には通っていないが、駅とスーパーと郵便局のあいだを動いている人だった。六十五歳以上のうち、通院歴のない層である。

二つを足すと、この町の高齢者のほとんどが入る。

市の窓口に、使い方を教えてほしいという相談が来るようになり、市が公民館で講習会を開いた。講習会には、市の職員と、ひなた銀行の名前の入った資料が使われた。

その資料は、テンプレートに同梱されているものだった。中山が作ったのではない。前の中核市の案件で作ったものを、ロゴだけ差し替えて出した。

8 みなペイ

湊原商工会議所が「みなペイ」を始めたのは、その年の九月である。

商工会議所が主体となり、市が補助を出す。加盟店は、当初二百十四店。市内の小売と飲食のおおむね六割である。商工会議所の会員でない店も入れた。

市内に二社ある食品スーパーが、どちらも初日から入った。この二社で、市内の食料品の売上の七割を占める。二社が入ると決まってから、商店街の残りは早かった。

チャージ式ではない。店で読み取ったその場で、「みなとはら」アプリの中の口座から金が引かれ、加盟店の口座に入る。前払で預かる残高というものが、どこにも生まれない。

決済の事業者は、ひなた銀行である。商工会議所が持っているのは、加盟店の網と、看板と、補助の窓口だけである。

この座組を、中山が決断した場面はない。

先に、みなペイの側から話が来た。理由は単純である。支払の手段を用意しなければならず、クレジットカードだけにすると、高齢層が使えない。前払のチャージ式にすると、今度は預かった金を管理する体制が要る。商工会議所にそれはない。銀行が決済の側に回れば、どちらも消える。金は最初から銀行の中にあり、動くのは口座から口座への振替だけである。

地域の全銀行に頼めば、接続の開発が銀行の数だけ発生する。すでにアプリの中にある口座なら、接続はもう終わっている。

工数を数えると、七日だった。

七日なので、稟議は要らなかった。既存の提携の範囲内という整理になった。整理をしたのは法務であって、中山ではない。

加盟店手数料は、一・五パーセントに設定された。

クレジットカードだと、小規模な飲食店で三パーセント台の後半、店によっては四パーセントを超える。二・五ポイント下がる。

商工会議所が加盟店を回ったとき、いちばん効いたのは、そこだった。

「導入のときに、補助が出るからではないんですよ」

会議所の担当者が、中山との電話でそう言った。

「補助は一回きりでしょう。手数料が安いのは、毎月ずっとなんです。それを言うと、店主さんの顔が変わります」

原価が安いから、この水準を恒久的に維持できる。維持できる理由は、専用のものを作っていないからである。作っていないものには、償却がない。

十月の連休に、みなペイのポイント還元の企画があった。市の補助で、期間中は二割還元である。

その週の決済件数は、通常の週の九倍になった。

9 通知

早瀬が、通知文言のA/Bテストの結果を持ってきた。

十一月である。

引落しの日が近づいたときに、アプリが出す通知。それまでは一種類しかなかった。

診療費のお引落しが近づいています。

これを二案に分け、乱数で振り分けた。

A: 診療費のお引落しが近づいています。

残高をご確認ください。

B: 診療費 4,180円 のお引落しは 12月27日 です。

現在の残高は 1,200円 です。

三週間回した。通知から引落し日までに残高が足りる状態になった率が、Aで四十一パーセント、Bで五十八パーセントだった。

「Bを採用します」

早瀬は言った。

「有意ですか」

「はい。あと、Bのほうが、通知を切る人が少ないです」

「切る」

「通知をオフにする人です。Aは二・二パーセント、Bは〇・六パーセント。金額が書いてあるほうを、人は残します」

中山は、その資料を二分ほど見ていた。

彼は、Bのほうが良いと思う理由を、いくつも言葉にできた。金額が入ることで、確認の手間が省ける。日付が入ることで、行動の期限がはっきりする。

そのどれも、この決定には使われていない。

決めたのは、四十一と五十八という二つの数字である。

資料の最後に、「所感」の欄がある。この会社の分析報告書の書式には、必ずこの欄がついている。数字の外のことを書いてよい唯一の欄で、たいていは空欄か、「特になし」である。早瀬の報告書も、四月からずっと「特になし」だった。

十一月の報告書には、そこが埋まっていた。

【所感】

Bの文面には、送信時点の残高が入る。

テスト期間中、残高が三桁の利用者に対してもBは送信されている。

当該利用者の画面には、引き落とされる金額と、それに足りない残高とが、同じ一行に並んで表示されたことになる。

通知を切った〇・六パーセントの内訳を確認したところ、残高が下位一割の層に偏っていた。

切ったのは、この層である。

数字の上ではBが優れており、Bを採用すべきと考える。

以上は所感である。

中山は、その欄を二度読んだ。

書いても結論は変わらない。書かなければ、書かずに済んだ。それでも彼女は、Bを採用すると書いた上の五行に、Bを採用しない理由になりうることだけを書いている。

「所感、読んだ」

「はい」

「Bでいく」

「はい。それでいいと思います」

彼女の声は、朝の数字を読み上げるときと同じだった。

「文言は、あと何案くらい試せますか」

「回せば回せます。ただ、伸びしろは、たぶんもうありません。次に効くのは文言ではなくて、通知の時刻だと思います」

「時刻」

「朝の七時台と、夜の二十時台で、差が出ています」

配属された年には、聞かれたことに答えていた。いまは、次に何を聞くべきかを、先に置いてくる。中山は、それを口に出して褒めなかった。褒めると、褒められた方向にだけ伸びる。

ただ、この案件で自分が作ったものの中に、設定ファイルのほかにもう一つあるとすれば、たぶんこれだった。

早瀬は、湊原市に一度も行っていない。行く予定もない。

彼女は、湊原市という文字列を、設定ファイルの三行目で見ている。

10 乗る

二年目の一月に、残高が乗り始めた。

きっかけを、中山は特定できなかった。特定できなかったので、報告のときには「複数要因」と書いた。

数字の形は、はっきりしていた。それまで、口座の残高は決済のたびに上下する鋸の形をしていた。一月から、その鋸の底が上がった。

底が上がるというのは、使い切らずに残す人が出た、という意味である。

理由はおそらく、みなペイである。診療費の引落しは月に一度だが、みなペイは毎日である。しかも引かれるのは口座から直接なので、口座が空だと店で払えない。毎日使うものの手前に、金を置いておくようになる。

一人あたりの平均残高が、二万円を超えた。

二万円というのは、生活口座としてはむしろ小さい。だが、置き場としてしか使われていない口座の平均は、三千円である。

三月の期末の数字が出た。

湊原市の実証案件は、預金残高で計画の一・八倍、決済件数で二・三倍だった。

黒木が、審査会のあとで、中山を廊下で呼び止めた。

「数字は見ました」

「はい」

「一件目としては、これ以上のものはないです」

「ありがとうございます」

「ただ、条件は覚えていますね」

「二件目です」

「そうです。テンプレートの汎用性は、湊原市では証明できません。どれだけ数字が出ても、それは湊原市が良かったという証拠にしかならない」

黒木は、そう言って行った。

中山は、その日の夕方、営業統括に二件目の候補のリストをもらいに行った。

もらったリストには、二十三の自治体が並んでいた。人口三万から七万。市が設置する病院または診療所があり、地域ペイが既にあるか、商工会議所が動いている市町村。

湊原市は、そのリストの条件に、たまたま全部当てはまっていた。

たまたま全部当てはまる市が、二十三ある。

11 十五日

四月の月次の資料に、早瀬が新しい図を一枚足した。

入金の日別の分布である。作った理由は、通知の時刻の最適化を詰めるためだった。頼んだ者はいない。一年前なら、この図は資料の中に存在しなかった。

中山が図の出どころを知ったのは、翌朝、部のチャンネルを遡ったときである。前の晩のログが、そのまま残っていた。

早瀬 23:41 通知の時刻の件、時間帯で割ってもきれいに出ないので、曜日で割ってみます

早瀬 23:58 曜日ではないです。日でした

早瀬 00:12 二十五日と二十六日に山があります。これは給与だと思います

早瀬 00:20 三本目があります。二十五日より高いです

早瀬 00:21 これが何なのか分かりません

早瀬 00:23 月別に並べると、立つ月と立たない月があります

早瀬 00:47 分かりました

早瀬 01:15 図にしました。明日の月次に足していいですか

早瀬 01:16 すみません、もう足しました

誰も返していない。二十三時四十一分から一時十六分まで、宛先のないチャンネルで、彼女は一人で、自分の見立てを三度訂正している。

中山がこれを読んだのは、朝の八時である。返信は、「いいです」の三文字だった。

〇時四十七分から一時十五分までの二十八分について、彼は何も聞かなかった。

図には、山が三本あった。

一本目は、二十五日である。二本目は、二十六日。

二十五日は、この地域の主だった事業所の給与支給日である。市役所、市立病院、水産加工の大手二社、それにいくつかの工場。

三本目が、いちばん高かった。

偶数月の十五日である。

「年金です」

早瀬が言った。

「二か月に一度なので、月別に見ると隔月で立ちます。金額も大きいです。中央値で、十一万円が移っています」

中山は、その山を見ていた。

年金の受取口座が、この口座に変わっているわけではない。年金の受取金融機関を変えるには、年金事務所に届書を出す必要がある。出した人は、ほとんどいない。

住民がやっているのは、年金が振り込まれた日か、その翌日に、自分の口座から「みなとはら」の口座へ、二か月分の生活費を移すことである。

「移す先は、うちの口座だけですか」

中山は聞いた。

「そのあと、みなペイに流れます。だいたい、半分くらいが、二か月かけて」

「残りの半分は」

「口座に残っています。診療費の引落しと、バスと、あとは残高です」

「残高になっている、ということか」

「はい。この層がいちばん残高を置いています。若い人の三倍くらいです」

移した金の半分が、そのまま置かれている。

置かれている理由は、金利ではない。使う予定がまだ立っていないからである。二か月分の生活費を、二か月かけて使う。使い終わらないうちに、次の十五日が来る。

中山は、その図を見て、良い図だと思った。自分では作らなかった図である。図にしようと思いつかなかった、と言うほうが正確だった。

生活の中に入っている証拠である。入っていなければ、こういう形にはならない。決済のたびに入れる形ではなく、入ってきた日にまとめて移して、そこから使う形になっている。

彼は、その図を、翌週の経営会議の資料にそのまま貼った。

キャプションを、こう書いた。

給与・年金の受取サイクルへの定着が確認できる。

当該口座は、既に家計の主たる支払口座として機能している。

会議で、その図は好評だった。

役員の一人が、こう聞いた。

「この年金の山は、うちの他の提携先にはないですね」

「ありません」

「うちが五年やって取れなかった層です。原価はいくらかかっていますか」

中山は、答えた。

「特典は、付けていません」

◇

この一年半のあいだ、湊原市の統計で減ったものは、一つもない。

給与振込の指定は変わっていない。年金の受取金融機関の指定も変わっていない。

潮見銀行が開示しているのは、全行の個人預金の口座数だけである。その数字は、動いていない。

第三部 自分たちが何なのか

12 〇・六〇

その年の六月十一日、火曜日の十五時に、潮見銀行がプレスリリースを出した。

中山がそれを見たのは、翌朝である。業界のニュースを機械的に集めてくるメールの、下から三番目に入っていた。

普通預金金利の引上げについて

株式会社潮見銀行(本店:湊原市)は、令和×年七月一日より、普通預金金利を次のとおり引き上げますのでお知らせいたします。

現行 改定後
普通預金 年 0.200% 年 0.600%

※ 個人・法人を問わず、対象となるすべての普通預金に適用いたします。

※ 適用にあたり、お客さまのお手続きは必要ありません。

当行は、地域の皆さまからお預かりする預金を地域へ還元する地域金融機関として、金利のある世界においても、お客さまに選ばれる銀行であり続けてまいります。

中山は、その表を二度見た。

〇・六〇。

彼の勤める銀行の普通預金は、〇・四二である。ネット専業でこの水準を出しているのは、業界でも上のほうだった。店舗も、窓口の人も、ATMも、紙の通帳も持っていないから、その分を金利に回せる。それが、この会社が十年言い続けてきた理屈である。

潮見銀行には、店舗が十四ある。ATMがある。窓口の人がいる。紙の通帳がある。

その銀行が、〇・六〇を出した。

中山が最初に感じたのは、驚きではなかった。困惑である。

なぜそんな手を打つのか、分からなかった。

普通預金の金利は、定期預金の金利と、まったく性質が違う。定期預金のキャンペーン金利は、期間を切り、金額に上限を置き、新規の資金にだけ適用できる。効かせたいところにだけ効かせられる。

普通預金は、そういう芸ができない。

引き上げれば、いま銀行に置かれているすべての普通預金に、その日から適用される。三十年前から動かしていない預金にも、明日引き出される予定の預金にも、同じ利息が付く。

つまり、これは新しい預金を取りに行く手ではない。すでに持っている預金の値段を、自分から上げる手である。

中山は、その日の午後、潮見銀行の直近の決算短信を開いた。

読むのは、初めてではない。案件を起こす前に一度、稼働のあとに一度、目を通している。ただしそのときは、地域の与信の状況を見ていた。

今日は、負債の側を見た。

預金の合計は、八千六百億円ある。うち個人の預金が六千八百億円で、その内訳が、流動性預金三千九百億円、定期性預金二千九百億円。法人と公金で、残りの千八百億円。

〇・二〇を〇・六〇にすると、〇・四〇ポイント上がる。

流動性預金の三千九百億円に、〇・四〇を掛けた。

十五億六千万円。

彼は、そのままコア業務純益の欄を見た。

三十八億円。

四割である。

一年で、本業の利益の四割が、金利の支払に消える。それも、預金が一円も増えなくても、である。増えなければ、ただ費用だけが増える。

中山は、電卓の画面をしばらく見ていた。

理屈に合わなかった。

定期預金のキャンペーンなら、上乗せの原資は集まった額に対してだけ払う。普通預金の一律引上げは、集まらなくても払う。誰でも知っている。潮見銀行の企画部門が知らないはずがない。

知っていて、やっている。

知っていてやるということは、他の手が使えなかったということである。

その推論に、中山はこのとき、まだ届いていない。

浮かんだのは、もっと単純なことだった。

――対抗されている。

そう置いてみて、彼は自分で反論した。

対抗されるほどのことはしていない。ひなた銀行が湊原市で集めている預金は、いくらか。彼はその数字を毎日見ている。二年目の期末で、四億七千万円である。

潮見銀行の預金は、八千六百億円ある。

四億七千万は、〇・〇五パーセントである。

〇・〇五パーセントを取り返すために、本業の利益の四割を払う人間はいない。

だから、これは自分たちとは関係のない、別の理由による決定なのだろう、と中山は結論した。

その結論は、事実として、半分だけ当たっていた。

◇

六月の月次会議で、中山はこの件を、資料の末尾に一行だけ書いた。

・当該地域の指定金融機関である潮見銀行が、普通預金金利を年0.60%へ一律引上げ(7/1適用)。

当行の湊原市案件の預金残高に対する影響は、現時点では確認されていない。

黒木は、その行で止まった。

「〇・六〇」

「はい」

「それは、うちより高いですね」

「高いです」

「勝てますか」

中山は、答え方を選んだ。

「金利では勝てません。ただ、この案件の預金は、金利で来ていないので」

「なるほど」

黒木は、そこで一度、資料を置いた。

「中山さん。金利で来ていない預金は、金利では出ていかない。それはそのとおりです。ただし、それが本当かどうかは、今回みたいなことが起きて初めて分かることです」

「はい」

「三か月、日次で見てください。私が知りたいのは、残高の合計ではなくて、一件あたりの残高の中央値の動きです。合計は、口座数が増えていれば増えるので」

中山は、その指示を早瀬に回した。

七月と八月の数字が出た。

湊原市案件の口座の、一件あたり残高の中央値は、六月が二万一千四百円、七月が二万一千九百円、八月が二万二千六百円だった。

一円も出ていっていない。

早瀬が、その報告の最後に、聞いた。

「これ、変な話ですけど、いいんですか」

「何が」

「向こうの金利のほうが高いのに、こっちに置いたままなんですよね。合理的じゃないと思うんですけど」

中山は、それに答えた。

「金額が小さいからだと思う。二万二千円に〇・四ポイント乗せても、一年で八十八円だ。手続をする気にはならない」

「そうか、そうですね」

早瀬は、納得して、席へ戻った。

配属された年の四月なら、この問いは出てこなかった。数字が合っているかどうかしか見ていなかった。いまは、数字が合っていることのほうを、変だと言う。中山は、それを頼もしいと思った。思ってから、答えたのが自分であることに気づいた。

中山は、その計算を、もう一度だけ自分で確かめた。

八十八円である。

住民は、八十八円を捨てている。

その八十八円を、潮見銀行は、湊原市の全世帯の、この口座に移されていない分の残高に対しても、払っている。

彼は、そこまで考えて、考えるのをやめた。

窓の外は、まだ明るかった。三十三階では、日の落ちるのが地上より遅い。

その日、二件目の候補市との打合せが二本入っていた。

13 議事録

以下は、三年後の四月に、中山が潮見銀行のデータルームで読むことになる文書である。

このとき彼は、まだ読んでいない。

株式会社潮見銀行 取締役会議事録

一、開催日時  令和×年五月二十八日(火曜日) 午前十時零分から午後零時四十分まで

一、開催場所  当行本店五階 役員会議室

一、取締役及び監査役の総数並びに出席者数

   取締役の総数  九名   出席取締役の数  九名

   監査役の総数  三名   出席監査役の数  一名(常勤監査役)

一、陪席者   企画部長、営業統括部長、市場国際部長、リスク統括部長、企画部 岸本(第二号議案及び第三号議案の説明補助のため)

一、議 長   取締役頭取 外崎克己

一、議事の経過の要領及びその結果

議長は、定款第二十七条の定めにより議長となり、上記のとおり定足数に足る取締役の出席があり本取締役会が適法に成立した旨を述べ、午前十時零分、開会を宣した。


第一号議案 業務執行状況の報告の件

(記載省略)


第二号議案 流動性預金の減少に対する調達方針の件

【議案の概要】

個人流動性預金の減少傾向及びこれに対応する調達方針について、審議を求めるもの。

【審議の経過】

議長の求めにより、企画部長が別紙資料1に基づき、次のとおり説明した。

(1) 個人流動性預金の残高は、前年同期比で二・八パーセント減少している。口座数に増減はなく、解約による減少はほぼ生じていない。減少は一口座あたり平均残高の低下によるものであり、湊原本店営業部及び湊原東支店の管内において特に顕著である。

(2) 年齢層別では、二十代から五十代の減少が大きい。六十代以上は前年同期比では微増していたが、直近三か月においては減少に転じている。

(3) 給与振込指定口座数及び年金受取指定口座数に、いずれも変動はない。給与及び年金の受入額にも変動はない。受入から出金までの平均日数が、前年の十八・二日から九・四日へ短縮している。

以上の説明に対し、次のとおり質疑応答があった。

 河内取締役   資金の移動先は把握しているか。

 企画部長    他行あて振込のうち、インターネット専業銀行あての比率が上昇している。個別の相手先の特定は行っていない。

 河内取締役   地域電子マネーの影響はどうか。

 企画部長    当該電子マネーへのチャージは当行口座からも可能であり、当行口座から直接行われた分については、当行預金の減少を伴わない。

 寺尾取締役   六十代以上が直近になって減少に転じた理由は何か。

 企画部長    現時点では特定できていない。

次に、議長の求めにより、リスク統括部長が別紙資料2に基づき、次のとおり説明した。

(1) 現状、流動性に問題はない。日本銀行当座預金の残高は所要準備を大幅に上回っており、資金繰り上の逼迫はない。

(2) ただし、現在の速度で減少が継続した場合、翌々期にはコール市場からの調達又は共通担保資金供給オペレーションの利用を恒常化させる必要が生じる。

以上の説明に対し、次のとおり質疑応答があった。

 瀬戸口取締役副頭取  借りて埋めるということか。

 リスク統括部長    一時的には、そのとおりである。

 瀬戸口取締役副頭取  一時的とは、何年を指すか。

 (これに対する回答はなされなかった。)

議長は、本議案については第三号議案と一体として審議する旨を述べた。


第三号議案 預金金利改定の件

【議案の概要】

前号議案の状況を踏まえ、預金金利の改定について、次の二案のいずれかを採用することにつき審議を求めるもの。

【議案の内容】

甲案 期間限定特別金利定期預金の設定

 期間三年、金利年一・〇〇パーセント。

募集期間三か月、一人あたり上限五百万円、総額二百億円を限度とする。

新規資金に限る。

 利息負担の増加見込額 年間 最大一億四千万円

乙案 普通預金金利の一律引上げ

 年〇・二〇パーセントを年〇・六〇パーセントに改定する。

 適用対象は、当行のすべての普通預金とする。

 利息負担の増加見込額 年間 十五億六千万円

【審議の経過】

議長の求めにより、企画部長が別紙資料3に基づき説明を行い、費用対効果の観点からは甲案が優位である旨を付言した。

議長の求めにより、陪席の企画部 岸本が、補足して次のとおり説明した。

甲案は、まとまった余裕資金を有する層にのみ届くものである。

当行において減少しているのは定期性預金ではなく流動性預金であり、かつ、その減少は口座の解約ではなく、給与及び年金の受入後における資金の流出によって生じている。

三年物の定期預金を設定しても、当該層は預入の対象とならない。

したがって甲案では、現に生じている減少そのものは止まらない。

以上の説明に対し、次のとおり質疑応答があった。

 寺尾取締役    いまの指摘は妥当と考える。では、止める手はあるのか。

 企画部 岸本   現在の分析では、金利によって止めることは困難と考えている。

 寺尾取締役    困難だからといって、何もしないわけにはいかない。

続いて、次のとおり審議が行われた。

(1) 河内取締役より、まず甲案を実施し、その効果を見たうえで乙案を検討すべきとの意見が述べられた。

(2) 小野田取締役より、二段階に分けた場合、二度目の改定が市場に対して当行の資金繰り上の問題を示唆するおそれがある旨の意見が述べられた。

(3) 仲西取締役より、乙案は既存の全残高に及ぶものであり、実質的には当行が現に保有している預金を買い戻すに等しい旨の意見が述べられた。これに対する反論はなかった。

(4) 常勤監査役 畑中より、いずれの案によっても翌期以降の収益計画の下方修正が避けられないため、修正の要否及び時期について別途検討されたい旨の意見が述べられた。

議長は、次のとおり述べた。

甲案は効率が良いが、対象が限られる。

今回問われているのは残高ではなく、当行が地域の生活口座であり続けるかどうかである。

普通預金の金利を引き上げることは、当行のすべての預金者に対して、当行がその預金を必要としていることを示すことになる。

費用は大きいが、示さないことの費用は計算できない。

【決議の結果】

議長が本議案の賛否を諮ったところ、出席取締役の全員が異議なく乙案を原案どおり承認可決した。

なお、実施日及び対外公表の時期については、代表取締役に一任することとした。


第四号議案 有価証券ポートフォリオ運営方針の件

【議案の概要】

その他有価証券の評価損の状況及び今後の運営方針について、審議を求めるもの。

【審議の経過】

議長の求めにより、市場国際部長が別紙資料4に基づき、次のとおり説明した。

(1) その他有価証券の評価差額は、当期末において百十億円の評価損である。

(2) 保有しているあいだ、この評価損は自己資本比率に響かない。

(3) ただし、売却した場合には損益として実現する。

以上の説明に対し、次のとおり質疑応答があった。

 小野田取締役  資金が必要となった場合、どのような順序で対応するのか。

 市場国際部長  売却は、いちばん最後になります。

 小野田取締役  売らずに済ませたい、ということか。

 市場国際部長  そのとおりである。

【決議の結果】

議長が本議案の賛否を諮ったところ、出席取締役の全員が異議なく次のとおり承認可決した。

償還を迎える債券の再投資については、当面、市場環境を慎重に見極めたうえで判断するものとし、個別の運用方針の決定は市場国際部長に一任する。


第五号議案 中期経営計画の進捗の件

(記載省略)


報告事項

営業統括担当 仲西取締役より、第二号議案及び第三号議案に関連して、次のとおり発言があった。

資産の側を圧縮すべきであるという議論が一部にあると聞いているが、貸出を減らすという選択肢は、この銀行にはありません。

当行は、市内水産加工業者の設備更新、市内介護事業者の施設建替え、市立病院関連の運転資金について、いずれも複数年にわたる方針を示している。

これらを縮小した場合、代替の貸し手は存在しない。

当行が引けば、その事業は止まる。

本件について、特段の異議は述べられなかった。


議長は、以上をもって本日の議事を終了した旨を述べ、午後零時四十分、閉会を宣した。

以上の議事の経過の要領及びその結果を明確にするため、本議事録を作成し、出席した取締役及び監査役が次に記名押印する。

令和×年五月二十八日

株式会社潮見銀行 取締役会

 議長・議事録作成者  取締役頭取  外崎克己  ㊞

 (以下、出席取締役及び監査役の記名押印 省略)

議事録は、十一ページある。

出席取締役は九名で、発言が記録されているのは五名である。

「預金が多すぎる」という文字は、この十一ページのどこにも出てこない。

14 買わなかった月

同じデータルームに、市場国際部の資料が三年分あった。

その中に、有価証券運用管理システムの操作ログの写しが綴じられている。監査法人の求めに応じて出力したものらしく、期間ごとに区切ってPDFになっていた。

中山は、それを読んだ。

読むつもりで開いたのではない。開いたのは、ポートフォリオの内訳を確かめるためだった。

まず、金利が上がる前の年の、六月分がある。

有価証券運用管理システム 操作ログ 市場国際部 運用グループ

令和×年6月 利用者ID: SK-1140

日付 時刻 画面 操作
6/2 09:08 ― ログイン
6/2 09:08 償還予定一覧 照会(当月)
6/2 09:15 銘柄選定支援 照会(条件:残存3-7年/格付A以上)
6/2 09:41 銘柄選定支援 照会(条件:残存5-10年/格付A以上)
6/2 10:02 購入起案 新規作成(起案番号 06-013)
6/2 10:24 購入起案 決裁依頼
6/2 10:25 ― ログアウト
6/9 09:11 ― ログイン
6/9 09:11 償還予定一覧 照会(当月)
6/9 09:13 銘柄選定支援 照会(条件:残存3-7年/格付A以上)
6/9 09:52 購入起案 新規作成(起案番号 06-021)

一枚に、四十行から六十行が並んでいる。

次に、三年前の六月分がある。

有価証券運用管理システム 操作ログ 市場国際部 運用グループ

令和×年6月 利用者ID: SK-1140

日付 時刻 画面 操作
6/3 09:10 ― ログイン
6/3 09:10 償還予定一覧 照会(当月)
6/3 09:14 ― ログアウト
6/10 09:06 ― ログイン
6/10 09:06 入金予定確認 照会(償還金)
6/10 09:09 ― ログアウト
6/20 09:07 ― ログイン
6/20 09:07 入金予定確認 照会(償還金)
6/20 09:11 ― ログアウト
6/28 16:20 ― ログイン
6/28 16:20 月末残高照会 照会
6/28 16:33 ― ログアウト

十二行である。

七月分も、八月分も、九月分も、十月分も、十一月分も、同じである。

同じ利用者IDが、月の初めに償還予定を見て、償還日に入金を確認して、月末に残高を見る。

銘柄選定支援という行が、一行もない。

購入起案という行も、ない。

売却起案も、ない。

ログに残るのは、開いた画面だけである。開かなかった画面は、残らない。

だから、この三年分のログのどこにも、「再投資をしない」という判断は記録されていない。

記録されているのは、その画面を開かなかった、という事実だけである。

そして、それを事実として読めるのは、開いていた頃のログと並べたときだけである。

◇

同じフォルダに、月次の報告書がある。

各月の末に、市場国際部が経営会議へ出す一枚である。

有価証券運用状況(月次) 市場国際部

6月末 7月末 8月末 9月末 10月末 11月末
有価証券残高(億円) 3,120 3,055 2,983 2,921 2,860 2,794
当月中の売却 なし なし なし なし なし なし
当月中の購入 なし なし なし なし なし なし
評価差額(億円) △110 △112 △115 △119 △122 △126
平均残存期間(年) 5.9 6.1 6.4 6.9 7.1 7.4

売却には、伝票が残る。

何を、いくらで、誰の判断で売ったか。起案があり、決裁があり、番号が振られ、あとから検証できる。

買わなかった月には、伝票がない。

何もしないだけだからである。

いちばん下の行が、五・九から七・四になっている。

半年で、一・五年伸びた。

伸ばすと決めた人は、いない。

短い債券から順に償還されて出ていき、あとに、長い債券だけが残っただけである。

中山がこの三年分を並べるのは、三年後の四月である。

並べるまで、この十二行は、誰にとっても十二行でしかない。

15 紙幅の都合

九月の第二週、業界紙に小さな記事が出た。

隔週刊で、地域金融機関の実務者が読む。全国の地方銀行と信用金庫の人事と、決算の分析と、当局の動向が載っている。

その号の特集は「金利のある世界と預金の質」で、五本の記事が並んでいた。四本は大手行と上位地銀の話である。

五本目が、いちばん短かった。

「量ではなく滞留日数で見る」 潮見銀行・企画部

潮見銀行(湊原市)の企画部は、預金の分析軸を残高から「滞留日数」に切り替えている。

同部の担当者は「口座数も残高も、月次では大きく動かない。

動きが出るのは、入金から出金までの日数の分布」と説明する。

同行では、給与振込の受入額に変化がない一方、受入から出金までの平均日数が短縮している。

担当者は「預金は、置かれているのではなく、通過している。

通過している預金は、統計上は預金だが、実質的には別のもの」と話す。

預金の性質を評価する指標として、同部は年齢層別・入出金経路別の滞留日数分布を用いているという。

担当者は「われわれが本当に持っているものが何なのか、まず数える必要があった」と語った。

※ 談話は紙幅の都合により一部省略しました。

記事は、二十三行だった。

中山は、それを二度読んだ。

一度目は、内容を読んだ。二度目は、行数を数えた。

同じ号の他の四本は、いずれも六十行を超えている。上位地銀の記事には、担当役員の顔写真が付いていた。

この記事には、写真も、担当者の氏名もない。企画部、とだけある。

そして、最後の一行がある。

※ 談話は紙幅の都合により一部省略しました。

中山は、その一行を、しばらく見ていた。

彼は業界紙の作り方を知らない。ただ、この種の断り書きが、どういうときに入るかは想像がついた。取材の分量が、割り当てられた枠に対して多すぎたときである。

多すぎたということは、この担当者が、二十三行より多く話したということである。

どれくらい多かったのか。

中山は、記事の三つの段落を、もう一度読んだ。

三段落目は、結論ではない。

結論の手前である。

数える必要があった、と言った人は、数えている。数えた人には、結果が出ている。結果が出ている人が、その結果を言わずに終わるはずがない。

この記事には、続きがあった。

続きが、紙幅の都合で落ちた。

中山は、パソコンの前で、指を組んだまま、一分ほど動かなかった。

――この人は、分かっている。

何を分かっているのかは、このとき、自分の言葉では言えなかった。

彼はその記事を印刷して、机の抽斗に入れた。

彼の机の抽斗には、紙がほとんど入っていない。この会社は紙を出さない。印刷をするには、複合機まで行って社員証をかざす必要がある。

彼は、その手間をかけた。

16 同じ数字

十月に、潮見銀行の中間決算が出た。

中山は、決算短信と、決算説明資料と、有価証券報告書の直近の分を、全部並べた。

やろうとしていたのは、二件目の候補市に説明するための資料づくりである。地域の指定金融機関が、この種の提携をどう受け止めるか。前例としての湊原市の状況を、数字で示しておきたかった。

三時間で、それが別の作業になった。

彼は、まず、預金の項目を時系列に並べた。

個人の流動性預金の残高が、三千九百億円から三千六百二十億円になっている。二百八十億円、七・二パーセントの減である。

期間は、半年である。

中山は、そこで一度、前の期の数字に戻った。前の一年で減ったのは、二・八パーセントである。

年に二・八だったものが、半年で七・二になっている。

速くなったのは、この半年である。〇・六〇を出したのは、その途中である。

同じ期間の、口座数。

十四万二千六百口座から、十四万二千四百口座。二百口座の減。〇・一四パーセントである。

口座は、減っていない。

彼は、その二つの数字を、上下に並べて眺めた。

一件あたりの平均残高が、二十七万三千円から、二十五万四千円になっている。

一万九千円である。

中山は、自分のダッシュボードを開いた。

湊原市案件の口座の、一件あたり残高の中央値。二万二千六百円。

平均と中央値なので、そのまま比べてはいけない。彼はそれを承知のうえで、二つの数字を、同じ画面の中で見た。

それから、口座数を見た。

湊原市案件の開設口座数は、九月末で一万一千四百である。

湊原市の十五歳以上の人口は、三万三千六百。

三十四パーセント。

六十五歳以上に限ると、六十二パーセントである。

彼は、その数字の意味を、これまで浸透率として読んでいた。

いま、別の読み方が可能になった。

一万一千四百の口座に、平均で二万二千円が置かれている。合計すると、二百五十億円ではない。二億五千万円である。桁が二つ違う。潮見銀行から減った二百八十億円とは、まるで合わない。

だから、これは自分たちの案件のせいではない――と、彼は一度、そう置いた。

そう置いてから、彼は、早瀬が作った四月の図のことを思い出した。

二十五日と二十六日と、偶数月の十五日に、山が立つ図である。

彼は、その図をもう一度開いた。

図が示しているのは、残高ではない。流量である。

一万一千四百の口座に、毎月、五万円ずつが入ってくる。

一万一千四百 × 五万円 = 五億七千万円。

一年で、六十八億円。

その金は、入ってきて、みなペイに移り、加盟店で使われ、加盟店の口座へ行く。加盟店の口座は、みなペイの精算口座を経由する。精算口座は、ひなた銀行にある。

残高としては、どこにも積み上がらない。

積み上がらないまま、通過している。

中山は、席を立って、給湯室へ行き、水を飲んで、戻ってきた。

戻ってきて、もう一度、潮見銀行の決算説明資料の、預金のページを開いた。

そこには、こう書いてあった。

個人預金の口座数は横ばいで推移しており、当行に対する地域のお客さまの信認は引き続き維持されているものと認識しております。

彼は、この一文を、悪意で書かれたものだとは思わなかった。

書いた人は、口座数を見ている。口座数は、動いていない。だから、そう書ける。

そのとおりのことが書いてある。

◇

その日の夜、彼は残業して、一枚の表を作った。

誰に見せる予定もない表である。

左の列に、湊原市案件の月ごとの決済金額を置いた。右の列に、潮見銀行の四半期ごとの個人流動性預金の残高を置いた。単位が違い、頻度が違い、そもそも一方は残高で他方は流量だから、この二つを同じ表に並べるのは、分析としては筋が悪い。

筋が悪いことは、彼にも分かっていた。

分かったうえで、並べた。

並べると、片方が増えていく形と、もう片方が減っていく形が、同じ紙の上に載る。

因果を証明する表ではない。証明する方法を、彼は持っていない。同じ期間に、日本中の地方銀行から個人の流動性預金は流出している。金利が上がったからである。ネット銀行に流れ、証券会社に流れ、投資信託に流れている。湊原市だけの現象ではない。

ただし。

湊原市の減り方は、他の地方銀行より速い。

彼は、地方銀行のうち、総資産一兆円未満の三十七行の、同じ期間の個人流動性預金の増減率を並べた。中央値は、マイナス一・五パーセントだった。

潮見銀行は、マイナス七・二パーセントである。

差は、五・七ポイント。

三千九百億円の五・七パーセントは、二百二十億円である。

彼は、その二百二十億円という数字を、しばらく見ていた。

そして、それが何なのかを、理解した。

自分が作ったものが、この銀行から決済を剥がしている。

決済が剥がれれば、決済のために置かれていた預金が薄くなる。給料日から次の給料日までのあいだ、そこに置いてあった金である。それが、二十五日か二十六日の朝に、別の口座へ移るようになった。

移った先で、その金は残高にならない。使われるからである。

だから、どこかに現れて、どこかから消えたのではない。

片方から消えて、どこにも現れていない。

彼は、その表を保存しなかった。

保存しないまま、一時間、画面を見ていた。

二十二時に、フロアの照明が半分落ちた。

◇

止める方法を、彼は考えた。

考えて、いくつか思いついた。どれも実行できないことも、同時に分かった。

一つ目。提携を解除する。協定書の第五条にもとづき、書面で通知すれば解除できる。

ただし、解除しても、いま動いているアプリは止まらない。市の公式アプリはすでに市のものであり、住民の生活の中にある。病院の会計窓口の端末は、市が買い取っている。止めれば、止めたことが問題になる。市議会で問題になり、新聞に載る。

二つ目。湊原市案件を縮小する。機能を減らす。

減らす理由を、社内で説明できない。数字は計画の一・八倍で回っている。

三つ目。二件目以降をやめる。

これは、できる。ただし、やめても湊原市では何も変わらない。変わるのは、彼の稟議の条件が満たされなくなり、この案件が「湊原市への寄付」になることだけである。

寄付になれば、その次に来るのは、案件の撤退である。

止めれば、湊原市のサービスが止まる。

彼は、そこで手を止めた。

自分が湊原市のためにやったことになっていて、そのやったことが潮見銀行を弱らせていて、やめれば湊原市のためにならない。

三つが、同時に本当だった。

十一月の月次会議で、彼は湊原市案件の進捗を報告した。

数字は良かった。三件目の候補の目処が立ったことも、あわせて報告した。

会議のあと、黒木が言った。

「順調ですね」

「はい」

「二年目でここまで来ているのは、社内でもほとんど例がないです」

「ありがとうございます」

中山は、そのとき、抽斗に入れた業界紙の記事のことを、一度だけ思い出した。

思い出しただけだった。


第四部 救おうとする

17 二件目

二件目の市が稼働したのは、湊原市の稼働から二年半後の、四月である。

候補のリストをもらってから、一年一か月かかった。協定、予算、条例の確認、議会。湊原市のときと同じ順序で、同じだけかかった。テンプレートで短くなるのは実装だけで、その前後は短くならない。

二件目の市は、湊原市から六百キロ離れている。

人口五万一千。海はない。盆地で、冬に雪が積もる。基幹産業は、精密部品の下請けと、観光である。観光は、温泉が一つある。

指定金融機関は、県内の第二地方銀行である。

条件は、湊原市とほとんど同じだった。人口が一・七倍、六十五歳以上の比率が三ポイント低い、市立病院が一つ、診療所が十九。年間の患者一部負担金の件数が、二十七万件。

設定ファイルは、一日でできた。

差し替えたのは、市の名前と、ロゴと、収納機関コードと、料金科目の名称と、通知の文言のうち市名が入る三行である。

一日でできたものを立ち上げるのに、一年一か月かかった。黒木の付けた条件は、そのあいだに一度、期限を延ばしてある。延ばす稟議は、半頁で済んだ。

◇

三か月目に、早瀬が数字を持ってきた。

「口座の開設は、湊原市の同じ時期より速いです」

「そうか」

「人口比で、一・三倍。窓口の設置が、最初から二十か所そろっているからだと思います」

湊原市は、市立病院と四つの診療所で、六台である。二件目は、商工会議所を通して、市立病院と十九の診療所の全部に置いた。二十二台になった。

「残高は」

「一件あたりの中央値が、湊原市の同じ月の七割です」

中山は、その数字を見た。

口座は多く開いていて、一件あたりの金額が少ない。開設の速さと、使われ方は、別のものである。

「使われ方は」

「決済の件数は、口座あたり月三・一件。湊原市の同じ月は、四・八件でした」

「地域ペイは」

「まだです。商工会議所の加盟店の登録が、四割で止まっています」

「理由は」

早瀬は、少し間を置いた。

「分かりません。湊原市より加盟率は高いはずなんですが」

◇

七月に、早瀬が別の図を持ってきた。

滞留日数の分布である。彼女がその語を使ったのは、このときが初めてだった。中山が業界紙の記事から借りて、部内で使っていたのを、そのまま使っている。

「二件目の市の口座は、入金から出金までが、湊原市より長いです」

「どれくらい」

「湊原市が、平均で一・二日。二件目が、三・八日です」

「三倍か」

「はい」

図を見ると、形が違う。

湊原市は、給与や年金の入金日の翌日に、大きな山が一つ立っている。金が入って、翌日にみなペイへ移り、そこから使われる。

二件目の市は、山が低く、裾が広い。入金から四日目、五日目にも、出金がある。

「原因は」

「候補が三つあります」

早瀬は、そこで手元の紙を見た。

「一つ目。地域ペイが動いていないので、移す先がない。二つ目。指定金融機関のアプリが、去年の秋に新しくなっていて、そちらでもだいたいのことができる。三つ目。市の広報の載せ方が、湊原市と違います。湊原市は、市の公式アプリとして載っています。二件目は、市の公式アプリの中の一つの機能として載っています」

「三つ目は、こちらの落ち度か」

「協定書の書き方だと思います。二件目は、市の情報政策課がアプリ全体を持っていて、うちはその中に入れてもらう形です」

中山は、その報告を、そのまま報告書に書こうとした。

書式を開いて、手を止めた。

月次の報告書の様式には、稼働している市ごとに、四つの欄がある。口座開設数、決済件数、決済金額、稼働率。

滞留日数を書く欄は、ない。

書く欄がないものを書くには、様式を変える必要がある。様式は、部の共通のもので、変更には部長の承認がいる。承認を得るには、なぜ必要かを説明しなければならない。

説明ができない。

滞留日数が長いことは、この事業にとって、悪いことではない。悪いことでなければ、報告する必要はない。

一件あたりの残高が少ないことも、悪いことではない。ひなた銀行の側から見れば、口座が開いていて、決済が乗っていれば、それでいい。

彼は、四つの欄を埋めた。

四つとも、計画を上回っていた。

◇

九月に、二件目の市の指定金融機関から、連絡があった。

先方の企画部の次長が、東京に来る用事があるので、挨拶をしたい、ということだった。

会ったのは、六本木の三十一階の来客用の応接室である。

次長は、五十代だった。名刺には、地域連携推進室の兼務も入っている。

「うちは、最初からご協力させていただいてますので」

「ありがとうございます」

「市さんの事業ですから、当行が反対する理由はありません」

そのとおりである。市の事業に、指定金融機関が反対する理由は、ない。

「湊原市さんの事例は、拝見しております」

「はい」

「うちの市も、同じようになりますか」

「地域によって、だいぶ違います」

「そうですか」

次長は、それ以上聞かなかった。

そのあとの三十分は、その市の観光の話と、精密部品の下請けの話と、事業承継の話だった。次長は、事業承継の案件を、いま七件抱えていると言った。七件のうち、四件は後継者がいない。

帰り際に、次長が言った。

「またご相談させてください。うちのアプリも、そろそろ作り替えの時期でして」

中山は、名刺の裏に、その一言を書いた。

会社に戻る途中のエレベーターの中で、彼は、この人が一度も反対しなかったことを考えた。

反対しなかったから、金が動く経路は、二つになった。市のアプリと、その銀行のアプリである。

二つあるほうが、剥がれない。

湊原市には、そのころ、潮見銀行のアプリがなかった。

なかったのは、システム投資ができなかったからである。できなかったのは、規模が小さかったからである。

彼は、そのことを、この日、はっきりと形にはしなかった。

考えたのは、二件目の数字が湊原市に届かない理由を、社内でどう説明するか、ということだった。

◇

十月の事業計画の会議で、黒木が二件目の話をした。

「湊原市と同じ数字になっていませんね」

「はい。三点、原因を絞っています」

中山は、早瀬の三つの候補を説明した。地域ペイの立ち上がりと、指定金融機関のアプリと、協定書の書き方である。

黒木は、聞き終えて、こう言った。

「一件目としてはこれ以上のものはない、と私は言いましたけど」

「はい」

「二件目としては、これが普通ですね」

中山は、その言い方に、少し止まった。

「湊原市が、良すぎたということですか」

「良すぎた、という言い方はしません。条件が違うだけです」

黒木は、資料をめくった。

「三件目、四件目の見込みも、二件目に近い数字で置いてください。湊原市の数字で計画を作ると、毎年下振れします」

「分かりました」

「湊原市は、標準値ではないので」

彼女は、それだけ言って、次の議案に移った。

これも、正しい。

計画は、平均的な案件で作るものである。いちばん良かった一件で作ると、必ず外れる。

その日の会議のあと、中山は、社内の事業計画の資料を開いた。

横展開の前提として置かれている数値が、この日から、二件目の市のものになった。

湊原市の数字は、資料の中の、一件目の実績として残った。

標準ではないものとして残った。

◇

三件目は、翌年の二月に稼働した。人口三万八千。指定金融機関は、信用金庫である。

信用金庫は、市の会議で一度、慎重な意見を述べた。議事録には、「収納経路の追加については、事務負担の増加を懸念する旨の発言があった」と記載された。

反対ではない。懸念である。議案は、可決された。

三件目の数字は、二件目とほぼ同じだった。四件目も、五件目も、そうだった。

早瀬が、六件目の設定ファイルを作るころには、この事業の標準的な数字というものが、社内にできていた。湊原市の稼働から、五年が経っている。潮見銀行が普通預金の金利を〇・六〇にしてから、三度目の冬だった。

稼働三か月で口座開設が人口比の二十六パーセント、決済が口座あたり月三・一件、一件あたり残高が一万六千円。

計画は、その数字で立てられる。

立てられた計画は、達成される。

湊原市の数字だけが、どの年の資料でも、少し上に外れて載っていた。

外れている理由は、資料には書かれていない。

書く欄が、ない。

18 二度目の稟議

打診は、二月の第一週に来た。

来たのは中山のところではない。ひなた銀行の経営企画部に、地方銀行の再編を扱う証券会社の担当者から連絡が入り、そこから事業統括へ回り、湊原市案件の担当だという理由で、中山に共有された。

資料は、A4で九枚だった。表紙に「守秘義務契約に基づく限定的な情報提供」とあり、行名は伏せられている。

伏せられているが、伏せていない。総資産、預金、貸出金、店舗数、営業地域の人口規模、主要業種の構成。この六つが並んでいれば、業界の人間には特定できる。中山には、三枚目で分かった。

潮見銀行である。

提案されているのは、経営統合だった。持株会社を作り、その下に両行がぶら下がる。潮見銀行の側から出てきた話であり、複数の先に当たっている、という但し書きが最後の頁にある。

中山は、その九枚を、三回読んだ。

三回目を読み終わったとき、彼は自分が何をしようとしているかを、はっきり自覚した。

彼は、この話を社内で通そうとしていた。

◇

理由の説明が必要だった。

説明の材料は、原理的には十分にある。

ひなた銀行には、預金を安定させたいという課題がある。BaaSで集まる預金が、特典の原価を毎年払い続けることでしか貼り付いていないという問題は、五年前から役員会で毎期報告されている。払うのをやめれば剥がれる預金であり、払い続ける限り原価は残る。潮見銀行は、粘着性の高い個人預金を六千八百億円持っている。定期性預金だけで二千九百億円ある。

ひなた銀行には、与信の資産がほとんどない。個人向けのローンと、提携先を経由した小口の事業性融資だけである。潮見銀行には、五千百億円の貸出金がある。

ひなた銀行には、免許はあるが、地域がない。潮見銀行には、地域がある。

紙の上では、噛み合う。

噛み合わないところも、同じくらいはっきりしていた。

潮見銀行の含み損は、百二億円である。三年前の百二十八億円より小さい。損が戻ったのではない。母数が減っている。残高が三千百二十億円から二千八十億円へ、三分の一消えていた。

売った形跡はない。売却損が計上されていない。減ったのは、償還されて、そのまま入ってこなかった分である。

引き継げば、売れない債券をそのまま抱える。売れば損が出る。それだけの話だった。

店舗が十四ある。行員が四百三十人いる。そのうち、湊原市とその周辺以外に住んでいる者は、ほとんどいない。

中山は、この二つを、稟議書のリスクの欄にどう書くかを、二週間考えた。

◇

三月の第二週に、彼は起案した。

稟議書の書式は、五年前と同じである。

上から順に、件名、区分、起案部署、起案者、金額、期間、目的、実施内容、収益計画、想定するリスクと対応、代替案の検討、関連する法令および業規制上の整理。

件名の欄に、彼はこう書いた。

地域金融機関との経営統合に関する検討開始について

区分の欄は、「検討開始の可否」である。統合そのものを決める稟議ではない。デューデリジェンスに入ることの可否を問う稟議である。五年前に自分が書いた稟議より、決めていることは少ない。

目的の欄を、彼はまた、いちばん長く書いた。

目的

当行の預金基盤は、提携先を通じて提供される特典を対価として維持されており、当該特典の原価は、預金残高に対し年〇・七ないし一・八パーセントに相当する。

滞留期間は良好であるが、これは特典の継続的な支出によって支えられたものであり、支出を停止した場合の残存を前提とすることはできない。

一方、当行が地域生活決済プラットフォームを提供している地域においては、当該口座が家計の主たる支払口座として機能しており、金利変動に対する感応度が著しく低い。

この差は、口座に付随する決済機能の有無によって説明される。

本件対象行は、当該地域において四十年にわたり指定金融機関としての地位を有し、個人預金六千八百億円、貸出金五千百億円を有する。

当行が単独で構築し得ない与信資産と、地域における事業性融資の実行体制を有している。

本件は、当行の調達構造の是正と、与信資産の取得を同時に実現する機会である。

五年前と違うのは、次の一行を書かなかったことである。

五年前、彼は「実証の対象は湊原市であるが、実証の目的は湊原市ではない」と書いた。

今回、湊原市という文字列は、目的の欄に一度も出てこない。

代わりに「当行が地域生活決済プラットフォームを提供している地域」と書いてある。

同じことである。

同じことだが、こちらのほうが、社内では通りやすい。

リスクの欄には、含み損の債券のことも、店舗のことも、人員のことも、全部書いた。書いたうえで、それぞれに対応策を書いた。対応策は、どれも「統合後に検討する」の言い換えだった。

法令の欄は、短く済んだ。認可も、シェアの問題も、この統合では論点にならない。障害は、法令の側にはなかった。

代替案の検討の欄には、三つ書いた。統合しない場合、資本業務提携にとどめる場合、事業の一部のみを承継する場合。

三つ目について、彼は、書きながら手が止まった。

事業の一部のみを承継する、というのは、預金だけを取り、貸出と店舗と人員を取らない、という意味である。実務上はほとんど成立しないが、選択肢としては書ける。書けるものは、書かないと不備になる。

彼はそれを書いた。書いて、「実現可能性は低い」と付けた。

稟議書を保存したのは、三月十一日の二十二時四十分である。

19 データルーム

デューデリジェンスの初期段階に入ることが認められたのは、四月の第一週だった。

条件は二つ。期間は六週間。中山は、湊原市案件の担当としてではなく、事業側の実務担当として入る。統合そのものの是非は、六週間後の審査会で判断する。

データルームが開いたのは、四月十四日である。

閲覧は、指定された環境からしかできない。印刷は不可、画面の撮影も不可、ダウンロードも不可。誰が、何を、何分見たかが、すべて記録される。

割り当てられたのは、二十九階の、窓のない小会議室だった。六週間、同じ椅子である。

中山に割り当てられたのは、預金・決済関連と、経営関連の資料である。

彼は、初日に、資料の一覧だけを上から下まで見た。

千二百件あった。

◇

三日目に、取締役会の議事録を読んだ。

過去三年分、全部ある。

彼は、それを日付順に読んでいった。読むのに二日かかった。

読み終わったとき、彼は自分が三年前に立てた推論が、間違っていたことを知った。

三年前の六月、〇・六〇のプレスリリースを見たとき、彼はそれを、理屈に合わない手だと読んだ。誰でも知っているはずのことを、なぜやるのか分からない、と。

どの回も、書式は同じである。弁護士が形を決めた議事録であり、書かれるべきことと、書かなくてよいことが、はっきり分けてある。

そのプレスリリースの一か月前の取締役会が、そこに記録されていた。

甲案と乙案が並んでいる。

甲案は、期間限定の特別金利定期。追加の利息負担は、年間で最大一億四千万円。乙案は、普通預金の一律引上げ。十五億六千万円。

企画部長が「費用対効果の観点からは甲案が優位である」と説明している。

彼らは、分かっていた。

十一倍払うことになると、資料に書いたうえで、乙案を選んでいる。

なぜ甲案が落ちたのかも、そこに書いてある。

陪席者が、補足して説明している。減っているのは定期性ではなく流動性であり、しかも解約ではなく、給与及び年金の受入後の流出で減っている。三年物の定期預金を設定しても、当該層は預入の対象とならない。したがって甲案では、現に生じている減少そのものは止まらない。

陪席者の欄に、氏名がある。

企画部 岸本。

役職は書かれていない。九名の取締役には全員に肩書が付いていて、この一人だけ、部署と姓だけである。

正しい指摘である。

正しい指摘だったので、甲案が落ちた。

甲案が落ちて、残ったのが乙案である。

そして同じ人物は、その直後に「現在の分析では、金利によって止めることは困難と考えている」と答えている。

止まらないと言った人が、止めるための手段の選択に、決定的な影響を与えている。

中山は、その頁で、しばらく止まった。

彼が三年前に「理屈に合わない」と思ったものは、理屈に合わない選択ではなかった。

残った唯一の手だった。

◇

有価証券の議案も、そこにあった。

取締役が聞いている。「売らずに済ませたい、ということか」。

市場国際部長が答えている。「そのとおりである」。

再投資については、当面、慎重に判断する、と決めている。慎重に、という三文字で、三年が過ぎていた。

三年分の議事録の、いちばん新しい回は、今年の一月だった。

第二号議案。経営基盤強化に関する外部専門家の起用について。

企画部長の説明は、短かった。複数の候補先について、秘密保持契約のもとで可能性を打診する。相手方の選定は、企画部長に一任する。

陪席者の欄に、また同じ名前があった。企画部 岸本。

議長が賛否を諮り、出席取締役の全員が異議なく承認可決した。

一月の時点では、まだ、湊原市という文字列はどこにもない。

中山は、その次に、市場国際部のフォルダを開いた。

運用管理システムの操作ログである。彼が半日をかけて数えたのは、これである。

数え終わったあとで、彼はもう一つ確かめた。ログは、三年分ある。金利が上がった年の六月から、十二行の月が続いている。翌年も、その翌年も、続いている。

三十三か月、同じである。

月次の報告書のいちばん下の行だけを、続けて追った。

平均残存期間。五・九年。六・一年。六・四年。六・九年。七・一年。七・四年。そこから先も、止まっていない。九・六年。

誰も、伸ばすと決めていない。

伸ばさないと決めた人も、いない。決めた人がいないので、決裁もない。決裁がないので、どこにも上がらない。

上がらないものは、議題にならない。

中山は、そこで一度、席を立った。

◇

岸本、という姓を、彼は三日目に一度、通り過ぎている。

議事録の陪席者の欄である。企画部 岸本。第二号議案及び第三号議案の説明補助のため、と括弧書きがあった。

そのときは、読み飛ばした。九名の取締役の氏名を追うのに気を取られていた。

五日目に、その姓を、もう一度見た。

企画部の分析資料のフォルダである。ファイル名に作成者の名前が入る運用になっていた。

「預金構造分析(令和×年三月)」

作成者、企画部 岸本志穂。

作成日は、三年前の三月三十一日である。

〇・六〇のプレスリリースの、二か月前だった。

そして、中山が湊原市案件の期末の数字を出し、計画の一・八倍という報告をして、黒木に廊下で呼び止められた月である。

彼は、それを開いた。

四十二頁ある。

一頁目は、預金の残高と口座数の推移だった。二頁目から、内訳が始まる。

年齢層別。地区別。入金経路別。

十一頁目から、滞留日数の分析になる。

給与振込および年金の受入日を起点に、その資金がいつ、どこへ、いくら出ていったかを追っている。追い方は単純で、入金から出金までの日数を分布で描き、それを年齢層別に並べているだけである。

平均日数が十八・二日から九・四日へ短くなっている。

十九頁目に、出金の相手先の分類がある。分類は、六つある。

他行あて振込の比率が、二年で十四パーセントから三十一パーセントになっている。

二十三頁目に、その他行あて振込の内訳がある。

ここに、ひなた銀行の名前がある。

行名で書かれている。金融機関コードも書いてある。金額も、件数も、日別の分布も、全部ある。

二十五日と二十六日と、偶数月の十五日に、山が立つ図がある。

早瀬が作った図と、同じ形をしている。

同じ現象を、反対側から見ると、こうなる。

早瀬の図では、それは入金の山である。ここでは、出金の山である。

早瀬は、その図に「給与サイクルへの定着」と書いた。中山は、それをそのまま経営会議の資料に貼った。

岸本の資料の、その図の下には、こう書いてある。

受入から出金までの日数が短縮しているのではない。

受入から出金までの行動が、別の一日に集約されている。

なお、偶数月十五日の山は、直近三期において急速に立ち上がった。

当該層は、当行において最も長く口座を保有し、最も残高を置いてきた層である。

二十八頁目に、地域ペイの分析がある。

みなペイの加盟店の分布、決済金額の推移、加盟店の入金サイクル。加盟店が受け取った金がどこの口座に入っているかも、調べてある。

三十二頁目に、口座数と残高の乖離についての整理がある。

当行の個人預金の口座数は、実質的に減少していない。

解約は年間で二百件前後であり、転出および死亡によるものがほぼすべてである。

減少しているのは、口座数ではなく、口座あたりの平均残高である。

したがって、口座の維持を目的とする施策は、この減少に対して効果を持たない。

三十五頁目から、預金の性質の分類が始まる。

滞留日数と、入出金の経路と、他行への振込の有無で、口座を四つの群に分けている。

第一群。給与または年金を受け入れ、その資金がほぼ全額、当行内で費消される口座。
第二群。給与または年金を受け入れ、その資金の過半が、受入の翌日までに他行へ振り替えられる口座。
第三群。給与および年金の受入がなく、残高が長期にわたり変動しない口座。
第四群。その他。

第一群は、二年で四十一パーセントから十九パーセントに減っている。
第二群は、九パーセントから三十三パーセントに増えている。
第三群は、ほぼ変わっていない。高齢層の預金である。

三十八頁目に、この四つの群それぞれについて、当行にとっての「価値」の試算がある。一口座あたりの、年間の収益への寄与である。

第一群の寄与は、正である。第三群の寄与も、正である。

第二群の寄与は、金利改定後、負になっている。

受け入れて、翌日に出ていく金にも、〇・六〇の利息が付くからである。

そして、第二群の増加分のうち、直近三期に増えた分の過半が、六十五歳以上である。

三十九頁目に、第三群についての注記がある。

第三群は、当行にとって現時点で最も収益寄与の大きい群である。

ただし、当該群の平均年齢は六十八・四歳であり、当該残高は今後十年間で相続を通じて移転する。

相続人の居住地は、市外が七十一パーセントである。

四十頁目に、預貸率の推移がある。

預金八千六百億円に対して、貸出金五千百億円。五十九パーセント。

その下に、地域内の資金需要の推計がある。設備投資の計画、事業承継の案件数、創業の件数。

四十一頁目。

見出しがある。

六、当行の預金規模について

その下に、表が一つある。

左の列に、年度が並んでいる。過去十年分と、推計の五年分。
中の列に、預金残高が並んでいる。
右の列に、貸出金残高が並んでいる。

そして、いちばん右に、もう一列ある。

列の見出しは、空欄である。

見出しがないまま、罫線だけが引かれている。

十五行の、すべてが空白である。

四十二頁目は、「以上」とだけ書いてある。

中山は、その最後の二頁を、行ったり来たりした。

ファイルの属性を見た。作成日、三年前の三月三十一日。最終更新日も、同じ日である。

一度も、更新されていない。

彼は、同じフォルダの中を探した。

三年前の五月の取締役会に提出された資料が、別のファイルであった。「預金動向について(取締役会提出)」。作成者は、企画部長になっている。

十六頁ある。

中身は、岸本の資料の、十九頁目までを縮めたものだった。

滞留日数の分析まで、ある。他行あて振込の比率の上昇まで、ある。ひなた銀行の行名も、そこには残っている。

三十五頁目以降の、四つの群の分類はない。

三十八頁目の、群ごとの収益寄与の試算はない。

四十一頁目は、ない。

手前で止めてある。

中山は、閲覧の記録に自分の名前が残ることを知りながら、そのファイルをもう一度開いて、四十一頁目を出した。

空白の列を見た。

彼は、そこに何が入るはずだったのかを、考えた。

考えて、いくつか思いついた。どれも違う気がした。

彼は、その頁を閉じた。

◇

デューデリジェンスには、質問回答の手続がある。

閲覧した資料について疑義があれば、所定の様式で質問を出す。質問は証券会社を経由して相手方に渡り、相手方が書面で回答する。回答も、証券会社を経由して戻ってくる。

一件ごとに番号が付く。締切がある。両社の弁護士が控えを持つ。

六週間で、ひなた銀行側からの質問は、二百件を超えた。大半は、貸出資産の内容と、システムの契約と、退職給付の前提についてである。中山が出したのは、預金と決済に関するもの、十四件だった。

十三件は、事務的な確認である。

一件だけ、彼は迷って出した。

出したのは、五日目の夕方である。

問一四七

資料番号 KI-0311「預金構造分析(令和×年三月)」四十一頁、「六、当行の預金規模について」の表につきまして、最右列の項目名が空欄となっております。

当該列の定義をご教示ください。

書くのに、二十分かかった。

長く書けば、こちらが何を気にしているかが伝わる。伝わると、こちらの関心の在りかが相手に渡る。短く書けば、ただの誤記の指摘に見える。

彼は、短いほうにした。

出したあとで、この質問が経営企画部の誰かの机に着き、誰かが起案し、誰かが確認し、誰かが決裁することを考えた。

その誰かの中に、作成者本人が含まれているかどうかは、分からない。三年前の資料である。作成者が、いま同じ部署にいるとは限らない。いても、この一件が回るとは限らない。

回答は、十日後に来た。

二百件のうちの、百四十七番目である。

回答書は、一括の様式で来る。左に質問、右に回答が並ぶ。右の列は、幅が狭い。

回答一四七

当該欄は、資料作成の過程において設けられた罫線であり、内容を伴うものではありません。

一行である。

中山は、それを三度読んだ。

嘘は、書かれていない。

罫線は、たしかに引かれている。内容は、たしかに入っていない。書かれていることは、彼が画面で見たとおりのことである。

この回答を起案した人は、資料を開き、四十一頁目を出し、空の欄を見て、そのとおりに書いた。正確な仕事である。

追加の質問は、出せる。手続上は、再質問ができる。

出す根拠を、彼は持っていなかった。

内容を伴っていないと相手が回答したものについて、内容があるはずだと言うためには、こちらがその内容を推定していることを、様式に書かなければならない。

書けば、それは記録に残る。両社の弁護士が控えを持つ書面に、ひなた銀行の担当者が、相手方の未記入の欄の中身を推定していた、という事実が残る。

残ったものは、統合が成立しても、しなくても、残る。

彼は、再質問を出さなかった。

回答書の百四十七番目の行を、彼はもう一度見た。

質問と回答が、同じ高さで並んでいる。左の列のほうが、四行分、長い。

◇

同じフォルダの末尾に、「関連資料」として綴じられたものがあった。

外部の公開資料の写しである。市の広報、議会の会議録、公社の決算、地元紙の記事の切り抜き。潮見銀行の企画部が、三年前から集めていたものらしかった。

その中に、二つの議事録がある。

一つは、湊原市上下水道公社の、五年前の二月の取締役会の議事録だった。

議題の第三号、収納チャネルの追加に関する件。富永取締役が、住民の利便性の向上に資するとして賛成する旨の発言をしている。全員一致で可決されている。

富永孝という名前を、中山は役員名簿で確認した。潮見銀行から公社へ出向している取締役である。

もう一つは、その翌月の、市議会の会議録だった。上下水道事業会計予算に付された附帯決議。

一、収納チャネルの多様化を図り、市民の利便性の向上に努めること。

五項目のうちの、四番目である。

中山は、その二枚を、続けて読んだ。

この二枚がなければ、湊原市に何も置けなかった。

置けたのは、置くための道を、誰も塞がなかったからである。塞がなかったのは、塞ぐ理由が、そのとき誰にもなかったからである。

彼は、閲覧の記録に、この二件がどう残るのかを考えた。

考えて、閉じた。

◇

六週間のあいだに、彼は千二百件のうち三百件ほどを読んだ。

岸本志穂という名前は、企画部の資料の作成者として、二十件ほどに出てくる。

役職は、書かれていない。

顔写真も、経歴も、データルームにはない。

会う機会は、なかった。デューデリジェンスの実務は、証券会社と、両行の経営企画部のあいだで行われる。中山は、事業側の担当として資料を読む立場であり、相手方の担当者と直接やりとりはしない。

現地に行く予定も、なかった。

20 審査会

五月二十七日、火曜日。十四時。

審査会は、本社の三十五階の会議室である。出席は、社長、企画担当役員、リスク統括、財務、法務、そして事業統括の黒木恵理。

中山は、資料の説明をした。三十分の枠だった。

彼は、預金の粘着性の話から始めた。ひなた銀行が三年間、解決できていない課題であること。潮見銀行の個人預金の性質が、それとまったく違うこと。与信の資産を取得できること。地域における事業性融資の実行体制が、自前では作れないこと。

数字は、全部そろっていた。

リスクも、隠さなかった。含み損百二億円。平均残存期間九・六年。店舗十四、行員四百三十人。地域金融機関としての貸出責任。

説明が終わったあと、質疑が二十分あった。

財務が、含み損の処理について聞いた。中山は、持っているあいだは効かない、売れば効く、と答えた。それ以上の説明を、財務は求めなかった。

法務が、認可の見通しについて聞いた。

リスク統括が、店舗と人員の統合計画について聞いた。中山は、統合後三年での見直しを想定していると答えた。

そのあと、黒木が挙手した。

「一つだけ、確認させてください」

「はい」

「湊原市の口座は、いま、何口座ありますか」

「一万二千八百です」

「市の人口で」

「三万七千二百です。十五歳以上で三万三千二百」

「浸透率で」

「三十八・六パーセントです。六十五歳以上に限ると、七十一パーセント」

「その口座の、預金残高の合計は」

「六億二千万円です」

「金利は、こちらのほうが低いですね」

「はい。〇・四二です。向こうは〇・六〇です」

「三年、その差がついたままで、この数字ですか」

「はい」

黒木は、頷いた。

「では、これは統合しなくても取れている、ということですね」

会議室が、静かになった。

中山は、その質問の意味を、遅れずに理解した。

「取れているのは、決済です」

彼は言った。

「預金の残高としては、六億二千万円しかありません。潮見銀行には六千八百億円あります」

「そうですね。では、その六千八百億円は、統合したら、うちのものになりますか」

「なります」

「いくらで」

中山は、答えなかった。

答えられなかったのではない。答えは、資料に書いてある。〇・六〇である。

「〇・六〇で、六千八百億円を買うということです」黒木は言った。「それに加えて、平均残存九・六年の含み損の債券を二千億円、店舗を十四、人員を四百三十人。それから、地域金融機関としての貸出の責任。この四つが、必ず付いてきます」

「はい」

「中山さん。私が知りたいのは、この四つを引き受けることで、うちが手に入れるものが何か、ということです」

「地域の与信です」

「与信は、うちが単独でやれませんか」

「やれません。地域に人がいないので」

「では、その人を四百三十人、雇うことになりますね。それは、いま潮見銀行にいる人です。その人たちは、うちが単独で採用するなら、たぶん採らない人です。悪いという意味ではありません。うちが必要とする技能と、違うという意味です」

黒木は、そこで一度、資料を置いた。

「もう一つあります。五年前、この案件を通したとき、私が付けた条件を覚えていますか」

「二年で、横展開の実証データを出すことです」

「出ましたか」

「出ました。二件目が二年前の四月に稼働しています。いま、六件目です」

「一年、延ばしましたね」

「延ばしました」

「あれは、私が承認しました」黒木は言った。「延ばした一年で、立ちました。だから、条件は満たされています」

「そうですね。つまり、テンプレートは証明されました。証明されたということは、次の市に行くのに、潮見銀行は要らないということです」

中山は、そこで、初めて言葉に詰まった。

黒木は、待った。

「――」

「中山さん」

「はい」

「欲しかったものは、もう手元にあります」

黒木は、そう言った。

言い方は、丁寧だった。

「私は、この案件を落とします。理由は、買う必要がないからです。五年前と違って、いまは、買わなくても同じものが手に入るからです。それを作ったのは、中山さんです」

社長が、何か聞いた。含み損の水準が改善した場合の再検討の可能性についてである。

黒木は、それについて答えた。改善しても、店舗と人員と貸出責任は残るので、判断は変わらないと思います、と答えた。

十五時二分に、審査会は終わった。

21 根拠

その日の夕方、中山は自席にいた。

彼は、もう一度、稟議書を開いた。

落ちた稟議は、社内のシステム上、「否決」の区分に移る。移ったものは編集できない。

彼は、目的の欄を、上から読み直した。

書いてあることは、全部本当だった。

ひなた銀行の預金基盤の課題。潮見銀行の個人預金の性質。決済機能の有無による感応度の差。与信資産の取得。

そして、書いてあることのすべてが、黒木の結論を支えていた。

決済機能があると預金は動かない、と彼は書いた。

書いたその論理が、そのまま、決済機能を取れば預金は要らない、という結論になる。

彼が持ち出せる唯一の根拠は、湊原市の実証が成功しているという事実だった。

その事実は、潮見銀行が弱った理由と、同じものだった。

同じ数字が、二つのことを証明している。

彼は、統合を推す理由として、湊原市の成功を挙げた。

黒木は、統合を落とす理由として、湊原市の成功を挙げた。

二人は、同じ数字を見ていた。

黒木は、一度も間違っていない。

五年前、彼女がこの案件を通したのは、テンプレートに価値があると判断したからである。判断は正しかった。テンプレートは六件目まで来ている。

いま、彼女がこの案件を落とすのは、そのテンプレートが証明されたからである。判断は正しい。

彼女が正しいことを、中山は否定できなかった。

否定するには、湊原市の実証が失敗していたと言うしかない。

◇

十九時ごろ、早瀬が席に来た。

四件目の候補市の設定ファイルのレビューを頼んでいた。

「見ました。三行目の収納機関コード、桁が足りません」

「ああ、そうか」

「あと、料金科目のところ、この市は下水道が別会計なので、二つに分ける必要があります」

「分かった」

別会計かどうかは、設定ファイルには書いていない。市の決算の資料を開かないと分からない。開いたということである。

五年前、彼女は月次の数字を読み上げていた。いまは、レビューを頼めば、頼んだ範囲の外まで見て返してくる。この部で、いちばん手がかからなくなった人間である。

そのことを、中山は、この夜も頼もしいと思った。

早瀬は、そこで少し立っていた。

「潮見銀行の件、落ちたって聞きました」

「うん」

「そうですか」

早瀬は、それだけ言って、席へ戻った。

彼女は、何も間違っていない。

中山は、二十時過ぎに会社を出た。

出るときに、抽斗を開けて、業界紙の記事の切り抜きが、まだそこにあるのを見た。

閉めて、帰った。


間章 三月

潮見銀行の企画部は、本店三階の東側にある。

十二人いる。部長が一人、次長が二人、あとは担当者である。担当は、経営計画、業績管理、開示、店舗、人事企画、それに「調査」と呼ばれる区分がある。

岸本志穂は、調査の担当だった。

調査の担当が何をするかは、明文で決まっていない。年度の初めに、部長が「今年はこれを見ておいてほしい」と言う。言われたものを見て、資料にする。資料は、部内で回覧され、そのうちのいくらかが役員に上がる。

その年度、彼女が言われていたのは、「預金の中身を、もう少し細かく見ておいてほしい」ということだった。

言われたのは、六月である。

理由は、特になかった。強いて言えば、金利が動きそうだ、という話が世の中にあり、動くなら預金の話になる、というくらいのことである。

彼女は、九月から、月次の集計を少しずつ変えていった。

◇

潮見銀行の勘定系システムは、共同センターにある。県内の四行が同じ箱を使っている。個別の照会は端末からできるが、まとまった量を取り出すことはできない。

取り出すのは、情報系のデータベースからである。勘定系から、夜間のバッチで、明細が落ちてくる。翌朝の七時には使える。

使えるのは、執務室の四台の端末だけである。持ち出しはできない。USBの口は塞いである。印刷は、部長の承認がいる。

彼女がやったのは、その明細の並べ替えである。

普通、預金の集計は、月末残高で見る。科目別、店別、年齢層別。それで月次の報告書ができる。三十年、同じ様式である。

彼女は、残高ではなく、入出金の明細のほうを見た。

一件の入金があり、そのあとに出金がある。入金から出金までの日数を数える。数えて、分布にする。

やり方としては、単純である。

単純だが、量が多い。個人の口座が十四万ある。一口座あたり、月に十件から三十件の明細がある。一か月で三百万件になる。それを二十四か月分、追う。

彼女の端末では、一回の抽出に四十分かかった。

だから、彼女は、夜に走らせた。

十九時ごろに条件を書いて、実行を押して、帰る。翌朝、七時半に来て、結果を見る。条件が違っていれば、また夜に走らせる。

九月から三月まで、それを繰り返した。

条件を書き直した回数は、数えていない。

◇

三月十九日、火曜日。

その日の朝、年齢層別の分布が、初めて意味のある形で出た。

滞留日数――彼女はこの言葉を、自分の資料の中でだけ使っていた。行内に、この語はない――の平均が、二十四か月で、十八・二日から九・四日になっている。

短くなること自体は、驚くようなことではない。世の中の決済が速くなっているからである。カードの引落しが増え、振込が二十四時間になり、電子マネーのチャージが日常になっている。

彼女が手を止めたのは、そこではなかった。

短くなり方が、年齢層で違っていたからである。

二十代と三十代は、もともと短い。十一・四日から、八・九日。差は二・五日である。

六十五歳以上は、二十六・八日から、九・一日になっている。

十七・七日、短くなっている。

彼女は、その二つの数字を、上下に並べて、しばらく見た。

見てから、六十五歳以上だけを取り出して、日別に描き直した。

図が出た。

二十五日と、二十六日に、山が立つ。

そして、偶数月の十五日に、いちばん高い山が立つ。

年金の受入日である。

その山は、二年前の同じ図には、ない。二年前は、十五日に入った金は、そのあと二十日かけて、少しずつ出ていっていた。窓口とATMからである。

いまは、十五日か、十六日に、まとめて出ている。

彼女は、出た先の分類を作った。

分類は、六つにした。他行あて振込、公共料金の口座振替、カード会社への引落し、ATMによる現金引出、当行内の口座間振替、その他。

他行あて振込の比率が、十四パーセントから三十一パーセントになっていた。

その内訳を出した。

出すのに、二日かかった。振込の相手先金融機関は、明細に金融機関コードで入っている。コードのままでは読めないので、名寄せの表を作った。表は、全国銀行協会の統一金融機関コードの一覧から作れる。

出た表の、上から順に並べ替えた。

一位は、大手行だった。県外に出た子の口座への仕送りである。金額が大きく、件数が少ない。

二位が、件数で他を大きく離していた。

金融機関コードと、行名が、そこに出た。

彼女は、その行名を知っていた。二年ほど前から、地元紙と市の広報に、ときどき出る。市のアプリの話である。

彼女は、その行を、二十三頁目に書いた。行名で書き、金融機関コードも書いた。金額も、件数も、日別の分布も、全部載せた。

それが何を意味するのかは、書いていない。

彼女の資料の書き方は、そういうものだった。数えたものを、数えたとおりに置く。置いたうえで、その頁の下に、事実として言える範囲のことを一行か二行、添える。

その頁の下に、彼女はこう書いた。

受入から出金までの日数が短縮しているのではない。

受入から出金までの行動が、別の一日に集約されている。

なお、偶数月十五日の山は、直近三期において急速に立ち上がった。

当該層は、当行において最も長く口座を保有し、最も残高を置いてきた層である。

書いてから、彼女は「当該層」という語を、二度読み返した。

読み返して、そのままにした。

◇

三月二十二日、金曜日。

彼女は、口座を四つの群に分けた。

分ける基準は、滞留日数と、入出金の経路と、他行への振込の有無である。基準の作り方に、教科書はない。行内にも前例はない。彼女は、三通り作って、いちばん群の数が少なくて済むものを採った。

第一群が、二年で、四十一パーセントから十九パーセントになっていた。
第二群が、九パーセントから三十三パーセントになっていた。
第三群は、ほとんど変わらない。

彼女は、この四つの群それぞれについて、一口座あたりの年間の収益寄与を出した。

出し方は、行内の資金原価計算の様式に合わせた。合わせないと、部内で説明できない。

第一群は、正である。

第三群も、正である。むしろ、いちばん大きい。動かない金だからである。

第二群は、正で、しかし小さかった。

彼女は、その数字を出したあと、条件を一つ変えて、もう一度計算した。

普通預金の金利を、〇・二〇から〇・六〇に置いた。

置いた理由は、そのころ新聞に、大手行が普通預金金利を〇・六〇に引き上げるという記事が出ていたからである。地方銀行が追随するかどうかは、まだ分からなかった。分からないので、感応度を見ておこうとした。感応度を見ておくのは、企画部の仕事である。

第二群の寄与が、負になった。

受け入れて、翌日に出ていく金にも、利息は付く。付くが、その金は、翌日には当行にない。

彼女は、その計算を三度やり直した。三度とも、同じ数字になった。

それから、第二群の増加分の内訳を見た。

直近三期に増えた分の、過半が、六十五歳以上である。

彼女は、そこで一度、席を立った。

給湯室に行って、湯を沸かして、戻ってきた。

戻ってきて、三十八頁目を書いた。

◇

三十九頁目は、第三群についての注記である。

第三群は、いま、いちばん収益寄与が大きい。動かない預金だからである。

彼女は、その群の平均年齢を出した。六十八・四歳だった。

出したあと、彼女は、相続の話を書くかどうかを、少し考えた。

書くと、十年後の話になる。十年後の話は、企画部の資料には、あまり書かない。書くと「それは前提が多すぎる」と言われるからである。

彼女は、県の人口移動統計を見に行った。市の広報に載っている転出入の数字も見た。それから、行内の相続手続の記録を、三年分、件数だけ出した。相続の手続で口座を解約する人の、届出住所の分布が出た。

市外が、七十一パーセントである。

彼女は、二行だけ書いた。

第三群は、当行にとって現時点で最も収益寄与の大きい群である。

ただし、当該群の平均年齢は六十八・四歳であり、当該残高は今後十年間で相続を通じて移転する。

相続人の居住地は、市外が七十一パーセントである。

三行目は、書かなかった。

書くべき三行目があるとは、このとき思っていない。

◇

三月二十九日、金曜日。

四十頁目に、預貸率を置いた。

預金八千六百億円。貸出金五千百億円。五十九パーセントである。

この数字は、月次の報告書にも、開示資料にも、毎回出ている。誰でも知っている数字である。

彼女は、その下に、地域内の資金需要の推計を置いた。

置くために、営業統括部の資料を借りた。設備投資の計画、事業承継の案件数、創業の件数。三年分ある。市内と、隣接三町の分である。

数字を足した。

足すと、地域の中で貸せる先の総額が出る。出た数字は、いまの貸出金残高と、ほとんど同じだった。

つまり、貸出は、貸せるだけ貸している。

これも、驚くようなことではない。営業の人間なら誰でも知っている。地域の中に、これ以上の需要はない。だから県外の案件を取りに行くし、有価証券で運用する。どこの地方銀行もそうしている。

彼女は、そこまでを、四十頁目に置いた。

置いてから、次の頁を開いた。

見出しを打った。

六、当行の預金規模について

打ってから、表を作った。

左の列に、年度を並べた。過去十年分と、推計の五年分。十五行になる。
中の列に、預金残高を入れた。
右の列に、貸出金残高を入れた。

数字は、全部ある。過去十年は決算の数字であり、推計の五年は、行内の中期計画の前提を使えばいい。

作るのに、二十分もかからなかった。

そして、その右に、もう一列を引いた。

引いた理由は、そこに列が要ると思ったからである。

預金があり、貸出があり、その差がある。差の額は、預貸率から出る。出るが、それは既に中の列と右の列から計算できるものであって、別の列にする必要はない。

必要のない列を、彼女は引いた。

罫線が、十五行分、下まで通った。

見出しの欄に、カーソルを置いた。

何を打つべきかが、出てこなかった。

彼女は、いくつか打った。打っては、消した。

打ったもののどれも、いま作った表の右端に立つ言葉としては、大きすぎるか、小さすぎるかのどちらかだった。大きすぎるものは、この資料の他の四十頁が支えていない。小さすぎるものは、わざわざ列を立てる意味がない。

彼女は、三十分、そうしていた。

十九時十分に、部内の照明が半分落ちた。省エネの設定で、自動で落ちる。

彼女は、見出しの欄を空のまま残して、ファイルを保存した。

四十二頁目に「以上」と打って、もう一度保存した。

その日、彼女が最後に何を打とうとしていたのかは、彼女自身、翌朝には覚えていなかった。

覚えていないというより、まだ、打つべき言葉が彼女の中にできていなかった。

数字は、全部そろっている。そろっている数字が、一つの文になるためには、その文を言ってよいという前提が、どこかに要る。

その前提が、この銀行の中にあるかどうかを、彼女はこのとき、考えていない。

考える手前だった。

◇

三月三十一日は、日曜日だった。

彼女は、出勤した。年度末なので、部内に何人か来ている。

部長も来ていた。

翌週の火曜日に、部長会がある。そこで「預金の動向について」を報告することになっていた。持ち時間は十分である。

彼女は、四十二頁の資料を印刷して、部長のところへ持っていった。

部長は、最初の五頁を、その場でめくった。それから、十一頁目の滞留日数の図で、手を止めた。

「これ、どうやって出したの」

「明細を、入金から出金まで、追いました」

「追えるんだ」

「時間はかかります」

部長は、そのあと、二十三頁目まで進んで、他行あて振込の内訳を見た。

「これは、載せよう」

「はい」

「二十五頁目から先は」

彼女は、四十一頁目までを、口で説明した。四つの群の話と、群ごとの収益寄与の話と、相続の話と、預貸率の話である。

説明は、七分ほどかかった。

部長は、聞き終えて、こう言った。

「部長会は十分。取締役会は、議案が七本あって、預金の話は三十分もらえない」

「はい」

「四十二頁は、読まれない」

「はい」

「読まれない資料は、置いていないのと同じだから、読まれる長さにしよう」

これは、正しい。

彼女も、そう思った。行内で回る資料のうち、二十頁を超えるものが最後まで読まれることは、まずない。表紙と、最初の図と、最後の頁だけが読まれる。それが分かっているから、企画部の資料は、たいてい十五頁前後にまとめる。

「どこまでにしますか」

「他行あて振込の内訳まで。あれがいちばん強い」

「十九頁目までですね」

「そう」

部長は、少し考えて、付け加えた。

「群の分類のところは、面白いんだけど、基準を説明するのに時間がかかるでしょう。基準の作り方を聞かれると、そこで十分終わる」

これも、正しい。

四つの群の基準は、彼女が三通り作って一つを選んだものである。選んだ理由を聞かれれば、説明はできる。できるが、説明には五分いる。五分使えば、その日の預金の議案は、群の分類の妥当性の話で終わる。

「相続のところは」

「あれは、十年後の話だから。今日の議案には要らない」

「分かりました」

彼女は、席に戻って、切る作業をした。

作業は、彼女がやった。

十九頁目までを残し、二十五頁目以降を落とし、頁番号を振り直し、目次を作り直した。四十一頁目は、削除の操作を一回した。

十六頁になった。

表紙の作成者の欄は、企画部長の名前になる。部長会に出す資料は、部長名で出す。これも、そういう決まりである。

彼女は、元のファイルを消さなかった。

消す理由がなかったからである。共有フォルダの、企画部・調査のところに、そのまま置いた。

ファイル名は、「預金構造分析(令和×年三月)」である。作成者の欄には、彼女の名前が入る。ファイルのプロパティに自動で入る運用になっていた。

保存したのは、三月三十一日である。

そのあと、彼女がこのファイルを開くことは、なかった。

◇

四月二日の部長会で、十六頁の資料が報告された。

滞留日数の話は、そこで初めて役員の目に触れた。反応は、悪くなかった。「今までと違う切り口だ」と言った役員が一人いた。

四月の下旬に、頭取から、預金の減少への対応を検討するようにという指示が出た。

五月の取締役会に、二つの案が出た。

甲案は、期間限定の特別金利定期。乙案は、普通預金の一律引上げ。

資料は、企画部で作った。作ったのは、彼女ではなく、経営計画の担当である。彼女は、預金の分析の部分だけを見た。

見て、一か所、数字を直した。

取締役会には、陪席として呼ばれた。第二号議案と第三号議案の説明補助のため、である。

陪席は、扉の近くの、壁際の椅子に座る。机はない。資料は膝の上に置く。

議案の説明は、企画部長がした。費用対効果の観点からは甲案が優位である、という説明である。年間の追加利息負担が、甲案は最大一億四千万円、乙案は十五億六千万円。十一倍である。

質疑があった。

その途中で、部長が振り返って、彼女に説明を求めた。

彼女が言ったのは、こういうことである。

甲案は、まとまった余裕資金を持っている層にしか届かない。いま減っているのは定期性ではなく流動性であり、しかも解約で減っているのではない。給与と年金が入ったあと、その資金が出ていくことで減っている。三年物の定期預金を作っても、その層は預入の対象にならない。したがって甲案では、いま起きている減少そのものは止まらない。

言ったのは、それだけである。

事実として言えることだけを言った。

彼女は、乙案を推していない。乙案について、意見を求められてもいない。

そのあと、取締役の一人が、彼女に質問した。

金利を上げれば止まるのか、という趣旨だった。

彼女は、こう答えた。

「現在の分析では、金利によって止めることは困難と考えております」

これも、事実である。

止まらないと言った。止めるための方法については、何も言っていない。言う立場になかった。

質疑は、そのあと十分ほど続いた。彼女に振られたのは、その二回だけである。

決議の結果は、乙案の可決だった。

出席取締役の全員が、異議なく承認可決した。

彼女は、退室した。

議事録が回ってきたのは、二週間後である。陪席者は、内容の確認だけを求められる。

彼女は、自分の発言が記載されている箇所を読んだ。

要領よくまとめてあった。彼女が七分かけて言ったことが、四行になっていた。

四行は、正確だった。

彼女は、確認済みの欄に、印を押した。

◇

六月十一日に、普通預金金利の一律引上げが発表された。〇・二〇から〇・六〇である。適用は、七月一日からである。

七月と八月に、預金は少し増えた。定期性が増えた。他行から移ってきたものである。

流動性は、増えなかった。

九月の月次で、彼女は、滞留日数をもう一度出した。

九・四日が、九・一日になっていた。

彼女は、その数字を、月次の報告書には載せなかった。載せる欄がない。滞留日数という項目は、報告書の様式にないからである。

様式を変えるには、部内で決めて、次長の承認がいる。それは、年度の初めにやる仕事である。九月にやる仕事ではない。

彼女は、自分の端末に置いた表に、その数字を書いた。

◇

九月に、業界紙の取材があった。

隔週刊の、地域金融機関の実務者が読む紙である。特集が「金利のある世界と預金の質」で、地方銀行の企画部に何行か当たっている、ということだった。

広報部から、企画部に話が回ってきた。部長は出張中で、次長が「じゃあ岸本さん、数え方の話だけしておいて」と言った。

条件が三つ付いた。氏名は出さない。写真も出さない。個別の数字は出さない。

これは、標準的な条件である。地方銀行が業界紙の取材を受けるとき、たいていこうなる。

取材は、九月四日の午後、本店の三階の応接室で、一時間十分あった。

記者は、四十代の男性だった。ノートに、万年筆で書いていた。

彼女が話したのは、数え方の話である。

預金を、残高ではなく、入金から出金までの日数で見ている。日数を年齢層別に並べると、分布が動いている。動いている層と、動いていない層がある。動き方は、月の中の特定の日に集まっている。

途中で、記者が「それは、預金が減っているということですか」と聞いた。

彼女は、そうではない、と答えた。

「口座数も残高も、月次では大きくは動きません。動きが出るのは、入金から出金までの日数の分布のほうです」

「日数が短いというのは」

「預金は、置かれているのではなく、通過している、ということです。通過している預金は、統計上は預金ですが、実質的には別のものだと思っています」

記者は、その二文を、そのまま書き取った。書き取りながら、「それ、いい言葉ですね」と言った。

彼女は、いい言葉のつもりで言っていない。分類の話をしている。

記者は、ほかにも二回、質問した。

一回目は、「その数え方は、他行でもやっているんですか」だった。

彼女は、「分かりません」と答えた。実際に、分からない。

二回目は、後半だった。

「それで、結局、何が分かったんですか」

彼女は、少し考えて、こう言った。

「われわれが本当に持っているものが何なのか、まず数える必要があった、ということです」

記者は、それを書き取った。

書き取って、顔を上げて、「その先は」と言った。

彼女は、答えなかった。

答えなかったのは、伏せたからではない。

その先が、まだ言葉になっていなかったからである。

数字は、全部そろっている。三月に作った四十二頁が、彼女の端末の中にある。四十一頁目の右端に、列が一つ引いてある。列の見出しは、まだ空いている。

半年、空いたままである。

彼女は、記者に、こう言った。

「まだ、そこまでは」

記者は、うなずいて、次の質問に移った。

取材は、そのあと二十分続いた。話は、地域の商工業の話と、市のアプリの話になった。市のアプリの話は、記者のほうから出た。彼女は、それについては、地元紙に載っている以上のことは知らなかった。

記事が出たのは、九月の第二週である。

彼女は、それを見た。

二十三行だった。

写真も、氏名もない。企画部、とだけある。

最後に、一行あった。

※ 談話は紙幅の都合により一部省略しました。

彼女は、その一行を見て、特に何も思わなかった。

一時間十分の取材が二十三行になるのは、この種の記事では普通のことである。省略されたのは、数え方の細かいところと、地域の商工業の話と、市のアプリの話である。

結論が省略されたのではない。

結論は、話していない。

彼女は、その号を、部内の回覧に回した。回覧の判子が、十二人分押されて、二週間後に戻ってきた。

彼女は、それを書棚に入れた。

◇

翌年の三月、彼女は、自分の端末の表を更新した。

年度の列に一行足し、預金残高と貸出金の数字を入れた。

右端の欄は、空白のままだった。

その翌年も、同じことをした。

その翌々年も、した。

三年目には、預金残高の欄の数字が、初めて八千億円を割った。貸出金の欄は、ほとんど動いていない。

その年、彼女の担当は、調査から開示に変わっていた。

開示の担当は、決算短信と有価証券報告書を作る。分析はしない。数字を、定められた様式に、定められた順に入れる。入れ方には規則があり、規則は毎年少しずつ変わる。変わったところを、監査法人と確認する。

忙しい仕事である。三月と五月と、十一月に山が来る。

表を更新するのは、三月の、決算の作業が始まる前の、どこかの一日だった。

十分もかからない。

◇

その年の四月に、統合の話が動いた。

企画部は、資料の提出作業をした。相手方の指定した項目に沿って、行内の資料を集めて、電子的な部屋に上げる。項目は、三十七分類、千件を超えた。

彼女は、企画部の分の取りまとめをした。

方針は、経営会議で決まっていた。「出せるものは全部出す」である。

これは、正しい判断だった。統合の交渉で、こちらから出し渋ったものは、あとで必ず問題になる。しかも、こちらは救われる側である。

彼女は、共有フォルダの、企画部・調査のフォルダを、上から順に見た。

十年分ある。前任者の資料もある。

彼女は、全部を選択して、提出用のフォルダに複写した。

途中で、ファイル名を一つずつ確認した。作成者の欄に個人名が入るものは、そのままでよいことになっていた。役職までは入らない。

「預金構造分析(令和×年三月)」も、その中にあった。

三年前の日付である。最終更新日も、同じ日になっている。

彼女は、それを開かなかった。

開く必要が、なかったからである。中身は、覚えている。

複写の作業は、二日かかった。

上げ終わったあと、相手方が何を見たかは、こちらには分からない。閲覧の記録は、部屋を運営している証券会社が持っている。こちら側には開示されない。

彼女は、そのことを、特に不思議とも思わなかった。

そういう手続である。

◇

六月に、統合の話は終わった。

理由は、公式には「両行の企業価値向上の観点から、現時点での実現は困難と判断した」である。企画部が起案した文言ではない。証券会社が持ってきた定型である。

彼女は、その一文を、開示の担当として、適時開示のシステムに入力した。

字数は、九十二字だった。

入力して、次長の確認を受けて、送信した。

送信すると、三十秒ほどで、取引所のサイトに載る。

彼女は、載ったのを確認して、画面を閉じた。

その日は、水曜日で、彼女は十八時半に帰った。


第五部 差し戻し

22 決議

湊原市議会の九月定例会は、九月三日に開会した。

会議録は、市のサイトに載る。載るのは、閉会からおおむね二か月後である。

中山がそれを読んだのは、十二月に入ってからだった。

読んだのは、四件目の候補市への提案資料を作るためである。先行事例として、湊原市の三年間を、議会での扱われ方も含めて整理しておく必要があった。

一般質問の三日目に、その質問がある。

質問した議員は、二期目で、水産加工の会社の役員である。

○十四番(佐々木) 市長にお伺いいたします。

本市は五年前、ひなた銀行との連携協定に基づき、市公式アプリによる公共料金の収納を開始いたしました。

市民の利便性が向上したことについては、私も評価をしております。

実際、私の周りでも便利になったという声を聞きます。

 しかしながら、この三年間で、市内の金融をめぐる状況は変わってまいりました。

 地元の金融機関の決算を見ますと、収益が悪化しております。

本市の指定金融機関であり、四十年にわたって本市の公金を扱ってこられた金融機関であります。

市内に十四の店舗を持ち、四百三十人の雇用を抱えておられる。

市内の事業者への融資の八割近くを担っておられる。

 私は、市がこの状況にどう向き合うのかを、伺いたいのであります。

 災害のときに、現金を運んできてくださるのはどこですか。

事業承継の相談に乗ってくださるのはどこですか。

設備投資の話を、決算書を持って行って聞いてもらえるのはどこですか。

アプリではないはずであります。

 市が、市の側から、地域の金融機関との連携を弱めるようなことがあってはならない。

 この点について、市長の見解を伺います。

答弁は、企画政策部長がした。

○企画政策部長 お答えいたします。

本市とひなた銀行との連携協定は、市民の利便性の向上を目的とするものでございまして、特定の金融機関を排除する趣旨のものではございません。

 また、本市の指定金融機関につきましては、従前どおり潮見銀行に指定をお願いしており、公金の収納及び支払の総括的な取扱いにつきましては、同行にお願いをしているところでございます。

 診療費及び上下水道料金等の収納につきましては、市民の皆様の選択肢を増やすという観点から、収納チャネルの多様化を図ってまいりましたが、その結果として特定の金融機関の経営に影響を及ぼすことを意図したものではございません。

 今後とも、地域の金融機関の皆様とは、緊密に連携をしてまいりたいと考えております。

答弁は、二百四十字だった。

そのあと、佐々木議員が再質問をした。

○十四番(佐々木) 意図したものではない、というのはそのとおりだと思います。

私も、誰かが悪意でやったとは申しておりません。

 ただ、意図しなくても、結果は出るのであります。

 私が伺いたいのは、市が今後どうするかであります。

連携をしてまいりたい、では、何も変わらないのではありませんか。

企画政策部長は、検討する旨を答弁した。

十月二日の最終日に、決議が上程された。

地域金融機関との連携強化を求める決議

本市においては、人口減少と高齢化が進行する中、地域経済を支える金融機能の重要性が一層高まっている。

地域の金融機関は、単に金融サービスを提供する事業者にとどまらず、市内における主要な雇用の担い手であり、事業性融資の主たる供給者であり、災害時における現金供給その他の生活基盤の維持に不可欠な役割を担っている。

一方、本市におけるデジタル技術の活用は、市民の利便性の向上に大きく寄与してきたところであるが、その進展にあたっては、地域の金融機能との調和が図られるべきである。

よって本市議会は、市長に対し、次の事項について適切な措置を講ずるよう強く求める。

一、公金の収納その他の事務について、地域金融機関の役割を再確認し、必要な見直しを行うこと。

一、地域金融機関との定期的な協議の場を設けること。

一、デジタル技術の活用にあたっては、地域における金融機能の維持との両立を図ること。

以上、決議する。

令和×年十月二日

湊原市議会

賛成多数で可決された。反対は二人である。

会議録に、提案理由の説明が残っている。提案したのは、総務常任委員会の委員長である。

説明は、七行だった。

中山は、その決議文を、三回読んだ。

書いてあることは、全部本当である。

地域の金融機関が、市内で最大級の雇用の担い手であること。事業性融資の主たる供給者であること。災害時に現金を運んでくること。

嘘は、一行もない。

そして、決議のどこにも、ひなた銀行という名前は出てこない。

◇

会議録には、その決議の前に、市長が答弁に立った記録がある。

○市長 議員御指摘のとおりでございます。

私自身、地域の金融機関の果たしてこられた役割について、深く感謝をいたしております。

 六年前、私が市立病院の会計窓口の混雑につきまして御相談を申し上げましたときも、まず地元の金融機関に御相談を申し上げました。

その上で、システムの規模等の事情から、別の方法によることといたしました。

 これは、地元の金融機関を軽んじたものでは決してございません。

むしろ、無理をお願いすることのないよう配慮をした結果でございます。

 今後とも、地域の金融機関との連携を密にし、市民の利便性と地域経済の双方に資する市政を進めてまいります。

中山は、この答弁を二度読んだ。

梶原市長は、一つも嘘を言っていない。

六年前の盆の座敷で、彼が言ったことと、同じことが書いてある。

畑が違う。畑が違うことを、無理にやらせても、誰も得しない。

守るための判断だった。

23 解除条項

十二月の第三週、湊原市の企画政策課から、ひなた銀行の担当窓口に連絡が入った。

内容は、協定に基づく取組の一部について、協議をお願いしたい、というものである。

中山は、その連絡を、翌日に共有された。

年明けの一月十六日に、市役所で協議が持たれることになった。

出席は、市の企画政策部長、企画政策課長、病院事業管理課長、上下水道課長。ひなた銀行からは、事業統括部門の担当課長と、中山である。

中山にとって、湊原市役所に入るのは、六年前の締結式以来だった。

三階の会議室は、締結式のときと同じ部屋である。白い布は敷かれていない。長机が向かい合わせに並び、市章の看板もない。

企画政策部長が、口を開いた。

「まず、これまでのお取組について、市として大変感謝をしております。市民の利便性は、明らかに向上いたしました。特にオンデマンドバスの予約と決済につきましては、当初の想定を大きく上回る効果が出ております」

「ありがとうございます」

「本日御相談を申し上げたいのは、十月の市議会の決議に関することでございます」

企画政策部長は、決議文の写しを配った。

「一項目めに、公金の収納その他の事務について、地域金融機関の役割を再確認し、必要な見直しを行うこと、とございます」

「はい」

「これを受けまして、市といたしましては、診療費および上下水道料金の収納について、指定納付受託者の指定のあり方と、口座振替の取扱金融機関のご案内の仕方を、あらためて検討させていただきたいと考えております」

会議室は、静かだった。

「具体的には」担当課長が引き取った。「現在、市公式アプリからの支払につきましては、決済事業者を指定納付受託者として指定させていただいております。これに加えまして、地域金融機関を経由する収納の経路を、あらためて拡充する方向で検討したいと考えております」

「拡充、ですか」

「はい。減らすのではなく、増やす、ということでございます」

中山の隣の担当課長が、聞いた。

「アプリからの支払は、継続されるということでよろしいでしょうか」

「もちろんでございます」

「その場合、市の側の事務は、二重になりませんか」

「なります」

企画政策部長は、そこを認めた。

「なりますが、市議会の決議がございますので」

◇

協議は一時間で終わった。

終わったあと、市の担当者が席を立ち、部屋に中山と担当課長だけが残った。担当課長が、一枚の紙を出した。

六年前の協定書の写しである。

「中山さん。これ、読んだことありますか」

「起案のときに」

「もう一回、読んでみてください」

中山は、三枚の紙を読んだ。

読むのに、二分かからなかった。

第1条、連携事項。行政手続及び公共料金の支払に係る利便性の向上に関すること。キャッシュレス決済の普及に関すること。地域経済の活性化及び事業者支援に関すること。その他、甲及び乙が必要と認める事項。

第2条、役割分担。具体的な取組の内容、実施方法、費用の負担その他必要な事項については、その都度、甲及び乙が協議して定める。

第3条、経費の負担。前条の協議により定めるところによる。

第4条、有効期間。一年間。ただし一月前までに書面による申出がないときは、更に一年間延長する。

第5条、解除。書面により通知することにより、解除することができる。

「何も、違反していません」

中山は言った。

「そうです」担当課長は言った。「向こうも、うちも、この三年間、一度もこの協定書に違反していない。違反しようがないんです。義務が書いてないので」

「独占的な条項もないですね」

「ないです。だから、市が別の経路を増やしても、うちには文句を言う根拠がない」

「解除は」

「向こうが解除することもできます。書面一枚で、いつでも。ただし――」

担当課長は、そこで少し笑った。

「解除して、何が止まりますか」

中山は、答えなかった。

答えは分かっていた。

何も止まらない。

市の公式アプリは、市のものである。中に入っているひなた銀行の口座は、住民が個別に開設した、住民の口座である。協定を解除しても、その口座は閉じない。閉じるには、住民一人ひとりが解約の手続をしなければならない。

みなペイは、商工会議所のものである。加盟店は二百十四から三百四十一に増えている。チャージの入口は、ひなた銀行の口座のほか、コンビニの現金チャージと、クレジットカードがある。

オンデマンドバスの予約は、運行事業者のシステムに繋がっている。

協定書は、これらのどれについても、何も定めていない。

定めていないから、解除しても外れない。

六年前、この協定書を「誰も反対しないもの」にしたのは、そのほうが通りやすかったからである。義務を書けば、書いた義務について庁内の調整が要る。金額を書けば、予算の議決が要る。期限を書けば、期限のたびに議会に説明が要る。

だから、何も書かなかった。

書かなかったものは、あとから外すこともできない。

「中山さん」

「はい」

「うちとしては、何もしなくていいです。市が二重にやると言うなら、やってもらえばいい。うちの費用は増えません」

「増えませんね」

「増えないどころか、市が収納の事務を地元の銀行に戻すなら、うちの決済処理の件数だけが減って、口座はそのまま残ります。口座を維持する費用は、ほぼゼロです」

担当課長は、紙をしまった。

「悪い話じゃないんですよ、これ」

24 市長

一月十六日の協議のあと、中山は市役所を出て、駅まで歩いた。

湊原駅までは、市役所から千二百メートルある。バスがあるが、時間が合わなかった。

商店街を通った。

アーケードは、六年前と同じである。半分ほどの店にシャッターが下りている。開いている店の入口に、みなペイの案内の札が貼ってある。黄色と青の、商工会議所が作った札である。

彼の実家だった電器店の前を通った。

シャッターに貼られた観光ポスターは、六年前と別のものになっていた。港の朝市の写真である。

二階の窓に、洗濯物が干してあった。

彼は、立ち止まらずに通り過ぎた。

駅の手前で、名前を呼ばれた。

「中山やないか」

梶原孝史だった。

一人である。市長の公務ではなく、私用らしかった。コートを着て、紙袋を提げている。

「市役所か」

「はい。打合せで」

「そうか」

梶原は、紙袋を持ち替えた。

「時間あるか。茶でも」

駅前の喫茶店に入った。六年前のOB会をやった魚幸の、二軒隣である。

コーヒーが二つ来た。

「あれから、よう使われとる」梶原は言った。「水道な。うちの家内も、いまはアプリで払っとる。前は、わしが仕事帰りに払いに行っとった」

「そうですか」

「バスもな。あれが、いちばん大きい。うちの母親が九十二でな、病院に行くのに、前は近所の人に頼んどった。いまは前の晩に自分で予約しとる」

「予約が、電話だけだったので」

「そう。電話やと、五時までやろ。夜になってから、明日行こうと思うことがあるんや。年寄りは、夜に決めるんや」

梶原は、コーヒーに砂糖を二つ入れた。

「議会の決議、見たか」

「拝見しました」

「わしは、あれには反対せんかった」

「はい」

「反対する理由がないからな。書いてあることは、みな本当のことや」

梶原は、スプーンを置いた。

「潮見さんの決算な、悪い」

「そうみたいですね」

「金利上げたやろ。あれ、わしにはよう分からん。上げたら金は集まるんかと聞いたら、集まりますと言うとった」

「集まりましたか」

「知らん」

梶原は、笑った。

「まあ、頑張っとるということやろ。あそこは、うちの町の銀行やからな。四十年、公金を扱うてもろとる。指定金融機関いうのは、そういうもんや」

中山は、頷いた。

「中山」

「はい」

「六年前な、お前に頼んだとき、わし、なんて言うたか覚えとるか」

「――」

「うちの町の人は、口座なんか変えませんよ、と言うた」

「はい」

「あれ、当たっとるやろ」

中山は、答えた。

「当たっています」

「な」

梶原は、満足そうに言った。

「潮見さんの口座、みんな持ったままや。誰も解約しとらん。わしの給料も、四十年、同じ口座に入っとる。変えたことは一遍もない」

彼は、コーヒーを飲んだ。

「わしが変えんのやから、みんな変えるわけがない」

窓の外を、車が通った。

中山は、そのとき、言うべきことを一つだけ持っていた。

口座は変わっていない。変わっているのは、口座の中に置かれている金額である。給料日の翌朝に、五万円が別の口座へ動く。動いた金は、みなペイに入り、この商店街の店で使われ、店の口座に入る。店の口座は、みなペイの精算を経由する。

その一連の中に、潮見銀行が入っている場所は、もうほとんどない。

彼は、それを言わなかった。

言えば、梶原の判断が間違っていたことになる。

梶原の判断は、間違っていない。

六年前、潮見銀行にあの規模のシステム投資はできなかった。無理にやらせれば、開発費と保守費が重く乗り、いまより早く傷んだ。市民の利便性は、実際に向上した。九十二歳の母親が、自分で予約している。

「元気にしとるんか。親父さん」

梶原が聞いた。

「はい。おかげさまで」

「店、閉めてからもう長いな」

「七年です」

「そうか」

梶原は、伝票を取った。

「またOB会来い。お前の代、ぜんぜん来んのや」

◇

店を出たあと、梶原は「ちょっと寄っていけ」と言った。

家は、商店街から歩いて七分のところにある。二階建ての、古い家である。玄関を入ると、廊下の右手が座敷になっていた。

母親は、その座敷にいた。九十二歳である。座卓の前に座って、テレビを見ていた。

「息子の後輩や。東京から来とる」

中山は、挨拶をした。母親は、丁寧に頭を下げた。

梶原が、時計を見た。

「そろそろやろ、ばあちゃん」

「ああ、そうやね」

母親は、座卓の上の携帯を取った。折りたたみではない。画面の大きい機種である。

「明日の、病院な」

彼女は、画面を二回叩いた。

アプリが開いた。中山の会社が作ったものである。市の名前とロゴが上に出て、その下に、四つのボタンが並んでいる。並び順は、湊原市の設定ファイルで決めてある。上から、バス、支払い、みなペイ、お知らせ。

母親は、いちばん上のボタンを押した。

次の画面に、二つのボタンが出る。予約する、予約を確認する。

「予約する、やね」

「そうや」

彼女は押した。

出発地の欄には、「自宅」と入っている。登録してあるからである。目的地の欄を押すと、よく使う場所が三つ出た。市立病院、Aコープ、駅前。

彼女は、市立病院を押した。

日付と時刻の画面になった。明日の、九時三十分。

「九時半でええんか」

「診察が十時やから」

「ほな、それでええ」

彼女は、決定を押した。

画面が変わって、予約番号と、迎えの時刻が出た。九時二十二分から九時三十二分のあいだ、と書いてある。

十秒か、十五秒である。

母親は、携帯を座卓に置いた。

「昔はな」梶原が言った。「前の日に電話しとったんや。バスの事業者に。九時から十七時のあいだにな。土日は、電話つながらん」

「そうやった」母親が言った。「日曜に決まったときは、月曜の朝いちばんに掛けとった」

「掛けても、その時間は埋まっとるしな」

母親は、うなずいた。それから、中山のほうを向いて、こう言った。

「これは、ええですよ」

中山は、はい、と答えた。

ほかに、言うことがなかった。

梶原が、笑った。

「な。ええやろ」

彼は、本当にそう思っている。

そのとおりのことが、起きている。

九十二歳の人が、自分の携帯で、十五秒で予約している。六年前は、電話をかけていた。かけても、つながらないことがあった。

中山は、玄関で靴を履きながら、座敷のほうをもう一度見た。

母親は、テレビに戻っていた。

携帯は、座卓の上に置いてある。

25 差し戻し

三月の市議会で、病院事業会計と上下水道事業会計の予算が可決された。

附帯決議は、五項目である。四番目が、こうなっていた。

一、公金の収納にあたっては、地域金融機関の役割に十分配慮し、市民の利便性と地域の金融機能の維持との両立を図ること。

六年前の同じ位置には、こう書いてあった。

一、収納チャネルの多様化を図り、市民の利便性の向上に努めること。

◇

三月の下旬、市の企画政策課から、収納事務の取扱いの変更についての事務連絡が届いた。

A4一枚の依頼文に、市の内部の起案文書の写しが一部、添付されていた。付けるべきものではなかったのかもしれない。差し替えの連絡は、来なかった。

件名は、「診療費及び上下水道使用料の収納事務の取扱いの変更について」である。

決裁の欄に、課長、部長、副市長。合議の欄に、病院事業管理課、上下水道課、会計課、財政課。押印は、全部揃っている。

根拠の欄は、二行だった。

令和×年十月 湊原市議会 決議 第一項

令和×年三月 湊原市議会 病院事業会計予算 附帯決議 第四項

理由の欄は、三行である。

上記決議の趣旨を踏まえ、公金の収納における地域金融機関の役割を確保する必要がある。

現行の収納経路には、指定金融機関を経由しない部分がある。

なお、特定の事業者を排除する趣旨のものではない。

備考の欄に、一行あった。

市民の手続に変更は生じない。

中山は、その一枚を、二度読んだ。

書式は、彼の会社の稟議書とは違う。欄の名前は、ほとんど同じである。件名、根拠、理由、備考、決裁、合議。

六年前、彼が読んだ附帯決議にも、同じことが書いてあった。収納チャネルの多様化を図り、市民の利便性の向上に努めること。

あれも、この欄に入る一行である。

議会が言ったことは、そのままでは何も動かさない。誰かが起案の紙を書いて、根拠の欄にその項番を引いたときに、初めて事務になる。

引かれるのを待っている一行が、市議会には毎年、何十も積まれている。

六年前は、多様化を図ることが引かれた。今年は、地域金融機関の役割を確保することが引かれた。

どちらも、議決されたときには、誰も反対していない。

四月一日から、二つのことが変わった。

一つ。診療費と上下水道料金の収納が、市の会計に入るまでの経路として、指定金融機関である潮見銀行を必ず経由する形になった。従来は決済事業者から市の会計へ直接入っていた。

二つ。病院の会計窓口の端末の画面に、一行が追加された。

お引落しの口座は、あとから変更できます(潮見銀行のお取扱いもございます)

九ポイントである。ボタンではなく、文字だけである。

住民から見て、それ以外に変わったことは何もない。

ボタンの位置も、三秒も、通知の文言も、変わっていない。

中山の側でやったことは、設定ファイルの、収納機関コードの行を一つ書き換えることと、表示文言の行を一つ足すことだった。

作業は、二時間で終わった。

彼は、妨げなかった。

妨げる理由が、なかった。

契約上の根拠がない。協定書には独占的な条項がない。費用も増えない。むしろ、収納の突合と精算の事務がひなた銀行の側から一部外れるので、月次の運用の負荷は下がる。

黒木に報告したとき、彼女はこう言った。

「それは、市の判断ですから」

「はい」

「うちの数字への影響は」

「決済処理の件数が、月間で六千件ほど減ります。金額では影響ありません。口座残高にも、影響しません」

「なぜですか」

「収納の経路が変わるだけで、住民の払い方は変わらないので」

「では、うちは何も失っていませんね」

「はい」

黒木は、頷いて、次の議題に移った。

◇

五月に、地元紙が記事を出した。

公金収納、地元銀行経由に 市「地域金融と両立」

湊原市は四月から、診療費と上下水道料金の収納事務について、指定金融機関である潮見銀行を経由する方式に切り替えた。

昨年十月の市議会決議を受けた措置で、市は「市民の利便性を維持しつつ、地域金融機関の役割に配慮した」としている。

 市立病院の窓口での口座振替の申込や、市公式アプリからの支払は従来どおり利用できる。

市によると、利用者側の手続きの変更はない。

 潮見銀行の担当者は「地域の公金を扱う金融機関として、引き続き責任を果たしたい」と話している。

記事は、十四行だった。

同じ面に、市内の水産加工会社が新工場を稼働させたという記事が、二十二行で載っていた。融資は潮見銀行である。

中山は、その二つの記事を、同じ画面で読んだ。

戻ってきたのは、収納の事務である。

決済ではない。

住民が金を払う場所は、アプリのままである。払われた金がどこを通って市の会計に入るかが、変わっただけである。

住民の生活の中心には、みなペイがある。

加盟店は三百四十一。市内の小売と飲食のおおむね八割五分。

朝市も、加盟している。

26 必要とされること

五月に、潮見銀行が中期経営計画を公表した。

三か年である。ホームページに、二十四頁の資料が載った。中山は、それを昼休みに読んだ。

表紙に、標語がある。

地域とともに ― 決済から与信まで、暮らしを支える金融機関へ

三頁目に、経営環境の認識がある。人口減少、高齢化、事業所数の減少、金利環境の変化。事実として、すべて正しい。

六頁目に、前計画の総括がある。

個人預金につきましては、金利改定等の施策により、口座数を維持することができました。

一方、一口座あたり残高は減少しており、要因の分析を進めております。

九頁目から、三つの重点戦略が並ぶ。

一、地域における決済インフラの担い手としての機能強化。
二、事業性評価にもとづく与信の深化。
三、経営基盤の強化。

一の頁に、施策が四つある。

公金収納事務の確実な遂行。窓口およびATM網の維持。デジタルチャネルの拡充。地域の決済ニーズへの対応。

中山は、その四つを読んだ。

一つ目は、四月一日から始まっている。入ったのは、経路である。

二つ目は、維持である。増やすとは書いていない。

三つ目に、投資額が書いてある。三か年で、十八億円。内訳は、アプリの更改と、法人向けのポータルと、勘定系の共同センターの更改負担金である。

共同センターの更改負担金が、十八億円のうち十一億円だった。

これは、選べる支出ではない。四行で使っている箱が更改されるので、持分に応じて払う。払わない選択肢は、脱退である。

残りは、七億円である。

四つ目には、施策が書いていない。「地域の事業者との連携を検討する」とある。

中山は、そこで一度、頁を戻して、標語を見た。

地域とともに ― 決済から与信まで、暮らしを支える金融機関へ

書いた人は、正しいことを書いている。

潮見銀行は、指定金融機関である。公金の収納を担っている。給与振込口座を十四万持っている。ATMが市内に六十一か所ある。地域の決済を支えているという記述は、事実として、どこも間違っていない。

間違っているところが、一つもない。

十四頁目に、二の与信の話がある。

事業性評価。事業承継。創業支援。目標として、三年で融資残高を四百億円増やすと書いてある。

中山は、その数字を見た。

貸出金は、五千百億円である。四百億円は、八パーセントである。

三頁前に、地域の事業所数が三年で六・二パーセント減っていると書いてある。同じ資料の中である。

減っている中で、八パーセント増やす。

方法は、書いてある。県外の案件と、シンジケートローンへの参加と、ファンドへの出資である。

これは、地域の外である。

十九頁目に、経費の計画がある。

店舗数、十四を維持。人員、四百二十六名を維持。

維持する理由は、書かれていない。書く欄がない。

二十二頁目に、財務目標がある。

コア業務純益、自己資本比率、OHR。三つとも、三年後の数字が置いてある。三つとも、いまより良くなっている。

良くなる前提は、預金コストの低下と、役務収益の増加と、経費の抑制である。

預金コストの低下、というところで、中山は止まった。

普通預金の金利を、下げる前提になっている。

下げれば、預金は出る。出れば、また同じことになる。

出ないと置いているのは、置かなければ計画が成り立たないからである。

彼は、資料を閉じた。

閉じてから、もう一度開いて、六頁目に戻った。

一口座あたり残高は減少しており、要因の分析を進めております。

四年前に、その分析は、終わっている。

四十二頁ある。そのうちの十六頁が、取締役会に上がった。残りの二十六頁は、共有フォルダにある。

中山は、それを読んだ数少ない人間の一人である。

読んだことは、記録に残っている。相手方に開示されない記録に、残っている。

彼は、昼休みの終わりに、その資料を保存フォルダに入れた。

フォルダの名前は、「湊原市・関連」である。

その中に入っているものは、もう七十件を超えていた。

昼休みは、まだ十分ほど残っていた。窓の下で、東京タワーの脚に日が当たっている。

◇

七月に、潮見銀行の決算が出た。

中山は、それを読んだ。読む理由は、もう業務上ほとんどない。六件目と七件目の案件が動いており、湊原市は先行事例の一つになっていた。

コア業務純益が、三十八億円から二十一億円になっていた。

内訳を見た。

資金利益が減っている。減っているのは、貸出の利息が減ったからではない。貸出金は、五千百億円から五千二百四十億円に、むしろ増えている。

減っているのは、預金の利息を払っているからである。

〇・六〇の五年目である。

役務取引等利益は、微増していた。説明資料に、その理由が書いてある。

公金収納業務に係る取扱件数の増加等により、役務取引等利益は前年同期比で増加しました。

差し戻された分である。

金額は、書いていない。総額の中に入っている。

中山は、収納事務の一件あたりの手数料を、業界の相場から見積もった。公金の収納で、金融機関が自治体から受け取る手数料は、一件あたり数十円である。自治体によっては、無償に近い。

月間六千件。年間七万二千件。

一件三十円としても、二百十六万円である。

その二百十六万円のために、潮見銀行はシステムの改修をしている。

有価証券報告書の設備投資の欄に、勘定系システムの改修費が計上されている。公金収納関連。金額は、四千万円だった。

十八年分である。

◇

同じ資料に、店舗と人員の記載がある。

店舗数、十四。前年と同じ。

従業員数、四百二十六人。前年から四人減。定年退職と自己都合である。

中期経営計画の進捗のページに、こう書いてある。

店舗ネットワークの最適化について

当行は、地域における金融インフラとしての役割に鑑み、店舗の統廃合については慎重に検討を行っております。

特に、公金収納をはじめとする地方公共団体の事務を受託している拠点につきましては、その機能の維持が求められることから、現行の体制を維持する方針です。

中山は、この一段落を、二度読んだ。

公金収納を担う限り、店舗は減らせない。

減らせない理由は、収益ではない。収益は、二百十六万円である。

減らせないのは、受託しているからである。

そして、貸出のページを見た。

地域における金融仲介機能の発揮について

当行は、市内水産加工業者の設備投資、介護事業者の施設整備、市立病院関連事業について、複数年にわたる資金供給の方針を継続しております。

当期においては、市内における新規の設備投資案件に対し、三十四億円の実行を行いました。

貸出は、増えている。

増やしているのではない。地域の資金需要に応じている。応じないという選択肢が、この銀行にはない。四年前の取締役会で、営業統括担当の取締役が言ったとおりである。

当行が引けば、その事業は止まる。

代替の貸し手は、存在しない。

中山は、その二つの頁を並べた。

店舗は減らせない。公金を扱っているからである。

貸出は減らせない。地域に必要とされているからである。

預金は、〇・六〇である。

必要とされていることが、二重に、終わりを奪っている。

彼は、その表現を、頭の中で一度作って、すぐに消した。

作った表現は、どこにも書かなかった。

◇

八月に、潮見銀行が別の地方銀行との資本業務提携を発表した。

隣県の、総資産二兆円台の銀行である。統合ではない。システムの共同化と、人材交流と、一部の業務の共同運営である。

プレスリリースに、こう書いてある。

両行は、地域における金融機能の維持と、経営効率の向上を両立させることを目的として、本提携に合意いたしました。

両行の独立性は維持され、店舗網、従業員の雇用、地域における営業体制については、現行のとおり継続いたします。

中山は、これを読んで、うまくやったな、と思った。

システムを共同化すれば、費用は下がる。独立性を維持すれば、地域の反発はない。雇用も店舗も維持すると書けば、議会も了承する。

書いてあることは、全部本当である。

そして、この提携で、預金の性質は何も変わらない。

◇

八月の終わりに、上期の目標管理の面談があった。

中山は、部の八人の一次評価者である。面談の前に、本人が書いた欄を読む。書式は全社共通で、「今期の目標に対する自己評価」「工夫した点」「来期に向けて」の三つが縦に並んでいる。たいていは、三行ずつで埋まる。

早瀬のシートは、二枚目に続いていた。

【今期の目標に対する自己評価】

通知の文言及び送信時刻の最適化は、期初に置いた水準に到達した。

ただし到達した要因の多くは、対象となる母数が増えたことにあると考えている。

母数が増えたのは担当する市が増えたためであり、それは自分の仕事ではない。

数字は達成しているが、達成した理由を自分の言葉で説明できない。

この点は未達である。

【工夫した点】

設定ファイルの記載内容を、当該市の決算資料と突き合わせて確認するようにした。

会計の区分は設定ファイルには現れないため、誤りがあっても動かないという形では出てこない。

動いてしまう誤りがあると考えたためである。

三件で、稼働前に誤りを発見した。

【来期に向けて】

担当している市に、一度行きたい。

業務上必要だからではない。

必要でないことは分かっている。

自分が扱っているのは、設定ファイルの三行目に書かれた文字列と、日別に並んだ入金の分布であり、それは現地に行っても増えない。

行っても、たぶん、何も分からないと思う。

ただ、偶数月の十五日の山を、自分は四年見ている。

あの山の中に何人いるのかは数字で出せるが、その人たちが何をしている人なのかは、一度も見ていない。

通知の文面を決めたのは自分である。

引落しの金額と、それに足りない残高とが並んだ画面を見た人が、そのあとどうしたのかを知らない。

知らないままでも仕事は回っている。

回っているので、これは希望であって、要望ではない。

面談は、十五分で終わった。

「行きたいというのは、出張でということですか」

「はい」

「四件目と五件目のほうが、いま人が足りない。湊原市は、もう先行事例になっているので、行く名目が立たない」

「そうですよね」

「立てば、通す」

「はい」

早瀬は、それで引き下がった。引き下がったように見えた。

評価者の記入欄に、中山は書いた。

期待水準を上回る。

担当領域の外まで自ら確認する姿勢は、部内で最も安定している。

次期は、後進の指導を担当範囲に加えたい。

書いてから、来期に向けての欄を、もう一度読んだ。

あの山の中に何人いるのかは数字で出せる。

彼は、その行の下に何か書こうとして、やめた。書けば、彼女はそれを目標として受け取る。受け取れば、そのとおりに伸びる。この数年で分かったのは、そういう伸び方をする人間だということである。

面談の記録を保存して、シートを閉じた。

名目は、その後も立たなかった。

27 退任

十月に、湊原市上下水道公社の広報誌が更新された。

年に二回、市の広報と一緒に全戸に配られる。PDFが市のサイトに載る。

A4で八ページ。老朽管の更新工事の進捗、水質検査の結果、節水の呼びかけ、料金改定の予告。

七ページ目に、人事の欄がある。

役員の異動について

令和×年九月三十日付をもちまして、取締役 富永孝が任期満了により退任いたしました。

富永取締役は平成×年より当公社の運営に携わり、収納業務の効率化、債権管理体制の整備等に尽力されました。

ここに深く感謝申し上げます。

その下に、四行の挨拶が載っている。

退任にあたって  前取締役 富永 孝

 八年間、皆様に支えていただきました。

公社の経営は、常に地域の皆様の生活と直結しており、その重さを日々感じてまいりました。

 振り返りますと、私は、そのときどきに正しいとされたことを、正しい順序で申し上げてきただけのように思います。

 湊原市の水道が、これからも安全に、安定して供給されますことを、心よりお祈り申し上げます。

中山は、その三段落目を読んだ。

読んで、一度戻って、二段落目をもう一度読んだ。

私は、そのときどきに正しいとされたことを、正しい順序で申し上げてきただけのように思います。

彼は、この人の名前を、二度見ている。

一度目は、六年前の二月の、公社の取締役会の議事録である。収納チャネルの追加に賛成した。住民の利便性の向上に資する、という理由で。

二度目は、去年の秋である。市議会の決議の前後に、地元紙の記事の中に、公社の取締役として一行だけ出てきた。地域の金融機能との調和が必要である、という趣旨の発言をしている。

方向は、逆である。

賛成し、そのあと、戻す側に立った。

理由は、どちらも、そのときに正しいとされたことである。

一度目のとき、潮見銀行にあの規模のシステム投資をさせない、というのが、その組織にとって正しかった。負担を回避することが、自行を守ることだった。

二度目のとき、地域の金融機関を支えるという議会の空気に乗ることが、その組織にとって正しかった。

どちらの判断も、潮見銀行を弱らせた。

一度目の判断が、決済を外に出した。

二度目の判断が、収納の事務だけを取り戻した。

中山は、この人に会ったことがない。

顔も知らない。写真は、広報誌にも載っていない。

彼は、PDFを閉じた。

28 土産

一月の下旬に、業界紙の取材を受けた。

広報部から回ってきた。地域金融のデジタル化の特集で、自治体との連携の事例を一本入れたい、ということだった。

紙の名前を見て、中山は、それが四年前に潮見銀行の企画部の記事が載った紙だと気づいた。地方銀行と信用金庫の実務者が読む紙である。

ひなた銀行は、その読者層に入っていない。

「うちが出る紙ですか」

「先方から、ぜひにと」広報の担当が言った。「地銀さん向けに、こういう組み方があるという事例として、と」

条件は、三つ付いた。個別の市の名前は出す。数字は、公表済みのものだけ。中山の氏名と役職は出す。

面談は、一月二十四日の午後、六本木の三十一階の会議室である。

記者は、五十代の男性だった。ノートに、万年筆で書いていた。

質問は、想定どおりに来た。なぜ小規模自治体で採算が合うのか。どういう機能を載せているのか。指定金融機関との関係はどうなっているのか。

中山は、テンプレートの話をした。

中身は触らない。ロゴと、表示文言と、収納機関コードだけを差し替える。構成ファイルが一枚あれば、新しい市が立ち上がる。だから対象人口の規模に、実装費が依存しない。

「その仕組みは、いつ作られたんですか」

「一件目のときです」

「一件目というのは」

「湊原市です」

記者は、それを書き取った。

「湊原市さんは、いま何件目に相当する数字ですか」

「稼働している市の中では、いちばん上です」

「ほかの市より、いいんですか」

「条件が違います」

これは、黒木の言い方である。中山は、それを三年、そのまま使っている。

記者は、うなずいて、次の質問に移った。

一時間の予定が、一時間二十分になった。

終わりぎわに、記者が、ノートを閉じながら言った。

「潮見銀行さんの企画部の方に、以前、取材したことがあります」

中山は、手元のペンを置いた。

「そうですか」

「四年前です。預金の数え方の話でした。おたくの記事とは、まったく別の切り口ですが」

「はい」

「あのときの原稿は、長かった」

記者は、そう言って、笑った。

「一時間以上いただいて、二十三行にしてしまった。ああいうのは、こちらの都合なので、申し訳ないんですが」

中山は、何か聞こうとした。

聞くとすれば、何を聞くのかを、そのとき考えた。

省略されたのは何ですか、とは聞けない。取材の内容である。記者は答えない。答えれば、この人は次の取材ができなくなる。

その方が、いま何をしているか、も聞けない。氏名を出さない条件で受けた取材である。

彼は、こう聞いた。

「その特集は、反響ありましたか」

「ああ、ありましたよ。滞留日数という言葉が、あのあと少し広まりました」

「そうですか」

「いまは、どこの地銀さんも言いますね。四年前は、誰も言っていなかった」

記者は、鞄にノートをしまった。

「じゃあ、原稿は二月の第一週に。分量は、六十行いただいています」

中山は、礼を言って、エレベーターまで送った。

記事は、二月の第一週に出た。

六十四行あった。写真が付いている。会議室で撮ったもので、中山が写っている。

見出しは、「テンプレートで小規模自治体へ」だった。

役職と、氏名が、本文中に二回出る。

記事の末尾に、一行あった。

※ 談話は紙幅の都合により一部省略しました。

中山は、その一行を見た。

自分が何を省略されたのかは、分かっている。中盤の、二件目以降の数字の話である。公表済みの数字だけという条件があったので、具体的な数字は出せず、話としても短くなった。落ちても、困らない。

彼は、その号を、抽斗にしまった。

抽斗には、四年前の切り抜きが、まだ入っている。

二つは、同じ紙である。

◇

二月の、月曜の朝だった。

早瀬が、朝いちばんに中山の席へ来た。紙袋を持っている。

「これ、部の島に置いておきます」

「何」

「干物です。あと、これは中山さんに」

小さい箱だった。包装紙に、見たことのある屋号が刷ってある。中山の実家から、通りを二本入ったところにある菓子屋である。

「湊原、行ってきました」

「出張は、通してないぞ」

「有給で行きました。名目、要らないので」

そういう手があった。中山は、半年、それを思いつかなかった。

「一人で?」

「一人です」

早瀬は、立ったまま話した。座らないのは、話が長くならないと思っているからで、実際には十五分かかった。

木曜の夜に発って、在来線を乗り継いで二時間半。駅前のビジネスホテルに三泊。金曜だけ有給を取れば、あとは土日である。行きの車中で、アプリを入れ、マイナンバーカードを携帯の背面に当てて口座を作った。三秒だったので、時計を見ながらもう一度やったという。

「三秒でした。二回とも」

土曜に、オンデマンドバスに乗った。前の晩に予約した。乗ったのは彼女を入れて三人で、あとの二人は八十代くらいの女性だった。運転手に、どこから来たのかと聞かれた。

「東京から来ましたと言ったら、うちのバスに観光で乗る人は初めてだと言われました」

「観光と言ったのか」

「言っていません。向こうがそう思っただけです。訂正すると、説明が長くなるので」

商店街で、干物を買った。みなペイで払った。店主が端末を出してくるまでに、二十秒かかった。

「奥から持ってきました。普段は出しっぱなしにしていないみたいです。でも、慣れてはいました。釣り銭を数えなくていいのがいちばん助かる、と」

「二十秒かかっているのに」

「二十秒は、私が最初の客だったからです。そのあと、地元の人が二人続けて使っていました」

中山は、そこを聞いていた。聞きながら、それを図にする方法を考えている自分に気づいて、やめた。

「病院は」

「入口まで行きました。中には入っていません。患者ではないので」

早瀬は、そこで携帯を出した。写真を一枚、中山に見せた。

窓口の横の、白い台。オンライン資格確認の端末があり、その隣に、こちらの端末がある。二十センチ。

その台に、A4の紙が貼ってある。ラミネートがかかっている。手書きである。

カードは 2かい おいてください

1かいめ むかって左(ほけんしょう)

2かいめ むかって右(こうざ)

2かいめは やらなくても だいじょうぶです

「これ、うちのテンプレートには入っていません」

「入っていない」

「誰かが書いて、貼ったんだと思います。書き方からすると、職員の方です」

中山は、その写真を、長く見た。

三行目に、やらなくても大丈夫です、と書いてある。

そう書いてある紙の下で、これまでに一万三千件の口座が開いている。

「十六日に行ったのは、わざとか」

「わざとです」

早瀬は言った。

「十五日の翌日を見たかったので。郵便局の前に、九時前から列がありました。十人くらいです。並んでいる人は、みんな通帳を持っていました」

早瀬は、その列を、道の反対側から二十分見ていたという。

「シャッターが開くまで、誰も前に詰めませんでした。順番は、来た順で決まっていて、あとから来た人が、いま何人目かを自分で数えていました。数えて、後ろに立って、そこから世間話です。前から三人目の方が、四人目の方に、病院はどっちに行くのが早いかを聞いていました。四人目の方が、バスの時刻の紙を出して見せていました」

「その紙は」

「バス停の時刻表を、写して手で書いたものです。オンデマンドバスの予約の紙ではありません」

窓口が開いてからは、一人あたり四分から六分かかっていたという。通帳を出し、金額を書き、受け取り、その場で財布に分けて入れる。分けている人が多かった、と早瀬は言った。封筒を持ってきている人もいた、とも言った。

中山は、それを、自分の席で聞いている。

「封筒に、鉛筆で書いてあるんです。何かは、見えませんでした。たぶん、どこに払う分か、だと思います」

「アプリではなく」

「アプリではないです。年金を下ろすのは通帳で、そのあとスーパーで払うのがアプリでした。同じ人が、両方やっていました」

「そのあとは」

「潮見銀行に行きました」

中山は、顔を上げた。

「本店です。市役所の向かいの。口座を作りました」

「作った」

「作れます。誰でも作れるので」

十七分かかった、という。用紙が二枚。住所と氏名と生年月日を三回書いた。窓口にいたのは若い男性で、たぶん一年目である。丁寧だが、手が止まる。止まるたびに、後ろの席の年配の女性を振り返っていた。

「窓口は七つあって、開いていたのは二つです。ロビーの雑誌が、去年の十一月号でした」

「……寂れているか」

「寂れています」

早瀬は、そう言った。悪く言っている口調ではなかった。数字を読み上げるときと、同じである。

「石で、天井が高くて、カウンターの木も良いものです。それで、人がいないので、音が響きます」

待合の椅子に、六人いたという。呼ばれるのを待っている人が、二人。あとの四人は、番号札を持っていなかった。

「一人は、新聞を読んでいました。二人は、並んで座って話していました。もう一人は、ただ座っていました。用がある人と、ない人の見分けが、私にはつきませんでした」

「用がないのに、いるのか」

「涼しいからかもしれません。二月ですけど、暖かかったので」

早瀬は、そこで一度、言い直した。

「私の待ち時間は、十七分です。あの店の平均待ち時間は、たぶん短いです。数字にすると、たぶんいい数字が出ます」

普通預金の金利がなぜ他行より高いのかを、早瀬は窓口で聞いた。意地悪ではない、と彼女は言った。毎日その数字を見ているので、口が勝手に聞いた。

若い男性は、答えられなかった。奥へ聞きに行こうとした。

そのとき、ロビーの掲示の前に立っていた女性が、代わりに答えた。〇・六〇の紙である。

「全部の普通預金に、同じ利率が付きます。期間の限定はありません。お手続きも要りません」

それだけ言って、行ってしまったという。

「行員の方ですか」

「行員です。名札は、付けていたと思います。読んでいません。三十代の前半だと思います。紙の束を持って二階から降りてきて、掲示をしばらく見て、また上に戻っていきました」

「自分の店の紙をか」

「はい。見た目は、失礼ですけど、パッとしない人でした。でも、あの店でいちばん速かったです。聞いてもいないのに、期間の限定はありません、まで言いました。あそこがいちばん大事なところなので」

中山は、うなずいた。

「通帳、もらいました」

早瀬は、鞄から出して見せた。黒に近い濃紺のビニールのカバーに、金の箔押しで行名が入っている。その上に、波を三本重ねた行章。

「表紙、選ばされました。新しいほうは水色で、字が横に並んでいます。どちらが多いですかと聞いたら、こっちを出してきました」

表紙の裏に、届出印を押す欄がある。署名で作ったので、空欄のままだった。

印字は、一行しかない。

二月十六日、一〇〇〇円。

中山は、それを手に取った。思っていたより重かった。

「カードは、後日郵送です。東京の部屋に、潮見銀行のカードが届きます」

「口座は、置いておきます。解約しに行くのに、また行かないといけないので」

彼女は、そこで少し黙った。

「山の中にいる人たち、急いでいませんでした」

「急いでいない」

「はい。列に並ぶのに三十分かけて、そのあと二時間くらい、あの辺にいるんです。スーパーの前のベンチとか。私の図では、あれは十五日の一本の棒です」

中山は、何か言おうとした。

言おうとして、自分が湊原市に八年帰っていないことを思い出した。この案件が始まってからは、二度行っている。二度とも、市役所と病院と会議所と、駅前のホテルである。郵便局の前の列は、見ていない。

「行っても何も分からないと思うと、書いていたよな」

「書きました」

「どうだった」

「何も分かりませんでした」

早瀬は言った。

「数字は、何も変わりません。図も、直すところがありません。行かなくても、仕事は同じようにできました」

「そうか」

「ただ、通知の文面を、もう一案だけ考えました」

「いつ考えた」

「郵便局の前です」

早瀬は、そこで少し考えて、続けた。

「引落しの三日前に出す、というのは、三日あれば口座に入れられる、という前提だと思うんです。私も、そう思って設計しました。でも、あの封筒に分け終わったあとの人に三日前と言っても、たぶん、もうないんです。分けたものを戻すことになるので」

彼女は、紙を一枚置いていった。

置いていった紙を、中山はその日のうちに読んだ。

書いてあったのは、引落しの三日前ではなく、十五日の夕方に一度出す通知だった。金額も残高も書いていない。次の引落しの日だけが書いてある。

理由の欄に、一行あった。

十五日に下ろした現金は、その日のうちに配分されている。配分が終わってから知らせても遅い。

中山は、それを承認した。

承認の欄に、日付と、自分の名前を入れた。

その日の帰り、地下鉄の中で、四月一日のことを思い出した。

三分の挨拶で、彼は三つのことを思った。三つ目は、続かないかもしれない、だった。

続かない人間の見分け方について、彼はそれなりに自信を持っていた。

菓子の箱は、鞄に入れたままだった。

◇

六月に、市の企画政策課から、広報の写しが送られてきた。

市の広報は、月に一回出る。市内の全戸に配られ、市のサイトにも載る。送られてきたのは、そのうちの一頁だけである。

「市民の声とその回答」という欄だった。

毎号、三件から五件が載る。様式は決まっている。投書の要旨、担当課、回答。氏名は載らない。年代と地区だけが載る。

その号には、四件あった。

三件目と、四件目に、印が付いていた。企画政策課の誰かが、蛍光ペンで囲んである。

三件目は、こうだった。

【七十代・女性・湊町地区】

病院の支払いのお知らせが、前は引落しの三日前に来ていましたが、今は十五日の夕方に

来るようになりました。私は年金が十五日に入るので、その日のうちに封筒に分けています。

三日前だと、もう分け終わっているので、戻すのが大変でした。今のほうが助かります。

【回答・病院事業管理課】

貴重なご意見をありがとうございます。お知らせの時期につきましては、事業者と協議のうえ、

本年三月から変更しております。今後とも、市民の皆様に分かりやすい運用に努めてまいります。

中山は、その七行を、二度読んだ。

早瀬が、郵便局の前で考えた案である。理由の欄に、一行だけ書いてあった。十五日に下ろした現金は、その日のうちに配分されている。配分が終わってから知らせても遅い。

彼が承認したのは、二月である。三月から動いている。

当たっていた。

四件目は、こうだった。

【八十代・男性・新浜地区】

病院の会計で、カードを二回置くように言われました。一回で済まないのですか。

窓口の方は親切に教えてくれましたが、二回置く意味が分かりません。

【回答・病院事業管理課】

診療費のお支払いに関する手続と、健康保険の資格確認の手続は、それぞれ別の仕組みに

よるものであり、恐れ入りますが、それぞれの端末での操作をお願いしております。

ご不便をおかけいたしますが、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

回答は、正確である。

一回で済まない理由は、そのとおりだからである。オンライン資格確認の端末には、仕様も接続先も定められていて、こちらのものは載せられない。だから、二十センチ隣に、別の筐体を置いてある。

書けることは、全部書いてある。

中山は、この二件が同じ頁に並んでいることを、しばらく見ていた。

一件は、助かっている。

一件は、意味が分からないと言っている。

市は、どちらにも、同じ丁寧さで答えている。

彼は、その写しを、早瀬の席へ持っていこうとして、途中でやめた。

三件目を見せれば、彼女は喜ぶ。喜ぶだけの仕事をしている。

四件目も、一緒に見えてしまう。

彼は、その一枚を、抽斗に入れた。

抽斗には、四年前の切り抜きと、二月の号と、この一枚が入った。

早瀬は、そのころ、七件目の市の設定ファイルを直していた。

料金科目の名称が、その市だけ違っている。「使用料」ではなく「利用料金」である。地方自治法上の区分が違うからで、直さないと、通知の文面がその市の条例と合わなくなる。

彼女は、それを見つけて、直した。

見つけたのは、その市の条例を読んだからである。読めとは、誰も言っていない。


終章

翌年の四月、中山は次長になった。担当は、地域プラットフォーム全体である。稼働している市は、九つになっていた。

湊原市の実証は、成功事例として報告書にまとめられ、全国の自治体向けの資料に載った。そこに中山の名前はない。載っているのは、テンプレートの名前である。

五月の火曜日、彼は十件目の市の稟議書を書いていた。

件名、区分、起案部署、起案者、金額、期間、目的。

目的の欄は、湊原市のものがそのまま使える。市の名前と、人口と、医療機関の数を差し替えるだけである。

書きかけで、彼は別のタブを開いた。

湊原市のダッシュボード。累計の口座開設数、当日の決済件数、当日の決済金額、残高の合計。

数字は、計画を大きく上回っている。

報告書に載っているのも、この画面である。

画面を開いてから閉じるまでのほうが、目的の欄の市の名前を差し替えるより、長くかかった。

彼は、画面を閉じた。

稟議書に戻り、区分のプルダウンを開いた。項目は七つある。新規提携、既存提携の拡張、システム投資、業務提携、出資、撤退、その他。

この案件を表す項目は、ない。

彼は、その他を選んだ。

十四時からの会議の通知が、右下に出た。

◇

岸本志穂は、その年も、誰にも見せていない表を更新した。

年度の列に一行足し、預金残高と貸出金の数字を入れた。

右端の欄は、空白のままだった。


付録

付録一・人物

ひなた銀行(東京・六本木)

店舗を持たないインターネット専業銀行。本社は六本木のタワーの三十一階にあり、同じ階に映像制作会社と投資ファンドと化粧品ブランドが入っている。BaaSの提携先は十七社。空港のラウンジ、タレントのイベント先行枠、水族館の年間パス、ホテルの朝食 ― 金利ではなく特典で預金を貼り付けており、その原価は年〇・七から一・八パーセントかかる。払うのをやめれば剥がれる。

  • 中山 和成(なかやま・かずなり) ― BaaS事業部。三十代後半。湊原市出身。県外の大学を出て都市部の銀行に就職し、戻る気はない。実家は市内の電器店で、七年前に廃業。高校野球部の先輩である梶原に盆の席で頼まれ、断り切れずに湊原市の案件を起案する。発明は二つ。一つは、中身を一切いじらず市ごとの差異を設定ファイル一枚に閉じ込めたこと。もう一つは、口座を作る場所を書類の外へ移したこと ― 医療機関の資格確認端末から二十センチ離れたところに別の端末を置き、同じカードをもう一度置いてもらう。三秒で口座が開き、同時に診療費の口座振替が成立する。
  • 黒木 恵理(くろき・えり) ― 事業統括。四十代。中山の稟議を通し、統合案件では落とす。通した理由と落とした理由は、どちらもテンプレートの価値である。一度も間違わない。
  • 早瀬(はやせ) ― BaaS事業部。配属の年は二十代。月次の数字を抑揚なく読み上げ、「分け方が分かりません」と言っていた。その日の午後には、もう、聞かれていないものを持ってくる。この案件で最も育ったのは、彼女である。中山はそれを頼もしいと思い、口には出さない。
     彼女の内側は、彼女が書いたものにしか出てこない ― 報告書の「所感」の欄、深夜のチャットのログ、目標管理シートの「来期に向けて」の欄。三つとも、書かなくても仕事は回る欄である。回るのに書いてあることだけが、彼女である。
     最後の欄に書いたのは、担当している市に一度行きたい、という一行だった。名目は、最後まで立たなかった。立たないまま、有給を一日取って、一人で行く。年金の入る十五日の、翌日を見るためである。持ち帰るのは、写真が一枚と、通知文言の案が一枚である。この作品で、湊原市の郵便局の前の列を見た人物は、彼女だけである。

湊原市

  • 梶原 孝史(かじわら・たかし) ― 湊原市長、三期目。六十代半ば。中山の高校野球部の二十四年上の先輩で、潮見銀行のご意見番でもある。潮見銀行にあの規模のシステム投資はできないと分かっていたから、外に出した。守るための判断である。給与振込口座を四十年変えていない。最後まで、自分の判断は正しかったと思っている ― 実際、市民の利便性は向上した。
  • 佐々木 ― 市議会議員、二期目。水産加工会社の役員。地域金融機関との連携強化を求める一般質問をする。発言に嘘は一行もない。
  • 企画政策部長 / 企画政策課長 / 上下水道課長 ― 収納経路の見直しを、市議会の決議を根拠に進める。誰も、誰かを排除しようとしていない。

湊原市上下水道公社

  • 富永 孝(とみなが・たかし) ― 潮見銀行から出向した取締役。五十代。一度も自分で決めなかった人。はじめは収納チャネルの追加に賛成し(理由は自行の負担回避)、六年後には地域金融機能との調和を求める側に立つ。方向は逆、原理は同一。どちらの判断も潮見銀行を弱らせた。退任の挨拶の一行だけに、内側が漏れる。

潮見銀行(湊原市)

中山の視界には、開示資料・業界紙・議事録・データルームの資料としてしか現れない。例外は「間章 三月」の一章だけであり、そこで見えるのも、数えられた数字と、書かれなかった一行の見出しである。

  • 岸本 志穂(きしもと・しほ) ― 企画部。三十代前半。預金の分析軸を残高から滞留日数へ切り替えた。行内で唯一、何が起きているかを全部数えた人物である。ただし、数えたものが一つの文になるところまでは、行っていない。県外の大学を志望し、東京の企業から内定も得ていたが、いずれも進まなかった。誰も強く反対はしなかった。選択肢が自然に狭まっただけである。特別金利定期案への指摘は正しく、その正しさゆえに、より高い代償を払う一律引上げが選ばれる。四十二頁の分析資料の右端の列には、見出しがない。空白なのは、書かないと決めたからではなく、そこに立つ言葉が、そのとき彼女の中にまだできていなかったからである。
     九月から三月まで、夜に抽出を走らせて四十二頁を作り、企画部長の指示で十六頁に切る。切ったのは彼女自身の手であり、部長の判断も、そのとき正しい。その後三年、毎年三月に同じ表へ一行足す。誰にも見せない。右端は空白のままである。統合の資料提出では「出せるものは全部出す」の方針に従って、自分のフォルダを丸ごと複写した。開かなかった。中身は覚えていたからである。
     閲覧の記録は、資料を出した側には開示されない。中山とは最後まで会わない。自分の分析が正しかったことも、読まれたことも、生涯知らない。
  • 仲西(なかにし) ― 営業統括担当取締役。「貸出を減らすという選択肢は、この銀行にはありません」。彼も間違っていない。
  • 外崎 克己(とざき・かつみ) ― 取締役頭取。取締役会の議長。「示さないことの費用は計算できない」。
  • 瀬戸口 和彦(せとぐち・かずひこ) ― 取締役副頭取。「一時的とは、何年を指すか」。この質問に、議事録上、回答は記録されていない。
  • 企画部長 / 市場国際部長 / リスク統括部長 ― それぞれの持ち場で、それぞれ正確に報告している。
  • 運用グループの担当者(利用者ID SK-1140) ― 三年のあいだ、月の初めに償還予定を見て、償還日に入金を確認し、月末に残高を見る。銘柄選定支援の画面を、一度も開いていない。ログに残るのは開いた画面だけであり、開かなかった画面は残らない。売却には伝票が残るが、買わなかった月には伝票がない。

付録二・用語

公金と自治体の事務

指定金融機関
地方公共団体が、公金の収納および支払の事務を総括して取り扱わせるために指定する金融機関。都道府県は必ず指定し、市町村は指定することができる。指定にあたっては議会の議決を要する。そのもとで収納の事務だけを分担するのが収納代理金融機関である。地域の金融機関にとっては、収益そのものより、地域における位置づけを示すものとしての意味が大きい。
 湊原市の指定金融機関は、四十年にわたり潮見銀行である。この物語のあいだ、それは一度も変わらない。変わらないまま、指定の外側で決済が動く。

指定納付受託者
地方公共団体の歳入について、その納付の事務を委託される者。スマートフォンの決済アプリやクレジットカードによる納付は、この仕組みを経由して行われる。指定を受けるのは決済の事業者であり、その上流で口座と資金移動を提供する銀行は、公金を扱う立場に立たない。
 この一点が、本作の入口である。指定金融機関の制度に一切触れずに、住民が払う場所だけを動かすことができる。誰も制度を破っていない。

附帯決議
議案の議決にあたって、議会が付ける要望的な決議。法的な拘束力はない。だが、書かれた一行は、そのあとの事務のよりどころになる。初めの「収納チャネルの多様化」も、六年後の「地域金融機関の役割への配慮」も、どちらも五項目のうちの四番目である。

連携協定(包括連携協定)
自治体と民間企業が結ぶ、協力の枠組みを定めた文書。多くの場合、金額の定めがなく、義務の定めがなく、罰則の定めがない。「その都度、協議して定める」と書かれているのは、その協定書自体が何も定めていないという意味である。
 だから誰も反対しない。そして、あとから外すこともできない。

決済とその周辺

BaaS(Banking as a Service)
銀行が、口座・決済・貸付といった機能を、事業会社のサービスの内側に部品として提供する形態。利用者から見えるのは事業会社の画面であり、銀行の名前は表に出ないことが多い。
 事業会社が相手のとき、口座から生まれる利益はほぼ全額、提携先に渡す。提携先はその利益で特典を賄うが、動かしているのはもともと自社が持っている在庫なので、向こうの原価は安い。銀行の側では逆になる。渡した利益がそのまま原価であり、戻ってくるのは定額の事務費だけである。
 地方公共団体が相手のときは、この組み方が使えない。継続的な事務費を一社随意で受け取る形は、委託契約上、成立しにくい。銀行が費用を持ち、預金の運用益だけで回収する、通常の預金業務として組むほかない。設定ファイル一件で済むところまで実装費用が下がっていれば、それでも採算する。
 生活決済が乗った口座だけが、何も払わずに貼り付く。

公的個人認証サービス(JPKI)
マイナンバーカードのICチップに格納された電子証明書を用いて、本人であることを確認する仕組み。読み取り機にカードを置き、暗証番号を照合する。犯罪収益移転防止法上の本人確認方法として認められており、書類の撮影と後日の審査を要しない。
 口座開設が、三秒になる。この物語で動いたのは、制度ではなく、その三秒が行われる場所である。

オンライン資格確認の端末
医療機関の受付に置かれている、マイナ保険証の顔認証付きカードリーダー。仕様も接続先も定められており、ここに銀行の機能を載せることはできない。
 載せる必要もない。二十センチ隣に、別の機械を置けばよい。患者から見れば、同じカードを二度置いているだけである。同一の動作として受け止められる。

口座振替の申込
料金の自動引落しの申込。用紙に金融機関名・支店名・口座番号を書き、届出印を押し、提出する。処理に一か月かかる。
 この手続を、人はやらない。面倒だからではなく、面倒だと感じる場面が、生活の中に一度も来ないからである。だから、既に振替が設定されている料金(湊原市の上下水道は七十八・四パーセント)は、アプリを載せても動かない。動くのは、申込の場面が新しく生まれたときだけである。

年金受取口座
公的年金の振込先として指定された口座。偶数月の十五日に入金される。変更には年金事務所への届書がいるので、ほとんど変更されない。
 地域金融機関にとって、最も長く保有され、最も残高が置かれ、最も動かない預金である。
 この物語で、その指定は最後まで変わらない。変わるのは、十五日か十六日に、その金がどこへ移されるかだけである。

地域ペイ
市町村や商工会議所が旗を振る、地域内限定の決済の仕組み。前払でチャージした残高を使う形が多く、その場合は残高を預かる側に、それ相応の体制が要る。
 「みなペイ」は、チャージしない。店で読み取ったその場で、利用者の口座から加盟店の口座へ金が移るだけである。預かる残高が生まれない形にしておけば、預かるための仕組みも、そのための手続も、どこにも要らない。商工会議所が持っているのは、加盟店の網と、看板と、補助の窓口である。

加盟店手数料
店舗が決済事業者に支払う手数料。クレジットカードは小規模な飲食店で三パーセント台後半に及ぶことがある。専用のものを作っていなければ償却がなく、その分だけ低い水準を恒久的に維持できる。
 補助金は一回きりだが、手数料は毎月である。

指定は、変わらない
給与振込の指定も、年金受取の指定も、公金の収納の指定も、この物語では最後まで変わらない。動くのは、受け取ったあとの金だけである。
 変えなければならないものを、一つも変えずに済ませたところに、この案件の速さがある。

銀行の側

流動性預金と定期性預金
普通預金・当座預金など、いつでも引き出せるものが流動性預金。期間を定めて預けるものが定期性預金。
 この二つは、値段のつけ方がまったく違う。定期預金のキャンペーン金利は、効かせたいところにだけ効かせられる。普通預金の金利は、引き上げれば、その日から既存のすべての残高に適用される。
 それは新しい預金を取りに行く手ではなく、すでに持っている預金の値段を、自分から上げる手である。

滞留日数
入金から出金までの日数。口座数も残高も月次では大きく動かないが、この分布は動く。給与の受入額が変わらないまま滞留日数だけが短縮しているとき、その預金は、置かれているのではなく、通過している。
 統計上は預金だが、実質的には別のものである。

コア業務純益
銀行の本業の利益を示す指標。国債等の債券の売買損益を除いて計算する。売って作った利益が本業の力に見えないようにするための計算である。

含み損
持っている債券の時価と簿価の差。持っているあいだは何も起こさず、売った瞬間にだけ効く。だから売れない。売れないという状態は、決算書のどこにも書かれない。

平均残存期間
債券の、平均的な残りの期間。償還された分を買い直さないでいると、短いものから先に抜けていくため、残ったほうの平均残存期間は伸びる。誰も伸ばすと決めていなくても伸びる。
 売却には決裁と伝票が残るが、買わないことには伝票がない。何もしないだけだからである。

預貸率
預金に対する貸出金の割合。この比率が低いということは、集めた預金の運用先が地域の中に見つかっていないということである。運用先が見つからない預金は、有価証券になる。

銀行の三つの機能
決済、預金、与信。
 銀行がこの三つを一つの主体で提供してきたのは、効率的だったからではなく、技術的に分離できなかったからである。口座を持たなければ決済できず、決済のために置いた金が預金になり、その預金があるから貸せた。
 決済がアプリで足りるようになり、預金がどの帳簿にあってもよくなったとき、束は解ける。残るのは与信だけである。
 与信だけの銀行は、銀行ではない。しかし免許も規制も店舗も人員も、銀行のままである。

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