反対尋問

本書はフィクションである。国際商業会議所(ICC)の仲裁規則、信用状統一規則(UCP600)、国際物品売買契約に関する国際連合条約(CISG)、ニューヨーク条約、ヴィス国際商事仲裁模擬裁判、インドネシアのフィデューシア担保法(一九九九年法律第四二号)、ニューヨーク州一般債務法、日本の会社法といった実在の制度・規則の名称を用いているが、本書に描かれる事件、当事者、代理人、仲裁人、その判断と言動は、すべて創作である。鳳和物産、ノースヘイヴン・ブラザーズ、長瀬・青柳法律事務所、マーロウ・スタントン、六甲大学をはじめとする企業、銀行、法律事務所、大学、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる組織・個人とも関係がない。作中で語られる法の解釈もまた、登場人物がその場で述べたものにすぎず、著者の見解でも、まして特定の事案についての助言でもない。


序章 十一月

ジャカルタの朝は、六時に明るくなって、六時半には暑い。

戸倉健の住まいは、市の南のクニンガンにある。窓から見えるのは、他の高層住宅の壁と、その隙間の空だけだった。四年住んで、この街の空が高いのは雨季の前の二週間だけだと知った。

七時二十分に迎えの車が来る。運転手のスギヤントは、四年間、一度も遅れたことがない。

「Pak Ken、今日は空港ですか」

「夕方の便だ。昼まではオフィス」

鳳和物産の東京の本社は、大手町にある。創業は明治の繊維商で、いまは資源、金属、食料、機械、電力まで扱う。連結の売上高は数兆円あるが、社名を知らない人は多い。物を作らず、店も持たないからである。

戸倉のいる金属本部は、ニッケル、銅、アルミを扱う。

仕事の中身は、単純である。

安く買って、高く売る。それだけなら誰でもわかる。だが、買ってから売れるまでのあいだ、物はどこかに置かれている。船に載っているか、倉庫にある。その期間が、三か月あることもあれば、一年になることもある。

そのあいだ、金は寝ている。

商社は、寝ている金を自分の懐から出さない。銀行から借りる。担保に入れるのは、倉庫の中の物である。

だから、この商売は、ふたつの数字でできている。

倉庫にいくらぶんの物があるか。銀行からいくら借りているか。

前者が後者を下回ってはいけない。

◇

オフィスは、スディルマン通りの二十二階にある。鳳和物産のジャカルタ駐在員事務所。日本人が三人、現地職員が十一人。

戸倉の肩書きは、駐在員事務所の次席である。名刺には英語でRepresentativeとだけ書いてある。

彼の実務上の相手は、シンガポールにある。

Howa Resources (Singapore) Pte. Ltd.。鳳和物産の百パーセント子会社で、社員は十九人。ここが、契約と金を通す箱である。ニッケルを買うのも、売るのも、借りるのも、法律上はこの会社だった。

戸倉は、その箱の、物のある側を見ている。

九時十四分に、月次の在庫報告が届いた。

差出人は、PT. Sembara Logistik Nusantara。東ジャワの倉庫会社である。件名は、Monthly Stock Statement — October。添付のPDFは二枚。

一枚目に、月末の在庫数量が書いてある。

八千十四トン。

戸倉は、前月のファイルを開いた。

八千百二トン。

差は、八十八トン。同じ月に釜山向けに出た数量と、一致する。

彼は、二枚目を開いた。二枚目は、ロットごとの内訳である。番号が七十四行並んでいる。彼は、いちばん上といちばん下だけを見た。

そして、シンガポールへ転送した。

——ご確認ください。特記事項ありません。

送信まで、四分だった。

これを、彼は四年間、毎月やってきた。四十八回である。

四十八回のうち、倉庫に足を運んで数えたことは、一度もない。

数える仕事は、彼のものではないからだった。それは検数会社がやる。検数会社が数えて、証明書を出して、その証明書に基づいて銀行が貸せる額を決める。役割は、きれいに分かれている。

分かれているということは、誰も全部は見ていない、ということでもあった。

◇

昼過ぎ、空港へ向かう車の中で、戸倉は娘に電話をかけた。

日本は二時間先である。高校二年で、来年が受験だった。

「もしもし。うん、お父さん。……そう。うん」

娘は、三分で切った。三分は、この一年でいちばん長かった。

彼は携帯を膝に置いて、窓の外を見た。

高速道路は、東へ向かうと工業団地に入る。倉庫の屋根が、灰色の板で、いくつも並んでいる。同じ形の建物が、名前だけ違って続く。

そのうちの一つが、センバラの第七倉庫だった。

道から、屋根が見える。

戸倉は、見た。

寄らなかった。

寄る理由がなかった。数字は、合っていた。

◇

同じ月、神戸。

六甲の斜面の、研究棟の二階。演習室は北向きで、午後でも暗い。

その日、机に着いたのは五人だった。四人は前から来ている。五人目は、先週入ったばかりの一年生で、宮下詩織に連れてこられた。

早瀬千夏という。

マルコム・レニーは、いつもの椅子に座っていた。

白髪で、背が高い。ジャケットの肘に、革が当ててある。手が大きく、指の関節が太い。

彼は、いつものように英語で始めた。

「A new one. Your name?」

「Chinatsu Hayase.」

「Why are you here?」

千夏は、答えに詰まった。

詩織が横から言った。

「先生、この子、英語できます」

レニーは、そこで日本語に切り替えた。

授業は英語でやる。切り替えるのは、学生が本当に困っているときだけである。四人は、それを知っていた。千夏は、まだ知らなかった。

彼の日本語は、亡くなった妻の家の日本語だった。神戸の台所で三十年かけて覚えたもので、教室で覚えたものではない。神戸の言葉であって、大阪の言葉ではない。

「宮下さん」

「はい」

「英語ができるのは、ここにおる理由にはなりません。役に立つ理由にはなります。それは、別のことですよ」

詩織が、口を閉じた。

千夏は、少し赤くなった。

レニーは、机の上の分厚い冊子を、彼女のほうへ滑らせた。

「一頁目を、読んでみてくれますか。読んで、何でも聞いてください」

千夏は読んだ。二分かかった。

読んで、顔を上げた。

「先生。そもそも、仲裁って、裁判と何が違うんですか」

黒田蒼が、ノートから顔を上げずに言った。

「当事者が合意して、国の裁判所じゃなくて、自分たちで選んだ人に判断してもらう手続」

「それだけですか」

詩織が答えた。

「それだけじゃない。出た判断は、確定した判決と同じ効力を持つ。上訴はない。一回きり。それから、原則として非公開」

「非公開」

「うん。事件があったこと自体、外に出ないことが多い」

千夏は、少し考えた。

「……なんで、そんな面倒なことをするんですか。裁判所があるのに」

黒田が、そこではじめて顔を上げた。

「面倒じゃないから」

「え」

「日本の会社と、外国の会社が揉めたとする。東京地裁で勝ったとして、その判決を相手の国で執行してもらえるか」

「してもらえないんですか」

「国によっては、してもらえない。外国の判決を承認して執行する仕組みが、そもそもない国もある。条約がない相手だと、勝った紙が、ただの紙になる」

千夏は、黙った。

「仲裁は違う。ニューヨーク条約っていうのがあって、加盟してる国が百七十くらいある。仲裁の判断は、その国の裁判所が執行してくれる。だから、国をまたぐ取引の契約書は、裁判じゃなくて仲裁になる」

田淵航が、机の隅から飲み物を五本出して、一本ずつ配りながら言った。

「勝ったあとに取れるかどうかで、最初に決めるってことですね」

「そう」

千夏は、冊子の一頁目に戻った。

「じゃあ、その判断する人は、誰が選ぶんですか」

詩織が言った。

「当事者。三人なら、両方が一人ずつ指名して、その二人が議長を選ぶ」

千夏は、そこで止まった。

「……自分が選んだ人に、自分のことを判断してもらうんですか」

演習室が、少し静かになった。

レニーが、はじめて口を挟んだ。

「もういっぺん、言うてくれますか」

千夏は、言い直した。

「あの……自分で選んだ人が、自分に不利なことを言うでしょうか」

「ええ質問ですね」

レニーは言った。

「その質問は、みなさん一遍はしはります。したら、誰かが仕組みを説明します」

彼は、そこで少し姿勢を変えた。

「仲裁人は独立していなければならない。利害関係は自分から明かさなければならない。おかしいと思えば、忌避を申し立てられる」

制度の話をするあいだだけ、彼の日本語から神戸が消えた。

「説明されたら、みなさん、その質問をせんようになります」

彼は、椅子の背にもたれた。

「早瀬さん。やめたら、あきませんよ」

「やめたら、どうなるんですか」

「仕組みは、ほんまにあります。ほんまにあるけど、薄いんです。仲裁廷というのは、当事者に選ばれた三人でしてね。その三人は、次もまた選ばれたいと思うとう人間です」

詩織が言った。

「先生、それ、外で言わないほうがいいやつです」

「私は七十三です。言うてもええでしょう」

◇

演習の終わりに、レニーは千夏を残した。

「早瀬さん。一つだけ、聞かせてください。毎年、いちばん最初に聞くことです」

「はい」

冊子には、機械の部品の売買の話が書いてある。売主が所有権を留保して売り、その部品が第三国の倉庫に置かれ、買主に金を貸した銀行が、その倉庫の中身に担保を主張している。

「Where are the goods?」

千夏は、一頁目をめくり直した。

めくって、めくって、最後まで行って、戻った。

「……書いてないです」

「Where is the warehouse?」

「国の名前が、伏せてあります」

「And?」

千夏は、そこで止まった。

彼女は、何かを言おうとして、言わなかった。

言わなかったことに、レニーは気づいた。

「言うてみてください」

「……それ、大事なんですか」

レニーは、はじめて笑った。

「二十二年前に、その椅子に座っとった子がおりましてね。その子も、その質問に答えられへんかった。いまは東京で弁護士をしとう。春に、うんと言うてくれたら、あなたがたを教えに帰ってきます」

「その人、答えられなかったんですか」

「答えられませんでした」

レニーは、冊子を閉じた。

「それからずっと、答え続けとう」

◇

千夏は、坂を降りた。

十一月の六甲は、日が落ちるのが早い。下のほうに、街の灯りと、その向こうの港が見えた。

港には、コンテナが積んである。緑と、赤と、色の褪せた青。

彼女は、少しのあいだ、それを見ていた。

田淵航が、十歩うしろを歩いていた。

追いつかなかった。


第一部 倉庫

1 スラバヤ

三月の東ジャワは、雨季の終わりだった。

スラバヤの港から南東へ四十分、幹線を外れて工業団地の奥へ入ると、舗装が途切れて赤い土になる。前夜の雨が、轍にまだ残っていた。両側にサトウキビの畑と、屋根だけのバイク修理屋と、看板の落ちた製材所が並ぶ。その先に、灰色の波板の壁が現れる。

PT. Sembara Logistik Nusantara、第七倉庫。

門の前にトラックが三台停まっていて、運転手たちが日陰に座っていた。誰も急いでいない。ゲートの詰所には木の机が一つあり、その上に、日付を手で書き込む形式の入退記録簿が置かれていた。表紙は油で黒くなっている。

戸倉健は、車を降りて最初に、その記録簿を見た。

見たが、めくらなかった。

「シャッター、開けてもらえますか」

英語で言い、通訳を介さずに待った。倉庫の男が振り向いて、インドネシア語で誰かを呼んだ。声は建物の中で反響し、返事はなかなか来なかった。

同行者は三人いる。鳳和物産の金属本部から来た二人と、検数会社のFenwick Inspection Services Pte. Ltd.から来た男が一人。フェンウィックの男はアレックスといい、シンガポールから朝の便で来た。三十代の半ばで、袖をまくり、腰に巻尺と、赤い塗料の入ったマーカーを提げていた。首から下げているのは身分証ではなく、レーザー距離計だった。

シャッターが上がった。

熱が、外へ出てきた。

倉庫の中は外より暑い。波板の屋根が一日ぶん溜めた熱が、天井の下に厚い層を作っている。埃と、機械油と、湿った段ボールの匂いが混ざる。窓はない。高い位置に採光の隙間があって、そこから斜めに光の筋が何本か落ちていた。筋の中で埃が動いているのが見えた。

中央に通路が一本通り、その左右にニッケル地金が積まれている。

地金は、板状のものが箱に、粒状のものがドラムに入っている。箱は木の枠に鋼のバンドを掛けたもので、一つが四百キロある。それを四段まで積む。ドラムは二百キロで、パレットに四本ずつ載っている。

積み方は整然としていた。整然としているところは。

通路を三十メートルほど進むと、右側の列が終わった。

その先に、空間があった。

コンクリートの床が露出していて、そこに、四角い跡が残っている。長いあいだ何かが載っていた場所には、埃の積もり方が違う。跡の縁だけがくっきりと白く、内側は灰色だった。

跡は、通路の突き当たりまで続いていた。

戸倉は立ち止まった。同行の二人も立ち止まった。誰も、まだ何も言わない。

アレックスだけが前へ出て、距離計を構え、奥の壁までの距離を測った。それから左右の列に向き直り、一列の長さを測り、段数を数え、電卓ではなく紙の上でかけ算をした。

「二十三列」

彼は独り言のように言い、書き足した。

三十分後、彼は通路の真ん中に立って、はじめて戸倉のほうを見た。

「Mr. Tokura。ここには、八千トンあることになっています」

「なっています」

「実際に数えられるのは、三千二百です。誤差の範囲を最大に取っても、三千三百は超えません」

戸倉は何も言わなかった。

アレックスは続けた。

「それから、もう一つ」

彼は左手の列へ歩き、下から二段目の箱を指した。鋼のバンドの上に、白い塗料で記号が吹き付けてある。判読できる。だがそれは、この倉庫で使われている記号ではなかった。

「これはうちのマークじゃない」

「どこのだ」

「ヨーロッパ系の銀行が使うやつです。うちが検数して、うちのマークを打つ前に、別の誰かが、これは自分の担保だと書いていった」

戸倉は箱に近づいた。手を伸ばして、白い塗料を指の腹でこすった。乾いていて、落ちなかった。

「いつのだ」

「わかりません。塗料の乾き方では言えない。ここは、乾きます」

戸倉は指を見た。何もついていなかった。

彼は箱から離れ、通路をゆっくり奥へ歩いた。跡の上を歩いた。靴の裏で、埃の層の違いがわかるような気がした。

奥の壁の手前で立ち止まり、振り返って、入口のほうを見た。

シャッターの外は白い。逆光で、同行者の輪郭だけが黒く見える。

彼は、その場で一分ほど動かなかった。

同行の若いほうが、耐えかねて声をかけた。

「戸倉さん」

「うん」

「本部に、なんて」

戸倉は答えなかった。

「戸倉さん」

「数えたとおりに書いてくれ。三千二百でええ」

彼は言った。声は、思ったより普通に出た。

若いほうが、少し驚いた顔をした。戸倉の言葉に関西の音が混じったのは、この三年で初めてだった。

戸倉はもう一度、跡のほうを見た。

跡は、床の色でしかない。何かが置かれていて、なくなった、ということだけを示している。いつなくなったのか、誰が運び出したのか、どこへ行ったのか、床は何も言わない。

外でエンジンの音がした。トラックが一台、出ていくところだった。荷台は空だった。

倉庫の男が、シャッターを下ろしていいかと聞いた。

戸倉は、いい、と言った。

シャッターが下りるあいだ、光の筋が一本ずつ消えていった。最後の一本が消えて、倉庫は暗くなった。

高い位置の採光の隙間だけが、白く残った。

◇

その夜、戸倉はスラバヤ市内のホテルの部屋で、報告書の下書きを書いた。

書き終えたのは午前一時だった。彼はそれを送らなかった。

翌朝、六時に起きて、もう一度読み、二か所だけ直して送った。

直したのは、いずれも日付だった。

2 依頼

東京、丸の内。

長瀬・青柳法律事務所は、二十七階から三十階までの四層を使っている。エレベーターホールに事務所名の真鍮のプレートがあり、その下に、開所年が小さく彫ってある。船越亮平が三年前にこの事務所へ移ったとき、青柳宗一郎はプレートを指して、これを磨くのは月に一度だけだ、と言った。それ以上の説明はなかった。

三月十四日の午後三時、その青柳から内線が入った。

「鳳和の件、来てくれ」

鳳和の件、というだけで済ませる案件は、この事務所には多くない。

三十階の会議室には、すでに四人いた。青柳と、企業法務の若手が二人と、船越の知らない男が一人。知らない男は鳳和物産の金属本部の部長で、名刺を出す手が少し速かった。

テーブルの上に、A4の紙が一枚だけ置いてあった。

フェンウィックの在庫確認報告書のサマリー。

船越はそれを読み、読み終わってから、部長ではなく青柳を見た。

「これ、いつのものですか」

「昨日だ」

「相手方に、もう渡っていますか」

部長が答えた。

「フェンウィックは、Borrowing Base Certificateを、うちと貸付人の両方に出します。契約上そうなっています」

「では渡っています」

「はい」

Borrowing Base Certificate。倉庫にある物を数えて、そのぶん、いくらまで貸してよいかを書いた紙である。書くのは検数会社で、その紙の数字が、そのまま与信の天井になる。

船越は、紙を裏返した。裏は白紙だった。

「与信の残高は」

「六億一千万ドル」

「担保は、この倉庫のニッケルだけですか」

「他にもあります。ただ、主力はここです」

「保証人は」

部長が一瞬だけ黙った。青柳が代わりに言った。

「鳳和物産本体だ。包括保証。ニューヨーク州法」

船越は紙を表に戻した。

「先生」と、彼は青柳に言った。「これ、僕がやるんですか」

「君がやる」

「理由を伺っていいですか」

青柳は、若手二人のほうを一度見た。二人は視線を落とした。

「君はロンドンとシンガポールで、この種の仕事を十二年やってきた。うちには他にいない」

「それは理由の半分です」

「半分で十分だろう」

船越は、それ以上聞かなかった。聞かなかったことを、あとになって何度も思い出すことになる。

◇

三年前、青柳から電話がかかってきたとき、船越はシンガポールにいた。

マグナス・ブレイクでの十二年は、順調だった。順調というのは、次の五年が見えるということである。四十五で持分のあるパートナーになり、アジアの資源と商品の紛争を回し、六十で辞める。見えていた。

青柳は、電話で二分しか話さなかった。用件は、うちに来ないか、ではなかった。

「船越君。日本の会社が、外で負ける理由を知っているか」

「知りません」

「日本語で説明されないからだ」

それだけだった。

三か月後、船越は東京にいた。

長田の家には、母が一人でいる。神戸から東京は、近くはない。シンガポールよりは近い。それも理由の一つだったことを、彼は誰にも言っていない。

移籍のとき、彼は年収が三割下がることを承知した。承知したのは、青柳が最初の面談で、この事務所には国際仲裁のパートナーがいない、と言ったからである。

いない、ということは、空いている、ということでもあった。

◇

会議は二時間続いた。

出てきたのは、契約書のファイルが十一冊と、電子データのインデックスが一枚だった。融資契約、担保設定契約、保証契約、フェンウィックとの検数契約、倉庫会社との保管契約、そして、Howa Resources (Singapore) Pte. Ltd.とHanmyeong Speciality Steelとのニッケル六千トンの売買契約。

Howa Resourcesは鳳和物産の百パーセント子会社である。シンガポールに置かれ、上流でノースヘイヴン・ブラザーズから金を借り、下流で韓国の特殊鋼メーカー、ハンミョンへニッケルを売っている。

若手の一人が、契約書の山を見て言った。

「船越さん、上流と下流で、同じ銀行の名前が出てくるんですけど」

「出てくる」

「同じ会社ですか」

「同じ会社や。ロンドンの本体が金を貸してる。シンガポール支店が信用状を出してる。部署は別、法人格は一つ」

「それ、まずくないですか」

「まずいことはない。よくあることや」

船越は、ファイルを一冊、脇へよけた。

「よくあるけど、揉めたときに、どっちの帽子をかぶって喋ってるかが問題になる」

もう一人の若手が、テーブルの上のフェンウィックのサマリーを指した。

「船越さん、初歩的なことを聞いていいですか」

「どうぞ」

「この紙一枚で、なんで六億ドルの話になるんですか」

船越は、その紙を引き寄せて、裏の白い面に、縦の棒を二本描いた。

左の棒の頭に、横線を一本引いた。

「これが、倉庫にある物の値段や。数と、その日の相場を掛けて出す」

右の棒は、その線より低いところで止めた。

「これが、借りてる額。この線より下でしか、借りられへん。線が天井や」

「天井は、動くんですか」

「動く。物が減っても下がるし、相場が下がっても下がる」

彼は、横線を指で少し下へずらした。

「こうなったら、どうなる」

若手は、右の棒を見た。

「……借りてるほうが、上に出ます」

「出る。出たときに何が起きるかは、契約書に書いたる。そこは、あとで読む」

船越は、紙の隅に、Fenwickと書いた。

「もう一つ。この天井を書いてるのは、銀行やない。うちでもない」

「検数会社ですか」

「倉庫へ行って、数えた人間や。この商売は全部、その人の数字の上に載ってる」

若手が、二本の棒を見た。

「その人が、間違えたら」

「間違えへん」

船越は言った。

「数えたもんしか書かへん人やったら、間違えへん」

彼は、その紙を伏せて、融資契約の署名頁を先に開いた。

二〇一九年の組成。四億ドル。署名者の名前の下に、日付が入っている。

その隣に、二〇二二年の増額の書類がある。七億ドル。

船越は、二〇一九年の契約書の最後のほう、雑則の章を開いた。第四十一条。仲裁条項。

読んで、指を止めた。

ICCの標準条項ではなかった。標準条項に、四項が足してある。第三項は、貸付人に限り、担保物の所在地の裁判所へ保全の申立てをすることができる、という留保だった。第四項は、緊急仲裁人。

船越は、その頁を開いたまま、青柳に見せた。

「これ、誰が書いたんですか」

青柳は、老眼鏡を上げずに、その頁を見た。

見て、少し間があった。

「うちが書いた」

「先生がですか」

「私が交渉した」

船越は頷いた。

「四か月かかりましたか」

「なぜそう思う」

「一項ずつ、値段を払った跡があります。これは一日でできる条文じゃない」

青柳は答えなかった。ファイルを閉じ、立ち上がり、ドアの手前で一度だけ振り返った。

「船越君」

「はい」

「信用状のほうから読め。あれは五日で終わる」

そのときの船越は、五日、という言葉を、単に締切のことだと思った。

3 同じ日の二通

三月十八日、月曜。

一通目は、午前九時十二分に届いた。

差出人はNorthaven Brothers & Co.のロンドン、エージェント業務部。宛先はHowa Resources (Singapore) Pte. Ltd.、写しが鳳和物産株式会社宛。件名は、Notice of Event of Default and Acceleration。期限の利益喪失事由の発生と、残高全額の期限到来を告げる通知である。

若手が、件名を指した。

「デフォルト、って書いてありますね」

「書いてある」

「うち、払い遅れてるんですか」

「一日も遅れてへん」

船越は言った。

「デフォルトいうのは、払わへんかったという意味やない。契約書が『これが起きたら、期限が来たことにする』と決めた事由が起きた、というだけや。今回はその事由が数量で書いてある。倉庫の中身が減ったら、それで起きる」

「じゃあ、日本語で言うと」

「期限の利益の喪失や。分割で返してええという約束が消えて、残り全部が今日払えになる」

「加速、というのは」

「同じことや。英語でaccelerationと言う。期限を前に引っぱってくるという言い方をする。日本語の書面では期限の利益喪失で通す。二つの言葉が同じもんを指してるだけやから、混ぜて使わんように」

船越は、本文を読む前に、日付を数えた。

融資契約の期限の利益喪失条項は、数量で書かれている。フェンウィックが発行するBorrowing Base Certificateに基づいて計算されたCollateral Value、すなわち担保の評価額が、五営業日連続して実行残高を下回ったとき、期限の利益喪失事由が発生する。自動である。通知を要しない。通知は、発生したものを確認する紙にすぎない。

三月五日に出たCertificateが、最初の一日目だった。

五営業日目は、三月十一日。

通知は十八日に来ている。

船越はカレンダーを見た。一週間、置いてある。

彼は付箋を一枚貼り、そこに「7」と書いた。

二通目は、午後四時三十八分に届いた。

差出人はNorthaven Brothers & Co. Singapore Branch、トレードファイナンス部。信用状の発行銀行としての立場である。宛先はHowa Resourcesと、買取を依頼した銀行。件名は、Notice of Refusal。

信用状はUSD 96,480,000。ニッケル六千トン、CIF釜山。受益者はHowa Resources。UCP600準拠。

若手が、通知の宛先を目で追った。

「船越さん。これ、ハンミョンが払わないという話ですか」

「ちがう」

「でも、買ったのはハンミョンですよね」

船越は、便箋を裏返して、白い面にボールペンで三つの丸を描いた。

「信用状は、買主が金を預けとく仕組みやない。銀行が、自分の信用で払うと約束する仕組みや」

彼は、左の丸を指した。

「ハンミョンが、自分の取引銀行に頼む。この場合は、ノースヘイヴンのシンガポール支店や。頼まれた銀行が、信用状を出す。書いてあるのは、決められた書類を持ってきたら、私が払います、ということだけや」

真ん中の丸を指した。

「うちが船に積む。船荷証券をもろて、他の書類と一緒に銀行に出す。書類が条件に合うてたら、銀行は払わなあかん。貨物が本物かどうか、ハンミョンが満足したかどうかは、銀行は見えへんし、見んでええことになってる」

右の丸を指した。

「銀行は、払うたあとで、ハンミョンから回収する。ハンミョンの金が銀行に置いてあるとは限らん。与信で立て替えることのほうが多い」

若手は、三つの丸を見た。

「じゃあ、いま払わないと言っているのは」

「銀行や」

「うちが取りに行く相手も」

「銀行や。ハンミョンやない。ハンミョンとうちのあいだにあるのは売買契約で、それは別の話や。銀行が払わへんかったら、うちは貨物を渡して代金だけ入らんことになる。そのときは、ハンミョンと売買契約の側で揉めることになる」

「面倒ですね」

「面倒やない。逆や」

船越は、ボールペンを置いた。

「売主にしてみたら、遠い国の知らん会社の腹具合やのうて、銀行の紙一枚を信用したらええようになる。そのために、わざわざ高い手数料を払て、この仕組みを使う。だから、銀行が理屈をつけて払わへんときは、仕組みそのものが壊れる」

不一致は一つだけ挙げられていた。船荷証券の日付が、信用状に定められた最終船積日を超えている、というものだった。

船越は、この通知の日付も数えた。

書類が呈示されたのは三月十一日。銀行営業日で数えて、五日目が三月十八日。

きっかり五日目だった。

彼は付箋をもう一枚貼り、「5」と書いた。

二枚の付箋を並べて、しばらく見ていた。

同じ会社の、同じロゴの入った便箋である。片方は貸付人として、七日間ためらった。もう片方は発行銀行として、一日も余らせずに撃った。

「同じ日ですね」

若手の一人が言った。

「うん」

「偶然ですかね」

「偶然やと思うか」

若手は答えなかった。船越は付箋を剥がして、二枚とも自分の手帳に貼り直した。

◇

その夜、船越は事務所に残って、船積港の休日を調べた。

信用状の最終船積日は三月三日。船荷証券の日付は三月四日。数字だけを見れば、一日超えている。

だが積地はインドネシアで、三月三日は現地の祝日だった。

彼は港湾当局の公示と、船会社の入出港記録と、三年ぶんの祝日表を並べた。それから、UCP600の条文を開いた。

開いて、閉じた。

条文は、開かなくても言える。彼が確かめたかったのは、条文のほうではなかった。

彼が確かめたかったのは、この不一致を書いた人間が、祝日表を見ていたかどうかだった。

見ていて書いたのなら、それは戦術である。見ずに書いたのなら、それは事故である。戦術なら、次に何をしてくるかが読める。事故なら、読めない。

深夜一時、彼は結論を書かずにファイルを閉じた。

九日後、ノースヘイヴンから二通目の不一致通知が来る。

そのときに、答えが出る。

4 沈黙する条約

三月二十三日、土曜。

新神戸の駅から山側へ坂を上ると、六甲の斜面に大学の建物が段になって並んでいる。法学部の研究棟は、いちばん上の段にある。エレベーターは二基あるが、片方はいつも点検中の札が下がっていた。

四階の廊下の突き当たりが、マルコム・レニーの研究室である。

ドアは開いていた。

「Ryohei. You're early.」

「電車が早かったんです」

「Sit. There's whisky, but not before four.」

レニーは七十四歳になる。エディンバラの出で、ハーコート・ヴェインに三十年いた。国際仲裁とプロジェクトファイナンス。東京オフィスの立ち上げで日本へ来て、神戸の出の律子と結婚した。律子の父が倒れたとき、彼はロンドンへ戻らないことを選び、そのまま日本に残った。律子は五年前に死んだ。

研究室の本棚は、下の二段が日本語の本である。手を伸ばせば届く高さだけが英語で、あとは背表紙が日焼けしている。

机の上に、この春にウィーンで使われたばかりの問題が置かれていた。秋に新しい問題が出るまでの、四か月ぶんの教材である。

「Read it. Then tell me what's missing.」

船越は座って読んだ。

事案は物品売買である。売主が所有権留保つきで機械部品を売り、その物品が第三国の倉庫に置かれている。買主の融資銀行が、その倉庫の在庫に担保を主張している。売主と買主のあいだの契約にはCISGが適用される。

手続論点が二つ。緊急仲裁人が発した命令は、後に構成される本案の仲裁廷を拘束するか。それから、仲裁人の忌避の判断基準。

実体論点が二つ。一つ目は、所有権留保と銀行の担保権の優劣。二つ目は、買主側で契約書に署名した者に、そもそも代理権限があったか。

船越は読み終えて、顔を上げた。

「二つとも、条約の外ですね」

「Which two?」

「所有権と、代理権です。CISGは、物品の所有権に対する契約の効力については、適用範囲から明文で外している。代理権のほうは、そもそも書いていない」

「So?」

「条約が、私の管轄ではない、と手を引いている」

レニーは椅子の背にもたれた。

「Ryohei, the treaty is silent. Do you know why?」

船越は少し考えた。

「合意できなかったからでしょう」

「That's the historical answer. It's correct, and it's useless. Try again.」

船越は黙った。

窓の外で、樹が鳴った。四階まで上がると、風は港のほうから来る。

「条約は、当事者のあいだのことしか決められないからです」

彼は言った。

「売主と買主は、条約を選んだ。選んだ二人のあいだでは、条約が世界を作れる。でも、所有権は、条約を選んでいない第三者に向かって、これは私のものだと言う権利です。代理権も同じで、あれは会社の外の人間全員に関わる。選んでいない人間を、選んだ二人の合意で縛ることはできない」

レニーは頷かなかった。

かわりに、机の抽斗を開けて、封筒を一つ出した。

「Twenty-two years ago, you sat in that chair and could not answer my first question. Do you remember what it was?」

「覚えています」

「Say it.」

「Where is the goods.」

「Where are the goods.」レニーは訂正した。「You still get the number wrong.」

船越は笑った。

「学生には、あの問いから始めますか」

「Always.」

彼は、そこで日本語に落ちた。

「学生は、規則の話をしに来ます。規則は、簡単なほうです。難しいのは、物が小屋の中にあることです。どちらの当事者も選んでへん国の、小屋の中に。小屋には南京錠がかかっとって、鍵を持っとう男は、契約書を一遍も読んだことがない」

船越は、スラバヤの床の跡を思い出した。

言わなかった。

レニーは封筒を開けず、机の端に置いた。

「Your team this year. Four students. Two third-years, two second-years.」

「僕が見るんですか」

「You said yes in January.」

「言いましたね」

「You did. In writing. I keep the email.」

◇

演習室は、研究棟の二階にある。窓が北向きで、午後でも暗い。

四人がいた。

宮下詩織。四月から三年。チームのリーダーで、弁論を担当する。姿勢がよく、資料の角が揃っている。船越が入っていくと、最初に立ち上がった。

黒田蒼。四月から三年。書面担当。目を合わせない。手元のノートには、船越が黒板に何も書かないうちから、日付と出席者が書いてあった。

早瀬千夏。四月から二年。英語弁論。背が低く、声はよく通る。彼女は最初、船越を見なかった。机の上のムート問題を、まだ読んでいた。

田淵航。四月から二年。ロジ担当。飲み物を四本、机の隅に並べていた。誰が何を飲むかを、もう知っているらしかった。

「はじめまして。船越です」

四人のうち三人は、レニーからその名前を聞いていた。

彼は言い、それから、ムート問題を掲げた。

「これ、もう読んだ人」

四人が手を挙げた。

「ほな聞くけど、この事件の物、どこにあるん」

一瞬、間があった。

詩織が答えた。

「第三国の倉庫です」

「その国の名前、書いてある?」

詩織が問題を繰った。繰って、止まった。

「……書いてないです」

「書いてない」

船越は、ムート問題を机に置いた。

「この事件、いちばん大事なんは、その書いてないとこや。物がどこにあるかで、適用される法律が変わる。当事者が何を選んでも、それだけは変えられへん」

早瀬千夏が、はじめて顔を上げた。

5 五日

三月二十六日、火曜、午前二時。

シンガポールのマーロウ・スタントンから、ICCの事務局へ緊急仲裁人の申立てが出たという連絡が来たのは、東京の深夜だった。

正確には、来たのではなく、船越が待っていた。

ノースヘイヴンは、期限の利益喪失を宣言した。実行残高六億一千万ドルが即時に支払期日を迎えている。次にやることは決まっている。金が動かないように、物が動かないように、押さえにかかる。

問題は、どこで押さえるかだった。

融資契約第四十一条一項は、紛争をICC規則によるシンガポールを仲裁地とする仲裁に付す、と定めている。四項が、緊急仲裁人。三項が、貸付人に限って、担保物の所在地の裁判所への保全申立てを認める留保。

ノースヘイヴンが選んだのは、四項だった。

「三項じゃないんですね」

若手が言った。船越は画面を見たまま頷いた。

「三項やない」

「なぜですか」

「わからん」

彼は本当にわからなかった。

インドネシアの裁判所に行けば、物のある場所で、物を押さえられる。倉庫の門に紙を貼れる。仲裁の緊急仲裁人が出すのは、当事者に対する命令にすぎない。当事者が従わなければ、結局どこかの裁判所へ持っていって執行してもらうことになる。

物を押さえたい人間が、物のある国を避けている。

船越は手帳を開き、「41.3」と書いた。その下に線を引き、しばらく何も書かなかった。

◇

緊急仲裁人には、二日後にオーストラリアの実務家が選任された。

本案の仲裁廷は、まだ存在しない。三人を選ぶのに二、三か月かかる。そのあいだに物が動いてしまっては間に合わないので、一人だけ先に立てて、暫定の措置を出させる制度である。

ICCの規則では、緊急仲裁人の命令は、ファイルが送付されてから十五日以内に出せばよい。

彼女は、最初の電話会議で、その十五日を自分から縮めた。

「十五日は上限であって、目標ではありません。五日以内に出します。書面は双方一回だけ。反論の機会は設けません」

一往復しかない。

船越は、鳳和側の書面をシンガポールと東京で分担して書いた。三日で四十二頁になった。書きながら、彼は自分たちが守りに入っていることを自覚していた。

相手方の申立てはこうだった。倉庫の在庫を処分してはならない。倉庫会社に対する保管契約上の権利を第三者に譲渡してはならない。信用状取引に関して受領した資金を、通常の事業目的以外に用いてはならない。担保物の現況について定期に報告せよ。

船越は、三つ目を読んだとき、指を止めた。

信用状取引に関して受領した資金。

まだ一銭も受け取っていない。受け取っていないのは、同じ銀行が支払を拒絶したからである。

彼は書面の当該部分に、こう書いた。

——申立人は、自らが発行銀行として支払を拒絶している資金について、その使途の制限を求めている。申立人はここで二つの立場を同時に用いている。すなわち、支払わない立場と、支払われた金の行方を縛る立場である。両立しないとは申し上げない。ただ、両立させるには説明が要る。

書いてから、彼は一度その段落を消した。

消して、書き直した。同じ内容を、形容詞なしで書いた。

若手が印刷して持ってきた稿を見て、言った。

「船越さん、最初のほうが強かったです」

「強い書面は、読む人が疲れる」

「読む人って、誰ですか」

「今回は一人や」

彼はそう言って、時計を見た。シンガポールは同じ時間である。ロンドンは八時間前だった。

◇

四日目の夜、船越は青柳の部屋にいた。

「明日出ます」

「どうなる」

「割れます」

「どう割れる」

「向こうの申立ては四つ。二つ通って、二つ落ちます」

青柳は湯呑みを置いた。

「その二つは」

「処分禁止は通ります。報告義務も通ります。あれは通さない理由がない。譲渡禁止は、範囲が広すぎるので絞られる。資金の使途制限は落ちます」

「なぜ落ちる」

「まだ資金がないからです」

青柳は少しだけ笑った。笑ってから、真顔に戻った。

「引き分けだな」

「はい」

「引き分けは、負けではない」

「負けではないです」

船越は言った。それから、少し迷って、続けた。

「先生、一つ伺っていいですか」

「なんだ」

「四十一条三項を、なぜ入れたんですか」

青柳は答えなかった。

「あれは、貸付人にだけ有利な条項です。こちらが仲裁を呑ませる代わりに、向こうが持っていったものでしょう。それはわかります。わからないのは——」

「使わないことか」

「はい」

青柳は、机の上の紙の束を揃えた。角が揃った。

「船越君。私が交渉のときに考えていたのは、あれを彼らが使う日のことだ」

「使わない日のことは、考えていなかった」

「考える必要があると思うか」

船越は答えなかった。

答えなかったが、そのとき彼の中では、答えは出ていた。

6 留保

三月三十一日。

緊急仲裁人の命令は、申立てから五日目に出た。

十七頁。主文は四項のうち二項を認容し、一項を範囲を限って認容し、一項を却下した。

船越が事前に言ったとおりだった。若手がそれを言い、船越は聞かなかったふりをした。

彼が読んでいたのは、主文ではなかった。

理由の第五十一段落。

——本手続における判断は、いずれも保全の必要性という限られた基準に基づくものである。当職は、申立人が主張する担保権が、その準拠法上有効に成立し、対抗要件を具備しているか否かについて、いかなる判断も行わない。この点は本案の仲裁廷の判断に留保される。

船越は、その段落を三度読んだ。

三度読んで、印刷し、蛍光ペンを引かず、そのまま手帳に挟んだ。

緊急仲裁人が担保権の有効性に踏み込まないのは、当然である。保全の段階でそんな判断はしない。誰が書いてもそう書く。

引っかかったのは、書き方だった。

「いかなる判断も行わない」。この一文は、誰も求めていない。相手方は担保権が有効だと主張し、こちらは有効性を争っていない——争う準備がまだできていなかったからである。争われていない論点について、判断しない、とわざわざ書く仲裁人はいない。

書いたということは、書いてくれと言われたということである。

どちらかが言った。

船越は、鳳和側の書面をもう一度めくった。書いていない。

相手方の書面をめくった。

あった。第九十四段落。

——なお、本申立ては担保権の有効性についての判断を求めるものではなく、申立人は、当職において当該論点に関するいかなる認定もなされないことを確認的に求める。

保全を申し立てた側が、自分の担保が有効だと認定してもらうことを、辞退している。

船越は、椅子の背にもたれた。

窓の外は、丸の内の夜だった。向かいのビルの、同じ高さの階に、まだ灯りがついている。

金を貸した人間が、担保が有効だと言ってもらう機会を、自分から断った。

理由は二つしか考えられない。

一つ。担保が有効でないことを知っている。

二つ。有効かどうかを、誰にも判断されたくない。

一つ目なら、話は早い。二つ目なら——

彼は、そこで思考を止めた。

止めたのは、二つ目の先に、まだ根拠が一つもなかったからである。根拠のない仮説を長く持つと、その形に事実を集めるようになる。彼はそれを、シンガポールの三年目に一度やって、痛い目を見ていた。

彼は手帳を開き、「41.3」と書いた頁に戻った。

その下に、一行だけ足した。

——判断されたくない。

日付を入れて、閉じた。

◇

四月一日、鳳和物産の役員応接。

金属本部長と、法務部長と、経理の担当役員がいた。

船越は、緊急仲裁人の命令を三分で説明した。専門用語は使わなかった。

「処分するな、報告しろ、という命令が出ました。守ってください。守れます。もともと処分する予定はありません」

「負けたのか」と本部長が聞いた。

「引き分けです」

「引き分けというのは、どういう意味だ」

「本番が別にあるという意味です」

本部長は納得しない顔をしたが、それ以上聞かなかった。

会議のあと、廊下で、法務部の女性が船越を待っていた。

「峰岸と申します」

名刺を出す手が、まっすぐだった。

「法務部の峰岸玲奈です。今日の会議には、私は呼ばれていません」

船越は名刺を受け取った。

「呼ばれていない方が、なぜ廊下にいらっしゃるんですか」

「先生に、一つだけ確認したいことがあって」

「どうぞ」

「仲裁になると、社内の文書は、どこまで出ることになりますか」

船越は彼女を見た。

三十代の半ば。化粧は薄い。手に何も持っていない。手ぶらで廊下に立って、それを聞きに来ている。

「相手方が要求して、仲裁廷が認めた範囲です。日本の裁判より広くなることが多いです」

「メールもですか」

「メールもです」

「社内の報告書も」

「報告書も」

峰岸は頷いた。

「わかりました」

それだけ言って、彼女は戻ろうとした。

「峰岸さん」

彼女は立ち止まった。

「今のご質問は、何か特定の文書についてですか」

峰岸は、少しのあいだ、船越の顔を見た。

「一般論です」

そう言って、彼女は行った。

船越は、その背中を見ていた。

一般論を聞きに来る人間は、廊下では待たない。

7 紙を書いた人

四月六日、土曜。六甲。

演習室のホワイトボードに、船越は四角を一つ描いた。

「これが倉庫や」

四角の中に、小さい四角をいくつか描いた。

「これが物。で、この物について、二人が同時に、これは俺のもんや、と言うてる」

彼は四角の外に、丸を二つ描いた。

「一人は売主。所有権を留保してる。もう一人は、買主に金を貸した銀行。担保やと言うてる。さて、どっちが勝つか」

宮下詩織が手を挙げた。

「契約の準拠法によります」

「どの契約や」

詩織が止まった。

「売主と買主の契約か。買主と銀行の契約か。銀行と倉庫会社の契約か。この三つ、準拠法が全部ちゃうかもしれん」

黒田蒼が、ノートから顔を上げずに言った。

「どれでもないと思います」

「なんでや」

「銀行は、売主の契約に署名していません。売主も、銀行の契約に署名していません。署名していない契約の準拠法で、自分の権利を決められる理由がない」

船越は、ホワイトボードのペンを置いた。

「黒田くん、それ、いま言うたことを、そのまま廷の前で言える?」

「……書くならできます。口では、無理です」

「口で言うたやんか、いま」

黒田は黙った。詩織が、少し苛立った顔をした。

船越は続けた。

「契約は当事者の約束や。せやから当事者が法律を選んでええ。せやけど担保権っちゅうのは、契約書にサインしてない第三者に向かって『これは俺のもんや』と言う権利や。サインしてへん人間を、自分らの約束で縛れるわけがない。せやから、物のある場所の法律で決める。当事者が何を選んでも、そこは選ばれへん」

「会社の代表権も、同じですか」

聞いたのは早瀬千夏だった。

船越は彼女を見た。

「なんでそう思うん」

「代理権があるかどうかも、契約の外の人が関係するからです。株主とか、他の取引先とか。だから、その会社を作った国の法律で決まる気がします」

「合うてる」

千夏は表情を変えなかった。

「あと、それだと、契約書にどれだけいいことを書いても、物の場所と、会社の中身は、書いても変わらないことになりますね」

船越は、少し間を置いた。

「そうや」

「じゃあ、契約書って、何のためにあるんですか」

詩織が、たしなめるように千夏の名前を呼んだ。船越は手で制した。

「早瀬さん、それ、いい質問や。ええ質問やけど、答えは今日は言わへん」

「なんでですか」

「今言うたら、君ら、書面にそう書くやろ。書いたら、それは君らの答えやなくて、僕の答えになる」

◇

演習は三時間続いた。

最後の一時間は、緊急仲裁人の論点をやった。緊急仲裁人が出した命令は、あとから構成される本案の仲裁廷を拘束するか。

詩織が拘束されない側で組み立て、黒田が反対側の穴を指摘し、そのたびに詩織が言い直した。三度目に言い直したとき、詩織の声が少し硬くなった。

「黒田くん、私を負かしたいの、それとも書面をよくしたいの」

「後者です」

「そう聞こえない」

「聞こえ方は、僕の担当じゃないです」

田淵航が、机の隅の飲み物を、黙って詩織のほうへ一本ずらした。

千夏は、その一連を見ていなかった。彼女は、資料の一枚を裏返して、その裏に何かを書いていた。

演習が終わり、四人が帰り支度をはじめたとき、千夏が船越のところへ来た。

手に、その一枚を持っていた。

ムート問題の付属資料の一枚。倉庫のある国で、銀行の担保権が登録されたことを示す、登録所発行の証明書の写しである。

「先生」

「なに」

「これ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

彼女は、証明書の下のほうを指した。署名欄がある。名前は伏せてあって、Registrar と役職だけが読める。

「その紙、誰が書いたんですか」

船越は、その紙を受け取った。

「登録所や。書いてある」

「そうじゃなくて」千夏は言った。「登録の申請って、誰かが出さないと始まらないですよね。書類を作って、費用を払って、窓口に持っていく人がいる。その人が誰なのか、この問題のどこにも書いてないです」

船越は、紙を見た。

「……書いてへんな」

「銀行の人が自分で行ったのか、現地の弁護士に頼んだのか、それとも買主の会社の人が代わりに出したのか。それによって、この証明書の意味、変わりませんか」

「変わるかもしれん」

「変わりますよね」

千夏は紙を受け取り直して、鞄に入れた。

「すみません、たぶん論点じゃないです」

「いや」

船越は言った。

「論点かどうかは、まだ誰も決めてへん」

千夏は少し笑って、頭を下げて、出ていった。

廊下で、田淵航が待っていた。二人は何も話さずに階段を降りていった。

船越は、ホワイトボードの四角を消した。

消しながら、なぜか、スラバヤの床の跡のことを考えていた。

跡は、何かが置かれていたことを示す。誰が置いたかは示さない。誰が運び出したかも示さない。

彼は消し終えて、電気を消した。

第二部 選任と開示

8 名前の並び

六月三日。

仲裁申立書はノースヘイヴンから五月に出ていた。請求は三本立てである。実行残高六億一千万ドルとその利息の支払。包括保証に基づく鳳和物産本体への同額の請求。そして、担保管理と権利保全に要した費用の賠償。

鳳和側は答弁書で全部を争い、反対請求として信用状の九千六百四十八万ドルの支払を求めた。

反対請求を出すとき、船越は一つだけ、迷った。

仲裁条項は、融資契約の第四十一条である。信用状は、その契約に書かれていない。発行したのは同じ会社のシンガポール支店だが、支店は法人格ではない。それでも、信用状に基づく請求を、融資契約の仲裁条項で立てられるかどうかは、争おうと思えば争える。

「向こう、管轄を争ってきますかね」

若手が聞いた。

「争えるな」

「争いますか」

「争わへんと思う」

船越は言った。

「争うたら、信用状の話だけ、別の場所でやることになる。別の場所いうのは、シンガポールの裁判所や。裁判所は公開や」

「向こう、それは困りますか」

「困る。倉庫に物がなかったという話を、非公開の部屋の外でやりたい銀行はおらん」

彼は、申立書を閉じた。

「それに、ここで蹴り出したら、向こうは自分から、上流と下流は別の会社みたいなもんです、と言うことになる。この事件で、それをいちばん言いたないのは向こうや」

答弁書の期限までに、管轄の異議は来なかった。

来なかったことを、船越は手帳に書いた。書いたのは、日付だけである。

◇

同じ週に、インドネシアの現地弁護士からの調査報告が届いた。

三月から二か月半かけたものである。船越は、それを最初に読んだ。

四千八百トンは、盗まれたのではなかった。少なくとも、夜中に誰かが塀を越えて運び出した、という種類の話ではない。

センバラは、同じ物を、二度、三度と担保に入れていた。

倉庫会社は、預かった在庫について、預り証と月次の在庫証明を発行する。その紙が、借入人の担保の裏づけになる。センバラは、同じロットについて、鳳和向けと、欧州系の銀行二行向けに、別々の証明を出していた。第七倉庫の箱に、ここで使われていない白い記号が吹き付けてあったのは、そのためである。

紙が三枚あるのに、物は一つしかない。

そのうえで、現物は出ていた。センバラの経営陣は、二〇二二年頃から資金繰りに詰まっていて、預かっている地金を現物市場に流し、その金を運転資金に回していた。出庫の記録は、システムの上では作られていない。作らなければ、在庫証明の数字は減らない。

一年半のあいだ、報告書の数字だけが、動かずにそこにあった。

「先生、これ、犯罪ですよね」

若手が言った。

「犯罪や」

船越は言った。

「向こうの刑法で、横領か背任か。詐欺もつくやろ。ただ、それはインドネシアの検察の仕事や」

センバラの代表は、三月二十六日に出国している。所在は、報告書の時点でわかっていない。会社には、めぼしい資産がない。

「取れませんね」

「取れへん」

「じゃあ、この報告書、何のために」

「二つある」

船越は、報告書を閉じた。

「一つ。うちが物を盗ってへんことがわかる。うちは、騙された側や。それは、詐欺の抗弁の話になったときに効く」

「もう一つは」

「向こうも、騙された側や」

若手が、少し黙った。

「ノースヘイヴンもですか」

「そうや。同じ紙を信じて金を貸してる。だから、ほんまは、二人で倉庫会社を追いかけるのがいちばん筋が通ってる」

「なんで、そうならないんですか」

「うちには、保証がついてるからや」

船越は言った。

「倉庫を追いかけたら、何も出てこん。鳳和物産を追いかけたら、全額出てくる。銀行は、出てくるほうへ行く。行くのが仕事や」

三人廷である。各当事者が一人ずつ指名し、二人が議長を選ぶ。合意できなければICCが選ぶ。

青柳の部屋に、リストが置かれていた。

十四人。名前と、国籍と、所属と、直近五年の関連分野の登板数。船越が作った。

「どれだ」

「三人に絞ってあります」

「並べ方が気に入らんな」

「なぜですか」

「上から順に、君が推したい順だろう」

「そうです」

「私が二番目を選ぶと思っているだろう」

船越は答えなかった。

青柳はリストを裏返して、指を一本立てた。

「船越君。仲裁人の指名でいちばん多い失敗は何だ」

「自分たちの主張に賛成しそうな人を選ぶことです」

「そうだ。で、二番目に多い失敗は」

「……わかりません」

「一番目を避けようとして、誰にも文句を言われない人を選ぶことだ」

青柳はリストを表に戻した。

「穏当な人物を、と私は言うつもりだった。今、言わないことにした。君の一番を言え」

「レイモンド・テオです」

「シンガポール大の」

「はい」

「理由は」

「あの人は、抵触法の論文しか書いていません。それも、仲裁廷が抵触法規則をどう選ぶかという、誰も読まない領域だけを二十年」

「勝てるのか」

「勝てません」

船越は言った。

「テオ教授は、こちらに有利な結論を書く人ではないです。むしろ、こちらの主張のいちばん弱いところを、いちばん早く見つける人です」

「では、なぜ指名する」

「議長が、この論点を面倒だと思ったときに、面倒だから触らない、と決めさせないためです」

青柳は、しばらくリストを見ていた。

「触らせたいのか」

「触ってほしいです」

「触られたら、こちらが負けることもある」

「あります」

青柳はペンを取り、リストの一番上に丸をつけた。

丸をつけてから、言った。

「私が君を呼んだ理由の、残り半分を教えようか」

「いえ」

「なぜだ」

「今伺うと、僕は先生の期待に合わせて仕事をすると思います」

青柳は、はじめて少しだけ笑った。

「マグナス・ブレイクは、いい教育をしたな」

◇

ノースヘイヴンの指名は、六月十日に出た。

Sir Alistair Kemp。英国人。元裁判官。商事法廷に十一年いて、退官後に仲裁人になった。七十一歳。

船越は履歴書を読み、それから、彼が関わった公表済みの仲裁判断と判決を、十九件洗った。

三日かけて、若手と二人で表を作った。

争点の性質決定に関する判断が、七件あった。

七件のうち六件で、彼は「本件では判断の必要がない」と書いていた。

「船越さん」

若手が言った。

「これ、偶然じゃないですよね」

「偶然やない」

「向こう、狙って選んでますね」

「狙ってる」

船越は表を閉じた。

「せやけど、これは責められへん。僕らかて狙って選んでる。選んだ理由が反対なだけや」

議長は、七月に決まった。

Dr. Elsa Brunner。スイス人。四十九歳。チューリヒの独立実務家。金融・商品取引の仲裁を年に六件から八件。判断が早いことで知られ、期日の管理が厳しいことで嫌われている。

船越は、彼女の履歴書を読んで、一行だけ手帳に書いた。

——時間を守る人は、時間で負ける論点を嫌う。

9 テオ教授

七月十八日、シンガポール。

第一回手続会議の前日、船越はマリーナ地区のホテルのロビーで、フェンウィックのアレックスと会っていた。

アレックスは、あのとき撮った写真をすべて持ってきた。四百二十七枚。

「Mr. Funakoshi。順番に見ますか」

「日付順に見せてください。ただ、最初は、あなたが撮った理由を覚えてる写真だけでいい」

アレックスは少し考えて、十一枚を選んだ。

そのうちの三枚が、白い塗料の記号だった。

「これ、他の列にもありましたか」

「ありました。全部で、たぶん六十箱くらい」

「たぶん」

「数えていません。数える指示を受けていなかったので」

船越はその答えを気に入った。

「アレックスさん、あなたは、あの日、八千トンあるはずだと聞いていましたか」

「聞いていました」

「聞いていて、三千二百と書いた」

「はい」

「怖くなかったですか」

アレックスは、コーヒーを飲んだ。

「Mr. Funakoshi、私は検数屋です。数えたものを書く以外に、私が売れるものはありません」

船越は頷いた。

彼は手帳を出して、その台詞を書いた。あとで使う予定はなかった。

◇

翌日の手続会議は、テレビ会議で二時間だった。

ブルンナー議長は、開始の四分後に手続日程表の初稿を画面に出した。書面の交換、文書提出手続、審問期日。審問は十一月。判断は翌年の春。

ヴィクトリア・ソーンKCが最初に発言した。

五十五歳。ロンドンの法廷弁護士で、勅選弁護士。彼女の声は低く、速さは一定で、句読点の位置が完全に予測できる。

船越は、彼女と一度対峙している。八年前、マグナス・ブレイク時代、シンガポールの海事仲裁だった。三日間で完敗した。

彼女は、船越を覚えていない。

会議の冒頭、船越が自己紹介をしたとき、彼女は「Mr. Funakoshi」と正確に発音し、それだけだった。

議題は日程だけのはずだった。

だが、手続命令第一号の草案の第七項に、付託事項書(Terms of Reference)の作成日程が入っていた。

ソーンが、そこで発言した。

「議長、付託事項書についてですが。本件で争点の一覧を作ることが適当かどうか、仲裁廷にご検討いただきたいと思います」

船越は、画面の中の自分の顔が動かないように気をつけた。

ブルンナーが聞いた。

「適当でない、という理由は」

「主張されている争点は、単純だからです。申立人は、与信と保証に基づく支払を求めている。一覧を作れば、ないところに複雑さを作ることになります」

テオ教授が、はじめて口を開いた。

彼は六十代で、画面の中では常に少し下を向いている。書いているからである。

「ソーンさん。被申立人は、担保が無効だと主張しています。あなたは、それはニューヨーク州法の下での表明の問題だと言う。先方は、インドネシア法の下での物権の問題だと言う。この食い違いには、名前があります。その名前を一覧に書くかどうかは、小さい問題です。しかし、食い違いは、あります」

「あります、教授。私どもが申し上げているのは、それを一覧に載せる必要はない、ということだけです」

「一覧というのは、仲裁廷が、自分は何を聞かれたのかを思い出すための道具です」

ケンプ卿が、そこで短く言った。

「あるいは、答える必要のない問いに、縛りつけられるための道具です」

ブルンナーは十秒ほど黙った。

「手続命令第一号で回答します」

会議は終わった。

船越は、通話が切れたあと、しばらく画面を見ていた。

若手が言った。

「今の、なんだったんですか」

船越はマイクの切れたヘッドセットを外した。

「向こうが、争点の一覧を作りたないと言うた」

「一覧、ですか」

「付託事項書というのが、事件の入口で作られる。当事者は誰か、何を請求してるか、仲裁地はどこか、準拠法は何か。その最後に、判断すべき争点を並べた一覧が入る」

「目次みたいなものですか」

「近い。本の目次と一つだけちゃうのは、あとから書いた本文のほうを、この目次に合わせにいくところや」

彼は、ヘッドセットを机に置いた。

「載ったら、廷は最後に必ずそこへ戻ってくる。載ってへんかったら、忘れられる可能性が残る」

彼は、そこで言葉を切った。

忘れられて得をするのはどちらか、という問いには、見当がついていた。ついていたが、その見当は、まだ根拠のない仮説の続きだった。

10 付託事項書

八月。

付託事項書は、ICC規則の下で仲裁廷が作る書面である。当事者と代理人の名前、請求の要旨、仲裁地、準拠法。そして、判断すべき争点の一覧。

一覧は、廷が不適当と考えるときは、入れなくてよい。

この「不適当と考えるとき」をめぐって、八月の三週間が消えた。

ソーンの草案は、争点を六つに整理していた。

一、期限の利益喪失事由は発生したか。二、期限の利益喪失の通知は有効か。三、実行残高はいくらか。四、包括保証は有効に成立し、拘束力を有するか。五、信用状に基づく支払拒絶は正当か。六、費用。

船越は、四の下に、三つの小項目を足した草案を返した。

そして、六の下に、一つの争点を新設した。

七、担保権の成立および対抗要件の準拠法は何か。

ソーンの反論は、八頁あった。

要旨は洗練されていた。彼女は、担保の準拠法がニューヨーク州法だ、とは一度も書かなかった。

——本件で争われているのは、担保権の対抗力ではない。借入人は、融資契約第十八条において、担保が適法に設定されている旨を表明し、保証した。その表明が事実に反していたのであれば、それは契約上の表明保証の違反であり、契約の準拠法であるニューヨーク州法によって規律される。担保権それ自体の物権的効力を判断する必要はない。

船越は、この書面を三度読んだ。

読んで、感心した。

彼は反論をこう書いた。

——表明が事実に反していたかを判断するには、まず、担保権が有効に成立したかを判断しなければならない。相手方の構成は、判断を要しないと述べる形で、判断の結論を先取りしている。争点の性質決定それ自体が争点である。仲裁廷には法廷地がなく、いかなる抵触法規則によるべきかは、当事者の合意がない限り、仲裁廷が定めるほかない。したがって本件では、どの抵触法規則を用いるかという入口から、争いが存在する。

書き終えて、彼は自分の書いたものを声に出して読んだ。

読みながら、途中で止まった。

彼が気づいたのは、法律のことではなかった。

四十一条の交渉をしたのは、青柳である。二〇一九年に、この契約の骨組みを作った側の一人が、こちらにいる。

そして向こうには、同じ骨組みを作った側の、もう一人がいる。

ノースヘイヴンの外部弁護士は、当時からマーロウ・スタントンだった。契約書のドラフトの履歴に、その名が残っている。

その事務所が、いま、契約書のどの部分の話を避けているか。

担保である。

担保の話を、彼らは争点の一覧に載せたくない。

設計者が、自分の設計図の話を避けている。

船越は、書きかけの反論書の余白に、その一行を書いた。

書いてから、消した。

書面に感想を書く癖は、若い頃に直したはずだった。

◇

手続命令第二号は、八月二十九日に出た。

争点の一覧は、付託事項書に入った。

七番も入った。ただし、文言が変わっていた。

——七、担保に関する当事者の主張が、いかなる法規範により規律されるか(必要な限りにおいて)。

「必要な限りにおいて」。

船越は、その括弧を長いあいだ見ていた。

若手が、うしろから覗いて言った。

「入りましたね」

「入った」

「勝ちですよね」

「半分や」

「え」

船越は、頁を閉じた。

「入れてもろたけど、廷は自分に逃げ道を残した。必要やなかったら答えへん、と最初から書いてある」

「じゃあ、なんで入れたんですか」

「入れんかったら、僕が食い下がるからや。ブルンナー先生は、時間が惜しい」

彼は、その日、はじめて相手方の全体像を疑うのをやめ、相手方の一部分だけを疑うことにした。

具体的には、ソーンKCではなく、その背後にいる人間を疑うことにした。

書面は代理人が書く。だが、争点の一覧に何を載せたくないかを決めるのは、依頼者である。

11 要求の表

九月。

文書提出手続は、表で進む。

左の欄に要求する文書の特定。その右に、関連性と重要性の説明。その右に、相手方の異議。その右に、要求した側の反論。いちばん右が空欄で、そこに仲裁廷が決定を書き込む。

四つの欄が埋まって、五つ目に一語が入る。Granted、Denied、あるいは Granted in part。

ノースヘイヴンの要求は、四十二項目あった。

鳳和側の要求は、船越が三十一項目に削った。若手が作った初稿は六十八項目だった。

「半分以下ですか」

「多いと、全部が薄なる」

「でも、これ、落とした中に大事なのが」

「あるやろな」

船越は言った。

「せやけど、あとから一項目だけ追加するほうが、最初に六十八並べて三十しか通らへんより、通りやすい。廷は、絞ってきた側を信用する」

彼は三十一項目のうち、四項目に印をつけた。

その四項目は、ノースヘイヴンの内部の与信管理に関するものだった。

二〇二二年の増額の稟議。与信委員会の議事。担保の管理方針。そして、期限の利益喪失の宣言に至る内部の判断過程。

「四つ目、これ通りますかね」

「通らへん。異議は『調査目的の網羅的要求』や。IBA規則で正面から潰される」

「じゃあ、なんで書くんですか」

「三つ目を通すためや」

◇

仲裁廷の決定が出るのは、十月の半ばである。

三十一項目のうち、十九項目が通った。印をつけた四つのうち、担保の管理方針は通った。二〇二二年の増額の稟議は、期間を限って認容された。期限の利益喪失に至る内部の判断過程は、船越の見立てどおりに落ちた。

与信委員会の議事だけが、理由をつけて落とされた。

決定の欄に入った一語は、Denied。その右に、一行だけ添えてあった。

——申立人の意思決定機関における審議それ自体は、本件の請求の当否を判断するために必要でない。

船越は、その一行を、表の欄に収まったまま、何度か読んだ。

一度却下された項目は、同じ理由では二度と出せない。出し直せば、廷は次から、こちらの要求を全部まとめて軽く見る。

彼は、別の入口を探すことにした。

そのときは、それがどこにあるのかも、そんなものがあるのかも、わかっていなかった。

◇

相手方の要求のほうが、先に牙を剥いた。

第十九項。

——二〇二三年一月一日から二〇二四年三月三十一日までの間に作成された、担保物の数量、実在性または管理状況に関する被申立人グループ内部の報告、覚書、電子メールその他の文書。

鳳和物産の法務部から、対象文書の一次リストが上がってきたのは、九月十二日だった。

千八百四十件。

船越は、若手三人と法務部の四人で、二週間かけて選別した。

九月二十四日の夜、選別の作業室で、若手の一人が手を止めた。

「船越さん」

「なに」

「これ、たぶん、まずいです」

船越は椅子を回した。

画面に出ていたのは、鳳和物産法務部が作成した内部報告書だった。

作成日、一月十七日。

フェンウィックの在庫確認は、三月十三日である。

二か月前だった。

表題は、「東ジャワ在庫の実査に関する懸念について」。

A4で六頁。作成者、峰岸玲奈。

船越は、椅子を引き寄せて、最初から読んだ。

内容は、簡潔だった。過去二年間、当該倉庫についての実地の在庫確認が、書面上の残高照合に置き換えられている。置き換えの理由は毎回「現地の受入体制」とされている。同期間に、当該倉庫を経由する取引の量は一・八倍になっている。実査を、遅くとも第一四半期中に実施すべきである。

六頁目に、回付の記録があった。

一月二十日、金属本部長、閲覧。

そこに、一行だけ、コメントが残っていた。

——期末の対応を優先。四月以降に検討。

その下に、もう一行。

一月二十二日、戸倉健、コメント。

——二週間待ってほしい。当方で確認のうえ、改めて報告する。

船越は、そこで動きを止めた。

作業室の空調の音がした。

「船越さん」

「うん」

「二週間って、なんですか」

「わからん」

彼はもう一度、最初から読んだ。

二度目に読んだとき、彼が見たのは文章ではなかった。

日付だった。

一月二十二日から二週間は、二月五日である。

その日に、何が起きたのか。何も起きていないのか。

彼は、手帳を開いて書いた。

——1/22 + 14 = 2/5

「これ、出るんですか」

若手が聞いた。

「要求の範囲に、まっすぐ入ってる」

「特権は」

「社内の人間が社内の人間に宛てた、事業判断の報告書や。弁護士の助言やない。峰岸さんは弁護士やない」

「じゃあ」

「出る」

船越は画面を閉じた。

「ただ、出す前に、うちが読む。読んで、意味がわかってから出す。意味がわからんまま出すのがいちばんあかん」

12 二週間

九月二十六日、鳳和物産本社、法務部の小会議室。

峰岸玲奈は、自分が書いた報告書のコピーを、机の上に置かれた状態で見た。

見て、顔色を変えなかった。

「出ますか」

「出ます」

「わかりました」

彼女はそれだけ言った。

船越は、少し待った。待っても、彼女は続けなかった。

「峰岸さん。四月に廊下で伺ったのは、この文書のことですね」

「一般論です、と申し上げました」

「そのときは、そうでしたね」

峰岸は、コピーの角を指で揃えた。

「先生。この報告書が出て、会社にとって、どうなりますか」

「二つあります。悪いほうから言います」

「どうぞ」

「相手方は、鳳和が在庫の異常を三月ではなく一月に知っていた、と言います。知っていて、二月に信用状の書類を作り、三月に船積みをした。詐欺の抗弁の材料にします」

「もう一つは」

「よいほうは、この報告書があるおかげで、鳳和は隠していない、と言えることです。社内で声が上がった記録が残っている会社と、何も残っていない会社では、廷の見え方が違います」

「それは、会社にとってよいことですね」

「よいことです」

峰岸は頷いた。

「私にとっては、どうですか」

船越は答えなかった。

答えないことが答えになるのを、彼はわかっていた。

峰岸は、少し笑った。笑った、というより、口の形を変えただけだった。

「先生、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「戸倉さんの、二週間って、なんだったんでしょう」

「僕も、それを聞きに来ました」

「私は知りません。当時、返事をもらっていません」

「催促は」

「二度しました。二度目の返事が、三月十三日です」

「実査の日ですね」

「はい。『すみません、いま現地です』とだけ」

船越は手帳を開いた。

「峰岸さん。戸倉さんは、どういう方ですか」

峰岸は、少し考えた。

「よい人です」

「よい人」

「はい。私が二年目のとき、私の書いた契約書の誤りを、私に直させてくれた人です。上に言わずに」

「それは、よい人ですね」

「よい人です」

彼女は繰り返した。

「先生、よい人が、悪いことをしたら、それはどっちの人なんですか」

船越は、手帳を閉じた。

「同じ人です」

「それは、答えですか」

「答えではないです。ただ、そのどちらかに決めてしまうと、事実が見えなくなります」

◇

その夜、船越は戸倉に会った。

場所は、鳳和物産の本社から二駅離れた喫茶店だった。戸倉が指定した。

戸倉は、五月に帰任している。ジャカルタ駐在から、本社の金属本部付。役職に「付」がついている。

「先生、こんなとこですみません」

「いえ」

「会社の中やと、誰が通るかわからんので」

戸倉は五十歳に近い。日焼けは、まだ抜けていなかった。

船越は、報告書の該当頁のコピーを出した。

戸倉は、それを読んだ。読むのが遅かった。もう内容を知っている人間の読み方ではなかった。

「これ、峰岸さんが書いたんですね」

「はい」

「知らんかった」

「戸倉さんは、コメントをつけておられます」

「つけました。けど、上に何が書いてあるかは、そのとき読んでません」

「読まずにコメントを?」

「本部長から電話が来て、峰岸が倉庫の話を上げてる、お前のとこやろ、と言われました。それで、システムを開けて、コメント欄だけ書きました」

船越は、その説明を、そのまま信じるかどうかを保留した。

「二週間、というのは何ですか」

戸倉はコーヒーを飲んだ。

飲んで、カップを置いた。

「先生、それ、答えなあきませんか」

「いま答えなくてもいいです。ただ、十一月には、答えることになります」

「十一月」

「シンガポールです。相手方の弁護士に、英語で、同じことを聞かれます。そのときに答えを用意していなければ、あなたは、その場で考えることになる。その場で考えた顔は、仲裁人に見えます」

戸倉は、しばらく黙っていた。

窓の外を、電車が通った。

「先生」

「はい」

「二週間あったら、なんとかなると思たんです」

「なにが」

「数字が」

戸倉は、そこで言葉を切った。

「すみません。それだけです」

船越は、それ以上聞かなかった。

聞かなかったのは、彼が優しかったからではない。この時点で答えを取ってしまうと、証人尋問までの一年間、戸倉がその答えを何度も自分の中で整形してしまうからだった。整形された話は、反対尋問で崩れる。

彼は代金を払って、店を出た。

出てから、戸倉が最後に言った言葉を、手帳に書いた。

——数字が。

その下に、日付を入れた。

13 特権

十月三日。

青柳の部屋に、船越と、鳳和の法務部長がいた。

議題は一つだった。峰岸報告書を、要求への回答として提出するのか、それとも異議を出して争うのか。

法務部長が先に言った。

「先生方、これは出さない方向で検討していただけませんか」

青柳が聞いた。

「理由は」

「社内の一意見です。会社の判断ではありません。会社の判断でないものが、会社の認識として使われるのは、公平ではないと思います」

船越は、その言い方が正確であることに気づいた。誰かに教わった言い方である。

「部長。異議を出すとすれば、根拠は何になりますか」

「関連性が薄いということでは」

「まっすぐ入っています」

「では、内部の意思決定過程ということで」

「先週、うちの若手に同じことを聞かれました。同じことを答えます。出ます」

法務部長は、青柳を見た。

青柳は、湯呑みを持ったまま動かなかった。

「船越君の見立てを聞こう」

船越は、テーブルの上に三枚だけ紙を置いた。

「異議は、たぶん通りません。通らなかったとき、何が起きるかを申し上げます」

一枚目。

「まず、この文書は結局出ます。出るときには、廷は『被申立人が異議を出して争った文書』として読みます。同じ文書でも、進んで出した文書と、争って負けて出した文書では、重さが違います」

二枚目。

「次に、相手方は必ずこう言います。彼らは在庫の異常について社内で警告が出ていたことを隠そうとした、と。それは、詐欺の抗弁の悪意の主張に直結します」

三枚目。

「三つ目が、いちばん重いです」

彼は、その紙を法務部長のほうへ向けた。

「この文書を隠す判断をするのは、いま、この部屋にいる人間です。仲裁の記録には、その判断の跡が残ります。残ったものは、あとで、別の場所で読まれることがあります。株主代表訴訟でも、当局の照会でも」

法務部長が、目を上げた。

「先生、それは脅しですか」

「実務の説明です」

青柳が、湯呑みを置いた。

「船越君。君は、進んで出せと言っている」

「はい。それも、こちらの主張の中で使えと言っています」

「使う?」

「鳳和は、一月に社内で警告を受けています。それは事実です。ただ、その警告が上まで届かなかった経緯を、こちらから全部書きます。内部統制の不備として、認めます」

「認めるのか」

「認めます」

船越は言った。

「隠せば、悪意になります。認めれば、ずさんになります。この事件で、ずさんは死にません。悪意は死にます」

部屋が、静かになった。

法務部長が、口を開いた。

「……本部長は、納得しないと思います」

「僕が説明します」

青柳が、そこで言った。

「船越君」

「はい」

「その説明を、君が金属本部長にすると、あの人は君を嫌う」

「はい」

「嫌われた代理人が、来年の三月にどうなるか、わかっているか」

「わかっています」

三月は、パートナーの選考である。国際仲裁の席は、三年前から空いたままだった。

「では、私が言おう」

船越は、青柳を見た。

「先生」

「私が言えば、あの人は嫌う相手を選べる。私は鳳和と三十年やっている。私が言って嫌われるぶんには、関係は壊れない」

青柳は立ち上がった。

「ただし、船越君。一つだけ聞く」

「はい」

「その報告書を進んで出すと、次は何が出る」

船越は、少し黙った。

「二〇二二年の、うちの意見書です」

青柳は、船越の顔を見た。

長いあいだ見ていた。

「そうだな」

そう言って、彼は部屋を出た。

14 英語の係

十月四日、六甲。

演習室に入ると、机の上に書面が二部あった。

一部は黒田蒼が書いたもの。もう一部は、宮下詩織が黒田の書面を直したものだった。

直した、というより、書き直してあった。

船越は両方を読んだ。読むのに四十分かかった。四人は、そのあいだ黙っていた。

読み終えて、彼は顔を上げた。

「宮下さん」

「はい」

「これ、どっちを出すつもり」

「私のほうです」

「なんで」

「黒田くんのは、正しいですけど、勝てないです」

黒田は、机を見ていた。

船越は、黒田の書面のほうを持ち上げた。

「黒田くん、この三十一段落から三十四段落。ここが今日のいちばんええとこや。所有権留保と担保権の優劣を、条約が沈黙してるから各国法へ、と単純に流さんと、まず沈黙の種類を分けてる。書いてないから外なんか、外やと書いてあるから外なんか。この二つはちゃう」

黒田が顔を上げた。

「これ、宮下さんの稿では、どこ行ったん」

詩織が答えた。

「一段落にまとめました。長いので」

「長い理由があるやろ」

「弁論は十五分です。仲裁人はそこまで読みません」

「読むで」

船越は言った。

「読む人が三人おったら、一人は読む。その一人が、あとの二人に説明してくれる」

詩織は、少し口を結んだ。

「先生。それ、実務の話ですよね」

「そうや」

「私たちは、点を取らないといけないです」

船越は、少し黙った。

「そのとおりや」

彼は、二部の書面を机に戻した。

「ごめん、いまのは僕が悪い。君らの試合の話をせんと、自分の仕事の話をした」

彼はペンを取った。

「ほな、こうしよ。黒田くんの三十一から三十四を、宮下さんの構成の中に、三行で入れる。三行や。三行で入れられへんかったら、それは黒田くんの負けや」

黒田が、はじめて船越を見た。

「三行、書きます」

「よし」

早瀬千夏が、そこで手を挙げた。

「先生」

「なに」

「私は、いつ書面を読むんですか」

演習室が、静かになった。

千夏は、まっすぐに船越を見ていた。

「弁論の練習は、原稿ができてからだと言われました。それは三週間前です。原稿は、まだ来ていません」

詩織が言った。

「まだ固まってないから」

「固まってからだと、私は読み上げるだけになります」

「そんなことは」

「宮下さん」千夏は言った。「私は、英語の係ですか」

誰も答えなかった。

田淵航が、飲み物を配る手を止めた。

千夏は続けなかった。それ以上言えば泣くとわかっている顔だった。船越には、それがわかった。

彼は、少し考えて、言った。

「早瀬さん」

「はい」

「今日、いちばん最初にこの二部の書面を読んだのは誰や」

千夏が、少し黙った。

「……私です」

「なんでわかるん、て思うやろ。君の席の書面だけ、角が折れてる」

千夏は、自分の手元を見た。

「読んで、どう思た」

「言っていいですか」

「言うて」

「黒田くんのほうが、正しいと思いました。でも、宮下さんのほうが、勝つと思いました」

「両方合うてる」

船越は言った。

「ほな、次の演習までに、君が両方を一つにしてきて」

詩織が、はじかれたように顔を上げた。

「先生、それは、私の担当です」

「弁論するんは早瀬さんや。読み上げるだけの人間は、反対尋問みたいな質問が飛んできたときに死ぬ。書いた人間しか、その場で言い直せへん」

彼は続けた。

「宮下さん、君が一人で全部やったら、君のチームは君の限界で止まる。それが君の限界より低い場所やったら誰も文句言わへんけど、君の限界はけっこう高い。せやから、余計に止まる」

詩織は、何も言わなかった。

演習は、その日、予定より早く終わった。

◇

四人が帰ったあと、船越が資料を片づけていると、田淵航だけが戻ってきた。

「先生、すみません。傘、忘れて」

傘は、机の下にあった。彼はそれを取ってから、立ったままでいた。

「なんかある?」

「あの、早瀬さん、三週間、演習で一回も発言してませんでした」

船越は手を止めた。

「三週間か」

「はい。九月の十三日から、今日までです」

「よう見てるな」

「見てるだけです」田淵は言った。「僕は、書面も書けないし、法律もそんなにわかってないので」

「そんなことないやろ」

「あります」

田淵は、あっさり言った。

「先生、ロジって、要するに誰がどこにいるかを管理する係なんです。だから、誰がいなくなったかは、いちばん早くわかります」

彼は頭を下げて、出ていった。

船越は、その言葉を手帳に書かなかった。

書かなかったが、覚えていた。

◇

十月八日、火曜。雨だった。

早瀬千夏が演習室に戻ったのは、七時を過ぎていた。参考書を机に置いてきたのを、坂の下まで降りてから思い出した。

二階の廊下は暗い。演習室の窓だけ、明かりがついていた。

彼女は、ドアの手前で止まった。

中に、二人いた。

宮下詩織と、黒田蒼が、同じ机の同じ側に座っていた。机の上に書面が広げてあって、二人とも、それを見ていた。

「ここ」黒田が言った。「『したがって』が要らない」

「要るでしょう」

「要らない。前の文で、もう理由になってる。『したがって』を入れると、読む人が、いま理由を言われたんだと気づく」

詩織が、ペンを止めた。

「気づかせたくないの」

「気づかれたら、疑われます」

詩織は、しばらくその一行を見ていた。

それから、線を引いて、消した。

「あなた、それ、なんで最初に言わなかったの」

「言いました」

「言ってない」

「三週間前に言いました。宮下さんが、長いって言って、切ったところです」

詩織は、書面をめくった。めくって、止まった。

「……ある」

「あります」

雨の音がした。窓が細く開いていて、そこから入っていた。

詩織が、立って、窓を閉めた。

閉めて、席に戻るとき、椅子の位置が、さっきより少し黒田のほうへ寄った。

黒田は、気づいた。

気づいて、何も言わずに、次の頁をめくった。

千夏は、ドアを開けなかった。

参考書は、明日でよかった。

彼女は、廊下を戻って、階段を降りた。

一階の玄関の庇の下に、田淵航が立っていた。

傘を二本持っていた。

「早瀬さん、傘」

「持ってます」

「知ってます」

航は、一本を差し出した。

「宮下さんのです。玄関に置きっぱなしやったから、持ってきたんですけど」

千夏は、二階のほうを見上げた。

見上げて、少しのあいだ、何も言わなかった。

「……まだ、いるみたいです」

「そうですか」

航は、傘を下ろした。

下ろして、そのまま持っていた。

二人は、庇の下に並んで立っていた。

雨は、しばらく止まなかった。

15 信用

十月十一日。

演習は、模擬の反対尋問だった。船越が相手方代理人役をやり、四人が交代で証人役をやる。

千夏の番のとき、船越は三つ目の質問で彼女を詰まらせた。

「Ms Hayase, you said the goods were in the warehouse on 3 March. How do you know?」

「Because the inspection report says so.」

「Did you read the report?」

「……Yes.」

「All of it?」

千夏が、止まった。

船越は、そこで止めた。

「はい、ここまで」

彼は椅子に座り直した。

「早瀬さん、いま、なんで詰まった?」

「読んでない部分があったからです」

「そうやな。で、そのとき、二つ選べた。読んでませんと言うか、読みましたと言い張るか。どっちが正しい?」

「読んでませんと言うほうです」

「なんで」

「嘘をつくと、あとで潰されるからです」

「それも合うてるけど、もうちょっと手前の理由がある」

船越は、四人を見た。

「仲裁人が見てるのは、どっちの理屈が正しいかやない。どっちの言うことが信用できるかや」

彼は続けた。

「三人の仲裁人が、事件の記録を全部読んで、法律も全部調べて、完璧に理解して判断する、と思うやろ。せえへん。読む。よう読む。せやけど、人間や。一週間の審問の途中で、こっちの言うてることは大体ほんまやな、と思い始めたら、その先の細かいとこは、こっちに寄る。逆になったら、逆に寄る」

「それは、不公平じゃないですか」

聞いたのは黒田だった。

「不公平やない。それしか方法がないからや。事実は誰にも見えへん。見えるのは、事実について喋る人間だけや。喋る人間の信用度で重みをつける以外に、判断の作り方がない」

彼はホワイトボードに、線を一本引いた。

「せやから、書面でも、尋問でも、いちばん高いのは、自分に不利なことを自分から言うことや。これは高い。ものすごい高い。ただし——」

彼は線の端に、点を打った。

「安売りしたらあかん。不利なことを全部言うたら、ただの弱い当事者や。どれを自分から出して、どれを出さんかを選ぶ。選んだ跡が見えたら、終わりや」

千夏が言った。

「選んだ跡って、どう見えるんですか」

「順番や」

船越は言った。

「不利なことを、いちばんうしろに置いたら、隠したかったんやなとわかる。まん中に置いたら、埋めたかったんやなとわかる。ほんまに認めてる人間は、いちばん前に置く」

詩織が、ノートに何か書いた。

黒田も書いた。

千夏は書かなかった。彼女は、船越の顔を見ていた。

「先生」

「なに」

「先生の事件でも、そうしてるんですか」

船越は、答えるまでに、少し時間がかかった。

「そうしようとしてる」

「してるんじゃなくて」

「してるつもりや、と言うたら嘘になる。まだ全部決まってへん」

千夏は頷いた。

田淵航が、うしろで小さく笑った。

「なんや」

「いえ。先生、いま、いちばん前に置きましたね」

16 理由は付されない

十月十三日。

鳳和物産から、青柳を通じて、正式な要請が来た。

サー・アリスター・ケンプの忌避を申し立ててほしい、という内容だった。

きっかけは、八月二十九日の手続命令第二号だった。

船越は、その内容を、四頁の報告書にして鳳和へ出している。争点の一覧に担保の準拠法が入ったこと。ただし「必要な限りにおいて」という留保が付いたこと。そして、七月の手続会議で、ケンプ卿が争点の一覧について「答える必要のない問いに、縛りつけられるための道具です」と述べたこと。

事実だけを、順番に書いた。書いたときは、事実だけを書いたつもりだった。

法務部長から電話が来たのは、九月の終わりである。

「先生、あの報告書、社外の先生方にお回しすることになりました」

「どうぞ」

「一点だけ。ケンプという方の発言は、そのまま載っていますね」

「載せました」

「そうですか」

十月十日の取締役会で、社外取締役の一人が、その頁を開いて発言した。相手方が四回も指名している人間が、争点の一覧そのものを疑う発言をしている。この二つは並べて読むべきではないか、と。

誰も反論しなかった。

要請書には、根拠が二つ挙げてあった。

一つ。ケンプは、過去三年間に四件、ノースヘイヴンまたはそのグループ会社が当事者となった仲裁で、同社側の指名により仲裁人を務めている。IBAの利益相反ガイドラインで、開示を要する類型に該当する。

二つ。ケンプは、退官後に発表した講演録の中で、性質決定の争点について、次のように述べていた。

——In commercial arbitration, an argument about which law applies is, more often than not, a way for the losing side to ask for a second hearing.

船越は、その要請を読んで、青柳の部屋へ行った。

「先生、これ、僕は反対です」

「理由を言え」

「勝てません」

「それだけか」

「それだけではないです」

船越は座った。

「まず、ケンプ卿の開示は、選任のときに出ています。四件のことも、講演録のことも、本人が書いています。開示された事情で忌避を出しても、ICCの裁判所は動きません」

「講演録の内容は、開示にあったか」

「ありました。講演の題名と日付が。中身までは書いていませんが、公表されているものです」

青柳は頷いた。

「二つ目の理由は」

「棄却されたあと、あと五か月、その人と同じ部屋にいることになります」

「彼はプロだ。忌避で態度を変える人物ではない」

「変えません」

船越は言った。

「変えないと思います。でも、こちらが変わります。僕は、あの人の顔を見るたびに、この人はこちらを恨んでいないかと考えるようになる。考え始めたら、僕の反対尋問は鈍ります」

青柳は、湯呑みを回した。

「鳳和は出せと言っている」

「わかっています」

「君の報告書がきっかけだ。知っているか」

「知っています」

青柳は、湯呑みを置いた。

「船越君。あの会社は、ケンプ卿を降ろせると思っていない」

船越は、顔を上げた。

「では、なぜ出せと」

「来年の春に、五億ドルの支払を株主に説明する人間がいる。そのとき、何もしなかったと言うのと、申し立てて棄却されたと言うのとでは、まるで違う」

「記録のためですか」

「記録のためだ」

青柳は言った。

「それを卑しいと思うか」

船越は、少し黙った。

「思いません」

「そうか」

「思いませんが、それなら、そう言ってほしかったです」

「言えば、君は書けなくなる」

船越は、それに答えなかった。

答えずに、別のことを言った。

「取締役会で、誰も反論しなかったそうですね」

「しなかった」

「反論できないのは、誰も説明していないからです。忌避がどういう制度で、開示された事情では通らないということを、社外の方に説明した人間が、一人もいない」

「では、君が説明するか」

船越は、少し黙った。

「いえ」

「なぜだ」

「説明して、それでもやってくれと言われたら、僕は、納得しないままやることになります。それが最悪です」

「説明せずにやるほうがましか」

「ましです。依頼者が決めたことだと割り切れます」

青柳は、船越を見た。

「船越君。それは、いい割り切り方ではない」

「わかっています」

「わかっていて言っているなら、それでいい」

◇

忌避申立ては、十月十七日に提出した。

十四頁。船越が書いた。書けるかぎり、いちばん強く書いた。自分が反対した申立てを弱く書くのは、いちばんやってはいけないことだった。

ノースヘイヴンの回答は九頁。ケンプ本人のコメントは、四行だった。

——I have already reported those appointments. I have already reported the lecture. I do not think that either of them affects my independence, or my ability to judge this case fairly. I am still willing to serve.

ICCの仲裁裁判所の決定は、十一月六日に出た。

事務局からの通知は、二段落だった。

一段落目は、忌避申立てが提出されたこと、相手方の意見とケンプの意見が求められたこと、これらが提出されたことを述べていた。

二段落目は、一文だった。

——The Court has decided to reject the challenge.

理由は、書いていなかった。

船越は、その通知を三度読んだ。

三度読んでも、二段落しかなかった。

規則上、理由は付されない。当事者全員が求めれば理由が示される取扱いはあるが、この事件では誰も求めていない。相手方が求めるはずがなく、こちらから求めれば、負けた側が理由を寄越せと言っているように見える。

若手が聞いた。

「これ、理由なしなんですか」

「なしや」

「なんでですか」

「そういう制度やからや」

「納得しますか」

船越は、通知を置いた。

「せえへん」

彼は言った。

「せえへんけど、これは、そういうもんや。理由が要るときと、要らんときがある。結論だけ渡されて、そこから先は自分で考えるしかない、ということが、この仕事にはある」

彼は通知をファイルに綴じた。

綴じながら、なぜか、青柳が四十一条三項の話をしなかったときのことを思い出した。

17 四億と七億

十月二十日。

保証の論点は、当初、船越の担当表のいちばん下にあった。

包括保証。ニューヨーク州法準拠。文言は「absolute and unconditional」。この種の保証で、保証人側が勝つことはほとんどない。抗弁を放棄する条項が並び、主債務の変更に同意する条項が並び、通知を要しない条項が並んでいる。

だから、船越は最後に読んだ。

読んだのは、保証契約ではなかった。

保証契約の効力は、契約の準拠法であるニューヨーク州法で決まる。だが、鳳和物産という日本の会社が、その保証を有効に負担する権限を持って行為したかは、別の問題である。会社の代表権限は、会社を作った国の法律で決まる。

日本法である。

彼は、二〇一九年の取締役会議事録の写しを開いた。

決議事項、第三号議案。

——当社連結子会社Howa Resources (Singapore) Pte. Ltd.が締結する金額四億米ドルを上限とする借入枠設定契約に関し、当社が包括保証を提供することにつき、これを承認する。

四億米ドルを上限とする。

彼は、その一行を二度読んだ。

次に、二〇二二年の書類を開いた。

Reaffirmation and Confirmation of Guarantee。日付、二〇二二年六月二十七日。署名者は鳳和物産の当時の副社長。

内容は、与信枠が七億米ドルに増額されたことを確認し、既存の保証がその増額後の全額に及ぶことを確認する、というものだった。

そして、その添付書類の一覧。

一、二〇一九年五月開催の取締役会議事録の写し。
二、鳳和物産株式会社の秘書役に相当する者による証明書。
三、日本法に関する法律意見書。

三の発行者。

長瀬・青柳法律事務所。

船越は、椅子から立たなかった。

彼は、意見書のPDFを開いた。

九頁。日付、二〇二二年六月二十七日。署名は、パートナー二名の連名。二人目に、青柳宗一郎の名があった。

第四項。

——本保証は、鳳和物産により適法に授権され、有効に締結され、その債務を構成する。

その下に、前提事実の列挙がある。

——本意見書は、当職らが検討した書類(別紙一)に依拠しており、当該書類に記載された事実が真正かつ完全であることを前提とする。当職らは、鳳和物産の内部の授権手続について、別紙一に掲げる書類以外の資料を検討していない。

別紙一。

二〇一九年の議事録。秘書役証明書。定款。登記事項証明書。

二〇二二年の議事録は、ない。

存在しないからである。

船越は、社内資料の索引に戻り、二〇二二年の取締役会の議事録を、四月から十二月まで全部開いた。

七億ドルは、どこにもなかった。

四億の上限が七億になることを承認した決議は、存在しなかった。

彼は、窓のほうを見た。

外は夕方で、丸の内のビルの列に、上から順に灯りが入っていくところだった。

会社法は、多額の借財を取締役会の決議事項としている。子会社の借入に対する親会社の包括保証も、規模と会社の事業規模との関係によっては、これに準じて扱われる。鳳和物産の連結総資産と、七億ドルという金額と、増額幅の三億ドルを並べれば、多額に当たらないという主張は難しい。

そこまでは、簡単だった。

問題は、その先である。

取締役会の決議を欠いてされた重要な業務執行に当たる取引は、原則として有効である。無効となるのは、相手方が決議を経ていないことを知り、または知ることができたときに限られる。そして、その無効を主張できるのは、原則として会社の側だけである。

つまり、入口は「原則有効」である。

そして、相手方が知っていた、または知ることができた、ということを立証する責任は、無効を主張する側——鳳和物産にある。

ノースヘイヴンは、二〇二二年に、議事録の写しを取り、秘書役証明書を取り、日本の法律事務所の意見書を取っている。

書類は揃っている。

揃った書類を受け取った銀行が、それでもなお、決議が存在しないことを知り得た、と言うためには、書類の外にある何かが要る。

彼は、手帳を開いた。

——2019の決議は「4億を上限」と書いてある。
——2022に7億へ増額。新決議なし。
——向こうは2019の議事録を受け取っている。
——読めば、上限が書いてあることはわかる。

彼は、そこまで書いて、ペンを止めた。

読めばわかる、は、証拠ではない。

読んだ、が要る。

読んで、気づいて、それでも進めた、が要る。

彼は手帳を閉じ、その夜は帰った。

帰りの電車で、彼は一度だけ、自分が何を発見したのかを正確に言葉にした。

長瀬・青柳法律事務所は、二〇二二年に、根拠の足りない意見書を出した。

そして今、その事務所の弁護士が、その意見書の前提が誤っていたと主張しなければ、依頼者は六億一千万ドルを払うことになる。

18 同じ紙

十月二十四日。

青柳は、意見書を最後まで読んだ。

自分の名前が入った文書を読むのに、二十分かけた。

読み終えて、彼は最初のページに戻り、日付のところを指で押さえた。

「二〇二二年六月二十七日」

「はい」

「この日、私はどこにいたと思う」

「わかりません」

「ロンドンだ。別の件で。この意見書は、私が読んで、私が署名した。読んだ時間は、たぶん十五分だ」

船越は、何も言わなかった。

「十五分で足りると思った。前提が全部、別紙に書いてあったからだ」

青柳は、意見書を閉じた。

「別紙に書けば、前提は前提でいられる。そう思っていた」

「先生」

「船越君。君は、この論点をどう扱うつもりだ」

「主張します」

「うちの意見書が誤っていた、と」

「意見書が誤っていた、とは言いません。言う必要がありません」

船越は、紙を一枚出した。

「主張するのは、二〇二二年の増額について、取締役会の決議が存在しないという事実だけです。意見書は、その事実を前提として組み立てられていない。それは意見書の限界であって、意見書の誤りとは違います」

「相手方は、そう読まない」

「読みません。向こうは、貴事務所が有効だと言ったではないか、と言います。そのときに、こちらは、意見書は別紙一の書類だけを検討したと明記していると答えます」

「それは、私が逃げるということだ」

「いいえ」

船越は言った。

「逃げるのは、僕です。先生は、逃げられません」

青柳は、船越を見た。

「どういう意味だ」

「この論点は、長瀬・青柳が扱うべきではありません」

部屋が、静かになった。

「利益相反ですか」

船越は続けた。

「厳密に、いま直ちに、規則上の相反が成立しているとまでは言いません。依頼者は鳳和で、僕らは鳳和のために主張します。方向は同じです」

「では、何が問題だ」

「方向が同じである限りにおいて、問題はありません。問題は、方向が変わったときです」

彼は、指を二本立てた。

「一つ。この主張が通れば、鳳和は六億一千万ドルを免れます」

「免れるなら、誰も文句は言わんだろう」

「言いません。金の話では、誰も言いません」

船越は言った。

「ただ、免れるためには、鳳和は、自分の保証は無効だったと、公の手続で言い切ることになります。言い切ったあとに残るのは、では、なぜ二〇二二年に決議を経なかったのか、という問いです」

青柳は、動かなかった。

「決議を経ずに七億ドルの保証を出したのは、鳳和自身です。当時の副社長が署名しています。手続を守らなかったことで会社が救われた、という形になります。そのとき、なぜ止まらなかったのかを、社内の誰かが説明しなければならない」

「取締役の責任か」

「そこまで行くかはわかりません。ただ、検証は必ず入ります。そして、検証の場で最初に出てくるのは、彼らが当時何に依拠したかです」

「意見書だ」

「意見書です」

船越は続けた。

「もう一つあります。鳳和は、この保証を、有効なものとして開示してきました。有価証券報告書の偶発債務の注記です。無効だと主張して、それが通ったのなら、過去の注記は何だったのかという話になります。これは、監査法人が必ず聞きます」

「聞くだろうな」

「聞かれた会社は、依拠した資料を出します。出る資料の中に、うちの意見書があります」

「二つ目は」

「この主張が通らなかったとき、鳳和は、なぜもっと早くこの瑕疵に気づかなかったのかと考えます。気づけたはずの人間として、いちばん最初に名前が挙がるのは、意見書を書いた事務所です」

青柳は、長いあいだ黙っていた。

「どちらに転んでも、うちが出てくるということか」

「はい」

「君は、それをいつ気づいた」

「意見書の別紙一を見たときです」

「四日前だな」

「はい」

「四日、黙っていた」

「はい」

「なぜだ」

船越は、正直に答えた。

「言い方を考えていました」

青柳は、少しだけ笑った。

その笑い方は、六月にリストを裏返したときと同じだった。

「船越君。君は、私にこう言わせたいんだろう。保証の論点だけ、別の事務所を入れる、と」

「はい」

「私がそれを自分から言えば、事務所の中では、青柳が自分の失点を認めたという話になる」

「なります」

「君が言えば、船越が青柳を売ったという話になる」

「なります」

「どちらかしかない」

「どちらかしかないです」

青柳は、湯呑みを持ち上げ、中身がないことに気づいて、置いた。

「私が言う」

「先生」

「これは、君のためではない。事務所のためだ」

彼は立ち上がった。

「船越君。一つだけ、覚えておけ」

「はい」

「私は、二〇一九年の交渉のときも、二〇二二年の意見書のときも、鳳和にとって最善だと思うことをした。いま振り返っても、あのときの判断が間違っていたとは思わない。それでも、こうなる」

「はい」

「この仕事は、そういう仕事だ」

◇

保証の論点は、審問のあと、十二月に、別の事務所へ移った。

丸の内ではなく、大手町にある、六十人ほどの事務所だった。会社法の争訟を専門にしている。

手続の上では、難しい話ではない。

仲裁で、当事者が一つの事務所しか使えないという決まりはない。代理人を追加するときは、その旨を仲裁廷とICCの事務局に通知する。ICC規則は、代理人の変更があったときの通知を求めていて、仲裁廷は、それによって新たな利益相反が生じないかを見る。それだけである。

実務では、この形はよく使われる。国が絡む案件で公法の専門家を入れる。税務の争点だけ税務の事務所に書かせる。船越自身、ロンドンで二度やっている。

異なるのは、今回、なぜ分けるのかである。

対外的な説明は、日本の会社法の争点だから日本の会社法の専門家を入れる、という一行で足りる。この説明は嘘ではない。

嘘ではないが、全部でもなかった。

書面の起案は先方が行い、鳳和の代理人として連名で提出する。審問での担当も、その論点だけ先方が立つ。船越は、その部分の草案を読まない。読まない、ということを、引継ぎの席で明示的に決めた。

決めたのは、船越である。

引継ぎの会議で、先方のパートナーが、船越に聞いた。

「船越先生。この論点、率直に、勝率はどのくらいだとお考えですか」

「二割ないです」

「私も同じです」

そのパートナーは、書類を揃えた。

「入口が原則有効ですからね。相手が知っていた、と言うのに、こちらが証拠を出さないといけない。銀行は書類を三つ揃えている。間接の事情をいくら積んでも、届かない」

「届かないですね」

「届くとしたら、何が要ると思われますか」

船越は、少し考えた。

「向こうの中に、これは決議がないのではないか、と誰かが書いた紙が要ります」

「そんなものは出てきませんよ」

「出てこないでしょうね」

船越は言った。

「僕もそう思います」

19 役員会

十一月五日、鳳和物産本社、十六階の役員会議室。

出席は、社長、副社長二名、金属本部長、経理担当、法務担当、そして社外取締役三名。

説明は四十分、質疑が一時間半になった。

船越は、最初に結論を言った。

「信用状は勝てます。九千六百四十八万ドルは取れます」

金属本部長が身を乗り出した。

「取れるのか」

「取れます。ただ、これは全体の一部です」

社外取締役の一人が、手元の資料を繰った。

「先生。私は金融の外から来た人間ですので、初歩的なことを伺います。その九千六百万ドルというのは、韓国の買主から取るのですか」

「銀行から取ります」

「品物を買ったのは、買主でしょう」

「買主です。代金を払うと約束したのは、銀行です」

船越は、資料をめくらずに言った。

「信用状は、買主が代金を銀行に預けておく仕組みではありません。銀行が、自分の信用で、決められた書類と引き換えに払うと約束する仕組みです。ですから、書類が揃っているのに払わないと言われたとき、こちらが向かう相手は、買主ではなく銀行になります」

「品物は、もう渡してあるのですか」

「渡してあります」

「では、品物は先方にあって、代金だけがない」

「はい」

社外取締役は、頷いた。

「ずいぶん危ない仕組みですな」

「逆です」

船越は言った。

「遠い国の知らない会社の懐具合を調べるかわりに、銀行の紙一枚を見ればよいことにする。そのために手数料を払っています。危なくないはずのところが動かなくなったので、これだけの話になっています」

彼は、次の紙を出した。

「貸付債権と保証は、現時点の見通しでは、負けます」

社長が聞いた。

「見通しというのは、何割の話ですか」

「保証で勝つ見込みは、二割ありません。貸付債権の期限の利益喪失を争う見込みは、それより低いです」

「合計は」

「差引きで、五億ドルを超える支払になります」

部屋が、静かになった。

社外取締役の一人が言った。

「先生、勝てないとわかっている争いを、なぜ続けるのですか」

「三つあります」

船越は言った。

「一つ。信用状の九千六百万ドルは、争わなければ取れません。二つ。相手方の内部の資料は、争っているあいだしか出てきません。三つ——」

彼は、そこで一度、法務担当の役員のほうを見た。

「三つ。いま和解すれば、この会社は、何が起きたのかを最後まで知らないまま終わります」

金属本部長が言った。

「知る必要があるのか」

「あります」

「なぜだ」

「同じことが、もう一度起きるからです」

本部長が、口を開きかけた。

そのとき、部屋のうしろの席から、声がした。

「発言してもよろしいでしょうか」

峰岸玲奈だった。

彼女は、法務部の陪席として、いちばんうしろの壁際に座っていた。役員会での陪席は、記録を取るためである。発言することは想定されていない。

社長が言った。

「どうぞ」

峰岸は立たなかった。座ったまま、手元の紙を見ずに話した。

「本件で相手方に提出された文書の中に、私が一月に書いた報告書があります。倉庫の実査が二年間行われていないという内容です」

金属本部長が、彼女のほうを見なかった。

「その報告書は、一月二十日に本部長にご覧いただき、期末の対応を優先、四月以降に検討、というコメントをいただいています。その判断が誤りだったと申し上げたいのではありません」

彼女は、そこで少し間を置いた。

「私が申し上げたいのは、そのやり取りが、システムの上に残っていた、ということです。残っていたので、外に出ました。出たことで、当社は、隠していない会社として扱われています。船越先生が先ほど、内部統制の不備は認めるとおっしゃいました。認められるのは、記録があるからです」

彼女は続けた。

「もし私が、あの報告書を口頭で申し上げていたら、何も残っていませんでした。そのほうが、私にとっては楽でした」

彼女の声は、最後まで同じ高さだった。膝の上で、記録用のノートの角が、指の形に折れていた。

社外取締役が聞いた。

「なぜ、書いたのですか」

峰岸は、少し黙った。

「二度目だったからです」

「二度目?」

「同じ内容を、一昨年にも申し上げています。そのときは口頭でした。何も残りませんでした」

部屋が、静かになった。

社長が、彼女のほうを見た。

「峰岸さん」

「はい」

「三度目は、あなたに書かせない」

峰岸は、頭を下げた。

会議のあと、船越はエレベーターホールで彼女に会った。

「峰岸さん」

「はい」

「さっきの発言、どなたかと相談されましたか」

「していません」

「では、うちの部長は、いま怒っておられますね」

「怒っています」

峰岸は言った。

「私は、来年の四月に、どこかへ異動になると思います」

船越は、何も言わなかった。

言えることが、一つも思いつかなかった。

エレベーターが来た。峰岸は乗らなかった。

「先生。私、さっき、ひとつ嘘をつきました」

「どれですか」

「相談していない、というところです」

「誰にですか」

「誰にもです。ただ、相談しようとして、電話をかけました。かけて、切りました」

「どなたに」

峰岸は、少し笑った。

「戸倉さんです」

第三部 審問

20 相手方席

十一月十一日、シンガポール。

審問は、マクスウェル・チェンバーズで開かれる。旧税関の建物を仲裁の審問施設に改装したもので、玄関を入ると天井が高く、白い。廊下の突き当たりに、番号の振られた審問室が並んでいる。

三号室。三十六名収容。中央に馬蹄形の机、正面に仲裁廷の三席、その手前に証人席。両翼に当事者の席。壁際に速記者と通訳。

審問の言語は英語である。通訳が要るのは、日本から来る証人のためだけだった。

船越は、七時四十分に入った。誰もいなかった。

彼は、自分の席に立って、証人席から仲裁廷の三席までの距離を測った。歩数で、四歩だった。

それから、証人席に座ってみた。

座ると、仲裁廷の三人の顔と、相手方の代理人の背中と、天井の照明が見える。時計は見えない。

彼は立ち上がり、自分の席に戻った。

八時二十分に、相手方が入ってきた。

ヴィクトリア・ソーンKC。灰色のスーツ。書類は持っていない。うしろに、ジュニアの法廷弁護士が一人と、マーロウ・スタントンの弁護士が四人。

四人目が、日本人だった。

柏木凛。

船越は、彼女の顔を三秒だけ見た。三秒より長く見ないようにした。

彼女は、六甲大学の卒業生である。船越がまだシンガポールにいた頃、年に一度、週末だけ帰国して母校のムート・チームを見ていた時期があった。その最後の年のチームに、彼女がいた。二年生で、書面担当だった。

その年のチームは、ウィーンで一勝三敗だった。

いま、彼女は相手方席にいる。

凛は、船越のほうを見て、頭を下げた。

深すぎず、浅すぎない角度だった。

船越も、同じ角度で返した。

それだけだった。

◇

九時三分に、仲裁廷が入った。

ブルンナー議長が、腕時計を外して、机の右上に置いた。文字盤を自分のほうに向けた。

「Good morning. We are on the record.」

審問の言語は英語である。この一言が、これから五日間、この部屋で話される言葉を決めた。

「ICC事件番号——、本案の審問です。五日間あります」

五日。

船越は、その数字を聞いて、一瞬だけ、別のことを考えた。

Collateral Valueが実行残高を下回った五営業日。信用状の書類審査の五銀行営業日。緊急仲裁人が自分で縮めた五日。

この事件は、五という数字でできている。

「Mr. Funakoshi.」

呼ばれて、船越は顔を上げた。

「はい、議長」

「東京から来られる証人がおられますね。戸倉さん。水曜の予定です。到着しておられますか」

「昨夜、着きました」

「お加減はいかがですか」

船越は、少し間を置いた。

「来ています」

ブルンナーは、その答えを、書き留めなかった。

書き留めなかったことを、船越は見ていた。

21 短い冒頭

冒頭陳述は、各側九十分と決まっていた。

ソーンKCは、九十分を使い切った。

彼女の構成は、明快だった。

第一に、期限の利益喪失は、契約の文言によって自動的に発生している。Collateral Valueが五営業日連続で下回った。それだけである。担保が有効かどうかは、条項の要件ではない。

第二に、保証は有効である。書類は揃っている。ノースヘイヴンは、議事録を取り、証明書を取り、日本の法律事務所の意見書を取った。銀行に、これ以上何を求めるのか。

第三に、信用状は別の取引である。書類の不一致があった。仮に不一致がなかったとしても、原因取引に詐欺がある。倉庫には物がなかった。

第四に、被申立人は、担保の準拠法という論点を持ち出しているが、これは第二の法廷を求める試みである。

彼女は最後に、こう言った。

「議長、仲裁廷の皆様。被申立人は、この一週間、物がどこにあるかを申し上げ続けるでしょう。ニッケルがどこにあるか。登録所がどこにあるか。取締役会がどこにあるか。私どもは、この一週間、当事者が何を約束したかを申し上げます」

彼女は、そこで、はじめて間を置いた。

「Only one of those is a contract.」

船越は、その一文を、頭の中で日本語にした。

契約なのは、そのうちの一つだけです。

九十分の、最後の四十秒だった。

船越は、それを聞いて、自分の原稿の最初の三頁を、その場で捨てた。

◇

昼の休憩のあいだ、彼は控室で若手に言った。

「午後、二十分でいく」

「九十分ありますよ」

「要らん」

「船越さん、それ、危なくないですか。廷が、こっちが用意してないと思ったら」

「思わへん」

彼は、原稿の残りを見た。

「向こうが九十分で、こっちが九十分やったら、二つの物語が並ぶだけや。並んだら、うまいほうが勝つ。あの人のほうがうまい」

「じゃあ、二十分だと」

「二十分やと、僕が捨てたもんが目立つ」

◇

午後、船越は立った。

「議長、仲裁廷の皆様。短くいたします」

彼は、手元に紙を一枚だけ置いた。

「相手方代理人は、契約なのはそのうちの一つだけだと言われました。そのとおりです。融資契約は契約です。保証も契約です。信用状は、この両当事者のあいだの契約ではありませんが、それは今日は措きます」

彼は、少し間を置いた。

「被申立人の主張を、三つ申し上げます」

「一つ。申立人は、同じ取引の両側に座っていました。上流で金を貸し、下流で信用状を出した。担保が足りなくなったとき、上流で期限の利益喪失を宣言した。同じ日に、下流で支払を拒んだ。私どもは、これが違法だとは申しません。説明が要ると申し上げているだけです。そして、説明は、まだいただいておりません」

「二つ。二〇一九年、被申立人の取締役会は、四億ドルの与信枠に対する保証を承認しました。議事録には『四億米ドルを上限とする』と書かれています。二〇二二年、与信枠は七億ドルになりました。新しい決議はありません。申立人は、二〇一九年の議事録を受け取っています。二枚の書類です」

「三つ目。ここだけ、仲裁廷にお立ち止まりいただきたい」

彼は、そこで一度、ケンプ卿のほうを見た。

見たのは、故意ではなかった。故意ではないことを、彼はあとで自分に説明した。

「融資契約第四十一条三項により、申立人は、担保物の所在地の裁判所に対し、その保全を求める権利を持っています。この権利は、交渉されたものです。対価が払われたものです。申立人だけが持っています。担保物は、東ジャワにあります。申立人は、一度も、この権利を使っていません」

「理由は、わかりません。尋ねました。答えは、いただいておりません。これからの五日間、仲裁廷におかれては、この問いを開いたままにしておかれることを、お願いいたします」

彼は、紙を伏せた。

「被申立人の冒頭陳述は、以上です」

十九分だった。

彼が座ったとき、テオ教授が、はじめて身を乗り出した。

ブルンナーは、腕時計を見た。

ケンプ卿は、何も書いていなかった。

◇

その日の終わりに、廊下で、柏木凛とすれ違った。

彼女は、一人だった。

「先生」

「柏木さん」

「お久しぶりです」

「元気そうやね」

「先生の冒頭、十九分でしたね」

「計ってたん」

「うちのジュニアが計っていました」

凛は、少し笑った。

「ソーン先生が、何とおっしゃったと思いますか」

「言わんでええよ」

「言いません」

彼女は、そのまま行きかけて、立ち止まった。

「先生」

「なに」

「レニー先生、お元気ですか」

船越は、少し間を置いた。

「秋に一度会うた。痩せてはった」

「そうですか」

凛は、それだけ言って、頭を下げて、行った。

22 二日目

二日目は、ノースヘイヴン側の証人が二人入った。

一人目は、ロンドンのミドルオフィスの担当者。Borrowing Base Certificateの受領と、Collateral Valueの計算のプロセスを説明した。争いのない部分である。船越の反対尋問は十二分で終わった。

二人目は、シンガポール支店のトレードファイナンスの課長だった。信用状の書類審査を担当した人物である。ラウという。

船越は、この尋問に、二時間を確保していた。

彼は、最初の三十分で、書類審査の手順を確認した。呈示は三月十一日。担当者が二名。チェックリストがある。チェックリストの様式は開示されている。

三十分目に、彼は、そのチェックリストの一行を指した。

「ラウさん。十四番の項目です。『船積日が信用状の条件の範囲内か』。あなたは、不一致に丸をつけましたね」

「はい」

「船荷証券の日付は三月四日。信用状の最終船積日は三月三日」

「はい」

「一日、数えたわけですね」

「……と、おっしゃいますと」

「一日です。この書類は、一日、遅れている」

「そうです」

船越は、次の書類を出した。

「これは、船積港の港湾当局が公示している祝日の一覧です。三月三日をご覧いただけますか」

彼女は、少し時間をかけて見た。

「……祝日です」

「書類を審査されたとき、この一覧をお手元にお持ちでしたか」

「覚えていません」

「あなたのファイルに、綴じてありますか」

「覚えていません」

「仲裁廷は、あなたのファイルをお持ちです。二百十七番です。綴じてありません」

彼女は、答えなかった。

船越は、次へ進まなかった。

彼は、そこで三秒待った。

沈黙は、速記者の記録には残らない。だが、部屋の中の人間には残る。

「ラウさん。別の日付を伺います。一通目の拒絶通知は、三月十八日付です。五銀行営業日目ですね」

「はい」

「二通目は、三月二十七日付です」

「はい」

「なぜ、二通目が出たのですか」

「追加の不一致が発見されたためです」

「どなたが発見されたのですか」

「誰が発見したかは、覚えていません」

「あなたのチームの誰かですか」

「ロンドンから来たと思います」

船越は、そこで手を止めた。

用意していた質問ではなかった。

「ロンドン」

「はい」

「ロンドンの、どの部署ですか」

ソーンKCが、立ち上がった。

「議長、証人は信用状の書類審査について尋問を受けています。行内のどこで照会が生じたかは、この証人の供述の範囲外です」

ブルンナーが言った。

「船越さん」

「議長、証人は、聞かれずにその答えを出しました。私は、答えを最後まで言っていただくよう求めているだけです」

「ご存じであれば、答えを完成させてください、ラウさん」

彼女は、少し黙った。

「どの部署かは知りません。メールは、トレードファイナンスではなく、クレジットのほうから来ました」

「クレジットのほう」

「はい」

「金を貸している側ですね」

「はい」

船越は、その答えを、繰り返させなかった。

繰り返させると、証人は言い直す。

彼は、次の書類に移った。

◇

その夜、控室で、若手が言った。

「船越さん、あれ、大きいですよね」

「大きい」

「信用状の不一致を、貸してる側が探してたってことですよね」

「そう聞こえる」

「使いましょうよ」

「使う」

船越は言った。

「けど、まだや」

「なんでですか」

「いま使うたら、向こうは、あれは日常的な社内の情報共有やと説明する。説明されたら終わりや」

彼は、手帳を開いた。

——LCの不一致は、クレジット側から来た。

その下に、線を引いた。

——貸付人と発行銀行は、同じ人間である。

書いて、彼は少し長く、その二行を見ていた。

二行のあいだに、まだ何かが要る。

何が要るのかは、まだわからなかった。

23 証人席

十一月十三日、水曜。三日目。

戸倉健は、九時二分に証人席に座った。

背広は紺で、ネクタイは無地だった。前日の夜、船越が、柄物は避けてくださいとだけ言った。理由は言わなかった。

宣誓は英語で読み上げられ、戸倉は日本語で復唱した。通訳は逐次である。

主尋問は、二十分と決めてあった。

国際仲裁では、証人の陳述書がそのまま主尋問に代わる。書いてあることを法廷でもう一度言わせても、時間が減るだけである。

船越が聞いたのは、三つだけだった。

「戸倉さん。陳述書はご自身で作られましたか」

「弁護士の方の質問に答える形で、私が話した内容を、私が確認しました」

「訂正はありますか」

「一か所あります。第十四段落の、二〇二三年九月の出張の日付が、一日ずれています」

「正しくは」

「九月八日ではなく、九月九日です」

「ありがとうございます。以上です」

船越は座った。

戸倉は、少し驚いた顔をした。彼は、もっと長いと思っていた。

ブルンナーが言った。

「Ms Thorne.」

◇

ヴィクトリア・ソーンは、立たなかった。

彼女は、座ったまま、机の上で両手を重ねた。

「Mr. Tokura. Good morning.」

「Good morning.」

そこから先、彼女は英語で聞き、戸倉は日本語で答えた。あいだに、通訳が一往復ずつ入る。

問いが英語で出て、日本語になって、答えが日本語で出て、英語になる。一つの問答に、四つの声がかかる。速さは、彼女が決めていた。

「二〇二〇年から二〇二四年まで、あなたは被申立人のジャカルタ駐在員でした。間違いありませんね」

「間違いありません」

「その期間に、センバラの倉庫へ、何回行かれましたか」

「……何度か行きました」

「何回ですか」

「正確には覚えていません」

「十回より多いですか」

「はい」

「五十回より多いですか」

「いえ」

「十回から五十回のあいだ。仮に三十回としましょう。三十回で公平ですか」

戸倉は、少し考えた。

「二十くらいかと」

「二十回。ありがとうございます」

ソーンは、そこで一枚めくった。

「戸倉さん。その二十回のうち、あなたご自身がニッケルを数えられたことはありますか」

「私が数えたことはありません」

「倉庫のいちばん奥まで、歩いて行かれたことはありますか」

「……行ったと思います」

「思う」

「行きました」

「二〇二四年三月より前で、最後に奥まで歩かれたのは、いつですか」

戸倉は、答えなかった。

沈黙が、七秒あった。

通訳は、沈黙を訳さない。

「聞き方を変えます。二〇二三年に、奥まで行かれましたか」

「わかりません」

「二〇二二年は」

「わかりません」

「戸倉さん。あなたは二十回行かれた。そのどの一回についても、建物の奥まで歩いたことを思い出せない」

「思い出せません」

ソーンは、次へ進んだ。

彼女は、そこを深追いしなかった。

船越は、そのことに気づいた。

彼女は、いま、戸倉の記憶が悪いことを立証したのではない。戸倉が「わかりません」と言う人間であることを、廷に見せた。

そのうえで、あとで、彼が明確に覚えていると言う場面を作る。

そこが、彼女の狙いである。

◇

十時三十分、ソーンは在庫確認の残高照合に移った。

「戸倉さん。毎月、倉庫会社から在庫報告が送られてきました。あなたが受け取り、シンガポールへ転送しておられた。そうですね」

「はい」

「確認はされましたか」

「数量の欄と、前月との差分を見ていました」

「何と照らして確認されたのですか」

「前月の数字と照合していました」

「倉庫会社自身が出した、前の月の数字と」

「はい」

「では、倉庫会社が毎月八千トンと報告していて、本当は三千トンだったとしても、あなたの確認では、何も異常は出てきませんね」

「……そうなります」

「毎月。二年間」

「はい」

ソーンは、書類を一枚置いた。

「戸倉さん。これは、二〇二三年四月十二日の、あなたからシンガポール事務所へのメールです。二文目を読んでいただけますか。日本語のままで結構です」

戸倉は、読んだ。読んで、声が少し止まった。

「『現地の受入体制が整っていないため、今回も実査は見送りとしたい』」

「誰の受入体制ですか」

「倉庫会社です」

「倉庫会社が、実査を受け入れられないと、あなたに言ったことはありますか」

戸倉は、答えなかった。

「戸倉さん」

「はっきりとは、言われていません」

「まったく言われていないのですか」

「……日程が合わない、ということは、何度か」

「日程を出したのは、どちらですか」

「私です」

「あなたが日程を出し、合わなかった。そして、倉庫の受入体制が整っていないと、あなたが書いた」

「そうです」

「ありがとうございます」

ソーンは、書類を伏せた。

船越は、テオ教授を見た。書いていた。ケンプ卿も書いていた。

彼は、机の下で、自分の手が動いていないことを確認した。

◇

昼の休憩、控室。

戸倉は、椅子に座って、水を飲んだ。飲んで、コップを両手で持ったままでいた。

「先生」

「はい」

「僕、まずいですか」

「まずくないです」

「嘘は言うてません」

「わかっています」

船越は、向かいに座った。

「戸倉さん。午後、たぶん一月の話になります」

戸倉が、顔を上げた。

「峰岸さんの報告書と、あなたのコメントです。二週間、というやつです」

「はい」

「僕は、いま、あなたに答えを教えません。教えたら、それは僕の答えになる」

「先生」

「はい」

「一つだけ、聞いてもええですか」

「どうぞ」

戸倉は、コップを置いた。

「ほんまのことを言うたら、会社は、どうなりますか」

船越は、答えるまでに、時間をかけた。

「どのほんまのことか、によります」

「僕が、権限のないことをした、というほんまのことです」

部屋が、静かになった。

若手が二人、動きを止めていた。

船越は、彼らのほうを見ずに言った。

「二人とも、外で待っててくれるか」

二人が出ていった。

ドアが閉まった。

「戸倉さん」

「はい」

「僕は、あなたの弁護士ではありません。鳳和物産の弁護士です。あなたが、いま、僕にご自身の不利になることをおっしゃると、僕はそれを会社のために使う立場に立ちます」

「わかってます」

「わかっておられますか」

「わかってます」

戸倉は言った。

「先生、僕はもう、四月に会社辞めます」

船越は、少し黙った。

「決まっているんですか」

「決まってません。決めてます」

戸倉は、水を一口飲んだ。

「午後、聞かれたら、言います」

「何をですか」

「聞かれたことだけを」

船越は、頷いた。

「それでいいです」

「先生」

「はい」

「聞かれへんかったら、言わんでええんですか」

船越は、その質問に、正確に答えなければならないと思った。

「あなたは、聞かれたことに答える義務があります。聞かれていないことを話す義務はありません。ただ——」

彼は、続けた。

「聞かれていないことを話さなかった人間は、あとで、なぜ話さなかったのかと聞かれます。そのときは、もう証人席にいません」

戸倉は、しばらく、何も言わなかった。

「先生は、それ、経験ありますか」

「あります」

「どうなりました」

「その人は、いまも、その話をしません」

24 二週間

午後、一時三十分。

ソーンKCは、立った。

午前中は座っていた。

船越は、それを見て、身体を少し前に出した。

「戸倉さん。二〇二四年の一月に戻ります」

通訳が訳した。

戸倉は、頷いた。

「一月十七日、被申立人の法務部の峰岸さんが、報告書を書きました。ご覧になっていますね」

「はい」

「一月二十日、金属本部長がコメントを書きました。『期末の対応を優先。四月以降に検討』。これもご覧になっている」

「はい」

「一月二十二日、あなたがコメントを書かれました。読んでいただけますか。日本語のままで結構です」

戸倉は、読んだ。

「『二週間待ってほしい。当方で確認のうえ、改めて報告する』」

「二週間とは、どういう意味ですか」

戸倉は、答えなかった。

「戸倉さん」

「……確認に、二週間かかると思いました」

「何の確認ですか」

「在庫の確認です」

「あなたは四年間で二十回あの倉庫へ行き、一度も数えておられない。二週間で、何が起きる予定だったのですか」

「現地に、確認を頼むつもりでした」

「どなたにですか」

「倉庫会社です」

「倉庫会社。数字が問題になっていた、まさにその倉庫会社に」

「はい」

「戸倉さん。頼まれましたか」

戸倉は、口を開いて、閉じた。

「一月二十二日からの二週間のあいだに、倉庫会社に在庫の確認を依頼されましたか」

「……いえ」

「されていない」

「していません」

「申し上げたとおり報告する、と書かれたとおり、峰岸さんに報告されましたか」

「していません」

「どなたかに報告されましたか」

「していません」

ソーンは、そこで一度、間を置いた。

彼女の間の取り方は、船越のものとは違った。船越の沈黙は待つための沈黙で、彼女の沈黙は、置くための沈黙だった。

「戸倉さん。一月二十二日に、あなたは二週間を求められた。その二週間、あなたは何もしていない。それがあなたの証言ですか」

戸倉は、答えなかった。

十秒あった。

「戸倉さん」

「……何もしていない、ということではありません」

部屋の空気が、動いた。

船越は、動かなかった。

ソーンは、少しだけ、顎を上げた。

「では、何をなさったのですか」

戸倉は、通訳を見た。それから、仲裁廷を見た。

そして、最後に、船越を見なかった。

見なかったことに、船越は気づいた。

「現物を、買い戻していました」

通訳が、訳した。

英語になった瞬間に、部屋の中の五、六人が、同時に姿勢を変えた。

船越は、自分の掌が机についていることを、そのとき自覚した。離すと、木の面に跡が残っていた。

ソーンKCは、姿勢を変えなかった。

「ニッケルを買っておられた」

「はい」

「現物市場で」

「はい」

「誰の権限でですか」

戸倉は、答えなかった。

「戸倉さん。誰の権限でですか」

「……私の判断です」

「ご自身の」

「はい」

「金属本部長は、ご存じでしたか」

「知りません」

「取締役会は」

「知りません」

「その金は、どこから出ましたか」

ソーンは、そこで、はじめて手元の書類を見た。

見て、次の質問を選んでいた。

船越には、彼女がいま、用意していた尋問の順序を捨てたのがわかった。

彼女は、いま、彼と同じことをしている。三頁を捨てて、その場で組み直している。

「戸倉さん。その金は、どこから出ましたか」

「別の案件の、前渡金の勘定から、一時的に振り替えました」

「別の案件の前渡金勘定からの、一時的な振替」

「はい」

「それは、あなたの権限の範囲内でしたか」

「いえ」

「記録は、されましたか」

「記録は、あります」

「何として記録されましたか」

戸倉は、少し黙った。

「社内在庫の、帳簿上の振替として」

ソーンは、書類を閉じた。

「議長、この主題について、今日の午後はこれ以上ございません。短い休憩をお願いいたします」

ブルンナーが、腕時計を見た。

「Fifteen minutes.」

◇

控室のドアを閉めて、若手の一人が言った。

「船越さん」

「うん」

「これ、どうなるんですか」

船越は、椅子に座らなかった。

窓の外は、シンガポールの午後だった。マクスウェル・チェンバーズの向かいに、コンテナを積んだトレーラーが停まっている。

彼は、頭の中で、二つのことを同時に計算していた。

一つ。戸倉の証言は、鳳和にとって致命的である。相手方は、これを詐欺の抗弁の柱に据える。倉庫に物がなかったことを知りながら、買い戻して船積みし、信用状で九千六百万ドルを取ろうとした、と。

二つ。だが、それは成り立たない。

彼は、そこで手を止めた。

成り立たない。

詐欺の抗弁は、その信用状取引そのものにおける詐欺を要する。倉庫の在庫が足りないのは、上流の融資の担保の問題である。ハンミョンに売った六千トンは、実在する。船積みされている。書類は真正である。

真正である理由が、いま、証人席から出てきた。

戸倉が、権限を超えて、自分の判断で買い戻したからである。

船越は、窓のほうを向いたまま、言った。

「勝つな」

「え」

「信用状は、勝つ」

若手が、意味をつかめずに黙った。

船越は、振り返った。

「あの人が、社内の規程を破って、金の出どころを誤魔化して、現物を買い戻したから、貨物は実在する。実在するから、書類は嘘やない。書類が嘘やないから、詐欺の抗弁は立たへん。九千六百四十八万ドルは、取れる」

若手は、何も言わなかった。

「この事件で、うちが勝つ唯一の論点は、いちばん汚いところから来てる」

彼は、手帳を出して、開いて、そのまま閉じた。

書かなかった。

書きたくなかった。

25 電話

十一月十四日、木曜。四日目。

ソーンKCの反対尋問は、前日の続きから始まった。

彼女は、時系列を解体した。

十一月に何をしたか。十二月に何をしたか。一月に何をしたか。二月に何をしたか。

質問はすべて短く、答えはすべて日付だった。

戸倉は、前日より落ち着いていた。落ち着いている理由が、船越にはわかった。もう、いちばん重いものを言ってしまったからである。

十一時十分。

ソーンは、二月に入った。

「戸倉さん。二月のはじめまでに、ニッケルをどれだけ買われましたか」

「およそ千八百トンです」

「五千トン近い不足に対して」

「はい」

「埋められなかった」

「無理でした」

「埋められないと認めたのは、いつですか」

「二月の半ばです」

「そのとき、何をなさいましたか」

戸倉は、そこで、少し止まった。

止まり方が、前日までと違った。

船越は、机の下で、ペンを置いた。

「戸倉さん。二月の半ばに、何をなさいましたか」

「……電話をしました」

「どなたにですか」

「ノースヘイヴンの、ジャカルタの担当者です」

通訳が、訳した。

そして、部屋が、静かになった。

前日の静かさとは、種類が違った。

前日は、驚きの静かさだった。

これは、誰も予想していなかったものが出たときの静かさだった。

ヴィクトリア・ソーンKCの表情が、動いた。

わずかだった。眉ではない。口でもない。彼女の視線が、一瞬だけ、自分の席のうしろへ動いた。

うしろには、マーロウ・スタントンの弁護士が四人いる。

その四人のうち、一人が、書類をめくる手を止めていた。

柏木凛だった。

船越は、それを見た。

見て、すぐに、正面に視線を戻した。

「戸倉さん。あなたは、申立人のジャカルタの担当者に電話をされた」

「はい」

「いつですか」

「二月の、十九日か、二十日です」

「何とおっしゃいましたか」

「在庫に、差があるかもしれない、と言いました」

「申立人に、お伝えになった」

「はい」

「二月に」

「はい」

「在庫確認の、前に」

「はい」

ソーンは、そこで、はじめて手元の紙をめくった。

めくったが、読まなかった。

「戸倉さん。それは、あなたの陳述書に書かれていますか」

「……書いていません」

「なぜですか」

戸倉は、少し黙った。

「聞かれませんでした」

ソーンは、その答えを、そのままにした。

彼女は、次の質問へ行かなかった。

「議長、短い休憩をお願いいたします」

ブルンナーは、腕時計を見た。

「Ms Thorne, we took a break yesterday afternoon at your request.」

「I am aware, Madam President.」

「Ten minutes.」

◇

十分の休憩のあいだ、船越は控室に戻らなかった。

彼は、廊下の突き当たりの窓のところに立っていた。

若手が来て、隣に立った。

「船越さん、これ、こっちに有利ですよね。二月に伝えてたなら、向こうは知ってたことになる」

「有利や」

「じゃあ」

「有利やけど、そこやない」

「え」

船越は、窓の外を見ていた。

「いま、いちばん大事なんは、向こうが知らんかったことや」

「向こう?」

「ソーン先生や。あの人は、いまの証言を知らんかった」

若手が、少し考えた。

「……それって、変ですよね。だって、電話を受けたのは、向こうの人ですよね」

「そうや」

「じゃあ、向こうの社内では、その電話の記録があるはずで」

「あるはずや」

「ないんですか」

船越は、窓から離れた。

「ないんやったら、消したんや。あるんやったら、代理人に見せてへんのや」

彼は、廊下を歩き出した。

「どっちでも、同じことがわかる」

「何がですか」

「この事件、向こうの本部と、向こうの現場が、別のことをしてる」

◇

午後、ソーンKCの反対尋問は、四十分で終わった。

彼女は、戸倉の二月の電話について、それ以上ほとんど聞かなかった。

聞けば聞くほど、記録がないことが際立つからである。

船越の再主尋問は、六分だった。

「戸倉さん。二月に電話をされた相手の、お名前を覚えていますか」

「Ari、と呼んでいました。姓は、わかりません」

「電話は、どの番号にかけましたか」

「先方の携帯です」

「会社の携帯ですか」

「わかりません」

「その電話について、あなたのほうに記録はありますか」

「私の携帯の発信履歴は、端末を返却したときに消えています」

「メールで確認したことは」

「していません」

「なぜですか」

戸倉は、少し黙った。

「メールにすると、残るからです」

船越は、そこで止めた。

止めることが、この日いちばん難しかった。

「以上です」

彼は座った。

ブルンナーが言った。

「Mr. Tokura, thank you. You may step down.」

戸倉は、立ち上がって、仲裁廷に一礼した。

それから、両当事者の席に、一礼した。

相手方席にも、一礼した。

誰も、それを止めなかった。

26 続行

十一月十五日、金曜。五日目。

五日目は、専門家証人の日である。

インドネシア法の専門家が二人。フィデューシア担保の成立要件と、登録の効果について、正反対のことを言った。

鳳和側の専門家は、登録の際に担保目的物の特定が不十分であれば、対抗要件としての効力に疑義が生じうると述べた。

ノースヘイヴン側の専門家は、登録局が受理し、登録証明書が発行されている以上、その有効性は推定されると述べた。

テオ教授が、両者に同じ質問をした。

「お二方とも、ジャカルタの裁判所なら何をするか、という話をしておられます。この仲裁廷は、ジャカルタの裁判所ではありません。仮に当廷が、インドネシア法が適用されると決めたとしましょう。そのとき当廷は、正確には、何を判断してよいのですか」

鳳和側の専門家は、当事者間の関係においては判断できる、と答えた。

ノースヘイヴン側の専門家は、対物的な効力は判断できない、と答えた。

テオ教授は、両方の答えをノートに書いた。

書いてから、こう言った。

「ありがとうございます。お二方は、同じことをおっしゃいました」

船越は、その一行を書き取らなかった。

書き取るかわりに、証人席の向こうの壁を見ていた。

窓のない部屋である。

この部屋にいる者のうち、誰一人、その倉庫を見ていない。専門家二人も、仲裁人三人も、両側の代理人も、見ていない。見た人間は、二日前に日本語で証言して、帰った。

証拠の中に、写真が一枚ある。戸倉の陳述書の別紙で、番号は四十一である。

コンクリートの床に、四角い跡が写っている。縁だけが白く、内側が灰色である。埃の積もり方が違うのだと、説明の一行が付いている。

跡は、何かが置かれていたことを示す。誰が運び出したかは示さない。

だから、この部屋は五日かけて、跡の話ではなく、紙の話をしている。

船越は、ペンを持ち直した。

◇

五日目の午後四時、ブルンナーが、日程の話をした。

「五日を使い切りました。残っている問題が、二つあります」

一つ目は、追加の文書提出だった。

船越は、木曜の夜に申立てを出していた。ネイサニエル・ボイド——ノースヘイヴンのアジア商品金融部門の責任者——の内部の電子メールのうち、二〇二三年十月から二〇二四年三月までの、本件与信の管理方針に関するもの。

ソーンKCは、遅きに失した申立てであると反論した。

船越は、こう答えた。

「議長、この要求は、水曜と木曜の証言から生じたものです。戸倉氏は、二月に申立人のジャカルタの担当者へ電話をしたと述べました。申立人の開示には、その通話の記録が一件もありません。記録が存在しないのか、探されなかったのか。どちらであるかを知る権利が、こちらにはあります」

ケンプ卿が、そこで、はじめて発言した。

「船越さん。あなたは、銀行の上級管理職の受信箱を、六か月ぶん出せと言っている」

「申し上げております、卿」

「それが探索的な網羅要求でないという根拠は」

船越は、少し考えた。

考えたふりではなかった。彼は本当に、その場で言い方を探していた。

「私は、そこに何があると思っているかを、いま仲裁廷に申し上げました。私は、その言葉に拘束されます。もし出てきた文書が、この銀行が不良化した与信を適切に管理していたことしか示さないのであれば、私は最終弁論でそう申し上げます」

ケンプは、それに答えなかった。

ブルンナーが言った。

「仲裁廷は、手続命令で判断します」

二つ目は、ボイド自身の証人尋問だった。

ボイドは、ノースヘイヴン側の証人リストに入っていた。だが、五日目までに時間が残らなかった。

「期日を続行します。二日間。仲裁廷は、一月の最終週を提案します」

ソーンが言った。

「議長、申立人としては、これ以上期日を重ねずに終えることを希望いたします」

「そうでしょうね」

ブルンナーは、腕時計を手に取った。

「一月下旬。ボイド氏に出ていただきます」

◇

手続命令第九号は、十一月二十八日に出た。

追加開示は、一部認容だった。

対象期間は六か月ではなく、四か月に絞られた。対象は、本件与信の管理方針に関する社内の指示および決定に限る、とされた。

そして、最後の一行に、こう書いてあった。

——The Tribunal notes the Respondent's promise: if the documents show nothing that damages the Claimant's case, the Respondent will say so in its closing argument. The Tribunal will hold the Respondent to that promise.

船越は、その一行を読んで、若手に言った。

「これ、ケンプ卿が書いてるな」

「わかるんですか」

「わかる」

「腹立ちますか」

「立たへん」

彼は、命令を閉じた。

「あの人は、僕が言うたことを、そのまま書いただけや。腹が立つとしたら、僕が言うたことにや」

27 請求書

十二月九日。

ノースヘイヴンの請求の三本目——担保管理および権利保全に要した費用の賠償——について、相手方から立証資料が出た。

金額は、四百八十七万ドルだった。

内訳は、外部弁護士費用、現地代理人費用、検数会社の追加費用、保全のための倉庫警備費用、旅費。

添付は、請求書の写しが二百三十一通。

船越は、これを若手に投げようとして、やめた。

費用の相当性を争うのは、地味な仕事である。単価が高い、時間が多い、重複している、本件と関係がない。そういうことを、一行ずつ潰していく。誰もやりたがらない。

だが、この事件で、相手方が自分から出してきた書類は、これがはじめてだった。

要求されて出した書類ではない。自分の請求を立てるために、自分で選んで出した書類である。

彼は、二百三十一通を、自分で読むことにした。

三日かかった。

◇

十二月十二日の夜、事務所。

彼は、請求書を日付順に並べ替えたリストを作っていた。

弁護士費用の請求書は、宛先と、期間と、担当者ごとの時間と、そして摘要がある。摘要は、多くが黒塗りだった。秘匿特権を理由に、業務の内容が消してある。

消えていないのは、請求元の名前と、日付と、金額である。

彼は、請求元でソートした。

ロンドンのマーロウ・スタントン。シンガポールの現地事務所。ニューヨークの事務所が一つ。

そして、ジャカルタの事務所が、一つ。

Hartono & Partners。ジャカルタの、ハルトノ法律事務所である。

支払は、三件あった。

二〇二二年六月三日。二〇二二年六月二十日。二〇二二年六月三十日。

金額は、それぞれ、七万八千ドル、六万二千ドル、七万四千ドル。合計、二十一万四千ドル。

船越は、その三行を、しばらく見ていた。

二〇二二年六月。

その月に何があったか。

与信枠が、四億から七億に増額されている。Reaffirmationの署名は、六月二十七日である。長瀬・青柳の意見書も、同じ日付である。

増額の作業は、東京とシンガポールで完結する。融資契約の変更契約を作り、保証の再確認を取り、日本法の意見書を取る。ジャカルタに、することはない。

ジャカルタの弁護士に、二十一万四千ドルを払う理由が、ない。

彼は、リストを閉じた。

閉じてから、もう一度開いた。

そして、この費用が、そもそもなぜここに出てきたのかを考えた。

ノースヘイヴンは、担保管理および権利保全に要した費用を請求している。二〇二二年六月に発生した費用は、その定義に入る。彼らは、四百八十七万ドルの合計額を大きくするために、拾えるものを全部拾った。

拾った中に、これがあった。

彼らは、この三件を落とすことができた。二十一万四千ドルは、四百八十七万ドルの四パーセントである。落としても、痛くない。

落とさなかった。

理由は、二つ考えられる。

一つ。何も考えずに、機械的に全部集計した。

二つ。落とすと、落としたことが目立つと思った。

船越は、椅子の背にもたれた。

窓の外は、十二月の丸の内だった。ビルの列の灯りが、前より少なかった。

彼は、二〇二二年六月に、ジャカルタで動いていたものの名前を、口に出さずに考えた。

現地で、費用のかかる手続が動いている。

担保に関する、現地の手続である。

登録である。

彼は、立ち上がって、部屋の中を一往復した。

戻って、座って、手帳を開いた。

四月に書いた行が、まだそこにあった。

——判断されたくない。

その下に、彼は書いた。

——2022/6、ジャカルタ、弁護士費用3件。

そして、その下に、もう一行。

——2019に登録してあるなら、2022に何をした。

◇

文書提出要求の追加申立ては、十二月十九日に出した。

対象は、二〇二二年五月一日から六月三十日までの間の、ハルトノ法律事務所と申立人との間の、本件担保に関する連絡文書。

相手方の異議は、十一頁だった。

十一頁は、多い。

要旨は、三つだった。第一に、時機に後れている。第二に、費用の相当性を争うために必要な範囲を超えている。第三に、弁護士と依頼者との間の秘匿特権に服する。

船越は、その十一頁を二度読んだ。

そして、若手に言った。

「これ、勝つな」

「なんでですか。三つとも、ちゃんとした異議に見えますけど」

「ちゃんとしてる。ちゃんとしすぎてる」

彼は、頁をめくった。

「費用の相当性を争うために必要な範囲を超えてる、というのが、二番目や。ほんまにその請求書が普通の仕事のものやったら、そんな長い理由は要らん。二〇二二年六月の登録関係の作業です、日常業務です、で終わりや」

「それを書かないんですね」

「書いてへん」

船越は、異議の頁を伏せた。

伏せてから、彼は、八月に自分が書いて消した一行のことを思い出した。

思い出したが、今度は、書かなかった。

28 三割

一月十六日。

十一月の手続命令に基づく追加開示が、年明けに届いた。

四か月ぶんの、内部の指示と決定。四百十二件。

若手二人と、四日で通した。

三日目に、それが出た。

二〇二三年十一月七日付。ネイサニエル・ボイドから、シンガポールとジャカルタの与信管理の責任者宛。件名は、Asia Commodities — Portfolio Actions FY24。

本文は、十二行だった。

——As discussed. The Asia commodities book is to be cut by 30% by the end of FY24. Take these first: (i) loans where we have lent too much to a single borrower, (ii) loans where the collateral sits in a country on our watch list, (iii) loans that we are already ready to sell on.

——Howa is in (i) and (ii).

——Note: cutting a loan the normal way needs the borrower's help, and takes eighteen months. A default does not.

船越は、その最後の一行を、三度読んだ。

A default does not.

彼は、若手を呼んだ。

「これ、訳して」

「『デフォルトであれば、そうではない』ですか」

「もうちょっと足して」

「『普通のやり方で減らすには、借入人の協力が要って、十八か月かかる。デフォルトなら、かからない』」

「そうや。ただ、書面に出すときは、デフォルトと書かんように」

「なんでですか」

「日本語でデフォルトと言うたら、払わへんかったことやと読まれる。ここで書かれてるのは、契約が決めた期限の利益喪失事由や。鳳和は、一円も遅れてへん。倉庫の数が減っただけで、この事由は起きる」

「ぜんぜん違いますね」

「ぜんぜんちゃう。そこを混ぜたら、廷に、うちが払えへん会社に見える」

彼は、椅子に座り直した。

「向こうは、二〇二三年の十一月に、この与信を三割減らせと言われてる。まともにやったら一年半かかって、その間ずっと借入人と交渉せなあかん。デフォルトが起きたら、その日に全額の期限が来る。交渉も要らんし、抜けるのも早い」

「じゃあ、待ってたってことですか」

「待ってた、とまでは言えん」

船越は言った。

「これは、デフォルトを望んでるとは書いてへん。デフォルトが起きたときにどうなるかを書いてるだけや。銀行の中では、たぶん普通の文章や」

「普通ですかね」

「普通や。せやから怖い」

彼は、その頁を印刷した。

「これ、単体では武器にならん。ボイドは、これは市場環境の話ですと言う。言えてしまう」

「じゃあ、どう使うんですか」

船越は、印刷した紙を、机の上に置いた。

その隣に、もう一枚置いた。

十二月に見つけた、ジャカルタの弁護士費用のリストだった。

出ているのは、金額と日付と、件名の一行だけである。その三件で何をやり取りしたのかは、まだ届いていない。十一月の命令で認められた範囲——二〇二二年六月の一か月ぶん——は、年明けのこの束には入っていなかった。

彼は、手帳を開いて書いた。

——費用は出た。中身はまだ。

「並べる」

「並べると?」

「二〇二二年の六月に、向こうはジャカルタで何かをした。二〇二三年の十一月に、この与信を三割減らせと言われてる。二〇二四年の三月に、期限の利益喪失を宣言した。そのあいだずっと、担保物のある国の裁判所には、一度も行ってへん」

彼は、二枚の紙を、指で少しずらした。

「この三つを、一人の人間に、同じ日に聞く」

「ボイドですね」

「そうや」

若手が、少し黙った。

「船越さん。それ、答えてくれますか」

「答える」

船越は言った。

「あの人は、たぶん、隠す気がない」

「なんでそう思うんですか」

「三割の指示を、こんな短い文で書いてるからや。隠す人間は、もっと長う書く」

29 尺度

一月二十七日、シンガポール。続行期日、初日。

ネイサニエル・ボイドは、四十四歳だった。

背が高く、痩せていて、姿勢がよくない。証人席に座るとき、椅子の位置を自分でずらした。

主尋問は、ソーンKCが四十分やった。

内容は、ノースヘイヴンの与信管理が、規程どおりに、適切に行われたことの説明だった。Borrowing Base Certificateの受領。Collateral Valueの計算。五営業日連続の下回り。内部の承認。期限の利益喪失の通知の発出。

一つ一つが、日付と、規程の条番号で裏づけられていた。

隙がなかった。

船越が立ったのは、十時五十分だった。

「ボイドさん。おはようございます」

「おはようございます」

「商品金融に、何年おられますか」

「二十一年です」

「そのあいだに、貴社が期限の利益喪失を宣言した案件は、何件ありましたか」

ボイドは、少し考えた。

「九件です」

「九件。そのうち、担保物の所在地の裁判所に保全を申し立てられたのは、何件ですか」

「七件です」

船越は、そこで、間を置かなかった。

「九件のうち、七件」

「はい」

「本件は、そうではない」

「本件は、していません」

「なぜですか」

ソーンKCは、立たなかった。

彼女が立たないということは、この質問に対する答えを、彼女が用意しているということだった。

ボイドは、答えた。

「必要な保全は、この仲裁で得られるものでしたし、実際に得ました」

「緊急仲裁人の命令を得た、ということですね」

「はい」

「その命令が拘束するのは、シンガポールの会社であるHowa Resourcesです。従わなければ、どこかの裁判所へ持っていって執行してもらうことになる」

「はい」

「一方、東ジャワの裁判所の命令は、物そのものに掛かる」

「理屈のうえでは」

「理屈のうえでは」

船越は、そこで一枚めくった。

「ボイドさん。融資契約第四十一条三項。ご存じですね」

「知っています」

「貸付人にのみ——貸付人にのみです——担保物の所在地の裁判所へ保全を申し立てる権利を留保している」

「はい」

「二〇一九年の交渉で、この条項を求めたのは、そちら側です」

「私は交渉に関与していません」

「しかし、そちら側が求めたことは、ご存じでしょう」

「そうだと思います。こちらに有利な条項ですから」

「対価を払っておられます。借入人は、仲裁に応じる見返りに、これを渡した」

「そうでしょうね」

「一度も、お使いになっていない」

「はい」

「本件でですか。それとも、他の案件でもですか」

ボイドは、そこで、はじめて少し止まった。

「本件では、使っていません」

船越は、その答えの形に気づいた。

彼は、そこで質問を変えなかった。

「ボイドさん。東ジャワの裁判所についてお尋ねします。もし申し立てていたら、裁判所は何を見ましたか」

「申立書です」

「申立てを検討するにあたって、そちらの担保を見ましたか」

「見たでしょうね」

「フィデューシアの登録を」

「見たでしょうね」

「そして、それについて、何らかの心証を形成した」

「したかもしれません」

「登録は有効だ、と言ったかもしれない」

「はい」

「その逆を言ったかもしれない」

「だからこそ、申立ての前には助言を取るのです」

船越は、そこで頷いた。

「では、その助言の話をしましょう」

彼は、次の書類を出した。

十二月に作った、請求書のリストだった。

「ボイドさん。これは、申立人ご自身が提出された費用明細からの抜粋です。二〇二二年六月、ジャカルタの法律事務所への支払が三件。合計、二十一万四千ドル。ご覧になれますか」

「見えています」

「何の費用ですか」

「ファイルを見なければわかりません」

「二〇二二年六月に、与信枠は四億ドルから七億ドルに増額されています。その作業は、東京とシンガポールで行われた」

「概ねは」

「ジャカルタで、何が行われていたのですか」

「現地の案件は、現地の弁護士が扱います」

「二〇二二年六月の、どの現地の案件ですか」

「登録は、現地の弁護士の仕事です」

船越は、その答えを、繰り返させなかった。

「登録」

「担保の登録は、現地の弁護士が扱う。現地の弁護士を使う理由が、それです」

「ボイドさん。担保は、二〇一九年に登録されています」

「はい」

「二〇二二年に扱われていた登録とは、何ですか」

ソーンKCが、立った。

「議長、証人はファイルが手元にないと申し上げています。まさにこの主題についての被申立人の文書提出要求は、仲裁廷にご検討いただいている最中です。船越さんは、開示で得られなかったものを、反対尋問で得ようとしています」

ブルンナーが言った。

「船越さん、証人は自分の知識の及ぶ限りで答えました。次へ進んでください」

船越は、頷いた。

「進みます、議長。私が尋ねたことは、記録に残していただきます」

次の紙を出すまでに、二秒かかった。

二秒のあいだ、彼は、六甲の四階の、廊下の突き当たりの部屋のことを考えていた。レニーは、演習の初日に必ず同じことを言う。規則は簡単なほうだ、と。難しいのは、物が小屋の中にあることだ。どちらの当事者も選んでいない国の、小屋の中に。小屋には南京錠がかかっていて、鍵を持っている男は、契約書を一度も読んだことがない。

その鍵を持っていた男は、去年の三月に出国している。

会社に、見るべき資産はない。

彼は、紙を出した。

◇

午後、彼は、三割の指示に入った。

ボイドは、それを認めた。認めるどころか、説明した。

「船越さん、あの指示は、珍しいものではありません。どの銀行もポートフォリオの目標を置きます。私どもは二〇二三年の秋に置きました」

「あなたはこう書いておられる。『普通のやり方で減らすには、借入人の協力が要って、十八か月かかる。デフォルトなら、かからない』」

「書きました」

「どういう意味ですか」

「書いてあるとおりです。交渉による撤退には十八か月かかる。期限の利益喪失は、一日です」

「デフォルトを望んでいましたか」

「いいえ」

「備えていましたか」

ボイドは、少し間を置いた。

「はい」

船越は、その答えに、続けなかった。

続けずに、次へ行った。

「ボイドさん。二〇二四年二月十九日か二十日に、戸倉氏が、ジャカルタの貴社の担当者に電話をして、在庫に差があるかもしれないと伝えています。ご存じでしたか」

「いいえ」

「ロンドンの誰かは、聞いていましたか」

「私の知る限り、いません」

「お調べになりましたか」

「開示は、弁護士が行いました」

「ボイドさん、私は開示のことを伺っていません。十一月に戸倉氏がその証言をしたあと、あなたご自身が、ジャカルタの事務所に、その電話はあったのかとお尋ねになったかどうかを伺っています」

ボイドは、そこで、はじめて船越の顔をまっすぐ見た。

「尋ねました」

「何と言われましたか」

ソーンが立ちかけた。ブルンナーが手を上げた。

「証人は答えてください」

「通話はあった、と言われました。記録がないのは、ジャカルタの担当者が、正式な連絡だと考えなかったからだ、と」

「その説明を、受け入れておられますか」

「そう説明を受けた、ということは受け入れています」

船越は、そこで止めた。

止めたのは、その答えが、彼が引き出せる最良のものだったからである。

◇

三時十分。

彼は、最後の主題に入った。

「ボイドさん。貴社のポートフォリオについて伺います。本件で使われているのと同じフィデューシアの担保雛形は、アジアの商品金融の帳簿の中で、他に何件で使われていますか」

ソーンが立った。

「関連性がありません、議長」

「船越さん」

「議長、申立人の主張は、自分たちは終始、商業的に行動したというものです。その『商業的に』が何を意味したのかを、検証する権利があります」

「答えてください、ボイドさん」

ボイドは、答えるまでに、五秒かかった。

「二十件を超えます」

「二十件を超える与信が、同じ雛形を使っている」

「はい」

「もしインドネシアの裁判所が、本件の登録には不備があると判断していたら、他の二十件はどうなりましたか」

ボイドは、答えなかった。

「ボイドさん」

「見直しになります」

「どのような見直しですか」

「担保価値の再評価。引当。リスクアセットの再計算」

「帳簿全体で」

「帳簿全体で」

「帳簿は、いくらですか」

「確認しなければわかりません」

「本件より大きいですか」

「相当に大きいです」

船越は、手元の紙を一枚めくった。

めくる必要のない紙だった。

指が、思ったより速く動いた。

「ボイドさん。インドネシアで申立てをすべきだと具申した者は、いましたか」

ボイドは、答えなかった。

「ジャカルタの事務所は、具申しましたか」

「しました」

「何度ですか」

「回数は覚えていません」

「一度ではない」

「一度ではありません」

「シンガポールの事務所は」

「しました」

「却下したのは、どこですか」

ボイドは、少し黙った。

「ニューヨークです」

「ニューヨーク」

「本部の与信部門です」

「あなたはニューヨークにおられましたか」

「いいえ。私は、その決定を支持しました」

船越は、そこで、質問をやめてもよかった。

やめるべきだった、とあとで思った。

彼は、続けた。

「ボイドさん。あなたは、正しいことをした、と思っておられますか」

ソーンが立った。

「議長——」

ブルンナーが言った。

「議論を誘う質問です。船越さん、言い換えてください」

船越は、少し考えた。

「ボイドさん。インドネシアの裁判所に申し立てないと決められたとき、あなたは、この与信からの回収を最大化するために行動しておられましたか」

ボイドは、その質問には、すぐに答えた。

「いいえ」

部屋が、静かになった。

「いいえ、ですか」

「いいえ。私は本件で、回収を最大化しないことを選びました。それが銀行の利益でした」

彼は、そこで、はじめて仲裁廷のほうを向いた。

「議長、説明してもよろしいですか」

ブルンナーが言った。

「どうぞ」

「銀行は、一件の与信を管理しているのではありません。帳簿を管理しています。もし私が本件で東ジャワの判決を取りにいって、登録の点で負けていたら、私は、ここでの回収の全額よりも多くの価値を、他の二十件で壊していました。一件の融資について正しくて、ポートフォリオについて間違っていた、ということになります」

彼は、続けた。

「船越さんのご質問は、貸付人の義務が、持っているすべての権利を、行使しうるすべての場所で行使することだ、という前提に立っています。私どもは、そのために報酬を得ているのではありません。私どもが報酬を得ているのは、どの権利を使わないかを決めるためです」

船越は、立ったまま、その答えを聞いた。

彼は、反論しなかった。

反論できなかったのではない。反論する場所ではなかった。

ボイドの言っていることは、それ自体としては、正しかった。

「ボイドさん。最後に一つ」

「はい」

「ほかに、理由はありましたか」

ボイドは、船越を見た。

「何の理由ですか」

「インドネシアへ行かなかった理由です」

ボイドは、二秒、黙った。

「理由は申し上げました」

「二つ伺いました」

「私が、それに基づいて行動した理由を、申し上げました」

船越は、そこで、質問を終えた。

「ありがとうございました。以上です」

◇

その夜、ホテルの部屋で、船越は手帳を開いた。

——雛形の汚染。二十件超。
——ジャカルタとシンガポールは具申した。断ったのはニューヨーク。

その下に、彼は書いた。

——「私が、それに基づいて行動した理由を、申し上げました」

そして、その下に、もう一行。

——もう一つある。

彼には、それが何であるかの見当が、うっすらとついていた。

売れない。判断されたものは、売れない。

不確実だが未判断の債権は、不利だが確定した債権より、高く売れる。

彼は、そこまで書いて、線を引いて消した。

消したのは、証拠がなかったからである。

シンガポールの三年目に、彼は一度それをやっている。

彼は、手帳を閉じた。

閉じてから、もう一度開いて、消した行の上に、小さく書いた。

——推測。使わない。

30 結審

一月二十八日、続行期日、二日目。

最終弁論は、各側二時間だった。

ソーンKCは、二時間を使った。

彼女は、この事件を、三つの箱に分けた。

一つ目の箱には、契約が入っている。数量のトリガーが引かれた。期限の利益が失われた。実行残高が支払期日を迎えた。保証がそれを担保している。以上。

二つ目の箱には、信用状が入っている。別の取引である。ただし、原因取引に詐欺がある。倉庫は空だった。相手方の駐在員は、権限を超えて現物を買い、勘定を振り替え、船積みした。

三つ目の箱には、相手方の主張が入っている。準拠法。登録。第四十一条三項。彼女は、この箱に「距離」という名前をつけた。

「議長。三つ目の箱に入っているものは、すべて、どこか別の場所についての議論です。どこか別の場所の法。どこか別の場所の登録所。どこか別の場所の裁判所。そのどれ一つとして、この両当事者が書いて署名したものを、変えはしません」

船越の最終弁論は、一時間十分だった。

彼は、三つの箱の名前を使った。

「相手方代理人は、私どもの主張に『距離』という名前をつけられました。その言葉を、そのままお借りします。ただ、仲裁廷には、距離を置いてきたのがどちらであったかを、ご覧いただきたいと思います」

彼は、時系列を並べた。

二〇一九年、契約。第四十一条三項は貸付人が取得した。

二〇二二年、増額。ジャカルタで二十一万四千ドルの弁護士費用。取締役会決議はない。

二〇二三年十一月、三割の削減指示。デフォルトなら十八か月かからない。

二〇二四年二月、借入人の駐在員が、貸付人の現地担当者に電話をした。記録はない。

二〇二四年三月十八日、同じ日に、期限の利益喪失の通知と、支払拒絶の通知。

「議長。私どもは、申立人が違法なことをしたとは申しません。申立人は、いくつもの選択をした、と申し上げます。その一つ一つは、自分の帳簿にとって理にかなっていました。しかし、それらを合わせると、東ジャワの担保は、誰にも試されないままになりました」

彼は、一度、間を置いた。

「ボイド氏は、明瞭な言葉で、この与信について回収を最大化しないことを選んだ、と仲裁廷に述べられました。正直な証言でした。私は、それを責めません。ただ、自分の担保を試さないことを選んだと言う貸付人が、同じ口で、借入人はその担保が有効だと約束したのだから差額を払え、と言うことはできません」

彼は、そこで、一度、テオ教授を見た。

「そして、いずれの法によるかという問いについて。仲裁廷は、この争点を一覧に載せておられます。『必要な限りにおいて』という言葉を添えて。あの言葉が偶然そこに入ったふりを、私はいたしません」

彼は、紙から目を上げた。

「お願いは、一つだけです。必要でないと判断されるのであれば、判断書に、そう明記していただきたい。この問いは判断されなかった、と。私どもに不利に答えられた問いと、そもそも答えられなかった問いとは、別のものです」

ケンプ卿が、そこで、はじめてペンを置いた。

置いて、船越を見た。

その視線が、何を意味するのか、船越にはわからなかった。

◇

午後四時二十分。

ブルンナーが、机の上に外してあった腕時計を取り上げ、はめ直した。

「仲裁廷は、両当事者に感謝します。追加の書面を求めない限り、審理はこれで終結します。そのあと、判断書の草案がICCの仲裁裁判所に送られ、点検を受けます。現実的な見通しとして、判断は春とお考えください」

彼女は、少し間を置いた。

「もう一つだけ。十二年やってきて、私がこれを言うことは多くありません。お二方とも、難しい事件を、誇張せずに戦われました。それは、本来あるべきよりも、稀なことです」

彼女は立ち上がった。

三人が、順に出ていった。

ケンプ卿が、最後だった。

ドアの手前で、彼は一度だけ立ち止まり、船越のほうを見て、頷いた。

船越は、頷き返した。

理由は、付されなかった。

◇

廊下で、荷物をまとめていると、柏木凛が通りかかった。

彼女は、書類の箱を二つ抱えていた。

「先生」

「柏木さん」

「終わりましたね」

「終わったな」

凛は、箱を床に置いた。

「先生の最終弁論、最後のところ」

「うん」

「あれ、廷に向かって言ってないですよね」

船越は、彼女を見た。

「誰に言うてると思う」

凛は、少し笑った。

「わかりません」

彼女は箱を持ち上げた。

「レニー先生に、よろしくお伝えください」

「自分で言うたらええ」

「私は、いま、相手方の弁護士です」

彼女は、そう言って、行った。

31 ウィーン

三月二十九日。

ヴィス・ムートの本戦は、ウィーンの大学の建物と、周辺の法律事務所の会議室に分散して行われる。世界から三百五十を超えるチームが来る。予選は四試合。上位六十四チームが決勝トーナメントに進む。

六甲大学は、四試合のうち三勝一敗だった。

三勝一敗で、通らなかった。

順位は、勝敗のあとに、審査員の点数の合計で決まる。一敗した試合で、宮下詩織は個人点で高い点を取り、黒田蒼が代理した後半で失点した。合計で、六十四位のチームに、二点足りなかった。

結果の掲示は、四日目の夕方だった。

掲示板の前で、四人は、しばらく動かなかった。

最初に口を開いたのは、田淵航だった。

「二点ですね」

詩織が、掲示を見たまま言った。

「うん」

「二点って、どこですか」

「わからない」

黒田蒼は、何も言わなかった。

早瀬千夏が、黒田の顔を見た。見て、何も言わなかった。

船越は、四人の少しうしろに立っていた。

彼は、何も言わなかった。

言うことは、あった。三勝一敗は立派である。初出場のチームではない、五年ぶりの三勝である。二点の差は、審査員の主観の幅の中である。全部、本当のことだった。

本当のことを、いま言っても、意味がない。

彼は、そのまま、四人のうしろに立っていた。

十分ほど経って、詩織が振り返った。

「先生」

「うん」

「私、最後の試合の三十四段落、飛ばしました」

「知ってる」

「なんで言わなかったんですか」

「言うたら、次の質問に答えられへんかったやろ」

詩織は、頷いた。

頷いてから、少し泣いた。

泣いたのは、三十秒だった。

彼女はそれから、鞄からティッシュを出して、顔を拭いて、四人のほうを向いた。

「明日、個人賞の発表だから。全員行くよ」

黒田が、はじめて口を開いた。

「僕は行かない」

「なんで」

「見たくない」

「見なさい」

詩織は言った。

「あなたが書いた書面で、私が喋ったの。私が賞を取ったら、それはあなたの点数でもある。取らなかったら、それも一緒」

黒田は、しばらく黙っていた。

「一緒」と、詩織はもう一度言った。「そこだけ聞いて」

「……行く」

◇

翌日、宮下詩織は、最優秀弁論者の一人に選ばれた。

三百五十を超えるチームの、千四百人を超える弁論者のうち、名前が呼ばれたのは十二人だった。

彼女は、壇上で、一言も話さなかった。話す場面ではなかった。賞状を受け取って、頭を下げて、降りた。

降りたところで、田淵航が、はじめて大きな声を出した。

会場の四方から、笑いが起きた。

千夏は、その航の横で、拍手をしていた。

拍手をしながら、一度だけ、航の横顔を見た。

航は、気づかなかった。

◇

その夜、ウィーンの旧市街。

打ち上げは、大学の近くのビアホールだった。各国のチームが混ざる。名刺のかわりに、大学のロゴの入ったピンバッジを交換する文化がある。

船越は、二時間で店を出た。

外は、三月末のウィーンで、まだ寒かった。

石畳の道を、少し歩いた。

前を、四人が歩いていた。

詩織と黒田が、並んで歩いていた。詩織が何か言って、黒田が短く返して、詩織が笑った。二人の距離は、朝より近かった。

その十メートルうしろを、航と千夏が歩いていた。

二人は、話していなかった。

千夏が、路地の入口で立ち止まって、上を見た。街灯に何かが巻いてあった。

航が、その二歩先で立ち止まって、待った。

千夏が振り返った。

それだけだった。

二人は、また歩き出した。

船越は、その角で立ち止まった。

追わなかった。

彼は、来た道を戻った。

ホテルの部屋に着いて、時計を見た。日本は朝の六時だった。

彼は、レニーに短いメールを書いた。

——三勝一敗でした。二点足りませんでした。宮下が最優秀弁論者に選ばれました。

送信して、少し待った。

返事は、十五分で来た。

——Two points. Good. If it had been twenty, they would blame the judges.

その下に、もう一行あった。

——I could not travel. Nothing serious. Ritsuko's brother says the same thing about himself, and he is eighty-nine.

船越は、その二行を、二度読んだ。

Nothing serious.

彼は、返信を書きかけて、消した。

かわりに、こう書いた。

——四月に、神戸に伺います。

32 空港

三月三十一日、ウィーン国際空港。

搭乗までに、二時間あった。

四人は、ゲート前の椅子に、ばらばらに座っていた。詩織は書類を整理していた。黒田は寝ていた。航は、四人分の座席の位置を、搭乗券を並べて確認していた。

千夏だけが、船越の隣に来た。

「先生」

「なに」

「一つ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「先生の事件、終わったんですよね」

「審問は終わった。判断はこれからや」

「勝ちましたか」

船越は、少し考えた。

「負ける」

千夏は、驚かなかった。

「どのくらい負けるんですか」

「大きい」

「勝てるところは、ないんですか」

「一つある」

「どこですか」

船越は、答えるかどうかを迷った。

迷って、答えた。

「いちばん汚いところや」

千夏は、その言葉を、そのままにした。

聞き返さなかった。

しばらくして、彼女は言った。

「先生、十月に、私、宮下さんに、英語の係ですかって言いましたよね」

「言うたな」

「あれ、いま思うと、質問じゃなかったです」

「そうやな」

「私、答えが欲しかったわけじゃなくて、聞いてほしかっただけです」

「うん」

「だから、あれは、良くない質問でした」

船越は、少し笑った。

「ええ質問やったよ」

「なんでですか」

「答えてほしくない質問を、人は、いちばん大事なときにする」

千夏は、少し黙った。

「先生、それ、事件でもありますか」

「ある」

「たとえば」

船越は、窓の外を見た。

滑走路に、貨物機が一機、止まっていた。コンテナが横腹から積み込まれている。中に何が入っているのかは、外からは見えない。

「相手方の弁護士が、僕に一つ聞いた。誰に向かって喋ってるんですか、と。あれは、質問やなかった」

「答えたんですか」

「答えられへんかった」

千夏は、それ以上聞かなかった。

彼女は、鞄から、資料を一枚出した。

ヴィス・ムートの問題の、付属資料の一枚だった。倉庫のある国の、登録所発行の証明書の写し。去年の四月に、彼女が船越に見せたものと、同じ種類の紙である。

「これ、持って帰ります」

「なんで」

「その紙を誰が書いたのか、結局わからなかったので」

彼女は、それを鞄にしまった。

「先生。書いた人がわからない紙って、どうすればいいんですか」

船越は、答えなかった。

答えなかったのは、そのとき彼が、まったく別のことを考えていたからである。

彼は、ジャカルタの弁護士事務所への、三件の支払のことを考えていた。

誰が費用を払ったか。

払った人間がいるということは、動かした人間がいるということである。

彼は、その二つが同じ形をしていることに、そのときは気づかなかった。

搭乗が始まった。

第四部 決着

33 判断

四月十八日。

仲裁判断は、金曜日の午後六時十二分に、ICCの事務局から届いた。

二百三十四頁。

船越は、会議室のテーブルに印刷を置き、若手三人と、順番を決めて読んだ。

主文から読む者と、理由から読む者に分かれる。船越は、理由から読む。

読み終えるのに、四時間かかった。

◇

信用状。

鳳和側の完全勝訴だった。

第一の不一致——船荷証券の日付超過——について、廷は、船積港の公示された休日を考慮すれば、当該日付は信用状の条件に適合すると認定した。

第二の通知は、効力を持たないとされた。UCP600の下で、拒絶の通知は一回限りであり、すべての不一致を、五銀行営業日以内に、一度に述べなければならない。それを怠った銀行は、書類が信用状の条件に適合していないと主張する権利を失う。第二回の通知は、その期間の後に出されている。廷は、そこで挙げられた不一致の当否には立ち入らなかった。立ち入る必要が、なかったからである。

詐欺の抗弁は、退けられた。

理由の第七百四段落。

——詐欺の抗弁は、当該信用状取引そのものにおける詐欺を要する。本件において船積みされた六千トンのニッケルは実在し、船荷証券をはじめとする呈示書類は真正である。倉庫の在庫の不足は、上流の与信における担保の問題であって、本件売買契約の履行とは別個の事象である。当廷は、被申立人グループの内部において、貨物の調達をめぐり重大な権限の逸脱および会計処理上の問題が存したことを認定するが、これらは信用状取引の受益者による発行銀行に対する詐欺を構成しない。

九千六百四十八万ドル。利息を含めて、九千九百万ドル余り。

若手の一人が、その段落を読み上げた。

読み上げてから、言った。

「勝ちましたね」

船越は、頷いた。

頷いたが、その段落を、もう一度自分で読んだ。

——重大な権限の逸脱および会計処理上の問題が存したことを認定するが。

彼は、その一節に、鉛筆で線を引いた。

この一行が、判断書の中に、永久に残る。

◇

担保、および性質決定。

廷は、判断しなかった。

理由の第三百十二段落から第三百二十六段落まで、十五段落を使って、判断しない理由が書かれていた。

第一。現に係属する請求のいずれも、性質決定を必要としない。期限の利益喪失は数量の要件によって発生し、担保権が法的に有効であることを要件としていない。信用状は、UCP600により自己完結的に判断される。誠実義務違反の主張は、立証の程度において不十分である。

第二。必要のない判断は行わないという、仲裁実務上の自制。

第三。

船越は、この第三の理由を、二度読んだ。

——さらに、当廷は、次の点を指摘する。本件担保権の成立および優劣に関する判断は、本仲裁の当事者ではない者——競合する担保権を主張する第三者、および倉庫会社について将来開始されうる倒産手続における利害関係人——の権利関係に、事実上の影響を及ぼしうる。付託事項を超えた対物的な判断は、権限の逸脱として仲裁判断の取消しの危険を生じさせる。当廷は、これを行わない。

そして、最後の一文。

——当廷は、本件担保権の準拠法、その成立および対抗要件について、いかなる判断も行わない。この点は、判断されていない。

船越は、その一文を、長いあいだ見ていた。

彼が最終弁論で求めたとおりの文言だった。

求めたとおりのものを受け取って、彼は、自分が何を受け取ったのかを、まだ測れなかった。

◇

保証。

鳳和物産の敗訴だった。

廷は、二〇二二年の増額について、鳳和物産の取締役会の決議が存在しないことを認定した。そして、当該保証の負担が、日本の会社法における多額の借財に準ずる重要な業務執行に該当しうることも認めた。

そのうえで、廷は、こう書いた。

——設立準拠法である日本法の下では、その取引は、原則として有効である。無効となるのは、相手方が決議を経ていないことを知り、または知ることができたときに限られ、その立証責任は、無効を主張する側にある。

——被申立人は、申立人が二〇一九年の議事録の写しを受領しており、当該議事録には「四億米ドルを上限とする」との文言があることを指摘する。当廷は、この事実を重視する。しかしながら、申立人は、同時に、秘書役に相当する者の証明書、および日本の法律事務所が発行した法律意見書を受領している。当該意見書は、本保証が適法に授権されている旨を明示的に述べている。

——被申立人が提出した証拠は、申立人が決議の不存在を知り、または知ることができたことを示す直接の証拠を含まない。当廷は、間接の事情の集積のみによって、この要件が満たされたと認定することはできない。

船越は、その三つの段落を読んで、印刷を伏せた。

若手が、何も言わずに待っていた。

彼は、しばらくして、言った。

「一枚や」

「え」

「向こうの中で、誰かが、これは決議がないんちゃうか、と書いた紙が一枚あったら、これは全部ひっくり返ってた」

「そんな紙、ないですよ」

「ないな」

彼は、印刷を戻した。

◇

貸付債権。

期限の利益喪失は有効。実行残高六億一千万ドルと利息の支払。

誠実義務違反の主張は、立証不十分として退けられた。

ただし、理由の第五百八十一段落に、一段落だけ、こう書いてあった。

——当廷は、申立人が、その与信ポートフォリオ全体の管理上の考慮に基づき、本件与信について担保物所在地における権利保全の手段を用いないという選択をしたことを認定する。この選択は、それ自体としては、貸付人が契約上の権利をどのように行使するかについての商業的判断の範囲内にある。当廷は、この選択が、被申立人に対する誠実義務の違反を構成するとは認定しない。

そして、費用。

四百八十七万ドルの請求のうち、三百十万ドルが認容された。ジャカルタの法律事務所への三件の支払を含む項目は、認容された部分に入っていた。

差引き。

鳳和物産の純支払は、五億二千万ドルを超えた。

◇

在庫が消えた経緯そのものについては、廷は、一段落しか書かなかった。

——倉庫会社が、同一の在庫について複数の与信のために重複して預り証明を発行し、かつ、記録を作成することなく現物を搬出していたことは、両当事者間に争いがない。当該行為の責任は、本仲裁の当事者でない第三者にある。当廷は、これについて判断する権限を有しない。

争いがない、と書いてある。

四千八百トンが、どこへ行ったかは、両方とも知っている。知っていて、両方とも、その話をしなかった。それを取り戻せる場所に、この事件は、はじめから立っていなかった。

理由の最後のほうに、内部統制についての指摘があった。

四段落。名指しはしていないが、内容は具体的だった。二年間にわたり実地の在庫確認が行われなかったこと。社内から警告が発せられたにもかかわらず、四半期末の事務を理由に先送りされたこと。駐在員が権限を超えて現物を調達し、その原資について不適切な会計処理が行われたこと。

読み終えて、若手の一人が言った。

「船越さん、これ、外に出ますか」

「仲裁判断は非公開や」

「でも」

「でも、鳳和は上場企業や。決算の訂正をせなあかん。そのときに、何があったかは、別の形で外に出る」

彼は、時計を見た。

十時二十分だった。

「今日は帰ろ」

「船越さん」

「なに」

「勝った論点、ありましたよね」

「あった」

「一つだけですけど」

船越は、コートを取った。

「その一つが、いちばん値打ちがあった。九千九百万ドルや」

彼は、ドアのところで立ち止まった。

「その九千九百万ドルは、戸倉さんが規程を破って、金の出どころを誤魔化して、現物を買い戻したから取れた」

若手は、何も言わなかった。

「僕らが唯一勝った場所は、この事件でいちばん汚いところや」

34 上出来だ

四月二十一日、月曜。

青柳の部屋に、船越と、企業法務のパートナーが二人いた。

青柳は、判断書の要旨を三十分かけて聞いた。

聞き終えて、湯呑みを置いた。

「上出来だ」

船越は、答えなかった。

「船越君」

「はい」

「聞こえなかったか」

「聞こえました」

「上出来だ、と言った」

「ありがとうございます」

青柳は、船越の顔を見た。

「納得していないな」

「していません」

「言ってみろ」

船越は、少し考えた。

「保証は、証拠が一枚足りなかっただけです」

「足りなかったのだから、負けだ」

「負けです」

「では何が不満だ」

「その一枚が、どこかにあることを、僕は知っています」

青柳は、湯呑みを持ち上げた。

「知っているのではない。あると思っているだけだ」

「はい」

「船越君。私は三十年、この仕事をしている。負けた事件で、証拠が一枚足りなかった、と思わなかったことは一度もない」

「はい」

「一度もだ。全部そう思う。そして、その一枚は、たいてい存在しない」

船越は、それに答えなかった。

答えられなかった。

彼にも、そうであることのほうが多いのはわかっていた。

パートナーの一人が、話題を変えた。

「和解は、どうしますか。相手方から、打診が来ています」

船越は、顔を上げた。

「いつですか」

「土曜です。ソーンではなく、マーロウ・スタントンのシンガポールから、事務レベルで」

「早いですね」

「早いです」

青柳が言った。

「向こうも、判断を持って裁判所に行くつもりはない。取立てには時間がかかる。鳳和は上場企業で、資産は日本にある。日本で執行するには、ニューヨーク条約に基づく執行決定が要る。争えば一年以上かかる」

「向こうは、いくら言ってきていますか」

「まだ数字は出ていません。ただ、感触としては、四億台の後半だと」

船越は、頷いた。

「妥当ですね」

「妥当だ」

青柳は言った。

「五月中に片づける。君は、その前に一度、鳳和の取締役会で説明してくれ」

「わかりました」

◇

会議のあと、船越は、鳳和物産の本社に寄った。

法務部の応接で、峰岸玲奈が待っていた。

「先生、お疲れさまでした」

「峰岸さん」

「四月の異動、決まりました」

船越は、少し黙った。

「どちらですか」

「グループ会社の管理部門です。名古屋です」

「……そうですか」

「予想していたので」

峰岸は、湯呑みを両手で持っていた。

「先生、一つだけ、伺ってもいいですか」

「どうぞ」

「私の報告書は、役に立ちましたか」

船越は、答えるのに、少し時間をかけた。

「役に立ちました」

「本当ですか」

「本当です。ただ、役に立った形が、あなたが望んだ形ではないと思います」

「どういう形でしたか」

「あなたの報告書があったから、鳳和は、隠した会社にはなりませんでした。仲裁廷は、内部統制の不備を指摘しましたが、悪意は認定しませんでした。あの四段落と、詐欺の抗弁が退けられたことは、つながっています」

峰岸は、頷いた。

「私が書いたから、会社は九千九百万ドルを取れた、ということですか」

「そこまでは言いません。でも、無関係ではないです」

峰岸は、少し笑った。

「先生」

「はい」

「戸倉さん、辞めました」

船越は、湯呑みを置いた。

「いつですか」

「先週です。懲戒ではありません。諭旨です」

「そうですか」

「本当は懲戒だ、という人と、本当は何もしていない、という人が、社内に半分ずついます」

「峰岸さんは、どちらですか」

峰岸は、少し黙った。

「私は、あの人が現物を買っていたと聞いたときに、いちばん最初に思ったことがあります」

「何ですか」

「一月に二週間くださいと書いたとき、あの人は、二週間で埋められると本気で思ってたんだな、と思いました」

「思われますか」

「思います。だって、二週間じゃ埋まらないってわかってたら、あんな短い期間、書かないです」

船越は、その言葉を、しばらく考えた。

「峰岸さん」

「はい」

「名古屋、いつまでですか」

「わかりません」

「戻ってこられますか」

峰岸は、少し笑った。

「先生、それは、私が決めることじゃないです」

35 日付の読み方

五月九日、東京。

国際仲裁の研究会が、大手町の会議室であった。演題は、仲裁廷による抵触法規範の選択について。報告者は大学の教授で、聴衆は五十人ほどだった。

船越は、事務所から歩いて十分の距離だったので、行った。

行った理由は、それだけだった。

懇親会は、同じ建物の別室で、立食だった。

柏木凛は、入口の近くにいた。

黒いスーツで、グラスを持って、大手の事務所の若手三人と話していた。彼女は、船越に気づいて、少し待ってから、こちらへ来た。

「先生」

「柏木さん」

「ご無沙汰しています」

「事件のことは話さんでおこ」

「話しません」

凛は、グラスを置いた。

「今日の報告、どう思われましたか」

「よかった。ただ、後半の三十分は、仲裁廷が抵触法規則を選べるという前提で組まれてた」

「選べないんですか」

「選べる。選べるけど、選ばへんこともできる。今日の報告は、選ばへん場合の話をしてなかった」

凛は、少し笑った。

「先生、それ、ご自分の事件の話ですよね」

「話さんでおこ、て言うたやん」

「すみません」

二人は、しばらく黙って、部屋の中を見ていた。

会場のいちばん奥で、報告者の教授が、五人ほどに囲まれていた。

凛が言った。

「先生、私、来月からジャカルタです」

船越は、彼女のほうを見た。

「出向?」

「うちの事務所の提携先です。三か月だけですけど」

「なんで」

「担保法をやりたいと言ったら、行けと言われました」

「ええな」

「よくないです。暑いです」

彼女は、グラスを取り直した。

「先生、インドネシアの登録の実務って、ご存じですか」

「一般論としては」

「二〇一九年に、大きく変わってるんです」

船越は、頷いた。

「聞いてる」

「うちの提携先の人が言ってました。あの変更のあとの再登録って、たいてい一年以上かかるって」

船越は、その一文を聞いた。

聞いて、少し遅れて、意味が入ってきた。

「……一年以上」

「はい。書類の作り直しから、目的物の特定の記載の直し方の協議から、登録局とのやり取りまで。一年で終われば早いほうだと言っていました」

彼女は、そこで、グラスを口に運んだ。

「だから、完了した日付だけ見ても、いつ始まったかはわからないんです」

船越は、動かなかった。

動かなかったが、頭の中では、一つの箱が開いていた。

彼は、二〇二二年六月の請求書を三件見つけた。

彼は、二〇二二年五月一日から六月三十日までの連絡文書を要求した。

仲裁廷は、それを一部認容した。

認容された範囲は、二〇二二年六月一日から六月三十日までの一か月だった。

相手方は、その一か月分を出した。

一千百四十件。二月の下旬に届いた。審問はもう終わっていた。廷は、その資料についての追加の書面を求めなかった。だから、誰も、それを最後まで読んでいない。

彼は、その中に、何があったのかを知らない。

「先生?」

「うん」

「大丈夫ですか」

船越は、凛を見た。

彼女の顔には、何もなかった。

何もない、ということが、何を意味するのかを、彼はその場で判断しなかった。

「柏木さん」

「はい」

「いま言うたこと、僕に言うつもりで言うた?」

凛は、少しのあいだ、黙った。

「先生、それ、答えのある質問じゃないです」

彼女は、そう言って、頭を下げた。

「ジャカルタから、絵葉書出します」

「出さんでええ」

「出します」

◇

その夜、船越は事務所に戻った。

十時だった。

彼は、二月に届いた一千百四十件のフォルダを開いた。

若手が作った受領一覧がある。一件ずつ、日付、差出人、宛先、件名、そして、関連性の評価。

評価の欄は、ほとんどが「低」だった。

無理もない。二月の下旬は、最終弁論の直後で、全員が判断書を待っていた。届いた資料は、審問の記録に入らない。入らないものを丁寧に読む理由は、そのときはなかった。

彼は、件名でソートした。

「Fiducia」を含むものが、十九件あった。

十九件を開いた。

十七件は、定型の連絡だった。手数料の請求、日程の調整、書式の確認。

十八件目が、それだった。

二〇二二年六月十四日。

差出人、ハルトノ法律事務所、ジャカルタ。

宛先は、三つ。ノースヘイヴンのシンガポールの与信管理部、ロンドンの与信管理部、そして、担保管理の部門のメーリングリスト。

件名、Howa Resources — Fiducia re-registration completed.

本文は、七行だった。

——We confirm that the fiducia security over the nickel held at PT. Sembara Logistik Nusantara has now been registered again, and that the certificate was issued on 10 June 2022.

——As we told you before, the original registration made in 2019 did not describe the collateral in the way the law requires. Because of that, third parties could have challenged it from the very beginning. The new registration fixes this from now on. In our view, it does not fix the past.

——We are happy to discuss what this means for the years 2019 to 2022.

船越は、その七行を読んだ。

読んで、もう一度読んだ。

三度目に読んだとき、彼は、自分が椅子から立ち上がっていることに気づいた。

did not describe the collateral in the way the law requires。

third parties could have challenged it from the very beginning。

二〇一九年の登録は、最初から、不備だった。

そして、この文書は、ノースヘイヴンの組織のラインに乗っている。

宛先は、個人ではない。与信管理部と、担保管理のメーリングリストである。

彼は、時計を見た。

十一時二十分だった。

彼は、その文書に「α」と書いたファイル名をつけて、保存した。

保存してから、椅子に座った。

座って、両手で顔を触った。頬が冷たかった。暖房は入っている。

三か月前に、これは自分たちの手元にあった。

◇

翌週、船越は、相手方の代理人に一通の書簡を送った。

内容は、事務的だった。

——手続命令第十二号に基づく貴社の提出は、対象期間を二〇二二年六月一日から同月三十日までとして行われた。同命令の対象文書は「本件担保に関する連絡文書」であり、期間の限定は当職らの申立ての記載に由来する。

——貴社が提出された文書のうち、二〇二二年六月十四日付の一通は、当該再登録の作業が、その完了に先立つ相当の期間にわたって行われていたことを明示している。当職らは、当該作業の開始時期から完了時期までの連絡文書が、同命令の対象文書に含まれると理解する。

——つきましては、対象期間を二〇二一年一月一日から二〇二二年六月三十日までとして、追加の提出を求める。

彼は、その書簡の最後の段落を、四回書き直した。

最後に残ったのは、二行だった。

——当職らは、本件仲裁判断の効力について、現時点でいかなる措置も検討していない。

——当職らが、貴社の提出が命令の対象を満たしていたか否かについて、いかなる立場も取らずに済むことを希望する。

若手が、その書簡を読んで、言った。

「船越さん、これ、脅してますよね」

「脅してへん」

「脅してますよ」

「二行とも、書いてあることは本当や」

「本当のことでも、脅しになりますよ」

船越は、その言葉を、しばらく考えた。

「なるな」

彼は、署名した。

◇

相手方の追加提出は、五月二十七日に届いた。

八十二件だった。

送り状は、一頁である。期間、通数、形式、そして、この提出が命令の対象範囲について何らの立場も取るものではないこと。定型の文だった。

署名は二名。マーロウ・スタントン東京オフィスのパートナーと、その下に、もう一人。

船越は、二人目の名前を読んだ。

読んでから、送信の時刻を見た。

五月二十六日、二十三時四十一分。日曜だった。

彼が求めた期間は、二〇二一年一月一日から二〇二二年六月三十日までである。

一覧のいちばん上——日付の古い順に並んでいた——は、二〇二〇年十一月の一通だった。

範囲の外である。出す義務はない。落としても、誰にもわからない。

彼は、その一件を開かずに、一覧を最後まで送った。

仲裁判断は、四月に出ている。ここに何が入っていようと、あの判断は動かない。

送るほうも、それを知っている。

そのうちの一件が、それだった。

二〇二二年五月十一日。

差出人、ハルトノ法律事務所。

宛先、Nathaniel Boyd。一人だけ。

写しは、なし。

件名、Howa — increase to USD 700m: board approval.

本文。

——Nathaniel — one point before we finish. The 2019 board resolution of the Japanese parent approves a guarantee for a facility "up to USD 400 million". The increase takes it to 700. Our Tokyo lawyers say that under Japanese company law a new board resolution is normally obtained in a case like this. Do you want us to ask for one? It will add three to four weeks.

その下に、返信があった。

同日、二時間後。

——No need. We have the 2019 resolution, the secretary's certificate and the Japanese legal opinion. That is the package we take on every deal of this type. Let's not open it up again. — NB

船越は、その返信を、声に出さずに読んだ。

三回読んだ。

事務所の部屋は、静かだった。

彼は、その文書に「β」というファイル名をつけた。

つけて、椅子の背にもたれて、天井を見た。

喉が渇いていた。水を飲みに立って、給湯室まで行って、飲まずに戻った。

勝った、と思った。

時刻は、午後九時十分だった。

36 一段

同じ夜、十一時十分。

船越は、まだ事務所にいた。

彼は、文書βを、四度目に読んでいた。

四度目は、自分のためではなく、相手方のために読んでいた。

彼が長年やってきた作業である。自分の見つけたものを、相手方の書面の形に翻訳する。相手がこれをどう潰すかを、相手より先に書く。

ペンが、動かなかった。

書けないからではない。書き出しが、三つとも同時に浮かんでいて、どれから潰すべきかが決められなかった。

決められないときに人がやることを、彼もやった。

彼は、受話器を取った。

◇

大手町の事務所である。去年の暮れに保証の論点を引き継いだ、会社法の争訟をやる六十人ほどの事務所。

三コール目で出た。向こうも、まだ事務所にいた。

「船越です。夜分に」

「どうしました」

「去年、先生に申し上げたことを、覚えておられますか。届くとしたら何が要るか、と聞かれて」

「覚えています。向こうの中に、これは決議がないのではないか、と誰かが書いた紙が要ります、と」

「はい」

「そんなものは出てきませんよ、と私は申し上げました」

「出ました」

電話の向こうが、静かになった。

船越は、文書βを読み上げた。日付。差出人。宛先。本文と、二時間後の返信。

読み終えて、待った。

「船越先生」

「はい」

「その照会は、誰に宛てられていますか」

「ボイド一人です」

「写しは」

「ありません」

「先方の法務部門は」

「入っていません」

「ボイドさんは、日本法の授権手続が要るかどうかを決める立場ですか」

「アジアの商品金融の、与信管理の責任者です」

船越は、そこで、自分の声が止まったのに気づいた。

止めたのは、相手ではない。

四つ聞かれて、四つとも答えられた。答えられたということは、聞かれる前から、自分がその答えを持っていたということである。

「先生」

「はい」

「いま僕が申し上げたことは、ボイドが知っていた、ということです」

「そうですね」

「ノースヘイヴンが知っていた、ということでは、ないです」

電話の向こうで、相手が息を吐いた。

「船越先生。会社が知っている、というのは、社員の頭の中を足し算したものではありません。誰が、どの立場で、どの手続の中で知ったか。そこまで揃って、はじめて会社が知ったことになります」

「わかっています」

「わかっておられますね」

「はい」

「では、あと何が要るかも、おわかりでしょう」

船越は、答えなかった。

答えなかったのは、わからなかったからではない。

口に出すと、それが手に入らないものだと確定してしまう気がした。

「船越先生」

「はい」

「一つだけ、申し上げておきます。私は、この論点を半年やりました。うちが引き継いだのは、御事務所が自分の意見書を撃てないからです。撃てる紙が出たのなら、それは、うちの仕事です」

「はい」

「出たら、言ってください」

電話が切れた。

船越は、受話器を置いた。

置いてから、置いた手を見た。

◇

彼は、白紙を出した。

現地の弁護士が、担当者一人に宛てて、一通のメールを送った。担当者が、二時間後に、一人で返事をした。法務部門は、それを見ていない。

それだけである。

これを、銀行という法人の悪意に届かせるには、もう一段が要る。

彼は、白紙をめくった。

——必要なもの。

そして、書いた。

——このやり取りが、与信委員会の付議資料に添付されていたこと。

書いて、彼は、その一行を見た。

もし、五月十一日の照会と、その回答が、六月の与信委員会に上がる稟議の添付書類として綴じられていたなら、話は変わる。委員会は、この銀行の意思決定機関である。そこに紙が届いていたなら、それは、銀行が知ったということである。

そういう資料が、実在するかどうか。

彼には、わからなかった。

開示されていない。

そして、要求しても、出てこない。

与信委員会の資料は、去年の九月に、一度要求している。

却下されている。理由は、一行だった。申立人の意思決定機関における審議それ自体は、本件の請求の当否を判断するために必要でない。

いま要求できるとすれば、それは「本件担保に関する連絡文書」としてである。手続命令第十二号の対象は、担保に関する現地弁護士との連絡文書である。与信委員会の付議資料は、その定義に入らない。

新たな要求をする場所も、もうない。

仲裁廷は、判断を出した。廷の権限は、判断とともに尽きている。

彼は、白紙の上に、三つの言葉を並べた。

——文書α。物の話。強い。だが、担保が無効でも、借りた金は返さなあかん。

——文書β。会社の話。届いてない。あと一段。

——その一段は、たぶん実在する。実在するかどうかは、確かめられへん。

彼は、そこで、はじめて、二時間前の自分が何を思ったかを思い出した。

勝った、と思った。

彼は立ち上がって、給湯室へ行った。

二時間前に、水を飲みに来て、飲まずに戻った場所である。

今度は、飲んだ。

冷たくもぬるくもなかった。水だった。

紙コップを捨てて、部屋に戻り、窓のところへ行った。

丸の内の夜は、五月でも、十二月と同じ形をしていた。同じビルの、同じ高さの階に、同じように灯りがついている。

彼は、そこで、自分がこの三か月間、何を求めていたのかを考えた。

彼が求めていたのは、決定打だった。

出てきたのは、決定打になりうる、未完成の弾丸だった。

撃てば、当たるかもしれない。当たれば、六億一千万ドルが消える。

外れれば、何も残らない。

そして、撃つには、いくつかの前提が要る。

一つ。この二通の文書は、仲裁判断のあとに、追加の提出として届いたものである。これを使うということは、相手方の提出が命令の対象を満たしていなかったと主張することである。

二つ。仲裁廷は、担保に関する論点について、いかなる判断も行わなかった。判断していない以上、こちらの立場では、その点に既判力は生じていない。

だが、相手方は、必ずこう言う。性質決定は付託事項の一覧に載っていた。載っていた論点について、廷が「判断の必要がない」と述べたこと自体が、理由中の判断である。蒸し返しは許されない、と。

シンガポールの裁判所が、どちらを採るかは、わからない。

三つ。文書βを使うということは、この文書が、いつ、どこから出てきたのかを説明することである。

そして、その説明のどこかで、五月九日の懇親会の話になる。

彼は、そこまで考えて、窓から離れた。

机に戻って、白紙をたたんだ。

たたんだ紙を、手帳に挟んだ。

手帳には、去年の四月に書いた行が、まだ残っていた。

——判断されたくない。

彼は、その下に、一年ぶりに、一行足した。

——判断されなかった。

日付を入れて、閉じた。

37 間に合ったか

六月七日、土曜。神戸。

レニーの家は、六甲の中腹にある。坂の途中の、古い洋館を分けた借家で、玄関の脇に、律子が植えたという梅の木がある。

船越が最後に来たのは、二年前だった。

呼び鈴を押すと、開くまでに時間がかかった。

レニーは、痩せていた。

「Ryohei. Come in. Take your shoes off, my wife is watching.」

居間の椅子に座ると、山崎の瓶が出てきた。

「It's past four,」レニーは言った。「It has been past four for some hours.」

彼はグラスを二つ出し、水を少し足した。

「近いほうがうまい」

日本語だった。

「倉庫が近いというのは、そういうことや」

船越は、笑った。

「先生、それ、二十二年前にも聞きました」

「I know. It is the only Japanese joke I have.」

◇

船越は、一時間かけて、事件の話をした。

判断書のこと。信用状で勝ったこと。その勝ちが、どこから来たか。保証で負けたこと。担保について、廷が何も判断しなかったこと。

そして、二通の文書のこと。

レニーは、途中で一度も口を挟まなかった。

聞き終えて、彼はグラスを置いた。

「Two documents. And a hole between them.」

二通と、そのあいだの穴。

「はい」

「で、どうしたいんや」

日本語だった。二人のときの、丁寧語の外れた日本語である。

「わかりません」

「それは答えになってへん。どうできるか、を言うてみ」

船越は、指を三本立てた。

「三つあります」

「言うて」

「一つ。シンガポールの裁判所に、仲裁判断の取消しを求める。相手方の文書提出が命令の対象を満たしていなかったこと、それによって手続の基本原則が損なわれたことを主張する。勝算は低いです。裁判所は、この種の主張に非常に厳しい」

「二つ目」

「二つ。担保の論点について、新しく仲裁を申し立てる。廷は判断していない、と判断書に書いています。書いてあるので、こちらの立場では、既判力は生じていません」

レニーは、そこで、はじめて口を挟んだ。

「待ち」

「はい」

「いま『こちらの立場では』と言うたな。残りを言うてみ」

船越は、少し黙った。

「相手方は、こう言います。性質決定は、付託事項書の争点の一覧に載っていた。載っている論点について、廷が必要がないと述べたこと自体が、理由中の判断である。だから、蒸し返しは許されない」

「どっちが正しい」

「わかりません」

「よろしい」

レニーは、グラスを取った。

制度の話に入ると、彼の日本語から神戸が消える。消えて、そのあと、英語になった。

「Ryohei. When you are asked whether that issue survives, do not say it is alive.」

「では、何と」

「Say it is not dead.」

彼は、少し飲んだ。

生きている、と言うな。死んでいない、と言え。

「生きてるもんは、頼りにできる。死んでへんだけのもんは、人を怖がらせるのにしか使えん。どっちにも値打ちはある。同じ値打ちやない。請求できる報酬も、同じやない」

船越は、その言葉を、覚えた。

「三つ目は」

「和解です。判断の内容を前提にして、全面的に和解する。相手方は、いま、四億台の後半で来ています。二通の文書があれば、三億台まで落とせます」

「それは知ってるんか、そう思うだけか」

「落とせます。向こうは、確定した判断を、手続の瑕疵で揺さぶられることを、いちばん嫌がります。それに、担保が最初から不備だったという文書が、自分たちのポートフォリオの雛形の話につながることも、向こうがいちばん触られたくないところです」

「ええ手を持っとうやないか」

「はい」

「それやのに、神戸まで来た」

船越は、答えなかった。

レニーは、しばらく待った。

「亮平。何を払うことになる」

船越は、グラスを見た。

「二つあります」

「言うて」

「一つ。この文書がどこから来たかを、相手方は必ず調べます。追加提出をこちらが求めたきっかけは、二〇二二年六月十四日のメールです。それは向こうが出したものです。そこまでは説明がつきます」

「けど」

「でも、なぜ僕が、三か月間読まずに置いてあったファイルを、五月九日の夜に開けたのか。そこには理由がありません。理由がないところは、必ず探られます」

「あの子か」

「はい」

「公になってへんことを、何か言うたんか」

「公知です。インドネシアの登録の実務は、公表されています」

「ほな、あの子は何も悪いことをしてへん」

「していません」

「それでも、関係あらへんのやろ」

「なりません」

船越は言った。

「あの事務所は、内部の調査をします。誰が、いつ、こちらの弁護士と接触したか。彼女は、僕の教え子です。同じ大学のムートの出身です。それだけで、彼女の説明は、説明として聞かれなくなります」

レニーは、頷いた。

「二つ目は」

「二つ目は、うちの事務所です」

彼は、少し間を置いた。

「保証が無効になれば、鳳和は六億一千万ドルを免れます。そのとき、必ず問われます。では、二〇二二年に、この保証は適法に授権されていると書いた事務所は、何をしていたのか」

「あの意見書に署名したんは、誰や」

「青柳です」

「あんたを引っぱってきた人やな」

「はい」

レニーは、グラスを置いた。

彼は、しばらく、窓の外を見ていた。

窓の外は、六月の六甲で、緑が濃かった。下のほうに、港が少しだけ見える。

「亮平」

「はい」

「どうせえとは、言わん」

「わかっています」

「一つだけ聞く。正直に答えて、ほな帰り」

船越は、姿勢を直した。

レニーは、彼を見た。

そして、英語に戻った。

「If she had said nothing, would you have found it in time?」

船越は、口を開いた。

開いて、何も出なかった。

彼は、答えを持っていた。持っていると思っていた。

いずれ辿り着いた。あの請求書は自分が見つけたものである。三件の支払は自分が拾ったものである。文書提出要求は自分が出したものである。二〇二二年六月十四日のメールは、自分たちの手元に、二月から三か月間あった。

いずれ、開けた。

いずれ、読んだ。

彼は、そこまでを、頭の中で言った。

そして、レニーが何を聞いたのかに、気づいた。

in time。

審問終結までに、間に合ったか。

一月二十八日までに。

彼は、答えた。

「……いいえ」

「ちゃんと言い」

「間に合っていません」

「大きい声は要らん。正確でええ」

レニーは、グラスを取った。

「亮平。あんたはこの一年、みんなにこう言うてきた。物がどこにあるかは選べん。会社の意思が何やったかも選べん。もう一つある」

「時間ですか」

「時間や。それも、あんたは選んでへん。時間があんたを助けた。判断書には書けん。請求書にも載せられん」

船越は、何も言わなかった。

「で。あの子は、わざとやったんか」

「わかりません」

「知りたいか」

船越は、少し考えた。

「知りたくないです」

「なんでや」

「知ったら、あの人が、どちらかに決まってしまいます」

レニーは、はじめて笑った。

「それが」彼は言った。「今日あんたが言うたことで、唯一、私が要らんかったやつや」

◇

帰り際、玄関で、船越は聞いた。

「先生」

「なんや」

「五十七のときに、なぜ辞められたんですか」

レニーは、ドアの枠に手を置いていた。

「二十二年で、四回聞かれた」

「五回目です」

「私より、よう数えとうな」

彼は、少し黙った。

「亮平。私は、正しい助言をした。依頼者は、契約が与えた権利を使た。事業が一つ止まった。私が見たこともない町の水道が、最後まで通らんかった。違法なことは、何一つない。いま書き直すとしても、変えるとこはない」

「では、なぜ」

レニーは、そこで英語に戻った。

「Because I found that I did not mind.」

彼は、ドアを開けた。

「That was the part I could not carry.」

何とも思わへんかった。それが、担げんかったところや。

船越は、坂を降りた。

途中で、一度、振り返った。

家の灯りは、まだついていた。

38 使わない

六月二十日。

和解の交渉は、四回の会合で終わった。

場所は、シンガポールが二回、東京が二回。ソーンKCは出てこなかった。出てくる場面ではない。

船越は、二通の文書を、直接は使わなかった。

彼がしたことは、一つだけである。

三回目の会合で、彼は、手続命令第十二号に基づく追加提出の受領を確認する書面を、正式に交わすことを提案した。

一頁である。文面は、事務的だった。何通が、いつ、どちらから、どちらへ届いたか。番号と、日付と、通数だけ。

内容には、一行も触れていない。

触れる必要がなかった。

その紙が一枚あれば、以下のことが、日付入りで確定する。当該文書は存在する。鳳和は受領している。届いたのは、判断の後である。

取消しを申し立てるにしても、新しい仲裁を起こすにしても、最初に要るのは、その三つだった。

船越は、それを、書式として提案した。

相手方の主任弁護士は、それを読んで、しばらく黙った。

一頁を読むのに、必要な時間ではなかった。

そして、こう言った。

「Mr. Funakoshi, may I ask what you intend to do with those documents?」

船越は、答えた。

「Nothing, if we settle.」

「And if we do not?」

「Then I will have to decide.」

それだけだった。

聞かれた時点で、答えは出ている。

その文書に価値があるかどうかを、相手方に代わって船越が主張する必要は、もうなかった。相手方が、自分から聞いた。

彼は、受領確認の書面を、それ以上求めなかった。

四回目の会合で、数字が動いた。

四億七千万ドルから、三億二千万ドルへ。

差は、一億五千万ドルだった。

◇

和解書の調印は、七月十一日だった。

内容は、全面的な解決である。仲裁判断に基づく債権を含め、本件取引に関する一切の請求を相互に放棄する。信用状の九千六百四十八万ドルは、支払われる。差引きで、鳳和物産の純支払は三億二千万ドルになる。

守秘条項が四頁ある。

船越は、その四頁を、いちばん丁寧に読んだ。

読んで、一か所だけ修正を求めた。

——本和解は、いずれの当事者による事実または責任の承認をも構成しない。

その一文の直後に、彼は、こう足した。

——本和解は、仲裁廷が判断しなかった事項について、いずれの当事者の立場をも変更しない。

相手方は、その修正を、二日考えてから、受け入れた。

受け入れたということが、答えだった。

◇

調印の日の夜、船越は、事務所で一人だった。

彼は、文書αと文書βのファイルを開いて、閉じた。

削除はしなかった。削除できない。記録は残さなければならない。

彼は、白紙を出して、書いた。

——使わなかった理由。

一。撃っても、当たるかどうかがわからない。取消しは勝てない。新たな仲裁は、既判力の争いから始まる。生きているのではなく、死んでいないだけである。

二。撃たなくても、三億二千万ドルまで落ちた。撃って外せば、四億七千万ドルに戻る。依頼者の利益は、撃たないほうにある。

三。撃てば、柏木凛の弁護士としての人生が終わる可能性がある。

四。撃てば、青柳と事務所が揺れる。

彼は、四つを並べて、しばらく見た。

そして、いちばん気に入らないことに気づいた。

一と二は、勝算の話である。三と四は、倫理の話である。

四つとも、同じ方向を指している。

もし、一と二が反対を向いていたら——撃てば確実に六億一千万ドルが消えるとわかっていたら——彼はどうしただろうか。

彼は、その問いに答えられなかった。

ペンを持ったままだった。持ったまま、しばらく動かなかった。置いたとき、指が開くのに少しかかった。

彼は、白紙を丸めて、捨てた。

捨ててから、拾って、シュレッダーにかけた。

◇

その週のはじめに、絵葉書が一枚、事務所に届いていた。

消印はジャカルタ、六月の末である。写真は港だった。コンテナが積んである。緑と、赤と、色の褪せた青。

裏に、三行あった。

——登録局へ行きました。窓口は二階です。紙が、思っていたより多いです。

——二月の下旬は、こちらは雨季でした。

——暑いです。

差出人の名前は、書いていなかった。

船越は、二行目を読んだ。

二月の下旬に、東京に何が届いていたかを知っている人間は、多くない。

彼は、その葉書を、手帳のうしろに挟んだ。

◇

深夜一時。

携帯が鳴った。

非通知だった。

彼は、少し迷って、出た。

「もしもし」

返事はなかった。

雑音がした。空調の音のような、外の音のような、区別のつかない音だった。

「柏木さん」

彼は、言わなかった。

言わずに、待った。

十七秒だった。

電話は、切れた。

彼は、携帯を机に置いた。

かけ直さなかった。

◇

七月末、鳳和物産は、過年度の決算の訂正を発表した。

対象は二期。金額は、連結の売上高で見れば大きくない。前渡金勘定からの一時的な流用と、社内在庫の帳簿上の振替について、会計処理を訂正するものだった。

同じ日に、内部統制報告書の訂正と、再発防止策の公表があった。

株価は、二日間で四パーセント下がり、三週間で戻った。

金属本部長は、翌年の株主総会で退任した。理由は、任期満了と説明された。

戸倉健の名前は、どこにも出なかった。

船越は、その発表を、事務所の画面で読んだ。

読んで、思った。

信用状で取った九千九百万ドルは、銀行が払った。

だが、その九千九百万ドルが取れた理由——貨物が実在したという事実——を作った金は、鳳和自身の別の勘定から来ている。

銀行から取った金を、株主と、次の担当者が、別の形で払い直す。

彼は、画面を閉じた。

39 廊下

九月十二日。

長瀬・青柳法律事務所、二十九階の廊下。

会議室から会議室へ移動する途中で、船越は、企業法務のシニアパートナーの一人に呼び止められた。

名前は、ここでは書かない。事務所に十四年いて、青柳の次の世代の筆頭と目されている人である。

「船越先生」

「はい」

「鳳和、終わったんだって」

「終わりました」

「三億二千万ドルだと聞いたよ」

「はい」

その人は、廊下の窓のほうを向いた。

「四億七千万から落としたんだろう。大したものだ」

「相手方にも事情がありましたので」

「そうだろうね」

彼は、少し笑った。

「船越先生」

「はい」

「君は、賢いことをしたな」

船越は、その言葉を聞いた。

聞いて、二秒、何も言えなかった。

賢い、という言葉には、いくつかの意味がある。

うまくやった、という意味がある。

そして、自分の身の置きどころを、正確に計算した、という意味がある。

その人は、後者の意味で言った。

言い方でわかった。

「……ありがとうございます」

「いや、褒めているんだ」

彼は、そう言って、行った。

船越は、廊下に残った。

窓の外は、九月の丸の内だった。

彼は、その場で、自分に一つだけ聞いた。

計算に入れていたか。

入れていた。七月十一日の夜に、白紙に四番目として書いた。

入れていたことと、それが理由だったことは、違う。

そこから先が、出てこない。

彼は、窓に映った自分を見た。

書類の束を、胸の高さで抱えている。

角が、揃っていた。

いつ揃えたのか、覚えていなかった。

次の会議室のドアが開いて、誰かが彼の名前を呼んだ。

彼は、返事をして、歩き出した。

◇

十月一日。

事務所の内部の人事が発表された。

十一月に始まる大型の案件——アジアの電力事業の再編で、事務所が三年がかりで取りに行っていた仕事である——のチーム編成が出た。

船越の名前は、なかった。

彼は、その一覧を、朝のメールで見た。

見て、二度読んで、閉じた。

◇

外す理由は、探せば、いくらでもあった。

九月に、事務所は、二〇二二年の意見書について内部の検証を始めている。委員会が三人。鳳和からの正式な照会があったわけではない。監査法人の質問に鳳和が答えるための資料を、鳳和が事務所に求めてきた。それだけである。

それだけだが、当時の担当者と、その誤りを仲裁で主張した人間は、どちらも検証の対象になる。委員会に呼ばれる側の人間を、三年がかりで取りに行った案件の主任に据えるのは、体裁が悪い。

体裁が悪い、というのは、事務所では十分な理由である。

だから、説明する必要がない。

説明の要らない理由が一つあれば、本当の理由は、言わなくて済む。

昼過ぎに、青柳の部屋へ行った。

青柳は、書類を読んでいた。

「船越君」

「先生」

「座りなさい」

船越は、座った。

しばらく、どちらも話さなかった。

青柳が、書類の頁をめくった。

「電力の件だ」

「はい」

「君は入っていない」

「はい」

「理由を聞きに来たか」

船越は、少し考えた。

「聞きに来ました」

青柳は、書類を置いた。

置いて、船越を見た。

長いあいだ見ていた。

そして、こう言った。

「そうか」

それだけだった。

船越は、待った。

青柳は、書類を取り上げて、また読み始めた。

三十秒ほど、そのままだった。

船越は、立ち上がった。

「失礼します」

「船越君」

彼は、立ち止まった。

青柳は、書類から目を上げなかった。

「鳳和の件は、上出来だった」

「ありがとうございます」

「四月にも、そう言った」

「はい」

「二度言うのは、私は好きではない」

「はい」

船越は、部屋を出た。

ドアを閉めて、廊下に立った。

理由は、付されなかった。

彼は、去年の十一月に、ICCの事務局から届いた二段落の通知のことを思い出した。

あのときも、二段落だった。

一段落目に、何をしたかが書いてある。

二段落目に、結論が書いてある。

そのあいだが、ない。

彼は、廊下を歩いた。

歩きながら、なぜか、腹が立たないことに気づいた。

腹が立たないのは、理由の見当がついているからだった。

青柳は、船越が二通の文書を使わなかったことを、知っている。

知っていて、礼を言わない。

礼を言えば、自分が守られた側であることを認めることになる。認めれば、それは、二〇二二年の意見書のときに自分が何をしたかを、認めることになる。

だから、言わない。

言わないかわりに、外す。

外すのは、罰ではない。

自分を守った人間を、そばに置いておけないというだけのことである。

船越は、自分の部屋に戻った。

机の上に、鳳和の件のファイルが、まだ二箱あった。

彼は、その箱を、書庫へ運んだ。

◇

十二月に、新しい案件が来た。

シンガポールの造船会社と、ノルウェーの船主の、建造契約の紛争である。金額は、鳳和の十分の一もない。事務所にとっては、普通の仕事だった。

相手方の文書提出は、一月の終わりに届いた。

四日目の夜、若手が部屋に来た。

「船越さん」

「なに」

「これ、たぶん、向こうの弁護士と、向こうの社長のやり取りです」

船越は、画面を見た。

助言が、そのまま書いてある。出るはずのないものだった。おそらく、添付の一枚が、別のファイルに紛れて出た。

「使えますか」

若手が聞いた。

船越は、白紙を一枚出した。

出して、書こうとして、手が止まった。

七月十一日の夜に書いた四つのうち、三と四に当たるものが、この件にはない。誰の人生も終わらない。誰も揺れない。残るのは、一と二だけである。

一と二は、使えと言っている。

彼は、白紙を裏返した。

「向こうに、電話する」

「え」

「誤って出たと思う、と伝える。返せと言われたら返す。言われへんかったら、使う」

若手が、少し考えた。

「教えなかったら、そのまま使えますよね」

「使える」

「じゃあ、なんで教えるんですか」

船越は、その問いに、答えを持っていた。持っていたことのほうが、彼には引っかかった。

「そのほうが、あとで強いからや」

言ってから、それが本当であることに気づいた。

規則の上でも、そうすることになっている。だが、彼が最初に思い浮かべたのは、規則ではなかった。

九月の廊下で言われた言葉が、まだ耳の奥にあった。

賢い。

去年の七月には、依頼者の利益と、他人の人生と、事務所の体面が、同じ方向を指していた。同じ方向を指していたから、自分の理由がどれだったかを、いまも知らない。

今度は、揃っていない。三と四がない。

それでも、答えは、二秒で出た。

二秒で出たということが、どちらの意味なのかは、わからなかった。

彼は、受話器を取った。

取る前に、机の上の書類の角を揃えていた。

今度は、揃えたことに、気づいていた。

40 終章

六年後。

十月の、光の低い午後だった。

六甲の斜面の、いちばん上の段の研究棟。四階の廊下の突き当たり。

ドアの札は、去年から変わっている。

マルコム・レニーは、三年前に死んだ。最後の一年は病院にいて、船越は月に二度、山崎の小瓶を持って見舞いに行った。看護師に見つかるたびに、レニーは自分ではなく船越のせいにした。

葬儀は、律子と同じ寺で行われた。参列者は四十人ほどで、そのうち十九人が、彼の教え子だった。

船越が母校に移ったのは、その翌年である。

理由を、彼は誰にも説明していない。

◇

同じ日の午前。

東京、大手町。

会議室に、七人がいた。

議題は、コラテラル・マネジメント契約の実務協議である。金属の在庫を担保に取る取引について、倉庫の管理と検数と報告を、専門の会社に一括して委託する。日本の商社と、国際物流会社と、法務の担当者たち。

商社側の法務から、二人来ていた。

一人は、部長職の女性である。名古屋から本社に戻って、三年になる。

もう一人は、今年からこの案件を担当している。早瀬千夏という。

学部を出て、法科大学院に二年行った。試験に受かり、修習を終えて、鳳和物産に入った。法務部で資格を持っている人間は、彼女がはじめてである。

物流会社側の担当は、四人だった。

そのうちの一人が、田淵航である。コラテラル・マネジメントの部署にいる。

彼は、学部を出て、そのままこの会社に入った。千夏がまだ試験勉強をしていた四年のあいだに、彼は現場を三か所回っている。

会議の前に、名刺を交換した。

七人が、順に立って、机を回った。

千夏と航は、四年ぶりだった。

四年のあいだ、どちらも、相手がどこにいるかを知らなかった。千夏は、航が物流に行ったことを知らなかった。航は、千夏が法科大学院に行ったことを知らなかった。

卒業のとき、どちらも、聞かなかった。

名刺には、両方とも、書いてある。

二人は、それを読んだ。

読んで、頭を下げた。

深すぎず、浅すぎない角度だった。

◇

千夏が、資料を配った。

彼女は、テーブルを回って、一人ずつの前に置いていった。

商社側の三人。物流会社側の四人。

田淵航の前で、手が止まった。

一秒よりは長く、二秒よりは短かった。

彼女は、資料を置いて、次へ進んだ。

峰岸玲奈は、それを見た。

見て、千夏のほうを見て、それから、航のほうを見た。

何も言わなかった。

議題に入った。

第一号議案は、検数報告の頻度をどうするか、である。

物流会社側の提案は、四半期に一度だった。

千夏が、発言した。

「毎月にしてください」

物流会社側の課長が言った。

「毎月は、コストが上がります」

「上がります」

「四半期でも、契約上の要件は満たします」

「満たします」

千夏は言った。

「それでも、毎月にしてください」

「理由を伺ってもよろしいですか」

千夏は、少し間を置いた。

「四半期に一度だと、間の二か月に何が起きても、記録が残りません」

田淵航が、資料から顔を上げた。

上げて、何も言わなかった。

課長が言った。

「持ち帰って検討します」

「お願いします」

峰岸は、その一往復を、記録に取った。

取りながら、一度だけ、顔を上げた。

窓の外は、大手町の秋だった。

◇

会議は、十二時十分に終わった。

物流会社側の三人は、午後に別の打ち合わせがあると言って、先に出た。田淵航だけが残って、机の上の資料を揃えていた。

千夏は、紙コップを片づけていた。

「早瀬さん」

「はい」

「下に、自販機あります」

二人は、一階まで降りた。

航は、小銭を入れて、二本買った。一本を、千夏に渡した。

千夏は、それを見た。

学生のときに飲んでいたものだった。

「まだ覚えてるんですか」

「覚えてます」

航は言った。

「四人分、毎週並べてたので」

ロビーの窓際に、椅子が二つあった。二人は、座った。

「宮下さん、東京にいます」千夏が言った。「事務所です。紛争のほうの」

「知ってます」

「黒田くんは」

「財務省です」

しばらく、どちらも話さなかった。

ロビーを、人が通った。昼の時間だった。

「田淵さん」

「はい」

「二点でしたね」

「二点でした」

「あれ、どこの二点だったか、結局わからないままです」

「わからないままです」

航は、缶を持ち直した。

「宮下さんは、たぶん、いまも数えてます」

千夏は、鞄を膝に載せた。

載せて、少し考えてから、言った。

「私、あの年の問題の付属資料、まだ持ってます」

「登録所の紙ですか」

千夏は、顔を上げた。

「なんで、それだとわかるんですか」

「空港で、鞄に入れてはったので」

「見てたんですか」

「見てました」

航は、それだけ言って、缶を飲んだ。

千夏は、しばらく黙っていた。

「あの紙、船越先生に聞いたんです。これ、誰が書いたんですかって」

「なんて言われました」

「論点かどうかは、まだ誰も決めてへん、って」

「先生らしいです」

「そのあと、六年、決まってません」

千夏は、缶を両手で持った。

「田淵さん。倉庫、行きますか」

「行きます」

「奥まで行きますか」

「行きます」

「数えますか」

「数えます」

千夏は、頷いた。

それだけだった。

二人は、名刺をもう一度は出さなかった。

かわりに、携帯の番号を交換した。

◇

夕方。

六甲の研究室のドアが、ノックされた。

「どうぞ」

入ってきたのは、宮下詩織だった。

二十代の終わりである。東京の事務所にいて、企業の紛争をやっている。今日は大阪の期日の帰りだと言った。

「先生、お久しぶりです」

「よう来たな」

研究室は、レニーがいたときと、あまり変わっていない。本棚の下の二段が日本語で、手の届く高さだけが英語である。ただ、日焼けの具合が、少し進んでいた。

詩織は、椅子に座った。

「先生、演習、まだ英語でやってるんですか」

「レニー先生ほどは徹底できてへん。学生が困ったら、すぐ日本語になる」

「先生は、昔から日本語でした」

「そうやったな」

二人は、しばらく、ムートの話をした。

今年のチームは五人で、うち三人が二年生である。問題は、また物の場所の話だと船越が言うと、詩織は笑った。

「毎年そうですよね」

「毎年や。書き方が変わるだけで、聞かれてることは同じや」

「同じですか」

「同じや。物はどこにあるか。会社の意思は誰のもんか。あとは全部、そのまわりの話や」

詩織は、鞄から、何かを出しかけて、やめた。

「先生」

「なに」

「一つ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「先生、どうして事務所を辞めたんですか」

船越は、その質問を、正面から受けた。

受けて、答えなかった。

彼は、椅子を回して、窓のほうを向いた。

窓からは、坂の下の街と、その向こうの港が見える。

十月の光は、低い。海の上に、平たく伸びている。

港には、コンテナが積んである。緑と、赤と、色の褪せた青。ガントリークレーンが三基、動いている。船が一隻、岸壁に着いていて、横腹からコンテナを積み込んでいる。

彼は、それを見ていた。

詩織も、答えを待たなかった。

彼女は、船越の視線の先を、一緒に見ていた。

しばらくして、船越が言った。

「中に何が入っているのか、外からは分からへん」

詩織は、頷いた。

頷いて、何も聞かなかった。

窓の外で、クレーンが一基、止まった。

コンテナが一つ、宙で、少しだけ揺れていた。

◇

翌年の、十一月の最初の日曜日。

律子と同じ寺は、六甲の東の斜面にある。石段が四十段あって、上りきると、下に街が見える。

早瀬千夏と、田淵航が、その石段を上った。

千夏が、花を持っていた。航が、水の桶を持っていた。

墓は、上から三列目にある。マルコム・レニーの名は、律子の名の隣に、片仮名で彫ってあった。

寺の人が、通りかかって言った。

「生前に、ご自分で決めはりました。ローマ字は要らん、と」

「そうですか」

「六甲の先生も、月に一度、来はりますよ」

千夏は、頭を下げた。

その日は、来ていなかった。

◇

二人は、水をかけた。花を替えた。

線香に火をつけるのに、風で三度かかった。

千夏が、手を合わせた。

合わせて、少し長かった。

離してから、彼女は言った。

「先生」

石は、返事をしない。

「ご報告に上がりました」

彼女は、そこで一度、航のほうを見た。

航は、まっすぐ前を見ていた。

「先月、籍を入れました」

風が、下から上がってきた。

「式は、しません。二人とも、そういうのが得意ではないので」

千夏は、少し笑った。

笑ってから、続けた。

「先生。はじめてお会いした日に、なんでここにいるんですかと聞かれて、私、答えられませんでした」

彼女は、少し黙った。

「いまも、うまくは言えません。ただ、あのとき答えられなかったから、ここまで来た気がします」

航は、何も言わなかった。

言わずに、桶を持ち直した。

持ち直してから、彼も、手を合わせた。

彼が何を言ったのかは、千夏にも聞こえなかった。

◇

石段を降りた。

途中で、千夏が立ち止まって、下を見た。

街の灯りと、その向こうに、港が見えた。

コンテナが積んである。緑と、赤と、色の褪せた青。

彼女は、少しのあいだ、それを見ていた。

田淵航は、十歩うしろではなかった。

二人は、石段を降りた。


付録

付録一・人物

登場順ではなく、所属ごとに掲げる。すべて架空の人物である。

長瀬・青柳法律事務所(東京・丸の内)

  • 船越 亮平(ふなこし・りょうへい) 四十二歳。パートナー候補。神戸長田の生まれ、靴工場の息子。六甲大学法学部でレニーの演習に入り、四年でヴィス・ムートに出場。修習と東京の事務所を経て英系マグナス・ブレイクへ移り、同事務所で十二年(シンガポール・ロンドン駐在)。三十九歳で青柳に請われて移籍。本件の主任代理人。
  • 青柳 宗一郎(あおやぎ・そういちろう) 六十三歳。シニアパートナー。鳳和物産との数十年来の関係を築いた人物。二〇一九年の融資契約交渉で仲裁条項の実質的な起草責任者を務め、二〇二二年の日本法意見書に署名した。

鳳和物産株式会社(東京)

  • 峰岸 玲奈(みねぎし・れな) 三十四歳。法務部。二〇二四年一月、東ジャワの在庫について内部報告書を書いた。最も早く疑い、最も長く無視された。
  • 戸倉 健(とくら・けん) 四十九歳。金属本部、前ジャカルタ駐在。在庫不足の発覚後、権限を超えて現物市場でニッケルを買い戻した。原資は別案件の前渡金勘定からの一時流用と、社内在庫の帳簿上の振替による。翌年四月、諭旨退職。
  • 金属本部長 峰岸の報告書に「期末の対応を優先。四月以降に検討」とコメントした人物。翌年の株主総会で退任。

Northaven Brothers & Co.(ロンドン/シンガポール支店)

  • Nathaniel Boyd(ネイサニエル・ボイド) 四十四歳。アジア商品金融部門の責任者。与信ポートフォリオの三割圧縮を指示された管理者。「私は本件で回収を最大化しないことを選んだ。それが銀行の利益だった」。

Marlowe Stanton LLP(ノースヘイヴン側代理人)

  • Victoria Thorne KC(ヴィクトリア・ソーン) 五十五歳。主任代理人、勅選弁護士。船越がマグナス・ブレイク時代に一度対峙し完敗した相手だが、彼女は覚えていない。
  • 柏木 凛(かしわぎ・りん) 二十七歳。東京オフィス。六甲大学ヴィス・ムート・チームの出身で、レニーと船越の双方の教え子。

仲裁廷(ICC・仲裁地シンガポール)

  • Dr. Elsa Brunner 議長。スイス。判断が早く、期日の管理が厳しい。
  • Prof. Raymond Teo 鳳和指名。シンガポール。抵触法を二十年書き続けている。
  • Sir Alistair Kemp ノースヘイヴン指名。英国、元裁判官。性質決定の争点について「敗れつつある当事者が第二の法廷を求める手段であることが多い」と講演で述べたことがある。

六甲大学(神戸)

  • Malcolm Rennie(マルコム・レニー) 七十四歳。法学部客員教授。エディンバラ出身。ハーコート・ヴェインで三十年、国際仲裁とプロジェクトファイナンス。東京オフィスの立ち上げで来日し、神戸出身の律子と結婚。五十七歳で第一線を退いた理由を、誰にも語らない。
  • 宮下 詩織(みやした・しおり) 三年。チームリーダー・弁論。ウィーンで最優秀弁論者の一人に選ばれる。のちに法曹。
  • 黒田 蒼(くろだ・あおい) 三年。書面担当。精度は高いが人前で語れない。のちに財務省国際局。
  • 早瀬 千夏(はやせ・ちなつ) 二年。英語弁論。法的直観は鋭いが、聞かれない。学部卒業後、法科大学院を経て弁護士となり、鳳和物産法務部に入る。同部で資格を持つはじめての人間。
  • 田淵 航(たぶち・わたる) 二年。ロジ担当。実力に自信はないが、誰よりも人を見ている。学部卒業後、そのまま国際物流会社へ。コラテラル・マネジメント部門。

その他

  • アレックス フェンウィック(Fenwick Inspection Services Pte. Ltd.)の検数員。「私は検数屋です。数えたものを書く以外に、私が売れるものはありません」。
  • PT. Sembara Logistik Nusantara(センバラ) 東ジャワの倉庫会社。同一の在庫について複数の与信のために重複して預り証明を発行し、記録を残さずに現物を搬出していた。代表は二〇二四年三月に出国。会社に見るべき資産はない。作中の紛争の原因を作りながら、当事者としては一度も登場しない。

付録二・用語

作中に出てくる用語のうち、実在の制度に関わるものを、本作の文脈に即して簡単に説明する。厳密な定義ではない。

準拠法と抵触法

  • 当事者自治 契約の当事者が、その契約を規律する法を自ら選ぶことができるという原則。ニューヨーク州では、一般債務法5-1401条が、一定額以上の取引について、州と関連がなくてもニューヨーク州法を選べることを認めている。
  • 所在地法(lex rei sitae) 物権の成立・対抗要件・優劣は、その物が所在する地の法によるという原則。契約書に署名していない第三者に対する主張であるため、当事者の合意では動かせない。
  • 設立準拠法 会社の代表権限や機関の権限は、その会社を設立した国の法によるという考え方。本件では日本の会社法。
  • 性質決定 ある争点を、契約の問題として見るか、物権の問題として見るかといった、法的な性質の振り分け。振り分けが変われば適用される法が変わるため、しばしばそれ自体が争点になる。
  • voie directe 仲裁廷が、いずれかの国の抵触法規則を経由せずに、適切と判断する法規範を直接に適用する手法。ICC仲裁規則第21条1項は、当事者の合意がない場合にこれを認めている。

仲裁の手続

  • ICC仲裁 国際商業会議所の規則による仲裁。仲裁地・準拠法・仲裁人の数などは当事者が定める。
  • 緊急仲裁人 本案の仲裁廷が構成される前に、緊急の保全措置を求めるための制度。ICC規則では、原則としてファイル送付から十五日以内に命令が出される。
  • 付託事項書(Terms of Reference) 事件の入口で作られる書面。当事者、請求の要旨、仲裁地、準拠法、そして——仲裁廷が不適当と考えない限り——判断すべき争点の一覧が入る。
  • 文書提出手続 相手方の保有する文書の提出を求める手続。国際仲裁ではIBAの証拠規則が事実上の標準として参照され、要求・関連性の説明・異議・反論・仲裁廷の決定が一つの表の上で進む。
  • 仲裁人の忌避 独立性・公平性に疑いがあるとして仲裁人の交代を求める申立て。ICCでは仲裁裁判所が決定し、原則として理由は付されない。選任時にすでに開示されている事情を根拠とする申立ては、通りにくい。それでも申し立てられることがあるのは、結果より、異議を述べた記録のほうが必要な場面があるからである。
  • 代理人の追加 当事者が用いる代理人は一事務所に限られない。論点ごとに別の事務所を起用し、仲裁廷とICC事務局に代理人の変更を通知したうえで、連名で書面を提出し、審問での担当を分けることができる。仲裁廷は、その追加によって新たな利益相反が生じないかを見る。
  • 仲裁判断の審査 ICC規則の下では、仲裁廷が作成した判断書の草案が、発出前にICCの仲裁裁判所の審査に付される。
  • 取消しと執行 仲裁判断の取消しは、仲裁地の裁判所が判断する。他国での執行は、ニューヨーク条約に基づく。
  • 既判力 一度判断された事項を蒸し返せないという効力。判断されなかった事項に生じないのが原則だが、「判断の必要がない」と述べたこと自体が理由中の判断であるという主張は、なお成り立ちうる。

信用状と貿易金融

  • 信用状 買主の依頼により銀行が発行し、売主が定められた書類を呈示すれば、銀行が支払を約束する仕組み。売買契約とは別個・独立の取引として扱われる。買主が代金を銀行に預けておく仕組み(エスクロー)ではない。払うのは銀行自身であり、銀行は支払後に買主から回収する。したがって、支払を拒んだ銀行に対して代金を求める相手方は、買主ではなく銀行である。
  • 開設依頼人・受益者・発行銀行 信用状の三者。買主が発行銀行に信用状の開設を依頼し(開設依頼人)、書類を呈示して支払を受けるのが売主(受益者)である。本作では、同一の銀行が上流の貸付人と下流の発行銀行を兼ねている。
  • 独立抽象性 信用状に基づく銀行の支払義務は、売買契約の履行状況から切り離されるという原則。銀行は書類だけを見て、貨物の実際を見ない。詐欺の抗弁は、この原則の狭い例外である。
  • UCP600 信用状統一規則。国際商業会議所が定める、信用状取引の実務規則。
  • 五銀行営業日 UCP600の下で、発行銀行が呈示された書類を審査できる期間。
  • 不一致通知 書類が信用状の条件に適合しないとして支払を拒絶する通知。一回限りで、すべての不一致を、上記の期間内に述べなければならない。これを怠った銀行は、書類が適合していないという主張をする権利を失う。
  • 詐欺の抗弁 書類が形式上は適合していても、原因取引に詐欺があるときに、銀行が支払を拒みうるという例外。ニューヨーク州ではSztejn判決以来の判例法が統一商事法典5-109条に成文化されている。当該信用状取引そのものにおける詐欺を要すると解されており、範囲は狭い。

在庫融資と担保

  • ボロイング・ベース型与信 担保となる在庫や売掛債権の評価額に応じて、借入可能額が上下する与信の形式。
  • Borrowing Base Certificate 上記の評価額を定期に算定して証明する書面。本作では検数会社が発行する。
  • 期限の利益喪失(EOD) 一定の事由が生じたときに、借入人が期限まで返済を猶予される利益を失い、残高全額が直ちに支払期日を迎えること。本作の契約では、担保の評価額が五営業日連続で残高を下回るという数量の要件によって自動的に発生する。
  • 「デフォルト」という語について 融資契約でいうEvent of Defaultは、契約が「これが生じたら期限が到来したものとする」と定めた事由であって、弁済を怠ったことを意味しない。日本語の「デフォルト(債務不履行)」と重ならない場面が多く、本作の借入人も一日も遅滞していない。英語のacceleration(加速)は、この効果、すなわち期限の利益喪失を指す言い換えであり、別の手続ではない。
  • 二重の預り証明 倉庫会社が、同一の在庫について複数の与信のために別々の在庫証明を発行すること。紙の数だけ担保があるように見えて、物は一つしかない。在庫融資における典型的な事故の形である。
  • フィデューシア(Jaminan Fidusia) インドネシアの譲渡担保に類する担保制度。一九九九年法律第四二号による。登録局への登録が第三者対抗の要件であり、登録に際して担保目的物が適切に特定されている必要がある。
  • コラテラル・マネジメント 在庫担保の実効性を確保するため、倉庫の管理・検数・報告を専門の会社に委託する実務。

会社法

  • 多額の借財 会社法362条4項2号により、取締役会の決議を要するとされる事項の一つ。子会社の借入に対する親会社の包括保証も、規模によってはこれに準じて扱われうる。
  • 決議を欠く行為の効力 取締役会の決議を経ないでされた重要な業務執行に当たる取引は、原則として有効であり、相手方が決議を経ていないことを知り、または知ることができたときに限って無効とされる。立証責任は無効を主張する側にあり、無効の主張適格は原則として会社の側にある。

模擬裁判

  • ヴィス・ムート ウィーンで毎年開かれる国際商事仲裁の模擬裁判大会。世界から三百を超える大学が参加する。問題はCISGを基礎とし、手続の論点と実体の論点で構成される。
  • CISG 国際物品売買契約に関する国際連合条約。第4条は、契約の有効性と、契約が物品の所有権に及ぼす効果を、適用範囲から明文で除外している。代理権限についても、条約は規律していない。

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