白焼

本書はフィクションである。印刷・紙器の実務に用いられる語や工程を素材としているが、本書に描かれる制作事務所、酒蔵、菓子屋、印刷所、美術館、および学校は、すべて創作である。青硯社、常世酒造、川辺印刷をはじめとする組織、店、島、および登場人物は、すべて架空であり、実在のいかなる組織・個人とも関係がない。作中に現れる色の指定、配合、日程、価格は、いずれも物語のためのものであって、実務上の基準を示すものではない。


一 棚

辞めようと思いはじめたのは、正月が明けてすぐのことだった。

きっかけがあったわけではない。仕事始めの朝、自転車で事務所へ向かう途中の踏切で、遮断機が上がるのを待ちながら、あと何回ここで待つのだろう、と思った。思ったのはそれだけで、数えてみる気にもならなかった。踏切が開いて、ペダルを踏んで、そのまま事務所に着いた。

それから半年、その考えは郡司誠三の中で、減りもせず増えもしないまま居座っている。誰にも言っていない。妻にも言っていない。言うほどの形になっていない、というのが自分での言い分だったが、形にしないようにしているのかもしれない、とも思う。六十四歳である。辞めても、誰も不思議には思わない年だ。

杉並の家から千駄ヶ谷まで、自転車で四十分かかる。電車のほうが早いのは知っている。駅までの距離を入れても、二十五分で着く。それでも郡司は、三十年ほど、この道を自転車で走ってきた。理由を訊かれると、好きなので、と答える。訊かれることは、もうあまりない。

神社の脇を抜けるところに、欅が二本ある。その下だけ、夏でも空気が冷たい。郡司はそこで一度ペダルを止めて、惰性で進む。木の影が顔の上を過ぎていくあいだ、何も踏まない。影を抜けたら、また踏む。これも三十年やっている。

途中に踏切が一つあって、朝はたいてい二回待つ。雨の日は道順を変えるので、四十分が五十分になる。

◇

事務所は、裏通りに面した三階建ての古い賃貸ビルにある。一階が駐輪場と倉庫、二階が制作、三階が資料室と会議室。隣は古い布団屋の倉庫で、向かいは月極の駐車場になっている。

有限会社青硯社。コーポレートを入れて十四人の事務所で、創業して四十七年になる。広告代理店を通さずに、客と直に取引をしてきた。地方の酒蔵や和菓子屋や線香の老舗のパッケージとポスター、美術雑誌の誌面、公立の美術館の展覧会まわり。扱うものの側にすでに長い時間が積もっている仕事ばかりで、十年、二十年続く取引は珍しくない。四十年続いているものもある。

一階のシャッターは、朝、半分だけ上げる。全部上げると、風の強い日に音が鳴る。郡司は腰をかがめてその下をくぐり、いちばん奥に自転車を停めた。前の籠には、雨の日用のカバーが丸めて入れてある。

鍵を抜いて、階段を上がった。木の階段は、上のほうで二度鳴る。

二階には机が九つある。窓は北向きで、午前中の光が安定している。入口の引き戸を入ってすぐ右が更科の机で、奥へ行くほど窓から遠くなる。窓際に一つ、色を見るための机が空けてあって、それは誰の机でもない。郡司は三十年、刷ったものが来るとそこへ持っていって見てきた。蛍光灯の下と窓際では、同じ紙が違って見える。どちらが正しいというより、窓際で見ると決めておけば、去年見たものと今年見るものが同じ条件になる。それだけのことだと郡司は思っているし、人に説明したこともない。

八時半に、更科冬子が来た。

「おはようございます。今日も暑いですね」

「暑い」

更科は鞄を置いてパソコンを開き、それから流しでやかんに水を入れた。事務所に給湯室はなく、部屋の隅に流しとガスコンロが一つあるだけである。やかんを火にかけて、湯が沸くのを待たずに机へ戻り、もう電話の子機を耳に当てていた。

三十八歳で、ここに来て十四年になる。美術館の仕事は、ここ数年は彼女が一人で回している。郡司が口を挟むことは、ほとんどない。挟む必要がないからで、それが更科の仕事の出来を一番よく表していると郡司は思う。

九時十分に電話が鳴って、更科が取った。二言三言話して、切った。

「印刷所です。図録の紙、来週の火曜に入るそうです」

「早いね」

「先月から押さえてもらってたので」

更科は手元の紙に、火曜、と書いて丸で囲んだ。日程を書くときの更科は、いつも定規で線を引く。電話をしながらでも引く。

やかんが鳴った。更科は立って火を止め、自分のぶんだけ茶を淹れて、また電話を取った。

◇

昼前に、郡司は三階へ上がった。

三階は暑い。エアコンは二階までで力を使い切るらしく、三階の吹き出し口から出てくる風はいつもぬるい。手前が資料室、奥が会議室で、あいだはガラスの引き戸一枚で仕切られている。郡司は資料室の窓を開けた。外は隣のビルの外壁で、手を伸ばせば届きそうなその隙間に、室外機と、誰かが置いたまま忘れた植木鉢がある。土はとうに乾いて、表面が白くなっている。

棚は、三方の壁にある。案件ごと、年ごとに紙の束が縦に立っていて、手前が新しく、奥へ行くほど古い。古い束は、背に書いたマジックの色が抜けて、字が読みにくくなっている。取引が終わった案件の束も、そのまま立っている。捨てる決まりが無いからで、残す決まりも無い。誰かが残そうと思ったものが残り、誰も思わなかったものは、いつのまにか無くなっている。

常世酒造の棚は、右の壁の中ほどにある。

山陰の酒蔵で、創業三百年と聞いている。四十年前から年に二枚、春と秋に一枚ずつ、青硯社がポスターを作ってきた。郡司が入ったときには、もう十年ほど続いていた。蔵の担当者は三人替わって、いまは四十代の専務が電話をかけてくる。事務所の側は、先代の社長から里見へ、描く手は前の人から郡司へ替わった。変わらないのは、年に二枚という数と、地に使う色だけである。

郡司は上から二段目の束に手をかけて、引き出した。厚い。両手で受けて、下ろすときには膝を使う。背に番号が振ってあって、いちばん手前が八十三。今年の秋のものが、八十四枚目になる。

床に置いて、紐を解いた。

台紙に貼った刷り上がりを、一枚ずつめくる。めくるたびに、乾いた音がする。常世は四十年、同じ厚みの紙で刷ってきたから、音も同じはずなのだが、古いものほど高い音がする。乾いているぶんだけ高いのだろうと郡司は思っているが、確かめたことはない。

八十年代のものは、縁が茶色くヤケていて、刷ったときの白はもう出ていない。郡司はこれを、ずっとそのままにしてきた。ヤケを戻す手立てがあるわけではないし、戻したところで、刷ったときの白がどうだったかを知っている者はもういない。郡司も、写真のように覚えているわけではない。

首から汗が落ちそうになったので、腕を引いた。夏に束を見るときは、腕を紙の外に出しておく。汗が落ちると、そこだけ紙が波打って、乾いても戻らない。

十枚ほどめくって、手を止めた。

常世を見るときは、去年の一枚を隣に置く。去年の一枚の隣には一昨年が来る。今年のものが去年のものと並んでおかしくなければ、それでいい。郡司は三十年、そうやって常世を見てきた。それ以外の並べ方をしたことはないし、しようと思ったこともない。四十年分を端から端まで並べてみたことも、一度もない。並べる理由がなかったからだ。

だから、要るのは去年と一昨年の二枚だけである。郡司はその二枚を抜いて、指で縁を弾いた。新しい紙の、低い音がした。

束を紐で結び直した。結び目は縦にする。横にすると、隣の束に引っかかる。

◇

もう一つ、探すものがあった。

都内の小さな和菓子屋が、三年に一度、化粧箱と掛け紙の意匠を新しくする。その取引の綴じである。金額は小さく、事務所の中で気にかけている者もほとんどいないが、今年がちょうど三年目に当たる。そろそろ電話が来るはずだった。

菓子屋の綴じは、左の壁の下の段にある。薄いので、隣の案件の束に紛れていることがある。郡司はしゃがんで、束の背を指で一つずつ送った。

前回のぶんは、すぐに見つかった。三年前の掛け紙の校正と、貼り箱の断裁見本と、菓子屋から来たファクスが二枚。ファクスは感熱紙で、文字が薄れて飛びかけている。日付だけは、まだ読める。

その前のぶんが無かった。

前後を二度見て、上の段も見た。無い。六年前のものが無いのは、いつからなのか分からない。三年前に今回と同じように探したかどうかも、郡司は覚えていなかった。

薄いから、どこかへ紛れたのだろうと思った。探せば出てくるのかもしれないし、出てこないのかもしれない。三年前のものがあれば、仕事はできる。立ち上がって、膝の埃を払った。

動くと、窓から入る光の中に埃が見える。上から下へ、ゆっくり降りていく。窓を閉めて、二枚を持って階段を降りた。

◇

二階に戻ると、更科がまた電話をしていた。美術館の件で、会期の初日と、内覧会の日と、刷り物の納品の日を、相手と一つずつ突き合わせている。電話をしながら紙に線を引いて、線の上に印を打っていく。

自分の机に二枚を置いて、椅子に座った。

少しして、里見が三階から降りてきた。

里見章介は五十五歳で、数年前に父親からこの事務所を継いだ。郡司とは同僚として過ごした時間のほうがずっと長く、いまでも郡司を、さん付けで呼ぶ。

「明日、来るんだよね」

「二人、来ます」

「郡司さんのほうで、男の子のほうを見てもらっていい?」

「いいです」

「それと、常世。今年の秋も頼むって、電話があった。いつもどおりで、って」

「はい」

里見はそれだけ言って、自分の机へ行った。話し方は、継ぐ前から変わらない。用件を三つに割って、三つとも短く言う。里見の机は、窓からいちばん遠いところにある。継いだときにそこへ移った。前は、窓際にいた。

いつもどおりで、と郡司は口の中で繰り返した。常世の専務は毎年そう言う。先代の専務もそう言った。四十年、いつもどおりで来ている。

更科が電話を切って、椅子をこちらへ回した。

「郡司さん、明日の貸与のパソコン、二台とも設定終わってます?」

「一台は終わってる」

「もう一台、私がやります。共有の権限に、去年のインターンのアカウントが残ってたので、消しときますね」

「頼む」

インターンは毎年来る。美大の三年生が二人、六月から八月までの二か月。去年も来たし、おそらく来年も来る。事務所の誰も、今年の二人が特別だとは思っていないし、郡司もそうだった。

去年の二人の名前を思い出そうとして、郡司は途中でやめた。顔は浮かぶ。名前は出てこない。

◇

翌日、二人が来た。

岸悠真は十時の少し前に来た。背が高く、リュックの肩紐を両方ともかけている。数分遅れて、名取ひかりが来た。小柄で、布の手提げに大学ノートの角が見えていた。二人とも同じ美大の三年で、学科が違う。

「グラフィックです」

「私は工芸です。紙のほうを少しやっていて」

里見が三階から降りてきて、二人の前に三十秒ほど立った。

「二か月、いてください。困ったら、更科か郡司に言ってください」

それだけ言って、また上へ戻っていった。岸と名取は、戻っていく背中に向かって頭を下げた。下げ終わるころには、里見はもう階段の上にいた。

席は、窓寄りに二つ空けてあった。もともとは打ち合わせ用の机で、朝のうちに郡司が、上に積んであった見本帳を片づけた。見本帳をどけると、天板に日焼けの跡が四角く残っていた。

貸与のノートパソコンを渡して、共有フォルダの場所と、ファイルの名前の付け方を説明する。名取には更科が、岸には郡司が説明した。名取は更科の言うことを一つずつノートに書き、書き終わるまで画面に触らなかった。岸は画面を見ながら聞いていて、郡司が言い終わる前に、もう自分でフォルダを開いていた。

「ここ、案件ごとに年で切ってあるんですね」

「そう」

「二〇一九年のところで、名前の付け方が変わってます?」

「変わってる。その年に決め直した」

岸はそれ以上は訊かなかった。開いて、閉じて、次を開いた。スクロールが速い。画面の中を、何年分もの仕事が上へ流れていく。郡司には、その速さで何かが見えているのかどうか分からなかった。見えていないとも言い切れなかった。自分が四十年分の束を十枚めくって閉じるのと、どこか似ている気もした。

名取のほうは、更科の説明が終わってから、ノートを見返して何本か線を引き、それから初めてフォルダを開いた。

そのあと郡司は、二人に電話の取り方を教えた。三つある。事務所の名前を先に言うこと。相手の名前を紙に書くこと。分からないことは、分かる人に代わること。

「代わる人がいないときは、どうするんですか」

岸が訊いた。

「かけ直すと言って、番号を聞く」

名取は、三つとも、それから岸への答えも書き取った。

十一時に、紙屋の営業が来た。月に二度ほど顔を出して、新しい見本帳を置いていく男である。

「郡司さん、これ、去年出たやつの厚いのが出ました」

「置いといて」

「常世さん、今年もまだ同じ紙ですか」

「同じ」

「四十年ですもんね」

営業は笑って、見本帳を置いて帰っていった。見本帳は更科が受け取って、棚に立てた。棚にはそういう見本帳が三十冊ほど並んでいて、古いものには、もう作られていない紙が載っている。

◇

昼前に、更科が二人を連れて一階の倉庫を見せに行った。郡司も、ちょうど下へ用があったので、あとからついていった。

倉庫には、紙の耳と、断裁の落とし屑と、貼り箱の芯の余りが、段ボールに分けて置いてある。

「これ、何ですか」

名取が段ボールを覗いた。

「余り」

「捨てないんですか」

「たまに使うので」

たまに、がいつなのかは、更科も言わなかった。郡司も知らない。ただ、ここ数年で誰かがこの箱から何かを取り出したのを、二度ほど見た覚えがある。二度とも、使ったのは更科だった。

◇

午後、郡司は岸に、最初の仕事を渡した。

去年の常世の春の一枚を、そのまま組み直せ、というものである。

「同じものを、ですか」

「同じもの」

「同じにならなかったら、どうするんですか」

「そこを見る」

岸は一時間半でやった。出力して、去年の刷り上がりの横に並べて、郡司を呼んだ。

文字は合っていた。合っていないのは、瓶の写真の位置がほんのわずかに下がっていることと、下の帯の色だった。帯は、地色から作る色である。

「なぜ違うんでしょう。同じ数字を入れたんですけど」

「元のデータの作り方が違う。昔のは、途中で手で直してある」

「じゃあ、直しますか」

「直さなくていい。並べると違うのが分かる、ということが分かればいい」

岸は首を傾げたが、何も言わずに、出力した紙を机の脇に置いた。

郡司は、自分でもうまく言えていないことを分かっていた。並べれば分かる。けれども、何が分かるのかを先に言えと言われたら、郡司には言えない。言えないまま三十年やってきて、困ったことはなかった。困らなかったのは、隣に誰もいなかったからかもしれない、と、その日初めて思った。

◇

夕方、二人が帰ったあとで、更科が郡司の机に来た。

「岸くん、速いですね」

「速い」

「名取さんは、書きますね」

「書くね」

「どっちも、去年の子たちより」

更科はそこで言葉を切った。去年より、どうなのかは言わなかった。そのまま自分の机に戻っていった。

去年と一昨年の常世を窓際の机に立てかけて、電気を消した。そうしておけば、朝いちばんに目に入る。

一階へ降りて、半分だけ上がったシャッターの下をくぐった。外はまだ明るい。向かいの駐車場は、この時間から埋まりはじめる。

帰りは、行きと同じ道を逆に走る。踏切は、夕方のほうが待たない。欅の下で、またペダルを止めた。影を抜けるまでのあいだに、今年の秋の一枚のことを考え、それから、八十四という数のことを考えた。八十五も、八十六も、この先に来る。そのうちのいくつを自分が見るのかは、考えなかった。

二 二十案

月曜の朝は、九時半に短い集まりがある。

集まりといっても、里見が案件を読み上げるだけである。二階の真ん中に立って、紙を一枚持って、上から順に読んでいく。読まれた案件の担当が、一言返す。五分で終わる。郡司が入ったころは先代の社長が同じことをしていて、そのころは十五分かかった。先代は、一つ読むたびに何か一つ注文をつけた。里見は何もつけない。

「常世、秋。郡司さん」

「ラフ、今週から」

「菓子屋の箱。そろそろ三年」

「電話待ちです。来たら見積り出します」

「美術館。更科さん」

「図録、今週中に紙を決めます。サインは来週から」

「あと、インターン二人。八月まで。よろしく」

それで終わりだった。岸と名取は、その日は立ったまま聞いていた。椅子を持ってくるものだと知らなかったからで、翌週からは二人とも自分の椅子を転がしてきて座った。

窓の外は梅雨の晴れ間で、朝のうちだけ光が強い。昼には曇ると、朝のラジオの天気予報が言っていた。

◇

集まりのあとで、郡司は岸を窓際の机に呼んだ。机には、先週三階から下ろした去年と一昨年の常世が立てかけてある。

「今年の秋の一枚。これと並べて、おかしくないものを作って」

岸は二枚の前に立って、しばらく眺めた。瓶が真ん中にあって、下の三分の一ほどが地の色だけになっている。文字は縦に組んであって、蔵の名前がいちばん大きい。二枚は、よく似ていた。似ているが、同じではない。瓶の形が違う。去年は四合瓶で、一昨年は一升瓶だった。

「並べて、というのは、実際に店とかで並ぶんですか」

「並ばない。並べて見るだけ」

「見るのは、郡司さんが」

「そう。あと、里見さん」

岸は頷いて、スマートフォンを出して二枚を写真に撮った。角度を変えて、もう一度撮った。席に戻って、パソコンに取り込むまで、一分もかからなかった。

「色、ここから拾っていいですか」

「拾って。ただ、その色は最後に指定し直す」

「指定し直す、というのは」

「刷るときは番号で指定する。写真から拾った色は、刷る色じゃない」

「なるほど」

岸はそう言ったが、分かったという顔ではなかった。郡司もそれ以上は言わなかった。言えば長くなるし、長く言ったところで、刷ったものを見るまでは分からない。自分も最初はそうだった。最初に教わった人は、何も説明しなかった。刷り上がってきたものを、黙って郡司の机に置いただけだった。

◇

翌朝、郡司が事務所に着くと、シャッターの前に岸が立っていた。

「早いね」

「電車、一本早くしました」

「鍵は、更科さんが持ってる。八時半」

「あ、はい」

岸は、シャッターの前でもう三十分待つことになった。郡司は自分の鍵で通用口を開けて、岸を中に入れた。郡司も鍵を持っている。持っていることを言い忘れただけだった。

「言ってくださいよ」

岸は笑っていた。郡司もつられて笑った。笑ったのは、自分でも意外だった。

その日から、岸は毎朝少し早く来るようになった。空は薄い雲に覆われていて、日差しはなく、湿気だけが肌に貼りついた。

午後、岸は画面に向かっていた。郡司は自分の机で、別の仕事の校正を見ていた。三時ごろ、岸が一度席を立って、窓際の去年の一枚を見に来た。二十秒ほど見て、黙って席に戻った。プリンターが動きはじめたのは、その少しあとである。動きはじめると、しばらく止まらなかった。

プリンターの音を聞きながら校正を見ていた。三十年前、自分が一枚のラフを引くのに半日かけていたことを思い出した。前の人は一日かけていた。岸が何枚出しているのか、音だけでは分からなかった。

◇

翌日の昼前、岸が紙の束を持ってきた。

「二十案あります」

束を受け取ると、温かかった。プリンターから出てきたばかりの紙は温かい。その温かさは、机に置いて三十秒もすると消えてしまう。

束を机に置いて、上から順に見ていった。岸は机の横に立ったままでいる。

構図は、どれも成り立っていた。文字の置き方も、大きく外していない。学校で習うことはきちんと習っている、という並びである。地色には、去年の一枚から拾ったらしい色が当ててあって、画面から出したものとしては、かなり近い。

三枚目は、瓶を大きく入れて、下の三分の一を地色だけにしていた。地色の面積は、常世でいちばん広かった年より、さらに広い。

六枚目は、瓶を切って、肩から上だけにしていた。八十三枚のうち、瓶を切ったものは二枚しかない。二枚とも三十年以上前で、郡司が来る前のものだった。岸はそれを知らずに切っている。知らずに切って、昔の誰かと同じところに行き着いている。

九枚目は、文字が横に組んであった。常世は八十三枚とも縦である。

十四枚目と十五枚目は、ほとんど同じものだった。文字の大きさが一段違うだけで、岸は二枚とも出していた。

二十枚目は、地色を二段濃くしていた。そこで一度手を止めて、その一枚を窓際へ持っていき、去年の一枚の横に置いた。置いて眺め、元に戻した。

速い。それは認めるしかなかった。二十枚のうち、十枚は、郡司が一週間かけて引いても同じくらいのところに来る。その十枚が、一日で出てくる。郡司は、否定の言葉を探そうとしている自分に気づいて、探すのをやめた。探して見つかる種類のものではなかったし、見つけたところで、それは本当のことではない気がした。

最後までめくって、郡司は束を伏せた。

「自分では、どれがいいと思う」

「九番ですね。横組みの。いちばん手が早く動いたやつなんですけど」

「九番は、使えない」

「縦じゃないからですか」

「そう。八十三枚、全部縦」

「全部ですか」

「全部」

岸は、へえ、と言った。残念そうではなかった。知らなかったことを一つ知った、という顔だった。

郡司は、二十枚のうちから四枚を抜いて、手前に並べた。三枚目、七枚目、十一枚目、十八枚目。残りの十六枚は揃えて、端を机で叩いた。

「この四つ」

「他のは、何が違うんですか」

「他のは、うちがやる仕事じゃない」

言ってから、答えになっていないと自分でも思った。岸はノートを出しかけて、やめた。頷いて、四枚を持って自分の席へ戻っていった。

伏せた十六枚をもう一度手に取って、上から三枚だけめくった。めくって、揃え直して、置いた。十六枚は、その日のうちに紙の回収箱へ入れた。裏が白いので、半分は裏紙にした。裏紙は、電話のメモに使う。岸の二十案の裏に、その週だけで郡司は七件の電話番号を書いた。

◇

隣の机では、更科が名取に、逆算の話をしていた。

更科は紙を一枚出して、定規で横に長い線を一本引いた。右端に、納品、と書く。そこから左へ、印刷所の日数、色校の往復、入稿、責了と、印を打っていく。

「この線が、今日から納品までの日付。右から左へ決めていくの。左から決めると、必ず足りなくなるので」

「入稿は、何日前ですか」

「印刷所と紙による。この仕事は十二営業日」

「営業日、というのは」

「土日を抜いた日数。あと、お盆とお正月は別に見る。三月の下旬も印刷所が混むから、一日足す」

「この確認は、誰に取るんですか」

「文字の確認は先方の担当。色は里見さん。日程は私」

名取は、それを全部書き取った。書き取りながら、自分でも線の上に印を打っていく。更科は、名取の印が自分のものと一日ずれているところを指で押さえて、そこだけ直させた。

「これ、私も一枚作っていいですか。別の仕事のぶんで」

「作って。作ったら見せて」

郡司は、隣でそれを聞いていた。自分は岸に、並べて見ろとしか言っていない。更科は、右から決めろ、と理由まで言う。どちらが正しいという話ではないのだろうと郡司は思った。思ったが、名取のノートが一日で何ページも埋まっていくのを見ると、少し落ち着かなかった。

その週、更科は名取に、図録の索引を組ませた。作品の名前と頁の数字が二百行ほど並ぶ。揃えることだけが要る仕事である。

名取は二日かかった。二日目の夕方に更科が見て、六か所直した。どれも、字の頭か数字の桁が揃っていないところだった。

「これ、私、気づけなかったです」

「二百行あるからね」

「更科さんは、一回で気づくんですか」

「気づかない。二回に分けて見る」

更科は自分の見方を言った。上から読むのではなく、まず数字の列だけを縦に見る。次に、名前の頭の字だけを縦に見る。二回に分ければ、どちらも一度で済む。名取はそれをノートに書いた。翌日から、名取の目の動きが変わっていた。紙を上から下へ読まずに、同じ列を何度も縦になぞっていた。

更科は同じ机の上で、美術館の仕事も回していた。秋の展覧会の、チラシとポスターと、会場のサインと、図録。会期が動かないので、日程は常世よりも硬い。それを一人で回していて、どこも遅れていない。

◇

木曜に、図録の紙の見本が届いた。更科が三種類取り寄せていたものである。更科はそのうち二枚を持って、郡司の机に来た。

「郡司さん、これ、どっちが沈みます?」

郡司は二枚を受け取って、窓際へ持っていき、斜めにして光を滑らせた。それから一枚ずつ、指で縁を弾いた。乾いた小さい音が、二枚とも同じ高さで返ってきた。

「厚さは同じか」

「同じです。塗りが違います」

「こっちが沈む」

「ですよね。私もそう思ったんですけど、一応」

名取が、いつのまにか横に来て見ていた。

「弾くと、分かるんですか」

「厚さが分かる。今のは同じだった」

「じゃあ、沈むのは、何で決めたんですか」

「見た」

名取はそれをノートに書いて、少し困った顔をした。見た、とだけ書いたノートを、郡司は横から見てしまった。自分の答えが、字になるとずいぶん頼りない。名取はしばらくその一行を眺めてから、その下に、斜めにして光を当てる、と書き足した。郡司がしたことを、自分で言葉にしたのだった。

◇

その週、郡司は二度、印刷所に電話をかけた。一度は常世の紙のこと、一度は別の仕事の刷りの日のことで、どちらも去年と同じでいいという確認だけで終わった。

「郡司さん、電話、多いですね」

岸が言った。

「多い」

「メールじゃ駄目なんですか」

「駄目じゃない。返事が明日になる」

「明日でもいいときは、ありますよね」

「ある」

岸は、それ以上は言わなかった。郡司はその日、三本目の電話をかけた。かけてから、今のは明日でもよかったと思った。

金曜の午後、菓子屋から電話が入った。都内の小さな和菓子屋で、三年に一度、化粧箱と掛け紙を新しくする。先方の担当者とは電話とメールだけのやりとりで、顔を知っているのは里見だけである。受けたのは郡司で、話は五分で済んだ。

里見の机へ行って伝えた。

「菓子屋、来ました」

「秋?」

「十月の店頭までに、と」

「誰にやらせる」

「岸に振ります」

「うん。箱、前と同じ寸法でいいって?」

「同じで、と」

郡司は三階から前回の綴じを持ってきて、岸の机に置いた。三年前の掛け紙の校正と、断裁見本と、感熱紙のファクス。

「菓子屋の箱。やってみる?」

「やります。箱って、立体ですよね」

「立体。前回のは、これだけ」

「前々回のは、無いんですか」

「無い」

「じゃあ、これ見ます」

岸は断裁見本を手に取って、角を指で押した。少しへこんで、戻った。それから写真を撮った。上から一枚、斜めから一枚。

「寸法、書いてありますね」

「書いてある。そこは合ってる」

その日の夕方、岸は菓子箱の展開図を紙に起こして、郡司のところへ持ってきた。四つの面と、蓋と、糊代を、平らに並べた図である。糊代の向きが逆だった。

「ここ、逆。箱にすると、糊代が外に出る」

「あ、ほんとだ」

岸はすぐに直して、もう一度持ってきた。今度は合っていた。

「これ、最後は印刷所も起こしますか」

「起こす。ただ、こっちでも持っておく」

「なんでですか」

「持ってないと、向こうが間違えたときに気づけない」

岸は、そうか、と言って、展開図を綴じに挟んだ。

◇

昼は、たいてい近くのコンビニで買う。事務所の前の道を右へ出て、二つ目の角にある。

郡司はおにぎりを二つと、缶コーヒーを買う。塩むすびと梅。缶は袋に入れたときから表面に水滴が浮きはじめて、事務所に戻るころには指が濡れている。岸はパスタの弁当を買って、店で温めてもらう。蓋の内側が湯気で曇り、受け取ってから数十秒だけ、手のひらが熱い。名取はサラダとパンを買う。三人とも、毎日ほとんど同じものを買った。

二階の隅の流しのそばに、丸い机がある。四人掛けで、五人になると一人が椅子を持ってくる。更科はたいてい自分の机で食べるが、その日は丸い机に来た。

「郡司さん、自転車で来てるんですか」

岸が訊いた。一階で、郡司が自転車を停めるのを見たらしい。

「うん」

「どこからですか」

「杉並。四十分くらい」

「電車のほうが早くないですか」

「早い」

岸は笑った。名取は目を丸くした。

「毎日ですか」

「雨の日以外は」

「雨の日は」

「雨の日も。道を変える」

「それ、以外じゃないじゃないですか」

更科が噴き出した。郡司は、そうだね、と言った。

岸と名取は、学校の課題の話を始めた。三年の後期に、印刷を使う課題があるらしい。

「刷るの、自分で頼むの?」

名取が訊いた。

「頼みます。学内に刷ってくれるところがあって」

「うちの学科は、手で刷るの」

「木版ですか」

「シルク。網に穴を開けて、上からインキを押し出すの。一色ずつ刷るから、四色なら四回」

「ずれませんか」

「ずれる」

「ずれたら、どうするんですか」

「ずれたまま」

名取は笑った。郡司は二つ目のおにぎりを食べていた。海苔の乾いた端が、米の湿りにふやけかけている。ずれたまま、という言い方が気に入った。

「岸くん、家どこだっけ」

更科が訊いた。

「川崎です」

「近いね」

「近いです。でも朝、すごく混みます。だから一本早くしたんです」

「ああ、それで」

名取が更科に、この事務所は何人ですかと訊いた。

「十四人。制作は六人」

「少ないんですね」

「少ない」

「みんな、長いんですか」

「郡司さんが三十三年。私が十四年」

「長いですね」

「そう?」

更科はそう言って、弁当の蓋を閉じた。三十三年、と郡司は頭の中で繰り返した。人の口から聞くと、自分のことではないような数だった。

◇

翌週、郡司は岸を三階へ連れていった。見本帳を出すためである。

特色の見本帳は、事務所に三冊ある。一冊は郡司が自分で買った古いもので、これがいちばん使われている。表紙の角が丸くなっていて、開くと、いつも同じページで開く。常世の地色が載っているページである。

「開き癖、ついてますね」

岸はそのページを写真に撮った。前後のページもめくった。めくると、紙のあいだに溜まっていた埃が動いて、窓の光の中に浮いた。

「これ、画面の色と違いますよね」

「違う」

岸は、自分の画面と見本帳を交互に見た。

「どっちが本当ですか」

「刷ったものが本当」

「じゃあ、画面のは」

「画面のは、画面の色」

岸は一拍置いて、笑った。

「それ、答えになってます?」

「なってない」

郡司も、そう思った。けれども、ほかに言いようがなかった。画面の色が嘘だというわけではない。ただ、刷らない限り、紙の上には来ない。紙の上に来たものしか、酒屋の壁には貼れない。それを言えばよかったのかもしれない、と郡司は階段を降りてから思った。

膝の上に載せたノートパソコンのファンが、三階にいるあいだずっと回っていた。三階は暑いので、余計に回る。岸は途中で一度、パソコンを膝から机に移した。

「熱いです」

「三階だから」

郡司は常世の束を出して、去年の一枚のところに挟んである指定書を見せた。番号が四つと、比が書いてある。

「これ、四色ですか」

「一色。四つのインキを混ぜて、一色にする」

「混ぜるのは、印刷所ですか」

「大阪の印刷所の、谷さんという人がやってる。四十年」

「四十年、同じ人が」

「同じ人」

岸は頷いて、指定書を写真に撮った。郡司は、谷の顔を思い出そうとした。最後に会ったのは、刷りの立ち会いに行った二十年ほど前である。顔より先に、電話の声が浮かんだ。去年の暮れに、年明けの日程のことで一度話した。そのときは、まだ元気な声だった。

◇

六月の最後の週は、雨が続いた。

朝から鉛色の雲が低く垂れて、向かいのビルの屋上を隠していた。窓に当たる雨の音は、強くなったり弱くなったりを繰り返す。三階は雨の日はいくらか涼しいが、湿気で紙が波打つので窓は開けられない。郡司は午前に一度上がって、常世の束の上に何も載っていないことだけ確かめて、降りてきた。

岸は、菓子箱の掛け紙を常世と並行して出していた。雨でも、速さは落ちなかった。

火曜に、掛け紙の案が六つ出てきた。六つとも、三年前のものより新しく見えた。新しく見えるが、菓子屋の店の構えは三年前から変わっていない。郡司は、そのうち二つに赤で丸を付けて、四つには何も付けなかった。

「丸が付いてないのは、駄目ですか」

「駄目じゃない。店に置くと、浮く」

「店、行ったことないです」

「写真ならある」

綴じから、三年前に菓子屋が送ってきた店頭の写真を出した。木の棚が三段あって、いちばん下の段に箱が並んでいる。上の二段は生菓子で、白い紙が敷いてある。

「箱、下の段なんですね」

「下の段」

「じゃあ、見下ろすんだ」

岸は写真を自分の机に持っていって、しばらく眺めていた。それから、丸の付かなかった四つのうち二つを、その日のうちに作り直してきた。作り直したものは、どちらも上から見たときの字の大きさが変わっていた。郡司は何も言わずに、その二つにも丸を付けた。

水曜に、更科の美術館の件で、チラシの初校が出た。更科は三部を並べて、一部を名取に渡した。名取が先に赤を入れて、更科があとから自分の赤を入れた。

「一つ。この日付、会期の初日と内覧会が同じ大きさになってる。内覧会は関係者しか見ないから、小さくていい」

「はい」

「二つ。ここの罫、細すぎて、刷ると飛ぶ」

「飛ぶ、というのは」

「消えて見えなくなる」

「三つ。裏の連絡先、去年の担当の名前のまま」

「三つ目は、私も気づけました」

「気づいたなら、赤入れて」

名取は自分の一部に赤を入れた。線の引き方が、更科と違う。更科の赤は、直す場所と、直したあとの形が両方書いてある。名取のは、場所だけである。更科はそれを見て、何も言わなかった。翌日の名取の赤には、直したあとの形が書いてあった。

夕方、名取が郡司の机の横に来た。

「郡司さん、ちょっと訊いてもいいですか。色校って、戻すとき、こちらの控えは取るんですか」

「取る。刷り出しを一枚、綴じに入れる」

「一枚でいいんですか」

「一枚でいい」

名取は席に戻った。窓の外はまだ雨で、ガラスを伝う筋が、蛍光灯を映して細く光っていた。

◇

金曜は、朝から晴れた。梅雨の晴れ間で日差しが強く、窓際の机に置いた紙が一枚、少し反っていた。

その日の夕方に、常世の専務からファクスが来た。秋の一枚に入れる文言の原稿である。専務はワープロで打ったものを、メールとファクスの両方で送ってくる。毎年、両方来る。

文言は去年と三行同じで、四行目だけが違っていた。

「四行目だけ違う」

郡司が言うと、岸が横から覗いた。

「見比べるんですか、これも」

「見比べる。ここを間違えると、刷り直しになる」

岸は、去年のファクスを綴じから出してきて、今年のものの横に並べた。指で一行ずつ追っていく。

「三行目、句点の位置が違います」

郡司は見た。違っていた。去年は行の終わりにあって、今年は一字分内側に入っている。専務のワープロの改行の都合だろう。四行目にばかり目が行っていた。

「これは、去年に合わせる」

「先方に訊かないんですか」

「訊かない。これは、こっちの領分」

岸は直した。直してから、少し得意そうな顔をした。郡司は、それを見なかったふりをした。

六時に岸と名取が帰り、六時半に里見が、七時に更科が帰った。郡司は七時半まで残って、常世の日程表に一行足した。八月の色校の日の欄に、大阪、と書いた。書いてから、その字をしばらく見ていた。去年も同じ欄に同じ字を書いた。来年も書くのだろうか、と思った。思っただけで、答えは出さなかった。

去年と一昨年の二枚は、窓際の机に立てかけたままにして、電気を消した。一階へ降りて、シャッターをくぐる。

外は、西の空だけがまだ赤く、東はもう藍色になりかけていた。自転車の鍵を回した。鍵は、この二年ほど、回すときに少し引っかかる。二度目で回った。油を差せば直るのだろうと、毎回思う。

三 なぜこの色か

七月に入ると、朝の空気がひとまわり重くなった。

常世の四案のうち、一つを郡司が落とした。十八枚目の、瓶が写っていないものである。地色の上に蔵の名前だけが大きく立っていて、四枚の中ではいちばんすっきりしていた。

「これは、瓶が写ってない」

「写さないほうが、抜けると思ったんですけど」

「抜ける。ただ、常世は八十三枚、全部に瓶が写ってる」

「全部ですか。縦と同じで」

「縦と同じで」

岸は笑って、その一枚を脇へ置いた。縦と瓶。岸の中で、常世の決まりが二つになった。郡司はそれを数えるように見ていた。決まりを並べていけば、そのうち常世ができあがる、と岸は思っているのかもしれない。そういうものではないと言いたかったが、ではどういうものかと訊かれたら、郡司にも答えはなかった。

残った三案は、地色が同じで、その上の瓶と文字の置き方だけが違う。地色は、郡司が最初に番号で指定した。常世の特色である。

火曜の午前、岸が画面のその番号のところを指で指した。

「なぜ、この色なんですか」

郡司は、すぐには答えなかった。

答えがないわけではなかった。八十三枚を見てきたから、この色でなければ去年の一枚と並ばないことは分かっている。並ばなければ、常世ではなくなる。それは分かる。ただ、それを言葉にしようとすると、並ぶ、という言葉しか出てこない。並ぶとはどういうことかと訊かれたら、また並べてみせるしかない。

それから、椅子から立った。

「持ってくる」

◇

三階へ上がると、郡司は扉を開けて、窓を開けて、それから棚に手を伸ばした。この順でやらないと、束を出したあとで窓を開けることになって、両手がふさがる。三十年かけて決まった順番である。

去年と一昨年は、六月から二階の窓際に立ててある。要るのは、その前の一枚だけだった。

抜きながら、隣のものが目に入る。八十枚目と、七十九枚目である。それも持っていってよかったが、要らないので戻した。三枚あれば足りる。今年の一枚の隣に去年が来て、去年の隣に一昨年が来て、その隣にその前が来る。それで、常世がどう続いてきたかが分かる。郡司はそう思っていたし、それを疑ったことは一度もなかった。

紐を結び直して棚に立て、一枚を持って降りた。

二階の窓際の机に、四枚を立てかけた。今年の三案のうちの一枚と、去年と、一昨年と、その前。

「並べます」

「これ、順番ですか」

「右から、今年、去年、一昨年、その前」

「もっと前のは、見ないんですか」

「今年の隣に去年が来る。去年の隣に一昨年が来る。それでいい」

岸は、四枚の前に立った。

窓の光は午前のもので、四枚の白が、四枚とも違って見えた。古いほうほど、黄色い。ヤケである。

「白、違いますね」

「古いほうは焼けてる」

「合わせないんですか」

「合わせない。刷ったときは同じだった」

岸はしゃがんで見た。それから立って、二歩下がって見た。もう一度しゃがんだ。岸が同じものを何度も見るのを、郡司は初めて見た気がした。画面の上では、岸は一度見たものを二度は見ない。

郡司は、今年の一枚を抜いて、去年の隣に置き直した。その前と一昨年のあいだの間隔と、同じだけ空けた。空けてから、少し詰めた。

「詰めると、違いますか」

「違う」

「どう違うんですか」

「詰めたほうが、続いて見える」

岸は、今年の一枚と去年の一枚のあいだの、その二センチほどのところを見ていた。郡司も、そこを見ていた。今年の地色が、去年の地色に、段差なく続いている。画面から出したものなのに、ほとんど段差がない。写真から拾った色は刷る色ではない、と岸には言ったが、それでもここまで来る。

「きれいですね」

郡司は、答えなかった。

きれいだと言われて、そうだと答えれば済むことだった。済むことだったのに、郡司の口からは何も出てこなかった。きれいなのは、今年の一枚なのか、四枚が並んでいることなのか、それとも四十年のほうなのか。郡司にはどれとも決められなかった。決められないものに、そうだ、と言いたくなかった。

窓の外で、隣のビルの室外機が回りはじめた。低い音である。二階の窓はちょうど、その音の高さのところにある。背中のほうで更科が電話をしていて、日付を三つ言っていた。名取が、その横で自分の紙に何か書いていた。

岸は、しゃがんだままの姿勢に戻って、今年の一枚の下のほうを見ていた。下の三分の一が、地色だけの面である。

「これ、どこに貼るんですか」

「酒販店」

「壁ですよね。けっこう上のほうですよね」

「上のほうだと思う」

「わかりました」

岸は、仕様の確認をしたのだった。判型と、見る距離と、貼る場所。学校で、そこは必ず訊けと言われているのだろう。郡司はそう思って、日程の話で返した。

「初校は、来週の火曜に出す。それまでに三つを二つにする」

「二つでいいんですか」

「里見さんに、二つ見せる」

「三つ見せたら、どうなりますか」

「三つ見せたことはない」

「はい」

それで会話が終わった。

岸は自分の席に戻って、画面を開いた。郡司は、四枚を窓際に立てかけたままにしておいた。午後になると、そこは光が回り込んで、朝とは違って見える。夕方には、また違う。

正午に、四枚を三十センチ、内側へ引いた。昼のあいだは、窓のすぐ下に日が入る。そのままにしておくと、下の縁にだけ日が当たる。当たったところは、その日のうちには何も変わらないが、何日も続けば変わる。三階の八十年代のものは、たぶんそうやって焼けた。

二時ごろ、名取が四枚の前に立った。しゃがまずに、立ったまま見ていた。

「これ、全部同じ色なんですか」

「同じ色で刷ってる」

「そう見えないです」

「そう見える」

名取は首を傾げて、自分の席に戻った。ノートには何も書かなかった。書きようがなかったのだろう、と郡司は思った。

◇

その週の木曜の昼過ぎ、大阪の川辺印刷から電話があった。

常世の特色を刷る印刷所である。出たのは若い営業で、八月の色校の日程を仮に押さえたい、という話だった。郡司は日程表を見ながら、九日で、と答えた。

「九日ですね。では谷にも伝えておきます」

「谷さん、どうですか」

郡司は、そう訊いた。春先に、谷が入院したと聞いていた。三週間ほどで出てきて、もう現場に戻っていると聞いたのは五月である。

「おかげさまで。毎日来ております。ただ、夏は暑いので、少し時間を短くしておりまして」

「そうですか」

「常世さんのぶんは、谷がやると申しております」

「よろしく伝えてください」

電話を切って、郡司はしばらく受話器の上に手を置いたままでいた。谷は七十五になる。四十年、常世の色を作ってきた。後を継ぐ人がいるという話は、聞いたことがない。訊いたこともない。訊いてはいけないような気がしていたのか、訊いても仕方がないと思っていたのか、郡司には自分でも分からなかった。

◇

木曜と金曜は、岸は三案を触っていた。

触るといっても、大きくは動かさない。文字を一段小さくする。瓶の位置を一ミリ動かす。動かすたびに出力して、窓際で見る。出力は、一日で四十枚を超えた。

「これ、毎回出すんですか」

「出す」

「画面じゃ駄目ですか」

「駄目じゃない。ただ、最後は出す」

岸は、そのあとも画面の上で作って、最後に出した。出す回数は、日ごとに増えていった。

木曜の午後、岸が指定書のことを訊いた。

「あの、番号と比が書いてあるやつ。毎年書き直してるんですか」

「書き直してる」

「同じなら、写せばいいですよね」

「写してる。写したものを、こっちが確かめる」

「合ってなかったこと、あるんですか」

「一度ある」

「どうしたんですか」

「刷る前に気づいた」

岸は、それがいつだったかは訊かなかった。郡司が覚えているのは、気づいたのが窓際だった、ということだけである。数字を見て気づいたのではなかった。色校を見て、何かがおかしいと思い、それから数字を見た。数字は、あとから確かめるためのものだった。

金曜の夕方、岸が三案のうち、文字がいちばん大きいものを持ってきた。

「これ、上に貼るなら、いちばん読めますよね」

「読める」

「じゃあ、これがいいですか」

「常世は、読ませる紙じゃない」

「じゃあ、何の紙なんですか」

郡司は、言葉を探した。

「あると分かる紙」

岸は、しばらく郡司の顔を見ていた。それから、その一枚をほかの二枚の下に入れた。落とすとは言わなかった。郡司も、落とせとは言わなかった。あると分かる紙、と自分で言っておいて、郡司はそれが恥ずかしくなった。言葉にすると、言ったとたんにずれる。

◇

その日の午後には、別のことも二つあった。

一つは、名取が三階へ上がったことである。更科に言われて、美術館の過去の展覧会の刷り物を探しに行った。青硯社は、その美術館の仕事を六年やっている。束は六つあるはずだった。

名取は三十分で降りてきて、二年前のものが見つからないと言った。

「無い?」

「無いです。五年前、四年前、三年前、去年はありました」

「じゃあ、無いね」

更科はそれだけ言って、探しに行かなかった。名取は少し待ってから、自分の席に戻った。郡司は自分の机で、それを聞いていた。菓子屋の前々回の綴じのことが、ちらりと頭をかすめた。かすめて、そのまま過ぎた。

もう一つは、岸が三階へ上がりたいと言ってきたことだった。

「過去のやつ、全部写真に撮っていいですか」

「全部?」

「全部です。八十三枚」

「暑いよ」

「大丈夫です」

郡司は一緒に上がって、束を出して、紐を解いて、机に置いてやった。

「順に見て。順を崩さないで」

「崩したら、どうなりますか」

「背に番号がある。戻せる」

岸は一時間半、三階にいた。降りてきたとき、シャツの背中が濡れて貼りついていた。

「何枚撮った」

「八十三枚です。全部」

岸はそう言って、スマートフォンの画面を郡司に見せた。小さな四角が縦にずらりと並んでいる。指で流すと、四十年がすぐに下へ消えた。一枚目から八十三枚目まで、二秒もかからなかった。

郡司は、そのあと三階へ上がって、束を確かめた。順は崩れていなかった。紐の結び目が、横になっていた。結び直して、縦にした。

夕方、窓際の四枚のうち二枚を、三階へ戻した。戻したのは一昨年とその前で、去年と今年の一枚は、窓際に残した。

三階の棚に戻すときは、束を解いて、番号のところへ差し込む。差し込む位置を間違えると、順が崩れる。差し込む前に背の番号を二度見た。

◇

六時に、岸と名取が並んで帰っていった。

階段の途中で岸が何か言って、名取が笑った。何を言ったのかは聞こえなかった。二人とも、駅のほうへ歩いていく。事務所の窓から、その道が少しだけ見える。

更科が七時に帰るとき、窓際の二枚を見て、片づけますかと訊いた。

「自分でやる」

「じゃあ、お先に失礼します。あ、図録の色校、来週出るそうです」

更科が帰ると、事務所に一人になった。

一人になると、音が変わる。エアコンの音と、冷蔵庫の音と、下の道の音。冷蔵庫は流しの下にあって、中には水と、経理の女性が置いている菓子が入っている。

郡司は自分の机で、缶コーヒーを一本開けた。飲みながら、常世の日程表をもう一度見た。色校の日と、戻しの日と、刷りの日。三つとも動かない。九日の欄には、大阪、と書いてある。

岸のスマートフォンの画面が、目の奥に残っていた。指一本で流れていった四十年。四十年を、ああいうふうに見たことがなかった。見る理由がなかった。去年の隣に今年を置けば、それで足りたからである。

缶コーヒーを半分残して、立ち上がった。

七時半に、三階へ上がった。

窓は閉めてあったので、開けた。日が落ちても、三階の空気は動かない。外は曇っていて、雲の向こうに月の位置だけが白く見える。隣のビルの室外機は止まっていて、虫の音が下から上がってくる。

蛍光灯を点けた。三階の蛍光灯は二本あって、一本が少しちらつく。ちらつくのは、点けてから数分だけである。窓際以外で常世を見るのは、三十年で初めてだった。

束を解いて、床に置いた。

八十三枚を、番号の順に並べていった。三階は狭いので、床に二列、机の上に一列、あとは壁に立てかけた。壁のところは、上のほうが暗い。四十年分を一度に置いたことはなかった。置いてみると、思っていたより場所を食わなかった。

途中で、六十枚目のあたりの一枚が滑って、床に落ちた。拾って、元の位置に戻した。

端まで行った。一枚目の横に、八十三枚目が来た。

似ていなかった。

郡司は、しばらくそのまま立っていた。汗が首を伝って、襟の中へ入った。それから膝をついて、番号の順に、束へ戻しはじめた。

戻すのに三十分かかった。紐を結んで、棚に立てて、窓を閉めて、電気を消した。

一階まで降りて、シャッターをくぐって、自転車の鍵を回した。鍵は固かった。二度目で回った。

四 悪くない

翌朝、郡司はいつもより十分早く家を出た。

理由があったわけではない。目が早く覚めたので、早く出た。欅の下でペダルを止めるのを忘れて、影を抜けてから気づいた。踏切は一回で開いた。

事務所に着くと、まっすぐ三階へ上がった。

束は、棚に立っていた。前の晩に立てたとおりである。紐の結び目が縦になっているのを、指で確かめた。解いて、もう一度一枚目と八十三枚目を見ようかと思って、やめた。見ても、同じものがあるだけだった。

窓を開けて、五分ほど風を入れて、閉めた。朝のうちはまだ涼しいが、外の空はもう白く、今日も暑くなりそうだった。

二階に降りて、窓際に残してある今年の一枚と去年の一枚を、朝の光で見た。二枚は並んでいた。昨日と同じように、段差なく続いていた。郡司はそれを確かめて、安心した。安心したことに、自分で驚いた。何を心配していたのか、自分でもよく分からなかった。

◇

火曜の午前に、岸が三案を二案に絞った。

絞ったのは岸である。郡司は、どれを落とせとは言わなかった。岸が落としたのは、窓際に並べた中でいちばん古い、八十一枚目にいちばん近いものだった。

「これ、近すぎますよね」

岸は、三階で撮った写真を画面に出して、落とした一枚と並べていた。八十一枚目である。瓶の位置も、文字の塊の位置も、ほとんど同じだった。

「近い」

「近すぎると、駄目なんですか」

「駄目じゃない。里見さんが、使わない」

「なんで分かるんですか」

「あの年に、見てるから」

岸は、なるほど、と言って、その一枚を落とした。岸の中でまた一つ、決まりが増えたのかもしれなかった。近すぎるものは使わない。けれども、去年と並ばないものも使わない。その幅がどれくらいなのかを、郡司は言えない。里見も言わないだろう。

残った二枚を出力して、窓際で見た。郡司が一枚、岸が一枚持って、去年の一枚の横に並べた。それから交換して、もう一度見た。

「里見さん、いつ見ますか」

「昼から」

◇

一時半に、里見が二階に降りてきた。

見積りを作る日の里見は、三階の会議室にこもっていて、昼を過ぎるまで降りてこない。降りてきた里見は、少し眠そうな顔をしていた。

岸が二枚を机に並べた。里見は立ったまま、二枚を続けて見た。手には取らなかった。左の一枚を三秒、右の一枚を四秒。それから、また左に戻った。

「悪くない」

「はい」

岸が答えた。

「これは、使わない」

「はい」

「郡司さん、去年の下の帯、何ミリだった」

「十八」

「じゃあ、そのままで」

里見はそれだけ言って、三階へ戻っていった。階段を上がる音がして、上の扉が閉まった。

岸は納得した顔をしていた。二枚を重ねて脇へ置き、次の画面を開いた。落とされることに、慣れているのかもしれない。学校の講評では、もっとひどいことを言われるのだろう。悪くない、は、岸にとっては褒め言葉に近いのかもしれなかった。

郡司は、納得していなかった。

何に納得していないのか、郡司にも言えなかった。里見が使わないと言ったのは正しい。郡司が見ても、二枚とも、去年の隣に置くには少しだけ何かが足りない。足りないのは分かる。何が足りないのかが言えない。里見も言わない。言えないのか、言わないのか。三十年近く一緒に仕事をしてきて、そこだけは見当がつかない。

三十分ほどして、里見がもう一度降りてきた。今度は更科のところである。図録の背の幅の話だった。中の紙が決まると、束の厚みが決まり、背の幅が決まる。背の幅が決まらないと、表紙は組めない。

「紙、決まった?」

「今日決まります」

「じゃあ、表紙は明日でいいね」

「はい」

里見は上へ戻った。その会話は四十秒だった。更科とのやりとりでは、里見は理由まで言う。表紙は明日でいい、なぜなら紙が今日決まるから。常世のときだけ、里見は理由を言わない。言わないのではなく、無いのかもしれない。常世には、理由の代わりに、去年がある。

◇

水曜と木曜に、岸は別の方向で二案を作った。

方向を変えたのは、岸の判断だった。郡司は、変えろとも、変えるなとも言わなかった。木曜の夕方に出てきたものは、瓶の位置を左へ寄せて、地の面を右に大きく取ったものだった。

「左に寄せたの、八年前にありましたよね」

岸は、三階で撮った写真の中から、その一枚を画面に出して見せた。

「八年前のは、春」

「春だと、違いますか」

「違う」

「どこがですか」

「秋のほうが、地の色が濃く見える」

地色の番号は、春も秋も同じである。同じ番号で、秋のほうが濃く見える。刷る時期の気温と湿気で、インキの乗り方が変わるのだと、郡司は昔、谷から聞いたことがある。聞いたのは一度きりで、谷がそれ以上何か言ったことはない。

金曜の午前に、里見が降りてきた。

二枚が並んでいる。里見は一枚目を見て、二枚目を見て、一枚目に戻った。それから右手を机の縁に置いて、体の重心を右へ移した。二枚目のほうへ首を傾けて、また戻した。

窓の外で、下の道をトラックが通った。

「悪くない」

「はい」

「これも、使わない」

里見は上へ戻った。岸は自分の席へ戻った。

その日の夕方、岸は自分で二枚を出力し直して、窓際の机に立てかけた。立てかけて、二歩下がって見た。それから一枚を裏返した。裏返したほうを、綴じに入れた。

郡司は、自分の机からそれを見ていた。声はかけなかった。かける言葉を持っていなかった。里見が二度、悪くないと言って、二度使わなかった。二度目のほうが、里見は少し長く見ていた気がした。気がしただけかもしれない。

◇

岸が帰ったあとで、郡司は三階へ上がった。常世の束から、去年のラフの綴じを取るつもりだった。

会議室に、里見がいた。机に見積りの紙が四枚と、電卓が一つ置いてある。里見は電卓を叩かずに、紙を見ていた。

「常世、二つとも駄目でしたね」

郡司が言うと、里見は顔を上げずに答えた。

「うん」

「岸は、悪くないです」

「悪くないよ」

里見は見積りの紙を一枚めくった。それから顔を上げた。

「郡司さん、今年のは誰がやるの」

「私がラフを引きます」

「そう」

それだけだった。里見は紙に目を戻した。

郡司は、しばらくそこに立っていた。里見の机の上には、見積りの紙のほかに、何もなかった。先代の社長の机には、いつも何かが積んであった。里見の机はいつも空いている。継いだときに、窓際からいちばん遠い机に移ったのも、たぶん里見なりの何かだったのだろうと思う。里見が継いでから、郡司が辞めることを考えはじめるまで、何年あっただろう。数えかけて、やめた。

「常世の春の日程、年内に出します」

「うん、お願い」

ラフの綴じを取りに来たことを忘れて、そのまま降りた。階段の途中で思い出して、もう一度上がった。里見は、今度は顔を上げなかった。

◇

翌週の月曜の午後、郡司は自分のラフを描いた。

鉛筆である。机の右の引き出しに、二Bの鉛筆が六本入っている。削るのは一階の倉庫の壁に付いている手回しの削り器で、二階には無い。郡司は一階まで降りて二本削り、上がってきた。

常世は、ラフも残してある。四十年分全部ではない。三十年ほど前から、残すようになった。誰が決めたのかは分からない。郡司が入ったころには、もうそうなっていた。

去年のラフは、郡司が引いたものである。鉛筆の線が、全体に右下がりになっている。机の高さと、腕の置き方でそうなる。一昨年のも、その前のも、同じだけ右下がりに寄っている。

三十年前のものは、別の人が引いている。線が細く、右下がりではない。郡司の前にこの仕事をしていた人で、もう亡くなった。郡司は、その人の線を一時期、真似しようとしたことがある。一年ほどやって、やめた。真似をすると、紙の上の瓶が、その人の瓶になった。常世の瓶ではなくなった。

去年の一枚だけを机に置いて、あとは綴じに戻した。

描いたのは三十分である。判型を四分の一に縮めた紙の上に、瓶の位置と、文字の塊と、下の帯を置いた。置き方は去年に近い。近いが、瓶の下の余白が、去年より二ミリ広い。二ミリ広くしたのは、描いているうちにそうなったからで、決めて広げたのではなかった。消して去年に合わせようとして、手が止まった。止まったまま、消さなかった。

岸を呼んで、渡した。

「これで組んで」

「これ、去年とほとんど同じですね」

「ほとんど同じ」

「同じでいいんですか」

「よくはない。今年は、これでいい」

岸は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに組みはじめた。組むのは速い。四十分で、刷れる形になった。地色を当てて、下の一行を入れて、出力した。出力したものを、岸は郡司の机に置いた。

組んでいるあいだ、郡司は鉛筆のラフを岸の机の端に置いたままにしていた。岸はそれを二度見た。二度目に、持ち上げて、角度を変えて見た。

「これ、線が右下がりですね」

「そう」

「わざとですか」

「腕がそうなる」

岸は、ラフを元の位置に戻した。戻してから、自分の画面の中で、瓶を一ミリ下げた。ラフのほうがそう見えたから下げたのだろう。郡司はそれに気づいたが、何も言わなかった。一ミリ下がった瓶は、郡司のラフの瓶に似ていた。

郡司は、出力された一枚を窓際へ持っていき、去年の一枚の隣に置いた。

置いて、見た。

それから、岸を呼んだ。

「これ、下の帯、一ミリ細くして」

「一ミリですか」

「一ミリ」

「一ミリ、見えますか」

「見える」

岸は席に戻って直して、また出力した。今度は郡司が呼ぶ前に、岸のほうから窓際へ持ってきた。

二人で見た。二枚を並べて、一枚を伏せて、また起こした。

「変わりますね」

岸が言った。

「変わる」

「でも僕、並べないと分からないです。一枚だけ見たら、たぶん分からない」

「並べるんだ」

郡司はそう言った。言ってから、自分が三十年やってきたことを、一言で言えたような気がした。並べるんだ。それ以上は、何も付け足せなかったが、付け足さなくてもいい気がした。

四時に、里見が降りてきた。窓際まで来て、二枚を見た。今度は手に取った。取って、腕を伸ばして、遠くにして見た。

「これで初校出して」

里見は上へ戻っていった。

◇

初校の入稿は、その日のうちに済ませた。

データを送って、送り状を作って、電話を一本かける。電話は、送りました、と言うだけである。それでも、かける。かけないと、翌朝に向こうが探すことがある。

「川辺さん、常世の初校、いま送りました」

「はい、確認します。何日ごろまでにお戻しすればよろしいですか」

「来週の水曜で」

「わかりました」

岸が横で聞いていた。

「電話も、するんですね」

「する」

「メールに書いてありますよね、全部」

「書いてある」

岸は、それ以上は訊かなかった。翌週から、岸も入稿のあとに電話をかけるようになった。かけるときは、机の上に置いたメモを見ながらかけていた。メモには、郡司がいつも言う言葉がそのまま書いてあった。

初校が戻ってくるまでの数日、常世は動かない。

そのあいだに、岸は菓子箱を進めた。展開図に掛け紙を載せて、画面の中で組むところまで来ていた。

木曜に、更科が美術館へ出かけて、名取を連れていった。事務所には、郡司と岸と、里見が残った。里見はその日は二階にいた。二階にいる日の里見は、電話が多い。三年前の案件の再版の話、来年の見積りの話、紙屋との話。話しているあいだ、里見はほとんど紙を見ない。

夕方、里見が郡司の机の前で足を止めた。

「常世、去年より少し空けた?」

「二ミリ」

「うん」

里見はそのまま通り過ぎた。

郡司は、しばらく里見の背中を見ていた。二ミリに気づいたのか、と思った。気づいて、うん、と言った。それが良いという意味なのか、それでいいという意味なのか、郡司には判じかねた。どちらでもいいような気もした。

五 モックアップ

菓子屋の箱は、貼り箱である。

厚紙で芯を組んで、そこに刷った紙を貼って仕立てる。芯は厚く、貼る紙は薄い。角のところで紙が折れて、稜線が立つ。立つといっても、芯の厚みのぶんだけ、わずかに丸い。その丸みの大きさは、芯の厚さと、貼る人の手で変わる。

三年前の箱は、断裁見本しか残っていない。仕上がった箱は菓子屋の店頭に並んで、とうに売れていった。郡司はその断裁見本を、岸の机の端に置いたままにしていた。岸はときどきそれを手に取って、角を指で押していた。

初校が戻るのを待つあいだに、岸は菓子箱を、立体にして持ってきた。

持ってきたといっても、画面の中である。画面に箱があって、斜めの角度から見下ろしている。上から光が当たっていて、掛け紙の端に影が落ちている。岸が指で画面をなぞると、箱が回った。回ると、影も一緒に回った。

「こういうの、作れるんです。展開図と掛け紙のデータを入れると」

「作ってるのか」

「作ってはないです。見えるようにしてるだけで」

郡司には、その違いがよく分からなかった。ただ、画面の中の箱は、たしかに箱に見えた。三年前の断裁見本を平らなまま見るより、ずっと箱に見えた。

「これ、出力しますか」

「出す」

「解像度、もう少し上げられます」

「上げて」

十分ほど待った。待っているあいだ、画面が少し暗くなって、その中で細い棒が右へ伸びていった。岸は待つあいだに別の窓を開いて、掛け紙の文字を触っていた。岸の手は、待っているときも止まらない。郡司は、窓際で紙を見るとき、待っているあいだは手を止める。止めて、光が変わるのを待つ。どちらが正しいということではないのだろう。

出力されたものを見ると、実物より良く見えた。

角が、きれいに立っている。実際の貼り箱は、ここまで立たない。芯の厚みのぶんだけ丸くなるし、貼るときに紙が少し余る。余ったところは、角の内側に回る。画面の中の箱には、その丸みも、余りも無い。

郡司は、そのことを岸に言わなかった。

嘘だとは思わなかった。菓子屋に見せるには、これで十分だった。むしろ、これまで送っていたものよりずっと分かりやすい。前は、展開図と、刷り見本と、三年前の箱の写真を送っていた。店の人は、それを見て、頭の中で箱を組み立てるしかなかった。組み立て違いが起きたことも、二度ある。一度は掛け紙の幅、一度は箱の高さだった。

「二案でいいですか」

「二案でいい」

二案は、掛け紙の地色が違う。一つは箱と同じ地色で、帯の部分だけを濃くしてある。もう一つは、掛け紙を白くして、屋号だけを地色で置いてある。三年前は、前者だった。

「白いほう、店で目立ちますか」

「目立つ。ただ、上の段が白い」

「あ、生菓子の紙」

岸は、店頭の写真をもう一度見た。

「じゃあ、埋まりますね」

「埋まる」

「でも、出します?」

「出す。決めるのは向こう」

里見が、二枚を菓子屋へメールで送った。返事は、その日のうちに来た。分かりやすくて助かります、店の者にも見せました、という返事だった。

組み立て違いの問い合わせは、一つも来なかった。

「訊かれませんね」

岸が言った。

「訊かれない」

「いいことですよね」

「いいことだ」

本当にそう思った。菓子屋は電話を一本かけずに済んだし、こちらも一本受けずに済んだ。それを良いことだと思い、良いことだと思えることに、ほっとした。

岸は、そのあと三十分かけて、二案のうちの一方を、もう少し良く見えるように直した。頼まれてはいない。直したものを、誰にも見せずに綴じに挟んだ。

夕方、名取が岸の席に来て、画面を覗いた。

「それ、どうやって回してるの」

「これ、こう」

岸が指で動かすと、箱が回った。

「立体で作ってるんじゃないんだ」

「作ってはないです。見えるようにしてるだけ」

「へえ」

名取は自分の席に戻ってから、更科に、あれは自分にもできますかと訊いた。

「できる。でも、図録では使わない」

「なぜですか」

「本は、開かないと分からないので」

名取はそれをノートに書いた。書いてから、線を引いて消して、もう一度書き直した。何と書き直したのかは、郡司の席からは見えなかった。

◇

菓子屋の箱は、寸法が決まっている。前と同じ寸法で、と言われているので、そこは動かない。動くのは、掛け紙の意匠と、地色と、掛け紙の幅である。幅は、箱の高さのどれだけを隠すかを決める。

郡司は断裁見本を手に取って、掛け紙の当たる位置に爪を置いた。三年前は、高さの四割のところに上の縁が来ている。

「四割ですね」

岸が横から覗いた。

「四割」

「これ、なぜ四割なんですか」

「三年前に、そう決めた」

「決めたのは、郡司さんですか」

「里見さん」

「理由は」

「聞いてない」

岸は笑った。郡司も笑った。里見の理由を聞いたことは、三十年でほとんどない。

岸は四割のまま組んだ。組んでから、四割ではないものも二つ作った。三割五分と、四割五分である。三つを並べて出力して、郡司のところへ持ってきた。

「これ、どれがいいですか」

郡司は三枚を窓際へ持っていった。平らな紙の上では、三つとも成り立っていた。

「平らだと、分からない」

「分からないんですか。郡司さんでも」

「箱にすると、分かる」

「箱、いつできますか」

「刷り見本が来てから」

岸は、三枚とも綴じに入れた。入れながら、画面の中なら今すぐ箱にできるのに、と小さく言った。郡司には聞こえたが、聞こえなかったことにした。岸の言うことは、半分は正しかった。

◇

翌週の月曜、菓子箱を刷って貼る、紙器の会社の営業が来た。梅雨明けのニュースが朝のラジオで流れていて、道の照り返しがもう強かった。

常世は大阪の川辺印刷だが、菓子箱は都内の紙器の会社に頼んでいる。三年前も同じ会社だった。営業は四十くらいの男で、いつも紙の見本と、貼りの見本を鞄に詰めてくる。

「前と同じ寸法でしたら、芯もそのまま出せます」

「同じで」

「掛け紙の幅は、変わりますか」

「変わるかもしれない」

「でしたら、刷り見本のあとに、簡易の貼りを二回まではお出しできます」

郡司は日程表を見た。二回なら、十月の店頭に間に合う。

「二回で」

「わかりました」

営業は鞄から貼りの見本を三つ出して、机に並べた。同じ紙で、芯の厚さだけが違うものである。

郡司は三つとも手に取って、角を指の腹で押した。押すと、へこみ方が違う。いちばん薄いものは、押すとそのまま入る。いちばん厚いものは、爪の側で押さないと動かない。

「厚いほうが、角は立ちます。そのぶん、貼りで紙が余ります」

「余ったのは」

「内側へ回します。回すと、蓋の掛かりが一ミリほど変わります」

「一ミリ」

「はい。前回は、そこで一度、蓋が固くなりました」

郡司は、それを覚えていた。三年前の秋に、菓子屋から電話が来た。蓋が開けにくい、という電話だった。原因は蓋の掛かりで、途中から芯を薄くした。覚えていたのは、その電話を郡司が受けたからで、受けていなければ覚えていなかっただろうと思った。

「じゃあ、前と同じ芯で」

「前と同じですね」

岸が横から手を伸ばして、三つのうちの一つを取った。郡司と同じように、角を押した。

「これ、分かりますか。違い」

営業が訊いた。

「分からないです」

「そうでしょう」

営業は笑った。

「私も、最初は分かりませんでした。二年くらいで、分かるようになります」

「二年ですか」

「毎日押してれば、です」

営業は三つを鞄に戻して、帰っていった。岸は、自分の指の腹を見ていた。それから、机の端の断裁見本の角を、もう一度押した。

◇

火曜に、岸は掛け紙の屋号の大きさを三種類作った。

屋号は、菓子屋の先代が紙に書いた字である。十年以上前に取り込んだデータがあって、そのときの解像度のままになっている。毎回、その字を位置と大きさだけ変えて使う。

三種類を出力して、三年前のものと並べた。

「三年前、これですよね。小さいですね」

「小さい」

「大きくしないんですか。店で見下ろすなら、もう少し」

「大きくすると、字が荒れる」

郡司は、三種類のうちいちばん大きいものを指で示した。線の端が、わずかにぎざぎざしている。離れて見れば分からないが、近づくと分かる。菓子の箱は、手に取って近くで見るものである。

「撮り直せませんか。元の字を」

「元の紙がない」

「無いんですか」

「無い」

岸は、三種類のうち、いちばん小さいものを残した。

「先代って、もういないんですか」

「亡くなってる」

「じゃあ、この字、もう増えないんですね」

郡司は、岸の顔を見た。岸は画面を見ていた。何かを考えて言ったようには見えなかった。事実を一つ確かめただけの顔だった。

「増えない」

◇

大阪の川辺印刷から電話が来たのは、その週の水曜である。

受話器を取ったのは郡司で、出たのは、この前と同じ若い営業だった。

「郡司さん、いつもお世話になっております。常世さんの件で、日程のご確認です」

「はい」

「色校、九日で変わりません。こちらの工程は動かせませんので」

「九日ですね」

「はい。前日に紙が入りますので、当日の午前に立てます。戻しは十五日必着でお願いいたします」

「十五日」

机の日程表の九日のところに、丸を付けた。

「それと、谷なんですが」

営業は、そこで一度、間を置いた。

「今月の頭から、また入っておりまして」

「入院ですか」

「はい。二度目です。今月中には出てくると聞いております」

受話器を持ち替えた。

「そうですか」

「常世さんのぶんは、谷が立てます。本人がそう申しておりますので」

「九日に、間に合いますか」

「間に合わせると、本人が」

「わかりました」

「あと、これは事務のご連絡なんですが」

営業は、そこで少し早口になった。

「うちの色管理、二年ほど前から測色のシステムを入れておりまして。特色も、いま順に数値で登録しています。常世さんのぶんも、今年の刷りから登録に回ります。次からは、数値で追えるようになります」

「数値で」

「はい。ばらつきが出にくくなりますので」

「わかりました」

「では、九日でお願いいたします」

電話が切れた。

郡司は受話器を置いて、日程表の九日の欄を見た。大阪、と書いてある。丸が付いている。その字と丸を、しばらく見ていた。

二度目、と営業は言った。春に一度入って、出てきて、また入った。七十五である。常世のぶんは自分が立てる、と言っているという。四十年、そう言ってきたのだろう。言わなくても、そうしてきたのだろう。

それから、数値で追えるようになる、という言葉が、少し遅れて耳に戻ってきた。ばらつきが出にくくなる。常世の色は、来年から数字で刷られる。去年の刷り上がりではなく、今年登録した数字を基準にして。それが良いことなのかどうか、郡司には判断がつかなかった。判断がつかないまま、郡司は三階へ上がった。

里見は、会議室で電卓を叩いていた。

「常世、色校は九日で動きません」

「うん」

「谷さん、また入ってるそうです」

里見の手が、一度止まった。止まって、また動いた。

「そう。間に合うって?」

「本人が立てるそうです」

「じゃあ、いい」

郡司は、測色の話をしなかった。事務の連絡だと営業は言った。里見に伝えるほどのことではない、と思った。思ったことにして、降りた。階段の途中で、伝えなかったのは事務の連絡だからではないのかもしれない、と思った。では何なのかは、階段を降りきるまでに分からなかった。

◇

木曜に、美術館の図録の色校が出た。

更科は、それを窓際の机に広げた。表紙が二種類と、中身が八台ぶん。台というのは、折る前の大きな一枚のことで、一枚に十六ページぶんが刷ってある。広げると、窓際の机が埋まった。

郡司は、自分の机から一度だけ立って、見に行った。

「表紙、二種類のどっち」

「まだ決めてないです。学芸の人が、両方見たいって」

「そう」

「郡司さんなら、どっちですか」

郡司は二枚を持って、少し離れて見た。それから机に戻した。

「決めるのは、更科さんだ」

「そうなんですけど」

更科は笑って、二枚を重ねた。

「郡司さんって、絶対言わないですよね。自分ならどっち、って」

「言うと、そっちになる」

「なっても、いいじゃないですか」

郡司は答えなかった。更科も、答えを待たずに色校を片づけはじめた。名取が横で、それを手伝っていた。

その日、更科は八時まで残った。郡司より遅かった。

夕方、名取が更科に、自分で作った逆算の紙を見せていた。図録のものである。線が定規で引いてあって、印が九つ打ってある。

「一つ多い」

「どこですか」

「校了と責了を分けてる。この仕事では分けなくていい。ただ、分けたほうがいい仕事もある」

「どういうときですか」

「色を、あとから見るとき」

名取は、その一行を書き足した。

窓の外は、まだ明るかった。北向きの部屋は、夕方になっても明るさがあまり変わらない。郡司は、自分の机で、菓子屋へ送る見積りの控えを封筒に入れていた。宛名は手で書く。三十年、そうしている。印字にすると、相手が気づく。気づいたからどうということもないのだが、郡司はそれを変えなかった。変えないでいることが、自分の仕事のかなりの部分を占めているような気が、この頃はしていた。

六 真似

七月の第三週は、暑かった。

火曜には三十四度まで上がった。二階のエアコンは効くが、窓際までは届かない。窓際の机で紙を見ていると、十分で汗が出てくる。郡司はその机にタオルを一枚置いていて、紙を持つ前に手を拭く。

朝の四十分で、背中が濡れる。事務所に着くと、一階でシャツを着替える。着替えは、駐輪場の奥のロッカーに二枚入れてある。ロッカーは事務所ができたときからあるもので、扉が最後まで閉まりきらない。郡司は、そのロッカーの前でシャツを脱ぎながら、あと何回この夏をやるのだろうと思った。正月の踏切で思ったのと、同じ形の考えだった。

三階のエアコンは、十時に入れても十一時になっても効かない。

その週は掃除の当番が回ってきて、更科と名取が三階を掃いた。掃除機は二階に置いてあって、コードが短いので、三階では延長コードを使う。延長コードは一階の倉庫にある。名取が取りに降りて、汗を拭きながら上がってきた。

郡司は、常世の束の様子を見に、途中で三階に上がった。資料室の入口に立つと、名取が棚の下にかがみこんで、細い紙きれを拾っているところだった。紙の耳である。束のあいだから落ちたらしい。

「これ、捨てていいですか」

「捨てていい」

更科が答えた。

「棚のは、触らなくていいんですか」

「触らない。動かすと、どこのか分からなくなるから」

「分からなくなったのは、どうするんですか」

「そのままになってる」

更科は、いちばん下の段を指さした。背に何も書いていない束が、三つ立っている。郡司も、それがいつからそこにあるのか知らなかった。知らないまま、三十年、横を通ってきた。

「中、見たことないんですか」

「ない。見て分かったら、どうするか決めないといけないから」

名取は、それをノートに書こうとして、手が埃で汚れているのに気づいてやめた。郡司は、入口に立ったまま、その三つの束を見ていた。菓子屋の前々回の綴じが、あの中にあるのかもしれない、と一瞬思った。思って、すぐに打ち消した。あれは薄いから、どこかに紛れたのだ。

常世の束を確かめて、降りた。

◇

岸は、菓子箱の掛け紙を四種類作っていた。四種類とも、朝の九時半から十一時までのあいだに出てきた。出すたびに、岸はプリンターの前に立って、出てくるのを待っていた。待っているあいだ、手は動いていなかった。

四種類は、屋号の組み方だけが違う。先代の字を、位置と大きさを変えて置いてある。

岸は、屋号の字を画面の上で拡大して見ていた。線の端が、少し掠れている。掠れは、取り込んだデータのままである。三年前も、同じところが掠れていた。

十一時半に、郡司は四種類を見た。一枚ずつ窓際へ持っていって、見て、戻った。四回、往復した。

「どれですか」

「二つ残す」

郡司は二枚を抜いた。抜いたのは、屋号がいちばん小さいものと、いちばん大きいものだった。真ん中の二つを落とした。

「真ん中、駄目ですか」

「駄目じゃない。二つあると、どれも同じになる」

「あ」

岸は、落とした二枚を裏返して、脇へ置いた。岸は、落とすものを置くとき、いつも先に裏返す。郡司はそれに気づいていたが、言ったことはなかった。

◇

昼を過ぎて、郡司は自分のパソコンで、菓子箱の別案を一つ作った。

岸のパソコンは借りなかった。岸がやっていた手順を、横で見ていたとおりになぞった。どういうものが欲しいかを文で書いて、待って、出てきたものの中から二つ選び、掛け紙の幅だけを直した。三十分かからなかった。

出てきたものは、掛け紙として成り立っていた。

それを一枚だけ印刷して、菓子箱の綴じに挟んだ。印刷したものを窓際へは持っていかなかった。持っていく前に、綴じを閉じていた。

◇

更科が、通りがけに郡司の画面を見た。

見て、何も言わずに自分の席へ戻った。戻ってから五分ほどして、席を立ち、やかんに水を入れた。湯が沸くまで、窓の外を見ていた。

「郡司さん、お茶いります?」

「もらう」

更科は二つ淹れて、一つを郡司の机に置いた。置いてから、自分の席に戻った。郡司は湯呑みを持って、口をつけた。熱かった。この暑さの中で、更科が熱い茶を淹れた理由を、郡司は考えなかった。考えないようにしたのかもしれない。

三時に、更科は美術館へ出かけた。図録の色校を持って、学芸員に見せに行く。帰りは直帰で、名取を連れていく。

出かける前に、更科は郡司の机に来て、一つだけ言った。

「サインの下版、来週です。名取さんに見せます」

「うん」

「名取さん一人で見せます」

「いい」

更科は、名取に鞄を持たせて出ていった。名取は、振り返って郡司に頭を下げた。

◇

事務所には、郡司と岸と、経理の女性が残った。

経理の女性は週に三日来て、伝票と請求書を作る。もう十九年いる。郡司より十歳ほど下で、郡司と話すのは月末が多い。

「郡司さん、常世さんの請求、いつ立てます?」

「刷り上がってから」

「じゃあ、九月ですね」

「九月」

「菓子屋さんは」

「同じ。刷り上がってから」

「はい」

経理の女性は画面に戻った。十九年、このやりとりはほとんど変わっていない。郡司が辞めたら、経理の女性は誰にこれを訊くのだろう、と思った。里見に訊くのだろう。里見は、九月、と答えるだろう。それで何も困らない。

岸は、残した二種類の掛け紙を、箱の寸法に合わせて折っていた。折り目を付けて、断裁見本に巻いて、外して、また巻いた。三度やって、二度目のものを残した。残さないほうを机に置く前に、やはり裏返した。

「裏返すのか」

郡司は、思わず言っていた。

「え」

「いや」

「あ、これですか。癖です。見えてると、気になるので」

岸は笑って、席に戻った。見えていると、気になる。郡司はそれを、自分の束の結び目のことのように聞いた。横になっていると気になるから、縦に結び直す。理由はそれだけで、それ以上はない。

◇

四時ごろ、菓子屋から電話があった。

出たのは郡司である。先方の担当者と直に話すのは、それが二度目だった。落ち着いた声の女性で、年は分からない。

「先日の絵、ありがとうございました。店の者にも見せました。皆、分かりやすいと申しておりまして」

「ありがとうございます」

「あれで進めていただければ。ただ、箱の色だけは、実物を見てから決めたいと、主人が」

「刷り見本が出ましたら、お持ちします」

「お願いします」

電話は三分で終わった。

綴じに、日付とやりとりの要点を書いた紙を一枚入れた。三行である。入れるとき、さっき挟んだ自分の別案が目に入った。要点の紙をその上に重ねた。

◇

五時半に、常世の初校が印刷所から戻ってきた。

初校は、色を見るものではない。文字と位置を見る。郡司は赤を三つ入れた。下の一行の字の間隔と、蔵の名前の位置と、裏の連絡先。裏の連絡先は、去年の担当者の名前のままだった。

岸に渡した。

「三つ」

「はい。……あ、これ、去年の名前ですね。更科さんのチラシでも、同じのありました」

「よくある」

「先方、教えてくれないんですね。担当が替わったこと」

「言われないと、気づかない」

岸は直して、戻しの封筒を作った。宛名は郡司が書いた。

裏の連絡先のことは、常世の専務にも一本電話を入れた。担当が替わっているのに、こちらの版が去年のままでした、と伝えた。専務は、いや、こちらこそ言い忘れていました、と言った。それで終わりだった。

「言わなくてもよかったんじゃないですか。直したのは、こっちですよね」

岸が訊いた。

「向こうの控えも、去年のままになってる」

「あ」

岸は、それをノートに書いた。岸がノートに何か書くのを、郡司は久しぶりに見た。

直したあとで、岸は一度、初校の紙を窓際へ持っていった。二十秒ほど見て、戻ってきた。

「色、これ全然違いますよね。去年のと」

「初校は色を見ない」

「見ないんですか」

「紙が違う。インキも本番じゃない」

「じゃあ、なんで刷るんですか」

「文字と位置を、本当の大きさで見る」

「画面だと、駄目ですか」

「大きさが出ない」

岸は、初校の紙を机に置いて、両手を広げて、その幅を測った。測ってから、自分の画面を見た。画面の中の常世は、手のひらほどの大きさだった。岸はしばらく、両手を広げたままでいた。

六時に、岸が帰った。帰る前に、菓子箱の掛け紙の二種類を、自分の机の上に並べて置いていった。翌朝いちばんに郡司が見る、という置き方だった。

◇

七時に、更科が戻ってきた。

直帰のはずだったが、鞄を置きに寄ったらしい。名取とは駅で別れたという。

「学芸の人、二種類とも良いって言うんです」

「決まらないのか」

「決まりました。私が決めました」

「そう」

「郡司さん、まだいたんですね」

「もう帰る」

更科は、机の上に色校を置いて、鞄を持ち直した。それから、少しだけ立ち止まった。

「郡司さん」

「うん」

「……いえ。お先に失礼します」

更科は帰った。置いていった色校は、翌朝も同じ場所にあった。

郡司は、それから三十分残って、菓子箱の綴じを開けた。要点の紙の下に、自分の別案が挟まっていた。それを引き出して、窓のほうへ持っていきかけて、やめた。外はもう暗かった。窓際で見る理由がなかった。

綴じを閉じて、棚に戻した。棚は二階にある。菓子屋のものは、案件が動いているあいだは二階に置いて、終わってから三階へ上げる。上げるのは、たいてい年末である。

今年の年末、それを上げるのが自分なのかどうかは、考えなかった。電気を消して、階段を降りた。

七 同じ週(一)

八月九日に、常世の色校が大阪で立った。

前の日の八日、郡司は日程表の九日の欄を二度見た。九日は、大阪で色が立つ日である。立つ日に、事務所ですることは何もない。何もないが、郡司はその日には他の予定を入れない。三十年、そうしている。入れないと決めているわけではない。結果として、そうなっている。

八日は、菓子箱の掛け紙の最後の詰めをやった。岸と二人で、屋号を一段だけ小さくして、出力して、見て、また戻した。戻したものが最後になった。岸はもう、郡司が言う前に窓際へ持っていくようになっていた。

九日は、何も来なかった。電話もなかった。

一日、自分の机で別の仕事の校正を見ていた。昼に、川辺印刷へ電話をかけようかと一度受話器に手をかけて、やめた。谷が出てきているのかどうか、訊いたところで何が変わるわけでもない。色が立ったかどうかは、明日、箱が来れば分かる。

その日、郡司は自転車で帰る途中、欅の下でペダルを止めなかった。止めるのを忘れたのではなく、止める気にならなかった。

◇

十日の朝、宅配の車が九時半に来た。

伝票を受け取ったのは名取だった。名取は平たい箱を両手で持って、二階まで上がってきた。

「軽いです」

名取は、少し意外そうに言った。紙は、思っているより軽い。

郡司は、箱を窓際の机で開けた。

刷ったばかりの紙は、匂う。インキの匂いは、刷り上がりから数日だけ残って、乾けば消える。箱を開けた最初の一呼吸に、それがある。郡司は、その一呼吸をいつも長めに吸う。

中に、厚紙に挟んだ刷り出しが三枚と、手書きのメモが一枚入っていた。

メモが入っているのは、毎年ではない。入っている年と、入っていない年がある。入っているのは、たいてい、通しを三度取った年である。

メモは、印刷所の事務用の便箋に書いてあった。字がうまい。万年筆で、罫のとおりにまっすぐ書いてある。

常世 秋 八十四
 地色 配合 別記のとおり
 通し 三度 三枚目を正とする
 戻し 十五日必着でお願いします
               川辺 谷

別記は、同じ紙の下半分にあった。インキの番号が四つと、それぞれの比が書いてある。比は、小数第一位まで書いてある。

身体のことは、一行も書いていなかった。入院のことも、退院のことも、暑さのことも書いていない。郡司はメモを裏返してみた。裏は白かった。

字は、去年の指定書の字と同じだった。線が少し震えているように見えたが、それは郡司の目のせいかもしれなかった。郡司はメモを窓の光にかざして、もう一度見た。震えているのかどうか、やはり分からなかった。

三枚を厚紙から出して、机に並べた。

三枚とも、少しずつ違う。一枚目がいちばん薄く、三枚目がいちばん濃い。差は、離れて見れば分からない程度である。谷は、通した順に重ねて入れてくる。順を入れ替えて入れてきたことは、四十年で一度もない。

三枚とも、紙の縁だけを持った。面には触らない。刷り上がりから数日は、指の脂が残る。

◇

色を見る前に、郡司は三階へ上がった。

なぜ先に三階なのか、自分でもはっきりとは分からなかった。いつもなら、刷り出しを窓際へ持っていって、去年の一枚と並べる。それで済む。済むはずのことの前に、郡司は束を下ろして、紐を解いていた。

四十年前の控えは、いちばん奥にある。奥へ行くほど、台紙が厚い。当時は厚い台紙を使っていた。そのぶん、束の下のほうが重い。持ち上げるときは、下から手を入れる。

途中の、二十年前のあたりで、台紙が一枚割れていた。折れ目のところから縦に割れている。刷り上がりは無事だった。郡司はそれを、割れたまま戻した。

いちばん奥に、四十年前の控えがあった。台紙に貼った最初の刷り出しと、そのときの指定書。指定書は青焼きで、線が薄い。紙の縁が、触ると粉になりそうなほど乾いている。

そこに、同じ四つの番号と、比が書いてある。

谷のメモを横に置いた。

合わなかった。

四つの番号のうち、二つが違う。比は、四つとも違う。

上から順に、もう一度読んだ。一つ目は同じ。二つ目が違う。三つ目は同じで、四つ目が違う。比は、どれも違う。何度読んでも、同じように違っていた。

指定書の隅に、書いた人の名前が入っていた。谷、とある。字は、いま横に置いたメモと同じ字だった。線が細く、若い。三十五の谷が書いた字である。

四十年前の指定書を床に置いて、束をもう一度、手前からめくった。

去年の指定書を抜いて、谷のメモの横に置いた。去年と今年は、比が一つだけ違っていた。違いは、小数第一位である。一昨年の指定書を抜いた。一昨年と去年も、一つだけ違う。その前を抜いた。その前と一昨年も、一つだけ違う。

手を止めずに、めくっていった。

抜いた指定書を、床に年の順に並べていった。十年分、二十年分。どこを取っても、隣同士は、一つずつしか違わない。一つずつしか違わないものが、四十年分並ぶと、端と端では番号まで替わっていた。途中で、インキが一つ入れ替わった年があった。前の年から、比がほとんど動いていない年もあった。大きく動いた年は、一度もなかった。

並べ終わると、床がほとんど指定書で埋まっていた。

郡司は、四十年前の指定書をもう一度手に取って、しばらく動かなかった。

窓の外で、室外機が回っていた。床に膝をついていたので、片方の脚が痺れていた。

三十年、郡司は去年の一枚を見て、今年の一枚を決めてきた。谷も四十年、去年の一枚を見て、今年の色を作ってきた。二人とも、隣しか見ていなかった。隣を見て、少しだけ動かして、それで隣と並ぶものを作ってきた。そのことに、郡司は気づいた、とは思わなかった。知っていたことを、床の上に並べて見ただけだと思った。知っていたのに、並べたことがなかった。

立ち上がって、痺れが引くのを待った。

指定書を一枚ずつ、それぞれの台紙のあいだに戻した。四十年分を戻すのに、二十分かかった。順を間違えないように、一枚ごとに背の番号を見た。束を結び直すと、結び目が横になった。解いて、縦に結び直した。

二階へ降りて、谷のメモをファイルに綴じた。綴じ穴が合わなかったので、パンチで開け直してから綴じた。開け直すと、前の穴が二つ残る。

◇

刷り出しを窓際へ持っていった。

窓際に立ててある八十三枚目の横に、机を空ける。午前の光である。

三枚目を、その隣に置いた。

見た。

通る。

去年の隣に置いて、おかしくない。文字の乗りも、地色の沈み方も、去年と同じところに落ちている。三枚目は一枚目より少し濃い。濃いほうが、去年と並ぶ。

一枚目を隣に置いてみた。並ばない。薄いというより、白いところが白すぎる。

二枚目を置いた。惜しい。惜しいが、三枚目のほうが通る。

谷の書いたとおりだった。三枚目を正とする。谷は、大阪の工場で、自分の手元にある去年の刷り上がりを隣に置いて、三度通したのだろう。三度目で、隣と並んだ。谷のメモには、そのことしか書いていなかった。それで足りていた。

三枚を、去年の一枚の上に順に重ねて、一枚ずつずらした。ずらすと、地色の帯が三本並ぶ。三本の差は、そうやって見ると分かる。離して見ると分からない。

十秒ほど、三本の帯を見て、重ねを崩した。

もう一度、一枚目を去年の隣に置いた。置いて、外した。三枚目を戻した。外して、また置いた。三度、入れ替えた。三度目で手を止めた。

郡司は、一枚目と二枚目を厚紙に戻して、三枚目を持って、廊下へ出た。

廊下の蛍光灯は、階段の上に一本だけある。乳白色のカバーが付いていて、その中に虫が二匹、入ったまま乾いている。

その下に立って、紙を胸の高さに持った。それから、紙を壁に当てて、手を離さずに、三歩下がった。紙は、郡司の目より少し上にあった。それを見上げた。

蛍光灯の下の常世は、窓際で見るのとは違う色をしていた。少し青く、少し平たい。十秒ほど、それを見上げていた。

それから、机へ戻った。

戻って、赤いペンで三枚目の隅に丸を付けた。日程と部数の欄に、自分の判を押した。朱肉が乾いていて、一度目はかすれた。二度押して、二度目でついた。

色の欄は空けたまま、三階へ上がった。

里見は、会議室にいた。郡司が三枚目を机に置くと、里見は立ち上がって、窓のほうへ持っていった。三階の窓は東向きで、午後は光が入らない。里見は紙を窓に近づけて、それから離した。

「これでいい」

里見は、自分の判を押した。一度でついた。

「谷さん、出てきたって?」

「分かりません。メモには、何も書いてなかったです」

「そう」

里見は、紙の隅の谷の署名のあたりに、目を留めていた。それから、椅子に座った。

郡司は三枚目を持って降り、日付を入れて、戻しの封筒に入れた。宛名を書いた。宛名の、川辺印刷、のあとに、少し迷ってから、谷様、と書き足した。毎年、書かない。宛名は営業の名前にしている。書き足してから、消すかどうか考えて、そのままにした。

◇

昼に、川辺印刷へ電話をかけた。

出たのは、営業だった。

「郡司です。色校、着きました」

「ありがとうございます。いかがでしたか」

「三枚目でいきます」

「三枚目ですね。谷にも伝えます」

「戻しは今日出します」

「助かります」

「谷さんは」

「先週から出てきております。今日も現場です。お呼びしましょうか」

郡司は、少し黙った。

「いや、いい。三枚目で、と伝えてください」

「わかりました。刷りは二十六日です。立ち会われますか」

「行かない」

「わかりました」

常世の刷りに立ち会ったのは、二十年ほど前が最後である。行かなくなったのは、日程が合わなくなったからで、それ以上のことではない。行かなくても、色校で決まっている。谷と最後に顔を合わせたのも、そのときだった。

電話を切ってから、代わってもらえばよかったか、と思った。代わってもらって、何を言うのか。四十年前の指定書を見ました、とでも言うのか。言ってどうなるものでもない。谷は、そうですか、と言うだろう。それで終わる。終わると分かっているから、代わってもらわなかったのだろうと思った。

◇

戻しを出してしまうと、常世は一週間ほど動かない。

その一週間、事務所は菓子箱と美術館だけになる。美術館は、図録の校了を控えて、会場のサインの校正も始まっていた。サインの校正は名取が一人で見て、更科が最後に見る。

郡司は、その週のうちに、来年の常世の春の一枚の日程を作った。まだ発注は来ていない。来ていないが、作る。四十年、春と秋で来ている。来なかった年は、一度もない。

日程表は、去年のものを下敷きにする。曜日だけがずれる。ずれたぶんを、印刷所の休みに合わせて直す。三十分で終わる。色校の日の欄に、大阪、と書いた。書いたときに、ふと、その日の横に何か書き足すべきことがあるような気がした。何も思いつかなかった。

できたものは、引き出しに入れた。発注が来たら出す。

◇

三時に、封筒を出しに行った。

事務所から四百メートルのところに、集配所がある。自転車を出すほどではないので、歩いて行く。行くのは、たいてい郡司である。

道の途中に公園が一つあって、ベンチが四つ並んでいる。昼はたいてい埋まっているが、三時は空いている。木で蝉が鳴いていて、アスファルトの照り返しが強い。郡司は、そこを通るときはいつも同じ側の歩道を歩く。そちらが日陰になるからである。

集配所の窓口の男は、封筒の厚みを見て、値段を言う前に伝票を出した。何度も来ているので、それで通じる。

「速いのでいいですか」

「速いので」

戻ってくると、二階のプリンターが動いていた。岸が、菓子箱の掛け紙を出していた。

◇

八十三枚目を三階へ戻しに上がろうとしたとき、岸が階段の下から声をかけた。

「郡司さん、菓子箱の刷り見本、明日届くそうです」

「明日か」

「はい。午前中って言ってました」

「わかった」

郡司は三階で束を戻して、窓を閉めた。窓を閉めると、部屋の音がなくなる。棚の紙が湿気で少し反るときの音が、たまにする。今日はしなかった。棚の前に立っていた。束の中に、四十年分の谷の字がある。見た目は、朝と何も変わっていなかった。

夕方、名取が郡司のところへ来た。

「色校の控え、これ綴じますか」

「一枚目を綴じる。三枚目は返した」

「一枚目、ですか。正は三枚目なのに」

「返したのは、向こうにある。こっちに無いのを残す」

名取は、頷いた。

「向こうとこっちで、違うのを持ってるんですね」

「そう」

名取は書き取って、一枚目を綴じに入れた。入れるとき、上下を確かめて、逆にならないように入れた。

「これ、四十年分あるんですよね。三階に」

「ある」

「見てもいいですか。今度」

「いいけど、三階は暑い」

名取は笑って、また今度にします、と言った。郡司は、並べて見るといい、と言いかけて、言わなかった。

岸はそのとき、菓子箱のほうを見ていた。翌日に届く見本で確かめることを、紙に書き出していた。項目は五つあった。

「郡司さん、これで足りますか」

郡司は紙を見た。寸法、色、掛け紙の位置、罫の見え方、糊代の向き。

「足りる」

「他に見るところ、ありますか」

「明日、見る」

「はい」

岸は、その紙を机の右に置いた。置いてから、更科のところへ行った。

「更科さん、来週の水曜、午後だけ抜けてもいいですか」

「学校?」

「説明会です。就活の、合同の」

「里見さんに言っておいて」

「はい」

就活、と岸は言った。三年の夏である。そういう時期なのだと思った。自分が三年のころ、何をしていたのかは、よく思い出せなかった。

岸は六時に帰った。

八 同じ週(二)

翌朝、二階は静かだった。窓の外には雲一つなく、朝のうちから日差しが白い。

更科は美術館へ出ていて、名取も一緒だった。里見は三階で見積りを作っている。二階には、郡司と岸だけがいた。

岸は、前の日に書き出した五つの項目の紙を、机の右に置いていた。ときどきそれを見て、また画面に戻る。落ち着かないのが、郡司の席からも分かった。郡司も同じだった。昨日、三階の床に並べた指定書のことが、まだ膝のあたりに残っていた。

菓子箱の見本は、昼前に届いた。

岸が箱を受け取って、開けた。中から、平たい紙を一枚出した。

「箱じゃないんですね」

「まだ箱じゃない。刷っただけ」

伝票には、白焼、と書いてあった。加工の前の刷り見本で、断裁も、貼りも、箔もまだ入っていない。平判のまま、一枚で来る。岸は伝票と紙を見比べてから、紙を郡司に渡した。

箱の底のほうに、もう一つ包みがあった。開けると、貼りまで通した見本が二つ入っていた。刷り見本を芯に貼って、箱に仕立てたものである。頼んではいない。印刷所が気を利かせたらしい。伝票の隅に、参考、と手書きで添えてあった。

郡司は、平判を先に窓際で見た。

平らである。四つの面と、蓋と、糊代が、一枚の紙の上に開いて並んでいる。折る位置には薄い罫が入っていて、そこで折れることになっている。色は、校正のときに通したとおりだった。地色が均一に乗っていて、掛け紙の帯のところで一度切れる。

平判のときは、面で見る。地色がむらなく乗っているか、罫が飛んでいないか、糊代に余計なものがはみ出していないか。岸の紙に書いてある五つと同じである。岸は横で、五つを一つずつ指で押さえながら確かめていた。

紙を斜めにして、光を滑らせた。滑らせると、インキの乗りが分かる。厚く乗ったところでは、光が鈍る。今回は、どこも均一だった。

三十秒ほど見て、平判を机に置いた。

それから、貼り箱のほうを手に取った。

角が立っていた。

平判では一枚の平らな面だったものが、四つの稜線で折れて、面ごとに光の入り方が変わっている。上の面は窓の光を正面から受け、横の面は受けない。稜線のところにだけ、細く明るい線が一本走る。地色は、平判で見たときより深く見えた。

平判のときより、良く見えた。

郡司は、それを良いことだとは思わなかった。平判で通したものが、箱になると違う色になる。違う色で店に並ぶ。それは、平判で決めた郡司の目が、箱の色を決めていなかったということだった。

◇

岸が横に来て、もう一つの箱を取った。

二人で、同じものを手に取っていた。

郡司は、箱を手の中で回した。窓を背にして、正面から光が当たるようにして、それから半分回して、稜線が影の側に来るようにした。角に人差し指の腹を当てて、そのまま縦の稜線をなぞった。紙の折れが指に当たる。芯の厚みのぶんだけ、角は丸い。上から下へなぞって、下から上へ戻した。

指を離して、蓋を外した。

蓋の内側には、紙が貼っていない。芯の色が、そのまま出ている。蓋を裏返して、外の面と内の面を続けて見た。それから、蓋を戻した。戻すときに、少し引っかかった。三年前の電話のことを思い出した。蓋が開けにくい、と菓子屋は言った。今度の芯は、あのあと薄くしたほうの芯である。引っかかりは、あのときほどではなかった。

岸は、箱を目の高さまで上げて、下から見上げた。それから机に置いて、上から見下ろした。見下ろして、また持ち上げた。手首を左右に振って、稜線に当たる光を動かした。振る幅を、だんだん小さくしていった。

岸が、店の棚のいちばん下の段を思い浮かべているのが、郡司には分かった。見下ろす、と岸は写真を見て言った。岸は、箱を棚に置いたときの高さで見ているのだった。

郡司は自分の箱を置いて、岸の持っているほうを取った。岸は、郡司の置いたほうを取った。

二人とも、同じことをもう一度した。

郡司は、掛け紙の当たる位置に爪を置いて、その線から上の面を見た。爪を置いたまま、箱を回した。四つの面のうち、二つは掛け紙の帯が正面に来て、二つは角で切れる。角で切れるほうを、二度見た。

それから箱を伏せて、底のほうから稜線を見た。底は貼りが重なっていて、そこだけ厚い。

岸が、窓を開けた。

外の光が、ガラスを通さずに入ってきた。色が変わった。稜線の明るい線が、太くなった。

二人とも、同じ手つきをもう一度した。

郡司は平判を持ち上げて、箱の横に立てた。立てて、二つを一緒に見た。それから平判を伏せた。

岸が、自分の箱を郡司のほうへ押した。郡司は受け取って、稜線に指を当てた。

岸は、もう一方の箱を机に置いて、蓋を外した。外した蓋を、箱の横に、面を上にして置いた。それから、蓋だけを持ち上げて、稜線を見た。蓋の稜線は、本体より短い。

郡司は、自分の持っているほうの箱を、机の端まで持っていった。机の端は、窓からいちばん遠い。そこで一度見て、また窓際へ戻した。

戻して、平判の上に箱を載せた。載せると、平判の地色と、箱の地色が接する。接したところで、二つの色が違って見えた。同じインキの、同じ紙である。

岸が、その接したところを覗き込んだ。覗き込んで、箱を少しずらした。ずらすと、色の境目が動いた。

郡司は箱を持ち上げて、平判を裏返した。裏は白い。白い上に、箱を置いた。置いて、また見た。

十分ほど、二人はそうしていた。どちらも、何も言わなかった。言うことがなかったのではなかった。言うより先に、手が次のことをしていた。

◇

直すのは、地色の濃さと、掛け紙の幅だった。

濃さを落とす。落とすと、平判で見たときには薄くなる。平判では悪くなる。箱にすると、そこで釣り合う。

「平判、悪くなりますよ」

岸が言った。

「悪くなる」

「それでいいんですか」

「箱にするから」

「はい」

岸は、それ以上は訊かなかった。郡司も、それ以上は言わなかった。二人とも、十分のあいだに同じものを見ていた。

岸はデータを直した。濃さを二段落として、出力した。出力したものを平らなまま見ると、たしかに薄い。岸はそれを窓際に置いて、しばらく眺めていた。自分の手で、わざと悪くしたものを眺める顔だった。

掛け紙の幅は、稜線に掛かる位置を五ミリ下げた。五ミリ下げると、平判では帯が細く見える。

「四割じゃなくなりますね」

「なくなる」

「里見さんに、言いますか」

「言う」

郡司は三階へ上がって、里見に言った。里見は、見積りの紙から顔を上げずに、四割は三年前に決めたことだから動かしていい、とだけ言った。理由は訊かなかった。三年前に決めた理由も、言わなかった。

◇

二人で、三回やった。

簡易の貼りは、本物の芯を使わない。厚紙を切って、両面テープで組む。角の丸みが、本番より小さい。小さいことは分かっているので、そのぶんを差し引いて見る。差し引く量は、どこにも書いていない。頼むのは電話で、三回とも郡司がかけた。

一回目が届いたのは、翌々日である。岸がそれを手に取って、三年前の断裁見本と並べた。

「これ、角が違いますね」

「簡易だから」

「じゃあ、これで決めていいんですか」

「よくない。でも、これしかない」

岸は、その二つを並べたまま、写真を撮った。撮ってから、実物のほうをもう一度手に取った。

落としすぎだった。箱にすると、稜線の明るい線が消えかけていた。面と面の差が無くなって、四つの面が一つの面のように見える。

「消えましたね」

「消えた」

「戻しますか」

「戻す」

二回目を待つあいだに、岸が学校の話をした。昼を、郡司と二人で丸い机で食べていたときである。

「立体、一年のときにやりました」

「紙で?」

「石膏です。削るやつ」

「削ると、戻せないな」

「戻せないです。だから、みんな削らなくなるんです。怖くて」

「そう」

「先生に、削れって言われました。削らないと、何も分からないからって」

岸は笑った。郡司も、パンの袋を持ったまま笑った。

「その先生、何か言ってた?」

「何をですか」

「削ったあと」

岸は思い出す顔をした。

「何も言わなかったです。削ったやつ、黙って見てました」

郡司は、そう、と言った。

二回目は、週が明けた月曜に届いた。見る順は一回目と同じである。窓を背にして、回して、稜線に指を当てる。岸は、見終わったほうを机に置くとき、また裏返した。

今度は戻しすぎだった。平判のときとほとんど変わらない濃さで、箱にすると、最初の見本と同じところへ戻ってきた。

一回目と二回目を机に並べて、そのあいだに何も置かずに見た。

「あいだですか」

「あいだ」

「数字で言うと、どのくらいですか」

「一段の半分」

「半分、指定できますか」

「できる。ただ、刷ると、そのとおりには出ない」

「出ないんですか」

「出ない。出ないから、見る」

岸は、その半分の指定を書いた。書いたものを郡司が見て、一か所だけ直した。

三回目は、頼まないと出ない。簡易の貼りは二回まで、という話で始めている。

郡司は電話をかけた。営業は、日程表を見ているらしい間を置いてから答えた。

「貼りの担当が、明日まで別の仕事に入っておりまして」

「では、いつになりますか」

「明日の夜に起こして、水曜の午前にお出しします。うちの工程では、これが最後になります」

「最後で」

「はい。そのあとに直しが出ますと、刷りの日が動きます」

「動かさない」

「お願いします」

受話器を置いたところで、里見が通りがけに足を止めた。

「菓子屋、何回やるの」

「三回目で決めます」

「うん」

里見は、そのまま三階へ上がっていった。

届くまでの二日、郡司と岸は、菓子箱を触らなかった。手元に無いものは、判断のしようがない。

そのあいだに、常世の刷りの日程が正式に決まった。二十六日である。日程表に書いて、菓子屋の刷りの日程も、その下に書いた。二つは十日離れている。

名取が、その日程表を横から覗いた。

「郡司さん、簡易の貼りって、頼むと何日かかるんですか」

「三日から四日」

「その日数は、最初から入れてあるんですか」

「入れてある。二回ぶん見てあった」

「今回、三回ですよね」

「三回」

「足りなくなったら、どうするんですか」

「刷りの日を動かす。常世は動かせない。菓子屋は、一日なら動く」

名取は自分の逆算の紙を出して、線を一本足した。足した線の位置を、二度直した。

水曜の午前に、三回目が届いた。伝票に、これで最後です、と手書きで添えてあった。

箱にすると、稜線の明るさが、一回目と二回目のあいだに来た。

平判で見ると、最初に届いたものより薄い。箱にすると、最初に届いたものと同じところにある。同じインキで、同じ紙に刷ってある。誰かが間違えたわけではなかった。平らな紙と、箱とは、違うものだった。それだけのことだった。

◇

三回目の貼りを、郡司は窓際の机に置いたまま、その日の終わりまで動かさなかった。

夕方になると、光の入る角度が変わる。稜線の明るい線が細くなって、消えた。消えてから、蛍光灯のぶんだけ、また出た。出た線は、朝のものより弱い。

郡司は、それを二度、見に行った。二度目のとき、名取が横を通った。

「それ、明るいところが動きますね」

「動く」

「写真だと、動かないですね」

「動かない」

名取は、動く、とノートに書き、少し迷ってから、郡司さんは時間を変えて見る、と書き足した。郡司は、それを横から見てしまった。自分のしていることが字になると、やはり頼りなかった。頼りないが、間違ってはいなかった。

◇

再入稿の前に、里見が二階に降りてきた。

菓子箱の掛け紙の案が三つ、机に並んでいる。岸のものが二つと、郡司のものが一つ。郡司のものは、先月、岸のやり方をなぞって作った別案を、そのまま置いてある。誰がどれを作ったかは、里見に言っていない。

里見は、三つを順に見た。一つ目を二秒、二つ目を二秒、三つ目を二秒。それから、二つ目を指した。岸のものだった。

「これで」

「はい」

理由は言わなかった。常世では、同じように見て、岸のものを採らなかった。

郡司には、その差が分かる気もしたし、分からない気もした。常世には去年がある。菓子屋にも三年前があるが、その前は無い。無いぶんだけ、里見は自由に選べたのかもしれない。そうではないのかもしれない。郡司は、それ以上考えなかった。里見に訊けば、たぶん、悪くなかったから、と言うだろう。

里見の選んだ案を、三回目の濃さで再入稿した。入稿は岸がやって、郡司が指示書を書いた。指示書には、地色の濃さを二段落とした理由を、一行だけ書いた。箱にしたときに合わせる、と書いた。

一行で足りる。理由が要るのは、次に誰かがこの綴じを開けたときである。三年後にこの綴じを開けるのが誰なのかは、考えなかった。考えずに、一行書いた。

指示書の控えは、綴じに入れた。三回の簡易の貼りは、二つを綴じの箱に入れて、一つを郡司が机の引き出しに入れた。引き出しには、前の年の見本も入っている。

「それ、なんで引き出しなんですか」

岸が訊いた。

「手が届く」

「綴じは」

「三階に上がる」

岸は、それをノートに書かなかった。

◇

平判は、そのあと三階へ上げた。

菓子屋の綴じは二階にあるが、平判は大きいので、三階の空いている棚に平らに置く。置く場所は決まっていない。前の年の平判が二枚、そこに重ねてある。二枚とも、別の案件のものである。

その上に今年のものを重ねた。重ねてから、いちばん下のものを引き出して、見た。何の案件のものか、しばらく分からなかった。裏に鉛筆で番号が書いてあって、それで分かった。自分の字だった。

戻して、降りた。

◇

二階に戻ると、岸が、選ばれなかった自分の一枚を手に持って、郡司の机の横に立っていた。

「これ、残すんですか」

「残す」

「使わないですよね」

「使わない」

岸は少し待った。郡司が何か付け足すのを待っているようだった。何も付け足さなかった。付け足すとしたら、次に開ける人のために、と言うのだろうが、それは指示書に一行書いたのと同じことで、口にすると、少し大げさになる気がした。

岸は、その一枚を綴じの後ろのほうに入れた。郡司の別案も、同じ綴じに入っている。岸は、郡司の一枚を指で起こして見て、また倒した。誰のものか、岸には分かったのだろう。何も言わなかった。

翌日、菓子屋へ電話をかけた。出たのは、いつもの担当者である。

「箱の色、少し落としました」

「落とすと、暗くなりますか」

「箱にすると、変わりません。むしろ、締まります」

「そうですか。では、お任せします」

「刷り上がりましたら、お持ちします」

「お願いします」

電話は二分だった。

九 帰る

岸が、予定より一週間早く帰ることになった。

就活の説明会が八月の下旬にいくつも固まっていて、そちらを優先したい、という話だった。岸は里見に言い、里見が更科と郡司に言った。それだけのことで、誰も引き止めなかった。引き止める理由がなかった。インターンは、就活の前に来るものである。

里見は郡司の机に来て、それを伝えた。

「岸くん、今週の金曜まで」

「はい」

「引き継ぐもの、ある?」

「菓子箱は、もう入稿してます。常世は私が持ってます」

「じゃあ、いい」

里見は自分の机へ戻っていった。

その日の午後、郡司は日程表を出して、菓子箱の欄にある岸の名前の横の日付を、一週間手前に書き直した。書き直したところに、前の日付がうっすら残った。消さなかった。

最終日は、八月二十日の金曜だった。

◇

その日も暑かった。三階は特に暑い。

郡司は午前のうちに三階へ上がって、常世の束に、八十四枚目の色校の控えを入れた。刷り出しの一枚目である。まだ台紙には貼らずに、紐の内側に挟んだ。台紙に貼るのは、刷り上がりが来てからである。

紐を結んで、棚に立てた。背表紙には、八十四の番号がもう振ってある。六月に、郡司が自分で振った。

窓を開けて、五分ほど風を入れて、閉めた。

降りるとき、菓子屋の綴じがまだ二階にあることを思い出した。それは年末でいい、と思って、そのまま降りた。

◇

昼に、更科が二人を連れて、近くの定食屋へ行った。

インターンの最終日は、そうすることになっている。去年もそうだったし、その前もそうだった。郡司も一緒に行った。四人で座って、四人とも日替わりの定食を頼んだ。鯖の味噌煮だった。

「岸くん、どこ受けるの」

更科が訊いた。

「まだ絞ってないです。事業会社の、中で作ってるところがあれば」

「事務所は?」

「うーん」

岸は笑った。それ以上は、誰も訊かなかった。郡司は、事務所は、と訊いた更科の声が、少し軽すぎた気がした。軽くしたのかもしれない。

名取は更科に、来週の図録の校了のことを訊いていた。更科は箸を置いて、紙ナプキンに線を引いて説明した。線は、いつもの逆算の形になった。紙ナプキンは薄いので、ボールペンの先が引っかかって、ところどころ破れた。

「これ、持って帰っていいですか」

「破れるよ」

「じゃあ、写真撮ります」

名取は撮った。撮ってから、その紙ナプキンで口を拭いた。更科が笑った。

定食屋は、事務所から歩いて三分のところにある。昼はいつも混んでいるが、その日は一時を過ぎていたので空いていた。郡司は味噌汁の椀を持ったまま、三人を見ていた。

「郡司さん、インターン、何人見てきたんですか」

名取が訊いた。

「数えてない」

「毎年来るんですか」

「毎年」

「覚えてますか。前の人たち」

「顔は」

「名前は」

「忘れる」

名取は笑った。岸も笑った。更科は笑わずに、お茶を飲んでいた。

郡司は、言ってから、それが本当だと思った。顔は覚えている。名前は忘れる。岸の名前も、いつか忘れるのだろう。忘れても、窓際で瓶を一ミリ下げた岸の顔は、たぶん残る。残るのが顔なのか、手つきなのか、郡司には決められなかった。

◇

三時に、岸が貸与のノートパソコンを返しに来た。

更科が受け取って、中を確かめた。共有のフォルダに入れたものと、自分のパソコンの中に置いたままのものを、分けさせる。分けさせると、自分の中に置いたままのものが十七あった。

「これ、全部共有に入れて」

「途中のもですか」

「途中のも」

「使わないやつですよ」

「使わないやつも」

岸は、十七を全部共有に移した。移すのに十分かかった。移してから、机の上を拭いた。拭くものは、流しの下にある。

机の脇に、来た日に組み直した去年の春の一枚が、まだ置いてあった。瓶が少し下がっていて、下の帯の色が違う一枚である。岸はそれを手に取って眺め、紙の回収箱に入れようとした。入れる前に、手が止まった。

「これ、残しますか」

岸は郡司のほうを見て訊いた。

郡司は、その一枚を見た。並べると違うのが分かる、ということが分かればいい。二か月前に、そう言った。岸はそのとき、少し首を傾げていた。

「それは、いい」

「捨てていいですか」

「いい」

岸は、それを回収箱に入れた。裏が白いので、郡司はあとで拾って、裏紙の束に足した。

◇

そのあと、郡司は岸に、菓子箱の綴じの整理をさせた。

三年前のものと、今回のものを、順に入れていく。校正は日付の順、写真は最後、電話の要点を書いた紙はいちばん前。決まりがあるわけではない。郡司がそうしてきた、というだけである。

「これ、順番って決まってるんですか」

「決まってない」

「じゃあ、どうすれば」

「次に見る人が、探さなくていいように」

岸は、校正を日付の順に入れた。入れてから、考え直して、電話の要点の紙をいちばん前に出した。

「これ、前でいいですか」

「いい」

岸は、自分の選ばれなかった一枚と、郡司の別案を、いちばん後ろに入れた。二枚は、並んで綴じられた。

綴じは、二階の棚に戻した。年末に、三階へ上がる。

◇

四時半に、岸が郡司の机の前に来た。

「二か月、ありがとうございました」

「うん」

「勉強になりました」

郡司は、何か言おうとした。

言おうとして、机の上を見た。机の上には、菓子箱の綴じと、常世の日程表と、飲みかけの缶コーヒーが置いてある。

並べるんだ、と言おうかと思った。七月のあの日、窓際で、自分で言った言葉である。言えば、岸はたぶん、はい、と言う。はい、と言って、それを持って帰る。持って帰って、どこかの会社の、中で作っているところで、いつか思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。

郡司は、それを言わなかった。

「暑いから、気をつけて帰って」

「はい」

岸はリュックの肩紐を両方かけて、更科のところへ行って、同じことを言った。更科は、就活うまくいったら教えて、と言った。里見は三階にいたので、岸は階段の下から、三階に向かって頭を下げた。

それから階段を降りていった。降りる音がして、一階のシャッターの音がした。郡司は窓から、岸が駅のほうへ歩いていくのを見た。道は、窓から途中まで見える。岸は一度も振り返らなかった。振り返らないのが、郡司には少しありがたかった。

名取は、あと一週間いる。

◇

その日、郡司は八時まで残った。

残ってすることは、特に無かった。常世の刷りは二十六日で、それまでは動かない。菓子箱は入稿してある。美術館は更科のものである。

窓際の机を拭いた。拭くと、紙の粉が布に付く。三階ほどではないが、二階にも粉は出る。

引き出しを開けて、来年の春の常世の日程表が入っているのを見て、閉めた。

八時に電気を消した。外はもう暗く、下の道は街灯の明かりだけになっていた。

◇

月曜の朝の集まりで、里見が案件を読み上げた。

「常世、刷りが二十六日。郡司さん」

「立ち会いません」

「菓子屋。郡司さん」

「入稿済みです」

「美術館。更科さん」

「サインの校正、今週です。名取さんが見ます」

「あと、インターン。名取さんが金曜まで」

五分で終わった。岸の席は空いていて、椅子だけが入っている。誰も、その椅子を動かさなかった。

その週、名取は図録の校了に立ち会い、会場のサインの校正を一人で見た。郡司は、そのあいだ常世の刷りの段取りを印刷所と詰めていた。刷りは二十六日で、刷り上がりは翌週の月曜に届く。

図録の校了の日、名取が印刷所に電話をかけた。更科は横で聞いていて、代わらなかった。名取は、事務所の名前を先に言って、相手の名前を紙に書いて、日付を二度言った。切ってから、更科に一つ確かめた。

「今の、日付を二度言ったの、くどかったですか」

「くどくない。私も二度言う」

名取のノートは、もう二冊目に入っていた。

その週、名取は毎日、昼をコンビニで済ませた。買うものは毎日同じで、サラダとパンである。岸のいた席は空いたままで、名取はそこに荷物を置かなかった。

水曜に、名取が郡司の机に来た。

「郡司さん、この赤、入れていいか迷ってます」

サインの校正だった。会場の壁に貼る大きな紙で、矢印の向きが一か所、会場の図面と逆になっていた。

「入れて」

「合ってるかどうか、確かめてからのほうがよくないですか」

「確かめるのは向こう。気づいたことは書く」

「書いて、間違ってたら」

「間違ってたら、向こうが消す」

名取は、赤を入れた。入れてから、更科に見せた。更科は、それでいい、と言った。名取は、そのやりとりもノートに書いた。

木曜は、朝から雨だった。名取は、家を出るときから降っていたらしく、傘の先を玄関で二度振ってから上がってきた。

二十六日の午後、川辺印刷の営業から電話があった。刷り上がりました、とだけ言う電話だった。

「谷さんは」

「立ち会っておりました。刷りも見ております」

「そうですか」

「何かお伝えしましょうか」

郡司は受話器を持ったまま、窓のほうを見た。

「いえ。ありがとうございました、と」

「伝えます」

電話を切って、日程表の二十六日の欄に、済、と書いた。

◇

金曜が、名取の最終日だった。

名取は九時ちょうどに来て、机の上のものを朝のうちに片づけていった。ノートは持って帰る。二冊目の半分まで埋まっていて、一冊目は最初の三週間で終わっている。

昼は、四人ではなく三人だった。更科と名取と郡司で、同じ定食屋へ行った。岸の話は、誰もしなかった。

五時半に、名取は片づけを終えた。更科に礼を言って、それから郡司の机の横に立った。

「郡司さん、一つだけ、いいですか」

「うん」

「色校の戻しって、誰の印がいるんですか」

「色は里見さんの印。日程と部数は、こっちの印。二つ要る。うちは、色を最後に押す」

「二つですね」

「二つ」

名取は、それをノートに書いた。書いてから、顔を上げた。

「最後に押すのは、なぜですか」

郡司は、少し考えた。

「最後に見た人が、決めるから」

名取は、それも書き取った。書き終えてから、ノートを閉じた。

「ありがとうございました」

名取は自分の席に戻って、机を拭いて、帰った。

名取が帰ったあと、更科が郡司の机の前に来た。

「名取さん、来年もまた来たいって言ってました」

「そう」

「四年は忙しいから、たぶん来ないですけど」

「そうだね」

更科は笑って、自分の机に戻った。戻ってから、来年のインターンの募集の紙を作りはじめた。毎年、この時期に作る。大学へ送るのは十月である。

「郡司さん、来年も男の子のほう、お願いしていいですか」

更科は、画面を見たまま訊いた。

郡司は、すぐには答えなかった。

「決まったら、言う」

「はい」

更科はそれ以上は訊かず、キーボードを叩きつづけた。

◇

菓子箱の最終案は、岸のものがそのまま通った。郡司は、修正の指示を一つも足さなかった。刷りの日程を紙器の会社に送って、確認の返信が来たので、それを印刷して綴じに入れた。

七時に、更科が帰った。美術館は、内覧会がひと月後に迫っている。図録はその週に校了した。何事もなく進んでいる。

「郡司さん、お先に」

「お疲れ」

事務所には、誰もいなくなった。

郡司は、二階の窓際の机の上を片づけた。常世の刷り出しが入っていた厚紙と、印刷所の伝票と、名取が使っていた定規が一本。定規は更科のものだったので、更科の机に戻した。

引き出しから、来年の春の常世の日程表を出した。曜日が一つずれているところがあったので、そこだけ直した。直して、引き出しに戻した。戻すとき、その下に、去年のぶんの日程表が入っているのが見えた。さらにその下にも、何枚か入っている。郡司は、何年分入っているのかは数えずに、引き出しを閉めた。

三階へ上がって、窓を閉めた。閉まっていた。

常世の棚の前に、少し立った。八十四枚目の色校の控えは、紐の内側に挟んである。そのぶんだけ、束が膨らんでいる。刷り上がりが来たら、台紙に貼って、番号を書く。そのとき、郡司はたぶん、八十三枚目の隣に置いて見る。いつもどおりに。

菓子箱の平判は、隣の棚に平らに置いてある。その上には、まだ何も重なっていない。

いちばん下の段の、背に何も書いていない三つの束を見た。しゃがんで、一つに手をかけた。引き出しかけて、手を止めた。それから、元に戻した。

電気を消して、降りた。

◇

一階のシャッターは、半分だけ上がっている。

倉庫の前に、岸が使っていた芯の余りが、箱に戻して置いてあった。戻したのは岸である。いつ戻したのかは、見ていなかった。

自転車を出した。籠のカバーは、丸めたままにしてある。

鍵は、二度目で回った。油を差そう、と思った。毎回思って、毎回忘れる。

欅の下で、郡司はペダルを止めた。影が顔の上を過ぎていく。影を抜けて、また踏んだ。

月曜には、常世の刷り上がりが届く。

付録

付録一・人物

氏名と所属だけを掲げる。人物のしたことは本文にある。すべて架空の人物である。

有限会社 青硯社(東京・千駄ヶ谷。創業四十七年。コーポレート含め十四名)

  • 郡司 誠三(ぐんじ・せいぞう) 六十四歳。視点人物。制作室長。三十代の前半に青硯社へ入り、在籍三十三年。ラフを描き、色を決め、印刷所と話す。決裁権はほとんどなく、契約書に名前は出ない。パソコンは長く使っている。最後の一段だけ、画面から目を離して現物を見る。それを人に説明したことがない。常世シリーズ八十三枚を全部見てきた一人。杉並から自転車で通っている。駅からのほうが近いが、自転車のほうが好きなので。
  • 里見 章介(さとみ・しょうすけ) 五十五歳。アートディレクター。数年前に父から事務所を継いだ二代目。郡司が入って十二年目に他所から戻り、以来同じ二階にいる。継いだときに、窓際の机から窓からいちばん遠い机へ移った。案を否定しない。悪くない、と言う。そのうえで、使うか使わないかを決める。理由は説明しない。月曜の朝に案件を五分で読み上げる。
  • 更科 冬子(さらしな・ふゆこ) 三十八歳。デザイナー。在籍十四年。名取のチューター。ツールを使い、なぜこの色かを学生に説明できる。公立美術館の秋の展覧会まわり(チラシ、ポスター、会場のサイン、図録)を、二か月のあいだ一人で回して、何事もなく終える。電話をしながら日程の線が引ける。定規を使う。来年のインターンの募集の紙も作る。
  • 岸 悠真(きし・ゆうま) 二十一歳。インターン。美大三年、グラフィック。川崎から通う。郡司の担当。悪気なく速い。生成のツールを普通に使い、一日で二十案出す。何も知らないので、理由を訊く。案を落とすとき、先に片方を裏返す癖がある。三階で常世の八十三枚を一時間半かけて撮った。就活のため、予定より一週間早く帰る。
  • 名取 ひかり(なとり・ひかり) 二十歳。インターン。美大三年、工芸。学校ではシルクスクリーンをやっている。更科の担当。手続きを訊く。入稿は何日前か、この確認は誰に取るか、色校の戻しに誰の印が要るか。訊いたことを全部書き取っている。岸より一週間長くいる。

川辺印刷(大阪)

  • 谷 静男(たに・しずお) 七十五歳。調色職人。常世シリーズの特色を四十年、調色してきた。同じ配合で作ってきたのではない。毎回、前年の刷り上がりを見て触ってきた。そのことを説明したことは一度もない。今年、二度入院している。後任はいない。電話には出ない。色校に同送される手書きのメモが一度だけ出る。字がうまい。
  • 川辺印刷の営業 三十代。日程と工程の連絡だけをする。二年前に入った測色のシステムのことを、事務の連絡として一度だけ話す。

出入りする人

  • 経理の女性 週に三日来て、伝票と請求書を作る。十九年いる。話すのは月末が多い。
  • 紙屋の営業 月に二度来る。新しい見本帳を置いて、十分ほど話して帰る。
  • 紙器の会社の営業 四十代。菓子箱を刷って貼る側。鞄に紙の見本と、芯の厚さの違う貼りの見本を入れて持ってくる。

外側

  • 常世酒造の専務 四十代。山陰の酒蔵の三代目の担当者。電話が短い。年に二枚のポスターを、四十年前から青硯社に頼んでいる。
  • 菓子屋の担当者 都内の小さな和菓子屋。電話とメールの向こうにいるだけで、作中に姿を出さない。三年に一度、化粧箱と掛け紙を更新する。

付録二・用語

本文に出てくる印刷と紙器の語のうち、手順に関わるものだけを、本作の文脈に即して簡単に補う。厳密な定義ではない。作中の事務所・酒蔵・菓子屋・印刷所は、いずれも架空である。

色

特色
あらかじめ調合したインキで、指定の一色を直接刷ること。四色の掛け合わせでは出ない色を出すために使う。常世シリーズの地色は、四十年これで刷られている。
 調色は、その一色を作る作業をいう。番号と比で書ける部分と、書けない部分がある。

色校(いろこう)
刷り色を見るための校正刷り。実際の紙に、実際のインキで刷る。通しを何度か取り、そのうちの一枚を正として戻す。戻しの日は、刷りの工程から逆算されるので動かせない。

測色
色を数値として測り、記録すること。数値で登録された色は、次からその数値を基準に再現される。

紙と加工

平判(ひらばん)
断裁や貼りの前の、平らな一枚の状態。この状態で見た色と、立体に仕上げたあとの色は違って見える。

白焼(しらやき)
加工の前の刷り見本。断裁も貼りも箔もまだ入っていない。仕上がる前の、まだ判断のつかない状態を指す。

貼り箱
芯を作り、そこに刷った紙を貼って仕立てる化粧箱。角に稜線が立つ。芯の厚みのぶんだけ、稜線はわずかに丸い。
 掛け紙は、その箱に掛ける帯状の紙をいう。稜線に掛かる位置で、見え方が変わる。

版下・綴じ
案件ごとの一式を綴じて棚に立てたもの。青硯社の三階には四十年ぶんが並ぶ。ただし全部が残っているわけではない。残す残さないの基準は、誰も決めていない。

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